あっぷるささき(2000年11月1日 - )は、日本の起業家… あっぷるささき(2000年11月1日 - )は、日本の起業家、エンジニア、DJ、トラックメーカー。 創価高等学校、N高等学校出身。中高6年間のディベート部の経験からオンラインディベートプラットフォームの開発をきっかけにプログラミングを始める。その後、音楽アプリの開発(一般社団法人未踏運営: 未踏ジュニア'17採択)。 高校最後の3か月間アメリカ東西海岸を放浪。朝日デジタルラボが運営する動画メディア bouncy 動画ライター、塾や高校での講師、フリーランスのエンジニアを経験。2019年慶應義塾大学環境情報学部(SFC)入学(休学中)。 2020年7月に株式会社むじょうを共同創業し、スマホから故人かを偲ぶサービス葬想式をはじめ、自宅葬のここ、死んだ母の日展、死んだ父の日展、供養RAVEなどのサービス・イベントの企画開発を行う。
小林 修平(こばやし しゅうへい、1990年〈平成2年〉8月… 小林 修平(こばやし しゅうへい、1990年〈平成2年〉8月6日 -)は、日本の政治家、エンジニア。チームみらい所属の衆議院議員(1期)。チームみらい総務部長兼経理部長。 1990年に東京都葛飾区に生まれ、千葉県松戸市と流山市で育った。中学生の時にプログラミングに興味があり、安野貴博とオンライン掲示板で知り合った。千葉商業高等学校卒業後、2012年にドワンゴに入社。エンジニア組織にて動画配信サービスの開発に従事。ディー・エヌ・エー、ABEJAを経て、2022年から株式会社デライト・ベンチャーズでスタートアップの起業支援および開発業務に携わった。 2024年東京都知事選挙で安野貴博が出馬した際には、ポスターマップの作成に携わった。
鈴木 慎之介(すずき しんのすけ、1981年9月2日 - )… 鈴木 慎之介(すずき しんのすけ、1981年9月2日 - )は、日本のエンジニアおよび実業家。株式会社カラー 執行役員 技術管理統括。プロジェクトスタジオQ代表取締役社長。福岡地域戦略推進協議会シニアフェロー。一般社団法人アニメシステムコミュニティ世話人。 東京都中野区生まれ。中学生からNIFTY-Serveにてソフトウェア開発活動を開始、高校在学中にドワンゴの当時社長川上量生と出会いドワンゴにエンジニアとして入社。有給を取得し卒業式に出席。その後、プログラマー、システムエンジニア、インフラエンジニアを経験後、音楽配信サービス いろメロミックス(現dwango.jp)のシステムを立ち上げを行った。
ichiro(いちろう、1974年6月23日 - )は、日本… ichiro(いちろう、1974年6月23日 - )は、日本のレコーディング・ミキシング・マスタリング エンジニア。 本名、西 聡一郎(にし そういちろう)。プレミア・エンジニアリング株式会社の代表取締役でPREMIER SOUND FACTORYでリリースされている作品の作者でもある。 神奈川県葉山町在住。 1974年、東京生まれ。1997年、明治大学法学部中途退学。1998年、カナダ・トロントに留学。2001年、音楽グループを結成、メジャーデビューを経験し、自らの音楽活動を通じ、やがてエンジニアに特化するようになる。 2004年のグループ解散後、音職人として本格的なキャリアをスタート。レコーディング、ミキシング、マスタリングを主体に、映画音楽、ゲーム、アニメ、CM、さまざまなジャンルのアーティストのアルバム等、2017年まで6,000曲を超える楽曲を手がける。
小林 正興(こばやし まさおき、1967年3月3日 - )は… 小林 正興(こばやし まさおき、1967年3月3日 - )は、日本の実業家、情報技術者。テックファーム創業者・元代表取締役社長。アバント元執行役員グループCIO&CTO。 東京都日野市出身。1985年桐朋高等学校卒業。1989年東北大学工学部原子核工学科卒業。1991年東京工業大学大学院理工学研究科原子核工学専攻修了。同年横河・ヒューレット・パッカードに入社し、半導体計測機器の研究開発に従事。1996年からハイパーネット技術部長を務め、インターネット広告システムを開発。 1997年にハイパーネットが破産すると、1998年にハイパーネットの同僚だった筒井雄一朗らとテックファームを設立し、取締役CTOに就任。
