今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月1… 今井 五六(いまい ごろく、1893年〈明治26年〉10月14日 - 1969年〈昭和44年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家、教育者。 片倉製糸紡績株式会社取締役、財団法人片倉学園理事長、片倉磐城製糸株式会社代表取締役、昭和興業株式会社取締役、株式会社美篶商会取締役、日東紡績株式会社取締役、長崎製糸株式会社取締役、昭和絹靴下株式会社取締役、片倉米穀肥料株式会社取締役、東邦石油株式会社取締役、富国火災海上保険株式会社監査役、極東化学工業所社長(初代)、片倉合名会社出資社員、埼玉県大宮市長(初代・第4代)、片倉工業株式会社取締役、東亜ゴム工業株式会社社長(第2代)、トーテックス株式会社社長(初代)などを歴任した。
山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉1… 山本 倉丘(やまもと そうきゅう、1893年〈明治26年〉10月12日 - 1993年〈平成5年〉9月5日)は、日本の日本画家。高知県幡多郡出身。本名は伝三郎。 四条派の伝統の上に近代的な様式を加えた花鳥画で知られ京都画壇の重鎮であった。 1893年2月17日、高知県幡多郡に生まれる。 1918年山元春挙(早苗会)に師事、1926年、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)在学中に「麗日」が第7回帝展入選。1933年同校選科修了。同年、「菜園の黎明」が第14回帝展特選。 山元春挙没後の1939年、堂本印象(東丘社)に師事。 戦後は日展に出品を続けたほか、東丘社展・京展・関西展等で活躍。1958年の社団法人日展発足時に日展評議員就任。
長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)1… 長尾 秀太郎(ながお ひでたろう、1893年(明治26年)10月11日 - 1948年(昭和23年)6月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。弁護士。 香川県鵜足郡宇多津村(現在の綾歌郡宇多津町)出身。香川商業学校を経て、1920年(大正9年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した。弁護士を開業し、高松弁護士会副会長、同会長を歴任した。香川県会議員、同参事会員に選出された。 1936年(昭和11年)7月、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月… 黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 - 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。
冨田 ふさ(とみた ふさ、1893年(明治26年)10月10… 冨田 ふさ(とみた ふさ、1893年(明治26年)10月10日 – 1954年(昭和29年)7月19日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。旧姓は不明。 1893年、福井県吉田郡松岡町(現・永平寺町)に生まれる。東京女医学校(現・東京女子医科大学)を卒業し、産婦人科医となる。京都帝国大学病院に勤務し、医師の冨田精と結婚する。1922年に夫とともに京都市で「冨田医院」を開業する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で京都府から女子自由党公認で立候補して3位で当選した。選挙後、選挙期間中に戸別訪問したことが選挙違反に問われ、裁判所から罰金500円の有罪判決を受けた。翌年の第23回衆議院議員総選挙で民主党公認で京都1区から立候補したが落選した。
大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉1… 大室 亮一(おおむろ りょういち、1893年〈明治26年〉10月6日 - 1987年〈昭和62年〉10月16日)は日本の弁護士。第二東京弁護士会会長、A級戦犯松井石根の補佐弁護人。第二次世界大戦後に法務庁(現:法務省)の初代人権擁護局局長を務めた。日弁連副会長、国際法曹協会会長などを歴任。岡山県笠岡市出身。 1893年(明治26年)岡山県浅口郡大島村(現:笠岡市)に生まれる。1907年、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期には、京大医学部名誉教授となる井上硬や、キリスト教伝導師の松田壽比古がいた。同校を卒業し、1912年(大正元年)第六高等学校文科甲類に進学、その後、1914年(大正3年)に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学へ進学した。
