金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月… 金子 光晴(かねこ みつはる、1895年〈明治28年〉12月25日 - 1975年〈昭和50年〉6月30日)は、日本の詩人。本名:金子安和(かねこ やすかず・後に保和を名乗る)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいて、衆議院議員の河野密(妹・捨子の夫)は義弟にあたる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現:津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
山下 陸奥(やました むつ、1895年(明治28年)12月2… 山下 陸奥(やました むつ、1895年(明治28年)12月24日 - 1967年(昭和42年)8月29日)は、日本の歌人。 広島県尾道市千光寺通りに生まれる。 尾道市立土堂小学校、広島県第一中学校(現広島県立広島国泰寺高校)を経て、東京高等商業学校(現一橋大学)中退。住友合資に入社し、愛媛県新居浜住友工業所に勤務。上司の川田順の勧めで佐佐木信綱の竹柏会に入り、新井洸、木下利玄に私淑。のち上京して信綱、石槫千亦を助けて「心の花」の編集を担当。信綱、久松潜一から国文学を学ぶ。 1930年(昭和5年)、歌誌「一路」を創刊、主宰した。「一路」には岡部桂一郎や山崎方代、塩野崎宏、角宮悦子などが参加したが、戦後に多く離反していった。
田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1… 田中 一松(たなか いちまつ、1895年12月23日 - 1983年4月19日)は、日本の美術史家である。 山形県鶴岡市に生まれ、旧制中学校の山形県立荘内中学校、旧制高等学校の第一高等学校を経て、1918年に東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、1923年に卒業した。 1924年から東京帝室博物館(現東京国立博物館)に勤務し、文化財の調査研究・保護にあたった。1952年に東京文化財研究所美術部長、1953年に同所長となった。1964年に退任し、1965年から國華社主幹、1977年から死去まで編集顧問を務めた。 田中は研究者としても精力的に活動した。1926年に古社寺保存計画調査嘱託、1935年に国宝保存に関する調査嘱託、1936年に重要美術品等調査委員会の臨時委員を務めた。
松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - … 松本 泰輔(まつもと たいすけ、1895年12月21日 - 1940年代)は、日本の元俳優である。本名同じ。新派の川上貞奴一座からキャリアを開始、伊庭孝らの歌舞劇協会など、新派のみならず新劇・歌劇の諸劇団を組織して実演年数を重ね、映画界に転向後は帝国キネマ芦屋撮影所、日活太秦撮影所などで活躍した大スターとして知られる。 1895年(明治28年)12月21日、鳥取県鳥取市立川町に生まれる。『映画新研究十講と俳優名鑑』(朝日新聞社)など、一部の資料によれば、生年月日は「明治二十八年一月三十一日」(1895年1月31日)である旨が記されている。また、『新映画年鑑』(豊國社)によれば、生年月日は「明治二十八年十月」(1895年10月)、出生地は「鳥羽市」(三重県鳥羽市)である旨が記されているが、誤植と思われる。
園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)1… 園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)12月20日 - 1942年(昭和17年)4月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 兵庫県出身。鳳鳴義塾塾長・園田定太郎の長男として生まれる。鳳鳴中学校(現兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、陸軍兵器本廠付兼整備局課員、参謀本部付(支那研究員)、整備局課員、軍務局課員を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵少佐に進級し整備局課員・参謀本部員を兼務した。
菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 197… 菅 円吉(かん えんきち、1895年12月20日 - 1972年9月23日)は、日本の神学者、教育者、翻訳家。 立教大学名誉教授、立教大学文学部長、立教学院理事、立教高等女学校(現・立教女学院中学校・高等学校)校長、立教女学院小学校校長、立教女学院院長・理事、世界キリスト教協議会理事長、日本聖公会司祭。 1895年、京都府で生まれた。父の菅寅吉は日本聖公会の聖職者で、岸和田聖保羅教会で牧師を務めた人物である。主教であるチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)は、寅吉一家と一時期京都で生活を共にしたこともあり、その後も一家と深く親交した。寅吉の3人の子供たちは、洗礼名として長男の円吉から順にウィリアムズ、チャニング、ムーアとそれぞれウィリアムズの名前からとって名づけられ、ウィリアムズも子供たちを可愛がった。
