渡辺 豊日子(わたなべ とよひこ、1885年(明治18年)1… 渡辺 豊日子(わたなべ とよひこ、1885年(明治18年)11月3日 - 1970年)は、朝鮮総督府官僚。男性。 熊本県阿蘇郡白水村(南阿蘇村)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。同年、高等文官試験に合格し、東京府属となった。宮城県理事官・視学官、愛知県理事官・視学官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府事務官となった。内務局第一課長、監察官・地方課長、殖産局農務課長・土地改良課長、山林部長を歴任。1930年(昭和5年)、慶尚南道知事となり、さらに学務局長に就任した。 退官後は、鮮満拓殖株式会社理事・監事を務め、1939年(昭和14年)からは朝鮮林業開発株式会社社長を務めた。
白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年… 白 南薫(ペク・ナムン、朝鮮語: 백남훈/白南薰、1885年11月3日 - 1967年6月28日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、政治家。第5代韓国国会議員。 本貫は水原白氏。号は解慍、初名は白南勛、児名は長孫。キリスト教徒。 黄海道殷栗郡出身。19歳の時に長連公立小学校を卒業。20歳でキリスト教に入信した。1905年、長連イエス教会が設立した光進学校の教員となり、金九、蔡元瑢と共に長連郡学務委員を務め、海西教育総会の結成にも関与した。その後は儆新学校と普成学校の聴講生を経て、1913年に明治学院、1917年に早稲田大学政経科をそれぞれ卒業した。在学中に学生運動、独立運動に参加し、特に1919年の二・八独立運動を幕後で実務を担当した。
河野 暁(こうの さとる、1885年(明治18年)11月1日… 河野 暁(こうの さとる、1885年(明治18年)11月1日 - 1927年(昭和2年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 広島県佐伯郡水内村(現在の広島市佐伯区)出身。第四高等学校を経て、1909年(明治42年)、京都帝国大学法科大学を卒業した。大韓帝国司法部検事、統監府判事、公州地方裁判所判事、大邱地方裁判所判事を歴任した。1911年(明治44年)、退官して広島市に弁護士事務所を開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
大杉 繁(おおすぎ しげる、1885年11月1日 - 197… 大杉 繁(おおすぎ しげる、1885年11月1日 - 1971年12月18日)は、日本の農学者(土壌学)。学位は農学博士(1920年)。静岡女子短期大学名誉学長、京都大学名誉教授。 盛岡高等農林学校教授、財団法人大原奨農会農業研究所化学部部長(初代)、京都帝国大学農学部教授、京都帝国大学農学部学部長(初代)、岡山農業専門学校校長(初代)、静岡県立静岡農林専門学校校長(初代)、静岡県立静岡農科大学学長(初代)、静岡大学農学部教授、静岡大学農学部学部長(初代)、静岡大学学長(第2代)、静岡大学工業短期大学部学長(初代)、静岡大学法経短期大学部学長(初代)、静岡県教育委員会委員長、静岡女子短期大学学長(第2代)などを歴任した。
日野 武雄(ひの たけお、1885年〈明治18年〉11月1日… 日野 武雄(ひの たけお、1885年〈明治18年〉11月1日 - 1938年〈昭和13年〉9月28日)は、日本および満州国の軍人。陸軍騎兵大尉で予備役編入後、満洲国軍に参加して日系軍官最初の部隊長となり少将、死後中将特進。 大分県別府市出身。本籍は速見郡南由布村。6人兄弟の末っ子で、中学卒業後に現役志願し、騎兵上等兵として日露戦争に従軍。曹長だった1910年11月、陸軍騎兵実施学校を優等卒業し、銀時計を下賜される。 1917年(大正6年)10月26日、准尉候補者1期生として陸軍士官学校を卒業し、シベリア出兵に参加。少尉任官後も騎兵第12連隊に所属したが、1922年より軍馬補充部に出向し、北海道の川上支部や宮崎県の高鍋支部部員として各地で軍馬の供給・育成に取り組んだ。
小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 19… 小泉 秀雄(こいずみ ひでお、1885年11月1日 - 1945年1月18日)は、日本の植物学者・登山家。高山の植物、地衣類、蘚苔類の研究で知られる。 植物学者の小泉源一は実兄。 山形県米沢市にて、旧米沢藩士の家に生まれる。盛岡高等農林学校に学ぶが中退して中学教員となった。山形県内の中学校に勤務後、1911年、北海道庁立上川中学校の教員となった。この間大雪山に登り、地形・地質の調査と植物採集を行い、日本山岳会の機関紙『山岳』に記事を寄稿し、研究調査結果を、『大雪山 登山法及び登山案内』として1926年に刊行したことから、「大雪山の父」と呼ばれるようになった。その後高知県立第三中学校を経て、長野県立女子師範学校、松本高等学校の講師となり、長野県内、関東、近畿の山岳や名勝を調査した。
笠間 杲雄(かさま あきお 1885年11月 - 1945年… 笠間 杲雄(かさま あきお 1885年11月 - 1945年4月1日)は、日本の外交官。戦前日本においては数少ないイスラーム圏に関する専門家の一人であり、また阿波丸事件の犠牲者としても知られている。 東京府東京市神田区神田末広町(現在の東京都千代田区外神田三丁目)の出身。富山県出身の師範学校教師で神職の野中武雄(1848-1902)の三男として生まれ、母方の笠間家を継ぎ、石川県金沢で育つ。 一高を経て1909年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業、高等文官試験に合格し、鉄道院参事として米国に駐在。1918年に外務省参事官兼外務事務次官としてパリ講和会議に参加し、平和条約実施委員としてフランス滞在。
