大輪 弘之(おおわ ひろゆき、1943年 - 2024年6月… 大輪 弘之(おおわ ひろゆき、1943年 - 2024年6月)は、東京都出身の高校野球指導者。 高校は専修大学附属京王高等学校でプレー。 大学は東都大学野球の亜細亜大学に進学。 大学卒業後は長野県の武蔵工業大学付属信州工業高等学校(後の武蔵工業大学第二高等学校で現在の東京都市大学塩尻高等学校)に赴任。野球部の監督として菊池涼介ら数多くのプロ野球選手を育てた。 監督退任後の2008年から2018年までは長野朝日放送の解説者を務めた。その後はボーイズリーグの「諏訪ドリーム」のコーチを務めていた。 2024年6月に死去。80歳没。
福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は… 福浦 健次(ふくうら けんじ、1942年9月13日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)では大型左腕投手として知られ、1961年に阪神タイガースに入団。1年目から一軍に上がり、中継ぎとして5試合に登板する。1963年10月13日に国鉄スワローズを相手に初先発。金田正一と投げ合い、5回を2安打3失点に抑えるが敗戦投手となった。その後は出場機会に恵まれず、1965年に自由契約になり西鉄ライオンズに移籍。ここでも中継ぎとして起用され、1967年と1968年にそれぞれ12試合に登板した。1970年限りで引退した。
千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 -… 千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手、一塁手、外野手)。 日大三高では投手として1958年秋季東京大会決勝に進出。日大二高のエース井上善夫と投げ合い、0-1で完封負けを喫するが、1959年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で松商学園に0-6で完封負け。同年夏は都予選準決勝で、またも日大二高の井上と投げ合うが4-5で惜敗、甲子園には届かなかった。 卒業後は日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中3度優勝。2年上に宮田征典がおり、一塁手と投手を兼ねて起用される。1961年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で関大を降し優勝を飾る。
斎藤 幸夫(さいとう ゆきお、1941年9月7日 - )は、… 斎藤 幸夫(さいとう ゆきお、1941年9月7日 - )は、東京府出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 桐朋高等学校から早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは、1960年秋季リーグでいわゆる早慶六連戦による優勝を経験するが、その後はチームの低迷が続き優勝には届かなかった。大学同期には内野手の岡田紀明(河合楽器-高松商監督)、杉浦藤文(中京高監督-中京大監督)、外野手の大井道夫らがいた。 1963年に大毎オリオンズ に入団。翌1964年に一軍に上がり、6試合に遊撃手、二塁手として先発出場。1965年は山崎裕之、篠原良昭と遊撃手の定位置を争い、25試合に先発を果たす。その後は出場機会が減少、1966年限りで引退した。
新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 20… 新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 2004年5月4日)は、日本のプロ野球選手(投手)、実業家。東京大学野球部初のプロ野球選手である。 東京都文京区立第四中学校の1年生の時、東京都中学生による憲法記念野球大会で優勝する。都立小石川高校時代には硬式野球部がなく、軟式野球部にてプレー。3年生のときに東京都少年野球大会で優勝した。 新治は早稲田大学でのプレーを希望して知り合いに相談したところ、早稲田では硬式での経験がないと難しい、東大なら軟式上がりでもレギュラーになれるだろうと言われ、早稲田大学をあきらめ東京大学経済学部を受験し合格。硬式野球部に入部した。東京六大学野球リーグでは1961年春季リーグから8季連続最下位。