村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 … 村田 孝生(むらた たかお/たかいき、1893年10月6日 - 1953年4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)… 北島 謙次郎(きたじま けんじろう、1893年(明治26年)10月5日 – 1957年(昭和32年)11月24日)は、南洋庁長官、拓務次官。 佐賀県出身。佐賀県立佐賀中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。高等文官試験に合格して、大蔵省銀行局に勤務し、のち福島税務署長に就任した。1919年(大正8年)、拓殖局書記官に任ぜられ、拓務省が設置されると拓殖省書記官に任ぜられた。文書課長、管理局第一課長などを経て、1932年(昭和7年)より殖産局長を務めた。 1936年(昭和11年)に南洋庁長官に任ぜられ、1940年(昭和15年)4月までその職にあった。同年10月に拓務次官に就任し、退官後は陸軍軍政顧問を務めた。
岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1… 岡村 新市(おかむら しんいち、1893年10月5日 - 1977年1月11日)は、日本の経営者。大和証券社長を務めた。 岡山県出身。第六高等学校 (旧制)卒。1921年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に藤本ビルブローカー銀行に入社。1943年2月に大和証券取締役に就任し、常務、専務を経て、1953年11月には社長に就任。1957年11月から1959年12月までに会長を務めた。 1966年9月に黄綬褒章を受章。1977年1月11日、心不全のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26… 平沢 長吉(平澤、ひらさわ ちょうきち、1893年(明治26年)10月5日 - 1960年(昭和35年)6月14日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 秋田県南秋田郡土崎港町本山町(現秋田市土崎港中央)で、平沢喜一郎の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学農科大学実科を卒業した。 木材業を営み、出羽林業を設立して取締役に就任。土崎木材商業組合長、秋田県木材業統制組合理事長、同森林組合連合会副会長、同木材業林産組合長、秋田合同運送社長、三協木材社長、東北興業監事などを務めた。 政界では、土崎港町会議員、秋田市会議員、秋田県会議員、同参事会員、同議長を務めた。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で秋田県第1区から秋田県民主党公認で出馬して初当選。
司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 … 司 忠(つかさ ただし、1893年〈明治26年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉5月1日)は、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)出身の実業家。丸善社長・会長。 丸善社長就任時にはワンマン独裁を宣言し、洋書部門の再建や著作権法改正に尽力した。国外に流出していた西洋絵画の松方コレクションの返還交渉にも関与している。 1893年(明治26年)10月5日、愛知県渥美郡豊橋町八町(現・豊橋市八町通3丁目)にある安久美神戸神明社の家に生まれた。1906年(明治39年)9月に高浜尋常高等小学校を退学すると、13歳で書籍商の丸善株式会社に見習生として入社した。 1922年(大正11年)5月10日に結婚している。
加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日… 加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年)10月2日 - 平成元年(1989年)3月29日)は、日本の化学者。理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授。山形県東田川郡三川町名誉町民。
宮本 正尊(みやもと しょうそん、1893年10月1日 - … 宮本 正尊(みやもと しょうそん、1893年10月1日 - 1983年11月30日)は、仏教学者。号は「香雪」。 1893年(明治26年)、新潟県で生まれた。大谷大学で学び、1918年(大正7年)に卒業。東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科で学び、1921年(大正10年)に卒業。1924年(大正13年)にオックスフォード大学大学院に留学し、1928年(昭和3年)に帰国。1929年(昭和4年)にPh.D.を取得した。 1928年(昭和3年)に帰国し、東京帝国大学助教授に就いた。1942年(昭和17年)に教授昇格。同年、学位論文『中道思想及びその発達』を東京帝大に提出して文学博士号を取得。 戦後の1949年(昭和24年)からは名称変更に伴い東京大学文学部教授。
榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - … 榑林 皓堂(くればやし こうどう、1893年10月1日 - 1988年1月6日)は、日本の曹洞宗の僧侶、仏教学者、駒澤大学総長。 1893年に静岡県榛原郡菅山村(現牧之原市)の華厳院、榑林拡道の長男として生まれる。 1915年、曹洞宗大学林(現、駒澤大学)を卒業し、永平寺で丘宗潭について修行。1918年から1921年には岸沢惟安について修行。 1927年に駒澤大学助手に就任、講師、助教授を経て教授、仏教学部長に。1958年に『道元禅の研究』で駒澤大学文学博士。1968年から75年に駒澤大学総長。76年に名誉教授。73年に曹洞宗権大教正に補任。