豊田 麻子(とよだ あさこ、1966年3月18日 - )は、… 豊田 麻子(とよだ あさこ、1966年3月18日 - )は、日本の総務技官、情報技術者。ハーバード大学国際問題研究所研究員や、総務省国際協力調査官等を経て、女性初の広島市副市長を務めた。 東京都出身。1984年成蹊高等学校卒業。1990年東北大学大学院工学研究科修了、郵政省入省、電気通信局電波部計画課配属。1995年ハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所研究員。2000年外務省在フランス日本国大使館一等書記官。2003年総務省総合通信基盤局国際部国際協力課国際協力調査官。2008年情報通信研究機構連携研究部門テストヘッド企画戦略グループリーダー。 2008年から女性初の広島市副市長を務め、広島市CIO(最高情報責任者)を兼務し、情報通信技術の利活用を進めるなどした。
米沢 泉美(よねざわ いずみ、1965年11月22日 - )… 米沢 泉美(よねざわ いずみ、1965年11月22日 - )は、東京都葛飾区生まれのIT技術者、プログラマ、ライター、労働組合活動家、トランスジェンダー活動家、元地下アイドル。1999年、戸籍名も女性の名前に変更。ただし、性同一性障害特例法施行後も、戸籍上の性別は変更していない。
今野 睦(こんの あつし、1962年 - )は、日本のシステ… 今野 睦(こんの あつし、1962年 - )は、日本のシステム開発エンジニア、ITアーキテクト、コンサルタント、学術博士。 黎明期のオブジェクト指向技術の普及に尽力し、著書(監修、共著)、雑誌への投稿など多数。 オブジェクト指向プログラミング言語のルーツ(起源)であるSmalltalkの開発者のひとりであるアデル・ゴールドバーグに師事したSmalltalkerである。 2001年に発表されたアジャイルソフトウェア開発宣言(Agile Manifesto)の公式日本語版が公開される前の2002年に翻訳書『アジャイルソフトウェア開発』 で日本語訳を公開している。また、日本で最初のスクラムの翻訳書とされる『アジャイルソフトウェア開発スクラム』 の監訳も担当している。
ダン本多(ダンほんだ、1960年3月7日 - )は、日本のキ… ダン本多(ダンほんだ、1960年3月7日 - )は、日本のキーボーディスト、ミュージシャン、レコーディング・エンジニア。本名である本多たけし名義での活動も多い。母娘音楽ユニット「CO906.」の活動もしている女優の佐々木心音は本多の長女である。 1960年、北海道生まれ、東京都世田谷区出身。世田谷区立富士中学校、東京都立駒場高校を経て中央大学理工学部電気電子情報工学科(旧・電気工学科)に進学。その後、音楽学校メーザー・ハウスにて音楽を学ぶ。メジャーデビュー前の仕事ではザ・ぼんちのバックバンドとしてワンクールを経験[要出典]。 1978年から音楽家として活動を始める。ドリカム、池田政典、大江千里、とんねるずのサポート活動後、1980年代後半、爆風スランプのサポートメンバーとしてキーボードを担当した。
大島 卓(おおしま たく、1956年7月14日 - )は、日… 大島 卓(おおしま たく、1956年7月14日 - )は、日本の電池技術者、実業家。日本ガイシ代表取締役社長を経て、同社代表取締役会長、NGK代表取締役会長、中部経済連合会副会長、愛知県経営者協会会長、日本ファインセラミックス協会会長。 東京都出身。東京都立国立高等学校を経て、1980年東京工業大学(現東京科学大学)工学部生産機械工学科卒業。材料強度佐藤和郎研究室出身。大学卒業後日本碍子入社。長年生産技術部門でナトリウム・硫黄電池の開発などを行った。2007年執行役員。2011年常務執行役員。 2014年から日本ガイシ代表取締役社長として、自動車向けの設備投資の拡大を進めた。 愛知県経営者協会副会長などを経て、2020年JR東海取締役。
