兼平 慶一郎(かねひら けいいちろう、1930年 - 198… 兼平 慶一郎(かねひら けいいちろう、1930年 - 1985年10月6日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。岩手県盛岡市生まれ。 盛岡中学校から陸軍幼年学校へ入るが、終戦。盛岡中学校へ戻って、1948年、第二高等学校(仙台)へ進むが、1949年、学制改革となり、東京大学理学部地質学科へ進学。1953年、東京大学理学部地学科(地質学課程)卒業。鉱床学の渡辺武男教授の指導を受けて大学院へ進学し、1958年、博士課程を修了(理学博士)、理学部地質学教室助手となる。1962年、千葉大学文理学部地学科へ移り、1978年、教授となる。1985年、病に倒れ、死去。 研究のテーマは、卒業論文以来一貫して、日本の別子型と呼ばれる塊状硫化物鉱床の成因であった。
片方 善治(かたがた ぜんじ、1928年3月9日 - )は、… 片方 善治(かたがた ぜんじ、1928年3月9日 - )は、日本の電気技術者、電気通信学者、システム工学者、文筆家、翻訳家。成安造形大学名誉教授。 情報文化学会会長、名誉会長。高崎商科大学客員教授、金城学院大学特任教授、日本DEVNET協会会長。 専門の電気通信以外にも、ビジネス書、子供向け、伝記、英語、酒、話し方、仏教などについて多くの一般向け著作をなしている。 書道の雅号は片方 大幹。 岩手県北上市生まれ。 カーネギーメロン大学卒業後、同大学院電子工学専攻修士課程修了、コロンビア大学大学院通信システム工学専攻修士課程修了。1966年「狭帯域符号化変調方式に関する研究」で北海道大学工学博士。日本電信電話公社勤務、1960年同計画局のち、工学院大学講師、1969年助教授。
滝浦 静雄(たきうら しずお、1927年1月19日 - 20… 滝浦 静雄(たきうら しずお、1927年1月19日 - 2011年6月14日)は、日本の哲学者。東北大学名誉教授。 フランス及びイギリスの哲学を研究、メルロ=ポンティの翻訳を多く行った。 岩手県紫波郡紫波町出身。1951年、東北大学文学部哲学科卒業。1962年岩手大学助教授、1971年東北大学教授を経て、1985年東北大学文学部部長に就任。1989年定年退官、名誉教授。 その後岩手県立大学盛岡短期大学部学長、日本哲学会委員、日本現象学会委員などを務め、2005年秋に瑞宝中綬章受勲した。 2011年6月14日、胃癌のため宮城県仙台市内の病院で死去。84歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
斎藤 文一(さいとう ぶんいち、1925年8月13日- 20… 斎藤 文一(さいとう ぶんいち、1925年8月13日- 2017年10月20日)は、日本の宇宙物理学者、宮沢賢治研究家。新潟大学名誉教授。岩手県北上市出身。 岩手県立黒沢尻中学校を経て、東北大学理学部卒業、同大学院で1962年、理学博士の学位を取得。博士論文は「夜光発光機構の研究」。オーロラの研究者として南極観測隊(第5次夏隊、1960年 - 1961年)に加わったのち、新潟大学理学部教授を務める[要出典]。 詩人でもあり、詩誌『歴程』同人。宮沢賢治の研究家としても知られ、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの設立発起人(1990年)や宮沢賢治イーハトーブ館の初代館長(1992年-1994年)も務めた。
田丸謙二(たまる けんじ、1923年11月2日 - )は、日… 田丸謙二(たまる けんじ、1923年11月2日 - )は、日本の化学者、理学博士。専門は触媒化学および表面化学。父はフリッツ・ハーバーに師事し、東京工業大学や学術振興会の設立にも携わった田丸節郎。教え子に環境工学を専門とし文化功労者に選ばれた中西準子がいる。
高橋 富雄(たかはし とみお、1921年7月28日 - 20… 高橋 富雄(たかはし とみお、1921年7月28日 - 2013年10月5日)は、日本の日本史学者。東北大学名誉教授。福島県立博物館名誉館長。 東北古代史研究の第一人者である。永年歴史上の謎とされて来た前九年の役の古文書に記述されている阿久利川事件発生地の比定に携わり、地道な郷土史研究と発掘作業により宮城県栗原市志波姫の迫川流域(阿久戸)の地域同定に至った。[要出典] 岩手県北上市生まれ[要出典]。旧制黒沢尻中学校(現岩手県立黒沢尻北高等学校)卒業[要出典]、1943年、東北帝国大学法文学部国史学科卒業。同大学大学院特別研究生を経て、旧制第二高等学校講師。1949年、東北大学教養部講師、その後同大助教授、教授となる。