成島 和久(なるしま かずひさ、1941年度生まれ)は、東京… 成島 和久(なるしま かずひさ、1941年度生まれ)は、東京都出身の元野球選手。 東京都品川区出身で、品川区立大崎中学校、明治高校、明治大学を経て、社会人野球の日本コロムビアで野球選手として活躍した。明治高校では春、夏1度ずつ2度の甲子園出場を果たした。第40回全国高等学校野球選手権大会東京都代表決勝戦では、王貞治が投手だった早稲田実業学校と戦い、1対1で延長戦に入り、延長12回表に早稲田実業に4点を取られたが、その裏明治が5点を奪い劇的な逆転サヨナラ勝利で、甲子園出場を果たした。この時成島は2年生でショートを守っていた。王貞治は今でもこの時のことを生涯忘れられないと語っている。 卒業後は明治大学に入り、東京六大学野球で活躍し、東大戦でホームランも打っている。
宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2… 宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2025年5月20日)は、東京都目黒区出身のプロ野球選手(捕手)・解説者。 荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。 大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
大羽 進(おおば すすむ、1940年9月19日 - )は、東… 大羽 進(おおば すすむ、1940年9月19日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 中学時代から王貞治と対戦しており、地区大会決勝で対戦するも敗北。日本大学第一高校に進学。2年生時にはエースとして1957年夏の甲子園都予選決勝に進み、早稲田実業高の王と投げ合うが完封負けを喫する。しかし翌1958年春季関東大会都予選では早実高を完封、関東大会決勝まで進むが銚子商に惜敗した。夏の都予選では4回戦で敗退、甲子園には出場できなかった。王とは3度対戦したが1勝2敗であった。 高校卒業後は明治大学に進学する予定だったが、家業のメッキ工場が倒産したこともきっかけになって急遽進学をとり止め、プロ入りすることを決意し1959年に広島カープへ入団した。
菅原 紀元(すがわら のりもと、1940年7月25日 - )… 菅原 紀元(すがわら のりもと、1940年7月25日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 東洋商業高校では、エースとして1957年秋季東京大会準々決勝に進むが、都四商に敗退。 1959年に大毎オリオンズへ入団。1962年に自己最多となる57試合に登板し12勝10敗の成績を記録したが、以後は肩痛に悩まされ、勝利を挙げることなく1965年に引退した。 武器はカーブ、シュート。
王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzh… 王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ、中華民国籍の元プロ野球選手・監督。福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役会長。日本プロ野球名球会顧問。
相沢 邦昭(あいざわ くにあき、1940年1月19日 - )… 相沢 邦昭(あいざわ くにあき、1940年1月19日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。
石井 晶(いしい あきら、1939年11月21日 - 201… 石井 晶(いしい あきら、1939年11月21日 - 2013年7月15日)は、東京都足立区出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。ニックネームは「ゴジ」。 足立高校卒業後は1958年に東京鉄道管理局へ入社し、河野安男(のち近鉄)と共に中心打者として第29回全国鉄道大会の優勝に貢献。同大会の首位打者となり、1959年にはプロ入りした河野の後継の4番・一塁手を務め、都市対抗の予選などで活躍。 1960年に阪急ブレーブスへ入団し、当初から背番号「6」で即戦力として期待されていた。1年目の同年は主に控え三塁手として33試合出場にとどまるが、2年目の1961年には三塁手のレギュラーを人見武雄と争い80試合に先発出場。
河東 真(かわひがし まこと、1939年10月14日 - )… 河東 真(かわひがし まこと、1939年10月14日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(内野手)。