堀合 由巳(ほりあい よしみ、1885年(明治18年)11月… 堀合 由巳(ほりあい よしみ、1885年(明治18年)11月 - 1929年(昭和4年)3月6日)は、盛岡市長。弁護士。 岩手県盛岡市出身。第二高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年、司法官試補となり、浦和地方裁判所に赴任した。1912年(明治45年)、盛岡市に弁護士を開業。盛岡市会議員、同副議長に選出された。1923年(大正12年)、盛岡市から岩手県会議員に当選。1926年(大正15年)には岩手県参事会員になった。 1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙において岩手2区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが次点で落選した。 1929年1月、盛岡市長に就任したが、3月に死去した。
双川 喜一(ふたがわ きいち、1885年(明治18年)11月… 双川 喜一(ふたがわ きいち、1885年(明治18年)11月 - 1966年(昭和41年)7月12日[要出典])は、日本の警察官僚である。号は一真斎。 千葉県出身。双川兼吉の四男として生まれる。1908年(明治41年)、明治大学本科英語法科を卒業。文官高等試験行政科試験に備えるために東京外国語学校夜学英語専修科にも通った。1912年(大正元年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務省に入省したが内務省に移り、1913年(大正2年)、愛知県警部に任官。 香川県警察部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、新潟県警察部長を歴任した。1933年(昭和8年)7月31日、休職新潟県書記官を依願免本官となり退官した。
東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25… 東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25日 - 1925年(大正14年)6月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。ジャーナリスト。号は孤竹。 鹿児島県出水郡上出水村(現在の出水市)出身。鹿児島中学校を卒業後、『鹿児島新聞』の記者となった。その後の1917年(大正6年)に中央大学を卒業した。内務省・鉄道省の嘱託として、アメリカ合衆国・メキシコ・中華民国・フィリピン・ボルネオ島・ジャワ島・マレー半島・南洋諸島・シベリアなどを調査した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。同年の第15回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
菊池 英彦 (きくち ひでひこ、1884年11月23日 - … 菊池 英彦 (きくち ひでひこ、1884年11月23日 - 1972年11月)は、日本の土木工学者、土木技術者。 士族菊池矢直の長男として、大分県直入郡玉来村(現・竹田市)に生まれる。1904年福岡県立中学修猷館、1907年7月第五高等学校工科を経て、1910年7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 1910年7月、水力発電の起業促進に向け、全国的な河川調査を実施するために設立された、逓信省臨時発電水力調査局の技師となり、その後、1913年12月東京市技師、1916年4月岐阜県土木技師、1917年10月逓信局技師、1919年5月仙台逓信局水力課長などを経て、1923年逓信技師に任ぜられ、1924年逓信局技師を兼任し、1923年8月逓信省電気局水力課および東京逓信局に勤務する。
瀬川 昌世(せがわ まさよ、明治17年(1884年)11月2… 瀬川 昌世(せがわ まさよ、明治17年(1884年)11月23日 - 昭和37年(1961年)12月31日)は、日本の医学者、小児科医、医学博士、瀬川小児病院 第2代院長、社団法人日本陶磁協会 理事。小児科の権威として知られる。
安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月2… 安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月23日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正五位。 宮城県桃生郡野蒜村山の坊(鳴瀬町を経て現東松島市)で生まれる。早稲田大学専門部政治経済科を卒業。19歳で渡米し、苦学してシカゴ大学大学院政治科、同法科などで学び、1912年(明治45年)ホイトン大学文科を卒業した。在米中は、南加州日本人会長、中央ロスアンゼルス日本人会長、商工会議所会頭などを務め、日米親善、在留邦人人権擁護などに尽力した。 帰国後、塩釜市行政顧問、宮城県地方労働委員(中立代表)、徳海屋(株)支配人、不二貿易取締役社長などを務めた。
杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治… 杉森 万之輔(萬之輔、すぎもり まんのすけ、1884年(明治17年)11月21日 - 1974年 <昭和49年> 5月5日)は、昭和時代前期の政治家、俳人。三重県上野市長。雅号は干柿。位階は正六位。 三重県出身。上野中学(現三重県立上野高等学校)を卒業する。 上野町助役となり、全国に先駆け上下水道の完成、町営塵芥焼却炉、町立保育園の建設、公共的企業の創設や育成、伊賀文化産業城の建設などに尽力した。 1939年(昭和14年)11月、同町長となった。1941年(昭和16年)9月に町長を退任した。同年11月29日、周辺自治体との合併で発足した上野市の初代市長となった。 町長時代には市制施行の実現、市長に就任後は市民福祉の向上、地域産業の育成、工場誘致や市域拡張の諸政策を遂行した。
奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11… 奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11月18日 - 1934年〈昭和9年〉5月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。中国語を学ぶ。日露戦争に従軍し、満州、蒙古、朝鮮に10年間滞在する。帰国後、西濃飲料水(株)社長となり、大垣市議、大垣商業会議所特別議員、営業税調査委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜2区(小選挙区)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区(中選挙区)から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。所属会派はその後第一控室会となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙では無所属で出馬したが落選した。
移川 子之蔵(うつしかわ ねのぞう、1884年11月16日 … 移川 子之蔵(うつしかわ ねのぞう、1884年11月16日 - 1947年2月9日)は、日本の民族学者、人類学者。 福島県二本松市出身。アメリカに留学して、1914年にシカゴ大学を卒業し、1917年にはハーバード大学の哲学博士の学位を獲得した。1919年に慶應義塾大学文学科講師となり、1921年には東京商科大学(現・一橋大学)付属商学専門部教授兼予科教授となった。その後台北高等学校教授に転任し、在外研究員の身分で欧米各国に赴き、1年10カ月のあいだ研究に従事した。1928年、台北帝国大学が設立されると、文政学部教授兼評議員として招聘され、土俗学と人種学の講座を設け、研究室と標本室を建設し、台湾原住民の研究と太平洋南島民族の文物の収集にあたった。
中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 19… 中野 武二(なかの たけじ、1884年11月15日 - 1947年3月21日)は、東京都出身の野球選手、審判員。中野武営の子。
俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月1… 俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月13日 - 1958年〈昭和33年〉3月21日)は、日本の実業家、UBE (旧・宇部興産)初代社長。 山口県宇部市出身。士族・俵田勘兵衛の二男。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。 興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。
田中 四郎左衛門(たなか しろうざえもん、1884年〈明治1… 田中 四郎左衛門(たなか しろうざえもん、1884年〈明治17年〉11月13日 - 没年不明)は、日本の商人(槌屋、織物問屋)、実業家、資産家。族籍は東京府平民。 東京日本橋浜町生まれ。田中四郎左衛門の長男。1890年、家督を相続。1908年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業。東京銀行監査役となる。 1917年、男爵の前島彌等とはかり、日章火災海上再保険を創立し、専務取締役に挙げられる。1918年、日章信託会社を起し、会長となる。 日本絹絨紡織取締役社長、大日本文華社長、白木屋呉服店、関東機械ナット各取締役、横浜生命保険支配人などをつとめる。 謡曲を嗜む。宗教は浄土宗。住所は東京市日本橋区浜町1丁目、麹町区紀尾井町・同区三番町、四谷区南町。
小杉 イ子(こすぎ イね、1884年(明治17年)11月12… 小杉 イ子(こすぎ イね、1884年(明治17年)11月12日 - 1964年(昭和39年)1月6日)は、日本の看護師、助産師、政治家。参議院議員(1期)。 宮崎県、のちの都城市で小杉重二の娘として生まれる。1905年、大阪の梅花女学校を卒業。1913年、大阪の緒方病院に就職し会計課に配属され、のち同院産婆看護婦養成所監督を務めた。産婆看護婦試験に合格し、1917年、常盤看護婦会を立ち上げた。その後、大阪梅花女子専門学校評議員、神戸市技手補、市民神戸病院看護婦長・風紀取締、川西航空機補導課教育係寮母などを務めた。 戦後、1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選(任期3年)し、その後、緑風会に所属して参議院議員を1期務め、女性の地位向上に尽力した。