坂本 秀行(さかもと ひでゆき、1956年4月15日 - )… 坂本 秀行(さかもと ひでゆき、1956年4月15日 - )は日本の自動車技術者、実業家。日産自動車取締役執行役副社長、ジヤトコ取締役会長、愛知機械工業取締役会長、日産自動車九州取締役会長、三菱自動車工業取締役、自動車技術会会長、日本自動車研究所理事長、日本インダストリアル・エンジニアリング協会会長。 東京都杉並区出身。桐朋高等学校を経て、1980年東京工業大学工学部機械物理工学科卒業。大学在学中は、ラテンジャズビックバンド・東京工業大学ロスガラチェロスに所属しウッドベースを担当した。坂田勝研究室出身。 大学卒業後、日産自動車入社、荻窪事業所配属。カルソニック出向、車両技術本部ボデー実験部主担、ルノーブラジル出向、日産テクニカルセンターノースアメリカ出向、第三車両開発本部車両開発主管、Nissan PV第一製品開発本部車両開発主管等を経て、2008年執行役員Nissan PV第一製品開発本部担当。
佐藤 秀樹(さとう ひでき、1950年11月5日 - 202… 佐藤 秀樹(さとう ひでき、1950年11月5日 - 2026年2月13日)は、日本の技術者、経営者。長年セガの家庭用ゲーム機の開発に携わり、同社の社長も務めた。 北海道出身。芦別で生まれたが、父親の仕事の都合で小学生のころまでは引っ越しを繰り返し、空知郡内を転々とした。中学1年生の時に東京に引っ越し、八王子市立第七中学校に転校する。中学卒業後は都立日野高校の1期生として入学した。 東京都立工業短期大学卒業後の進路は就職を考えておらず、青年海外協力隊に応募するも落選。既に卒業直前の1971年3月下旬という中、事前連絡もせず、何も書類も持たずに飛び込みでセガ・エンタープライゼス(現在のセガ)を訪問したところ幸運にも対応してもらえ、1名欠員していた事情もあり、即日採用される。
斉藤 親(さいとう ちかし、1950年9月2日 - )は、日… 斉藤 親(さいとう ちかし、1950年9月2日 - )は、日本の国土交通技官、土木技術者。仙台市助役や、国土交通省大臣官房技術審議官、JR東日本技術顧問、練馬区参与等を歴任した。 1969年東京教育大学附属高等学校(現筑波大学附属高等学校)卒業。1973年東京工業大学工学部土木工学科卒業、建設省入省、中国地方建設局道路部道路計画課。1974年建設省計画局国際課海外協力官。1989年京都府土木建築部都市計画課長。1997年住宅・都市整備公団再開発改善部次長。2000年国土庁地方振興局地方都市整備課長。2001年仙台市助役。2003年8月 佐々木謙を後任として同職を辞職し同年 国土交通省都市・地域整備局街路課長。
久夛良木 健(くたらぎ けん、1950年(昭和25年)8月2… 久夛良木 健(くたらぎ けん、1950年(昭和25年)8月2日 - )は、日本の技術者、実業家。PlayStationの生みの親。 近畿大学情報学部長。サイバーアイ・エンタテインメント株式会社代表取締役社長、アセントロボティクス株式会社代表取締役CEO、ソニー株式会社シニアテクノロジーアドバイザー。ほか、立命館大学大学院経営管理研究科客員教授、株式会社角川グループホールディングス、株式会社角川マガジンズ、楽天株式会社、株式会社ノジマ、株式会社マーベラスAQL、スマートニュース株式会社の各社で、社外取締役を務める。 1999年4月よりソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の代表取締役社長、2001年の執行役員制導入によりCEOも務めた。
久間 和生(きゅうま かずお、1949年10月22日 - )… 久間 和生(きゅうま かずお、1949年10月22日 - )は、日本の技術者、実業家、工学博士。三菱電機先端技術総合研究所長や、同社代表執行役副社長等を経て、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構理事長、レーザー学会会長、日本工学アカデミー副会長。内閣府総合科学技術会議議員、内閣府総合科学技術・イノベーション会議議員、計測自動制御学会会長、応用物理学会副会長等も歴任。 東京都大田区雪ヶ谷生まれ。豊中市立桜塚小学校を経て、小学校6年から東京に戻り、1968年駒場東邦高等学校卒業。1972年東京工業大学(のちの東京科学大学)工学部電子工学科卒業。同期のトップに小長井誠東京工業大学名誉教授がいた。
