柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1… 柳生 六郎(やぎゅう ろくろう、1893年8月28日 - 1983年5月26日)は、日本の鉱床探査技術者。愛知県名古屋市生まれ。 第八高等学校を経て、1919年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。日本鉱業(現JX金属)の前身である久原鉱業に入社、調査課に勤務。1929年日本鉱業の創立から同社の鉱山部勤務となり、調査部門の業務を担当。この間、長年にわたって傘下の諸鉱山の地質調査・探査・探鉱・開発などを行った。特に福島県高玉鉱山の金鉱床については、鉱床の生成と母岩の変質に関する多くの事実を明らかにし、鉱化初期の珪化作用と後期のアルカリ化(氷長石化作用)の関係を論じた。これらの研究により、東京大学より理学博士の学位を取得。
石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月2… 石黒 芳雄(いしぐろ よしお、1893年〈明治26年〉8月26日 - 1969年〈昭和44年〉8月5日)は、日本の生理学者、内科学者、内科医。医学博士。海軍軍医。最終階級は海軍軍医中将。 新潟県新潟市田中町(現 新潟市中央区田中町)出身。1912年(明治45年)3月新潟中学校卒業、同年(大正元年)9月新潟医学専門学校入学、1913年(大正2年)12月海軍軍医学生受命、1916年(大正5年)5月新潟医学専門学校卒業。 1916年(大正5年)7月海軍少軍医、1917年(大正6年)12月海軍中軍医、1919年(大正8年)9月海軍軍医中尉、1920年(大正9年)12月海軍軍医大尉、給油艦「知床」軍医長、1923年(大正12年)2月装甲巡洋艦「出雲」軍医長心得・分隊長心得、同年4月霞ヶ浦海軍航空隊分隊長、1925年(大正14年)12月海軍軍医少佐、1928年(昭和3年)4月新潟医科大学研究科学生(内科学・生理学)、1929年(昭和4年)11月海軍軍医中佐、1930年(昭和5年)12月横須賀海軍航空隊軍医長・分隊長、1931年(昭和6年)4月医学博士(新潟医科大学)、1933年(昭和8年)10月海軍航空廠医務部長、1934年(昭和9年)11月海軍軍医大佐、1938年(昭和13年)11月海軍軍医学校教官、1939年(昭和14年)4月海軍航空技術廠医務部長、1940年(昭和15年)11月海軍軍医少将、1943年(昭和18年)4月海軍航空技術廠航空医学部長、1944年(昭和19年)5月海軍軍医中将、同年11月佐世保鎮守府軍医長・佐世保海軍病院長、1945年(昭和20年)10月予備役。
高倉 定助(たかくら さだすけ、1893年(明治26年)8月… 高倉 定助(たかくら さだすけ、1893年(明治26年)8月26日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、大正・昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、高倉重助の四男として生まれる。滋賀県立水口農林学校(現滋賀県立水口高等学校)を卒業し農牧業を営む。 音更村会議員、帯広市会議員、北海道会議員、同参事会員を務めた。また、帯広市農会長、同農業会長、北海道農会議員、同農業会理事を歴任。十勝拓殖取締役社長、北海種苗公社取締役、北海道木炭取締役なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第5区から出馬して当選し、その後、第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
今野 賢三(いまの けんぞう、1893年8月26日 - 19… 今野 賢三(いまの けんぞう、1893年8月26日 - 1969年10月18日)は、プロレタリア文学の作家。秋田県南秋田郡土崎港町(現・秋田市)生まれ。本名・賢蔵。 土崎小学校卒業後、店員、職工、弁士などの職を転々とし、1921年に同級生の小牧近江、金子洋文らと秋田でプロレタリア文学の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。のち『文藝戦線』同人となり、1927年労農芸術家連盟に参加。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年… 杜 聡明(と そうめい、1893年8月25日 - 1986年2月25日)は、台湾人として初めて医学博士号を取得した医学者。字は思牧。従四位勲三等。 1893年、清朝統治下の台湾・淡水(現在の新北市淡水区)生まれ。9歳の時から淡水北新庄の車埕書房で学ぶ。11歳で滬尾公学校に入学し、滬永吉街での寄宿生活を送りながら17歳の時に首席で卒業する。1909年、台湾総督府医学校に首席で合格。しかし体格検査(丙下)で本来は不合格となるところであったが、当時の医学校校長・長野純蔵の計らいで入校が許された。在学中も勉学は一番であり、併せて体操、水泳、登山で体を鍛えた。1910年、清朝腐敗に対する革命の動きが高まると、同級生の翁俊明(中国語版)と共に中国同盟会に加入した。
