中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年… 中村翠恒(なかむら・すいこう、1903年4月3日ー1985年9月8日)は昭和期の九谷焼の陶芸家。日展参与。元石川県陶芸協会会長。石川県指定無形文化財九谷焼技術保存会初代会長。戦前から帝展、新文展で活躍する。 明治36年生まれ。石川県加賀市出身。名工初代 中村秋塘の次男。本名は恒。 大正13年石川県立工業学校卒業。京都国立陶磁研究所に進み、安達陶仙、二代伊東陶山、河村蜻山、板谷波山らに師事する。 三代 秋塘を襲名。のち甥に譲り以降翠恒を名乗る。昭和60年9月8日老衰により石川県立中央病院にて死去。享年82歳。 昭和3年に第9回帝展において「彩釉彫牡丹文壷」が初入選。戦前は「秋塘」の名で出品している。
深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、190… 深田 久弥(深田 久彌、ふかだ / ふかた きゅうや、1903年〈明治36年〉3月11日 - 1971年〈昭和46年〉3月21日)は、石川県大聖寺町(現・加賀市)生まれの小説家、随筆家および登山家、チベット・ヒマラヤ研究家である。 戦前は小説家、編集者として活躍し、戦後は主に山やスキーに関する随筆をもって著名がある。山をこよなく愛し、読売文学賞を受賞した著書『日本百名山』は特に良く知られている。俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。1971年(昭和46年)3月21日、登山中の茅ヶ岳山頂直下で脳卒中のため68歳で死去。
駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月… 駒井 志づ子 (こまい しづこ、1903年(明治36年)2月18日 - 1978年(昭和53年)1月2日)は、大正・昭和期に活動した、石川県出身の女性運動家、政治家、歌人。 1951年(昭和26年)に女性初の石川県議会議員となり、以降5期25年にわたって在任した。 当時金沢市議会議員(後の第6代金沢市長)であった飯尾次郎三郎の長女として生まれる。 1918年(大正7年)、石川県立金沢第一高等女学校(現在の金沢二水高等学校)を卒業。 1920年(大正9年)に法学士の駒井粂吉と結婚したが、1934年(昭和9年)に死別した。夫の粂吉は、読書家で政治に関心を持っており、このことが妻の志づ子にも影響を与えたとされる。
辻 政信(つじ まさのぶ、1902年〈明治35年〉10月11… 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年〈明治35年〉10月11日 - 1961年〈昭和36年〉4月以降消息不明)は、日本の陸軍軍人、政治家。陸士36期首席・陸大43期恩賜(いわゆる軍刀組)。軍人としての最終階級は陸軍大佐。 ノモンハン事件、太平洋戦争中のマレー作戦、ポートモレスビー作戦、ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と当時においては讃えられていた。 その一方で、指揮系統を逸脱した現場での行動、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある。 敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。
冲中 重雄(おきなか しげお、1902年〈明治35年〉10月… 冲中 重雄(おきなか しげお、1902年〈明治35年〉10月8日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の内科学者。東京大学名誉教授、元日本学士院会員。日本学士院恩賜賞受賞。文化勲章受章。勲等は勲一等瑞宝章。位階は従三位。石川県金沢市生まれ。 石川県金沢市で、大日本帝国陸軍軍人の太田米丸(田中義一の同期でのちに陸軍大佐)の家に生まれる。兄に大日本帝国陸軍中将の太田米雄がいる。伊予松山藩藩士で国学者の太田満穂は曽祖父。 1909年、岡山県師範学校附属小学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)入学。その後、東京府北豊島郡王子尋常高等小学校(現北区立王子小学校)に転校。 1921年に父が亡くなったため、父のいとこで医師の冲中磐根と養子縁組をする。
浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992… 浅井 孝二(あさい こうじ、1902年8月3日 - 1992年2月20日)は、日本の実業家。住友銀行元頭取。石川県金沢市出身。 1921年に大阪明星高校、1925年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に住友銀行に入行。1947年に取締役、1952年に常務、1958年に専務、1963年に副頭取を経て、堀田庄三の後を継ぐ形で、1971年6月から1973年5月までに頭取を務めた。 その一方で、1974年から1981年までに大阪商工会議所副会頭を務め、1981年に大阪商工会議所会頭の座を巡り、関西財界を二分した「大商戦争」の際に、佐伯勇会頭の続投を支持しつつ、事態の収拾にも努めた。1972年に勲二等瑞宝章を受章した。
