長谷川 琢真(はせがわ たくま、1993年12月5日 - )… 長谷川 琢真(はせがわ たくま、1993年12月5日 - )は、日本の京都府京都市出身のドラマ・映画脚本家、ドラマ演出家、映画監督。福田雄一作品に演出補として参加。映画監督・三原光尋の甥にあたる。 京都市立上鳥羽小学校、京都市立洛南中学校、京都府立鳥羽高等学校スポーツ総合専攻コース、京都両洋高等学校へ編入。ビジュアルアーツ専門学校大阪を卒業。 2021年、フジテレビ連続ドラマ『全っっっっっ然知らない街を歩いてみたものの』第7話で監督を務める。 その後、俳優ムロツヨシの勧めで舞台「muro式.がくげいかい」の記録映像を務める(参照:Twitter)。 2026年2月1日、ドラフトキング2の監督が発表
谷口 恒平(たにぐち こうへい、1988年 - )は、日本の… 谷口 恒平(たにぐち こうへい、1988年 - )は、日本の映画監督である。 1988年、京都府に生まれる。立命館宇治高等学校を経て、立命館大学映像学部を1期生として卒業。白石晃士監督『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』シリーズで監督助手、メイキングを担当。『バクマン。』『アイアムアヒーロー』などにメイキングディレクターとして参加。2019年に初長編作品『おっさんのケーフェイ』を公開。 2019年、第2回『OP PICTURES』新人監督発掘プロジェクトで優秀賞を受賞。2020年4月、ピンク映画ベストテン監督賞を受賞。 特記のない作品は監督を担当。
林 隆行(はやし たかゆき、1988年 - )は、日本の映画… 林 隆行(はやし たかゆき、1988年 - )は、日本の映画監督、CMディレクター、映像ディレクターである。 立命館宇治高等学校、立命館大学卒業。 第15回田辺・弁慶映画祭にて異例の「審査員特別賞」を受賞した後、副賞としてテアトル新宿にて2022年9月19日から3日間期間限定で、主演 吉村界人× 監督 林隆行 三部作『人間、この劇的なるもの』として劇場公開。連続満席の動員数の快挙を遂げた。 マンガ大賞2022 受賞作家うめざわしゅん原作『海の夜明けから真昼まで』(2023)で監督/脚本で初の長編映画監督デビューを果たした。パク・チャヌク監督や北野武監督を輩出した第30回オルデンブルク映画祭 にて、日本人初の最優秀新人監督賞を受賞。
宇治茶(うじちゃ、1986年〈昭和61年〉9月2日 - )は… 宇治茶(うじちゃ、1986年〈昭和61年〉9月2日 - )は、日本の映画監督・イラストレーター。吉本興業所属(文化人枠)。元・嵯峨美術大学芸術学部非常勤講師。 京都府宇治市出身。京都嵯峨芸術大学芸術学部観光デザイン科卒業。 大学4年の卒業制作時に映画作品を渉猟する中で『妖怪伝 猫目小僧』(1976年・テレビ東京放映)に出会い、「ゲキメーション」という映像表現に衝撃を受け卒業制作の題材に決定した。 その後、2009年(平成21年)3月の卒業制作展にて初のゲキメーション作品となる『RETNEPRAC2』を発表。続いて2010年(平成22年)8月には、「妖怪藝術団体 百妖箱」が主催した第4回作品展「妖怪藝術展 ~ばけてん~」でショートムービー『宇宙妖怪戦争』を発表した。
満若 勇咲(みつわか ゆうさく、1986年 - )は、日本の… 満若 勇咲(みつわか ゆうさく、1986年 - )は、日本のドキュメンタリー映画監督、キャメラマン。『私のはなし 部落のはなし』(2022年)が第96回キネマ旬報ベストテンの文化映画第1位を獲得した。 京都府八幡市出身。2005年3月、京都府立京都八幡高等学校卒業。同年4月、大阪芸術大学に入学。 2007年、3年生に上がり、劇映画からドキュメンタリー専攻に転向した頃だった。高校1年生から吉野家でアルバイトをしていた満若は、パック詰めで店に届くスライス肉を調理するなかで、ふと「牛からスライスされた肉になるまでの過程って見たことないな」と興味が湧いた。各地の屠場で取材を断られる中、東京都港区の「お肉の情報館」から著述家の角岡伸彦を紹介される。
工藤 将亮(くどう まさあき、1983年10月31日 - )… 工藤 将亮(くどう まさあき、1983年10月31日 - ) は、日本の映画監督・脚本家。 ビジュアルアーツ専門学校大阪、放送映画学科卒業。専門学校在籍中に京都の撮影所でエキストラや美術のバイトなどで働き出す。卒業後、松竹京都撮影所に演出部として入社。時代劇からファンタジー作品など数多くの作品に携わる。その後、東京に移り活動の場を広げる。主に師事した監督として森田芳光、行定勲、石井岳龍、東陽一などがいる。 2017年初監督作品『アイムクレイジー』を製作。同作は2018年第22回プチョン国際ファンタスティック映画祭に出品され、最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)を受賞する。 2020年コロナ禍の中で製作した『未曾有』が2021年第25回タリンブラックナイト映画祭に正式出品される。