松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 19… 松本 芳夫(まつもと よしお、1893年8月25日 - 1982年12月8日)は、日本の歴史学者。慶應義塾大学名誉教授。別名南国天[要出典]。 和歌山県東牟婁郡下里村(現・那智勝浦町)出身。1914年郁文館中学校卒業。1919年慶應義塾大学文学部史学科卒業、1950年「古代日本人の政治思想」で慶大文学博士。1919年慶應義塾商工学校教員、1923年慶應義塾大学予科教員兼高等部教員、1927年に文学部講師、1931年助教授を経て、1933年教授。1953年文学部長。1959年、義塾賞受賞。1960年斯道文庫長、1961年名誉教授。
滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8… 滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8月25日 - 1958年(昭和33年)7月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡乙島村(玉島町乙島、玉島市乙島を経て現倉敷市玉島乙島)で、滝澤嘉三郎の長男として生まれた。玉島尋常高等小学校を卒業後、神戸市立工業学校で学んだ。 川崎造船所、住友伸銅所での勤務を経て、1922年(大正11年)大阪市東成区猪飼野でボール盤製造を始めていた弟・七三郎に合流して滝澤鉄工所(現:TAKISAWA)を設立した。満州事変以後の工作機械需要の増大を受けて会社は発展し、1933年(昭和8年)郷里の玉島に、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)には大阪の二箇所に工場を新設した。
中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24… 中山 巍(なかやま たかし、1893年(明治26年)8月24日 - 1978年(昭和53年)5月19日)は、岡山県出身の日本の洋画家。 1893年(明治26年)8月24日、第8代岡山市長中山寛の四男として岡山県岡山市に生まれる。 1900年(明治33年)4月、岡山師範学校附属小学校入学。在学中、中堀愛作に啓発されて水彩画を描くようになる。 1900年(明治33年)、附属小学校を卒業し岡山県立津山中学校(旧制中学校)に進学。同級生に金田廉、矢野峰人、片岡鉄兵が居た。中学在学中に水彩画から油絵に移行。 1907年(明治40年)、奈良県で開かれた大下藤次郎の水彩画夏期講習会に最年少参加者として参加。翌1908年(明治41年)にも鎌倉で開かれた大下藤次郎水彩画夏期講習会へ参加している。
喜多 市松(きた いちまつ、1893年8月23日 - 198… 喜多 市松(きた いちまつ、1893年8月23日 - 1986年9月25日)は、日本の経営者。大阪府出身。 1914年に旅順工科学堂電気工学科を卒業し、1917年に京阪電気鉄道に入社。1942年に取締役に就任し、同年から1年間社長を務めた。 1986年9月25日老衰のために死去。93歳没。
塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8… 塩川 正三(しおかわ しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月22日 - 1958年〈昭和33年〉3月6日)は、日本の政治家。大阪府布施市(現・東大阪市)長(初代、5代、6代、3期)。財務大臣、衆議院議員を務めた塩川正十郎は長男。 大阪府渋川郡布施村(のち中河内郡布施町→布施市、現・東大阪市)出身。大阪府立八尾中学校(現・大阪府立八尾高等学校)卒。1915年(大正4年)、共栄組社長となり、1929年(昭和4年)、布施町会議員となる。同年3月から1932年(昭和7年)7月まで布施町助役を務めた。同月、布施町長となる。1937年(昭和12年)3月に町長を退任した。同年4月1日、布施市が発足した。同年7月10日、市長に就任した。
北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年… 北 謙治(きた けんじ、1893年8月22日 - 1956年7月25日)は、日本の経営者。広島県広島市出身。 1916年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に日本興業銀行に入行。1945年8月に退職し、山陽パルプ常任監査役を経て、1953年6月に富士重工業社長に就任。 1956年7月25日在職中に脳出血のために死去。62歳没。
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月… 木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月21日 - 1958年〈昭和33年〉11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。 牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年に同校を卒業した。