辻 荘一(つじ しょういち、1895年(明治28年)12月2… 辻 荘一(つじ しょういち、1895年(明治28年)12月20日 - 1987年(昭和62年)4月21日 )は、日本の音楽学者。専攻は西洋音楽史。特にキリスト教音楽の歴史。立教大学名誉教授。 1895年、岐阜県生まれ。東京帝国大学文学部で学び、弘田龍太郎、田村寛貞に師事。1920年に同大学を卒業。 1923年(大正12年)、立教大学文学部教授に就任。キリスト教音楽史の講義を担当した。同年立教大学グリークラブを創部した。また、週に1度、母校である東京大学文学部で非常勤講師を務めた。東大での教え子に、音楽学者の皆川達夫がいる。 戦後、日本音楽学会の設立に尽力し、1964年4月から1970年3月には第2代会長も務めた。
岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1… 岡村 丹二(おかむら たんじ、1895年12月19日 - 1954年12月8日)は、日本の経営者。山陽電気鉄道社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。1921年に東京帝国大学経済科を卒業し、鉄道省、大阪鉄道での勤務を経て、1930年10月に宇治川電気(のちの山陽電気鉄道)に入社。 1940年10月に常務、1943年10月に専務を経て、1949年4月に社長に就任。 1954年12月8日、社長在任中に死去。58歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月1… 住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月18日 - 1987年〈昭和62年〉10月4日)は、日本の経済学者。同志社大学名誉教授。同大学元総長。吉野作造門下。群馬県出身。 群馬県群馬郡国府村(現・高崎市東国分町)に、父・住谷友太、母・軟の次男として生まれる。旧制前橋中学校、旧制第二高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年吉野作造の推薦により同志社大学法学部助手となる。1927年(昭和2年)に同大学教授となったが、1933年(昭和8年)に治安維持法で逮捕され、職を辞す。東京文藝春秋社欧州特派員として1934年(昭和9年)に渡欧(1936年に帰国)。
今村 延雄(いまむら のぶお、1895年〈明治28年〉12月… 今村 延雄(いまむら のぶお、1895年〈明治28年〉12月18日 - 没年不明)は、日本の政治家。埼玉県北埼玉郡南河原村長、同村農業委員会長。 埼玉県北埼玉郡南河原村(現・行田市)出身。熊谷中学校に学ぶ。 1925年5月、南河原村会議員に当選。1929年5月、同村会議員に再選。1930年2月から1940年11月まで同村助役。1940年11月、同村長に就任。1946年11月、公職追放により辞職する。 1951年7月、埼玉県農業委員に当選。1955年8月、南河原村長に当選。 地方自治の発展に寄与した。住所は埼玉県北埼玉郡南河原村大字南河原。
中村 隆寿(なかむら たかひさ、1895年(明治28年)12… 中村 隆寿(なかむら たかひさ、1895年(明治28年)12月15日 - 1973年(昭和48年)7月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第29期、陸軍砲工学校高等科、京都帝国大学工学部工業化学科を卒業し、工学博士の学位を取得している。1939年(昭和14年)に陸軍工兵大佐に進級し、陸軍技術本部米国駐在官となる。1941年(昭和16年)に陸軍燃料廠廠員を経て、1942年(昭和17年)に南方燃料廠南スマトラ支廠長に就任し、太平洋戦争に出動。 1943年(昭和18年)8月に陸軍少将に進級し、9月に陸軍燃料廠附を経て、1944年(昭和19年)1月に陸軍燃料廠研究部長、3月に陸軍燃料廠技術部長を歴任した。
松原 與三松(まつばら よそまつ、1895年12月15日 -… 松原 與三松(まつばら よそまつ、1895年12月15日 - 1975年4月29日)は、日本の経営者。日立造船社長を務めた。 福井県坂井郡坂井町出身。1920年に長崎高等商業学校を卒業。 久原鉱業、日立製作所での勤務を経て、1941年に日立造船に転じ、1950年5月に社長に就任。1962年11月には会長に就任。 1958年11月に藍綬褒章を受章し、1962年3月にデンマークのダンネブログ勲章を受章し、1966年11月に勲一等瑞宝章を受章した。 日本棋院関西総本部長をつとめ、1968年に大倉賞を受賞。 1975年4月29日、胃癌のために死去。79歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