吉野 金次 (よしの きんじ、1948年 - )は、日本のレ… 吉野 金次 (よしの きんじ、1948年 - )は、日本のレコーディング・エンジニア、編曲家。 東京都出身。東京都立葛西工業高等学校電子科卒業。 1967年に東芝音楽工業の録音部に入社。ザ・ランチャーズの喜多嶋修と共に匿名ユニット「ジャスティン・ヒースクリフ(Justin Heathcliff)」を結成。同名アルバムを発表するも不発に終わる。 1970年、仕事をめぐり上司と衝突し、録音部からの配転を命ぜられ、クビに近い形で退社する。その後、かつての仕事仲間である細野晴臣に誘われてはっぴいえんどの『風街ろまん』にミキサーとして参加。以降、日本では初となるフリーのエンジニアとして活動。 松本隆に対して専業作詞家になることを勧めたのも吉野で、1974年に当時自らが担当していたアグネス・チャンのオリジナル・アルバム『アグネスの小さな日記』の収録曲の作詞を松本に依頼した。
森脇 基恭(もりわき もとやす、1946年4月27日 - )… 森脇 基恭(もりわき もとやす、1946年4月27日 - )は、日本の自動車技術者、レーシングカーデザイナー、モータースポーツ解説者、ノバ・エンジニアリング技術部長および取締役副社長。東京都出身。成蹊大学工学部卒業。 1968年に成蹊大学工学部を卒業し、ホンダに入社、本田技術研究所に配属され四輪車の車体・サスペンションの設計を担当。上司は第1期ホンダF1の車体設計者として知られる佐野彰一。同期には元ホンダ社長の福井威夫、第2期ホンダF1のプロジェクトリーダーからマクラーレン・フェラーリ・ザウバーのエンジニアに転身した後藤治らがいる。 1973年にホンダを退社して渡英。イギリスのレーシングカーコンストラクターであるGroup Racing Development(英語版) (GRD) 社に入社。
岡田 和生(おかだ かずお、1942年<昭和17年>10月3… 岡田 和生(おかだ かずお、1942年<昭和17年>10月3日 - )は、日本の実業家、技術者。ユニバーサルエンターテインメント創業者・元代表取締役社長。 大阪府で6人兄弟の6人目として生まれる。京都府福知山市育ち。1952年(昭和27年)東京都板橋区に転居。幼少時に父親を胃がんで亡くす。1962年(昭和37年)に東京テレビ技術専門学校(現東京電子専門学校)卒業後、テレビ修理業に就く。1969年(昭和44年)ジュークボックスリース業のユニバーサルリースを設立、代表取締役社長就任。1973年(昭和48年)、販売部門を分離し、ユニバーサル技研設立。1979年(昭和54年)、開発部門をユニバーサルテクノス(現ユニバーサルエンターテインメント)として分離し、代表取締役社長就任。
栢原 英郎(かやはら ひでお、1940年〈昭和15年〉2月1… 栢原 英郎(かやはら ひでお、1940年〈昭和15年〉2月13日 - 2025年〈令和7年〉5月6日)は、日本の運輸技官、土木技術者。技術士、工学博士、土木学会認定特別上級土木技術者(調査・計画)。 運輸省港湾局長や、同省技術総括審議官、北海道大学公共政策大学院特任教授、日本港湾協会会長、土木学会会長等を歴任した。土木学会功績賞受賞。 東京都立小山台高等学校を経て、1964年(昭和39年)北海道大学工学部土木工学科卒業、運輸省(現国土交通省)入省。1980年(昭和55年)国際臨海開発研究センター主任研究員。1984年(昭和59年)国土庁計画・調整局計画官。1987年(昭和62年)運輸省港湾局開発課長。
稲生 武(いのお たけし、1939年9月11日 – )は日本… 稲生 武(いのお たけし、1939年9月11日 – )は日本の実業家、技術者、元いすゞ自動車株式会社代表取締役社長。 いすゞ自動車では操縦安定性、振動騒音、人間工学などの研究開発を行い、大型車開発を中心とする技術者出身の経営者である。また、1974年には品質工学を提唱していた田口玄一博士から操縦性評価などについての指導を受けた。 この間、(株)いすゞセラミックス研究所、いすゞエンジニアリング(株)、(株)いすゞ中央研究所の各社長を歴任した。また、東京工業大学機械系同窓会白星会会長、日本機械学会フェロー、自動車技術会フェロー、2004年には品質工学会会長を務めた。