後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 19… 後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 1984年4月11日)は、大正 - 昭和時代の彫刻家。長男の後藤道雄は仏教美術史家。 1893年8月19日茨城県水戸市に生まれる。富岡周正に牙彫を学ぶ。 東京美術学校(現東京芸術大学)入学後は高村光雲に師事し木彫を始める。 仏教を厚く信仰し、仏像などを生涯作品のテーマにした。清一の彫る仏像は如来よりも菩薩や明王を題材にしたものが多い。 1930年構造社会員となる。 1958年日本美術展覧会評議員になり、1960年同展で「双樹」が文部大臣賞を受賞する。 余暇は専ら骨董品収集と読書を趣味としていた。1984年4月11日に死去。90歳だった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
黒田 清(くろだ きよし、1893年〈明治26年〉8月18日… 黒田 清(くろだ きよし、1893年〈明治26年〉8月18日 - 1951年〈昭和26年〉1月22日)は、日本の華族。貴族院議員・財団法人国際文化振興会専務理事。爵位は伯爵。 東京府出身。清は黒木為楨陸軍大将伯爵の三男で、黒田清仲伯爵(内閣総理大臣黒田清隆陸軍中将伯爵の子)に子が無かった為、養子となり爵位を継いだ。 1919年(大正8年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、さらに同文科大学を修了。1924年(大正13年)、フランスに音楽研究のため留学した。1934年(昭和9年)、国際文化振興会常務理事となり、さらに専務理事となる。 1944年(昭和19年)11月、貴族院伯爵議員に就任し、研究会に属し華族制度廃止までその職に在った。
石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17… 石田 善佐(いしだ ぜんさ、1893年(明治26年)8月17日 - 1947年(昭和22年)9月8日)は、日本の衆議院議員。ジャーナリスト。 新潟県東頸城郡顕聖寺村(現在の上越市浦川原区)出身。1917年(大正6年)、早稲田大学政治経済科を卒業。高田日報社主筆、高田時事新報社社長、高田毎日新聞社社長、上越新聞社顧問を歴任。高田市会議員、新潟県会議員に選ばれた。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬し、当選を果たした。戦後は日本進歩党の結成に参加するが、公職追放を受ける。追放中の1947年(昭和22年)、死去。
岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13… 岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。栄典は正五位勲三等功四級。 石川県金沢市千日町出身。金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校。中第18回生、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣・広瀬豊作と同級生)を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(第42期)を63番/117名で卒業。 1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官し防護巡洋艦「須磨」乗組。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1921年(大正10年)12月、駆逐艦「桂」乗組となる。 1922年(大正11年)1月、臨時航空術講習部部員兼横須賀海軍航空隊付となり航空畑に転じた。
梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月1… 梅原 末治(うめはら すえじ、1893年〈明治26年〉8月13日 - 1983年〈昭和58年〉2月19日)は、日本の東洋考古学者。京都大学名誉教授。東洋考古学の基礎を築いた。文学博士(京都帝国大学・1939年)(学位論文「支那青銅器時代の研究」)。 大阪府南河内郡古市村(現:羽曳野市)に生まれる。1913年同志社普通学校(現:同志社中学校・高等学校)卒業。1914年(大正3年)京都帝国大学文科大学陳列館助手。1921年(大正10年)朝鮮総督府古跡調査委員[要出典]。1929年(昭和4年)、東方文化学院京都研究所(現:京都大学人文科学研究所)所員、京都帝国大学文学部講師。1933年(昭和8年)6月、同助教授(考古学講座)。
一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月1… 一力 次郎(いちりき じろう、1893年(明治26年)8月12日 - 1970年(昭和45年)7月7日)は、日本の実業家。河北新報社元社長、会長、社主。 河北新報社創業者である一力健治郎の次男として宮城県仙台市に生まれる。 1917年京都帝国大学法学部卒業後、コロンビア大学、オックスフォード大学に留学し法律学、新聞学を専攻。帰国後、東京にて弁護士を開業する。 1924年(大正13年)1月1日河北新報社入社。副社長として、父を補佐する。 1929年(昭和4年)には父が逝去したことに伴い社長に昇格する。また、弟である五郎が実質的な副社長として兄を補佐した。 社長、会長時代は東北の振興に力を注ぎ、東北開発三法(北海道東北開発公庫法、東北開発株式会社法、東北開発促進法)の制定に傾注した上、政府の東北開発審議会委員となり、計画の策定や実施に貢献した。
