宮島 龍興(みやじま たつおき、1916年7月27日 - 2… 宮島 龍興(みやじま たつおき、1916年7月27日 - 2007年11月26日)は、日本の物理学者、理学博士。筑波大学学長、理化学研究所理事長を務めた。 熊本県出身。1939年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1952年に東京教育大学教授に就任し、1970年3月から1974年3月までに学長を務めた。1974年5月に原子力委員会委員、1976年7月に筑波大学学長を経て、1980年4月から1988年4月までに理化学研究所理事長を務めた。 1989年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2007年11月26日に死去。91歳没。
林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月2… 林 雄二郎(はやし ゆうじろう、1916年(大正5年)7月27日 - 2011年(平成23年)11月29日)は、日本の官僚、未来学者、財団運営者。 東京生まれ。1940年に東京工業大学電気化学科卒。1942年に技術院に入職後、戦後は経済安定本部、経済企画庁で長期計画に関わる。同庁在籍時の1959-1960年にフランス留学。 帰国後の1965年に、同じ経済企画庁・当時総合開発局の下河辺淳(のち東京海上研究所理事長)、同じく当時総合計画局の宮崎勇(のち経済企画庁長官、大和総研特別顧問)らと共に「1985年の日本人のライフスタイルを検討する会議」を通じ、各界に大きな影響を与え、「林リポート」をまとめ提言し、日本社会を変化・発展させるためのガイドラインとなった。
牧田 茂(まきた しげる、1916年7月25日 - 2002… 牧田 茂(まきた しげる、1916年7月25日 - 2002年3月22日)は、日本の民俗学者。 京都府京都市出身。別名=茅原茂(チハラ)。1940年國學院大學文学部国文科卒、朝日新聞社に入社。東京社会部次長、「週刊朝日」編集長、東京企画部長などを経て、1971年退社後、社友となる。1976年日本大学講師、1977年白梅学園短期大学教授を務めた。旧制京都二中時代に柳田國男に出した手紙が縁で門下生になる。1940年閑院宮賞。1947年日本民俗学会設立に参加。柳田民俗学の後継者として民俗学を中心に多くの著作がある。
岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年(大正5年)7月25… 岩田 幸彰(いわた ゆきあき、1916年(大正5年)7月25日 - 1994年(平成6年)3月15日)は、日本の会社役員及び日本ヨット協会役員、そして日本オリンピック(JOC)委員である。 長きに渡り日本オリンピック委員を務め、1964年東京オリンピック招致活動と運営に尽力。そして1972年札幌オリンピック招致活動成功の功労者の一人である。位階は正六位。 1916年(大正5年)、父・岩田幸美と母・道子の長男として生まれる。成城高校を卒業後、1938年(昭和13年)4月、東京帝国大学法学部政治学科に入学。 高校生の頃からスキーの滑降回転複合競技で大会に出場するなどスポーツを嗜んでいたが、東京帝国大学ではヨット部に所属し、1941年(昭和16年)の全日本選手権で東京帝国大学(東京大学)が明治神宮競技大会夏季海洋競技で初優勝した時の東京帝大ヨット部主将であり、雑誌「体育日本」に「暁の超特急」吉岡隆徳と並んで「競技界優秀選手十傑」に選ばれている。
辻 辰三郎(つじ たつさぶろう、1916年(大正5年)7月2… 辻 辰三郎(つじ たつさぶろう、1916年(大正5年)7月23日 - 2004年(平成16年)8月28日)は、日本の検察官、弁護士。検事総長。京都市出身。位階は正三位。 1947年(昭和22年)検事任官。法務大臣官房長、刑事局長、最高検刑事部長等を経て、1976年(昭和51年)に次長検事。1978年(昭和53年)東京高検検事長、1979年(昭和54年)に検事総長に就任。 1981年(昭和56年)に定年退官後、弁護士登録し法制審議会委員等を務めた。1988年(昭和63年)の秋の叙勲で勲一等瑞宝章を受章。死後、正三位に叙された。
大井 敏夫(おおい としお、1916年7月21日 - 200… 大井 敏夫(おおい としお、1916年7月21日 - 2006年8月29日)は、日本の実業家。前郁文堂社長。 1916年(大正5年)7月、東京市本郷区森川町に大井久五郎四男に生まれる。1940年(昭和15年)東京商科大学卒。日本郵船入社。旧帝国陸軍中尉。1945年(昭和20年)3月、大井一族の郷里である長野県佐久市岩尾の大井静江と結婚。 1946年(昭和21年)3月、日本郵船を退社し、父久五郎の創業した郁文堂書店を継いだ。1949年(昭和24年)10月、郁文堂出版有限会社社長。『郁文堂 独和辞典』などドイツ語の学習参考書やドイツ文学関連書籍を数多く刊行した。引退後は郷里佐久の大井氏の家系を研究し、岩尾家譜(現代語訳)を出版した。