山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12… 山田 晁(やまだ あきら、1884年(明治17年)11月12日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、日本の実業家。1924年(大正13年)、後にダイキン工業となる合資会社大阪金属工業所を設立、初代社長を務めた。フロン冷凍機技術とフッ素樹脂などを独自開発した事で知られ、ダイキンの主力となるエアコン開発の礎を築いた。位階は正五位。 1884年(明治17年)11月12日、山口県厚狭郡船木村(現:宇部市)に、かつて厚狭毛利家の家臣であった松田隆三の二男として出生したが、当時の松田家は裕福ではなかった。 船木尋常高等小学校高等科2年終了後、一時漢方医の書生となったが、小倉で紙箱製造販売をしていた3歳年上の兄松田隆亮の誘いで小倉へ移り、2年間の受験勉強ののち福岡県立小倉工業学校機械科に入学した。
辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月1… 辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月12日 - 1925年(大正14年)5月30日)は、日本の女性医師。大分県における女性医師の先駆者の一人。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町)に、医師の高木盛胤の三女として生まれる。16歳の時、宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身で大分市で歯科医を開業していた辛島汎と結婚した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月1… 川崎 肇(かわさき はじめ、1884年〈明治17年〉11月11日 - 1948年〈昭和23年〉1月23日)は、日本の東京川崎財閥の実業家、ゴルファー。川崎銀行副頭取、川崎信託社長、東武鉄道取締役、阪和鉄道取締役などを歴任した。「駒沢育ち」を代表するゴルファーの一人。 初代川崎八右衛門の孫。八右衛門の娘なかとその婿の茨城県出身の川崎東作との長男で、叔父に2代目川崎八右衛門。弟の川崎甲子男は国華徴兵、日華生命、帝国火災、福徳生命の社長や明和銀行頭取などを務めた。妻のキヨは金子堅太郎の娘。 9歳で家督を相続。東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)を経て、1903年東京高等商業学校(現一橋大学)予科入学。
柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)1… 柴田 政太郎(しばた まさたろう、1884年(明治17年)11月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の素封家、篆刻家、刀工、俳人。上記以外にも書、画、謡曲、大皷、鼓などで活動した。号は果(か)、紫陽花、木鶏。第二次世界大戦頃、一部の刀には光興と銘すると昭和町の歯科医である菅原鶴太郎は言及している。 印は犬養毅、張学良たちに愛用された。刀工としては国工の称号を持つ。日本刀鍛錬練習所所長の栗原彦三郎によって「聖代刀の暫定委列と標準価格」の中では神品の列に挙げられている。刀剣研究家の得能一男によって柴田は昭和元年から20年までの主要な刀工として、息子の清太郎は昭和の主要な刀工として挙げられている。
金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - … 金沢 春友(かなざわ はるとも、1884年11月10日 - 1974年11月21日)は、日本の地方政治家、郷土史家。戦前に旧常豊村町長を1期務め、戦後には塙町町長を2期務めた。また、郷土史家としても、地元である福島県南部の古文書の掘り起こしや、水戸天狗党の研究などに業績を残した。 当時の福島県東白川郡石井村に生まれた。生家は、かつては名主の家柄であった。福島県立安積中学校(後の福島県立安積高等学校の前身)に学んだが、父の死によって1902年に学校を中退し、農業に従事した。その後、常豊村(後の塙町)に移り、酒造業を興し、さらに発電所建設などに携わった。1925年に常豊村村会議員となり、助役を経て、1937年11月14日から1941年6月30日まで常豊村長を務めた。
当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月1… 当真 嗣合(とうま しごう、1884年(明治17年)11月10日 - 1946年(昭和21年)8月24日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。
神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11… 神原 甚造(かんばら じんぞう、1884年〈明治17年〉11月10日 - 1954年〈昭和29年〉4月2日)は、日本の学者、裁判官、香川大学初代学長。法学士。 司法官試補、大審院判事などを務め、京都帝大・早稲田大学・中央大学で刑法・民法を教える。 昭和25年、香川大学初代学長となった。
