田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治… 田村 新蔵(たむら しんぞう、前名・章四郎、1892年〈明治25年〉11月13日 - ?)は、日本の政治家、資産家、実業家、埼玉県多額納税者。粕壁町会議員(立憲政友会)。東武商事代表取締役。粕壁町学務委員。粕壁町体育会会長。 埼玉県南埼玉郡粕壁町(現・春日部市)出身。先代・田村新蔵の四男。1910年、粕壁中学校(現・春日部高等学校)を卒業。1914年、早稲田大学大学部商科を卒業。同年麻布入隊、従七位陸軍二等主計。 粕壁銀行専務取締役、同行取締役を務め、一切の行務を統宰する。1936年、父・退隠の後を承け家督を相続し、前名・章四郎を改め襲名した。 農業並びに洋紙、砂糖、小麦粉販売業を営む傍ら、東武商事代表取締役および公職を務めた。
杉溪 由言(杉渓、すぎたに よしとき、1892年(明治25年… 杉溪 由言(杉渓、すぎたに よしとき、1892年(明治25年)11月13日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、大正・昭和期の政治家、奈良華族。貴族院男爵議員。旧名・冷泉為由。 華族・冷泉為勇の長男として生まれ、男爵・杉溪言長の養子となる。1915年(大正4年)6月16日、由言と改名。養父の隠居に伴い、1929年(昭和4年)10月1日、男爵を襲爵した。 1919年(大正8年)7月、東京帝国大学文学部史学科(国史学)を卒業し、さらに1922年(大正11年)同法学部政治学科を卒業した。同年、東京電燈に入社した。また、歌会始講師、同奉行、御歌所参候などを務めた。 1932年(昭和7年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで二期在任した。
朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11… 朝熊 利英(あさくま としひで、1892年〈明治25年〉11月12日 - 1987年〈昭和62年〉7月11日)は、日本の海軍軍人(造兵科士官→技術科士官)。最終階級は海軍技術中将。魚雷設計の天才といわれ、酸素魚雷、特殊潜航艇の開発に貢献した。海軍技術有功章を受章。 兵庫県出身。東京帝大工学部造兵科を卒業。在学中に海軍造兵学生となり、卒業後、海軍造兵中技師(中尉相当)任官。海軍造兵科士官は兵器の設計開発にあたる将校相当官で、後に海軍造船科士官(造船にあたる)・海軍造機科士官(機関の造修にあたる)と合わせて海軍技術科士官と改称された。朝熊は造兵大尉時代まで呉海軍工廠に属し、魚雷部員、砲熕部員を務めている。
栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月1… 栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月11日 - 1964年(昭和39年)1月4日)は、日本の教育者。紫式部や源氏物語の研究者。また、日本で最初に私立大学に入学した女子学生でもあった。 1892年(明治25年)11月11日、山形市で栗山判兵衛と清の次女として生まれる。 山形県立山形高等女学校卒業後、1914年(大正3年)4月に上京。国語学伝習所、二松学舎に学んだ。 1916年(大正5年)4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)となった。 「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。
亀井 貫一郎(かめい かんいちろう、明治25年〈1892年〉… 亀井 貫一郎(かめい かんいちろう、明治25年〈1892年〉11月10日 ‐ 昭和62年〈1987年〉4月7日 )は、日本の外務官僚、政治家。社会民衆党・大政翼賛会所属の衆議院議員。財団法人聖戦技術協会理事長。 旧津和野藩主亀井伯爵家分家・亀井茲迪の長男として東京に生まれる。弟は亀井凱夫(海軍少将、戦死)。茲迪の父(貫一郎の祖父)は谷田部藩第9代藩主細川興貫で、亀井家分家の養子となり、亀井家分家を継いだ。 東京高等師範学校附属小学校、東京高等師範学校附属中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学進学。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。同年10月、外交官及領事官試験合格、外務省入省。
前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 19… 前田 正実(まえだ まさみ、1892年11月10日 - 1953年7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 前田正隆・陸軍大尉の長男として岐阜で生まれる[要検証 – ノート]。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第15大隊付となる。1916年(大正5年)5月、陸軍砲工学校高等科(25期)を優等で卒業。陸地測量部員などを経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1922年12月、工兵第15大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1925年(大正14年)5月から1928年(昭和3年)12月までフィリピンに潜入。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月… 川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月10日 - 1966年〈昭和41年〉6月5日)は、日本の洋画家。和歌山県生まれ。1920年代、パリでアンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールらに学ぶ。帰国後の1930年代、独立美術協会の結成に参加。幻想的で色彩豊かな作風で評価を得た。戦後は国画会に所属し、抽象的な作風へと展開した。東京都で没した。