田谷 充実(たや じゅうじつ、1902年7月27日 - 19… 田谷 充実(たや じゅうじつ、1902年7月27日 - 1963年2月27日)は、石川県能美郡山上村(旧山口村、旧辰口町を経て現在の能美市)火釜出身の政治家。石川県知事(2期 第46-47代)公選では2人目。 1928年、京都帝国大学法学部卒。全国指導農業協同組合副会長、農林中央金庫評議員、石川県農業協同組合中央会会長などを経て、1955年2月20日第3回石川県知事選挙で現職の柴野和喜夫を破り、初当選する。1959年2月8日の第4回石川県知事選挙で再選。石川県知事を2期務め、1963年2月19日知事を退任した(後任は中西陽一)。知事退任直後の2月27日に死去した。
高柳 真三(たかやなぎ しんぞう、1902年(明治35年)5… 高柳 真三(たかやなぎ しんぞう、1902年(明治35年)5月12日 - 1990年(平成2年)1月4日)は、日本の法制史学者、東北大学名誉教授。「高柳眞三」とも表記される。 石川県金沢市出身。1919年石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業。1922年旧制第四高等学校、1925年東京帝国大学法学部卒業(恩師:中田薫 )。1925年東北帝国大学法文学部助手、1927年同助教授、1941年、東北帝国大学法文学部教授。1949年宮城県女子専門学校 (旧制)校長。1951年東北大学教養部長。1952年9月「明治家族法史」にて東北大学にて法学博士受く。1958年、東北大学法学部長。1966年、定年退官、名誉教授、岩手県立大学盛岡短期大学部学長。
三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月1… 三好 竹勇(みよし ちくゆう、1902年(明治35年)4月13日 - 1987年(昭和62年)11月25日)は、昭和期の漁業経営者・政治家。衆議院議員。 石川県金沢市出身。1927年(昭和2年)金沢医科大学附属薬学専門部を卒業した。 北海道白老郡白老村(現白老町)に移住し、漁業、薬局、整骨院を営む。1933年(昭和8年)から1947年(昭和22年)まで白老村会議員に在任。所得税調査委員、白老商業協同組合理事長、苫小牧工業学校(現北海道苫小牧工業高等学校)嘱託教師、胆振漁業会会長などを務めた。1947年4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第4区から民主党所属で出馬して当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選し、衆議院議員を1期務めた。
中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年… 中谷 治宇二郎(なかや じゅうじろう、1902年〈明治35年〉1月21日 - 1936年〈昭和11年〉3月22日)は、日本の考古学者。筆名は中谷杜美。物理学者・中谷宇吉郎の弟。 1902年(明治35年)1月21日、中谷宇一の次男として石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)に生まれる。中学生の頃は文学を志し、同窓生たちと発行した同人誌『跫音』に発表した小説「独創者の喜び」が芥川龍之介の目にとまったことがある。 1919年(大正8年)、小松中学校を卒業し、約1年間、作見村小学校で代用教員として奉職する。1920年(大正9年)に上京し、菊池寛の内弟子として身を寄せて新劇運動に参加し、1921年(大正10年)に金沢新報の記者としてシベリア出兵に従軍する。
篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月… 篠原 虎一(しのはら とらかず、1902年(明治35年)1月14日 - 1980年(昭和55年)5月30日 )は、日本における西洋音楽黎明期のヴァイオリニスト、音楽教育者。指揮者としても活躍した。芳春院(まつ、前田利家正室)の生家・篠原家出身で、先祖は篠原長良(大学、前田利家の実子篠原長次の次男)に遡る。 1921年(大正10年)、金沢市で第1回演奏会を開く。大正時代に、イタリア人、フランチェスコ・フザリオ(ヴァイオリニスト・トリノ音楽院教授)、ロシア人、ミハエル・ウェックスラー(アウアー門下のヴァイオリニスト・サンフランシスコ音楽院教授)、昭和時代にはドイツ人、ウィリー・フライ(ヴァイオリニスト、16歳でメンデルスゾーン賞受賞・芸大教授)に師事。
高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 194… 高橋 ふみ(たかはし ふみ、1901年7月26日 - 1945年6月21日)は、日本の哲学者・大学講師。 1901年7月26日、石川県河北郡七塚村木津(現・かほく市木津)に生まれる。父親は羽二重工場を営み、七塚村の村長を務めるなど、裕福な名士だった。母親は西田幾多郎の妹で、ふみは西田の姪にあたる。 地元の尋常高等小学校を卒業すると、当時石川県内唯一の公立高等女学校であった金沢第一高等女学校に入学する。高等女学校卒業後も、女子高等師範・女子医専のような実学・職業教育ではない学問を求め、花嫁修業を求める親を説得して、設立2年目の東京女子大学高等学部へ1920年4月に入学し、さらに、1926年4月に東北帝国大学法文学部に入学して哲学を学ぶ。
佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)… 佐々木 直次郎(ささき なおじろう、1901年(明治34年)3月27日 - 1943年(昭和18年)5月24日)は、日本の翻訳家。 石川県小松市生まれ。小松中学校を経て金沢第一中学校に転じ、四年修了で第四高等学校に進む。1925年、東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。同大学院を経て、日本大学で短期間教える。 1931年9月から1932年11月にかけて第一書房より刊行された『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を訳出。ポーの本格的翻訳として注目を浴びる。その他、ロバート・ルイス・スティーヴンスン『宝島』『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』、チャールズ・ディッケンズ『二都物語』などの訳書がある。肺炎で急死。
番浦 省吾(ばんうら しょうご、1901年2月24日 - 1… 番浦 省吾(ばんうら しょうご、1901年2月24日 - 1982年10月15日)は、日本の漆芸家。日展参事。第5回日展出品作「象潮」により日本芸術院賞を受賞した。 石川県七尾市に生まれる。七尾尋常高等小学校を卒業し、初め画家を志したが、1921年より蒔絵の技術を習得して漆芸の道に入った。1924年頃に京都に移り、1930年の第11回帝展に「秋之夜蒔絵棚」が初入選した。1936年の文展鑑査展では「草花図彩漆衝立」が選奨となり、1937年のパリ万国博覧会では名誉賞を受賞した。 戦後は1945年に漆芸団体創人社を結成して主宰し、1953年には新たに朱玄会を結成した。日展では1947年の第3回日展以後たびたび審査員を務め、1949年より依嘱出品、1958年評議員、1962年会員、1971年理事、1976年参与、1980年参事となった。
川崎 悦行(かわさき えつこう、かわさき えつぎょう、190… 川崎 悦行(かわさき えつこう、かわさき えつぎょう、1901年 - 1923年11月12日)は、戦前の日本の政治運動家、初期の共産主義運動家である。 石川県輪島市出身。本名川崎 憲次郎。輪島男児尋常高等小学校を経て、1915年石川県立金沢商業学校に入学。在学中弁論部員として活動するかたわら、社会運動に関心をもち中途退学した。帰郷して總持寺祖院に入り、禅僧となって「悦行」の僧名を受けた。 1921年、上京して暁民会に参加、のち日本社会主義同盟の機関紙編集にたずさわった。1922年7月15日の日本共産党の結成に参加した。 1923年2月4日の党第2回大会で、共産青年同盟の組織準備委員に任命され、4月5日創立された日本共産青年同盟の初代中央委員となった。
土井 直作(どい なおさく、1900年(明治33年)11月1… 土井 直作(どい なおさく、1900年(明治33年)11月1日 - 1967年(昭和42年)6月26日)は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鳳至郡剱地村(門前町剱地を経て現輪島市門前町剱地)で、土井太郎、ユウ夫妻の三男として生まれる。1915年(大正4年)小学校を卒業し足尾銅山で働く。1919年(大正8年)に上京して芝浦製作所(現東芝)に入社し電気工として務め、友愛会芝浦支部に加わり、1920年の芝浦争議に参加して解雇された。1922年(大正11年)日本労働学校を卒業した。 1925年(大正14年)日本労働総同盟(総同盟)調査部員、1928年(昭和3年)から総同盟調査委員に就任し、1940年(昭和15年)の組織解散まで各地の労働争議を指導した。
加藤 閲男(かとう えつお、1900年 <明治33年> 9月… 加藤 閲男(かとう えつお、1900年 <明治33年> 9月5日 - 1975年 <昭和50年> 12月5日)は、昭和時代の労働運動家。国鉄労働組合(国労)初代執行委員長。位階は正五位。 熊本県熊本市生まれ。石川県金沢市出身(本籍)。釜山中学校卒業。1920年から国鉄に勤務。敗戦直後は両国駅助役をしていたが、当局の推挙で組合活動に参加。国鉄千葉従組委員長を経て、1946年国鉄東京地方労組委員長に就任。同年7月に運輸省が国鉄7万5000人の整理を発表に対し、9月に国鉄総連合はスト決行の方針で大会を開催し、大阪など5地連はスト延期を主張して退場したが、東京など4地連はストの指令を発した。スト決行前に当局が7万5000人の整理を全面的に撤回したため、争議に勝利した国鉄総連合はスト中止を決定。
高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 19… 高田 博厚(たかた ひろあつ、1900年8月19日 - 1987年6月17日)は、第二次世界大戦前に芸術を学ぶためにフランスに渡り、新聞記者としても戦後までフランスに滞在していた彫刻家。思想家、文筆家、翻訳家としても活躍した。 少年時代から文学・哲学・芸術に目覚め、18歳で上京し、高村光太郎の勧めで彫刻や翻訳に従事。31歳でフランスに渡り、ロマン・ロラン(作家)やアラン(哲学者)、ポール・シニャック(画家)、ジョルジュ・ルオー(画家)をはじめとするヨーロッパの知識階層と交流した。在欧日本人向け日刊紙『日仏通信』を刊行し、第二次世界大戦中も日本に戻らず新聞記者として活動し、パリ外国人記者協会副会長を務めた。
中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7… 中谷 宇吉郎(なかや うきちろう、1900年(明治33年)7月4日 - 1962年(昭和37年)4月11日)は、日本の物理学者、随筆家。位階は正三位。勲等は勲一等。学位は理学博士(京都帝国大学・1931年)。 北海道大学理学部教授を北海道帝国大学時代から務め、世界で初となる人工雪の製作に成功した。考古学者・中谷治宇二郎は弟。 1900年、温泉地の石川県江沼郡片山津町(現・加賀市)で生まれる。学齢期になると母方の親族に預けられ、大聖寺町(現・加賀市)に転居。 1913年、大聖寺町立錦城尋常高等小学校卒業後、間もなく父を失う。同年、旧制小松中学(現・石川県立小松高等学校)に入学、その後5年間の寄宿舎生活を送った。