藤村 益蔵(ふじむら ますぞう、1895年(明治28年)12… 藤村 益蔵(ふじむら ますぞう、1895年(明治28年)12月10日 - 1978年(昭和53年)10月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1895年(明治28年)に福岡県で生まれた。陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第39期、東京帝国大学政治学科卒業。1939年(昭和14年)3月9日、陸軍歩兵大佐進級と同時に第4軍高級参謀に就任し、1940年(昭和15年)3月に陸軍省人事局恩賞課長となった。1942年(昭和17年)2月に歩兵第56連隊長(南方軍・第15軍・第18師団)に就任し、ビルマ侵攻に参加。 1943年(昭和18年)3月1日に陸軍少将に進級し、またこの頃に第25軍軍政監部総務部長兼第25軍参謀となる。
大沼 法龍(おおぬま ほうりゅう)(旧姓 村岡 正人、189… 大沼 法龍(おおぬま ほうりゅう)(旧姓 村岡 正人、1895年〈明治28年〉12月10日 - 1976年〈昭和51年〉4月17日) は、日本の仏教家。大正から昭和の時代に活躍した西本願寺の布教使である。 明治28年(1895年)12月10日山口県岩国市に生まれる。その後 1911年広島第四仏教中学校(現 崇徳高校)に入学した。1916年に仏教大学(現 龍谷大学)に予科入学し、1921年(大正10)同校の研究科に入学する。その後、1923年に信心を獲得し、1924年に研究科を卒業した。その年の12月に北九州市八幡東区の敬行寺に入寺した。ハワイでの布教などの布教活動を積極的に行った。その後数々の著書を発刊。
鈴木 忠吉(すずき ちゅうきち、1895年(明治28年)12… 鈴木 忠吉(すずき ちゅうきち、1895年(明治28年)12月9日 - 1962年(昭和37年)1月25日)は、昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。静岡県賀茂郡下田町長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。 静岡県賀茂郡下田町(現・下田市)に生まれる。自宅は、江戸時代から続く廻船問屋「雑忠(さいちゅう)」。父も明治末期と大正初期に当時の下田町長をつとめている。賀茂郡立中学豆陽学校を経て[要出典]、慶應義塾大学部理財科に学ぶ。 下田町会議員、同町長(在任:1935年(昭和10年)2月 - 1936年(昭和11年)4月)を歴任。ほか、全国貨物自動車運送事業組合理事、同静岡県組合理事長、下田船渠、東海自動車各取締役、東海パルプ、伊豆合同電気各監査役、伊豆通運、東海自動車各社長を務めた。
吉田 正廣(よしだ まさひろ、1895年12月8日 - 19… 吉田 正廣(よしだ まさひろ、1895年12月8日 - 1972年1月10日)は、日本の朝鮮史家、郷土史家、朝鮮総督府官吏。 堂前家の三男として鹿児島県北伊佐郡羽月村(現・伊佐市)に生まれる。5歳の時、吉田家の養子となる。鹿児島県立鹿屋農学校(現・鹿屋農業高等学校)卒業。朝鮮総督府の記録では、大正10年(1921年)、京畿道勧業技手が初見。36歳の時、吉田朝子(当時23歳)と見合い結婚する。朝鮮農地令制定の最重要人物とされ、朝鮮総督府高等官(奏任官)として『朝鮮の小作慣行-時代と慣行』(1930年)などの著作がある。自らライフワークを「『朝鮮の農村及農村生活』の実証的研究である」と記していたという。
石崎 政一郎(いしざき まさいちろう、1895年12月8日 … 石崎 政一郎(いしざき まさいちろう、1895年12月8日 - 1972年7月25日)は、昭和期の法学者。専攻は労働法、社会保障法。フランス法。東北大学名誉教授。元立教大学法学部教授。日仏法学会会長を歴任。 銀行頭取の石崎丈太郎の長男として生まれる(石崎家第3代)。東京出身。東京帝国大学法学部卒業。1921年(大正10年)に、渡欧、パリ大学、リヨン大学で法学を学び、博士号の学位を得る。1940年(昭和15年)、家督を相続。戦時中は、東北帝国大学報国隊第4大隊に所属、学徒勤労動員に関わる。 1952年(昭和27年)4月から1954年(昭和29年)3月まで東北大学法学部長を務め、1959年(昭和34年)3月に定年退職後、名誉教授となり、同年4月に立教大学法学部教授に就任。
小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月… 小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月8日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の舞踊研究家、民俗学者。 東京生まれ。小寺芳次郎の四男。開成中学校卒、1918年早稲田大学文学部英文科卒。歌舞伎舞踊、民俗舞踊を研究、1927年柳田國男、折口信夫らと民俗芸術の会を結成、『民俗藝術』を創刊した。小寺駿吉、中村伸郎の兄。小寺廉吉、小寺健吉の弟。