寺田 建比古(てらだ たけひこ、1916年(大正5年)7月2… 寺田 建比古(てらだ たけひこ、1916年(大正5年)7月20日 - 2008年(平成20年)3月8日)は日本の英米文学者。 高知県に生まれ、東京帝国大学文学部英文学科入学、1939年(昭和14年)に卒業。京都大学教授を経て、神戸大学教授、名誉教授。2008年(平成20年)3月8日、膵臓癌のため、大阪府高槻市の自宅にて歿する。 佐喜浜の庄屋の家系。長男の寺田泰比古は早稲田大学先進理工学部教授。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
原 佑(はら たすく、1916年7月20日 - 1976年3… 原 佑(はら たすく、1916年7月20日 - 1976年3月14日)は、日本の哲学者、東京大学教養学部教授を務めた。 山梨県生まれ。旧制一高を経て1942年東京帝国大学哲学科卒。戦後に東大教養学部教授、定年前の59歳で死去。 イマヌエル・カント、ニーチェ、ハイデッガーなどドイツ哲学の多くの翻訳を行い、哲学史・歴史哲学の研究著書も多い。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
坂田 道太(さかた みちた、1916年〈大正5年〉7月18日… 坂田 道太(さかた みちた、1916年〈大正5年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉1月13日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。 衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(32代)、衆議院議員(17期)等を歴任した。 父は衆議院議員や八代市長を務めた坂田道男。 坂田道男の長男として熊本県八代市で生まれる。旧制八代中学校、旧制成城高等学校(現・成城大学)、1938年東京帝国大学文学部独文科卒業。石井光次郎商工大臣の秘書官を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から出馬し、初当選した。以後、17期連続当選。
萩原 竜夫(はぎわら たつお、1916年7月18日 - 19… 萩原 竜夫(はぎわら たつお、1916年7月18日 - 1985年6月19日)は、日本の民俗学者、日本史研究者。 東京市深川区門前仲町生まれ。幼時受洗。1941年、東京文理科大学文学部国史学科卒業。1942年、国民精神文化研究所嘱託。1949年、東京学芸大学助教授を経て、1967年、明治大学文学部教授。1962年、博士論文「中世祭祀組織の研究」により、東京教育大学から文学博士の学位を授与される。
山崎 六哉(やまざき ろくや、1916年7月18日 - 20… 山崎 六哉(やまざき ろくや、1916年7月18日 - 2001年8月12日)は、日本の経営者。シチズン時計社長、会長を務めた。 東京都出身。1941年に東京工業大学機械工学科を卒業し、1945年にシチズン時計に入社。 1962年5月に取締役に就任し、1969年11月に常務、1977年6月に専務、1979年6月に副社長を経て、1981年6月には社長に就任。1987年6月から1990年6月までに会長を務めた。 1982年4月に藍綬褒章を受章し、1987年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 2001年8月12日肺炎のために死去。85歳没。
西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし、1916年〈大正5年〉… 西四辻 公敬(にしよつつじ きみよし、1916年〈大正5年〉7月17日 - 1991年〈平成3年〉1月9日、74歳没)は、滋賀プラスチックス創業者・代表取締役。スケベ椅子の開発者として知られる。 子爵・西四辻公堯(貴族院議員)の三男。次兄に冷泉為任がいる。学習院初等科を経て、1940年、立命館大学卒。 1964年から、ソープランド用バスタブで日本一のメーカーである滋賀プラスチックスを経営。雄琴のソープランド49軒のバスタブは全て滋賀プラスチックスの製品であり、日本全国では80パーセントのシェアを持つ。東京都のパレスホテル、ヒルトンホテル、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ、リーガロイヤルホテルなど一流ホテルのスチームバスは全て同社の製品で占められている他、クレムリン宮殿のサウナやアメリカ海軍の第7艦隊の船内サウナも同社の製品である。
林 栄夫(はやし よしお、1916年7月11日 - 1983… 林 栄夫(はやし よしお、1916年7月11日 - 1983年1月21日)は、日本の経済学者。東京都立大学名誉教授。専門は財政学。経済学博士(東京大学、1962年)。栃木県宇都宮市生まれ。