鷹觜 テル(たかのはし テル、1921年3月7日 - 200… 鷹觜 テル(たかのはし テル、1921年3月7日 - 2000年3月24日)は、日本の栄養学者。岩手大学で初の女性助教授となった研究者で栄養学研究に生涯を捧げ、後年は「長寿村」研究をし「健康長寿の秘訣は雑穀を中心とする日本型食事」の実践的解明。医学博士。岩手大学名誉教授。 岩手県江刺郡田原村(のち江刺郡江刺町→江刺市、現在の岩手県奥州市江刺)に生まれ、岩谷堂高等女学校(現在の岩手県立岩谷堂高等学校)を経て、岩手女子師範学校卒業。卒業後は愛宕小、仁王小、盛岡高等女学校(現在の岩手県立盛岡第二高等学校)各教諭を経て、岩手大学の前身のひとつである岩手師範学校女子部の教員となり、新制大学移行後に岩手大学で初の女性助教授となった。
藤井松一(ふじい しょういち、1921年〈大正10年〉1月1… 藤井松一(ふじい しょういち、1921年〈大正10年〉1月17日 - 1980年〈昭和55年〉10月6日)は、日本の日本近代史学者。 岩手県花巻市出身。東京帝国大学文学部卒。立命館大学教授を務めた。歴史科学協議会に属し、左翼的な立場から近代日本史を研究したが、59歳で死去した。
菊地 利夫(きくち としお、1916年8月10日 - 201… 菊地 利夫(きくち としお、1916年8月10日 - 2011年10月30日)は、日本の地理学者。 岩手県一関市生まれ。北海道名寄中学校卒、東京高等師範学校卒、1942年東京文理科大学理学部地理学科卒、海軍予備学生として入営、大尉で敗戦。46年市川市立国府台高等学校教諭、47年千葉師範学校助教授、1950年千葉大学教育学部助教授、57年教授、「新田開発の地理学的研究」で東北大学理学博士、1976年筑波大学教授、79年定年退官、名誉教授、流通経済大学教授。
熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 … 熊谷 清一郎(くまがい せいいちろう、1914年6月16日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、東京大学名誉教授。 岩手県盛岡市出身。1932年に盛岡中学を卒業。1940年に東京帝国大学工学部卒業、1943年東京帝国大学大学院満期退学。戦後東京大学教授となり、定年後名誉教授となる。その後は岩手大学で教授を務め、退職後はノーリツ基礎研究所所長もつとめた。 内燃機関研究を主に行い、国際燃焼学会で活躍した。 一般向け著作として、「火」(1979年)、「エンジンの話」(1981年)(いずれも岩波新書)がある。
高橋 延清(たかはし のぶきよ、1914年2月6日 - 20… 高橋 延清(たかはし のぶきよ、1914年2月6日 - 2002年1月30日)は、日本の森林学者。東京大学名誉教授。東京大学の北海道演習林(富良野市)で林長を務め、「森こそ教室」として東京での授業や教授会よりも現場観察を重視し、いつも泥まみれで歩く姿と、自らを「のろまでも、こうだと決めたらこつこつとやる」と亀にたとえていたことから「どろ亀さん」(ドロ亀さん)、「どろ亀先生」」の愛称で、多くの人に親しまれた。 氷雪や雪崩の研究家でエッセイストの高橋喜平は兄、元沢内村長の太田祖電と直木賞作家の高橋克彦は甥である。 1914年(大正3年)、岩手県和賀郡沢内村(現:西和賀町)に生まれる。出生届を出すのに数年かかったので、正確な生年月日は不明という(戸籍上は1914年2月6日生まれ)。
加藤 新平(かとう しんぺい、1912年〈明治45年〉3月2… 加藤 新平(かとう しんぺい、1912年〈明治45年〉3月29日 - 1999年〈平成11年〉4月2日)は、日本の法学者(法理学・法哲学)。京都大学名誉教授。1983年から日本学士院会員。1971年から1975年まで日本法哲学会理事長。沢内村名誉村民第一号。 1912年、岩手県和賀郡沢内村生まれ。1927年、宮城県白石中学校(宮城県白石高等学校の前身)4年修了、同年第一高等学校(一高)文科甲類入学。1930年11月、思想事件により一高を中途退学、1932年、第二高等学校文科甲類卒業検定合格。同年4月、京都帝国大学文学部哲学科入学、1933年、同大学法学部入学。1935年、高等試験行政科合格、1936年、同大学法学部卒業、直ちに同法学部助手に任用。
玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 198… 玉山 勇(たまやま いさむ、1908年8月12日 - 1989年4月28日)は、福島大学学長、元・経済史・経営史専攻の教授。岩手県紫波郡紫波町出身。 明治学院から神戸商業大学に進み1936年に卒業し関西学院高等部の教師となる。1940年東北学院大学教授、1950年福島大学経済学部教授、1958年福島大学経済学部部長を経て、1973年10月15日学長に就任。翌1974年12月4日退任。 日本生産性東北地方本部理事、東北経済開発センター(現在の東北活性化研究センター)理事、福島県中小企業診断協会会長なども歴任した。 1989年4月28日午後5時に内臓疾患の為、福島県立医科大学附属病院で死去。享年80歳。