金 博昭(こん ひろあき、1939年1月7日 - )は、東京… 金 博昭(こん ひろあき、1939年1月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 帝都育英工を1年で中退し、再入学した日大二高から明治大学、日本大学へ進学したが、それぞれ一年で中退。 1960年に、当時は準硬式野球部であった立正佼成会へ進んだ。翌年にチームが硬式に転向し、1963年には熊谷組、1964年にはサッポロビールの補強選手として都市対抗に出場。1965年の都市対抗にエース若生和也を擁しチーム初出場。大会史上に残る大応援団のもと、1回戦で三重交通を降すが、2回戦で松下電器に敗れた。この大会では打率.528で首位打者となる。また1967年には、監督兼選手としてチームを率いた。同年都市対抗に再度出場し、打率.444を記録し優秀選手となった。
並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 19… 並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 1988年9月1日)は、東京都世田谷区出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ、解説者。 日大三高在学時は投手として活躍し、エース兼四番打者として、2年次の1955年には夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗を喫し、3年次の1956年には春の選抜にも出場。この大会でも準々決勝に進出するが、渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫す。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。高校同期に中堅手の宮沢重雄がいる。 高校卒業後は早稲田大学に進学を予定していたが、家庭の事情により1957年に大阪タイガースへ入団。元々は中日ドラゴンズへ入団する予定であったが、担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇され、タイガースに移籍したため並木もタイガースに入団することとなった。
幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995… 幸田 優(こうだ まさる、1938年11月2日 - 1995年6月9日)は、東京都品川区出身のプロ野球選手(投手)。 荏原高校時代にカーブの使い手として注目され、3年夏は都大会ベスト8。 慶応義塾大学へ進学する予定だったが家庭の事情もあって断念し、1957年に大洋ホエールズに入団すると、2年目の1959年には4完封で7勝(防御率2.86)を挙げ先発陣の一角として名乗りを挙げる。 翌1960年には、秋山登のアクシデントもあり開幕投手に抜擢されるが、3-4と惜敗。そのまま波に乗れなかったのか2勝にとどまる。 1962年の春キャンプで頭部に打球を受け骨折。これが原因で同年2試合で1イニング投げたのみで引退した。
妻島 芳郎(つましま よしろう、1938年10月9日 - )… 妻島 芳郎(つましま よしろう、1938年10月9日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)。 日大二高では2年次の1955年、秋季関東大会都予選決勝に進出するが、日大三高のエース並木輝男に抑えられ敗退。3年次の1956年には夏の甲子園都予選4回戦で成蹊高に敗れ、甲子園には出場できなかった。卒業後は1957年に日本通運浦和へ入社し、古谷法夫コーチの指導を受ける。1958年の都市対抗に出場し、1回戦でエース堀本律雄を好リリーフ、優勝候補の日本生命を降す。1960年からは稲葉誠治監督の指導も受け、1961年の都市対抗では2回戦(初戦)に先発で起用されるが、電電九州に敗退。この時のチームメイトには渋谷誠司がいた。
平光 清(ひらこう きよし、1938年7月15日 - 201… 平光 清(ひらこう きよし、1938年7月15日 - 2011年8月9日)は、東京都大田区出身の元プロ野球審判員、野球解説者。大学野球、プロ野球選手経験は無い。通称「先生」「審判先生」。