安田 幾久男(やすだ きくお、1900年 <明治33年> 4… 安田 幾久男(やすだ きくお、1900年 <明治33年> 4月7日 - 1978年 <昭和53年> 2月19日)は、日本の実業家。日本軽金属社長を務めた。位階は正四位。 石川県金沢市出身。1924年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に富士電機製造に入社。 1939年に日本軽金属に転じ、1946年5月に取締役に就任し、1953年には副社長に就任。1961年5月には社長に昇格した。1967年5月に会長を経て、1969年5月に相談役に就任。経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任。。 1957年に紺綬褒章を受章し、1958年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章した。
西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月2… 西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年〈明治33年〉2月27日 - 1990年〈平成2年〉11月24日)は、日本の哲学者。専門は宗教哲学。京都学派に属する。京都大学名誉教授。文化功労者。 1900年、石川県鳳珠郡能登町生まれた。宇出津小学校に入学するが、1年生の時に一家で東京へ移住。1912年に早稲田中学に進学。成績優秀であり、卒業時には大隈重信総長から優等賞を授与された。しかし、中学卒業時に肺結核へ罹患していることが分かり、大きな衝撃を受けた。第一高等学校への進学をあきらめて北海道函館で療養生活を送ったが、1年後に回復し、第一高等学校へ進学。 大学進学にあたっては、若年のうちに同郷(現かほく市)の出身である西田幾多郎の著書『思索と体験』に出会っていたこともあり、京都帝国大学文学部哲学科に入学。
谷口 善太郎(たにぐち ぜんたろう、1899年10月15日 … 谷口 善太郎(たにぐち ぜんたろう、1899年10月15日 - 1974年6月8日)は、日本の小説家、政治家である。衆議院議員(6期)。小説家としては、ペンネームの須井一(すい はじめ)・加賀耿二(かが こうじ)で知られることも多い。愛称は「谷善(たにぜん)」。 石川県能美郡国造村和気(現在の石川県能美市和気町)出身。和気高等小学校卒業後、村の読書サークルに参加、谷口夢草の名前で短歌をつくる。その後上京、その後には京都で清水焼の労働をしながら労働運動に従事する。1928年の三・一五事件で検挙され、外出や執筆をしないという条件で仮釈放された。 しかし、1931年、東京から訪れた貴司山治のすすめにより、『須井一』のペンネームで執筆した「綿」が評判になる。
大島 新一(おおしま しんいち 1899年(明治32年)10… 大島 新一(おおしま しんいち 1899年(明治32年)10月1日 - 1979年(昭和54年)9月25日)は日本の政治家。石川県会議員(3期) 1899年10月鳳至郡櫛比村に生まれた。1914年3月櫛比尋常高等小学校高等科を卒業後、1915年1月輪島区裁判所門前出張所所属になり、1919年1月金沢地方裁判所所属の司法書士となった。1925年5月櫛比村会議員選挙に当選。1931年9月立憲民政党に属して石川県会議員選挙に当選、1935年再選され参事会員に選任されていた。1941年11月には副議長となった。副議長には1946年までつとめ県会議員としては1947年までその任にあたった。この間、1941年6月より門前町長として町政をとり1942年10月からは門前花業会長でもあった。
沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年… 沖 豊治(おき とよじ、1899年6月16日 - 1981年6月6日)は、日本の経営者。兼松社長を務めた。 石川県金沢市出身。1921年に神戸商科大学を卒業し、同年に神戸兼松商店に入社した。1944年に兼松取締役に就任し、1948年に専務を経て、1952年から1965年11月までに社長を務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1981年6月6日、急性心不全のために死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2… 嶋田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日)は、日本の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。
北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1… 北村 喜八(きたむら きはち、1898年11月17日 - 1960年12月27日)は、日本の演出家、劇作家、翻訳家。 石川県出身。東京帝国大学英文科卒。 1924年(大正13年)、築地小劇場に参加する。1937年(昭和12年)、村瀬と芸術小劇場を結成し主宰する。第二次世界大戦後は新劇で活動。1950年(昭和25年)8月18日、阿部知二とともに第22回国際ペンクラブ大会に戦後始めて代表として出席。1951年(昭和26年)、国際演劇協会日本センター初代理事長となる。 ドイツ・英米演劇を翻訳した。 妻は女優の村瀬幸子。