宮原 正吾(みやはら しょうご、1916年(大正5年)7月1… 宮原 正吾(みやはら しょうご、1916年(大正5年)7月11日 - 1977年(昭和52年)9月21日)は、日本の実業家。備前信用金庫理事長(現・備前日生信用金庫)。岡山県高梁市出身。 1916年(大正5年)岡山県に生まれる。1929年(昭和4年)に旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)へ進学した。1934年(昭和9年)同校を卒業して、第六高等学校文科乙類へ入学した。1937年(昭和12年)、同高校を卒業し、浪人した後、1938年(昭和13年)東北帝国大学法学部へ入学した。1941年(昭和16年)同大学を卒業し、就職した。その後、1974年(昭和49年)8月、備前信用金庫の第3代理事長に就任した。
遠藤 湘吉(えんどう しょうきち、1916年7月10日 - … 遠藤 湘吉(えんどう しょうきち、1916年7月10日 - 1975年10月19日)は、日本の経済学者。東京大学教授。専攻は財政学、学位は経済学博士(1962年)。実兄に東大野球部で投手として活躍した遠藤洋吉がいる。 北海道に生まれる。京都府立京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第一高等学校を経て1940年東京帝国大学経済学部卒業。同年東京帝国大学経済学部助手、1949年東京大学社会科学研究所助教授、1958年同教授。1963年東京大学経済学部教授に移り、1970年から1972年まで同経済学部長。
岡村 吉右衛門(おかむら きちえもん、1916年7月6日 -… 岡村 吉右衛門(おかむら きちえもん、1916年7月6日 - 2002年)は、染織家。民藝運動家。鳥取県鳥取市出身。 中国大陸、沖縄、戦後は北海道を中心に日本各地を歩き、民俗、工芸を調査。成果生かした創作活動で知られる。
平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 19… 平田 恭助(ひらた きょうすけ、1916年7月5日 - 1940年5月12日)は、昭和戦前期の登山家。伯爵平田栄二(松堂)の四男。母は前田利昭の娘・静子。東京府出身。 慶應義塾大学在学中より谷川岳の登山を行い、1939年9月26日に共に未踏であった一ノ倉沢の滝沢下部の初登攀を果たして山岳界に衝撃を与えた(山岳ガイドの浅川勇夫が同行)。同年には社会人山岳団体である東京登歩渓流会に加入する。 慶應義塾大学には槇有恒・三田幸夫・大島亮吉・早川種三ら優れた登山家を輩出した山岳部があったが、平田は山岳部に所属せずに「モルゲンロートコール」というサークルに所属していた。東京登歩渓流会の幹部であった杉本光作によれば、山岳部は内部進学者が多く、外部から慶應に進学した平田はその空気に馴染めなかったのだという。
真山 くみ子(まやま くみこ、1916年7月2日 - )は、… 真山 くみ子(まやま くみこ、1916年7月2日 - )は、日本の女優である。旧芸名は高松 美絵子(たかまつ みえこ)、本名は高橋 美枝子(たかはし みえこ)。1930年代から1940年代にかけての間、新興キネマ現代劇のスター女優として活躍したことで知られる。 1916年(大正5年)7月2日、福島県に生まれる。1934年(昭和9年)、旧制・麹町高等女学校(現在の麹町学園女子高等学校)を卒業する。 1935年(昭和10年)、トーキーによる現代劇を製作するスタジオである、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社する。最初の芸名は「高松美絵子」で、もっとも初期に記録に残る作品は、阿部豊が監督し、日活、協同映画社、太秦発声映画、ゼーオー・スタヂオ、日本ビクター各社が提携して製作した大作『海国大日本』で、広瀬恒美演ずる「松井敏夫」の妹「静子」役であった。
西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7… 西尾 常三郎(にしお つねさぶろう、大正5年(1916年)7月2日 - 昭和19年(1944年)11月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍少佐だったが特別攻撃隊に志願、富嶽隊隊長として特攻、戦死。二階級特進により大佐となる。正七位、勲三等、功二級。
渡辺 武夫(わたなべ たけお、1916年7月2日 - 200… 渡辺 武夫(わたなべ たけお、1916年7月2日 - 2003年9月11日)は、埼玉県出身の洋画家。日本芸術院会員。浦和画家の一人。瑞宝章受章者。