宮沢 重雄(みやざわ しげお、1938年7月7日 - )は、… 宮沢 重雄(みやざわ しげお、1938年7月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 日大三高では、2年生の時エース並木輝男を擁し、外野手として1955年に夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗。翌1956年には春の選抜にも出場。準々決勝に進出するが渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫する。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。 1957年に大洋ホエールズに入団、1年目から一軍で起用される。しかしあまり活躍の場はなく1958年限りで引退した。
岡田 彬(おかだ ひとし、1938年6月18日 - )は、東… 岡田 彬(おかだ ひとし、1938年6月18日 - )は、東京府(現・東京都)出身の元野球選手(捕手)・監督。 戸山高校卒業後の1959年に東京大学法学部へ進学し、野球部では捕手としてプレー。東大の投手として通算最多勝利記録(17勝)を持つ岡村甫、後に「東大初のプロ野球選手」として大洋へ入団した新治伸治とバッテリーを組む。 大学卒業後の1963年に三菱重工業へ入社し、京都製作所勤労課において人事・労務政策業務に携わる傍ら、三菱自動車京都の選手兼任監督として創立間もない野球部を鍛え上げる。1970年に初の都市対抗京都市代表に導き、同年限りで現役を引退すると共に監督も退任。 退任後は1971年に1年間だけドイツの三菱重工の子会社に勤務し、ヨーロッパ各国に機械の営業活動を行った。
村田 元一(むらた げんいち、1938年4月10日 - )は… 村田 元一(むらた げんいち、1938年4月10日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 明治高校では2年生の時、エースとして1955年春季関東大会準々決勝に進むが、水戸商の生田目貢(明大)に完封を喫する。翌1956年夏の甲子園都予選準決勝に進出、早実高の王貞治と投げ合うが1-2で惜敗し、甲子園出場を逃した。 1957年に国鉄スワローズに入団。1958年には開幕2戦目から先発として起用されるも、開幕から3連敗を喫する。4月26日に大洋ホエールズを相手に先発、9三振を奪い中島執の1安打のみに抑え初勝利を完封で飾る。同年はリーグ最多の62試合に登板し、5連勝を含む15勝を記録した。1960年には18勝をマークするなど、金田正一に次ぐ第2エースとして長くスワローズの投手陣を支えた。
高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - … 高林 恒夫 (たかばやし つねお、1938年1月12日 - 2009年9月5日)は、昭和中期(1960年代前半)のプロ野球選手(外野手)。 東京都神田出身。錦華小学校を経て、立教中学校(現・立教池袋中学校)で野球を始める。立教高校(現・立教新座高校)では1年生からレギュラーとなり、中堅手として1955年の春の甲子園に出場する。1回戦で坂崎一彦、山本八郎らのいた浪華商に完封負け。浪華商はこの大会に優勝する。同年夏は都予選準々決勝で早実高に敗退した。 1956年立教大学に入学するが、2年生までベンチ入りすらできなかった。2年生時の1957年11月3日立教大学が東京六大学野球の秋季リーグで優勝を決めた日の夜に、高林は前科3犯の窃盗犯を捕獲して、神田警察署から表彰状と賞金500円を受け取る。
榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 20… 榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 2012年3月14日)は、東京都中野区出身のプロ野球選手(一塁手)。
功力 靖雄(くぬぎ やすお、1936年 10月21日- )は… 功力 靖雄(くぬぎ やすお、1936年 10月21日- )は、日本の野球指導者。東京都出身。東京都立駒場高等学校、東京教育大学卒業。 元筑波大学硬式野球部監督。22年間、43シーズン指揮をとり、チームを首都大学野球連盟で3度の優勝に導く。1987年には第18回明治神宮野球大会にて優勝し、国立大学初の日本一を達成。教え子の中からは多くの指導者も誕生し、全国で活躍。大学の地元茨城県では、秋に筑波大学野球部出身者が野球部監督・部長を務める高校が参加する功力杯という大会が行われ、功力の功績を讃えている。筑波大学名誉教授。