小松原 久治(こまつばら きゅうじ、1892年(明治25年)… 小松原 久治(こまつばら きゅうじ、1892年(明治25年)10月30日 - 1967年(昭和42年)1月17日)は、日本の元造幣局研究所所長、工学博士。
赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 … 赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 - 1953年4月6日)は大正時代から昭和時代初期に活動した日本の社会学者、経済学者、教育者。良譲は僧名で旧名は外蔵、別名崇弘。戦後は教蔵院住職も務めた。 新潟県三島郡寺泊町(現 長岡市)に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文学部社会学科、1923年(昭和12年)に法学部政治学科を卒業。同大助手を経て1922年(大正11年)5月に明治大学教授となった。 1934年(昭和9年)、北陸日日新聞(現北日本新聞)に主筆として迎えられ、新聞統制で他の3紙と統合となる1940年(昭和15年)まで在職した。 ソビエト連邦の政治やマルクス経済学の研究を進めていたが、第二次世界大戦以前は国家主義者としても活動。
江本 義数(えもと よしかず、1892年(明治25年)10月… 江本 義数(えもと よしかず、1892年(明治25年)10月28日 - 1979年(昭和54年)5月18日)は、日本の微生物学者である。 東京府東京市本所区(現在の墨田区)に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)に入学し植物学科に所属する。1917年(大正6年)に卒業後は17年の空白を経て1934年(昭和9年)に学習院大学の教授を務め同年理学博士を取得し、1953年(昭和28年)より学習院女子短期大学(2001年(平成13年)廃止)にて教鞭を執った。 退職後の1958年(昭和33年)には東京国立文化財研究所の調査研究員となり、1974年(昭和49年)に退所するまで16年間奈良県に出張し法隆寺金堂壁画の焼損した部分や高松塚古墳壁画の微生物調査や防除処理等の研究に携わる。
倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 19… 倉田 太一(くらた たいち、1892年10月28日 - 1969年2月2日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 京都武専にて柔道修行に励んだのち、広島高等師範学校や旧制広島文理科大学にて後進の指導に当たって広島における柔道の普及・振興に尽力。また選手としては昭和天覧試合へ名誉ある出場を果たした。 広島県の仁保に生まれた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高校)を卒業後、既に柔道3段の倉田は京都の武道専門学校本科に1期生として進学し、同期の尾形源治らと共に磯貝一・永岡秀一・田畑昇太郎の元で稽古に励んだ。極度の近視であった倉田は、稽古の際に眼鏡を外すと常に眉間に皺を寄せて睨み付けるような形相であった事から、同級生らから“鬼瓦”と呼ばれたという。
杉野目 晴貞(すぎのめ はるさだ、1892年10月27日 -… 杉野目 晴貞(すぎのめ はるさだ、1892年10月27日 - 1972年4月14日)は、日本の有機化学者。元北海道大学学長。アルカロイド研究の第一人者として知られた。1967年4月、勲一等瑞宝章。 宮城県大崎市出身。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)。</ref>11期(三浦義男は1期後輩)。旧制二高を経て、東北帝国大学卒業。真島利行に師事。1926年、ロックフェラー財団の国際奨学生としてグレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国に留学。その後スイスに移った。1929年秋に北海道帝国大学への転勤含みで北海道札幌市に転居。理学部が新設された1930年に北海道帝国大学教授となり、「花の色の科学」と題して開学記念学術講演を行った。
綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉1… 綾小路 護(あやのこうじ まもる、1892年〈明治25年〉10月27日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。 東京において、子爵・野宮定穀の五男として生まれ、綾小路家18代当主・綾小路家政の養子となる。養父の死去に伴い、1921年(大正10年)4月30日、子爵を襲爵した。 1920年(大正9年)京都帝国大学経済学部卒業。十五銀行に入行。その後、横山工業監査、帝国鉱業開発監事などを務めた。また、歌会始講頌として披講の講頌役を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し大蔵省委員、税制調査会委員などを務め、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - … 日名子 実三(ひなご じつぞう、1892年10月24日 - 1945年4月25日)は、日本の彫刻家。大分県臼杵市出身。 八咫烏を意匠とする日本サッカー協会(当時・大日本蹴球協会)のシンボルマークをデザインしたことでも知られる。 5人兄弟の末子として誕生。臼杵中学校(現・大分県立臼杵高等学校)を卒業後、親の勧めで慶應義塾大学部理財科に進学したものの程なく中退。その翌年1913年(大正2年)、東京美術学校彫刻家塑造部へと入学し首席で卒業。 学生時代から朝倉文夫の弟子として学び、1919年(大正8年)には作品「晩春」が帝国美術院展覧会に入選する等、世間的にも認知されるようになったが、1925年(大正14年)に作品の方向性の違いから独立することを選び、斎藤素巌と共に構造社を結成。
秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25… 秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25年〉10月22日 - 1972年〈昭和47年〉12月3日)は、大正から昭和期の水産技術者、実業家、政治家。参議院議員。 高知県長岡郡東豊永村(大豊村を経て現大豊町怒田)で、秋山紋弥、春女の長男として生まれる。1912年(明治45年)高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1915年(大正4年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業。 台湾宜蘭庁技手に任官し、1916年(大正5年)台湾総督府に転任。1920年(大正9年)長崎県に転じた。1928年(昭和3年)高知県水産課長に就任。その後、佐賀県水産課長を経て、長崎県水産試験場長となった。
都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki… 都築 正男(つづき まさお、英語:Masao Tsuzuki、1892年(明治25年)10月20日 - 1961年(昭和36年)4月5日)は、日本の医学者、海軍軍医。最終階級は海軍軍医少将。「原爆症研究の父」と呼ばれる。 兵庫県姫路市に開業医の長男として生まれた。兵庫県立姫路中学校を経て、1910年(明治43年)に旧制第一高等学校に入学。一高では芥川龍之介や矢内原忠雄らと同期だった。1917年(大正6年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重のもとで外科学を学んだ。1926年(大正15年) 東京大学 医学博士 論文の題は 「硬レントゲン線の生物学的作用に関する実験的研究」。
森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉1… 森 昇三郎(もり しょうざぶろう、1892年〈明治25年〉10月20日 - 1967年〈昭和42年〉4月21日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県新居郡中萩村(現・新居浜市)生まれ。1918年(大正7年)、明治大学法律科卒。経済学研究のため、欧米諸国に留学する。帰国後十五銀行(現・みずほ銀行、三井住友銀行)に入るが、東明銀行清算人となる。朝日土地(株)取締役、千代田商事(株)社長、日本肥料工業(株)専務取締役、帝国商事(株)取締役社長となる。 1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。1期務めた。1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙でも立候補したが途中で立候補を取り下げた。
山川 建(やまかわ たける、1892年(明治25年)10月1… 山川 建(やまかわ たける、1892年(明治25年)10月18日 - 1944年(昭和19年)2月22日)は大正時代から昭和初期にかけての日本の官僚、政治家。山川浩男爵家当主。 東京府出身。父は山川健次郎でその四男である。長兄の山川洵は東京帝国大学教授。1913年(大正2年)、従兄弟にあたる山川廉の跡を継いで伯父の山川浩家を承継した。七高を経て、1918年(大正7年)、東京帝大を卒業し高等文官試験に合格。千葉県警視、同理事官、静岡県地方事務官を経たのちは文部官僚として終始する。普通学務局庶務課、専門学務局学務課、大臣官房体育課、同文書課、同会計課の各課長を歴任。この間欧米視察に派遣された。社会教育局長を経て専門学務局長在任中に京都帝国大学で横領事件や清野事件が発生し濱田耕作総長が辞意を表明したが、山川は荒木貞夫文相の意を受けて、辞意撤回の説得を行った。
飯田 九一(いいだ くいち、1892年10月17日 - 19… 飯田 九一(いいだ くいち、1892年10月17日 - 1970年1月24日)は、日本の日本画家、俳人、俳諧関係資料の収集家。 神奈川県橘樹郡大綱村(現在の横浜市港北区の一部)の江戸時代以来の素封家に、三男として生まれた。父・快三は、大綱村長や神奈川県議会議員を務めた人物で、飯田家の家長の名である助太夫を第11代として襲名し、海山と号した有力者であった。 東京美術学校を卒業し、さらに川合玉堂の下で日本画を修行し、帝国美術院展覧会(帝展)などで作品を発表した。 後には俳画に取り組み、自ら主宰する「香蘭会」で指導にあたった。 1952年には第1回横浜文化賞の受賞者のひとりとなった。 飯田は、松尾芭蕉、宝井其角、与謝蕪村らの真筆など、多数の短冊・色紙などからなる俳諧関係の資料を収集したが、このコレクションは神奈川県の県史編集室に寄託され、その後、神奈川県立文化資料館、神奈川県立図書館が管理して現在に至っている。