村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30… 村井 長正(むらい ながまさ、1915年(大正4年)7月30日 - 1997年(平成9年)5月29日)は、昭和期の侍従、華族(男爵)。加賀八家村井家第13代当主。 加賀藩重臣村井家第12代当主、村井長八郎男爵の子として金沢市に生まれる。1945年(昭和20年)12月15日、父の死去に伴い男爵を襲爵した。 東京帝国大学文学部を卒業。1940年(昭和15年)5月に東宮傅育官となり、東宮侍従。1947年(昭和22年)、故博恭王一年祭に際して皇后宮使の役を務めた。その後、侍従職侍従、皇子傅育官等を歴任した。1965年(昭和40年)、宮内庁を退官し日本大学で倫理学の教鞭をとった。 1997年(平成9年)5月29日未明、自宅において就寝中火災に遭い死去した。
工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎす… 工藤 甲人(くどう こうじん、本名:工藤 儀助(くどう ぎすけ)、1915年7月30日 - 2011年7月29日)は、日本の画家、日本画家。創画会会員。東京芸術大学名誉教授、沖縄県立芸術大学客員教授。 青森県弘前市出身。1934年に上京し、翌年から川端画学校日本画科に入学。岡村葵園や福田豊四郎に師事した。1962年、弘前市から神奈川県平塚市に転居。1971年東京芸術大学助教授、1978年同教授。1983年定年退官後、名誉教授。1988年、沖縄県立芸術大学客員教授。2002年、神奈川県庁に飾られていた工藤の作品が盗難の被害に遭った。2011年7月29日、老衰のため神奈川県平塚市で死去。95歳没。 自然の昆虫や小動物、植物の葉などを繊細な描線で描き、その周りを群青などの単色の岩絵具で色面を大きく取り、装飾的に感じるような構図が特徴とされる。
玉城 康四郎(たまき こうしろう、1915年 <大正4年> … 玉城 康四郎(たまき こうしろう、1915年 <大正4年> 7月29日 - 1999年 <平成11年> 1月14日)は、日本の仏教学者。東京大学名誉教授。世界各地の宗教を研究した。位階は従四位。 熊本県熊本市の浄土真宗の門徒の家に生まれ、熊本中学校卒。高校時代から禅、真宗の師につく。1936年第五高等学校(現・熊本大学)卒、1940年東京帝国大学文学部印度哲学科卒業、大学院に進む。1942年10月召集を受け、敗戦を迎えて熊本の専門学校で教えたあと、1951年再上京し大学院に復帰。 1954年東洋大学文学部勤務。1959年「天台実相観における心の捉え方の問題」で東京大学より文学博士の学位を取得。同年東京大学文学部印度哲学科助教授、1964年教授、1976年定年退官、名誉教授、東北大学教授。
田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 20… 田辺 節郎(たなべ せつろう、1915年7月29日 - 2013年7月10日)は、日本の経営者。アルナ工機社長、宝塚音楽学校校長を務めた。山梨県出身。創業者である小林一三の甥。 1938年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1959年に宝塚映画製作所代表取締役に就任し、1971年から1975年までに阪急電鉄監査役、1974年から1983年までにアルナ工機社長、1985年から1991年までに宝塚音楽学校校長を歴任した。 2013年7月10日心不全のために死去。97歳没。
具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年… 具 喆会(ク・チョルェ、朝鮮語: 구철회/具喆會、1915年7月26日または1918年 - 1965年1月27日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国のジャーナリスト、実業家、政治家。第4代韓国国会議員。本貫は綾城具氏。 日本統治時代の京畿道水原出身。本籍地はソウル。中央大学予科、立教大学文学部卒。日本統治時代には抗日闘争により3年間投獄された。解放後は漢城日報政治経済部長、民衆日報幹部、水原新聞社社長、政界春秋社社長、国際ニュース社社長、自由新聞社常務取締役を務めた。政界入りした後は民主党中央委員・宣伝部次長・龍仁郡党委員長・京畿道党副委員長を歴任し、1958年の第4代総選挙で民主党の候補として龍仁郡選挙区から当選したが、後は民主党を離党し自由党に移籍した。
大原 亨(おおはら とおる、 1915年7月25日 - 19… 大原 亨(おおはら とおる、 1915年7月25日 - 1990年4月7日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期、日本社会党)。 広島県豊田郡本郷町(現三原市)出身。1942年中央大学法学部卒。卒業後は読売新聞社に勤務する。戦後、小学校教員になり、広島県教職員組合委員長や日教組書記次長などを歴任。1952年の第25回衆議院議員総選挙に広島1区で左派社会党より立候補し落選。1955年の第27回衆議院議員総選挙でも落選した。1958年の第28回衆議院議員総選挙において日本社会党公認で立候補して当選。以後連続当選11回を数えた。 1975年2月に広島市長選に出馬し、落選している。 1990年1月の第39回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界引退。
毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1… 毛利 昌三(もうり しょうぞう、1915年7月24日 - 1999年6月22日)は、日本の教育学者。 熊本県に生まれる。熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学文学部を卒業した。 東大卒業後の1940年から東京大学航空研究所航空心理部員となる。 戦後の1947年から熊本師範学校教諭となり、学制改革後の1949年からは熊本大学助教授に移る。1965年に岡山大学教育学部教授に就任した。1980年に退官し、名誉教授となる。その後、ノートルダム清心女子大学教授を1985年まで務めた。この間、1975年にNHK厚生文化事業団より研究奨励賞を受賞している。 その他の役職として日本精神薄弱研究協会評議員や岡山心理学会会長なども歴任した。
吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 19… 吉田 猪佐喜(よしだ いさき、1915年7月24日 - 1982年4月10日)は、熊本県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。1950年から1952年までの登録名は吉田 和生(よしだ かずお)。
矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日… 矢田 俊隆(やだ としたか、1915年〈大正4年〉7月23日 - 2000年7月14日)は、日本の歴史学者・政治学者、北海道大学名誉教授。中欧史を研究。 1915年、三重県桑名市生まれ。1938年、名古屋市の第八高等学校 (旧制)卒業。東京帝國大学文学部に進み、西洋史を専攻する。1938年、東京帝國大学文学部を卒業し、同大学院へ進学。1940年、東京帝國大学大学院文学研究科を修了し、同文学部の副手となる(1943年まで)。 日本大学、東京女子大学などの講師を経て、1949年に成蹊大学政治経済学部教授に就く。1950年、北海道大学法経学部教授となり、1953年の学部改組に伴い法学部教授となった。1957年以降、同大学スラブ研究センター研究員を併任する。
清藤 三津郎(せいとう みつろう、1915年(大正4年)7月… 清藤 三津郎(せいとう みつろう、1915年(大正4年)7月23日 - 2001年(平成13年)11月25日)は、昭和から平成時代前期の政治家。歯科医師。青森県黒石市長。位階は従五位。勲三等瑞宝章。 青森県南津軽郡黒石町前町(現黒石市)に生まれる。日本大学第二中学校を経て、1941年(昭和16年)東京歯科医学専門学校を卒業し、翌年の1942年(昭和17年)に故郷で歯科医を開業する。1948年(昭和23年)南津軽郡歯科医師会会長を経て、1951年(昭和26年)黒石町議会議員に当選。1954年(昭和29年)7月、合併を経て黒石市議会議員となる。1955年(昭和30年)同議長に選ばれ、1967年(昭和42年)まで通算4期市議を務めた。
永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 20… 永井 典彦(ながい のりひこ、1915年7月23日 - 2003年1月21日)は、日本の経営者。大阪商船三井船舶(現在の商船三井)社長、会長を務めた。 東京都出身。1944年に東京商科大学を卒業し、同年に三井物産に入社。1942年に三井船舶に転じ、1968年5月に大阪商船三井船舶取締役に就任し、1971年5月に常務、1973年11月に専務を経て、1976年6月に社長に就任。1980年6月に会長に就任し、1984年6月には相談役に就任。 1977年7月に運輸大臣表彰を受け、1978年11月に藍綬褒章を受章し、1985年11月に勲二等旭日重光章を受章し、1989年11月に文部大臣表彰を受けた。 2003年1月21日肺炎のために死去。
美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日… 美濃部 正(みのべ ただし、1915年〈大正4年〉7月21日 - 1997年〈平成9年〉6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官。海兵64期。最終階級は海軍少佐、空将。旧姓は太田(おおた)。夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」指揮官として、全軍特攻方針の軍上層部に抵抗し、特攻を拒否したとして紹介されることが多いが、特攻の精神そのものは否定しておらず、むしろ特攻への確固たる信念を持つゆえに現状の特攻作戦を邪道と見ており、これに賛同せず難易度が高い夜間攻撃に特化した部隊を造り上げた。決定的な戦機到来の暁には美濃部自身が先頭に立って特攻をかける覚悟であった。 1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。