福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4… 福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4日 - 1966年(昭和41年)8月28日)は、大正から昭和期の地主、農業経営者、著述家、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、山口県都濃郡福川町長。 山口県都濃郡福川村(福川町(第1次)、徳山市、福川町(第2次)、南陽町、新南陽市を経て現周南市)で福田秀夫の五男として生まれ、素封家福田民平の養子となる。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 農業を営む。著述業にも従事し、雑誌『新思潮』を経営。その後、徳山実業実践学校講師、徳山商業学校教諭を務めた。政治家道源権治の後継者と目され、都濃郡農会長、同教育会長の後任に推薦されて就任。
児玉 作左衛門(こだま さくざえもん、1895年(明治28年… 児玉 作左衛門(こだま さくざえもん、1895年(明治28年)12月3日 - 1970年(昭和45年)12月26日)は、日本の解剖学者・人類学者。北海道大学名誉教授。アイヌ研究で知られる。秋田県鹿角郡生まれ。 1895年(明治28年)、秋田県鹿角郡柴平村(現鹿角市)に生まれる。1900年(明治33年)、父が眼科医院開業とクリスチャンとしての宗教教育を目的として、一家で函館に移住。函館中学校、第二高等学校を経て東北帝国大学医学部に進学。解剖学を専攻し、スイス留学後の1928年(昭和3年)に「中枢神経の解剖学的研究」で博士学位を取得。翌1929年(昭和4年)、北海道帝国大学医学部解剖学第二教室教授に任じられる。
衣笠 静夫(きぬがさ しずお、1895年(明治28年)12月… 衣笠 静夫(きぬがさ しずお、1895年(明治28年)12月2日 - 1962年(昭和37年)2月24日)は、日本の実業家である。ミツワ石鹸(旧:丸美屋商店、現在は廃業)の副社長を務めた。 兵庫県龍野市(現在のたつの市)に生まれ、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)に入学する。1917年(大正6年)に卒業後は後のミツワ石鹸である丸美屋商店に入社し、宣伝部長や企画部長、営業部長を歴任した。勤務中は同社のユニークな広告制作に携わり、多くの新聞社に依頼しその広告を新聞広告として採用された事で名を馳せる。 その後は日本油脂工業会および日本化粧品工業会理事を務め、全日本広告連盟の理事長や日本広告主協会(現在の日本アドバイターズ協会)の理事や全日本広告協議会の幹事長等も歴任した。
阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1… 阪本 牙城(さかもと がじょう、1895年12月1日 - 1973年8月8日)は、日本の漫画家、水墨画家。本名・坂本雅城(さかもと まさき)。水墨画家としては阪本雅城を用いる。 東京府西多摩郡五日市町(現東京都あきる野市)に生まれる。五日市小学校五年生のとき、同校の校章をデザインしたことにより、これは現在でも使われている。東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)卒業後日本画家を志すが、生活できず岡本一平のすすめで漫画を描き始める。勤務していた中外商業新報(現日本経済新聞)や夕刊大阪新聞(現産経新聞)の家庭面に4コマ漫画を連載したが、思い切り奇想天外な作品を試したいと思い立ち、鉄の玉の中に人が入っている作品を「幼年倶楽部」編集部へ持ち込んだ。
山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年)12月1… 山田 恵諦(やまだ えたい、明治28年(1895年)12月1日 - 平成6年(1994年)2月22日)は、日本の天台宗の僧侶。第253世天台座主を20年務め、「比叡山宗教サミット」の開催や「一隅を照らす運動」に尽力した。その行動的な姿から「空飛ぶお座主」といわれた。 明治28年(1895年)12月1日、兵庫県揖保郡太子町に生まれる。母に連れられて寺に参詣した際、修行者の姿に心を惹かれて仏教に憧れたという。明治37年(1904年)延命寺で出家し、堀恵慶の弟子となる。この時「恵諦」の法名を賜る。16歳で比叡山に入り、比叡山中学に入学。大正9年(1920年)天台宗西部大学卒業、卒業後は天台学の専門研究員となる。
岸田 正記(きしだ まさき、1895年〈明治28年〉12月1… 岸田 正記(きしだ まさき、1895年〈明治28年〉12月1日 - 1961年〈昭和36年〉6月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。幾久屋百貨店店主。 元衆議院議員岸田文武の父。元広島県知事宮澤弘(元内閣総理大臣宮澤喜一の実弟)の岳父。元科学技術庁長官岩動道行は妻・和子の従姉妹。衆議院議員で第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄と参議院議員宮澤洋一は孫。 広島県賀茂郡西志和村(現:東広島市)出身。岸田幾太郎の長男。西志和高等小学校卒業。1913年(大正2年)、広島県立広島商業学校卒業。広商時代の同級生に大木惇夫がいる。長崎高等商業学校、京都帝国大学法学部卒業。在学中の1922年(大正11年)高等文官試験行政科合格。