松村 外志張(まつむら としはる、1939年9月6日-)は、… 松村 外志張(まつむら としはる、1939年9月6日-)は、日本の生命科学研究者・バイオ技術者。理学博士。東京都生まれ。
川本 信彦(かわもと のぶひこ、1936年3月3日 - )は… 川本 信彦(かわもと のぶひこ、1936年3月3日 - )は、日本の自動車技術者。本田技研工業(ホンダ)の第4代社長。東京都出身。麻布高等学校から東北大学に進み、大学院精密工学科修了。 ホンダF1の草創期から携わってきた一人で、第2期ホンダF1時代には総責任者を務めた。また、ホンダ・レーシング・ディベロップメント(HRD)や、無限ホンダ(現:M-TEC)設立者の一人としても名を連ねている。 1963年に大学院を修了し本田技研工業に入社。入社理由は軽飛行機技術者応募広告を見て応募した。入社当初は後にホンダの3代目社長となる久米是志の助手として、ホンダ初の四輪市販車「型式:AS280(後の商品名;S500)」「型式:AK250(後の商品名;T360)」のエンジン開発に携わる。
須賀 次郎(すが じろう、1935年1月25日 - )は日本… 須賀 次郎(すが じろう、1935年1月25日 - )は日本の社会起業家 教育者 技術者。財団法人 社会スポーツセンター顧問。特定非営利活動法人 日本水中科学協会を設立代表理事。東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)出身。全日本潜水連盟理事長、財団法人社会スポーツセンター常務理事。株式会社スガ・マリンメカニック代表取締役、株式会社テ・ルを代表取締役を退任している。
岡野 雅行(おかの まさゆき、1933年(昭和8年)2月14… 岡野 雅行(おかの まさゆき、1933年(昭和8年)2月14日 - )は、日本の工業技術者、経営者。金属加工会社・岡野工業株式会社の代表取締役(社長・ただし2018年に2年後を目途に廃業すると表明している・後述)。東京都墨田区出身。 1933年(昭和8年)生まれの東京都出身。金属深絞り加工の世界的工業技術者(金型職人)として知られていて、東京都墨田区の従業員数6人という小さな町工場でありながら、その高い技術カが日本はもちろん、世界の大企業やNASAなどに注目され、製品が次々に採用される実績を持つ。講演多数、著書20以上。 1945年、向島更正国民学校初等科を卒業後、実父が創業した金型工場を手伝い始める。
米山 高範(よねやま たかのり、1929年5月30日 - 2… 米山 高範(よねやま たかのり、1929年5月30日 - 2014年2月16日)は、日本の技術者、実業家。コニカ代表取締役社長、同社代表取締役会長、日本科学技術連盟理事長、日本品質管理学会会長などを務めた。アメリカ品質学会(ASQ)功績賞、デミング賞本賞受賞。 東京市本所区(現墨田区)生まれ。府立七校(現東京都立墨田川高等学校)在学中に東京大空襲で家が焼失し、学生寮のある横浜工業専門学校(現横浜国立大学)に入学。1953年東京工業大学電気化学科卒業。大学では品質管理の水野滋教授に師事した。 1953年小西六写真工業(現コニカミノルタ)入社。八王子工場品質保証課長を経て、生産本部本部長付主任部員在任中に出版した著書『品質管理のはなし』で日経品質管理文献賞受賞。
加藤 祐治(かとう ゆうじ、1927年12月3日 - 201… 加藤 祐治(かとう ゆうじ、1927年12月3日 - 2016年11月21日)は、日本の技術者、模型製作者。東京都世田谷区に生まれ、株式会社関水金属の創業者であり、代表取締役会長であった。日本国内外にNゲージの鉄道模型を普及させた功労者である。 加藤祐治は1927年12月3日、東京都世田谷区で生まれた。物心ついた時からの鉄道好きで、戦後に父が経営していた加藤金属工芸社のドロップフォージング技術を生かし、当時珍しかったピボット軸受けの16番鉄道模型用の台車を発売した。加藤祐治は1949年に交通博物館で開催された鉄道模型コンクールにおいてHOゲージの車両が入賞したことがきっかけとなり実家の加藤金属(世田谷)から独立し1957年8月、東京都文京区関口水道町に鉄道模型用金属部品工場を興し、この地にちなんで関水金属彫工舎と名づけた。
