坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5… 坂倉 準三(さかくら じゅんぞう、1901年(明治34年)5月29日 - 1969年(昭和44年)9月1日)は、日本の建築家。 ル・コルビュジエに師事し、モダニズム建築を実践した。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけ、日本のなまこ壁を思わせるデザインとモダニズムの理念を統合し、世界でも高い評価を受けた。 妻は西村伊作の次女の坂倉ユリ(1912-2007)。息子に同じく建築家の坂倉竹之助、孫にはヒップホップMCのSPHEREがいる。
山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月… 山口 俊郎(やまぐち としろう、1901年(明治34年)3月31日 - 1981年(昭和56年)11月25日)は、昭和期の作曲家。岐阜県養老町出身。 東洋音楽学校ピアノ科卒業。 1921年(大正10年)、 松竹映画管弦楽団にピアノ奏者として入団。昭和の初期に、杉山長谷雄に師事し、作曲の勉強を始める。その後、松竹を退社し、フリーの作曲家になる。1945年(昭和20年)、キングレコード専属作曲家となる。 1955年(昭和30年)、作詞家藤間哲郎と組み、三橋美智也の初ヒット曲「おんな船頭唄」を作曲した。以後、三橋美智也と共に「佐渡おけさ」「ソーラン節」「花笠音頭」等多くの歌謡民謡も世に送り出す。その後も、「男のブルース」や「長良川旅情」などヒット曲を作曲した。
酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1… 酒井 正三郎/正兵衛(さかい しょうざぶろう/しょうべえ、1901年1月1日 - 1981年4月15日)は、日本の経済学者。名古屋大学名誉教授。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)校長や、初代名古屋大学経済学部長、経済社会学会会長、日本学術会議会員等を歴任した。 1901年、岐阜県岐阜市生まれ。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、1924年に同大本科を卒業。大学では左右田喜一郎に師事した。1942年に学位論文『国民経済ノ構造変動ノ本質並ニ原因ニ関スル研究』を提出して経済学博士号を取得。 1922年より指導教官左右田が主催した横浜社会問題研究所主任研究員。
三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11… 三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11月28日 - 1982年(昭和57年)5月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。 岐阜県恵那郡明智町(現・恵那市)出身。父親は村長を務める名望家だった。弟は名古屋市で眼科医院を開業した三宅寅三(歌人・三宅千代の夫)。旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)から早稲田大学政治経済学部に進学。早大では学生無産運動団体の「建設者同盟」に参加した。同学年に平野力三(元農林大臣)。 1923年早大を卒業。翌1924年に日本農民組合関東同盟の新潟県出張所を新発田に開設、以後新潟県に定住する。1926年、小作料の減免を求める農民に対し、地主が土地への立入禁止処分で対抗したことから始まった木崎村小作争議(木崎村は現在の新潟市北区)を先頭にたって指導し、小作料不納同盟の結成、小作人子弟の同盟休校、村政改革、無産農民学校設立などを行い対抗した。
9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900… 9代 岡村 利右衛門(利右衞門、おかむら りえもん、1900年(明治33年)10月29日 - 1965年(昭和40年)12月28日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。幼名は良守。 岐阜県吉城郡国府村広瀬町(国府町広瀬町を経て現高山市国府町広瀬町)で、8代利右衛門の息子として生まれる。斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を経て、1928年(大正14年)早稲田大学政治経済科を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学し、ベイツ大学、コロンビア大学を経て、ニューヨーク大学大学院を修了しマスター・オブ・ビジネス・アドミニストレーションの学位を受けた。 逓信省嘱託、牧野良三逓信政務次官秘書官、電気協会(現日本電気協会)弁理課長を経て、1938年(昭和13年)北支那開発に転じたが、終戦により解散となり帰国。
内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 197… 内藤 吐天(ないとう とてん、1900年2月5日 - 1976年5月12日)は、岐阜県出身の俳人、薬学者。本名は多喜夫。別名に龍膽寺旻、別号に萱雨亭(けんうてい)がある。 岐阜県大垣市生まれ。東京帝国大学薬学科卒。のち名古屋市立大学薬学部長、名城大学薬学部教授などを歴任。岡山六高時代より志田素琴、大須賀乙字に俳句を学び、「獺祭」「草上」「東炎」などに関わる。1946年に「早蕨」を創刊・主宰。「野薊にぴしりぴしりと夕立来ぬ」「あたたかな案山子を抱いて捨てにゆく」など、格調の高い句風で知られたが、晩年はより自由な作風になった。句集に『落葉松』『雨滴声』『早蕨』『鳴海抄』『点心』『臘八』など。また詩を日夏耿之介に師事し、海外の小説や詩集の翻訳もある。