山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 197… 山崎 斌(やまざき あきら、1892年11月9日 - 1972年6月27日)は、日本の小説家、染織家。 「草木染め」の命名者として知られる。 長野県東筑摩郡麻績村で善光寺街道麻績宿本陣臼井家の三男として生まれ、父の生家・山崎家の養子となる。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、国民英学舎を卒業後、京城日報の記者となったが、1922年作品を島崎藤村に賞賛され作家として歩み始めた矢先、昭和の大恐慌で郷里の養蚕業が打撃を受けたため帰郷。植物染を復活させ「草木染め」と名付け、「草木屋」を創設して編著書を刊行、のち月明会を興す。 息子に染色工芸家で群馬県指定重要無形文化財保持者の山崎青樹、孫に同じく染色工芸家の山崎和樹がいる。
小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1… 小林 英三(こばやし えいぞう、1892年11月9日 – 1972年11月7日)は、日本の政治家、実業家。厚生大臣(第27代)。参議院議員(3期)。 広島県尾道市久保町生まれ。1917年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を卒業後、埼玉県川口町(現川口市)に移り住む。1920年に(株)国際重工業を創立し社長となる。発明家としても知られ、農家で使う「籾殻かまど」や「俵締機」などの新製品を開発し業績を伸ばした。取得した特許や実用新案は200以上にのぼるという。その他、川口コークス(株)、(株)寿屋を設立し会長となる。 社業のかたわら、川口鋳物工業協同組合理事長、川口工業健康保険組合理事長を務め、地元経済界の重鎮として活動するとともに、日本鋳物工業会会長、埼玉県経営者協会会長等も歴任した。
田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 19… 田坂 専一(たさか せんいち、1892年11月8日 - 1979年12月31日)は、日本の陸軍軍人。陸士27期・陸大38期。最終階級は陸軍中将。 輜重兵科出身の陸軍中将14名の一人(輜重兵科から陸軍大将は出ていない)。戦後に67歳で中央大学法学部を卒業している。 愛媛県出身。農業・田坂儀平の長男。西条中学校(現:愛媛県立西条高等学校)を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官、輜重兵第2大隊付。1926年(大正15年)11月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 陸大卒業後は、輜重兵第2大隊中隊長、教育総監部付勤務、陸士教官、留守第9師団参謀、第9師団参謀、陸大教官を経て、1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍参謀に発令されて日中戦争に出征、さらに第2軍参謀となった。
平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 … 平林 初之輔(ひらばやし はつのすけ、1892年11月8日 - 1931年6月15日)は、日本の文芸評論家・推理作家・翻訳家。プロレタリア文学運動の理論家として知られる。 京都府竹野郡深田村字黒部(後の竹野郡弥栄町黒部、現在の京丹後市弥栄町黒部)に生まれる。1917年9月、早稲田大学文学部英文科に入学、片上伸や吉江喬松らに親しんだ。また、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。早稲田大学卒業後、やまと新聞に入社、同紙の文芸時評欄を担当するとともに、ヴィクトル・ユゴーなどフランス文学の小説を翻訳して掲載する。1920年、労働争議を契機に同新聞を退社、この前後に、青野季吉、市川正一と知り合い交際が始まり、ともに国際通信社に就職する。
寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月… 寺島 紫明(てらじま しめい、1892年〈明治25年〉11月8日 ‐ 1975年〈昭和50年〉1月12日)とは、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 鏑木清方の門人。名は徳重、兵庫県明石郡明石町字樽屋町にて生れる。父は綿布問屋柿屋の当主寺島徳松、母は「とし」。上に二人の姉がいる三人兄弟の末っ子であった。幼少時は病弱で尋常小学校に通う頃から健康になったが、当時の男の子に似合わぬおとなしい気性で、姉たちとままごとなどしたりするのを母としは案じた。やがて徳重は九つになると読書に熱中するとともに、目に付くものをスケッチするようになり、十一になると『源氏物語』を原文で読破する。しかしこの徳重の様子に、親や姉また親類の者は将来を心配するばかりであったという。