瀧清 麻吉(たきすみ あさきち / たきずみ あさよし、18… 瀧清 麻吉(たきすみ あさきち / たきずみ あさよし、1895年(明治28年)12月1日 - 1950年(昭和25年)2月7日)は、大正から昭和期の警察官、政治家。衆議院議員、奈良県奈良市長。旧姓・上窪(かみくぼ)。 奈良県山辺郡針ヶ別所村大字馬場(都祁村を経て現奈良市)で、上窪甚三郎の三男として生まれ、同郡福住村(現天理市福住町)の瀧清こふしの養子となる。1915年(大正4年)小倉農業補修学校を修了した。 1916年(大正5年)奈良県巡査となる。以後、1920年(大正9年)巡査部長・高田警察署勤務、1922年(大正11年)奈良県警部補、1924年(大正13年)奈良県警部、1926年(大正15年)郡山警察署竜田分署長、1927年(昭和2年)御所警察署長、桜井警察署長、1928年(昭和3年)高田警察署長、1929年(昭和4年)郡山警察署長、1932年(昭和7年)奈良県警察部高等警察課長、1936年(昭和11年)地方警視・奈良警察署長などを歴任。
杉浦 喜之助(すぎうら きのすけ、1895年(明治28年)1… 杉浦 喜之助(すぎうら きのすけ、1895年(明治28年)12月1日 - 1975年(昭和50年)10月5日)は、日本の政治家。愛知県西尾市長(2期)。 愛知県西尾市生まれ。1911年(明治44年)、福地村立福地尋常高等小学校(現・西尾市立福地北部小学校)卒業。1919年(大正8年)、西尾町の肴町の金物店、小岸屋に養子に入り、杉浦姓となる。 1940年(昭和15年)、西尾町議会議員に初当選。戦後、西尾町議会議長として、市制施行の実現に尽力する。1952年(昭和27年)、西尾信用金庫理事長に就任。 1953年(昭和28年)12月15日、西尾市誕生とともに市議会議員となる。1957(昭和32年)、市議会議長に就任。
柘植 文雄(つげ ふみお、1895年(明治28年)12月 -… 柘植 文雄(つげ ふみお、1895年(明治28年)12月 - 1987年(昭和62年)8月)は、日本の内務・警察官僚。官選鹿児島県知事。 山形県出身。柘植文弥の長男として生まれる。山形高等学校を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、北海道・大阪府・広島県・愛知県各勤務、愛知県官房主事兼人事課長、和歌山県学務部長、茨城県書記官・警察部長、静岡県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、同県部長・警察部長、福岡県部長・警察部長などを歴任。 1945年4月21日、鹿児島県知事に就任。防空対策に精通し、城山に壕を掘り県庁分室を設置するなどの対策を実施。
浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 19… 浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 1969年10月9日)は、日本の言語学者。台湾を中心としたオーストロネシア語族諸言語を研究した。日本言語学会評議員、日本民族学会評議員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員を務めた。 1894年、石川県能美郡苗代村(現・小松市)で浄土真宗大谷派住職・浅井恵定の長男として生まれた。1912年、県立小松中学校を卒業。第四高等学校に進学し、在学中にエスペラントを独学。1915年に卒業し、東京帝国大学文科大学に進学した。言語学科専攻で学び、1918年に卒業。 卒業論文『ポリネシア諸民族とその諸言語』はエスペラントで執筆した。1919年、日本エスペラント学会の創立に関わった。
戸川 貞雄(とがわ さだお、1894年(明治27年)12月2… 戸川 貞雄(とがわ さだお、1894年(明治27年)12月25日 - 1974年(昭和49年)7月5日)は、日本の小説家、平塚市の第7・8代市長。勲三等瑞宝章。 東京は本郷の森川町生まれ。幼少から父の仕事により台湾へ移り、本土へ戻ってからも静岡や名古屋などへ移り続けた。 静岡県立静岡中学校に学ぶ。早稲田大学文学部英文科在学中から執筆活動を行い、卒業後は東京社(現在のハースト婦人画報社)の編集者を経たのち退職し、1921年10月に『蠢く』で作家デビュー。翌年東京から平塚市に移住し、戦前から戦後にかけて作家として活動する。 1955年に河野謙三からの要請を受けて平塚市長選挙に出馬。所属していた作家クラブの小説家や芸能人の応援もあり、710票差の接戦を制し当選。
水谷 まさる(みずたに-、1894年(明治27年)12月25… 水谷 まさる(みずたに-、1894年(明治27年)12月25日 - 1950年(昭和25年)5月25日)は、日本の童話作家、少女詩人。 東京出身。本名は勝。早稲田大学卒。コドモ社『良友』編集者、『少女画報』主筆などをへて童話作家となる。1928年千葉省三らと同人誌『童話文学』を創刊。
大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12… 大島 義晴(おおしま よしはる、1894年〈明治27年〉12月25日 - 1953年(昭和28年)4月21日)は、大正から昭和前期の労働運動家、農民運動家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 群馬県新田郡尾島町(現・太田市)で生まれる。 18歳頃から棒頭(人足頭)として足尾線工事、利根川改修工事に従事。徴兵検査後に上京し三河島造船尻ケ崎鉄工所で働き、労働運動に加わり日本友愛会向島支部長に就任した。1919年(大正8年)ワシントンで開催の第1回国際労働会議に労働代表顧問として出席。マーガレット・サンガーに賛同して産児調節運動に取り組むが、出版法違反で投獄された。 満洲に移り、その後、盧溝橋近くで大島鉱業所を経営した。