小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925… 小柴 博(こしば ひろし、1884年11月9日 - 1925年6月19日)は、日本のボーイスカウト運動の創始者のひとり。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)11月8日 - 1958年(昭和33年)6月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、錦鶏間祗候。 山形県南置賜郡米沢芳泉町(のち南原村大字芳泉町、現米沢市)出身。元米沢藩士・鈴木幸松の長男として生まれ、母方の祖父・鈴木伊和太の養子となる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り、石川県警部に任官した。 1910年12月、愛媛県警視となる。以後、岩手県事務官、神奈川県理事官、島根県警察部長、台湾総督府警視兼参事官、内務書記官、地方局市町村課長などを歴任した。
海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日… 海野 清(うんの きよし、1884年〈明治17年〉11月8日 - 1956年〈昭和31年〉7月10日)は、工芸家(彫金)、日本芸術院会員、人間国宝。 全日本工芸美術家協会会長、日本彫金家会会長、日本美術刀剣会常任審査員などを兼任し、彫金界の長老として長年に渡り要職を務めた。 海野勝珉の三男として東京に生まれる。1911年(明治44年)、東京美術学校金工科卒。父および加納夏雄に師事。1919年(大正8年)母校東京美術学校助教授、1928年(昭和3年)、帝展特選、1929年(昭和4年)から帝展、新文展審査員を務める。 1932年(昭和7年)母校教授に就任、のち同校在外研究員としてフランス留学し1934年(昭和9年)、帰国。
松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1… 松本 信一(まつもと しんいち、1884年11月7日 - 1984年8月1日)は、日本の医学者、皮膚科医。京都帝国大学名誉教授、元大阪医科大学学長。福島県会津若松市生まれ。 再感染免疫をスピロヘータを使用した実験等、病理組織学や細胞免疫学の各方面から梅毒の研究を行う。1917年5月14日、医学博士の学位を受けた。1966年文化功労者、1976年勲一等瑞宝章。主著に『皮膚病学』等。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5… 高橋 明(たかはし あきら、1884年(明治17年)11月5日 - 1972年(昭和47年)3月12日)は、日本の医学者。新潟医科大学(現・新潟大学医学部)および東京帝国大学(現・東京大学)教授・日本医師会会長・学校法人獨協学園理事長などを務めた。泌尿器科学が専門。 1884年11月5日に愛知県渥美郡泉村(現・田原市)に生まれる。旧制第一高等学校を経て京都帝國大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)に入学した。1909年11月に同校を卒業し、翌月東京帝国大学(現・東京大学)大学院に入学。皮膚病学会を創設した土肥慶蔵教授に学ぶ。1913年9月に大学院を退学し、ベルリン大学に留学して泌尿器疾患の研究を行なう。
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 19… 楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本の演劇評論家、編集者、翻訳家、児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。 東京府京橋区新橋竹川町(現在の銀座)で、小売と卸売を兼業し、印刷業の写真画問屋も営む楠山秀太郎の子として生まれる。祖父で幕臣の楠山孝一郎は、同じく幕臣で編集者の成島柳北の兄にあたる。俳優・森繁久弥とも縁戚にあたる。 しかし3歳になった1886年2月15日、父秀太郎が急死。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社が倒産して苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、多難な少年時代を送る。
鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)1… 鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日本の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。
渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日… 渡辺 節(わたなべ せつ、1884年(明治17年)11月3日 - 1967年(昭和42年)1月21日)は、近代日本の建築家。元鉄道院技師。古典主義をベースとした様式建築を自在に設計し、近畿を中心に商業ビルの秀作を多く残した。門下に村野藤吾がいる。 東京府麹町区(現東京都千代田区)生まれ。天長節(のちに明治節。明治天皇の誕生日)に生まれたことから「節」と名づけられた。父は相馬藩士、後に陸軍中将。 旧制二高を経て、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院に入り、京都駅(後に焼失)などを設計。1916年(大正5年)に独立、大阪に設計事務所を開設。1920年(大正9年)~1921年(大正10年)には欧米を視察。