青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - … 青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年7月21日 - 1979年11月10日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市出身。 1915年、岡山県岡山市の農家に産まれる。幼少より絵を描くのを趣味としていた。第二岡山中学校に進学したが、絵に熱中しすぎた為、落第寸前となり私立の関西中学へ転校している。在学中は市内の絵画コンクールなどで常に入賞するなど、画家としての片鱗を覗かせていた。卒業後は画家を目指して上京し、川端画学校、本郷洋画研究所で学んだが、学費を支払う事が出来なくなり岡山県へ戻る。岡山では小林喜一郎主催の赤坂洋画研究所へ通った。同期生に中田政夫がおり、研究所では中田が塾頭、青地が青年隊長として研究所を盛り上げていた。
景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 194… 景浦 將(かげうら まさる、1915年7月20日 - 1945年5月20日)は、愛媛県松山市出身のプロ野球選手(外野手、投手)。
高田馨(たかだ かおる、1915年7月19日-1995年7月… 高田馨(たかだ かおる、1915年7月19日-1995年7月27日)は、日本の経営学者。 福井県武生市(現越前市)出身。1941年大阪商科大学経営学科卒。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。大阪警備府に配属。1943年11月、海軍主計大尉に昇進し、第101工作部部員(シンガポールセレター軍港)に転じた。1944年6月、第一南遣艦隊副官に転任。1945年1月、第十三航空艦隊副官を経て、同年2月、第二技術廠部員となり電波兵器の資材確保に従事し終戦を迎えた。 59年「経営共同体の原理」で大阪大学経済学博士。1949年彦根経済専門学校教授、1952年名古屋大学助教授、1959年大阪大学経済学部教授、79年定年退官となり名誉教授、追手門学院大学教授を務めた。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 19… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 1978年1月19日)は、日本の競泳選手。現役時代の種目は平泳ぎで、明治大学在学中に1936年ベルリンオリンピック日本代表のひとりとなり、男子200m平泳ぎ決勝で2分47秒6のタイムを出し、5位に入賞した。 静岡県磐田郡豊浜村(後の磐田市の南東部)出身。中泉農学校(後の静岡県立磐田農業高等学校の前身)から、明治大学に進んだ。 1938年に明治大学を卒業し、昭和製鋼所に入社と報じられた。 1941年、陸軍少尉となっていた伊藤は、第23軍第38師団の一員として香港島の戦いに参加した。そして、12月22日、戦闘中に銃創を負ったと報道された。 明治大学水泳部監督、日本水泳連盟常務理事、埼玉県水泳連盟副会長を歴任。
大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 199… 大塚 和(おおつか かのう、1915年7月18日 - 1990年9月26日)は、日本の映画プロデューサー、映画プロダクション社長。1955年に日活とプロデューサー契約を結び、今村昌平、浦山桐郎、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦ら13名もの新人監督を世に送り出したことで知られる。 高知県長岡郡田村(現・南国市田村)に生まれる。父親は開業医で、9人姉弟の末っ子。 1937年、東京外国語学校ロシア語科(現・東京外国語大学)卒業。映画世界社に入社。1943年、同社が戦時雑誌統合令によって解散したため、都新聞社(現・東京新聞社)文化部に転職した。 1946年、再開した映画世界社に復職。『映画ファン』の編集長になる。
青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 201… 青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 2010年5月30日)は、日本のスポーツ指導者、日本陸上競技連盟第5代会長。日本体育協会第11代会長。また国際陸上競技連盟とアジア陸上競技連盟でも役員を歴任し、副会長を務めた。後に終身名誉副会長。 千葉県長生郡太東村(現いすみ市)出身。旧制銚子商業学校(現在の千葉県立銚子商業高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に早稲田大学商学部を卒業。 日立製作所に入社し、同年日本陸上競技選手権大会の砲丸投競技で優勝。その後は三徳工業、昭和電工を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)青木金属興業株式会社を設立。 会社経営の傍ら、母校の早稲田大学競走部監督を務めた。
