金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3… 金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。 1881年、新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現・大谷大学)予科に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。1904年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。
前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月… 前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月 - 1944年(昭和19年)4月11日)は、日本の建築家。大連民政署の設計や、寝殿造の研究で知られる。 京都市生まれ。父は福井県士族前田松閣。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月、大連軍政署の嘱託技師、同年10月、関東都督府技師となる。在職中に大連民政署(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)、大連の日本橋(現・勝利橋)を設計。 1907年(明治40年)10月、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科教授に就任。日英博覧会の装飾を担当し、1909年12月よりロンドンに出張。
厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 -… 厨川 白村(くりやがわ はくそん、1880年11月19日 - 1923年9月2日)は、日本の英文学者・文芸評論家。本名・辰夫。 『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代の恋愛論ブームを起こした。夏目漱石『虞美人草』の小野のモデルとも言われる。 1880年(明治13年)、京都市柳馬場押小路生まれ。養父の厨川磊三(らいぞう)は元津山藩士で蘭学を修め、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めた人物。子がなかったため、実弟の子だった白村を養子とした。 大阪市の滝川尋常小学校、盈進高等小学校を経て、大阪府第一尋常中学校から京都府立第一中学校に転校後、第三高等学校を経て1901年(明治34年)、東京帝国大学英文科入学。
甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、188… 甲斐荘(庄) 楠香(かいのしょう ただか(なんこう)、1880年(明治13年)5月21日 - 1938年(昭和13年)6月25日)は、日本の発明家、実業家。高砂香料工業の創業者。 京都の士族・甲斐荘正秀の長男。京都府師範学校附属小学校、京都府立一中、第三高等学校を経て、京都帝国大学理工科大学純正化学科を卒業した。1906年に久原躬弦の下で助教授に任命された。しかし、応用化学、特に香料工業に関心があったことから休職し、1910年に欧州に私費留学した。欧州では、フランスのグラースに下宿し、製造職工や調合見習いを行い、スイスのジボダンで合成香料の開発と調合を研修し、1913年末に帰国した。 帰国後は、丸見屋(後のミツワ石鹸)に勤めるが、合成香料工業が苦境に陥り、1919年7月に退職した。
西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4… 西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。 1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。
大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)1… 大谷 瑩誠(おおたに えいじょう、1878年(明治11年)11月3日 - 1948年(昭和23年)4月28日)は、浄土真宗の僧で、真宗大谷派連枝。東洋学者。第13代大谷大学学長。院号は能浄院。別号は「禿庵」。 1878年、東本願寺第22世法主・大谷光瑩(現如)の次男として生まれた。幼名は英麿(ふさまろ)。父の意向で11歳から17歳まで親元を離れて上京し、福沢諭吉家で薫陶を受けた。1897年(明治30年)、真宗京都中学(現・大谷高等学校)を卒業。 翌1898年(明治31年)、21歳で布教のため大谷勝信とともに日清戦争直後の中国上海や台湾に赴いて、台湾南支布教総督に就任。布教活動の第一線に立った。 3年間布教活動に従事した後、新知識を求めてイギリス・オックスフォード大学マンチェスターカレッジに入学し、3年間を過ごした。
真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月1… 真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月10日 - 1926年〈大正15年〉10月25日)は、日本の教員・作詞家。本名は瀧吉(たききち)。京都府加佐郡河守町新町(現:京都府福知山市大江町新町)出身。代表作は『戦友』など。 1878年(明治11年)10月10日、京都府加佐郡河守町新町の貧しい農家の次男として生まれる。生家では農業の他、蝋燭製造や製紙業を営んでいたとされている。 1885年(明治18年)、河守学校初等科に入学〈翌年「小学校令」により尋常科に改名〉。河守尋常小学校を卒業後は、糸問屋に奉公し、その後実家の蝋燭製造に従事した。 1892年(明治25年)河守地方六ヵ町村組合立高等小学校3年に編入学。