赤木 健一(あかぎ けんいち、1936年9月28日 - )は… 赤木 健一(あかぎ けんいち、1936年9月28日 - )は、兵庫県城崎郡国府村(現在の豊岡市)生まれの元プロ野球選手。 兵庫県城崎郡国府村(現在の豊岡市)で生まれ、東京都で育った。隣家の植村直己とは少年時代、遊び仲間だった。 慶應義塾高校では1954年夏の甲子園県予選3回戦で希望ヶ丘高に敗退。慶應義塾大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1956年秋季リーグで優勝を経験。1958年春季リーグでは打率.404で首位打者を獲得、同年は春秋季ともベストナイン(外野手)受賞。1955年には第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学野球リーグ選抜チーム)に選出された。リーグ通算59試合出場、170打数51安打、打率.300、2本塁打。
西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 … 西大立目 永(にしおおたちめ ひさし、1936年7月10日 - 2002年12月16日)は、東京都武蔵野市出身のアマチュア野球選手、審判員、早稲田大学名誉教授。
石田 雅亮(いしだ まさあき、1936年1月13日 - )は… 石田 雅亮(いしだ まさあき、1936年1月13日 - )は、東京都出身のプロ野球選手。ポジションは一塁手。 明治高校では、四番打者、一塁手として活躍。1952年秋季東京大会では4高校による決勝リーグに進むが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れ春の選抜出場を逸する。翌1953年夏の甲子園都予選でも決勝に進出、桑田武のいた荏原高に延長11回サヨナラ勝ち、夏の甲子園に出場を決める。大会では準々決勝に進み、後にプロで同僚となる阿井利治らのいた静岡商に辛勝。しかし準決勝で松山商の空谷泰に完封を喫した。 1954年に国鉄スワローズへ入団。2年目の1955年には開幕から六番打者、一塁手として起用され、120試合に出場。
佃 明忠 (つくだ あきただ、1935年5月19日 - )は… 佃 明忠 (つくだ あきただ、1935年5月19日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。
関口 一郎(せきぐち いちろう、1935年2月19日 - )… 関口 一郎(せきぐち いちろう、1935年2月19日 - )は、1950年代に大洋ホエールズに在籍した東京都中央区出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 明治高校では控え投手。1952年春季関東大会決勝に進み、宇都宮高を相手に先発を任せられるが、初回に打ち込まれ降板している。卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは3年生までに3回の優勝を経験。貴重な左腕として期待されるが、1年上の秋山登の陰に隠れ登板機会には恵まれなかった。しかし秋山が卒業した1956年春季リーグでは、中田昌宏、衆樹資宏ら強打者揃いの慶大を完封し、一躍脚光を浴びる。その後は投手陣の中軸として起用されるが、チームは春季3位、秋季4位に終わった。
若杉 輝明(わかすぎ てるあき、1934年6月10日 - )… 若杉 輝明(わかすぎ てるあき、1934年6月10日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 日大三高ではエースとして活躍。1951年夏の甲子園都予選で準決勝に進むが、荏原高に敗退。同年の秋季東京大会で優勝し、高校地区代表大会に関東代表として出場。準決勝では土佐高の池上武雄(慶大-四国銀行)と投げ合い完封勝ち。決勝でも橋本力を打の主軸とする函館西高を降し優勝。3年生時の1952年には春夏の甲子園に出場。春の選抜は2回戦(初戦)で太田正男、河津憲一がいた長崎商に敗退。夏の選手権は準々決勝に進み、またも長崎商と対戦。太田との投手戦になるが、延長11回の末に0-1で敗れた。同年秋の東北3県国体にも出場。
斎田 忠利(さいだ ただとし、1934年4月11日 - )は… 斎田 忠利(さいだ ただとし、1934年4月11日 - )は、プロ野球選手、審判人。元パシフィック・リーグ審判部長。東京都出身。
中野 健一(なかの けんいち、1934年3月21日 - )は… 中野 健一(なかの けんいち、1934年3月21日 - )は、毎日オリオンズ に在籍したプロ野球選手(内野手)。 法政一高では1951年春季東京大会で準決勝に進むが、沖山光利のいた明治高に敗退。同年夏の甲子園都予選では3回戦で成城高に惜敗。卒業後は法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、遊撃手として活躍。1955年秋季リーグでは打率.383で首位打者を獲得、ベストナインにも選出された。大学同期に長谷川繁雄がいる。 卒業後は 日本石油に入社。1956年の都市対抗では一番打者としてエース藤田元司を擁し決勝に進出。熊谷組を降しチームを優勝に導く。この時のチームメートに花井悠らがいる。