八木 冕(やぎ べん、1915年7月16日 - 1988年5… 八木 冕(やぎ べん、1915年7月16日 - 1988年5月23日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 東京高等学校から、1938年東京帝国大学文学部心理学科卒業。大学院を経て、1939年東大副手、横浜専門学校講師、1944年京都帝国大学講師、1952年東大文学部心理学科助教授、1961年「動機づけに関する実験的研究」で文学博士、1964年教授、1976年定年退官、名誉教授、青山学院大学教授、1984年退職、1975年から1981年まで日本動物心理学会会長。動物心理学を専攻した。没後、正四位勲三等旭日中綬章追贈。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
加藤 禮次(かとう れいじ、1915年7月15日 - 198… 加藤 禮次(かとう れいじ、1915年7月15日 - 1986年8月24日)は、日本の経営者。大阪府出身。レンゴー社長を務めた。旧姓は小林。 大阪市西区北堀江にて小林董治郎・候の次男として生まれる。小林家はあみだ池大黒を経営する一族である。甲南高等学校を経て1938年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に東洋製罐に入社。同年末に歩兵第8連隊に入営。ジャムスに駐屯。ノモンハン事件最中の1939年8月に主計幹部候補生に合格して内地に帰還が決まった際、古参一等兵たちから腹いせに鼓膜が破れ気絶するほどのリンチを受けたという。陸軍経理学校(甲幹3期、第1中隊)を経て1940年より赤羽の陸軍被服廠に勤務し、二代目会計監督官班長。
加藤 博康(かとう ひろやす、1915年(大正4年)7月15… 加藤 博康(かとう ひろやす、1915年(大正4年)7月15日 - 2002年(平成14年)7月18日)は、昭和時代の政治家。埼玉県秩父郡両神村長、秩父市長。位階は従五位。 埼玉県出身。1940年(昭和15年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。1951年(昭和26年)秩父郡両神村長に当選し3期務め、1964年(昭和39年)秩父市助役を経て、1975年(昭和50年)秩父市長に当選。1987年(昭和62年)引退した。2002年死去。死没日付をもって従五位に叙された。
山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没… 山本 定子(やまもと さだこ、1915年7月14日 - 生没不明)は、日本の陸上競技選手。 中京高等女学校家事体操専攻科(現・至学館大学)卒。 1936年ベルリンオリンピックで女子やり投げに出場し、5位入賞を果たした。この山本の5位入賞後、日本女子やり投は長らくオリンピックでの入賞者が出ていなかったが、2024年パリオリンピック女子やり投に於いて北口榛花が優勝(金メダル獲得)し、88年ぶりにオリンピック入賞者を出すこととなった。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 19… 宮川 英二(みやがわ えいじ、1915年7月14日 - 1989年5月11日)は日本の建築家。日本大学名誉教授。 東京出身。日本大学旧工学部建築学科卒業。1988年勲四等旭日小綬章受章。1989年、急性白血病のため死去。 近江栄・宇野英隆編『建築への誘い先駆者10人の歩んだ道』朝倉書店、1982 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
石川 馨(いしかわ かおる、1915年 <大正4年> 7月1… 石川 馨(いしかわ かおる、1915年 <大正4年> 7月13日 - 1989年 <平成元年> 4月16日)は、日本の化学工学者。工学博士。東京大学名誉教授、東京理科大学教授、武蔵工業大学(現東京都市大学)元学長。位階は正四位。旧経済団体連合会(現日本経済団体連合会)初代会長の石川一郎は父。鹿島建設会長、日本商工会議所会頭の石川六郎は弟。 東京都出身。1928年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1933年に同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、中村光夫(文芸評論家)、島田秀夫(日本サッカー協会名誉会長)、小川平四郎(初代駐中国大使)などがいる。