山田 晟(やまだ あきら、1908年2月23日 - 2003… 山田 晟(やまだ あきら、1908年2月23日 - 2003年10月12日)は、日本の法学者(ドイツ法)。東京大学名誉教授、成蹊大学名誉教授、元愛知学院大学客員教授。岩手県一関市出身。三潴信吾と三潴信邦は義弟(妻の弟)。 三潴信三の創めた日本におけるドイツ法研究をさらに発展させた。比較法学会理事長、日独法学会理事長、法制審議会民法部会委員、学術奨励審議会委員、最高裁判所図書館委員会委員、民事行政審議会委員、矯正審議会委員などを歴任。
梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 19… 梅津 八三(うめづ はちぞう、1906年12月5日 - 1991年1月5日)は、日本の教育心理学者。東京大学文学部名誉教授。 岩手県花巻市生まれ。1931年東京帝国大学文学部心理学科卒。1952年盲聾教育研究会を設立、東大教養学部助教授、教授、1955年東大文学部心理学教授。1958年『心理学事典』の編纂で毎日出版文化賞受賞、1961年「盲ろう二重障害者の言語行動形成についての心理学的研究」で文学博士。1967年定年退官、関西大学教授、1971年国際基督教大学教授、1977年重複障害教育研究所理事長、勲三等旭日中綬章受章、1981年日本学士院会員。実験心理学を応用した障害者教育法を確立、山梨県立盲学校などで実践した。
森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981… 森 嘉兵衛(もり かへえ、1903年6月15日 - 1981年4月8日)は、日本の歴史学者、岩手大学名誉教授、経済学博士。主な研究テーマは南部藩を中心とする近世史だが、中尊寺金色堂の調査にも参加するなど、活動分野は多岐にわたった。 岩手県盛岡市の豪商の家に生まれる。盛岡中学から法政大学経済学部に進み、小野武夫の下で近世日本経済史を研究した。1929年卒業。岩手県教育会書記を務め、岩手師範学校教授。 1947年、昭和天皇が岩手県に戦後巡幸された際に拝謁し、岩手県の開拓史について奏上する。その後、1949年に岩手大学教授、1969年定年退官。学内では学芸学部長、教育学部長を歴任した。退官後は、盛岡短期大学講師や富士大学教授を務めた。
古林喜楽(こばやし よしもと、1902年5月26日 - 19… 古林喜楽(こばやし よしもと、1902年5月26日 - 1977年1月11日)は、日本の経営学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1953年)(学位論文「賃銀形態の研究」)。神戸大学名誉教授。第2代神戸大学学長。「経営労務論研究のパイオニア」と評される。 岩手県一関市出身。兵庫県立神戸商業学校、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1927年京都帝国大学経済学部を卒業した。 卒業後は和歌山高等商業学校講師となり、1928年に教授に昇進する。 1931年、神戸商業大学附属商学専門部教授に転じ、神戸商業大学助教授(1932年)を経て、1940年に教授に昇進した(1944年に大学名の変更で神戸経済大学教授)。
菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 197… 菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 1975年7月13日)は、日本の法学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1898年、岩手県遠野で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。卒業後は同大学の副手となった。 1924年、ILO東京支局職員として勤務。1926年より欧米に留学を命じられた。1928年、九州帝国大学助教授に就いた。1929年に教授昇格。1943年から1945年には法文学部長を務めた。 1949年、第9代九州大学総長に就いた。1953年、日本学士院会員に選出された。学界では日本労働法学会の初代代表理事をつとめた。1962年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。
阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)… 阿部 孝(あべ たかし、1895年8月22日- 1984年)は、英文学者、高知大学名誉教授。岩手県花巻川口町(現:花巻市)出身。 現在の花巻市鼬弊(いたちべい)にある稲荷神社神主の家に生まれる。花城尋常小学校(現・花巻市立花巻小学校)から旧制岩手県立盛岡中学校に進学。小学校では宮沢賢治より1学年上、中学校では同窓で、中学時代には親交を結んだ。賢治が詠んだ短歌には「這ひ松のなだらを行きて息吐ける 阿部のたかしは がま仙に肖る」という一首がある。 第一高等学校を経て、東京帝国大学英文科卒、旧制高知高等学校教授、戦後高知大学教授、学長を務めた。1966年『ばら色のばら』で日本エッセイストクラブ賞受賞。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月… 山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉12月15日)は、日本の俳人・鉱山学者。岩手県出身。東京大学名誉教授。 本名は吉郎(きちろう)。初号は泥邨。高浜虚子に俳句を師事、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌「夏草」を主宰した。 岩手県盛岡市出身。父は士族の家柄。5歳のときに母が死去し、母方の叔父笹間夫妻の元で育った。岩手県立盛岡中学校卒業、1910年、第二高等学校入学。野球部でキャプテンを務めた。1916年、東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。古河鉱業に入社。1918年、退社し農商務省技師として鉱山省に勤務。19年にはシベリア炭鉱を調査した。
小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月… 野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年(明治23年)5月11日 - 1978年(昭和53年)6月25日)は、昭和時代の細菌学者、公衆衛生学者。 岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた。
松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 19… 松本 卓夫(まつもと たくお、1888年6月19日 - 1986年11月28日)は日本の牧師、新約聖書学者である。 1888年(明治21年)岩手県盛岡市にメソジスト派の牧師松本総吾の三男として生まれる。 鎮西学院高等部卒業後、1912年に関西学院神学部を卒業する。1913年(大正2年)に渡米し、オハイオ・ウェスレアン大学、ドルー神学大学、ペンシルベニア大学院、ユニオン神学校大学院で学び、1919年に帰国する。 1919年(大正8年)より青山学院神学部の教授に就任する。東京女子大学、津田塾大学講師も兼任する。 1923年(大正12年)に日本メソヂスト教会の按手礼を受けて、牧師になる。 1941年(昭和16年)より広島女学院院長、広島女学院大学学長を兼任する。
白井 成允(しらい しげのぶ、1888年〈明治21年〉2月6… 白井 成允(しらい しげのぶ、1888年〈明治21年〉2月6日 - 1973年〈昭和48年〉8月25日)は、日本の倫理学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。1913年東京帝国大学文学部哲学科卒業。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授、(旧制)第二高等学校教授、京城帝国大学教授を経て広島文理科大学教授。1957年「三経義疏の倫理学的管窺」で広島文理科大学文学博士。1952年龍谷大学教授。睦学園短期大学長、武庫川女子大学教授。 次男は白井成道(哲学者、大阪府立大学名誉教授)、三男は小田嶋成和(病理学者)、四男は白井成雄(フランス文学者、名古屋大学名誉教授)。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)… 田中館 秀三(たなかだて ひでぞう、1884年(明治17年)6月11日 - 1951年(昭和26年)1月29日)は、日本の地質学者・火山学者。理学博士。 岩手県二戸市出身。出生名は下斗米秀三。東京帝大を卒業した後に、血縁上は従兄(4親等)である田中舘愛橘(秀三は、愛橘の父稲蔵の弟である下斗米与八郎の三男)の婿養子となって田中館秀三を名乗り、愛橘の一人娘である美稲(血縁上は従姪〈5親等〉)を娶った。 第三高等学校(京都)を経て、1908年(明治41年)、東京帝国大学理科大学(現:東京大学大学院理学系研究科・理学部)地質学科を首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した。翌年の1909年(明治42年)9月、満25歳の若さで、東北帝国大学農科大学水産学科(現:北海道大学大学院水産科学研究院・大学院水産科学院・水産学部)教授 兼 東北帝国大学農科大学(現: 東北大学大学院農学研究科・農学部)助教授に任じられ、高等官7等に叙された。
澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-195… 澤田 兼吉(さわだ かねよし、1883年12月26日-1950年4月7日)は、日本の菌学者・植物病理学者。 1883年12月26日、岩手県盛岡市の生まれ。 1903年3月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を卒業。その後、1903年6月から1908年7月まで盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の植物学教室と図書館に勤務、同教室の教授だった山田玄太郎の助手として植物標本製作などの業務に従事する。1908年8月より、同年6月に設置されたばかりの台湾総督府農事試験場(後に中央研究所農業部)に植物病理部技手として勤務、1910年より教育部技手、同年7月より図書館取扱主任を兼任、1920年より植物病理部主任心得を務める。
小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - … 小野寺 直助(おのでら なおすけ、1883年5月31日 - 1968年11月3日)は、日本の医学者、内科医。岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身。小野寺式圧診法の考案者。 旧制盛岡中学校、第一高等学校を経て、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学医学部の前身)卒業。30歳の若さで九州帝国大学教授に就任。消化器研究に尽力し、特に胃運動曲線照射法で恩賜金記念賞を授与される。「胃運動曲線に関する研究」「圧診法に関する研究」は医学会不滅の業績とされる。 1943年(昭和18年)に退官後は、満州国にわたり新京特別市立第一病院長に就任。1945年(昭和20年)8月19日、第二次世界大戦終結後の混乱の中、新たに発足した新京日本人会の会長に就任。
板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11… 板垣 政参(いたがき まさみつ、1882年〈明治15年〉11月8日 - 1967年〈昭和42年〉10月28日)は、日本の医学者、教育者。医学博士。九州大学名誉教授。内分泌や黄体ホルモンの生理学的研究や、久留米大学附設中学校・高等学校を設立したことで知られる。 岩手県盛岡市出身。板垣征四郎の兄。旧制盛岡中学、旧制二高、京都帝国大学医学部を経て、1910年より京都帝国大学福岡医科大学助教授に就任。1913年陸軍2等軍医になる。1914年3月より3年間ヨーロッパに留学し、1918年九州帝国大学教授となる。その後1932年九州帝国大学医学部長、1933年温泉治療学研究所長を歴任。太平洋戦争中にはジャカルタ医科大学学長を務めた。
田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 19… 田丸 節郎(たまる せつろう、1879年11月1日 - 1944年8月5日)は、日本の化学者。 岩手県盛岡市出身、盛岡中学卒業。 1904年に東京帝国大学理科大学化学科を卒業した。1908年から1917年にかけてドイツのフリッツ・ハーバーの許でアンモニア合成の研究に携わった。1917年に帰国し理化学研究所の研究員となり、1929年に東京工業大学の教授に就任した。日本学術振興会の創設にも尽力した。 田中舘愛橘や寺田寅彦とともに、東京帝大運動会の短距離競走で使用された電気計測器の製作にも携わった。1902年の運動会では、100メートル競走優勝者に対して実施された「優勝者競走」というタイムトライアルに初めてこの装置が使用され、出走した藤井實(当時法科大学生)が10秒24という記録を出したとされる(この記録に関する詳細や議論については藤井の記事を参照)。
煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)… 煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)6月3日 - 1954年(昭和29年)3月21日)は、明治から昭和にかけての西洋史学者、政治学者。日本のロシア史研究の「草分け」。早稲田大学名誉教授。岩手県出身。 煙山専太郎は、岩手県大川目村(現在の久慈市大川目町)に生まれた。盛岡尋常中学を経て東京帝大の史学科に進んだが、のちに哲学科に転科した。有賀長雄が主宰する『外交時報』に、在学中から寄稿しており、有賀の知遇を得ている。早稲田大学で研究者、教育者として過ごした。 『外交時報』は、1898年(明治31年)に有賀が創刊した国際・外交問題専門誌である。埴原正直が編集人をやめた後、編集事務の方面で田中唯一郎が、執筆面で煙山専太郎が有賀を補佐する存在となったとされる。
切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937… 切田 太郎(きりた たろう、1876年3月1日 - 1937年7月4日)は、日本の商学者。第6代台北高等商業学校校長。 岩手県盛岡市生まれ。1900年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1902年同専攻部卒業。大倉高等商業学校講師、国民英学会講師、日本大学講師、明治大学講師、善隣高等商業学校講師、同教授、大倉高等商業学校教授を経て、1910年から東京高等商業学校教授を務める傍ら、中華民国政府の招きで京師大学堂講師を務め、同大学に商学部を設立した。1918年中村組ニューヨーク支店長。1919年台湾総督府台北高等商業学校教授。1929年同校長事務取扱。1930年同校長。1937年退官、叙正四位。同年鉄道事故にて負傷し死去し、学友の上田貞次郎らが弔問に訪れた。
田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年… 田丸 卓郎(たまる たくろう、明治5年9月25日(1872年10月27日)/ 明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和7年(1932年)9月22日)は、日本の物理学者、ローマ字論者。岩手県盛岡市出身。化学者の田丸節郎は弟。 盛岡大清水小路にて旧盛岡藩士・田丸十郎とセンの次男として生まれた。1879年(明治12年)には伯父である中原雅郎一家とともに暮らし、宮城県師範学校附属小学校、東京師範学校附属小学校へ通った。 1895年(明治28年)、(東京)帝国大学理科大学物理学科卒業。第五高等学校教授、京都帝国大学助教授、1901〜1905年ドイツのハイデルベルク大学留学を経て、1900年(明治33年)に東京帝国大学理科大学助教授。
鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1… 鳥羽 源藏(とば げんぞう、1872年2月28日〈明治5年1月20日〉 - 1946年〈昭和21年〉5月23日)は、日本の明治から昭和初期にかけて活躍した博物学者、教育者である。植物・昆虫・鳥・貝類などの分類学者であり、標本収集者だった。号は三枝。姓の「羽」は「羽」の旧字体だがJIS X 0208には収録されておらず、名の「藏」は「蔵」の旧字体であるため、新字体を用いて鳥羽 源藏、鳥羽 源蔵とも表記される。 明治5年1月20日(グレゴリオ暦1872年2月28日)に岩手県気仙郡小友(おとも)村(現在の陸前高田市小友町)で清左衛門とアヤメの長男として生まれた。生家は「源氏屋」と呼ばれる名門であり、財産家であったともいわれている。
伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月… 伊能 嘉矩(いのう かのり、慶応3年5月9日(1867年6月11日) - 1925年9月30日)は、日本の人類学者・民俗学者。 明治時代においていち早く人類学を学び、特に台湾原住民の研究では膨大な成果を残した。郷里岩手県遠野地方の歴史・民俗・方言の研究にも取り組み、遠野民俗学の先駆者と言われた。梅陰という筆名での著作も多数ある。 慶応3年(1867年)、横田村(現在の岩手県遠野市東舘町)に生まれる。父母を早くに亡くしたが、両祖父から漢学・国学・国史などを学び、若くして学才を発揮する。1885年、上京して斯文黌に学ぶ。自由民権運動にも参加し、岩手県に戻り入学した岩手師範学校では寄宿舎騒動の首謀者とみなされ放校処分を受ける。