佐藤 零郎(さとう れお、1981年7月24日 - )は、日… 佐藤 零郎(さとう れお、1981年7月24日 - )は、日本の映画監督である。 京都府京都市伏見区出身。京都市立桃山中学校と京都府立鳥羽高等学校で学んだ。大学を中退したのち、映画監督の佐藤真に師事した。 2009年、『長居青春酔夢歌』を監督した。同作では、大阪府の長居公園での野宿生活者に対する強制立ち退きを芝居によって阻止しようとする人々の姿が捉えられている。2009年の山形国際ドキュメンタリー映画祭において、「アジア千波万波」部門で上映された。 2017年、監督作品『月夜釜合戦』が公開された。佐藤にとって初の劇映画である同作は、古典落語の『釜泥』に着想を得ており、16mmフィルムで撮影された。
岡 太地 (おか だいち、1980年8月14日 - )は、日… 岡 太地 (おか だいち、1980年8月14日 - )は、日本の映画監督・武蔵野美術大学映像学科非常勤講師。京都府宇治市出身、京田辺市育ち。 大阪芸術大学芸術学部映像学科、同大学大学院修士課程修了。大学入学後、自主映画製作を始める。卒業製作『トロイの欲情』が第27回ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリ、第7回京都国際学生映画祭で準グランプリを受賞。クローズアップと俯瞰のみの特異な構成と内容から、賛否両論を受ける。2006年には、大阪市映像文化振興事業シネアスト・オーガニゼーションより助成金を受け、『放流人間』を製作。同年、特定非営利活動法人映像産業振興機構(VIPO)の文化庁委嘱事業「若手映画作家育成プロジェクト2006」より支援を受け、『屋根の上の赤い女』を監督した。
山口 ヒロキ(やまぐち ひろき、1978年8月22日 - )… 山口 ヒロキ(やまぐち ひろき、1978年8月22日 - )は、日本の映画監督。ガウマピクス株式会社 代表取締役。京都府出身。旧名、山口洋輝(読み同じ)。 立命館高等学校、立命館大学文学部卒業。在学中は自主制作映画集団の映画部に所属し、第39代部長を務めた。 1997年、大学1回生より映画制作を開始し、わずか2作目の『深夜臓器』で第2回インディーズムービー・フェスティバルグランプリを受賞(第1回グランプリは北村龍平監督)。 同映画祭のスカラシップ作品として監督した『グシャノビンヅメ』(洋題『ヘルベーター』)が2004年に初の全国劇場公開。 モントリオール・ファンタジア国際映画祭(グランドブレーカーアワード銀賞受賞)にてインターナショナルプレミア上映後、数日でMedia Blastersから北米リリースが決まる。
末長 敬司(すえなが けいし、Keishi Suenaga、… 末長 敬司(すえなが けいし、Keishi Suenaga、1976年10月11日 - )は、日本の映画監督、脚本家、プロデューサーであり、俳優でもある。 京都府京都市出身、1976年10月11日生まれ。 曾祖父は日本統治時代に台湾で刑務官を務めた末長忠次郎。祖父は大阪府警察学校交野市移転後の初代校長・末長繁警視長。 高校卒業後、1999~2003年まで韓国・ソウル特別市、2003~2006年まで中国・遼寧省大連市で海外勤務を経験する。 また2004年には約半年間、タイを拠点にベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマーと東南アジア各国を放浪している。 2007年に完全帰国し、日本郵政公社(現日本郵政)に務める傍ら、2011年にインディペンデント映画制作団体・星海電影制作公司(STARSEA FILMS PRODUCTION)を設立、制作・監督・脚本・編集を担当する。
谷 健二(たに けんじ、1976年〈昭和51年〉 - )は、… 谷 健二(たに けんじ、1976年〈昭和51年〉 - )は、日本の映画監督、舞台の演出家、映画の本の編集者。京都府長岡京市出身。 大学でデザインを専攻後、映画の世界を夢見て上京。多数の自主映画に携る。その後、WEB制作会社、広告代理店に勤め、約9年間自動車会社のWebマーケティングを担当していたが、2014年(平成26年)に、映画「リュウセイ」の監督を機にフリーとなる。 日本映画監督協会会員。 2014年度と2016年度の、日本映画監督協会の新人賞の候補者であった。武蔵野映画祭の発起人でもある。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