神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年… 神戸 眞(かんべ しん、1892年11月8日 - 1967年7月13日)は、日本の政治家。愛知県小牧市長(3期)、衆議院議員(2期)、愛知県会議員(4期)、篠岡村長などを歴任した。 愛知県東春日井郡陶村(現小牧市)生まれ。1906年(明治39年)3月、小牧町小牧尋常高等小学校(現小牧市立小牧南小学校)卒業。 1929年(昭和4年)3月、篠岡村会議員に就任。その後、愛知県会議員、篠岡村長などを務め、1942年(昭和17年)10月8日から1945年(昭和20年)12月3日まで県会議長を務めた。 戦後、最初に行われた1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大選挙区制の旧愛知1区から日本進歩党公認で立候補し初当選。
金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 -… 金子 鷹之助 (かねこ たかのすけ、1892年11月7日 - 1951年5月7日)は、日本の歴史学者。東京商科大学(現一橋大学)教授を務めたが、日本の降伏後、教職追放令により免官された。 京都市出身。京都府立第二中学校(のちの京都府立鳥羽高等学校)卒業後、1915年東京高等商業学校(のちの一橋大学)本科卒業。1917年同専攻部貿易科を総代で卒業し、同校講師に就任。上田貞次郎門下。1919年同校教授。 1920年東京商科大学附属商学専門部教授。同年から1923年までイギリス、フランス、ドイツに留学。のち、東京商科大学教授兼附属商学部教授となり、1938年に全国高商文化聯合会が設立されると会長に就任。
湯村 辰二郎(ゆのむら たつじろう、1892年(明治25年)… 湯村 辰二郎(ゆのむら たつじろう、1892年(明治25年)11月6日 - 1974年)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県伊具郡角田町(現在の角田市)に宮城商業銀行頭取湯村保治の二男として生まれる。1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。1918年(大正7年)に朝鮮総督府試補となり、道事務官、総督官房会計課長、土地改良課長事務取扱、土地改良部開墾課長を歴任し、1927年(昭和2年)に欧米各国に出張した。帰国後、忠清北道内務部長、殖産局農務課長、農林局農務課長、同農産課長を経て、1935年(昭和10年)に咸鏡南道知事となった。さらに京畿道知事を経て、1937年(昭和12年)に農林局長に就任した。
保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 196… 保篠 龍緒(ほしの たつお、1892年11月6日 - 1968年6月4日)は、日本の作家、翻訳家。『アサヒグラフ』編集長。竜緒という表記もある。本名は星野辰男。 モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン(リュパン)」シリーズの翻訳で知られる。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)出身。旧制東京外国語学校仏語科卒業。卒業後は文部省勤務。1918年、東京市神田区の書店で、ルブラン作「怪盗紳士ルパン」フランス語原書を見かけ、ユニークな題名にひかれて購入、読んでみたら保篠自身が内容の面白さに引き込まれ翻訳をしたと伝えられる。 文部省役人としての立場上、本名で翻訳活動にあたることを憚り、本名の漢字を入れ替えて筆名とした。
香川 兼吉(かがわ かねきち、1892年(明治25年)11月… 香川 兼吉(かがわ かねきち、1892年(明治25年)11月5日 - 1967年(昭和42年)6月17日)は、日本の獣医師、政治家。衆議院議員。 北海道出身。1913年、日本獣医学校を卒業。帰郷して獣医師を開業。 北海道会議員、同参事会員、空知馬商組合長、北海道獣医師会副会長、北海道馬商連合会副会長、新十津川村産業組合長、同農業会副会長、北海道自動車運輸取締役、北海道北方製薬会社取締役などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で北海道第一区から日本協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。この間、協同民主党政調会運輸部長となった。
寺嶋 宗一郎(てらしま そういちろう、1892年(明治25年… 寺嶋 宗一郎(てらしま そういちろう、1892年(明治25年)11月5日 - 1969年(昭和44年)1月5日)は、日本の社会運動家、政治家。初代大阪府枚方市長、同市名誉市民。 大阪府交野郡山田村中宮(のち北河内郡山田村、現枚方市)で生まれる。小学校高等科1年を修了した。 1919年、大阪砲兵工廠の職工に採用され、農業も営んだ。農民運動に加わり、1922年、日本農民組合(日農)山田支部の結成、農民学校の開設を行う。1925年、日農大阪府連が設立し常務書記兼主筆に就任。日本労農党に入党し、山田村会議員、枚方町会議員、大阪府会議員などを務めた。 戦後、日本社会党に入党。1946年4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区(当時)から諸派として立候補したが落選。
澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年… 澁澤 金三郎(しぶさわ きんざぶろう、1892年〈明治25年〉11月3日 - 1970年〈昭和45年〉3月8日)は、日本の会社役員、銀行家。三菱銀行取締役。三菱電機監査役。 群馬県新田郡太田町(現太田市)出身。1915年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。第百銀行に入り大阪支店次長、横浜・丸ノ内各支店長を歴任し三菱銀行に転じ郵船ビル支店長、本店審査部副長、日本橋支店長を経て1947年、取締役に就任。 質商・初代澁澤金蔵の孫。二代目澁澤金蔵の二男。三代目澁澤金蔵の弟。趣味はスポーツ。宗教は浄土宗、仏教。住所は東京世田谷区玉川奥沢町 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
8代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)… 8代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、東京の落語家。本名∶並河 益義。位階は従五位勲四等、勲章は瑞宝章および旭日小綬章(死没時追贈)。 自宅住所から、「黒門町」「黒門町の師匠」「黒門町の文楽」などと呼ばれた。演じた演目の種類は多くはなかったが徹底的に練りこまれているとの定評がある。 落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の5代目古今亭志ん生と併び称された。志ん生の八方破れな芸風とは対照的に、細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしない完璧主義により、当時の贔屓を二分する人気を博した。 母は並河いく。並河家は武家で、常陸宍戸藩主松平家の家来筋。
神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年… 神山 栄一(榮一、かみやま えいいち、1892年(明治25年)11月3日 - 1952年(昭和27年)6月25日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 新潟県古志郡長岡町(現長岡市表町二丁目)で、神山敬太郎の長男として生まれた。1907年(明治42年)新潟商業学校(現新潟県立新潟商業高等学校)を卒業した。 1912年(大正元年)12月、一年志願兵として入隊し、1916年(大正5年)3月、陸軍歩兵少尉に任じられた。以後、新潟市在郷軍人会副会長、同市在郷軍人会連合分会阪之上区分会長、同市軍友会幹事を務めた。 肥料・砂糖・麦粉等の卸問屋を営み、1926年(大正15年)12月、親族で合資会社神山商店に改組し代表社員に就任。
松田 正之(まつだ まさゆき、1892年(明治25年)11月… 松田 正之(まつだ まさゆき、1892年(明治25年)11月2日 - 1976年(昭和51年)5月2日)は、日本の逓信・拓務官僚、政治家。南洋庁長官、貴族院男爵議員。旧名・定之助。 東京府出身。有馬頼萬の三男として生まれ、松田正久の養子となる。養父の死去により、1915年9月1日、男爵を襲爵。学習院を経て、1916年7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1917年3月、帝室博物館属となり、1920年6月まで在任。 1920年10月、高等試験行政科試験に合格し、同年11月、逓信局書記兼逓信属となる。以後、同事務官、地方海員審判所審判官兼逓信局事務官、兼逓信省事務官などを歴任。1923年4月、拓務事務局書記官兼内閣書記官に転じた。
宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)1… 宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家。孫文の盟友の宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌子。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。 熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)で宮崎滔天・槌子夫妻の長男として生まれた。父の滔天は革命運動に打ち込んで家庭を顧みないため、お嬢様育ちであった母・槌子が慣れない石灰販売などで必死で働いて子供達を育てた。槌子は、自由民権運動の闘士であった前田案山子の子として育ったことから、夫の滔天の思想や活動にも理解があり協力的だった。
藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)1… 藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)11月1日 - 1969年(昭和44年)10月29日)は、日本の弁護士、裁判官。公安調査庁初代長官。 山口県下関市出身。藤井啓一の長男。豊浦中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所判事となり、裁判長として河上肇の治安維持法違反事件では実刑を、血盟団事件では温情判決を、帝人事件では全員無罪を言い渡した。その後大審院判事。戦後は弁護士を経て、1952年、公安調査庁の初代長官となる(~1962年)。1969年10月29日死去、76歳。