林 信夫(はやし のぶお、1894年(明治27年)12月24… 林 信夫(はやし のぶお、1894年(明治27年)12月24日 - 1972年(昭和47年)11月16日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選県知事。 和歌山出身。林治の三男として生まれる。第三高等学校を卒業。1919年、京都帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し兵庫県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格した。 以後、兵庫県印南郡長、長崎県理事官、埼玉県参事官、山形県書記官・学務部長、青森県書記官・警察部長、警視庁書記官・保安部長、岡山県書記官・総務部長、東京府書記官・総務部長などを歴任。 1937年1月、茨城県知事に就任。県民の負担増の抑制のため財政の立て直しと、緊急事業の実施に尽力。
児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 19… 児島 健爾(こじま けんじ、1894年12月23日 - 1966年3月11日)は、日本の経営者、銀行家。千葉興業銀行頭取を務めた。兵庫県出身。 1920年に東京帝国大学独法科を卒業。 安田保善社、安田銀行での勤務を経て、1937年に第九十八銀行社長、1943年に千葉銀行副頭取を歴任し、1952年1月には千葉興業銀行頭取に就任。1963年5月には会長に就任。 1960年に黄綬褒章を受章。 1966年3月11日脳軟化症のために死去。71歳没。
3代八馬 兼介(はちうま かねすけ、旧名・栄之介、1894年… 3代八馬 兼介(はちうま かねすけ、旧名・栄之介、1894年〈明治27年〉12月23日 - 1960年〈昭和35年〉8月12日)は、日本の実業家、政治家、資産家、兵庫県多額納税者。貴族院議員。神戸銀行頭取。八馬汽船相談役。勲四等。 兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。兵庫県平民、海運業・八馬永蔵の長男。初代八馬兼介の孫。1916年、早稲田大学商科卒業。 1917年、家督を相続し、旧名・栄之介を改めた。精米及び海運業を営み、傍ら銀行会社の重役であった。 西宮市会議員、日本船主協会、日伯協会各理事、八馬汽船社長、同会長、同相談役、武庫銀行、西宮銀行各頭取、日伯拓殖、大同信託、神戸土地興業、日本毛織、共同信託、東洋パルプ各取締役、西宮酒造、神戸海上火災保険、朝日海上火災保険、梅田映画劇場、阪神急行電鉄、東京宝塚劇場、山陽中央水電、南街映画劇場、神戸瓦斯、日本鉱産業、桐花興業各監査役、神戸信託相談役、多聞代表社員などを務めた。
成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月… 成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。兵庫県知事(官選第28代)、石川県知事(官選第36代)、台湾総督府総務長官、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。成田喜十郎の長男として生まれる。広島高等師範学校を経て、1920年(大正9年)、京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、埼玉県属となる。埼玉県児玉郡長、警視庁警視、内務省社会局事務官、社会局労働部労務課長、同庶務課長、資源局事務官などを歴任。 1936年(昭和11年)、内務書記官兼内務大臣秘書官となり、大臣官房人事課長、社会局労働部長、厚生省労働局長などを務める。
関根 久蔵(久藏、せきね きゅうぞう、1894年(明治27年… 関根 久蔵(久藏、せきね きゅうぞう、1894年(明治27年)12月20日 - 1969年(昭和44年)3月29日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)、埼玉県児玉郡金屋村長。 埼玉県児玉郡金屋村(のち児玉郡児玉町、現:本庄市)で生まれる。1913年、群馬県立富岡中学校を卒業し、農業を継いだ。 1920年、金屋村助役に就任し、農業恐慌への対策に取り組む。その後、金屋村信用販売購買組合長、同村産業組合長、同村農業会長、埼玉県信販購利用組合連合会専務理事、同農業会専務理事、同農業共済組合連合会長、同信用農業協同組合連合会長、同養蚕農業協同組合連合会長、全国乾繭組合連合会副会長、全国養蚕農業協同組合連合会長、農林中央金庫評議員などを務めた。