小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年… 小田 為綱(おだ ためつな、天保10年9月29日(1839年11月4日) - 明治34年(1901年)4月5日)は、岩手県九戸郡宇部村(現:久慈市宇部町)出身の学者・教育者・政治家。通称は仙弥。 昌平黌に学んだ後、盛岡藩の藩校である作人館の教授・寮長となり、原敬らを指導する。明治維新後、北奥羽開拓の構想を建白するが顧みられなかった。 明治10年(1877年)の西南戦争に呼応して、東北地方での士族挙兵の計画に参画するが未然に検挙され(首謀者の神職の名から「真田太古事件」と呼ばれる)、他の参加者らとともに禁固刑に処せられた。明治31年(1898年)には第5回衆議院議員総選挙に岩手県第2区から出馬し衆議院議員に当選。
名須川 良平(なすかわ りょうへい、1831年1月31日〈天… 名須川 良平(なすかわ りょうへい、1831年1月31日〈天保元年12月18日〉 - 1900年〈明治33年〉2月3日)は、幕末から明治期の漢学者、政治家。衆議院議員。号・他山。 陸奥国稗貫郡、のちの岩手県稗貫郡花巻町(現花巻市)で生まれた。儒学、武田流兵法(甲州流軍学)を修めた。花巻の郷学・揆奮場の教授、また、作人館修文所教授を務めた。 明治維新後、上京して神奈川県公吏、師範学校教師を務めた。帰郷後、1877年(明治10年)私塾・他山塾を開き、1878年(明治11年)ころに花巻の自由民権結社・大有社で教えた。1887年(明治20年)郡立稗貫高等小学校長に就任した。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岩手県第3区)で初当選し、同年8月の第6回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826… 大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。 文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功する。
佐々木 豪(ささき ごう)は、日本の皮膚科医、医学者。岩手県… 佐々木 豪(ささき ごう)は、日本の皮膚科医、医学者。岩手県盛岡市の医療法人佐々木皮膚科の院長・理事長を務め、東京科学大学医学部皮膚科学講座の臨床准教授を兼任している。専門は皮膚免疫学、アトピー性皮膚炎、慢性蕁麻疹など。 岩手県出身。岩手県立盛岡第一高等学校を経て、東京医科歯科大学医学部を卒業後、同大学大学院医歯学総合研究科皮膚科学講座にて皮膚免疫学を専攻し、医学博士号を取得した。 その後、東京医科歯科大学医学部附属病院皮膚科学講座助手、独立行政法人東京労災病院皮膚科科長などを経て、故郷である盛岡市に戻り、先代院長(佐々木博)の後を継いで医療法人佐々木皮膚科の第6代院長に就任した。現在は院長・理事長を務めている。
杉田 孝夫(すぎた たかお)は、日本の政治学者。専門は西洋政… 杉田 孝夫(すぎた たかお)は、日本の政治学者。専門は西洋政治思想史、特にドイツ観念論(カント・フィヒテ・ヘーゲル)と近代家族論・ジェンダー論。 主に18世紀末〜19世紀初頭のドイツ政治思想を対象とし、特に「自由と共同性」の問題を軸にカント、フィヒテ、ヘーゲルの再検討を行っている。また、近代家族の形成過程とジェンダー構造の思想史的分析でも知られる。
前田 秀将(まえだ ひでゆき、英語: Hideyuki Ma… 前田 秀将(まえだ ひでゆき、英語: Hideyuki Maeda)は、日本の法医学者、医師。専門は法医学、救急医学、低酸素環境下の病態生理学。 主な研究テーマは、低酸素曝露(特に間欠的低酸素)と関連する病態
佐藤 衡(さとう こう)は、明治時代から昭和時代前期の政治家… 佐藤 衡(さとう こう)は、明治時代から昭和時代前期の政治家・教育者・漢学者。岩手県東磐井郡長坂村長。号は猊巌(猊嵒とも表記)。猊鼻渓の観光開発と景観保存に尽力した。 幼い頃より父から漢学の手ほどきを受けており、漢詩を得意としていた。漢詩人としては森槐南が主宰する随鴎吟社に所属し、機関誌『随鴎集』に多くの作品を投稿した。猊鼻渓の宣伝活動に際しては自身で景色を詠み込んだ詩を賦してアピールに努めたほか、私費を投じて各地の詩友を招いた。 父:佐藤謙治(洞潭)弟:佐藤敬吉(東華) この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小野寺 一浩(おのでら かずひろ)は、日本の法学者。専門は刑… 小野寺 一浩(おのでら かずひろ)は、日本の法学者。専門は刑法。福岡大学法学部教授。 刑法の犯罪総論と各論が交錯する問題を、具体的事例分析を通じて検討している。また共犯理論の発展過程を検証し、その実体解明に取り組んでいる。 主な研究キーワードは「共犯」。