加藤 鐐造(かとう りょうぞう、1899年(明治32年)8月… 加藤 鐐造(かとう りょうぞう、1899年(明治32年)8月15日 - 1971年(昭和46年)7月5日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員(5期)。 岐阜県土岐郡妻木村(現土岐市妻木町)で生まれる。1919年、名古屋中学校を卒業。 日本労農党に加わり、1930年、全国労農大衆党岐阜県連書記長となる。その他、妻木村会議員、同町会議員、岐阜県会議員、同参事会員を歴任。1937年4月、第20回衆議院議員総選挙に岐阜県第三区から社会大衆党所属で出馬し当選した。 戦後、日本社会党に加わる。1946年4月、第22回総選挙で岐阜県選挙区から出馬して当選。以後、第24回、第26回、第28回総選挙で岐阜県第2区から当選し、衆議院議員を通算五期務めた。
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月… 吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月11日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、日本の医学者・精神科医。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 岐阜県大垣市出身。大垣中学校、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒業。呉秀三門下となり、同大学精神病学教室助手、東京府立松沢病院に勤務。1925年(大正14年)東京帝国大学文学部大学院へ入学し、1931年(昭和6年)同大学大学院心理学専攻卒業。在学中、市ヶ谷刑務所精神考査嘱託を始めとし、豊多摩刑務所、小菅刑務所にて犯罪学研究に従事する。1936年(昭和11年)東京帝国大学脳研究室創設に際し、講師として着任。
高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 197… 高橋 信司(たかはし のぶし、1899年6月6日 - 1971年11月15日)は、日本の社会科学者。同志社大学法学部卒業、高知短期大学名誉教授。専門は政治史・政治思想史・比較憲法。 岐阜県大垣市出身。同志社大学法学部で、高木庄太郎に政治史を学ぶ。1924年(大正13年)、法学部を卒業。同志社大学法学部で政治史の講師を務める。 1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけ、同志社で法学部教授会と理事会(津下紋太郎、西村金三郎ら)との対立が生じた際に、高橋貞三講師とともに学生新聞で理事会を激しい言葉で批判した。理事会から「自発的辞表」提出を要求され、能勢克雄教授とともに解任させられた。これに対して法学部教授会は連名で理事会を批判した。
長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9… 長良川 彦三郎(ながらがわ ひこさぶろう、1898年12月9日 - 没年不明)は、岐阜県羽島市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は吉村 彦三郎。最高位は十両11枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、「長良川」の四股名で1918年5月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進、3勝6敗と負け越し、幕下に落ちる。1925年5月再十両となるも1勝4敗1預と負け越し再び幕下に落ちた。「金華山」と改名後の1927年1月、十両に復帰したが2場所連続で負け越し、四股名を「長良川」に戻した後の同年10月は3勝8敗と負け越し、1928年10月に廃業した。 長良川→金華山→長良川
安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21… 安田 桑次(やすだ くわじ、1897年(明治30年)5月21日 - 1968年(昭和43年)5月31日)は、大正から昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岐阜県安八郡和合村長。 岐阜県安八郡和合村大字津(現大垣市)で生まれる。1917年(大正6年)小野補修農業学校研究科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し、農業を営む。 和合村書記に就任。和合村会議員、同村長、岐阜県会議員、同参事会員、同副議長などを務めた。その他、大政翼賛会岐阜県支部常務委員、同安八郡協力会議長、同翼賛壮年団長、岐阜県翼賛壮年団協力委員などを務めた。 実業界では、岐阜県蛍石鉱業会長、同県鉱業会理事、岐阜県種苗社長、東海農事社長、安田商店社長、共栄百貨店社長などを務めた。
安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月… 安東 義良(あんどう よしろう、1897年(明治30年)5月4日 - 1986年(昭和61年)1月20日)は、日本の外交官、弁護士、政治家。位階は従三位、勲等は勲二等。衆議院議員(2期)。 岐阜県可児郡御嵩町出身。1922年東京帝国大学法学部卒業、外務省入省。1925年パリ大学卒業(法学博士)。 外務省調査部第3課長、欧亜局、大東亜省総務局長、1942年11月条約局長、同省政務局長、1945年退官。 1947年4月、第23回衆議院議員総選挙に岐阜2区から当選。衆議院では外務委員長を務める。1949年1月の第24回衆議院議員総選挙では落選するが1952年10月の第25回衆議院議員総選挙で返り咲き。