森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 197… 森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 1970年10月30日)は、日本の小説家、随筆家、政治家。 元参議院議員(1期)。北海道出身者初の女性作家。位階は従四位。長女はデザイナーの森田麗子、息子に映画プロデューサー森田信。
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月… 加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉11月11日)は、岐阜県出身の彫刻家、洋画家。本名、加藤 鬼頭太。 長年に亘り日展審査員を務めたほか、後進の指導育成に尽くした。 1894年(明治27年)12月19日、岐阜県に生まれる。生後まもなく北海道深川市に転居し、上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業後、旭川市で代用教員を務めた後に上京して上智大学哲学科に入学。中原悌二郎の彫刻に出会ったことをきっかけに、1915年(大正4年)東京美術学校彫刻科入学、在学中は高村光雲、白井雨山に師事。 1923年(大正12年)同校研究科を卒業し西洋画科本科に再入学、藤島武二、長原孝太郎に師事し油絵を学んだ。
吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月… 吉田 五十八(よしだ いそや、1894年(明治27年)12月19日 - 1974年(昭和49年)3月24日)は昭和期に活躍し、和風の意匠である数寄屋建築を独自に近代化した建築家である。東京生まれ。東京美術学校(東京芸術大学)卒業。母校で教壇に立ち、多くの後進を育てる。死後、その功績を記念して、吉田五十八賞が設けられた。
唐橋 重政(からはし しげまさ、1894年(明治27年)12… 唐橋 重政(からはし しげまさ、1894年(明治27年)12月18日 - 1976年(昭和51年)1月18日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡山都町長。俳号・藻人。 福島県耶麻郡朝倉村(山都町を経て現:喜多方市)で、林業家・政治家、唐橋左源次の二男として生まれる。1905年(明治38年)家督を相続。1912年(大正元年)福島県立蚕業学校(現:福島県立福島明成高等学校)を卒業した。 農業を営む。日本正準製糸常務、福島県養蚕業組合連合会副会長、全国養蚕業組合連合会議員などを務めた。 政界では、組合村長、耶麻郡町村長会長、福島県町村会長、福島県会議員、同参事会員、大政翼賛会福島県支部常務委員などを務めた。
谷岡 登(たにおか のぼる、1894年12月17日 - 19… 谷岡 登(たにおか のぼる、1894年12月17日 - 1974年11月22日)は、日本の学校経営者。大阪城東大学(現・大阪商業大学)初代学長、学校法人谷岡学園理事長などを務めた。 奈良県磯城郡朝倉村黒崎(現・桜井市黒崎)に、谷岡角松・きんの長男(弟四人、妹二人)として生まれた。谷岡家は、三町歩の田畑と山林を所有する裕福な農家で、父は村の総代を務める地域の有力者であり、製粉所の経営も行う実業家であった。生来の負けず嫌いから小学校では首席だった。それ以外にも生家の隣にある大日寺の住職から論語や四書を習い、少し長じて長谷寺方丈の漢学院で漢学を学んだ。1920年、常岡米蔵の長女・花枝と結婚。妻と兵庫県武庫郡住吉村呉田(現・神戸市東灘区住吉南町)に居を構え、大阪府西成郡役所に勤務。
森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12… 森山 鋭一(もりやま えいいち、1894年(明治27年)12月17日 - 1956年(昭和31年)6月9日)は、大正から昭和前期の法制官僚、政治家、弁護士。貴族院勅選議員、法制局長官。 現在の三重県桑名市で、伊藤伊右衛門の三男として生まれ、森山兵介の養子となる。1914年(大正3年)7月、第八高等学校一部丙を首席で卒業。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し、同月、内務省に入り内務属・土木局工営課に配属された。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科試験に合格。 その後、兼警察講習所教授、埼玉県視学官、帝都復興院計画局制度課、復興局事務官・長官官房計画課などを歴任。
久松 潜一(ひさまつ せんいち、1894年〈明治27年〉12… 久松 潜一(ひさまつ せんいち、1894年〈明治27年〉12月16日 - 1976年〈昭和51年〉3月2日)は、日本の国文学者。学位は文学博士。 1894年(明治27年)、愛知県知多郡藤江村(現・知多郡東浦町)で生まれた。愛知一中、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部国文学科に進んだ。1919年(大正8年)、大八車で搬入したとされる大部の卒業論文を提出して卒業し、同大学大学院に進学した。 1922年(大正11年)、佐佐木信綱の三女三枝子と結婚。一高教授となり、1925年(大正14年)からは東京帝国大学国文学科助教授となった。1934年(昭和9年)、学位論文『日本文学評論史ノ研究』を東京大学に提出して文学博士を取得。