沖山 光利(おきやま てるとし、1933年5月1日 - 20… 沖山 光利(おきやま てるとし、1933年5月1日 - 2012年5月23日)は、東京都出身で、大洋ホエールズに在籍したプロ野球選手(外野手)である。1960年の大洋V1戦士の1人。 明治高校では外野手として、甲子園に3回出場した。2年生時の1950年春の選抜では1年上のエース・大崎三男を擁し、1回戦で彦根高を降すが、準々決勝で北野高に敗退。同年夏の選手権は2回戦(初戦)で北海高に敗れる。翌年の春の選抜では準決勝まで進むが、藤尾茂、中田昌宏らを擁した鳴尾高に大敗した。 卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。
田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 20… 田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 2006年7月19日)は、日本のスポーツライター、高校野球指導者、プロ野球監督・球団経営者。東京都出身。 日本大学第三高等学校、日本大学卒業。共に野球部に所属し、一塁手、投手として活躍。右投右打。 1956年、日刊スポーツ野球記者となる。 1960年、母校の日本大学第三高等学校野球部監督に就任。1962年の選抜高等学校野球大会では準優勝に導く。 その後、日刊スポーツ野球記者に復帰後、1968年2月、高校野球での実績を買われ、プロ経験はないもののサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)二軍監督に就任。1971年・1972年と2年連続でイースタン・リーグ優勝を果たした。
大崎 三男(おおさき みつお、1932年5月9日 - 没年不… 大崎 三男(おおさき みつお、1932年5月9日 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)。 明治高校では、エースとして1950年の春夏の甲子園に連続出場。春の選抜は1回戦で彦根高の中川和俊(のち毎日)と投げ合いを完封勝利、続く準々決勝で北野高に乱打戦の末に敗退。夏の選手権は2回戦(初戦)で北海高に敗れる。この時の監督は、後に大学野球監督として著名となる島岡吉郎である。1年下のチームメートに右翼手の沖山光利がいた。 明治大学に進学し、同学硬式野球部に所属。高校の野球部監督だった島岡も同時期に明治大学硬式野球部へと移っている。しかし1953年に退部し、大学も中退。この退部の原因は、1年後輩の秋山登がエースとして起用されるようになったことに対する不満とも、監督である島岡吉郎との確執とも言われている。
脇村 春夫(わきむら はるお、1932年1月15日 - )は… 脇村 春夫(わきむら はるお、1932年1月15日 - )は、日本の実業家、元アマチュア野球選手。第5代日本高等学校野球連盟会長(2002年11月 - 2008年11月)。現在は、公益財団法人脇村奨学会代表理事。博士(経済学)(大阪大学)。 脇村禮次郎と祐子(正田貞一郎の三女)との子として東京府東京市小石川区(現:東京都文京区)に生まれる。祖父は田辺市名誉市民・脇村市太郎、正田貞一郎。おじに経済学者・脇村義太郎、鉱物学者・正田篤五郎、数学者・正田建次郎がいる。上皇后美智子の従兄にあたる。
富澤 宏哉(とみざわ ひろや、1931年7月25日 - )は… 富澤 宏哉(とみざわ ひろや、1931年7月25日 - )は、プロ野球審判員。現在は野球解説者、全日本軟式野球連盟顧問(審判技術担当)。東京都出身。東京都立小金井工業高等学校卒業。 社会人野球の審判を経て、1955年にセ・リーグ審判部へ入局。1980年から1989年まで審判部長、1990年1月引退。セ・リーグ審判袖番号は10(1988年採用から1990年キャンプイン直前引退まで、10は1998年以降名幸一明がつけている)。引退するまでの通算出場試合数は3775試合。オールスターゲーム出場9回、日本シリーズ出場9回。引退後は日本野球機構規則委員や、米国のジム・エバンス審判学校講師を務めた。同年齢の岡田功審判が1991年に3776試合出場を達成するまで、通算試合出場数の日本記録保持者であった。