木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月… 木下 東作(きのした とうさく、1878年(明治11年)6月27日 - 1952年(昭和27年)6月19日)は、日本の運動生理学者、スポーツ評論家。医学博士。 大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)教授から大阪毎日新聞社運動部長に転身。日本女子スポーツ連盟を設立し、人見絹枝を育成したことで知られる。本人も旧制第一高等学校・東京帝国大学在学中には長距離走の選手として知られた。 京都市出身。木下凞の二男。兄に産婦人科学者の木下正中がいる。木下家はもと若狭小浜藩医の家で、凞は明治維新後に京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した(父については木下正中の記事を参照)。 東京府尋常中学、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学。
清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2… 清水 仁三郎(しみず にさぶろう、1878年(明治11年)2月19日 - 1951年(昭和26年)11月12日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。建築家。実業家。 京都府京都市出身。建築家清水仁兵衛の二男として生まれ、同志社で学んだ。建築工学を学び、京都武徳殿の建築に参加した。宮内省・農商務省の委嘱を受け、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では日本建築・庭園模型を出品した。1902年(明治35年)、岩崎男爵家の設計技師となり、邸宅の設計を担当した。1910年(明治43年)の日英博覧会の際には、再び宮内省・農商務省の委嘱を受け日本庭園の設計を担当した。1911年(明治44年)、岩崎家の建築事務閉鎖に伴って独立し、清水建築工務所を開いた。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1… 吉田 伊三郎(よしだ いさぶろう、1878年(明治11年)1月21日 – 1933年(昭和8年)4月23日)は、日本の外交官。駐トルコ大使。
嵐 冠三郎(あらし かんざぶろう、1878年 - 没年不詳)… 嵐 冠三郎(あらし かんざぶろう、1878年 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役、元女形である。本名は北岡 力松(きたおか りきまつ)。関西歌舞伎から初期のサイレント映画に転向して牧野省三の映画製作を支えた、マキノ最古参俳優である。 1878年(明治11年)、京都府京都市上京区西陣の織物屋の家庭に生まれる。本名については、最初期の資料である『花形活動俳優内証話』(1918年)には「北國力松」とあるが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』などによれば、本名の姓は「北岡」である。『花形活動俳優内証話』には、芝居好きの両親が四代目實川延三郎(1864年 - 1905年)、片岡柳蔵(1870年 - 1923年)の贔屓であったため、幼児から日本舞踊を習得し、数え年8歳の年に、牧野省三(1878年 - 1929年)の経営する千本座の子役となり、同劇場で初舞台を踏んだ、という旨の記述がなされている。
石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年… 石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年1月9日)は、日本の国文学者。 京都出身。号は春風。平安義黌卒。愛知医科大学教授、第八高等学校(現・名古屋大学)講師。研究誌「紙魚(しみ)」を主宰する。 尾張地方の文人や芸能人を研究し、1940年「俳文学考説」で帝国学士院賞を受賞。 1930年「名古屋市行進歌」を作詞(作曲:信時潔)。 死後、蔵書のほとんどは天理図書館に入ったが、一部の手沢本は愛知県立大学図書館に収められた。
森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10… 森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日(明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本の経済学者・教育者・文化生活研究家。
田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 196… 田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 1961年10月3日)は、日本の外交官。外務次官、在ソヴィエト連邦特命全権大使、同盟通信社理事会長、日本新聞会会長等を務めた。 京都府宮津市生まれ。旧制京都府尋常中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校の前身)経て、1898年東京高等商業学校(一橋大学の前身)領事科卒。1898年に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省入省、同期に本多熊太郎や埴原正直らがいる。同年から領事官補としてソウル、ホノルル、ニューヨークに在勤。1903年から領事として、シンガポール、香港、シアトルに在勤。1908年に帰国し、通商局第二課長に就任。 駐アメリカ合衆国日本大使館参事官を経て、1919年外務省通商局長、1921年同省情報部次長、1922年同省次官兼臨時平和条約事務局長兼情報部長。
烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月1… 烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月18日 - 1946年(昭和21年)3月11日)は、日本の法学者。 専門は民法および商法(特に海商法)。学位は法学博士。京都帝国大学名誉教授。第16代京都帝国大学法学部長。族籍は京都府平民。正三位勲二等受賞者。雅号は旭山人又は都水。 京都府京都市出身(本籍地は京都府京都市上京区)。烏賀陽然冏(または恒正)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)家督を相続する。京都市立小川小学校、1899年(明治32年)第四高等学校(旧制)卒業を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学法律科を卒業。 1904年(明治37年)に神戸高等商業学校講師となり、1906年(明治39年)から1920年(大正9年)まで同教授を務める。
有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日… 有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日 - 1937年〈昭和12年〉6月25日)は、明治、大正、昭和前期の外交官。国際連盟設立メンバー。上海総領事、スイス公使、ブラジル大使、中華民国公使を経て、大使館昇格に伴い初代駐中華民国大使となる。対中国外交に尽力、軍部の中国侵略に抵抗。 京都府丹後国与謝郡宮津町(現:宮津市)出身。 父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。駐ブラジル大使として日本人のアマゾナス州進出を支援。 国際連盟設立メンバーの1人で、第2回から第4回までの国際連盟総会で日本代表を務めた。
松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - … 松島寛三郎(まつしま ひろさぶろう、1875年4月1日 - 1956年4月22日)は、日本の鉄道技術者・鉄道官僚。京阪電気鉄道常務取締役。 広島県比婆郡口北村(現庄原市)に生まれ、13歳の時に単身同志社中学(現同志社中学校・高等学校)に入学。第一高等中学校経て、1897年(明治30年)卒業。東京帝国大学に合格するが、その年に新設される京都帝国大学に振り分けられた。第一高まで野球部に所属しており、京大在学中に同支社中の野球部のコーチに招聘されている。現在の同志社大学硬式野球部の基礎を作り上げたとも言われる。 京大工学部一期生として1900年(明治33)卒業。同年10月に山陽鉄道に入社し、1906年(明治39)の国有化後は鉄道作業局湊町保線事務所長、北海道鉄道管理局工務課長、名古屋鉄道管理局工務課長等を歴任。
真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、18… 真島 利行(まじま としゆき、または故実読みで りこう、1874年(明治7年)11月13日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、京都市生まれの有機化学者。大阪帝国大学総長などを歴任。
伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 19… 伴 房次郎(ばん ふさじろう、1874年9月20日 - 1956年11月19日)は日本の法学者、教育者。専門は民法。小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)第二代校長。長男伴素彦はサンモリッツオリンピックスキージャンプ日本代表で日本製粉株式会社の会長も務めた。 1874年(明治7年)京都市伏見区生まれ。京都府尋常中学校、第四高等学校 (旧制)を経て1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し京都帝国大学法科大学講師となる。翌1903年(明治36年)助教授となり、1908年(明治41年)からイギリス、フランス、ドイツへ留学。1912年(明治45年)帰国し7月より北海道の小樽高等商業学校に教授として赴任する。
松井 兵三郎(まつい ひょうざぶろう、1874年〈明治7年〉… 松井 兵三郎(まつい ひょうざぶろう、1874年〈明治7年〉6月1日 - 1937年〈昭和12年〉9月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功五級。 京都府上京葭屋町通(現京都市上京区)で商家・松井鑰三郞の長男として生まれ、1883年(明治16年)に家督を相続した。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業。 1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年(明治30年)1月、陸軍歩兵少尉に任官し近衛歩兵第1連隊付となる。1901年(明治34年)10月、陸軍大学校(18期)に入学したが、日露戦争勃発のため1904年(明治37年)2月に陸大を中退。
2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)… 2代 山本 藤助(やまもと とうすけ、1874年(明治7年)6月1日 - 1926年(大正15年)8月16日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・山田。初代山本藤助の娘婿。 鳥取県邑美郡鳥取町寺町(現鳥取市寺町)で、旧鳥取藩士・山田頼実の長男として生まれる。修徳小学校(現・鳥取市立修立小学校)、育英高等小学校を卒業後、京都府商業学校(現・京都市立西京高等学校)に進み、1895年(明治28年)に卒業した。 同年、帝国海上保険会社(現・損害保険ジャパン)に入社。1907年(明治40年)6月、鉄鋼商・海運業を経営した初代山本藤助の未亡人に懇願され、その長女・山本としの入夫となり、2代藤助を襲名した。
冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月1… 冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月16日 - 1945年(昭和20年)11月16日)は、日本の判事・台湾総督府官僚。高雄州知事。 京都府に冨島元起の長男として生まれる。京都府立第一中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。京都地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、宇都宮地方裁判所部長判事を歴任。 台湾総督府総務長官・賀来佐賀太郎の招きにより台北に赴任し、覆審法院判官となった。その後行政官となり、南投庁長、台北庁長を歴任した。さらに台湾総督府警視総長(1919年5月21日 - 1919年6月28日)、同警務局長(1919年6月28日 - 1920年9月1日)を務めた。
志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月… 志保田 鉎吉(しほた しょうきち、1873年(明治6年)9月 - 1959年(昭和34年)2月1日[要出典])は、日本の教育者。 京都府天田郡福知山町(現在の福知山市)出身。清水道勝の三男として生まれ、志保田六兵衛の養子となった。1895年(明治28年)、京都尋常師範学校を卒業し、天田郡中部の高等小学校訓導を務めた。1900年(明治33年)、東京高等師範学校文科を卒業し、沖縄県師範学校教諭となった。1901年(明治34年)、台湾総督府国語学校教授に就任。その後、台南高等女学校校長、台南師範学校校長、台北師範学校校長、台北第一師範学校校長を歴任した。 後に帰国、1959年(昭和34年)2月1日に京都市で死去[要出典]。
井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月1… 井上 治兵衛(いのうえ じへえ、1873年(明治6年)6月13日 - 1956年(昭和31年)1月28日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役会長を務めた。 1891年京都市立商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業。1892年三井物産入社。取締役兼横浜支店長兼生糸部長として、バブコック・アンド・ウィルコックスとの合弁での東洋バブコック(のちのバブコック日立)の設立にあたり、同社監査役等を経て、1935年から三井物産会長を務めた。墓所は多磨霊園。
山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉… 山本 平三郎(やまもと へいざぶろう、1873年〈明治6年〉3月15日 - 1931年〈昭和6年〉1月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 京都府桑田郡、のちの南桑田郡曽我部村(現亀岡市)出身。鉄工業、建築請負業、海運業を営み、神戸市会議員となる。兵庫県土木建築請負業組合長、神戸市土木建築請負業組合相談役、神戸商工会議所議員兼常任議員、桜麦酒(株)監査役、相良銀行、相良運輸(株)取締役を務めた。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において兵庫2区(当時)から立憲民政党公認で当選、1期務める。当選した翌1931年1月に死去した。
4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3… 4代 藤井 善助(ふじい ぜんすけ、1873年(明治6年)3月8日 - 1943年(昭和18年)1月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家、美術品収集家。衆議院議員、滋賀県神崎郡北五個荘村長。前名・善三郎、号・静堂。 滋賀県神崎郡宮荘村(北五個荘村宮荘、五個荘町を経て現東近江市)で、絹織物洋服生地製造販売業・藤井周次(3代善助)の長男として生まれる。1903年(明治36年)7月、家督を相続し善助(4代)に改名した。1887年(明治20年)京都第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、さらに上海の日清貿易研究所で学んだ。 京都の自店で働いていたが、1901年(明治34年)京都倉庫監査役、大阪金巾製織会社監査役に就任。
田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(… 田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(明治5年10月20日) - 1964年2月25日)は、日本の法曹(検察官、弁護士)。立命館大学元学長。立命館中学校父兄会会長。京都府船井郡園部村(のち園部町、現・南丹市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
奥野 英太郎(おくの えいたろう、明治4年12月17日(18… 奥野 英太郎(おくの えいたろう、明治4年12月17日(1872年1月26日) - 昭和20年(1945年)5月24日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。大津市長。 園城寺侍医奥野時之の長男として出生。1891年(明治24年)、京都府立第一中学校を卒業後、陸軍士官学校(6期)に入った。1895年(明治28年)に士官学校を卒業し、少尉として歩兵第8連隊に勤務した。その後陸軍大学校(15期)に入り、1901年(明治34年)に卒業した。参謀本部付を経て、少佐として1909年(明治42年)に歩兵第70連隊大隊長に就任。以後、第12師団参謀、第7師団参謀、第14師団参謀、由良要塞参謀を歴任した。1912年(明治45年)、中佐に進級して朝鮮軍司令部参謀に就任した。