青木 善祐(あおき よしすけ、1892年〈明治25年〉11月… 青木 善祐(あおき よしすけ、1892年〈明治25年〉11月1日 - 1974年〈昭和49年〉8月14日)は、日本の内務官僚、政治家。長崎市長、宮崎県宮崎市長、延岡市長を歴任した。 宮崎県東臼杵郡延岡町(現在の延岡市)出身。師範学校を卒業した後、1917年(大正6年)に中央大学専門部法科を卒業し、翌年に高等試験に合格した。鉄道院書記を経て、内務属、茨城県警視、岡山県理事官、熊本県事務官・地方課長、大阪府事務官・地方課長、同商務課長、山形県書記官・学務部長、同警察部長、熊本県書記官・警察部長を歴任した。 1935年(昭和10年)11月2日、長崎市助役に就任。1938年(昭和13年)8月29日、助役を退任し、長崎市長となった。
足立 収(あだち おさむ、1892年(明治25年)11月 -… 足立 収(あだち おさむ、1892年(明治25年)11月 - 1962年(昭和37年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。旧姓・秋田。 高知県出身。秋田広吉の二男として生まれ、足立喜代と結婚して足立に改姓。第三高等学校を首席で卒業。1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、福井県理事官、兵庫県理事官、内務書記官、内務事務官、宮城県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、北海道庁部長・学務部長、兵庫県書記官・警察部長、静岡県書記官・総務部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任。 1937年10月、栃木県知事に就任。
城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月3… 城戸 豊吉(きど とよきち、1891年(明治24年)11月30日 - 1965年(昭和40年)7月14日)は、日本の実業家、政治家。城戸商店(現ヤマキ)創業者で、同社社長や、初代伊予市長、全国削節工業組合連合会理事長を務めた。 愛媛県伊予郡北山崎村(現伊予市)出身。弓削商船学校(現弓削商船高等専門学校)中退。1908年城戸豊吉商店を創業し、削り節の製造・販売で成功した。1931年東京支店を設立し、長男城戸稔を支店長に任命。1940年全国削節工業組合連合会理事長。1950年城戸商店(現ヤマキ)設立。 郡中町長を経て、1955年初代伊予市長。1958年黄綬褒章受章。1965年に死去し市葬が行われた。
9代 森 六郎(もり ろくろう、1891年(明治24年)11… 9代 森 六郎(もり ろくろう、1891年(明治24年)11月29日 - 1974年(昭和49年)3月2日)は、日本の政治家。実業家。元徳島市長。徳島県小松島市出身。 勝浦郡芝生村(現在の小松島市芝生町)の仙石鹿太郎の次男として生まれる。幼名は茂之。 1913年(大正2年)に農商務省水産講習所製造科(現在の東京海洋大学)を卒業し、1914年(大正3年)に森家へ養子に入り、8代目森六郎の長女・純と結婚。1931年(昭和6年)に森六郎を襲名し家督を相続して9代目となった。 1932年(昭和7年)に日本人造藍販売株式会社の社長に就任。1942年(昭和17年)、第二次世界大戦中に徳島市長に就任。終戦直前の1945年(昭和20年)4月まで市長を務めた。
宮城 文(みやぎ ふみ、1891年〈明治24年〉11月28日… 宮城 文(みやぎ ふみ、1891年〈明治24年〉11月28日 - 1990年〈平成2年〉2月4日)は、日本の教育者、民俗研究家、郷土史家。南西諸島西部の八重山列島の文化を集大成した書籍『八重山生活誌』の著者として知られる。 沖縄県の石垣島登野城で誕生した。沖縄県立第一高等女学校を卒業後、教員として登野城尋常小学校を始めとし、20年間にわたって初等教育に従事した。女子青年団長や婦人会長も務めた。 終戦後の1948年(昭和23年)、八重山で初めて女性に参政権が与えられ、第1回石垣市議で、婦人議員として初当選した。長年の教員生活や婦人会長などの経験で、市民の生活に通じていたことから、税査定の訂正のために貢献した。
平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年>… 平野 繁太郎(ひらの しげたろう、1891年 <明治24年> 11月27日 - 1993年 <平成5年> 2月23日 )は、日本の経営者。静岡銀行頭取を務めた。位階は正四位。 静岡県出身。1915年に慶應義塾理財科を卒業し、1917年6月に西遠銀行に入行し、1920年1月には遠江銀行常務に就任。1943年3月には静岡銀行専務に就任し、1949年6月には頭取に昇格した。1970年4月から1975年5月までには会長を務めた。1958年7月から1969年5月までに全国地方銀行協会会長を務めた。1957年に黄綬褒章と紺綬褒章を受章し、1972年11月には勲二等瑞宝章を受章。 1993年2月23日、肺炎のために死去。