石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月… 石黒 武重(いしぐろ たけしげ、1897年〈明治30年〉5月13日 - 1995年〈平成7年〉1月23日)は、日本の官僚、政治家。山形県知事、法制局長官、民主党初代幹事長などを務めた。 石川県金沢市出身。東京府立四中、第一高等学校、東京帝国大学法律学科卒業。山形県知事、農林次官、枢密院書記官長などを歴任。幣原内閣において、法制局長官(専任)、国務大臣兼法制局長官を務めた。1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に山形県全県区から出馬し初当選。日本進歩党政務調査会長、民主党初代幹事長に就任し、戦後の混乱期の収拾に尽力した。また、日本生活協同組合連合会会長理事、日本生活協同組合名誉顧問、日ソ協会会長などの要職も歴任した。
坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 19… 坂田 英一(さかた えいいち、1897年3月27日 - 1969年7月22日)は、石川県出身の官僚、政治家。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院議員(7期)。農林大臣(第35代)。自民党佐藤派所属。 石川県加賀市生まれ。第四高等学校を経て、1920年、東京帝国大学農学部卒業後、農商務省入省。1938年、農林省特産課長(1946年まで)。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党から立候補し初当選(当選同期に池田勇人・佐藤栄作・前尾繁三郎・橋本龍伍・岡崎勝男・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など)。
米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日… 米山 久(よねやま ひさ、1897年(明治30年)1月17日 - 1981年(昭和56年)2月9日)は、日本の政治家、歌人。石川県出身の婦人運動家。衆議院議員(1期)。本名は米山 久子。 石川県金沢市で生まれる。1914年、石川県立第一高等女学校(現・石川県立金沢二水高等学校)卒。市川房枝の婦人参政権運動に参加。大日本国防婦人会金沢地方本部理事、大日本婦人会石川県支部副支部長を務めた。 1946年4月10日、第22回衆議院議員総選挙石川県全県区に日本社会党から出馬し初当選、石川県初の女性国会議員となる。1947年4月25日、第23回衆議院議員総選挙に出馬し落選した。 日本仏教婦人連盟顧問となり、仏教婦人運動にも尽くした。
館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15… 館 俊三(だて しゅんぞう、1896年〈明治29年〉6月15日 - 1964年〈昭和39年〉4月6日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員。 石川県鹿島郡七尾町(現七尾市)で生まれる。1916年(大正5年)石川県立七尾中学校(現石川県立七尾高等学校)を卒業し、小学校准訓導心得となる。 1920年(大正9年)鉄道省に入省し函館駅改札掛に就任。鉄道局書記、鉄道官補、函館駅助役を歴任。1946年(昭和21年)函館駅従業員労働組合の結成発起人となり、また同年5月に結成された国鉄北海道労働組合の委員長に就任。同年4月、第22回衆議院議員総選挙に出馬するも落選。1947年(昭和22年)4月、第23回総選挙で北海道第3区から日本社会党所属で出馬して初当選。
松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月2… 松田 権六(まつだ ごんろく、1896年〈明治29年〉4月20日 - 1986年〈昭和61年〉6月15日)は、日本の蒔絵師。人間国宝。文化勲章受章者。位階は従三位。 1896年、石川県金沢市生まれ。7歳で蒔絵の修業を始める。石川県立工業学校漆工科、東京美術学校漆工科で学ぶ。1943年(昭和17年)、母校である東京美術学校教授に就任。以後36年間にわたって教鞭を取った。 1947年(昭和22年)日本芸術院会員となり、1955年(昭和30年)には人間国宝に認定される。伝統工芸の復興に力を尽くす一方で並木製作所の蒔絵万年筆(ダンヒル・ナミキ)の製作指導といった新しい蒔絵の模索も行っている。1965年著書『うるしの話』で毎日出版文化賞受賞。
神保 成吉(じんぼ せいきち、明治29年(1896年)2月2… 神保 成吉(じんぼ せいきち、明治29年(1896年)2月29日 - 昭和40年(1965年)11月7日)は、日本の電気工学者。 明治29年(1896年)、石川県金沢市にて、実業家・神保八十吉の長男として生まれる。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、大正8年(1919年)、京都帝国大学電気工学科を卒業。 逓信省に入省し、同省電気試験所技師兼逓信局技師となる。昭和3年(1928年)、ドイツ、アメリカ、カナダへ留学。昭和4年(1929年)、電気試験所第1部長となり、陸軍技術本部嘱託を兼任。昭和7年(1932年)、誘導型積算電力計の研究で工学博士の学位を得る。昭和8年(1933年)10月、パリで開催された第8回万国度量衡総会に帝国委員(日本代表)として出席。