一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月… 一萬田 尚登(いちまだ ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。 日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)。 日本銀行総裁としての在任期間3115日間は黒田東彦に次ぐ歴代2位である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。 太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部占領下のインフレと資金不足の困窮経済のなか、大蔵省ではなく金融政策を掌る日本銀行が実質的に金融行政を掌握していたことが一萬田の力の背景にあった。
岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11… 岩田 正巳(いわた まさみ、1893年〈明治28年〉8月11日 - 1988年〈昭和63年〉3月9日)は、日本画家、日本芸術院会員。位階は従四位。 新潟県三条市出身。1918年(大正7年)東京美術学校日本画科卒業、東京美術学校日本画研究科入学。松岡映丘に師事する。1921年(大正10年)新興大和絵会を結成し、新興大和絵運動に参加する。1924年(大正13年)第5回帝展に「手向の花」が初入選、1930年(昭和5年)第11回帝展で「高野創世」が特選。1937年(昭和12年)国画院に参加し、新文展にも複数回出品する。1939年(昭和14年)川﨑小虎らと日本画院を設立する。1952年(昭和27年)第8回日展運営会参事、1958年(昭和33年)同評議員を務める。
須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 196… 須田 正継(すだ まさつぐ、1893年8月10日 - 1964年9月16日)は、日本のイスラム教研究者。日中戦争期には、外交官として内蒙古に派遣されて諜報活動をおこなった。 「国士的人物」であり、「とにかく独立独歩、他からの制肘を好まず」、晩年に至っても「意気軒昂たる」ものがあったとされる。 山梨県東八代郡一桜村小城(後の一宮村→一宮町→笛吹市の一部)に生まれる。 旧制の日川中学校(山梨県立日川高等学校の前身)から東京府豊島師範学校に進んだが、さらに東京外国語学校に学び、ロシア語部選科を修了した。 1918年のシベリア出兵の際には、通訳として従軍し、沿海州からザバイカル州までを転戦した。この3年に及ぶシベリアでの活動の間に、白軍の一翼を担っていたアタマン・セミヨノフをリーダーとする中央アジア系ムスリム兵の部隊と接触し、イスラム教に帰依したといわれる。
高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9… 高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本の海軍軍人。 海兵43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将。東久邇宮内閣の内閣副書記官長を務めた。 旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ、働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たし、海軍大学校を首席で卒業する。 健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが、軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。太平洋戦争の戦局悪化に伴い首相・東條英機の暗殺計画を立案したが決行直前に東條内閣が瓦解し未遂に終わる。その後は米内光政、井上成美の密命により終戦工作に従事。
原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971… 原田 謙次(はらだ けんじ、1893年8月8日 - 1971年2月3日)は、日本の歌人、小説家。 長崎県生まれ、大村中学校卒業、第一高等学校中退、東京外国語学校イタリア語専修を経て、1920年早稲田大学英文科卒。吉江喬松、島崎藤村に師事し、歌人、詩人となる。近代琵琶作詞、小説一編のほかイタリア文学の翻訳もある。