古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月2… 古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月26日 - 1979年(昭和54年)3月28日)は、日本の心理学者である。別名に壺井 潔(つぼい きよし)がある。 熊本県熊本市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)にて哲学科に所属し、後に同じく心理学者となる浜中浜太郎、黒田亮らと共に心理学を学ぶ。1915年(大正4年)に卒業を迎えたが、その後も同大学に残留し経済学科に所属した。1920年(大正9年)に卒業後は、旧制の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)より留学のため渡米し、その後はイギリスにてロンドン大学に入学する。
大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年… 大錦 卯一郎(おおにしき ういちろう、1891年(明治24年)11月25日 - 1941年(昭和16年)5月13日)は、大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第26代横綱。本名は細川 卯一郎(ほそかわ ういちろう)。 1891年(明治24年)11月25日に大阪府大阪市南区鍛冶屋町(現:大阪府大阪市中央区)で宮師の長男として生まれる。当時の力士としては珍しく旧制天王寺中学校卒業で、非常に頭が良かった。さらに運動神経抜群だったことから陸軍幼年学校を受験したが、体重超過で不合格となってしまった。ある日、常陸山谷右エ門に対して入門を願う手紙をローマ字で書いたところ、その返事もローマ字で書かれていたことに感激し、出羽海部屋へ入門、1910年(明治43年)1月場所で初土俵を踏む。
米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1… 米川 正夫(よねかわ まさお、1891年11月25日 - 1965年12月29日)は、日本のロシア文学者、翻訳家。 1891年、岡山県高梁町の質屋を営む家庭に四男として生まれ育つ。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)時代にツルゲーネフ『片恋』(訳:二葉亭四迷)を愛読、ロシア語の道を志して、1909年、東京外国語学校(通称・外語/現・東京外国語大学)ロシヤ語本科に入学。翌年、級友の中村白葉などと共に雑誌『露西亜文学』を創刊し、この雑誌で翻訳を始める。1912年、東京外国語学校を首席で卒業。 卒業後、鉄道省の採用試験を受験するも失敗。しばらくフリーランスの翻訳や来日ロシア人の通訳で生計を立てた。1912年8月、三菱に入社し、長崎支店に勤務。
羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 19… 羽仁 路之(はに みちゆき、1891年11月25日 - 1980年7月12日)は、日本の経営者。太平鉱業社長。位階は正四位。 山口県萩市出身。1917年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年4月に三菱合資会社鉱山部に入社。1918年4月に三菱鉱業に転じ、1946年11月に取締役に就任し、1950年4月に太平鉱業(のちの三菱金属鉱業)社長に就任。1956年5月には相談役に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1966年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1980年7月12日肺炎のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24… 竹内 良三郎(たけうち りょうざぶろう、1891年(明治24年)11月24日 - 1984年(昭和59年)11月1日)は、松商学園短期大学第3代学長。 法学者、経済学者として長く大学教員の職にあったが、「学究というよりは行政官として活躍」したと評されている。 長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に進み、1917年に卒業、宝田石油に入社し、1919年に日本製粉に転職した。 1920年に第五高等学校教授となり、教員として法制・経済を講じるとともに、生徒監兼舎監となった。当時は、校友会誌『龍南』に小説などを寄稿したこともあった。 1927年に東京帝国大学農学部助教授となり、1928年には学生主事、1929年の学生課新設に際して初代の学生課長となって、滝川事件前後の左翼学生の処分などに対処した。
池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉… 池長 孟(いけなが はじめ/たけし、1891年〈明治24年〉11月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、日本の教育者、美術品収集家。旧姓井上、号は南蛮堂。植物学者である牧野富太郎の研究を経済面で支援したことでも知られる。谷崎潤一郎とも交流があり、1940年春に自らの美術館の開館式に招いた。 1891年(明治24年)11月24日に井上德左衞門の長男として 神戸市に出生。幼少時に叔父で神戸市議会議長を務めた池長通の養子に入り池長姓に改姓。池長家は、江戸時代から続く瓦屋や貸金業を祖父吉佐衛門の代(明治5年)にたたんで、兵庫一帯の土地を買い付け柳原や門口町、白川村などで住宅や不動産の賃貸業を指揮する。