南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)… 南部 修太郎(なんぶ しゅうたろう、1892年(明治25年)10月12日 - 1936年(昭和11年)6月22日)は、日本の小説家。
小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年(明治25年… 小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年(明治25年)10月11日 - 1977年(昭和52年)5月15日)は、日本の政治家。栃木県(旧)佐野市長を務めた。 安蘇郡佐野町に生まれる。実家は織物業を営んでおり十代で家業を継ぐ。1929年(昭和4年)、佐野町議会議員に就任し以後14年間務める。また、1935年(昭和10年)9月から1939年(昭和14年)9月まで安蘇郡選出の県会議員を務めている。この他に、佐野織物工業組合理事長や日本綿織物工業組合連合会監事なども歴任している。 1942年(昭和17年)、佐野町長に就任。当時の佐野町は周辺の自治体との合併による市制施行を検討しており、小泉はその実現に向けて主導的役割を果たした。
水原 秋桜子(旧字体: 水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし… 水原 秋桜子(旧字体: 水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年〈明治25年〉10月9日 - 1981年〈昭和56年〉7月17日)は、日本の俳人・医師。学位は医学博士。 本名は水原 豊()。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。
松尾 守治(まつお もりじ / もりはる、1892年(明治2… 松尾 守治(まつお もりじ / もりはる、1892年(明治25年)10月9日 - 1973年(昭和48年)8月19日)は、大正から昭和期の土木技術者、内務技官、政治家。山口県下関市長。旧姓・市川。 山口県で市川直彦の七男として生まれ、松尾琢三(衆議院議員松尾寅三の長男、馬関電灯取締役)の養子となる。1913年(大正2年)旧制第三高等学校を卒業[要出典]。1917年(大正6年)九州帝国大学工科大学土木工学科を卒業。一年志願兵として入隊した。 1919年(大正8年)内務省に入省し、下関土木出張所、神戸土木出張所で勤務。1924年(大正13年)欧米に出張し港湾施設を視察。帰国後、下関土木出張所に配属され、下関港、門司港の修築工事を担当した。
黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)1… 黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)10月9日 - 1935年(昭和10年)1月)は、日本の数学者、旧制第一高等学校教授。 東京で杉村彦右衛門の二男として生まれ、外祖父・黒川春村を嗣ぎ、黒河を名乗る。旧制第一高等学校を卒業、1916年(大正5年)東京帝国大学理学部数学科卒業後すぐ第一高等学校の数学講師に就任する。1918年(大正7年)第一高等学校教授を拝命、東京高等師範学校、 東京文理科大学の講師も務める。 「竹のひご」と「えんどう豆」を使った空間幾何学の講義や、三角関数は指数関数で表され、逆三角関数は解析関数であるから、初等関数は結局代数関数、指数関数、対数関数の有限個の組み合わせであるという説明など、教科書を使わずに講義案を周到に準備し、論理学上厳格かつ極めて明快な講義を進めていった。
上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月… 上阪 香苗(こうさか かなえ、1892年〈明治25年〉10月8日 - 1974年〈昭和49年〉12月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身。 旧制滋賀県立膳所中学校より海軍兵学校第43期入校。当時の海軍兵学校は受験を3度までしか認めておらず、上阪は兵学校の受験に2度失敗し、最後の受験で入校が認められた。海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが、大佐進級後は航空に移った点で、戸塚道太郎海軍中将や同期生の有馬正文海軍中将と似た経歴をたどる。太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を務めた以外は、一貫して航空本部補職が続いた。 練習航海で同じ艦に乗組んだ同期生の高木惣吉海軍少将は、死去するまで大親友だった。
土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月… 土居 章平(どい しょうへい、1892年(明治25年)10月6日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。旧姓・八木。 岡山県西西条郡西苫田村上河原(現津山市上河原)出身。八木喜次郎の五男として生まれ、津山市一宮、叔父・土居弥之助の養子となる。津山中学校 、第六高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し山口県属となる。 以後、山口県警視、1923年(大正12年)4月奈良県理事官、愛知県理事官、1927年(昭和2年)2月に欧米出張を命ぜられ1929年(昭和4年)1月に帰朝し、山口県学務部長、内務省社会局事務官、同書記官、岐阜県書記官・警察部長、青森県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、福岡県書記官・経済部長、大阪府経済部長兼大阪府工業奨励館長などを歴任。