東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日… 東 前豊(ひがし まえとよ、1893年(明治26年)8月6日 - 1974年(昭和49年)5月6日)は、日本の政治家。岐阜市長。 戦後の地方自治法による公選で選ばれた、最初の岐阜市長である。 鹿児島県大島郡知名村(現在の知名町)出身。鹿児島県師範学校(現鹿児島大学)を経て1918年(大正7年)広島高等師範学校(現広島大学)地歴科を卒業し、岐阜県師範学校教諭・訓導となった。1923年(大正12年)京都帝国大学(現京都大学)経済学部選科修了。その後、高知県師範学校教諭、熊本県立人吉高等女学校教諭を歴任した。1930年(昭和5年)に岐阜市視学・学務兵事課長に就任した。 1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)1月まで岐阜市助役を務めた後、辞職。
高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975… 高田 眞治(たかた しんじ、1893年8月6日 - 1975年11月24日)は、日本の漢学者。文学博士。東京帝国大学教授、大東文化大学教授。漢学会設立者。号は陶軒。西洋由来の支那学(シノロジー)ではなく日本伝統の漢学を重視した。 中国文学者、学習院大学名誉教授の高田淳は長男。 1893年、大分県宇佐郡宇佐町(現・宇佐市)生まれ。高田豊市の三男。1917年、東京帝国大学文科大学支那哲学科卒業。 卒業後は水戸高等学校教授、1924年より京城帝国大学予科教授。1928年から1930年までドイツ留学。1930年より東京帝国大学助教授。アメリカ合衆国、中華民国に留学し、帰国後の1934年より教授。1936年、文学博士が授与される。
西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1… 西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日 - 1966年8月10日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。陸軍中将・西山福太郎は実兄。 神奈川県淘綾郡吾妻村(令和現在の中郡二宮町)の出身。実家は井筒屋の屋号で宝永年間より街道沿いの旅宿を営んでいたが、明治維新後は交通機関の発達などもあり父の代で廃業。以後は養蚕業及び網元を生業とした。弥太郎は父・豊八、母・ヒロのもと十二人兄弟の十男として1893年(明治26年)8月に生まれる。兄弟が多かった為、弥太郎を含む4人以外は他家に養子入りし、実家は後に二男(長男は夭折)の斧三郎が継いだ。1908年(明治41年)春に満14歳で高等小学校を卒業すると、母方の親戚がやっていた横浜の金物店に手伝いとして入る。
矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5… 矢野 志加三(やの しかぞう、1893年(明治26年)8月5日 - 1966年(昭和41年)1月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3… 児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3日 - 1960年5月23日)は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。 山口県出身。陸軍大将・児玉源太郎の七男として生まれる。 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。 以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。
武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1… 武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1972年8月9日)は、日本の都市計画家、土木工学者。専門は都市計画学。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。本邦の都市計画学の草分けとして知られる。実業家武居綾蔵の養子で、妻妙子は湯川秀樹の次姉。 岡山県津高郡一宮村(現・岡山市北区)に生まれる(旧姓小野)。旧制岡山県立岡山中学校、第六高等学校を経て1917年京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大阪市役所に入り市区改正部などで技師として奉職。次いで内務省技師、国の都市計画の実務に従事する。この間米国ハーバード大学、英国リヴァプール大学に留学、都市計画学を学ぶ。1922年京都帝国大学工学部が日本最初の都市計画の講座(土木工学第六講座)を開設。
土屋 正三(つちや しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月… 土屋 正三(つちや しょうぞう、1893年〈明治26年〉8月2日 - 1989年〈平成元年〉2月6日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、警察大学校名誉教授。 静岡県下田市で土屋元平の長男として生まれた。1906年、静岡県立静岡中学校入学。静岡中学を経て、第一高等学校を卒業。1916年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し兵庫県属となる。 以後、兵庫県警視、内務事務官、茨城県書記官・学務部長、内務書記官・警保局図書課長、同警務課長、警察講習所教授、岡山県書記官・内務部長などを歴任。 1935年(昭和10年)1月15日、山梨県知事に就任。