神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1… 神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。 神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した。
会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年… 会田 龍雄(あいだ たつお、明治4年11月21日(1872年1月1日) - 昭和32年(1957年)12月16日)は、日本の生物学者、遺伝学者。 1903年 - 1941年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授。1932年、帝国学士院賞受賞。 京都市出身。1872年、有栖川宮家に剣客として仕えた勤王派の父(福島県、矢吹出身)と外科医の娘である母(京都市出身)のあいだに長男として生まれる。銅駝校(小学校)、京都府尋常中学校、第三高等学校を経て、帝国大学理科大学動物学教室に入学、飯島魁に師事。同教室を1896年卒業後、1898年、第五高等学校(熊本)教授。この時同僚に夏目漱石がいた。1903年実家のある京都に戻り、京都高等工芸学校教授。
出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈… 出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日〈明治4年旧7月12日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。 出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる。強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた。その一方で奔放な言動により敵対者から多くの非難も浴びる。評価は現在でも定まっていない。「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束された。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも病により死去した。
原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日〈明治4年… 原 脩次郎(はら しゅうじろう、1871年7月1日〈明治4年5月14日〉- 1934年〈昭和9年〉3月6日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、拓務大臣、鉄道大臣。 現在の京都府綾部市で原虎好の二男として生まれる。1884年(明治17年)3月に綾部小学校を卒業し、その後、1886年(明治19年)まで代用教員を務める。1892年(明治25年)、弁護士事務所に入り、1893年(明治26年)、東京法学院に入学するも後に退学。 1896年(明治29年)、台湾新竹法院雇となり、裁判官心得に進む。1901年(明治34年)6月、台南県弁務署長に就任。同年11月、台湾総督府警視・保安課長に就任し、1904年(明治37年)12月に退職した。
桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871… 桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871年1月27日〉 - 1931年〈昭和6年〉5月24日)は、日本の東洋史学者・京都帝国大学教授。文学博士。1898年に出版された著書(中等東洋史.上巻/中等東洋史.下巻)は、東洋史教科書の定番となった。 1871年1月27日 越前国(現・福井県敦賀市)に製紙業者桑原久兵衛の次男として生まれる。京都府尋常中学校から第三高等学校へ進み、1892年に同校卒業、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に入学し、漢文科から同大学院東洋史専攻へ(1896年)。1898年の修了後、母校の第三高等学校教授となった。 翌1899年に高等師範学校(現・筑波大学)教授に転じ(1907年迄)、国費留学のため退官、文部省より中国へ派遣される。
十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10… 十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10日 / グレゴリオ暦 1870年12月31日 - 1955年5月17日)は、日本の教育者である。十文字学園の設立者である。旧姓は高畑。
麻田 駒之助(あさだ こまのすけ、明治2年10月14日(18… 麻田 駒之助(あさだ こまのすけ、明治2年10月14日(1869年11月17日) - 昭和23年(1948年)11月24日)は、日本の出版者、中央公論社の初期の社長。『ホトトギス』の俳人で俳号を椎花。 京都出身。京都府人麻田栄之進の長男として生まれ、京都府立中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒。西本願寺内局に勤務し、大谷光瑞の意向により1892年(明治25年)、反省会庶務係となり上京、『反省雑誌』の編集に当たる。1899年(明治32年)同誌を『中央公論』と改称。1904年(明治37年)、反省会社長となり、滝田樗陰が編集を担当して言論・文芸雑誌として売り上げを拡大したため編集実務を滝田に委ね、1914年(大正3年)に社名を中央公論社と改めた。