森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 19… 森島 守人(もりしま もりと、1896年2月16日 - 1975年2月17日)は、日本の外交官、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(3期)。満州事変発生時に現地・奉天総領事代理の地位にあり、日米開戦時のニューヨーク総領事、ポルトガル公使などを務めた。 石川県金沢市の医師 森島彦夫・民生夫妻の長男として生まれる。金沢第一中学校、第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。同年外務省入省。1928年から1935年まで、ハルビン総領事及び奉天総領事代理を務めた。1931年9月、奉天近郊で起きた柳条湖事件(時の外相は幣原喜重郎)から翌1932年3月の満洲国成立までに至る対応で苦慮し、1933年2月に蜂谷輝雄が奉天総領事に着任した。
中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月… 中西 悟堂(なかにし ごどう、1895年(明治28年)11月16日 - 1984年(昭和59年)12月11日)は、日本の野鳥研究家で歌人・詩人、天台宗僧侶。文化功労者。日本野鳥の会の創立者。本名は富嗣、悟堂は法名。他に筆名として赤吉(しゃくきち)。 「野の鳥は野に」を標語に自然環境の中で鳥を愛で、保護する運動を起こした。「野鳥」や「探鳥」は悟堂の造語。 1895年(明治28年)、石川県金沢市長町に生まれ、富嗣と命名される。祖父は加賀藩士。父親は海軍軍楽隊教官だったが、悟堂の生後まもなく病死し、母は長崎の実家に帰ったまま行方不明となり、父の兄で中西家十代の当主元治郎(悟玄)の養嗣子となる。3歳頃より四書五経を学び千字文を書写する。
佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月… 佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。 1914年(大正3年)に金沢第一中学校(中学校同期には海軍少将中堂観恵(海兵44期)・海軍大佐橘正雄(海兵45期)が在籍した)を卒業し陸軍士官学校へ入学、1917年(大正6年)5月、官報によると第29期を257番/536名の成績で卒業。このクラスからは1番の河村参郎(中将、第224師団長)、3番の有末精三(中将、参謀本部第2部長)、6番の後藤光蔵(中将、第1総軍参謀副長)、11番の鎌田銓一(中将、第2野戦鉄道司令官)、27番の稲田正純(中将、第16方面軍参謀長兼西部軍管区参謀長)、46番の額田坦(中将、陸軍省人事局長)など昭和の陸軍を牽引した多くの人物を輩出している。
浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 19… 浅井 恵倫(あさい えりん、1894年12月25日 - 1969年10月9日)は、日本の言語学者。台湾を中心としたオーストロネシア語族諸言語を研究した。日本言語学会評議員、日本民族学会評議員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所運営委員を務めた。 1894年、石川県能美郡苗代村(現・小松市)で浄土真宗大谷派住職・浅井恵定の長男として生まれた。1912年、県立小松中学校を卒業。第四高等学校に進学し、在学中にエスペラントを独学。1915年に卒業し、東京帝国大学文科大学に進学した。言語学科専攻で学び、1918年に卒業。 卒業論文『ポリネシア諸民族とその諸言語』はエスペラントで執筆した。1919年、日本エスペラント学会の創立に関わった。
郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月… 郡山 義夫(こおりやま よしお、1894年(明治27年)6月23日 - 1987年(昭和62年)3月26日)は、日本の内務・警察官僚。官選長野県知事、海軍司政長官。旧姓・山本。 石川県金沢市出身。山本久房の二男として生まれ、郡山富次郎の養子となる。第一高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し長野県属となる。 以後、長野県警部、同警視、佐賀県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、岡山県書記官・経済部長、福岡県経済部長、岐阜県総務部長、大阪府書記官・学務部長、内務書記官などを歴任。1941年6月から1943年1月まで海軍司政長官・海南島海軍特務部経済局長を務めた。