久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23… 久米 正雄(くめ まさお、1891年(明治24年)11月23日 - 1952年(昭和27年)3月1日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀(さんてい)。“微苦笑”という語の造語者として有名。 芥川龍之介らと第三、四次「新思潮」同人となる。理知的な作風から、のち感傷的作風の通俗小説に転じた。作品に戯曲『牛乳屋の兄弟』(1914年)、小説『受験生の手記』(1918年)、『破船』(1922年)など。 永井龍男は義弟(永井の妻が久米の妻の妹)。 長野県上田市生まれ。父・由太郎は江戸出身で町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、正雄が生まれた。父は1898年(明治31年)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。
中沢 三夫(なかざわ みつお、1891年11月23日 - 1… 中沢 三夫(なかざわ みつお、1891年11月23日 - 1980年11月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県出身。農業・中沢勘四郎の三男として生まれる。日川中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第50連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1922年(大正11年)4月から翌年3月まで陸軍委託学生として東京外国語学校でドイツ語を学んだ。1923年(大正12年)7月、ドイツに留学。1924年(大正13年)5月、参謀本部付となり、参謀本部員、陸大教官、歩兵第44連隊付、陸士教官、参謀本部員(戦史課)などを経て、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し歩兵第18連隊長に就任。
福田 得志(ふくだ とくし、1891年11月23日 - 19… 福田 得志(ふくだ とくし、1891年11月23日 - 1975年10月4日)は、日本の医学者、薬理学者。鹿児島大学第2代学長・名誉教授、鹿児島県立大学元学長、九州大学名誉教授、日本薬理学会名誉会員、医学博士。フグ毒やハブ毒研究の権威だった。 熊本県宇土郡宇土町(現宇土市の一部)生まれ、下益城郡松橋村(松橋町を経て現宇城市の一部)出身。旧制熊本中学校(熊本県立熊本高等学校の前身)を経て、1912年に第五高等学校大学予科第三部(医科志望)を卒業。1916年12月に東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)を卒業して、副手として薬物学教室入りし、高橋順太郎、林春雄各教授に師事。1918年9月、東京帝国大学附属医院三浦内科に転じ、三浦謹之助教授のもと内科一般を修める。
石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 … 石橋 鞆次郎(いしばし ともじろう、1891年11月20日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 石橋次作の二男として、福岡県早良郡田隈村に生まれる。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学英語第一法律科(司法科)卒業。 1921年判事に任官し、長崎地方裁判所、福岡地方裁判所、熊本地方裁判所、鹿児島地方裁判所、大分地方裁判所、1947年11月福岡高等裁判所の各判事を務めた後、1951年12月佐賀地方裁判所所長兼佐賀家庭裁判所所長を経て、1954年10月鹿児島地方裁判所所長兼鹿児島家庭裁判所所長に就任。
伊藤 武彦(いとう たけひこ、1891年 (明治24年)11… 伊藤 武彦(いとう たけひこ、1891年 (明治24年)11月20日 - 1939年(昭和14年)10月27日)は、日本の内務官僚。県知事。 岐阜県出身。伊藤伊八郎の三男として生まれる。第八高等学校を経て、1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、内務省に入り、富山県属となる。 以後、富山県警視、千葉県市原郡長、朝鮮総督府秘書官、内務省参事官、内務大臣秘書官、内務書記官、警保局庶務課長、土木局道路課長、同港湾課長、衛生局保健課長などを歴任。 1931年12月、岐阜県知事に就任。以後、滋賀県知事、福島県知事を歴任。1937年7月、岡山県知事となる。
則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年(明治24年)1… 則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年(明治24年)11月20日 - 1944年(昭和19年)7月16日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 長崎県長崎市出身。父は衆議院議員則元由庸。長崎県立長崎中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年に長崎市で弁護士を開業した。1930年(昭和5年)、長崎日日新聞社副社長に就任した。 1921年(大正10年)より長崎市会議員に6度当選し、副議長にも選出された。また1923年(大正12年)より長崎県会議員に3度当選し、副議長に選出された。 1938年(昭和13年)、衆議院に補欠当選を果たし、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙でも再選された。
広瀬 豊作(ひろせ とよさく、旧字体: 廣瀨豐作、1891年… 広瀬 豊作(ひろせ とよさく、旧字体: 廣瀨豐作、1891年11月17日 - 1964年4月12日)は、大正・昭和期の大蔵官僚。鈴木貫太郎内閣での大蔵大臣。石川県金沢市出身。位階および勲等は正三位勲一等。 元加賀藩士知行100石の広瀬嘉次馬の5男として生まれる。広瀬家の先祖官兵衛は浅井家家臣であったが、滅亡したため前田家の家臣となった。父は京都御所警備や北越戦争に従軍し、第三大隊分隊長となった。 金沢一中(同級にミッドウェー海戦にて戦死した航空母艦「加賀」艦長・岡田次作海軍少将がいる)、第一高等学校を経て、1917年に東京帝国大学独法科を卒業する。同年7月大蔵省に入省。同期には大蔵次官を後に務めた賀屋興宣と大野龍太がいた。
阿部 利雄(あべ としお、1891年11月16日 - 199… 阿部 利雄(あべ としお、1891年11月16日 - 1990年)は、日本の経営学者・地方公務員。専門は人事労務管理論。学校法人北海道産業学園初代理事長。北海道の山鼻屯田(現札幌市中央区)生まれ。
市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月… 市岡 忠男(いちおか ただお、1891年(明治24年)11月15日 - 1964年(昭和39年)6月23日)は、日本の野球選手(捕手)・監督、プロ野球球団経営者。日本競輪学校初代校長。
松浦 新之助(まつうら しんのすけ、1891年〈明治24年〉… 松浦 新之助(まつうら しんのすけ、1891年〈明治24年〉11月15日 - 1975年〈昭和50年〉4月6日)は、日本の化学者。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は理学博士(東京帝国大学・1934年)。九州大学名誉教授。 広島高等工業学校教授、九州帝国大学理学部教授、九州帝国大学理学部学部長(第2代)、九州大学理学部教授、九州大学理学部学部長(初・第4代)、静岡女子短期大学学長(第3代)、静岡女子大学学長(初代)などを歴任した。 静岡県出身の化学者である。ラドンや弗素の研究などで知られていた。広島高等工業学校、九州帝国大学、九州大学で教鞭を執った。九州帝国大学理学部としては最後の学部長であり、同時に九州大学理学部としては最初の学部長である。
山県 三郎(やまがた さぶろう、旧字体: 山縣 三郞、189… 山県 三郎(やまがた さぶろう、旧字体: 山縣 三郞、1891年(明治24年)11月13日 - 1966年(昭和41年)10月1日)は、日本の内務・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。官選栃木県知事。 東京府出身。公爵山県伊三郎の三男として生まれる。学習院を経て、1917年7月、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。同年11月、内務省に入省し東京府属となり内務部工務課勤務となる。 1920年3月、東京府理事官・内務部工務課長に就任。以後、同府内務部社会課長、福岡県理事官・内務部庶務課長、地方事務官・福岡県勤務、大阪府勤務、茨城県書記官・学務部長、朝鮮総督秘書官兼朝鮮総督府事務官、専任朝鮮総督府事務官、全羅南道内務部長、神奈川県書記官・学務部長、山形県書記官・内務部長、栃木県書記官・総務部長を歴任。
古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年〈明治24年〉11… 古野 伊之助(ふるの いのすけ、1891年〈明治24年〉11月13日 - 1966年〈昭和41年〉4月24日)は「同盟通信社」を運営した日本の通信事業経営者。 1891年11月13日、三重県朝明郡富田村(現在の四日市市)に織物業を営む古野宗七の長男として生まれた。5歳のとき、父が事故で亡くなると一家は経済的に逼迫した。高等小学校を卒業した年に上京。洋品店の小僧、次いで株屋の店員として働きながら神田の国民英学校へ通った。1909年から京橋区瀧山町六番地のAP通信東京支局で給仕として働いた。当時の支局長は元ワシントン・ポスト特派員のジョン・ラッセル・ケネディ(John Russel Kennedy)というアイルランド人であった。
笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)1… 笹田 直二郎(ささだ なおじろう、1891年(明治24年)11月12日- 1955年(昭和30年) )は、日本の鉱山技師であり実業家でもある。日窒鉱業(現:ニッチツ)取締役。日窒コンツェルン首脳陣の一人。野口遵の鉱山業における片腕となり活躍した。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)に岡山県上房郡松山村(現:高梁市)の笹田三太郎の次男として誕生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1911年(明治44年)同校を卒業、第一期生として秋田鉱山専門学校(現:秋田大学鉱山学部)冶金学科へ入学する。 同校では、夏期に1・2年生は、教官同伴で4~5週間の実習、3年生では、各自実習と称して企業で働く、今のインターンシップの様な制度があった。