高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈18… 高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈1869年1月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は明治から昭和にかけての陽明学者。号は惺軒。従三位勲三等文学博士京都帝国大学名誉教授。 漢詩は鈴木豹軒、和歌は山本行範に学んだ。 明治元年12月16日(1869年1月28日)、讃岐国山田郡西十川村仲下所(香川県高松市十川西町107番地1)佐々木弥惣八(八十八、小五郎)の四男に生まれた。鰹宇神社で森口四郎に儒学を学ぶ。 京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校(金沢市)または第五高等学校(熊本市)を経て、明治31年(1898年)7月東京帝国大学文科大学漢学科を卒業し、同大学院に進学、明治38年(1905年)11月論文「先秦諸子哲学」により文学博士号を取得、明治39年(1906年)1月東京帝国大学講師、同時に哲学館、日蓮宗大学、佛教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学講師も務めた。
井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治… 井上 仁吉(いのうえ じんきち、1868年12月17日(明治元年11月4日)- 1947年(昭和22年)3月14日)は、日本の応用化学者。東北帝国大学総長、工学博士。号・青崖。 蘭方医・井上勤所の二男として京都に生まれる。京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1892年(明治25年)第一高等学校を卒業。1896年(明治29年)帝国大学工科大学応用科学科を卒業し、横浜瓦斯に入社。1899年(明治32年)東京帝大工科大学助教授に就任した。1903年(明治36年)ドイツのドレスデン大学に私費留学し、日露戦争のため1905年(明治38年)に帰国し東京帝大教授に昇任し応用化学第1講座を担任した。
清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)… 清水 紫琴(しみず しきん、1868年1月(慶応3年12月)下旬 - 1933年(昭和8年)7月31日)は、明治期の女性作家、自由民権運動の女性活動家。出生届出は1868年1月。 出身地は岡山県、出生地は京都府。本名は清水豊子、筆名は生野ふみ子、つゆ子。戦前の興信録では名を「トヨ」としているものもある。 京都府立第一高等女学校卒。1885年(明治18年)、自由民権派の弁護士・岡崎晴正と結婚。晴正とともに自由民権運動に携わるが、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と結婚後も妾として囲っていたため、1888年(明治21年)自由民権運動家でありながら晴正と異なり男女同権の立場を取っていた植木枝盛と出会い、その後は女権運動に携わるようになる。
李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2… 李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2年8月22日)- 1933年(昭和8年)7月23日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、錦鶏間祗候、下関市長。 長州藩御典医・李家隆彦の長男として京都で生まれる。京都府中学校、神田共立学校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1890年7月、帝国大学法科大学政治科を卒業。1891年4月、内閣試補となり、同年7月、内務省に転じ内務試補となった。 以後、大分県・富山県の各参事官、岡山県・神奈川県の各書記官などを歴任。 1902年12月、富山県知事に就任。以後、石川県知事、静岡県知事、長崎県知事を歴任。1917年3月、長崎県知事を辞任し退官。同年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(… 中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(慶応2年1月4日) - 1944年(昭和19年)10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。 官僚 教育者 実業家
小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応… 小北 寅之助(こきた とらのすけ、1865年10月7日(慶応元年8月18日)- 1932年(昭和7年)8月26日)は、日本の牧師である。 丹波の南桑田郡千代川村今津(現在の京都府亀岡市)に小北忠蔵とその妻のふじ子の子として生まれる。1883年(明治16年)に京都に出て後に同志社英学校に入学し山本覚馬から法学等を学び、また後に覚馬の影響を受け受洗しキリスト教徒となる。1890年(明治23年)に同学校を卒業後は、同年創立したばかりの熊本の八代教会を経て1896年(明治29年)には再度京都に戻り同地の丹後教会に赴任する。 1909年(明治42年)には北海道に渡り、名寄で天塩教会(名寄教会)の設立に携わり同地でキリスト教の伝道にあたった。
岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11… 岩田 信(いわた しん、1864年12月11日(元治元年11月13日)- 1910年(明治43年)9月4日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。幼名・信二郎。号・吉甫。 丹波国加佐郡大俣村(京都府加佐郡岡田上村字大俣、加佐町を経て現舞鶴市大俣)で、郷士、大庄屋、農業・岩田伊左衛門、千重の二男として生まれる。草場船山に師事し漢学を修めた。1879年(明治12年)ころに上京し、称好塾に入り杉浦重剛の薫陶を受けた。代言人(弁護士)を目指し1884年(明治17年)大学予備門を卒業。司法省法学校に進み1887年(明治20年)10月に卒業して代言人資格が与えられた。 1889年(明治22年)京都市で法律事務所を開設し、民事専門の弁護士として活躍した。