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 197… 竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。位階は従三位。 大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。 石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13… 岡田 次作(おかだ じさく、1893年(明治26年)8月13日 - 1942年(昭和17年)6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。栄典は正五位勲三等功四級。 石川県金沢市千日町出身。金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校。中第18回生、鈴木貫太郎内閣の大蔵大臣・広瀬豊作と同級生)を経て、1914年(大正3年)12月、海軍兵学校(第42期)を63番/117名で卒業。 1915年(大正4年)12月、海軍少尉に任官し防護巡洋艦「須磨」乗組。海軍砲術学校高等科で学ぶ。1921年(大正10年)12月、駆逐艦「桂」乗組となる。 1922年(大正11年)1月、臨時航空術講習部部員兼横須賀海軍航空隊付となり航空畑に転じた。
青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月1… 青木 重誠(あおき しげまさ、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1943年〈昭和18年〉6月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士25期首席・陸大32期優等。 石川県金沢市本多町出身。金沢城内に駐屯する歩兵第7聯隊・青木織之助歩兵中尉の長男として生れる。父は旧加賀藩士で、略歴に神奈川県平民、足柄下郡真鶴町出身とあるがこれは誤りである。織之助は日清戦争に従軍し、1895年1月11日陣中にて没した。享年28。妻は「いと」で、1947年7月5日没。 石川県師範学校附属小学校、金沢第二中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)741名中を首席で卒業。
武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1… 武部 六蔵(たけべ ろくぞう、1893年(明治26年)1月1日 - 1958年(昭和33年)1月19日)は、日本の内務官僚。秋田県知事、関東局総長、企画院総裁心得、満洲国総務長官。 本籍・石川県。旧加賀藩士・長崎県師範学校長兼教授、武部直松の四男として長崎で生まれる。東京府立四中、第一高等学校を経て、1918年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し、銀時計を授与された。1916年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年7月、内務省に入り東京府属兼内務属として地方局府県課に配属された。 1919年10月、長崎県理事官・内務部農林課長に就任。以後、福岡県学務課長、内務事務官・都市計画局、帝都復興院書記官・同建築局庶務課長兼営繕課長、復興局建築部庶務課長、復興局長官官房計画課長、同長官官房文書課長、復興事務局文書課長、同計画課長、同庶務課長、兼内務書記官・内務大臣秘書官、内務書記官・大臣官房会計課長などを歴任。
嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 198… 嶋野三郎(島野三郎、しまの さぶろう、1893年 - 1982年1月24日)は、日本のロシア研究家・アナリスト。石川県出身。 1911年、金沢第一中学校を卒業。石川県の県費留学生として選抜され、日露貿易のために必要なロシア語を習得するため、ウラジオストクで語学研修を行う。この時、一緒に留学生に選抜されたのが宮崎正義(石原莞爾のブレーンとなる)である。 1914年、南満洲鉄道株式会社の社費留学生となり、モスクワの大学を経て、1916年にペテルブルク大学に入学。哲学・ロシア史を学ぶ。1917年、ロシア2月革命に遭遇し、7月に帰国。その年、南満洲鉄道株式会社に入社し、東京支社東亜経済調査局(後に調査部)に所属する。
藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月1… 藤村 謙(ふじむら ゆずる、1892年(明治25年)11月16日 - 1977年(昭和52年)3月29日)は、大日本帝国陸軍軍人。陸軍士官学校第26期、陸軍大学校第38期卒業。最終階級は陸軍中将。 1892年(明治25年)に石川県石川郡野々市村本町で生まれた。村長・石川県議藤村理平の子。先祖は平氏か源氏か藤原氏かは定かでないが富樫氏に家老として仕えていた古い武士で、加賀一向一揆で滅びた後は帰農し、江戸時代には野々市郷の名主庄屋だったという。前田藩の参勤交代の際は小休所で、名字帯刀を許されていた。苗字は「小藤屋」であったが、明治維新を機に「藤村」と改めた。 生母の多美は生後間もなく亡くなり、圭に育てられる。
草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉… 草鹿 龍之介(くさか りゅうのすけ、1892年〈明治25年〉9月25日 - 1971年〈昭和46年〉11月23日)は、日本の海軍軍人、剣道家。海軍兵学校41期生。海軍大学校24期。最終階級は海軍中将。一刀正伝無刀流第4代宗家。 1892年(明治25年)9月25日、住友本社理事・草鹿丁卯次郎の長男として東京で生まれる。本籍は石川県。草鹿家は加賀大聖寺藩に仕えた一族である。 石川県師範学校附属小学校を経て、大阪天王寺中学校を卒業。 草鹿龍之介著「一海軍士官の半生記」によると石川師範学校附属小学校時代には、陸軍中将青木重誠(陸士25期首席)と同級であり成績は草鹿が1番で青木が2番だったと回想している。