中島 武市(なかしま ぶいち、1897年1月30日 - 19… 中島 武市(なかしま ぶいち、1897年1月30日 - 1978年7月16日)は、日本の実業家・政治家。岐阜県本巣郡土貴野村(現在:本巣市)出身。岐阜市立岐阜商業学校(現在の岐阜県立岐阜商業高等学校の前身)卒業。シンガーソングライターの中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。 実父は大垣藩士の家系の士族であったが早世し、母の再婚先の商家・中島家で育てられた。母の兄は初代大蔵次官を務めた男爵・郷純造。純造の次男が日商会頭の郷誠之助。武市と誠之助は従兄弟同士にあたる。「拓聖 依田勉三傳」に中島武市の伝記も収録されている。 幼少期は貧しく小学校卒業後に村役場で用務員を務めていたこともある。1914年に岐阜商業学校を卒業した後、大阪の呉服問屋に丁稚奉公に出る。
野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1… 野村 芳兵衛(のむら よしべえ、1896年3月26日 - 1986年11月4日)は、日本の教育者。岐阜県洞戸村(現在の関市洞戸地区)の農家に長男として生まれる。家は浄土真宗で特に親鸞に信仰しており、精神形成に大きな影響を残した。真宗の活動家梅原真隆(しんりゅう)に傾倒し、その言葉「純に生きる」を生涯を通じてのモットーとした。 農家を継ぐことになっていたが、高等小学校を終えた後、校長から代用教員にと嘱望され、准教員を経て岐阜師範学校卒業。地元の小学校、岐阜女子師範学校付属小学校を経て、1924年上京、野口援太郎が自由主義教育の模範校として創立した池袋児童の村小学校の訓導となる。農村の教育に従事してきたため、東京の知識人階層の新思想には馴染めないものを感じ、親鸞の同行二人の思想を借りて、生活を基礎にし共生協力、あるいは協同自治の精神で、みんなが共に学んでいくことのできる場を作っていくことを教師の役割と捉えた。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。 気象学者の堀口由己は兄。 佐野利器によって耐震力学が重視されていた当時の東大建築学科への反動と、ヨーロッパの新しい建築運動への憧憬から、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。 論文「利休の茶」で北村透谷賞を受賞。また歌人として、さらには日本庭園の研究家としても知られる。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」としてとらえ、昭和戦前期より庭園に関する資料を収集し、1962年に神代雄一郎と共著で外国人向けに『Tradition of Japanese Garden』を、1965年に庭園論集『庭と空間構成の伝統』を出版、1975年に出版された自らの作品集の名称は『家と庭の空間構成』としている。
堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 198… 堀口 捨己(ほりぐち すてみ、1895年1月6日 - 1984年8月18日)は、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った。
加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月… 加藤 顕清(かとう けんせい、1894年〈明治27年〉12月19日 - 1966年〈昭和41年〉11月11日)は、岐阜県出身の彫刻家、洋画家。本名、加藤 鬼頭太。 長年に亘り日展審査員を務めたほか、後進の指導育成に尽くした。 1894年(明治27年)12月19日、岐阜県に生まれる。生後まもなく北海道深川市に転居し、上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業後、旭川市で代用教員を務めた後に上京して上智大学哲学科に入学。中原悌二郎の彫刻に出会ったことをきっかけに、1915年(大正4年)東京美術学校彫刻科入学、在学中は高村光雲、白井雨山に師事。 1923年(大正12年)同校研究科を卒業し西洋画科本科に再入学、藤島武二、長原孝太郎に師事し油絵を学んだ。
田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 19… 田中 実司(たなか じつじ、1894年10月18日 - 1980年11月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 本巣郡西郷村(現・岐阜市)生まれ。岐阜商工会議所議員、所得税調査員、岐阜県商工経済監事、岐阜県繊維製品配給(株)取締役、同県繊維製品統制(株)社長、田幸紡績(株)取締役会長、協和興業(株)取締役、(株)新岐阜百貨店常任監査役、岐阜繊維問屋街連合会長を歴任する。 1930年に洋服店を開業した。1942年に岐阜市会議員となった。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県全県選挙区から日本自由党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において岐阜1区で自由党公認で立候補したが落選。
山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966… 山田 守(やまだ まもる、1894年4月19日 - 1966年6月13日)は日本の建築家。逓信建築の先駆者的存在、モダニズム建築を実践し、曲面や曲線を用いた個性的、印象的なデザインの作品を残した。 岐阜県羽島郡上中島村字長間(現・羽島市)生まれ。上中島小学校、岐阜県立大垣中学校、第四高等学校を経て、1917年、東京帝国大学建築学科入学。1920年、青年建築家のグループ分離派建築会を結成する。同年、同校卒業。逓信省営繕課に入り、電信局・電話局(逓信建築)の設計を行う。東京中央電信局(1925年、現存しない)ではパラボラ型アーチの並ぶ個性的なデザインが注目された。1924年から復興局土木部に所属し、永代橋、聖橋に代表される関東大震災後の震災復興橋梁のデザインを行った。
荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1… 荒川 豊藏(あらかわ とよぞう、1894年3月21日 - 1985年8月11日)は、昭和を代表する美濃焼の陶芸家。岐阜県多治見市出身。桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した可児市久々利にある牟田洞古窯跡のある大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねた。終には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立した。'''斗出庵'''、'''無田陶人'''と号す。 豊蔵が古志野筍絵陶片を発見した当時多治見陶磁試験場に勤務していた土師萌は、豊蔵が古志野の破片を発掘した話を聞いて、豊蔵の投宿先に破片を見に来る。また、1924年(大正13年)、豊蔵と共に久尻清安寺境内の古窯跡を発掘。
棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 19… 棚橋 真作(たなはし しんさく、1894年3月7日 - 1946年2月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。終戦時に自決。 1894年(明治27年)3月7日、現在の岐阜県大垣市に生まれる。旧制中学を卒業後、陸軍士官学校28期で入学した。卒業後には歩兵第35連隊に配属され、シベリア出兵を経験する。後に歩兵第36連隊付き配属将校として旧制三国中学校へ赴任する。歩兵第7連隊第三大隊長も歴任する。第7連隊時代には、上海付近及び南京付近の戦闘に参加し、武功抜群により上海派遣軍司令官である松井石根大将より個人感状を授与され、金鵄勲章を叙勲される。 1940年(昭和15年)8月には陸軍大佐に任ぜられ、1941年(昭和16年)3月には歩兵第112連隊(丸亀連隊)連隊長を拝命する。
纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26… 纐纈 弥三(こうけつ やぞう、旧字体: 纐纈 彌三、明治26年(1893年)12月19日 - 昭和53年(1978年)3月15日)は、日本の内務官僚・政治家。警視庁特別高等警察課長、大分県知事、衆議院議員(4期)、複数の政務次官等を歴任した。
大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – … 大橋 忠一(おおはし ちゅういち、1893年12月8日 – 1975年12月14日)は、昭和期の外交官・政治家。衆議院議員(3期)。カンボジア大使。
市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 196… 市岡 寿(いちおか ひさし、1893年5月26日 - 1963年2月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - … 日比野 民平(ひびの みんぺい、1892年11月21日 - 1964年9月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県加茂郡古井村(古井町を経て現美濃加茂市)出身。古井町長、岐阜県会議員、同第41代副議長(1934年11月21日から1935年10月16日)、同第51代議長(1943年11月24日から1944年11月22日)、所得税調査委員、加茂郡町村会長となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。翌1937年の第20回衆議院議員総選挙で落選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。戦後は1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選。
武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 - 1… 武藤 完一(むとう かんいち、1892年11月15日 - 1982年9月28日)は、日本の版画家。 岐阜県岐阜市出身。川端画学校で藤島武二に師事。大分師範学校教諭、大分大学教授として大分県の美術の発展に尽力すると共に、日本版画協会展、文展、日展、新日展に出品。1960年(昭和35年)には棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと「日版会」を創立した。1964年、光風会会員となる。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年… 宮崎 繁三郎(みやざき しげさぶろう、明治25年(1892年)1月4日 - 昭和40年(1965年)8月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。長男は、陸軍士官学校出身で元明治大学総長の宮崎繁樹。 岐阜県出身。岐阜中学(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業後、陸士(26期)を卒業、席次は737人中230番。歩兵第16連隊(新潟県新発田市)に配属された。本来であれば陸大に入学するのに必要な連隊長からの推薦も受けられない成績であったが、二度目の受験で合格し陸大36期を64人中29番で卒業した。 参謀本部支那班などを経てハルビン特務機関補佐官についた。満州の不安定化と日本軍の勢力拡大を目論む甘粕正彦などの工作活動に関与した。