池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年… 池田 菊苗(いけだ きくなえ、1864年10月8日(元治元年9月8日) - 1936年(昭和11年)5月3日)は、日本の化学者。学位は、理学博士(1902年)。東京帝国大学理学部化学科教授。「日本の十大発明」の一つといわれるうま味成分、L-グルタミン酸ナトリウムの発見者として知られる。 現在、世界中で広く普及しているうま味調味料の発見者で、その成分がL-グルタミン酸ナトリウムであることを解明した。幼少期より昆布のだしに関心を持ち、湯豆腐のだし汁昆布の研究に着手。妻である貞を夜、昆布を乾物屋に買いに走らせ1907年(1908年)に約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功。
小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文… 小室 縫之助(こむろ ぬいのすけ、1863年11月22日〈文久3年10月12日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。日本工業常務取締役。旧姓・芦田。 京都府何鹿郡綾部町(現・綾部市)、芦田信治の次男。小室静三の養子となる。静三の長女べんと結婚する。後に本籍を宮津町字魚屋に移す。20歳の頃に京都日報に入り、編輯課に従事する。宮津町へ移転と同時に丹州汽船会社に入り支配人となり、1892年2月に辞職。 1887年3月、大阪控訴院で公証人登用試験に合格、また与謝郡郡会議員に当選、任期満了により退職する。1892年4月に司法省より公証人を命じられ、1904年4月に願いにより職を免ぜられる。 1904年、支那杭州で武林洋行を設立し、大阪店主任となる。
稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(… 稲畑 勝太郎(いなばた かつたろう、1862年12月21日(文久2年10月30日) - 1949年(昭和24年)3月30日)は、大正・昭和前期の日本の実業家、貴族院勅選議員。稲畑産業株式会社(創業時の名称は稲畑染料店)の創業者であり、染料、染色業界の発展に尽力した。また日仏文化交流に貢献しており、日本で初めてシネマトグラフを輸入して映画興行を行った人物としても知られる。正五位勲三等。
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、18… 有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。号は欽堂。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。世襲親王家の有栖川宮第10代当主にして最後の当主。 有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。幼称は稠宮(さわのみや)。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。 最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5… 14代 西村 治兵衞(治兵衞、にしむら じへえ、1861年5月4日(文久元年3月25日)- 1910年(明治43年)12月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、京都市会議長、千切屋治兵衛家14代当主(貞規)。旧姓・矢田。 丹波国桑田郡、のちの京都府南桑田郡亀岡町(現亀岡市)で、素封家・矢田勘助の二男として生まれる。丹波亀山藩儒・吉田大年、三上忠六らに師事し漢学、仏法典を修めた。1880年(明治13年)京都の呉服商・13代西村治兵衛貞慶の養嗣子となる。1884年(明治17年)養父の死去に伴い家督を継承し14代治兵衛を襲名した。 家業を継承しその発展に尽力。西陣織物商組合組長、京都染呉服商組合長を務めた。
岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延… 岡田 国太郎(おかだ くにたろう、1861年1月29日(万延元年12月19日) - 1945年(昭和20年)3月2日)は、日本の陸軍軍人(軍医官)、医師、細菌学者。医学博士(滋賀県出身者として初の医学博士(博士登録番号42番))。 1861年1月29日(万延元年12月19日)、近江国野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の最初の妻・たみ。八男七女の次男として誕生したが、長男が夭折したことにより跡取りとして育てられる。 1877年(明治10年)、京都欧学校(後の京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校))に入学し、ドイツ語を学んだ。
山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延… 山口 俊一(やまぐち しゅんいち、1860年2月16日(万延元年1月25日)- 1933年(昭和8年)10月1日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、京都府会議長、京都府加佐郡新舞鶴町長。幼名・浅吉。 丹波国天田郡細見辻村(京都府天田郡細見村細見辻、三和村、三和町を経て現福知山市)で、農業、酒造業・山口覚兵衛、てい の長男として生まれる。1876年(明治9年)京都に出て、林正躬、横井忠直から漢学を、吉田健吾から数学を学び、京都府中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)にも通った。1879年(明治12年)大阪で牧田修蔵から法律学を学んだ。 1881年(明治14年)に帰郷し、同年11月、細見辻村戸長に就任。