清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1… 清水 董三(しみず とうぞう、1893年〈明治26年〉8月1日 - 1970年〈昭和45年〉12月8日)は、日本の外交官、書家、教育者。書画家として号を東翠。兄は画家の清水登之。 栃木県下都賀郡国府村大字大塚(現・栃木市大塚町)出身。1915年東亜同文書院政治科卒。1919年東亜同文書院教授(中国語担当)。1929年外務省嘱託、1933年外務省翻訳官、1943年中華民国大使館一等書記官。1946年同大使館参事官、1955年中華民国台北大使館公使、1956年外務審議官。1959年外務省退官、その後は外務省、日本クラブなどで書画を教えた。
松島 瀧三(まつしま たきぞう、1893年〈明治26年〉8月… 松島 瀧三(まつしま たきぞう、1893年〈明治26年〉8月 - 没年不明)は、日本の実業家。日本毛皮革代表。 福島県西白河郡白河町(現白河市)出身。製革業・肥料毛皮貿易商などを営む松島瀧右衛門の六男。白河商業卒業。分家した。 1917年、上京し上原松島合名会社を設立し、その後上原商事株式会社に改組する。日本毛皮組合理事、日本毛皮輸入組合理事をつとめる。日本毛皮代表、上原商事常務を経て日本毛皮革代表。 宗教は禅宗。住所は東京世田谷区代田、本郷区本郷。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1… 藤森 成吉(ふじもり せいきち、1892年8月28日 - 1977年5月26日)は、日本の小説家、劇作家。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業、第一高等学校卒業、東京帝国大学文科大学独文科卒業。 東京帝大在学中に執筆した『波』で小説家として広く知られるようになった。1926年以降劇作に転向し『何が彼女をさうさせたか』が話題を呼んだ。社会主義への関心も深め、全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。このとき、細井和喜蔵の『女工哀史』の出版にも尽力している。1928年の第16回衆議院議員総選挙に、労働農民党公認で長野3区から立候補したが次々点に終わる。
岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月2… 岡田 利兵衞(おかだ りへえ、1892年(明治25年)8月27日 - 1982年(昭和57年)6月5日)は、国文学者。号は柿衞。聖心女子大学名誉教授。伊丹市長、伊丹市名誉市民。柿衞文庫設立者。逸翁美術館元館長。位階は従五位。 1892年、兵庫県伊丹市生まれ。生家は江戸時代より続く酒造業を営む岡田家であり、22代目当主として利兵衛を襲名。1918年、京都帝国大学文科大学国文科を卒業。 卒業後は梅花女子専門学校で教鞭をとる。1937年10月から1939年7月まで伊丹町長をつとめた。戦後の1945年12月17日、第4代伊丹市市長に就任。1946年11月26日に退任するまで、戦後復興に尽力した。市長退任後は公職追放となった。
秋元 梅吉(あきもと うめきち、1892年8月26日 - 1… 秋元 梅吉(あきもと うめきち、1892年8月26日 - 1975年2月8日)は、日本の社会事業家・教育者・キリスト教指導者・編集者である。 視覚障害当事者として視覚障害者のための福祉ホーム・点字出版社である東京光の家を創設したしたほか、日本初の点字『旧約聖書』シリーズ全巻を刊行した。 1892年 東京・中野の大地主の家に生まれる。先天性の弱視であり、5歳で失明。 1906年(明治39年)、14歳で東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)に入学した。 1913年(大正2年)、台湾人留学生である同級生から『新約聖書』「マルコによる福音書」を紹介され、一章三節の「荒れ野に呼ばわる者の声す。「主の道を備え、その道を直くせよ」」に「電光を受けたように感銘を受けて」キリスト教に入信した。
稲内 清二(いなうち せいじ、1892年(明治25年)8月2… 稲内 清二(いなうち せいじ、1892年(明治25年)8月25日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、内務官僚。千葉県市川市長。 京都府出身。1914年(大正3年)に盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)を卒業した後、1920年(大正9年)に京都帝国大学法学部を卒業した。一年志願兵として陸軍少尉となる。1922年(大正11年)に高等試験に合格した。和歌山県伊都郡長、東牟婁支庁長、熊本県商工課長、同蚕糸課長、香川県社会課長、同地方課長、広島県学務課長、同地方課長、宮崎県学務部長、秋田県学務部長を歴任した。 1940年(昭和15年)に退官した後、同年6月11日に市川市長に就任し、1941年(昭和16年)10月7日まで在任した。