木原 信敏(きはら のぶとし 1926年(大正15年)10月… 木原 信敏(きはら のぶとし 1926年(大正15年)10月14日 - 2011年(平成23年)2月13日)は、日本の技術者、実業家。元ソニー専務。元ソニー木原研究所会長。創業者井深大に見出され、ソニー創成期の基礎技術を確立させる。東京通信工業時代からのソニー創成期メンバーの一人。 東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区)生まれ。東京府立第二中(現東京都立立川高等学校)を経て早稲田大学専門部工科機械科を卒業後、1947年東京通信工業(現:ソニー)に新卒採用1期生として入社。 1950年に日本最初のテープレコーダー、1964年にビデオテープレコーダー国産第一号機やベータ方式のVTR「ベータマックス」を開発。
奥野 健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25… 奥野 健男(おくの たけお、1926年〈大正15年〉7月25日-1997年〈平成9年〉11月26日)は、文芸評論家・化学技術者。多摩美術大学名誉教授。父は最高裁判事の奥野健一。
東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月2… 東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月23日 - 2012年(平成24年)11月9日)は、昭和期の日本の航空技術者、実業家。 陸軍大将・第40代内閣総理大臣:東條英機の次男として東京府東京市(現東京都)にて出生。東京府立第六中学校、旧制福岡高等学校を卒業。当初は数学が好きなので数学の先生になることを考え、大学受験時に父に相談すると、飛行機を勧められ、航空学科を選択した。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は高山捷一、内藤子生、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。三菱重工業に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。ゼロ戦の設計チームに配属され、強度計算を担当した。
太田 祐一(おおた すけかず、1913年 - 1998年)は… 太田 祐一(おおた すけかず、1913年 - 1998年)は日本の自動車技術者・自動車デザイナー。1957年(昭和32年)に日本内燃機と合併するまで存在していた日本の自動車メーカー・オオタ自動車工業の創業者・太田祐雄の長男である。 父・祐雄が巣鴨郊外に個人経営の「太田工場」を開業、教材用の小型発動機、模型飛行機、オートバイ部品製造に着手した翌年に出生。少年時代から父の仕事を手伝い、府立実科工業学校機械科在学中も、教師の許可を得て製図の時間に父の描いた図面のトレースを行っていた。 父の町工場が三井財閥の出資で、資本金100万円の「高速機関工業」に改組された翌年の1936年(昭和11年)、同社に入社。
宗像 英二(むねかた えいじ、1908年6月24日 - 20… 宗像 英二(むねかた えいじ、1908年6月24日 - 2004年4月20日) は、日本の化学技術者。日本原子力研究所理事長や、日本原子力学会会長を務めた。 東京出身。旧制成蹊高等学校を経て、1931年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、日本ベンベルグ絹糸入社。1968年日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)理事長。1973年日本原子力学会会長。1978年勲二等旭日重光章受章。2004年三鷹の病院で死亡。葬儀は宝仙寺。
篠原 武司(しのはら たけし、1906年(明治39年)4月1… 篠原 武司(しのはら たけし、1906年(明治39年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月30日)は、昭和の鉄道技術者・官僚。元国鉄西部総支配人兼門司鉄道管理局長・鉄道技術研究所長・日本鉄道建設公団総裁。