石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1… 石榑 敬一(いしぐれ けいいち、1890年12月5日 - 1968年11月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県岐阜市生まれ。1908年岐阜県立農林学校卒。陸軍に入り、中尉まで進む。その後、岐阜市主事、三里村(現・岐阜市)村長、岐阜県会議員、岐阜在郷軍人連合分会長、岐阜市警防団長などを歴任する。 1928年12月4日から1931年10月15日まで第36代岐阜県会副議長を務めた。 1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では、岐阜1区(当時)から立候補する。翼協の非推薦ながら在郷軍人会をバックに当選を果たす。衆議院議員は1期務めた。 戦後の1955年の岐阜市長選挙に立候補したが、自由党推薦の松尾吾策に敗れて落選した。
大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの とも… 大野 伴睦(おおの ばんぼく、本名:大野 伴睦〈おおの ともちか〉、1890年〈明治23年〉9月20日 - 1964年〈昭和39年〉5月29日)は、日本の政治家。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。1955年の保守合同に際し三木武吉と協力し、自民党結成に尽力。1957年以降自民党副総裁を長く務めた。派閥の力関係を巧みに操る寝業師型の政治家とされる。 「政治は義理と人情だ」[要出典]「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」などの名言を残した。
田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20… 田結 穣(たゆい みのる, 1890年(明治23年)1月20日 - 1977年(昭和52年)6月28日)は、日本の海軍軍人。海兵39期次席・海大23期首席。最終階級は海軍中将。 岐阜県安八郡大垣町(現大垣市)出身。岐阜県立大垣中学校(現:岐阜県立大垣北高等学校)を卒業後に第一高等学校に進んだが中退し、海軍兵学校に入校した(兵39期)。入校席次は11位/150名、卒業席次は次席/149名で恩賜の短剣を拝受。 田結は艦船勤務を経てイギリス駐在となるが、主要国への駐在任務は海軍大学校甲種学生を卒業後に行われるのが慣例で、井上成美などの例はあるものの、異例の人事であった。 帰国後、海大23期を首席/22名で卒業して恩賜の軍刀を拝受。
江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12… 江馬 修(えま しゅう、または えま なかし、1889年12月12日 - 1975年1月23日)は、日本の作家。本名の読みは「なかし」で、筆名は「しゅう」とすることが多かったが、一定しない。
久松 真一(ひさまつ しんいち、1889年6月5日 - 19… 久松 真一(ひさまつ しんいち、1889年6月5日 - 1980年2月27日)は、日本の哲学者、仏教学者。旧姓は大野。号は抱石庵。
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月2… 小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月21日 - 1962年〈昭和37年〉9月9日)は、日本の医師。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、国立予防衛生学研究所長を歴任。岐阜県各務原市出身。
伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月… 伊藤 恭一(いとう きょういち、1888年(明治21年)4月15日 - 1950年(昭和25年)3月16日)は、明治末から昭和前期の教育者、政治家。衆議院議員。 岐阜県恵那郡付知村(付知町を経て現中津川市付知町)で、伊藤文弥の三男として生まれる。付知小学校卒業後、検定試験で准教員の資格を得て郷里の学校で教員を務め、1910年(明治43年)3月、岐阜県師範学校を卒業した。 加納小学校訓導に就任。以後、付知小学校訓導、同校長、岐阜県視学、岐阜市白山小学校長、同市徹明小学校長などを歴任。さらに、白山商工実修学校長、徹明商業青年学校長、岐阜県教員購買組合監事、同県国民学校長会副会長、大日本教育会岐阜県支部参与などを務めた。
川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月… 川﨑 小虎(かわさき しょうこ、1886年(明治19年)5月8日 - 1977年(昭和52年)1月29日)は、日本の画家。岐阜県岐阜市生まれ、出生時の本名は中野 隆一(なかの りゅういち)、後に川﨑へ改姓。 岐阜県庁勤務の中野金之助と妻あゆの長男として生まれ、幼少期から母方の祖父である川﨑千虎に大和絵を学び、さらに千虎が佐賀県有田町にあった佐賀県有田陶芸学校の校長になるとその専科で絵画と図案を学んだ。1902年(明治35年)の千虎没後は千虎門下の小堀鞆音に師事し、東京美術学校卒業後は教員を経て創作活動に専念した。 初期には千虎や鞆音の系譜を継ぎ、大和絵を基調とした叙情的な作品を描いたが、次第に人間的な色合いの濃い作風へと変わり、晩年は身近な自然や動物などの素朴な主題を描く。