長岡 久夫(ながおか ひさお、1929年2月5日 - 201… 長岡 久夫(ながおか ひさお、1929年2月5日 - 2017年8月18日)は、東京都出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)。 東京工業高等学校(現:日本工業大学駒場中学校・高等学校)在学中の1946年、東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ。以下、巨人)に練習生として入団。翌1947年まで在籍した。その後、ノンプロの豊岡物産でプレーした。1949年に中日ドラゴンズでプロ球界復帰したが、一軍公式戦出場は果たせないまま1950年に現役引退した。 巨人で初めて背番号0を付けた事で知られる。 引退後は、高校野球の監督を務めた。1994年に発足した日本プロ野球OBクラブにも会員として名を連ね、各地で開催される少年野球教室の講師としても活動した。
浜田 義雄(はまだ よしお、1926年11月25日 - 20… 浜田 義雄(はまだ よしお、1926年11月25日 - 2012年3月27日)は、東京都品川区出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ。 孫は声優の浜田洋平。 1948年に関口 義雄の登録名で急映フライヤーズに入団。翌年に名前を改名し、この年にレギュラーとして活躍。 1951年にオールスターゲームに出場している。また1955年10月5日の対毎日オリオンズ戦(後楽園球場)から1956年5月20日の阪急ブレーブス戦(駒澤野球場)まで196打席連続無三振を記録。これは当時の日本記録であった。 1958年に現役を引退、翌年より1969年まで岩本義行、水原茂、大下弘、松木謙治郎の代々の東映フライヤーズ監督の下でコーチを務めた。
小田切 茂造(おだぎり しげぞう、1926年6月3日 - )… 小田切 茂造(おだぎり しげぞう、1926年6月3日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。
山崎 善平(やまざき ぜんぺい、1926年4月21日 - 2… 山崎 善平(やまざき ぜんぺい、1926年4月21日 - 2005年7月5日)は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 府立第十二中から明治大学を経て、1950年に大洋ホエールズへ入団。しかし、契約金を1年かからずに使い切るほどの酒癖がたたり、1年で大洋を解雇される。同級生の杉下を頼り、1951年には名古屋ドラゴンズに移籍。1952年6月3日の古巣・大洋戦ダブルヘッダー第2試合(門司老松)では1試合6盗塁のプロ野球記録をマーク。内容は二盗1、三盗3、本盗2であった。足は速くも遅くもなかったが、一か八かの賭けに勝ち続けた結果であると杉下は述べている。この記録は1989年10月16日の中日戦で広島の正田耕三が同じく1試合6盗塁をマークしたのみで現在もプロ野球タイ記録として残っている。
今泉 勝義(いまいずみ かつよし、1926年1月2日 - 2… 今泉 勝義(いまいずみ かつよし、1926年1月2日 - 2009年10月31日 )は、東京都出身のプロ野球選手(遊撃手、外野手)。 旧制日本大学第三中学校在学中に、1940年夏の甲子園に出場し、チームをベスト8に導く活躍を見せた。当時の監督に藤田省三(のち近鉄初代監督)、チームメイトに、坂本茂(のち巨人などでプレー)がいた。 中学卒業後の1944年に巨人に入団。4月29日の阪急戦(甲子園球場)で9番・遊撃手として先発出場した。しかしプロの壁は厚く、この試合を含め2試合にしか出場できず、ヒットを打つこともできなかった。終戦後の1946年に沢村栄治(1943年に現役引退。翌1944年に台湾沖で戦死)の後を引き継ぎ、背番号14を付けた。
杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - 202… 杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - 2023年6月12日)は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 中日ドラゴンズでは投手として1度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献。個人ではNPBで合計11個のタイトル(6個)・主要表彰(5個)を獲得している。 NPB史上初の本格的なフォークボールの使い手(フォークボーラー)とされ、当時は珍しさがあったものの驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操って球界に絶大な影響を与えたことから「フォークボールの神様」と呼ばれている。 1954年に32勝を挙げるなど中日ドラゴンズのエースとして活躍し、沢村栄治賞を史上初めて3度受賞しているほか、史上4人目・セ・リーグ史上初となる投手五冠王に輝いている。