島 保(しま たもつ、1892年〈明治25年〉8月25日 -… 島 保(しま たもつ、1892年〈明治25年〉8月25日 - 1972年〈昭和47年〉1月10日)は、日本の裁判官、最高裁判所判事。東京都出身。 1916年(大正5年)、東京帝国大学法学部卒。殆ど東京地裁に勤務し、1931年(昭和6年)11月に東京控訴院部長、1935年(昭和10年)4月大審院判事、1938年(昭和13年)7月に東京刑事地裁所長、1945年(昭和20年)大審院部長となった。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月4日、最高裁判所判事に就任。1947年8月4日の最高裁判所発足と同時に最高裁判所判事に就任したうちの1人である。 最高裁では第三小法廷を担当すると共に、大法廷においても死刑合憲判決や三鷹事件・松川事件・八海事件など、戦後司法の根拠となる様々な判決に携わった。
藤田 亮策(ふじた りょうさく、1892年〈明治25年〉8月… 藤田 亮策(ふじた りょうさく、1892年〈明治25年〉8月25日 - 1960年〈昭和35年〉12月12日)は、日本の考古学者。 1892年、新潟県古志郡上北谷村(現見附市/長岡市)に、父・藤田福十郎、母・タケの次男として生まれた。1915年(大正4年)7月、旧制第一高等学校の第三部医科を卒業し、東京帝国大学医科大学に入学するが、近眼のため医者になる道を断念して、同年10月文科大学に転学し、国史学を専攻した。文科大学では黒板勝美の指導を受け、1918年(大正7年)7月、卒業論文「江戸時代の漕運」を提出して史学科を卒業。この時はまでは関心の対象は交通史であり、考古学に深い関心を寄せてはいなかった。
大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8… 大井上 康(おおいのうえ やすし、1892年(明治25年)8月21日 - 1952年(昭和27年)9月23日)は、農業学者、民間育種家。ブドウ「巨峰」の生みの親として、また今日では常識となっている栄養週期理論の提唱者としても知られる。 海軍軍人の子として広島県江田島の海軍兵学校官舎で生まれる。幼少時に病気を患い片足が不自由となったため農業学者を志した。東京農業大学卒業後、茨城県の酒造会社・神谷酒造所牛久葡萄園の技師となる。ここでブドウの交配育種の取り組みと作物栽培法の研究に没頭、また植物に容易に栄養素を与えず、必要な時期に必要な栄養素を最低限与える「栄養週期理論」を提唱した。しかし、この理論は当時の学会では異端視されたため、農学会を去り民間育種家・園芸家となる。
東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892… 東宮 鉄男(とうみや かねお、旧字体: 東宮 鐵男、1892年〈明治25年〉8月17日 - 1937年〈昭和12年〉11月14日)は、日本の陸軍軍人。「満洲移民の父」と呼ばれた。 満洲を中心に活動した。張作霖爆殺事件の実行者であり、満洲への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として中国で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。 1892年(明治25年)8月17日、群馬県勢多郡宮城村大字苗ヶ島(現:前橋市苗ヶ島町)で9人兄弟の末弟として生まれる。父は群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝。旧制前橋中学校利根分校で3年間学んだ後、同本校に編入し1911年(明治44年)に卒業。
山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月1… 山口 多聞(やまぐち たもん、1892年(明治25年)8月17日 - 1942年(昭和17年)6月6日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。ミッドウェー海戦において戦死。最終階級は海軍中将。
岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日 – 1… 岡本 季正(おかもと すえまさ、1892年8月16日 – 1967年11月23日)は、日本の外交官。 駐オランダ大使、日蘭協会会長。
鑓田 研一(やりた けんいち、1892年8月16日 - 19… 鑓田 研一(やりた けんいち、1892年8月16日 - 1969年1月28日)は、日本の伝記作家、小説家。作家評伝家。 山口県岩国市生まれ。神戸中央神学校卒業。1915年宇野千代らと回覧雑誌を作る。 トルストイ、プルードンに影響を受け、農民文芸会の機関誌『農民』を拠点に、無政府主義的重農主義を展開。また賀川豊彦に師事しキリスト教、親鸞などに傾倒した。 明治期作家評伝も書き、新島襄の著作の編集も行う。 戦後は一般向け実用書なども執筆した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