石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月… 石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の商人(畳表商)、醸造家、広島県多額納税者。 広島県人・石橋喜助の二男。1917年、家督を相続する。酒造業を営み直接国税1110円を納め、広島県多額納税者に列する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は広島県呉市泉場町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 19… 川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。 鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。 1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。
五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日… 五十嵐 敬之助(いそあらし けいのすけ、1884年11月1日 - 1964年2月12日)は、現在の千葉県印西市出身で勝ノ浦部屋に所属した力士。本名は宮澤 啓助(旧姓椎名)。7代勝ノ浦。164cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。 染物屋に奉公していたが、元力士の兄の世話で入門した。1902年5月新序、1909年1月十両昇進、2場所連続好成績で1910年6月滝ノ音の四股名で入幕を果たす。入幕2場所目に前頭4枚目まで昇進したがそれ以降は幕内下位に甘んじた。小兵だったが小手投げ、押しを得意とし、櫓投げや内無双もあった。1911年に後援者の名から五十嵐に改名。1914年には師匠の御舟潟の名を継ぎ、幕下に陥落した1917年5月に引退し、7代勝ノ浦を襲名、年寄として一時部屋も経営し、44年間在職し1961年1月に定年制実施で76歳で退職した。
栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11… 栗山 徳蔵(くりやま とくぞう、1884年〈明治17年〉11月 - 没年不明)は、日本の政治家(東京目黒区会議員、碑衾町会議員)、地主。 東京府・栗山万之丞の長男。1918年、家督を相続した。農業を営み、地主であった。目黒区会議員に推された。宗教は日蓮宗。住所は東京目黒区緑ヶ丘。 目黒区古民家(目黒区指定文化財)は、緑ヶ丘一丁目の栗山重治の旧宅であった。江戸時代に「年寄」という村の重要な役職を務めた旧衾村(ほぼ現在の環七通り西側)の栗山家の主屋を、竹林が生い茂る「すずめのお宿緑地公園」内に移築・復元(昭和59年4月に開設)し、保存・公開している。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 -… 原 泰一(はら たいいち、1884年(明治17年)11月 - 1977年(昭和52年)7月23日)は、貴族院勅選議員、日本赤十字社副社長。救護法の大家であり、方面委員(現在の民生委員制度)を考案した。旧姓・大藪。 江戸南町奉行所与力・原胤昭の養子。岐阜県安八郡大藪の庄屋青木松三郎の長男として生まれる。1908年(明治41年)に慶應義塾大学理財科を卒業後、三井銀行に入社。1921年(大正10年)に米国留学。 1923年(大正12年)に欧米を視察し、1924年(大正13年)以降司法省事務嘱託、少年保護司、内務省社会局事務嘱託、保険調査会委員、中央社会事業委員会委員、軍事保護院専門委員等のほか、中央社会事業委員会理事、東京盲人会副会長、国際社会事業会議日本委員会常任理事等となり、社会保険制度調査会委員、日本赤十字社副社長となる。
久保川 平三郎(くぼかわ へいざぶろう、1883年〈明治16… 久保川 平三郎(くぼかわ へいざぶろう、1883年〈明治16年〉11月30日 – 没年不詳)は、大正から昭和時代初期の教育者である。専攻は倫理学。 山梨県東山梨郡八幡村(現山梨市)で、久保川甫之の二男として生まれた。1926年に開校した岩手国民高等学校において岩手女子師範学校の校長として古代史の講義を受け持った。 旧制高津中学校(現大阪府立高津高等学校)校長時代には校長兼教諭として修身を教えていたが、「英語こそこの時代に大事」と英語を受け持つ教頭を指導した。学業成績本位の教育で、成績によるクラス分けを行い、実力考査の席次を貼り出したことでも話題になった。高津高校の実力考査は現在もこの席次公表方式を執っている。
青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日 - 1… 青木 健作(あおき けんさく、1883年11月27日 - 1964年12月16日)は、日本の小説家、俳人。法政大学名誉教授。本名は井本 健作(青木家より井本家に養子)。国文学者・井本農一の父。 1883年(明治16年)11月27日、山口県都濃郡富田村(現・周南市河内町)に生まれる。1905年(明治38年)旧制山口高等学校卒業。1908年(明治41年)東京帝国大学哲学科を卒業し、千葉県成田中学教諭として勤務。同僚の鈴木三重吉の影響により小説を執筆。 1910年(明治43年)「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」等を発表。1915年(大正4年)旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)教諭。
菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1… 菅 礼之助(すが れいのすけ、1883年11月25日 - 1971年2月18日)は、日本の実業家、俳人。秋田県生まれ。旧制秋田中学、日本中学(現:日本学園)、東京高等商業学校(現:一橋大学)出身。古河鉱業(現古河機械金属)を経て、石炭庁長官、同和鉱業(現DOWAホールディングス)会長、昭和鉱業(現昭和KDE)会長、東京電力会長、経済団体連合会評議会議長等を務めた。1970年勲一等瑞宝章、1971年従三位勲一等。第九代、十代、十三代如水会理事長。初代日本相撲協会運営審議会会長。俳人としては裸馬と号し、俳誌「同人」を主宰した。 菅礼之助(菅裸馬)は明治16年(1883年)に秋田県南秋田郡土崎港町に生まれ(本籍は雄勝郡秋ノ宮)、東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、明治38年(1905年)に古河鉱業へ入社、古河グループの三代目古河虎之助をビジネスで支える一人となった。
鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11… 鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11月24日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の電気技術者、実業家。中国配電(現・中国電力)社長。鈴川合資会社代表社員。 広島県・鈴川源三郎の男。段原村(のちの段原町)生まれ。1885年、家督を相続する。広島一中から1902年に岡山第六高等学校に入学、1906年に二部甲類を卒業。1909年、京都帝国大学工科大学電気工学科卒業。 旧鹿児島藩の島津家が経営する芹ヶ野金山に赴任、島津公爵家電気事業主任技師となる。1912年、広島呉電力技師長、支配人、取締役、広島電気取締役、技師長、支配人、常務取締役を経て副社長。 また木ノ江電気、境電気、東洋合成化学工業、瀬戸内海横断電力、広電証券、中国塗料、太田川水力各取締役、白石工業、日本電熱器製造各監査役等を務めた。
須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)1… 須之内 品吉(すのうち しなきち、1883年(明治16年)11月24日 - 1965年(昭和40年)11月20日)は、日本の法学者、教育者、衆議院議員(立憲政友会)、実業家。立教大学経済学部教授・学監。弁護士。立教大学では20年以上に渡り商法の講義を講じたほか、学監や立教学院常務理事などの要職を務め、長く発展に寄与した。 愛媛県和気郡和気村(現在の松山市)出身。 1907年(明治40年)3月、旧制立教中学校卒業。1910年(明治43年)7月、旧制第五高等学校卒業。 1914年(大正3年)7月に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。同年7月、東京市にて弁護士を開業。 1918年(大正7年)7月、東京帝国大学大学院で2カ年商法専攻を修了。
鈴木 五六(すずき ごろく、1883年(明治16年)11月2… 鈴木 五六(すずき ごろく、1883年(明治16年)11月21日 - 1932年(昭和7年)11月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 愛知県渥美郡赤羽根村(現在の田原市)出身。1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。司法官試補を務めた後、弁護士を開業した。 豊橋市会議員に選出され、同参事会員、同副議長を務めた。さらに愛知県会議員、同郡部会議長、同議長を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)… 岡田 信一郎(おかだ しんいちろう、1883年(明治16年)11月20日 - 1932年(昭和7年)4月4日)は、大正・昭和初期に活躍した建築家である。大阪市中央公会堂(原案)や東京府美術館、歌舞伎座、明治生命館などの設計作品で知られる。 東京帝国大学建築学科を卒業した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち、今和次郎、今井兼次、三井道男、吉田五十八、岡田捷五郎(実弟)、村田政真、吉村順三ら多くの後進を育成した。 病弱なため外遊をする機会はなかったが、海外の建築雑誌等を通して近代建築の動向を把握し、優れた建築評論を執筆している。 設計作品には鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座、日本における西欧様式建築の最高傑作と評される明治生命館、イギリス風邸宅建築の鳩山一郎邸などがある。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
2代 見目 清(けんもく きよし、1883年(明治16年)1… 2代 見目 清(けんもく きよし、1883年(明治16年)11月16日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・清三。 栃木県塩谷郡太田村(北高根沢村を経て現高根沢町)で、素封家・初代見目清の長男として生まれる。県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、早稲田大学政治経済科を卒業。父の死去に伴い1904年(明治37年)5月に家督を相続し2代清を襲名した。 矢口長右衛門らと宝積寺銀行を立上げて取締役となり、1915年(大正4年)頭取に就任。下野実業銀行頭取にも就任し、その後、6銀行合併して下野中央銀行が創立され副頭取に就任し、1926年(大正15年)2月、頭取に就任した。