柴田 衛(しばた まもる、1900年12月4日 - 1977… 柴田 衛(しばた まもる、1900年12月4日 - 1977年12月29日)は、日本の鉄道・機械技術者。 日本の電車用連結器として21世紀初めまでもっとも広範に用いられている柴田式密着連結器の開発者として知られる。 同じく鉄道省に勤務した技術者で柴田式自動連結器開発者の柴田兵衛は実兄。 本籍地は東京府豊多摩郡杉並町。1916年(大正5年)岩倉鉄道学校卒業、鉄道院に入職。以後鉄道省改組後も勤務し、工作局車両課の技手として長く電車を担当した。業務と並行して日本大学高等工学校(現在:理工学部)に学び1923年(大正12年)卒業。1938年(昭和13年)3月に技師に昇格したが、1939年(昭和14年)12月退官。
野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月1… 野坂 相如(のさか すけゆき、明治32年(1899年)1月19日 - 昭和53年(1978年))は、日本の土木技術者、都市計画家。内務官僚として都市計画事業に手腕を揮い、戦後には新潟県副知事を務めた。息子は直木賞作家の野坂昭如。孫は作家、エッセイストの野坂麻央、女優の愛耀子(共に元宝塚歌劇団娘役)、株式会社ジャパンダイニングリンク(英語表記:Japan Dining Link Co., ltd.)代表取締役の野坂龍。
神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1… 神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉9月10日)は、日本の土木工事技術者、経営者。間組社長を務めた。 神奈川県足柄上郡南足柄村で裕福な家庭に生まれる。南足柄小学校高等科を経て、1909年(明治42年)に岩倉鉄道学校建設科を卒業し、同年10月に間組に入社した。約10年にわたって朝鮮半島で道路建設に従事した。 1923年(大正12年)6月、山梨県南巨摩郡で榑坪発電所(後の早川第一発電所)の工事を管轄していた早川出張所の主任が急死し、神部がその後任に就いた。1925年7月、当時50歳の松永安左エ門が大井川水系の電源調査のために赤石山脈を縦走することになり、神部が案内役として先導した。
朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 19… 朝倉 希一(あさくら きいち 1883年3月12日 - 1978年4月20日)は、明治から昭和期の機械工学者、鉄道技術者。
八田 嘉明(はった よしあき、1879年9月14日 - 19… 八田 嘉明(はった よしあき、1879年9月14日 - 1964年4月26日)は、日本の鉄道技術者、官僚、実業家、政治家。工学博士。東京府生まれ。
樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1… 樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1949年)は、日本の橋梁技術者。構造家。 設計思想のうち橋梁については「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、外観の重要性を強調している。 新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、高橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)… 貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日 - 1937年(昭和12年)11月2日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田。 郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓。 小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任。 1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した。
飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 19… 飯田 豊二(いいだ とよじ、1874年(明治7年) - 1913年(大正2年)6月10日)は静岡県出身の鉄道技術者。日本統治時代の台湾総督府鉄道部所属の技師(1897年 - 1913年)。 静岡県沼津市で父飯田弘と吉田姓の母の間に生まれる。東京工手学校(現在の工学院大学)に進学し、土木工学を修めた。
山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治… 山田 三次郎(やまだ さんじろう、1870年9月14日(明治3年8月19日) - 1939年(昭和14年)6月23日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)会長や、日本化成工業(のちの三菱化学、現在の三菱ケミカル)社長を務めた。 鹿児島県生まれ。東京数学院(現東京高等学校)を経て、1897年に東京工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業後、1900年から1903年まで農商務省海外実業練習生としてブリュッセルのガラス工場に留学した。 農商務省嘱託を経て、1906年東洋硝子技師。1908年旭硝子工務長となり、岩崎俊弥による旭硝子創業に加わり、欧米の調査などを行った。1918年日米板ガラス取締役。旭硝子常務取締役を経て、初代社長の岩崎の死後、1931年から後継として旭硝子取締役会長(第2代社長)を務めた。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
大川 タツユキ(おおかわ たつゆき、本名:大川達之)は、東京… 大川 タツユキ(おおかわ たつゆき、本名:大川達之)は、東京都文京区出身の音楽プロデューサー、作曲家、編曲家、マニピュレーター、シンセサイザープログラマー、レコーディング・エンジニア、ミキシング・エンジニア、DJ。 仕事の内容や参加形態により、大川タツユキ,大川 達之,Tatsuyuki Okawa,Todd Okawa,MATALLY,THE DOMESTICS,ドメスティックス,PAPA-O、ROBOJIK,VISAGEなど様々な表記名を使い分けている。 ロサンゼルスでレコーディング・コーディネーターとして音楽のキャリアをスタート。数々の有名スタジオにてレコーディング作業に立ち合い、スタジオワークを習得する。
有賀 貞一(あるが ていいち)は、日本の情報技術者、実業家。… 有賀 貞一(あるが ていいち)は、日本の情報技術者、実業家。CSKホールディングス代表取締役、ミスミグループ本社代表取締役副社長、リアルワールド取締役会長、情報サービス産業協会副会長、情報処理技術者試験委員長等を歴任した。経済産業大臣表彰受賞。 1966年東京都立立川高等学校理数科進学コース卒業。1970年一橋大学経済学部卒業。大学では杉田元宜ゼミや磯野修ゼミで計量経済学、数理統計学を専攻し、大学院生だった刈屋武昭の指導も受けた。また1965年に創設されたコンピュータ・クラブ(一橋電子計算機研究会)に参加し、コンピュータの利活用に関する研究等を行った。。 大学卒業後、野村証券の子会社として1966年1月に設立された野村電子計算センターに入社し、システムエンジニアとなる。
池貝 庄太郎(いけがい しょうたろう) 池貝 庄太郎(いけが… 池貝 庄太郎(いけがい しょうたろう) 池貝 庄太郎(いけがい しょうたろう、1869年11月13日《明治2年10月10日》 - 1934年《昭和9年》7月28日)は、日本の実業家、技術者、工学者(機械工学)。族籍は千葉県平民。 西村鉄工所、田中製作所での勤務を経て池貝工場を創業し、合資會社池貝鐵工所社長、東京高等工業学校教授、株式會社池貝鐵工所社長などを歴任した。 東京府東京市本郷区妻恋町生まれ。あるいは千葉県鋸南町下佐久間生まれとも。池貝重右衛門の長男。池貝家はもと安房加知山藩主酒井家の家臣である。 廃藩後の生活難から1882年(明治15年)に横浜の西村鉄工所(西村機械製造所)の徒弟となる。