田中 たつ(たなか たつ、1892年〈明治25年〉8月14日… 田中 たつ(たなか たつ、1892年〈明治25年〉8月14日 – 1985年〈昭和60年〉8月30日)は日本の政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は高坂。 鳥取県米子町(現米子市)に生まれる。小学校卒業後、看護婦養成所に入り、1911年(明治44年)に卒業する。その後、産婆学校を出て、看護婦として病院に勤務し、1922年(大正11年)に産婆を開業した。さらに京都府立医科大学で産婆学を学び、保健婦の資格を得て、1943年(昭和18年)に鳥取県保健婦協会会長に就任した。 1946年(昭和21年)、戦後第1回の総選挙に鳥取県から無所属で立候補して最下位(4位)で当選した。当選後は国民党を経て国民協同党に入った。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8… 大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年(明治25年)8月6日 - 1990年(平成2年)12月24日)は、実業家である。日本油脂取締役、ミサワホーム創業顧問、色材協会会長を務めた。岡山県倉敷市出身。 1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎、日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。 1915年(大正4年)に同校を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する。
田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日… 田川 誠治(たがわ せいじ、1892年(明治25年)8月5日 - 1965年 <昭和40年> 9月2日)は、日本の商人(米穀並びに酒類商)、実業家、政治家。位階は従六位。 神奈川県三浦郡田浦町(現横須賀市)出身。田川平三郎の二男。1916年3月、慶應義塾大学部理財科卒業。米穀並びに酒類商を営む。神奈川県会議員に当選し、2期つとめた。 横須賀酒類商業組合理事長、横須賀タクシー会長、湘南商事、神奈川県容器各社長、田浦土地建物、神奈川無尽、神奈川県油工業、神奈川県食糧工業各取締役、神奈川県食糧営団専務理事などをつとめた。1965年死去。死没日付をもって従六位に叙された。 自由主義者で、福沢諭吉の「独立自尊」を信奉しており、子供には干渉しなかった。
藤田 八郎(ふじた はちろう、旧姓・吉田、1892年〈明治2… 藤田 八郎(ふじた はちろう、旧姓・吉田、1892年〈明治25年〉8月5日 - 1976年〈昭和51年〉7月6日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。 三重県出身。吉田徳善の八男。藤田徳三郎の養子となる。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。1919年(大正8年)に判事となった。東京地裁、東京控訴院などを経て、1937年(昭和12年)7月に大審院判事になった。1941年(昭和16年)2月に大阪地裁所長、1944年(昭和19年)3月に札幌控訴院院長に就任。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)に最高裁発足と同時に裁判官出身者として56歳で最高裁入りした。
鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)… 鈴木 里一郎(すずき さといちろう、1892年(明治25年)8月5日 - 1969年(昭和44年)12月12日)は、日本の政治家、実業家。 明治25年(1892年)、静岡県敷知郡篠原村(のち浜名郡篠原村、現・浜松市中央区)に生まれる。 明治大学を経て画商として名を成し、東京・銀座の代表的な画廊の一つ、青樹社画廊を経営する。 昭和22年(1947年)の第23回衆議院議員総選挙では日本自由党から出馬し、当選を果たす。 同年、設立された東京電気自動車の外山保より、義父である鈴木に資金要請の相談が入り、画廊の顧客でもあったブリヂストン社長の石橋正二郎から出資を得ることとなった。石橋が400万円、鈴木その他が300万円を出資し、資本参加することとなり、昭和24年1月、鈴木が経営上の全責任を負う社長に就任し、石橋は会長に就任。
石橋 義雄(いしばし よしお、1892年 <明治25年> 8… 石橋 義雄(いしばし よしお、1892年 <明治25年> 8月4日 - 1976年 <昭和51年> 2月26日)は、日本の経営者、銀行家。北國銀行頭取を務めた。位階は従五位。 福岡県出身。1914年に長崎高等商業学校を卒業し、同年5月に日本銀行に入行。 1945年4月に監事に就任し、1947年2月には北國銀行頭取に就任し、1961年1月から1966年7月までに会長を務めた。 1957年に黄綬褒章を受章し、1965年に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年2月26日、心不全のために死去。83歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。