清水 喜一郎(しみず きいちろう、1924年5月10日 - … 清水 喜一郎(しみず きいちろう、1924年5月10日 - 1964年2月28日)は、東京都出身のプロ野球選手(二塁手・遊撃手)。 京王商業学校(現・専修大学附属高等学校)在学中は、1941年に第27回全国中等学校優勝野球大会(日中戦争悪化により中止)東京府大会の決勝に進むが、帝京商業学校(現・帝京大学中学校高等学校)に0-14で大敗し、準優勝。戦時下の翌1942年に甲子園大会に出場。初戦で、この大会優勝の徳島商に延長14回の激闘の末、1-2で惜敗した。京王商業時代のチームメイトに貫井丞治がいる。 京王商卒業後は、貫井と共に明治大学でプレーした。実家は甲州街道沿いで食堂「喜楽」を営み、母親は明治大学野球部合宿所の賄い婦も兼ねていた。
渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021… 渡部 弘(わたべ ひろし、1924年2月14日 - 2021年2月25日)は、東京府出身のプロ野球選手(内野手)。 荏原中学校から1944年に東京巨人軍へ入団。1946年に退団。 2021年2月25日午前6時5分、誤嚥性肺炎のため静岡県沼津市の病院で死去。97歳没。
貫井 丞治(ぬくい かんじ、1924年 - 没年不明)は、東… 貫井 丞治(ぬくい かんじ、1924年 - 没年不明)は、東京都杉並区出身のプロ野球選手(捕手)。貫井 函治と表記される文献もある。 京王商業学校(現・専修大学附属高等学校)在学中は、1941年に第27回全国中等学校優勝野球大会(日中戦争悪化により中止)東京府大会で決勝まで進むが、帝京商業学校〔現・帝京大学中学校高等学校〕に0-14で大敗し、準優勝に終わる。翌1942年に戦時下の甲子園大会に出場し、初戦でこの大会優勝の徳島商に延長14回の激闘の末、1-2で惜敗。座ったまま、二塁に送球できる強肩捕手として知られていた。京王商業時代のチームメイトに清水喜一郎がいる。 京王商卒業後は清水とともに明治大学に進学するが、貫井は父の反対により野球を止める。
林 和男(はやし かずお、1923年12月16日 - 200… 林 和男(はやし かずお、1923年12月16日 - 2009年9月11日)は、東京都調布市出身の野球指導者。林建設株式会社元会長。 早稲田大学では政経学部に所属し、同校の軟式野球の選手として活躍。大学卒業後は建設会社へ入社し、野球を続けた。 1964年、リトルリーグ(小学生硬式野球)を日本に紹介。野球を国技とするアメリカ合衆国のように、日本の子供たちに硬式野球を広めたいとする思いから、産業経済新聞社、フジテレビジョンなど、のちのフジサンケイグループと協力して、リトルリーグの普及に尽力する。 1965年、林の長男や友人らを中心として、リトルリーグのチーム「調布リトルリーグ(創設時は調布リトル野球チーム)」の創設に携わる。
榎本 茂(えのもと しげる、1923年2月5日 - 生死不明… 榎本 茂(えのもと しげる、1923年2月5日 - 生死不明)は、東京都出身の元プロ野球選手。 京王商業から東京鉄道局を経て、1950年に創設された国鉄スワローズへ参加。 同年3月10日の記念すべき開幕戦では6番ライトとして先発出場するも、その後は出場機会に恵まれず同年限りで引退した。
鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明… 鈴木 忠(すずき ただし、1922年2月25日 - 没年不明)は、東京府出身のプロ野球選手。 旧制日大二中、日大高工、川崎トキコ、国民野球連盟の大塚アスレチックスを経て1950年に新設された西日本パイレーツへ入団。同年退団。
高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年… 高松 利夫(たかまつ としお、1919年8月15日 - 没年不明)は、東京都出身のプロ野球選手(投手)・解説者・評論家。 東京府立第一商業 から慶應義塾大学へ進学。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(別名・最後の早慶戦)では先発の久保木清の中継ぎとして登板した。卒業後に菊水クラブへ進み、1950年に大映スターズへ入団。1951年から1953年まで3年連続で9勝を記録。現役生活は6年のみであり通算では負け越しているものの、終始大映の主力投手として活躍した。1955年引退。 引退後はニッポン放送解説者・スポーツニッポン評論家を務めた。