吉野 義子(よしの よしこ 1915年7月13日 - 201… 吉野 義子(よしの よしこ 1915年7月13日 - 2010年12月6日)は、俳人。台湾台北市に生まれる。父は言語学者の小川尚義。幼時に母方の伯父の養女となり、愛媛県松山市にて育つ。県立松山高等女学校(現松山南高等学校)を経て、1933年、同志社大学英文科に入学。1934年、結婚のため中退。当初は詩を作っていたが、1947年に俳句に転向。1948年、「濱」に入会、大野林火に師事。1954年、「濱」同人。1972年、濱同人賞受賞。1979年、「芭蕉の精神を基盤とした叙情を継承する」として「星」を創刊・主宰。2001年、『流水』により第1回俳句四季大賞受賞。2003年、「星」終刊。代表句に「むらさき着て掌にあたたむる龍の玉」など。
吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 19… 吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 1999年8月22日)は、日本の大蔵官僚。経済企画庁長官官房長、理財局長、国税庁長官、中小企業金融公庫総裁、日本開発銀行総裁などを務めた。 台湾出身。旧制台北高等学校卒業。1937年10月、高等試験行政科合格。東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年、大蔵省入省。主税局属。主計局第四課長、主計官、大臣官房秘書課長、為替局企画課長、大臣官房財務調査官(大臣官房担当)、理財局総務課長、主計局総務課長と、課長時代は1官房、3課を横断していた。主計局次長(次席)、大臣官房財務調査官(理財局証券担当)などを経て、1961年6月16日 理財局次長。1962年5月15日 経済企画庁長官官房長。
彌永 貞三(いやなが ていぞう、1915年(大正4年)7月1… 彌永 貞三(いやなが ていぞう、1915年(大正4年)7月12日 - 1983年(昭和58年)12月30日)は、日本の歴史学者。東京大学史料編纂所所長。従四位勲三等瑞宝章。 1915年、父の任地の長野県松本市で生まれた。父の転任に伴い東京で育ち、府立第四中学、府立高等学校を卒業。東京帝国大学文学部国史学科に入学し、日本古代史を専攻し、坂本太郎に師事。1939年、卒業論文『上代の貨幣史に関する研究』を提出して同大学を卒業した。同大学大学院に進学したが、同年12月より兵役につき、千葉の鉄道連隊に入営した。 1940年、北支派遣の鉄道連隊に転属。以後3年あまり中国各地を転戦。1943年に除隊。帰国し、東京帝国大学大学院を退学し、東京帝国大学史料編纂所常勤嘱託に就いた。
スパット・スタタム(Suphat Sutatum、1915年… スパット・スタタム(Suphat Sutatum、1915年7月11日 - 没年不詳)は、タイ王国の政治家、タイ王国元財務大臣。 1915年7月11日、タイのバンコクで生まれる。1930年に、ワット・ボピトルピムク・スクール(Wat Bopitrpimuk school)で中等教育を修了。 1934年にタイ会計検査院で研修生としてキャリアをスタートさせ、1935年に2級事務官に任じられた。 その後来日し、立教大学で学び、1941年には商学修士号を取得。また、バンク・オブ・アメリカの監査役として研修を受けた。 1948年、タイ監査委員会委員、1975年、監査委員会事務局長、1972-75年、監査委員会委員長、1974年、汚職・腐敗行為防止局委員など、タイの国家財務の要職を歴任。
磨甎庵 劫石<ませんあん ごっせき>(本名:白田 貴郎<はく… 磨甎庵 劫石<ませんあん ごっせき>(本名:白田 貴郎<はくた たかお>)、1915年7月10日 - 2009年2月11日)は、臨済宗妙心寺派系の法を嗣ぐ老師、人間禅第三世総裁。倫理学学者。千葉大学名誉教授。聖徳短期大学名誉教授。勲二等瑞宝章受章。 1915年7月10日、東京に生まれ、隅田小学校に学ぶ。 1932年、東京府立第七中学校4年修了後、府立高等学校文科甲類に進学。 在学中野球部に入り、練習で体調を崩して結核となり、人間の死について疑団をもち、これを決着しなければ、人生は砂 上の楼閣となると考え、経済学部への進学をやめて、東大の和辻哲郎教授につき、哲学を学ぶことを決意。 1935年、東京帝国大学文学部倫理学科に進学。
小林 章(こばやし あきら、1915年(大正4年)7月10日… 小林 章(こばやし あきら、1915年(大正4年)7月10日 – 1999年(平成11年)8月1日)は、日本の昭和期の大蔵官僚、政治家。参議院議員、日本専売公社総務理事。 大阪府大阪市出身。大阪高等学校を卒業。1937年(昭和12年)10月、高等試験行政科試験に合格。1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。同年、大蔵省に入省し主税局属となる。 以後、大阪税関総務部長、松山海運局監理部長、高松財務局経理部長、同関税部長、大蔵省管理局財務第二課長などを歴任した。 日本専売公社に移り、塩業課長、主計課長、仙台地方局長、本社綜合企画室長、塩脳部長、臨時塩業整備本部長、経理部長、企画部長、総務理事を歴任し、1964年(昭和39年)に退任した。