岩田 徳治(いわた とくじ、1894年12月15日 - 19… 岩田 徳治(いわた とくじ、1894年12月15日 - 1982年2月20日)は、日本の実業家、政治家。岩田建設の創業者。北海道議会議員(4期)。 札幌村(現在の札幌市東区)出身。岩田家は富山県で江戸時代から続く瓦工場であったが、徳治の両親は西南戦争後の不況により土地家屋を手放し、1890年(明治23年)北海道に渡り現在の丘珠町に入植した。丘珠尋常小学校(現・札幌市立丘珠小学校)卒業後、家業の農業の手伝いに励む。14歳のときに苗穂町(現在の本町)に居を移し、長兄が早逝したため18歳で家督を相続する。北海中学校(現・北海高等学校)卒業。 大星組などを経て1912年から義兄・村上六松が営む合資会社村上組で帳場を担当。
松井 亮吉(まつい りょうきち、前名・章吉、1894年〈明治… 松井 亮吉(まつい りょうきち、前名・章吉、1894年〈明治27年〉12月15日 - 没年不明)は、日本の酒造家(寛永11年創業、平野屋、銘酒「山の井」の醸造元)、広島県多額納税者、会社役員。 第六十六銀行(現・広島銀行)、広島桟橋各監査役。族籍は広島県平民。 広島県広島市出身。先代亮吉の長男。県立広島一中卒業。1918年、家督を相続し前名・章吉を改め襲名した。平野屋と称し、酒造業を営んだ。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は郷土史研究。宗教は禅宗。住所は広島市京橋町。 家系について『広島県紳士録 昭和8年版』によると、「広島市京橋町の松井家祖先の伊右衛門は、豊田郡小田の荘より出て寛永年間広島に酒造業を創業した」という。
三輪 寿壮(みわ じゅそう、1894年(明治27年)12月1… 三輪 寿壮(みわ じゅそう、1894年(明治27年)12月15日‐1956年(昭和31年)11月14日)は日本の法律家、政治家。労働農民党書記長、日本労農党書記長、第二東京弁護士会会長、衆議院議員。
池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月… 池田 純久(いけだ すみひさ、1894年(明治27年)12月15日 - 1968年(昭和43年)4月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。東大経済学部で統制経済を研究し、統制派の理論的指導者として知られた。 大分県宇佐郡柳ヶ浦村(柳ヶ浦町、長洲町を経て現宇佐市)で、軍人・池田純孝の長男として生れる。中津中学校(現大分県立中津南高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第48連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業し歩兵第48連隊付に発令。
内田 勇三郎(うちだ ゆうざぶろう、1894年12月15日 … 内田 勇三郎(うちだ ゆうざぶろう、1894年12月15日 - 1966年11月18日)は、日本の心理学者・心理検査開発者。 クレペリンの作業曲線のアイデアとクレッチマーの性格類型論を結びつけた性格理論を提唱し、それに基づいた内田クレペリン精神検査(クレペリン検査)を開発した。内田クレペリン精神検査の販売と実施・判定を中心に、幅広い心理学関連業務を行っている日本・精神技術研究所(1947年創設)の創設者。
谷田 勇(たにだ いさむ、1894年(明治27年)12月14… 谷田 勇(たにだ いさむ、1894年(明治27年)12月14日 - 1992年(平成4年)1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍徳島県。東京府で谷田文衛陸軍中将の二男として生まれる。学習院(現学習院中・高等科)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校高等科(24期)を優等で卒業。電信第1連隊付などを経て、1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。 1925年(大正14年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀充用を務め、1930年(昭和5年)8月、工兵少佐に昇進し陸大教官に就任。
山本 亮(やまもと りょう、明治27年(1894年)12月1… 山本 亮(やまもと りょう、明治27年(1894年)12月14日 - 昭和48年(1973年)2月18日)は、日本の実業家、漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(17代)、町会議員。号大麓。鳥取県平民。 境町長、鳥取県議会議長等を歴任した山本熊吉の長男。 鳥取県西伯郡境町栄町(いまの境港市)出身。山本熊吉の長男。 松江農林学校を卒業後、家業(醤油醸造)を継いだ。境電気会社設立等、実業界で活躍した。 昭和20年(1945年)4月23日、軍用船玉栄丸爆発事故が発生。山本町長は昼夜にわたる救援活動を指揮する一方で、軍に対して罹災者補償を請求、自ら現地調査に当たる等の尽力によってこの問題を解決した。 茶道、琵琶、漢詩等趣味も多かった。