村島 喜代(むらしま きよ、1892年10月6日 – 198… 村島 喜代(むらしま きよ、1892年10月6日 – 1982年3月11日)は日本の女性政治家。衆議院議員(1期)。 新潟県出身。1911年新潟県立長岡女子師範学校(現・新潟大学)卒。津田女子英学塾に学ぶ。その後新潟に戻り、新潟県立高等女学校家庭寮寮監などを務める。 戦後の1946年の第22回衆議院議員総選挙に新潟県1区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して2位で当選した。在職中は進歩党婦人部長を務めた。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙で民主党公認で新潟1区から立候補したが落選した。落選後は新潟家庭裁判所調停委員などを務めた。1982年新潟市で死去。
渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 19… 渋沢 秀雄(しぶさわ ひでお、1892年10月5日 - 1984年2月15日)は、東京市出身の実業家・文化人。 渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。幼少時は邸宅の近くにあった日本橋川で泳いでいた。 大学時代の1916年から1917年ころに親戚筋の女性と結婚し、長男の和男(アコーディオン演奏者)・華子(小説家)ら2男2女を成すも離婚する。1917年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。日本興業銀行に勤務したが、1年半勤めて退職。欧米で住宅事情を学び、設立間もない田園都市株式会社に取締役として入社する。この会社は、田園調布や洗足田園都市の計画的で大規模な宅地開発を行い、その開発地区のための鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地の運営も行った。
井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5… 井伊 誠一(いい せいいち、1892年(明治25年)10月5日 - 1985年(昭和60年)1月5日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(7期)。 新潟県北蒲原郡板山村(現新発田市)で、弁護士の井伊小平太の長男として生まれた。新発田中学校(現新潟県立新発田高等学校)、第二高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。神戸海上保険勤務を経て、1922年、弁護士を開業し、農民事件の弁護を数多く担当した。 1926年、労働農民党新潟県連合会執行委員に就任。1927年、労働農民党と日本労農党の共同推薦を受けて新潟県会議員に当選。さらに、新潟県参事会員、新発田町会議員、金銭債務調停委員、県地方事務所参与、借地借家調停委員、新発田中学校講師などを務めた。
中井 光次(なかい みつじ、1892年(明治25年)10月5… 中井 光次(なかい みつじ、1892年(明治25年)10月5日 - 1968年(昭和43年)4月9日)は、日本の政治家、内務官僚。大阪市長(第10・12代)。 静岡県出身。大阪府立市岡中学校6期、1917年に東京帝国大学卒業。内務省に勤務し、各府県の内務部長・警察部長を歴任。1936年4月1日から9月2日まで島根県知事(官選第32代)、同年9月3月から1945年9月7日まで大阪市助役を務める。 1945年9月8日から1946年12月13日まで第10代大阪市長を務める。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選(大阪府選出)、民主党、国民民主党に所属。1951年3月31日まで務めた。 その後第12代(公選2代目)大阪市長に当選(1951年4月25日 - 1963年3月23日)。
大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)… 大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)10月3日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍特攻部長、第7艦隊司令長官を務めた。熊本県熊本市出身。 1892年10月3日、熊本で大森太郎吉の息子として生まれる。熊本中学校卒業。1913年12月、海軍兵学校41期を16番の成績で卒業。在学中に品行善良章を授与された。1914年12月、海軍少尉任官。1919年12月、大尉に昇進。海軍水雷学校高等科を卒業。その後、第15艇隊艇長、葦駆逐艦長、陸奥分隊長、野風水雷長、響駆逐艦長、榛名分隊長を歴任、1925年12月、少佐に昇進、水雷学校教官に着任する。