朝倉 昇(あさくら のぼる、1892年〈明治25年〉9月14… 朝倉 昇(あさくら のぼる、1892年〈明治25年〉9月14日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山口県玖珂郡新庄村(柳井市)出身。宮本鶴松の二男として生まれ山口県朝倉林助の養子となった。石川県立七尾中学校を経て、1914年(大正3年)に上田蚕糸専門学校養蚕科を卒業。長野県吏員、山口県養蚕取締吏員、富山県立農学校教諭、岐阜県安八農学校教諭を務めた。1924年(大正13年)、高等試験行政科に合格し、翌年に京都帝国大学経済学部を卒業した。朝鮮総督府に入り、慶尚北道保安課長、京畿道保安課長、警務局事務官、慶尚南道産業課長、平安北道財務部長を経て、1934年(昭和9年)に鎮南浦尹に就任した。 その後、平壌専売支局長、平壌地方専売局長を務めた。
箸本 太吉(はしもと たきち、1892年(明治25年)7月1… 箸本 太吉(はしもと たきち、1892年(明治25年)7月16日 – 1961年(昭和36年)7月25日)は、衆議院議員(立憲政友会)、外務参与官。ジャーナリスト。 石川県金沢市出身。日本大学で学んだ後、『中外商業新報』政治部記者となり、ロンドン特派員を務めた。その後『萬朝報』に入社し、常務取締役営業局長・編集局長、専務取締役・主筆を歴任した。また平沼騏一郎日本大学総長の秘書や日本大学講師を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に石川県第1区から出馬し、初当選。合計で5期務めた。その間、平沼内閣で外務参与官に就任した。 1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため、公職追放となった。
武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)… 武谷 甚太郎(たけたに じんたろう、1892年(明治25年)7月16日 - 1976年(昭和51年)2月28日)は、大正から昭和期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員、金沢市長、石川県会議長。 石川県石川郡鶴来町(現白山市)で、武谷久太郎、イトの二男として生まれる。1914年(大正3年)早稲田大学に入学し政治経済科で学んだ。政治運動に参加して検束され、1917年(大正6年)12月に早大を中退した。 その後、太平洋通信記者となり、1918年(大正7年)6月、中国民報(現山陽新聞)記者、さらに1922年(大正11年)3月、帰郷して北陸毎日新聞(現北國新聞)主筆に就任し、編輯長、取締役を歴任した。
岡田 弥一郎(おかだ やいちろう、1892年6月24日 - … 岡田 弥一郎(おかだ やいちろう、1892年6月24日 - 1976年4月28日)は、日本の動物学者。学位は、理学博士(東京大学)。三重県立大学(現三重大学)教授、東海大学教授を歴任。 石川県加賀市出身。水産講習所(現東京海洋大学)卒業、東京帝国大学助手、1929年、理学博士(東京大学)(学位論文:「六枚海綿ファレア・ソラシーの發生に就て」)取得。東京高等師範学校教授、三重水産専門学校校長、戦後三重県立大学(現三重大学)教授、水産学部長。定年後、東海大学教授、日本魚類学会初代会長などを歴任。 動物学者としては、魚類、爬虫類や両生類などの分類学の分野において貢献している。 死後半世紀近くたったため、2020年代には岡田の著作はその殆どが国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化され、インターネット上で公開されている。
中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月1… 中村 正雄(なかむら まさお、1892年(明治25年)5月15日 - 1939年(昭和14年)12月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岳父は陸軍砲兵大佐 藤室松次郎(陸士旧8期)。功二級。 石川県出身。中村三雄の息子として生まれる。金沢第一中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1913年5月、陸軍士官学校(25期)を卒業、同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる。1920年11月、陸軍大学校(32期)を卒業。 参謀本部付勤務、参謀本部部員、フランス大使館付武官補佐官、陸大教官、参謀本部部員、歩兵第18連隊大隊長、陸軍歩兵学校教官、イタリア大使館付武官、参謀本部部員兼軍令部部員、第12師団参謀長、参謀本部通信課長などを歴任し、1939年3月、陸軍少将に進級。
広瀬 豊作(ひろせ とよさく、旧字体: 廣瀨豐作、1891年… 広瀬 豊作(ひろせ とよさく、旧字体: 廣瀨豐作、1891年11月17日 - 1964年4月12日)は、大正・昭和期の大蔵官僚。鈴木貫太郎内閣での大蔵大臣。石川県金沢市出身。位階および勲等は正三位勲一等。 元加賀藩士知行100石の広瀬嘉次馬の5男として生まれる。広瀬家の先祖官兵衛は浅井家家臣であったが、滅亡したため前田家の家臣となった。父は京都御所警備や北越戦争に従軍し、第三大隊分隊長となった。 金沢一中(同級にミッドウェー海戦にて戦死した航空母艦「加賀」艦長・岡田次作海軍少将がいる)、第一高等学校を経て、1917年に東京帝国大学独法科を卒業する。同年7月大蔵省に入省。同期には大蔵次官を後に務めた賀屋興宣と大野龍太がいた。