大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19… 大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の陸軍軍人、外交官。最終階級は陸軍中将。 第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。 大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国同盟も強力に支持した。
河村 目呂二(かわむら めろじ、1886年 - 1959年9… 河村 目呂二(かわむら めろじ、1886年 - 1959年9月26日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の芸術家・彫刻家。本名は弘。1934年の元旦より河村 龍興として活動をした。 岐阜県揖斐郡宮地村願成寺(現・池田町)生まれ。大垣中学校を卒業後、大阪医学専門学校に入学するが、芸術家への道を捨てきれず、一年で中退し、東京美術学校に入学し、彫塑科を卒業。幼少時より美術が好きであったと同時に音楽も好きであつたため、「メロディ」と「竹久夢二」の語呂合わせで目呂二と号した。猫好きの芸術家であり、招き猫などを多く手がけたことから、「猫の芸術家」「招き猫アーティスト」として知られる。文筆家・随筆家としての顔も持つ。
野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) -… 野原 櫻州(のはら おうしゅう、1886年(明治19年) - 1933年(昭和8年)2月28日)は明治から昭和にかけて活躍した日本画家である。野原桜州とも表記される。 歴史画、花鳥画。特に薔薇の絵を得意とし、生前は「薔薇の櫻州」と評されていた。
前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月2… 前田 青邨(まえだ せいそん、1885年〈明治18年〉1月27日 - 1977年〈昭和52年〉10月27日)は、日本画家。位階は従三位。岐阜県中津川市出身。本名、前田 廉造(まえだ れんぞう)。妻は荻江節の5代目荻江露友。三女の夫が美術史家の秋山光和。 青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。ことに武者絵における鎧兜の精密な描写は有名である。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。その後、1937年(昭和12年)に帝国美術院が改組して帝国芸術院として発足すると芸術院会員となった。
奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11… 奥村 千蔵(おくむら せんぞう、1884年〈明治17年〉11月18日 - 1934年〈昭和9年〉5月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 岐阜県、現在の大垣市出身。中国語を学ぶ。日露戦争に従軍し、満州、蒙古、朝鮮に10年間滞在する。帰国後、西濃飲料水(株)社長となり、大垣市議、大垣商業会議所特別議員、営業税調査委員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜2区(小選挙区)から憲政会公認で立候補して初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区(中選挙区)から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。所属会派はその後第一控室会となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙では無所属で出馬したが落選した。
水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15… 水野 利八(みずの りはち 1884年(明治17年)5月15日 - 1970年(昭和45年)3月9日)は、日本の実業家。ミズノ創業者。紺綬褒章、勲四等瑞宝章受章。二男は水野健次郎。水野正人、水野明人は孫。 岐阜県大垣市に生まれる。興文小高等科中退。9歳の時に棟梁をしていた父が死去したため、大阪・京都へ丁稚奉公へ出た。 1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、野球の魅力に惹かれ運動用品の商売を志す。1906年(明治39年)に弟の水野利三と大阪市北区で水野兄弟商会を創業。当初は運動服を扱っていたが、1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めた。 1916年(大正5年)に全国統一の標準球を完成。
青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 -… 青木 文一郎(あおき ぶんいちろう、1883年8月16日 - 1954年7月2日)は、日本の哺乳類学者。台北帝国大学教授を経て、岐阜大学初代学長。 1883年、岐阜県厚見郡日置江村に生まれた。且格尋常小学校、岐阜中学校、第三高等学校を経て、1907年(明治40年)、東京帝国大学理科大学動物学科に入学。1910年に卒業し、同大学大学院に進学した。 1913年(大正2年)、九州帝国大学助手に採用され、解剖学教室に勤務。1915年5月に依願退職。1909年8月に高等学校教員免許を取得し、9月より旧制愛知医科大学(現名古屋大学)予科教授となった。1922年、同校講師に昇格。 1927年4月、台湾総督府高等林業楽校教授に任命され、同時に在外研究を命じられて2年間イギリス、フランス、イタリア、アメリカの4か国へ研究留学した。