清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 196… 清水 郁子(しみず いくこ、1892年10月2日 - 1964年6月24日)は、教育学者、教育者、教育評論家・女性問題評論家。崇貞学園経営者、桜美林学園創立者、桜美林学園初代学園長。旧姓小泉。 1892年10月、島根県松江市に生まれる。1895年、弟の誕生後、菅浦の漁民の家の里子となり、幼少期を過ごすが、学齢期を迎えて実家にもどり、尋常小学校に入学した。 小学生時に教会へ通いキリスト教と出会った。地元の中学校卒業後は上京し東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)へ進学、1915年の卒業間近にキリスト教の洗礼を受ける。 東京女子高等師範学校在学中に平塚らいてう他の「青鞜社」の運動に啓発され、女性問題、男子との社会的平等思想に関心を持つようになる。
田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月3… 田中 信男(たなか のぶお、1891年(明治24年)10月30日 - 1966年(昭和41年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30… 木村 惇(きむら あつし、1891年〈明治24年〉10月30日 - 1969年〈昭和44年〉2月12日)は、日本の政治家、内務・外務官僚・外交官。京都府知事を務めた。 1891年10月、宮城県で平民・木村精造の長男として生まれる。旧制第二高等学校を経て、1915年に京都帝国大学法科大学政治科を卒業。 1914年に高等文官試験に合格し、1915年に内務省に入省。東京府内務部農商課長を務めたのち、外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、外務省に転じ、欧米局第一課事務官、在アメリカ合衆国大使館三等書記官・二等書記官、亜細亜局事務官、文化事業部事務官、文化事業部第一課長、第二課長、文化事業部文部書記官、シカゴ領事、マニラ総領事、在ポーランド公使館一等書記官、在ポーランド大使館一等書記官、フィリピン協会常務理事を務めた。
小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10… 小茂田 青樹(おもだ せいじゅ、1891年(明治24年)10月30日 - 1933年(昭和8年)8月28日)は、大正から昭和初期の日本画家。「詩情の画家」と呼ばれる。 埼玉県入間郡川越町(現川越市)に、呉服商・小島徳右衛門の次男として生まれる。本名は小島茂吉。通称は茂。1896年(明治29年)、叔父の養子となり小茂田姓になる。 17歳で上京。当時は川越町と東京市を結ぶ鉄路がなく、寄宿したのが松本楓湖の隣家であった。その縁もあって楓湖の「安雅堂画塾」に入門。なお、同日に、終生ライバル関係となる速水御舟も入門。1913年(大正2年)、第13回巽画会展に出品、原富太郎に買い上げられ、以降、支援を受ける。
向山 均(むこうやま ひとし、1891年(明治24年)10月… 向山 均(むこうやま ひとし、1891年(明治24年)10月29日 - 1978年(昭和53年)7月5日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍造兵中将。貴族院男爵議員。向山慎吉の子。 東京市で海軍士官・向山慎吉の長男として生まれる。父の死去に伴い、1911年(明治44年)1月12日、家督を相続し男爵を襲爵。同年7月、東京帝国大学工科大学に入学し、1914年(大正3年)3月、海軍造兵学生となり同年7月に東京帝大工科大学電気科を卒業した。 1914年7月10日、海軍造兵中技士に任官し横須賀鎮守府附となる。以後、呉海軍工廠水雷部副部員、横須賀海軍工廠造兵部副部員、扶桑乗組、呉工廠水雷部部員、英国駐在、仏国駐在、兼造兵監督官、呉工廠検査官兼水雷部部員、兼海軍兵学校教官、呉工廠水雷部部員、兼呉工廠電気実験部部員、艦政本部員(一部三課)兼造兵監督官、兼連合艦隊司令部附、呉工廠電気部部員、兼海軍砲術学校教官、兼呉工廠電気実験部部員などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍造兵大佐に昇進。
藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月2… 藤井 達二(ふじい たつじ、1891年(明治24年)10月24日 - 1968年(昭和43年)8月9日)は、昭和時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 青森県三戸郡八戸町(現八戸市)に生まれる。1910年(明治43年)県水産試験場付属八戸講習所卒業。1936年(昭和11年)2月の第19回衆議院議員総選挙に青森県第1区から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 戦後、1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に立候補したが辞退し、1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙にも全国区から出馬したが落選した。自由民主党県連合顧問、同副会長を歴任した。ほか、財界では身延木材専務取締役、那須土地取締役、大和木材、青森県農林商事各社長、日本海外興業会長などを務めた。