神成 文彦(かんなり ふみひこ、英語: Fumihiko K… 神成 文彦(かんなり ふみひこ、英語: Fumihiko Kannari)は、日本の工学者。専門はレーザー工学、光工学。慶應義塾大学名誉教授。 主に超短パルスレーザー(特にフェムト秒レーザー)のパルス整形技術、位相制御技術、レーザーアブレーションの応用研究に従事した。空間光変調器を用いたパルス整形や、周波数干渉計測による振幅・位相計測などの手法を開発・応用し、強光子場科学や微細加工分野に寄与した。 主な著書に『レーザアブレーションとその応用』(コロナ社、共著)などがある。
菊地 敬夫(きくち たかお)は、日本の考古学者、エジプト学者… 菊地 敬夫(きくち たかお)は、日本の考古学者、エジプト学者。専門はエジプト新王国時代を中心とした墓・壁画研究、王家の谷の宗教的テキスト(アムドゥアト書など)のデジタル史料化。 岩手県生まれ。1981年に盛岡第一高等学校を卒業し、早稲田大学に入学。同大学院文学研究科博士課程を単位取得満期退学した後、エジプト・カイロ大学考古学部に留学。 早稲田大学エジプト学研究所に所属し、1989年より王家の谷の発掘調査に参加。以降30年以上にわたり、アメンヘテプ3世王墓(WV22)やルクソール西岸アル=コーカ地区の岩窟墓群(特にTT47ウセルハト墓など)の調査・壁画記録・デジタルアーカイブ化に従事した。 2010年代以降は東日本国際大学エジプト考古学研究所に移り、教授・客員教授を歴任(2015年頃より教授、2017–2021年エジプト考古学研究所教授、2025年時点で客員教授)。
桑原 千幸(くわはら ちゆき)は、日本の教育工学者。事業創造… 桑原 千幸(くわはら ちゆき)は、日本の教育工学者。事業創造大学院大学情報デザイン学部准教授。博士(学術)(熊本大学・2018年)。専門はインストラクショナルデザイン、キャリア教育、図書館情報学。 主にインストラクショナルデザイン(ID)に基づいたキャリア教育の授業設計や、相互評価学習の効果に関する研究を行っている。特に、短期大学におけるキャリア教育における相互評価学習の実践と、それが学生の自己効力感や進路選択に与える影響について探求している。また、図書館情報学分野における海外文献の翻訳にも携わっており、学術的な知見の普及も行っている。
三舩 康道 (みふね やすみち、1949年- )は、日本の建… 三舩 康道 (みふね やすみち、1949年- )は、日本の建築家、都市工学者。 岩手県生まれ。岩手県立盛岡第一高等学校を経て、千葉大学工学部建築学科卒業、1991年東京大学大学院博士課程修了、「低層高密度市街地整備の「計画最小単位」に関する研究 :道路・防災・駐車問題の改善手法」で工学博士。技術士(総合技術監理部門・建設部門)、一級建築士。ジェネスプランニング(株)代表取締役。 みなとみらい21地区防災計画の作成、スマトラ島沖地震インド洋津波バンダ・アチェ市復興特別防災アドバイザー、その他各地の防災関連の業務を行う。 委員等:地域安全学会理事、日本都市計画協会理事、見附市防災アドバイザー、墨田区災害復興支援組織代表、国際連合日中防災法比較検討委員会委員、新潟工科大学教授等を歴任。
三好 建吾(みよし けんご)は、日本の医師、医学者。東京大学… 三好 建吾(みよし けんご)は、日本の医師、医学者。東京大学大学院医学系研究科助教。東京大学医学部附属病院糖尿病・代謝内科に所属。主に2型糖尿病、肥満症、合併症予防、爪郭毛細血管評価などの臨床・基礎研究に従事している。 岩手県立盛岡第一高等学校を卒業後、2008年に東京大学理科三類へ現役進学(高校・大学の同期に越膳航平がいる)。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学院にて博士(医学)を取得。現在、東京大学医学部附属病院 内科診療部門 糖尿病・代謝内科助教を務める。 糖尿病患者の合併症抑止(J-DOIT3試験データ解析など)、肥満症の病態解析、爪郭毛細血管の定量評価、NFIAによる糖・脂質・エネルギー代謝制御などをテーマに研究。
山口 周(やまぐち しゅう)は、日本の材料科学者。東京大学名… 山口 周(やまぐち しゅう)は、日本の材料科学者。東京大学名誉教授。元固体イオニクス学会会長。第24期・第25期日本学術会議会員。 1972年、岩手県立盛岡第一高等学校卒業。1983年、東京工業大学大学院修了、工学博士。名古屋工業大学助手、名古屋工業大学助教授、東京大学大学院工学系研究科教授を経て、2011年固体イオニクス学会会長。2017年第24期日本学術会議第三部会員。2018年に東京大学退職後、東京大学名誉教授、独立行政法人大学改革支援・学位授与機構研究開発部特任教授。2020年第25期日本学術会議会員。