今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 … 今西 卓(いまにし たく、1883年〈明治16年〉8月7日 - 1933年〈昭和8年〉4月23日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。愛知県豊橋市の電力会社豊橋電気に技師長として入社し、後に支配人へと昇進。同社が解散した後は東三河地方の電気・鉄道事業に関わった。岐阜県出身。 今西卓は、1883年(明治16年)8月7日、岐阜県池田郡池野村(現・揖斐郡池田町池野)の豪農今西文造の長男として生まれた。幼少時より俊才で、温知学校を経て岐阜県大垣中学校へ入学、開学以来となる好成績で卒業した。次いで京都の第三高等学校へ進み、1905年(明治35年)7月第二部工科を卒業。最終的に1908年(明治41年)7月、京都帝国大学理工科大学電気工学科を卒業した。
種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15… 種田 虎雄(おいた とらお、1883年(明治17年)4月15日~1948年(昭和23年)9月5日)は、日本の官僚、実業家。近畿日本鉄道(近鉄)の初代社長を務めた。
澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8… 澤田 竹治郎(さわだ たけじろう、1882年(明治15年)8月2日 - 1973年(昭和48年)3月11日)は、日本の内務官僚、裁判官。最高裁判所判事。岐阜県出身。
森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月1… 森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:森田 米松。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。 岐阜県方県郡鷺山村(現・岐阜市)生まれ。1895年に高等小学校卒業後、日清戦争の影響を受け海軍軍人となるべく単身上京し、海軍予備校だった攻玉社に入学。しかし校風が合わず退学し、日本中学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学。同校を1899年に卒業。さらに金沢の第四高等学校に入学するが、恋人の森田つね(のちの妻)との同棲が見つかり、つねの親が学校に訴えたため退学処分を受ける。
安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月… 安東 昌喬(あんどう まさたか、1880年(明治13年)5月28日 - 1956年(昭和31年)4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業した。 イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。
佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日… 佐竹 三吾(さたけ さんご、1880年(明治13年)3月5日 - 1976年(昭和51年)5月24日)は、明治末から昭和期の鉄道官僚、政治家、実業家。貴族院議員(勅選)、法制局長官。 岐阜県養老町出身。米穀商・佐竹柳三郎の三男として生まれ、佐竹鉄治郎の養子となる。岐阜中学、城北中学を経て第一高等学校に入学。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を優等で卒業し銀時計を授与された。卒業後農商務省嘱託となり、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。農商務属・商工局勤務、法制局参事官、満鉄理事を経て、1908年(明治41年)6月から1910年(明治43年)5月まで欧米に留学した。
国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13… 国ノ音 治三郎(くにのおと じさぶろう、1880年(明治13年)1月25日 - 1960年3月20日)は、明治時代の大相撲力士。本名は大野 治三郎。年寄楯山。 岐阜県席田郡仏生寺村(現在の本巣市)出身。愛知相撲の三ツ湊に入り、緑島と名乗る。その後三ツ湊により東京相撲の友綱に預けられ、1900年1月友緑で序ノ口。1903年5月国ノ音に改名。1905年1月三段目、その年日露戦争に従軍し、勲八等白色桐葉章となる。小柄で出世に乏しかったが、現役時代に師匠の姪を妻とした。年寄の資格は幕下以上と当時制限されていたが、1910年6月友響と改名し、好成績で1911年2月幕下に昇進し、その場所限り引退。年寄楯山となる。
伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 … 伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 - 1950年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 岐阜県海津郡、後の城山村(城山町、南濃町を経て現海津市)出身。茨城県立水戸中学校卒業後は郷里に戻っていたが、1900年12月より一年志願兵として名古屋歩兵第6連隊第3中隊に属する。日露戦争に従軍後、陸軍歩兵中尉で除隊。その後は輪西中普通水利組合会議員、石津村議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、自作農創調査委員、小作、金銭債務各調停委員となる。ほか帝国在郷軍人会海津郡連合分会長、大日本砂防協会評議員となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。