伊藤 富雄(いとう とみお、1891年10月23日 - 19… 伊藤 富雄(いとう とみお、1891年10月23日 - 1968年1月29日)は、日本の政治家、郷土史家。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)に首席で入学するが、1番でなければ退学という父親の方針があり、3年1学期の時、母親の出産で田植えに追われて2番に下がったため中退。 農業に従事し、1941年中洲村産業組合(現・JA信州諏訪)組合長となる。1945年には中洲村長を兼務した。農業の傍ら、諏訪神社神長官守矢家に残された鎌倉時代から室町時代にかけての古文書解読を志し、中世古文書読解の専門家となった。 日本社会党に入党して農地改革を先導した。
田中 貢(たなか みつぐ、1891年(明治24年)10月21… 田中 貢(たなか みつぐ、1891年(明治24年)10月21日 - 1961年(昭和36年)12月21日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党)。経済学者。 広島県呉市出身。1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、明治大学教授に就任した。1921年(大正10年)より東京帝国大学経済学部講師を兼ね、同年から欧米で経済政策・社会政策を学び、翌年に帰国した。1925年(大正14年)には、明治大学より商学博士の学位を受けた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第22回に至るまで5回当選を果たし、1946年6月22日に議員を辞職した。その間、陸軍省の委嘱でドイツとイタリアの経済・財政政策を視察した。
小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不… 小川 隆(おがわ たかし、1891年10月21日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名小川 義照(おがわ よしてる)、戦後の一時期、老川 健(おいかわ けん)とも名乗った。 1891年(明治24年)10月21日、東京府東京市日本橋区馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)に生まれる。 獣医学校に進学、同学を卒業したが、琵琶の教師になる。島村抱月による芸術演劇学校に入学、抱月らが1913年(大正2年)に設立した「第一次芸術座」に入団して創立メンバーとなり、同年、帝国劇場で上演された『サロメ』で初舞台を踏んだ。1917年(大正6年)に同劇団を脱退した澤田正二郎らが結成した「新国劇」、中田正造の「新声劇」を経て、自らの名を冠した「小川隆一座」を結成した。
村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - … 村島 歸之(むらしま よりゆき、1891年10月20日 - 1965年1月13日)は、日本のジャーナリスト。 自由党衆議院議員滝口帰一の三男として奈良県に生まれる。早稲田大学政治経済学部を卒業する前に母方の姓を継ぎ、村嶋姓となる。1915年、大阪毎日新聞社に入社、売春、風俗、労働問題などに関心を持ち多くのルポルタージュをものする。1925年『歓楽の墓』を上梓して自身の買春を懺悔し、賀川豊彦により洗礼を受ける。以後、廃娼運動家、社会主義者として論陣を張る。谷崎潤一郎が「蓼食ふ蟲」を連載した際は担当記者。1946年賀川とともに平和学園を創設。近年著作選集全5巻が刊行された。長男は社会評論家の村嶋健一。
大木 操(おおき みさお、1891年10月19日 - 198… 大木 操(おおき みさお、1891年10月19日 - 1981年8月13日)は、日本の官僚、政治家。日中戦争期から太平洋戦争末期までの戦時期において衆議院書記官長を務めた。その退任後は、貴族院議員となり、また、東京都副知事を務めた。 東京に生まれ、東京府立第四中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独法科卒業。高等文官試験行政科に合格し、1918年4月5日、会計検査院に採用され、会計検査院書記に任ぜられる。1919年6月28日、副検査官に任ぜられ、海軍省担当として検査事務に当たる。検査先では、当時の財部彪佐世保鎮守府司令長官に水上飛行機に乗せられたり、鈴木貫太郎佐世保工廠長と盃を交わしながら「海軍魂」の説教を受けたりした。
山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1… 山崎 保代(やまざき やすよ、1891年10月17日 - 1943年5月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争(大東亜戦争)中、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。 山梨県南都留郡禾生村(現:都留市)出身。現在の都留市四日市場の岩生山保寿院住職の山崎玄洞の二男として生れる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第15連隊附となる。 1918年(大正7年)4月から1920年(大正9年)12月までシベリア出兵に従軍。同連隊の大隊副官、中隊長を務め、1928年(昭和3年)5月、済南事変に出動。