山田 雅史 (やまだ まさふみ、1976年 - )は、日本の… 山田 雅史 (やまだ まさふみ、1976年 - )は、日本の映画監督。京都市出身。 京都高等工芸専門学校(現・京都芸術高等学校)にて絵画、デザインを学び卒業後、ビジュアルアーツ専門学校大阪へ入学。映画製作を始める。在学中は主に短編を製作。卒業後、自主製作の初の長編『RIDDLE』が大阪でレイト上映される。続く長編『つぶろの殻』が「第26回ぴあフィルムフェスティバル」にて観客賞を受賞。その後、バンクーバー国際映画祭、釜山国際映画祭、サラエヴォ映画祭等数多くの映画祭にて上映され絵画的映像センスとシュールで独創的な世界観が高い評価を受ける。 2005年に、大阪市映像文化振興事業シネアスト・オーガニゼーション大阪から助成金を受け、『堤防は洪水を待っている』を監督。
中野 量太(なかの りょうた、1973年7月27日 - )は… 中野 量太(なかの りょうた、1973年7月27日 - )は、日本の映画監督。京都府京都市出身。 京都市立日吉ヶ丘高等学校、京都産業大学、日本映画学校(現・日本映画大学)卒業。 大学卒業後上京し、日本映画学校に入学し3年間映画製作を学ぶ。2000年、卒業制作『バンザイ人生まっ赤っ赤。』で、日本映画学校今村昌平賞、TAMA NEW WAVEグランプリなどを受賞。日本映画学校卒業後、映画・テレビの助監督やテレビのディレクターを経て、2006年に『ロケットパンチを君に!』で6年ぶりに監督を務め、ひろしま映像展グランプリ、水戸短篇映像祭準グランプリなど3つのグランプリを含む7つの賞を受賞した。2008年には文化庁若手映画作家育成プロジェクトに選出され、35mmフィルムで制作した短編映画『琥珀色のキラキラ』が高い評価を得る。
中島 知子(なかじま ともこ、1971年(昭和46年)8月2… 中島 知子(なかじま ともこ、1971年(昭和46年)8月26日 - )は、日本のお笑い芸人、タレント、女優、AV監督、歌手。埼玉県出身。現在は大分県を拠点に活動中。 松嶋尚美と共に漫才コンビ「オセロ」として2013年まで活動。2011年からはコンビ活動を休止状態であった(主にツッコミを担当)。コンビ名は結成当時の中島と松嶋の肌の色がそれぞれ黒と白であったことからオセロゲームに見立てて命名されたものであり、中島はオセロの黒い方と呼ばれていた。1993年から2013年まで松竹芸能に所属。その後はフリーランスで活動。 埼玉県で誕生。その後に京都府京都市東山区山科(現山科区)に移住。家族が詩吟教室を開いており、自身も幼い頃から詩吟を習い、特技としていた。
英 勉(はなぶさ つとむ、1968年 - )は、日本の映画監… 英 勉(はなぶさ つとむ、1968年 - )は、日本の映画監督。京都府京都市出身。 高校時代から、8ミリカメラで作品を撮り始めていた。「夕刊チェリオ」「Dear Trash」「with seeta」といった作品を残す。高校卒業後、京都産業大学へ入学。映画研究部へ入部する。京都産業大学卒業後、東北新社に入社。テレビドラマやCM演出を経て、2008年11月1日公開の『ハンサム★スーツ』で監督デビュー。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
安田 淳一(やすだ じゅんいち、1967年2月16日 - )… 安田 淳一(やすだ じゅんいち、1967年2月16日 - )は、日本の映画監督、プロデューサー、脚本家、米農家。 大阪経済大学在学中から映像制作業を開始し、卒業後は様々な仕事を経て、映画製作を実施。 『拳銃と目玉焼』で、オリジナル映画作品監督デビュー。それ以前から企画・イベントムービー等の制作を行っていた。 2017年、米作りを取り巻く問題点にも触れた2作目『ごはん』は、日本映画史上最も美しく水田風景を描き、最もリアルに現代の米作農家を描いた米作りエンタテイメントムービーとしてリリース。38か月続くロングヒット作となった。 2023年、父の逝去により、米作り農家を継ぎ、米農家と映画監督の兼業の生活をしている。
瀧本 智行(たきもと ともゆき、1966年10月23日 - … 瀧本 智行(たきもと ともゆき、1966年10月23日 - )は、日本の映画監督、脚本家。京都府綾部市出身。 京都府立綾部高等学校卒業。早稲田大学政治経済学部に在学中から自主映画や演劇活動に没頭。1993年頃からフリーの助監督として様々な作品に参加。TVドラマの脚本やプロットプランナーとしての仕事も手掛ける。映画『樹の海』で監督デビュー。
谷口 正晃(たにぐち まさあき、1966年7月6日 - )は… 谷口 正晃(たにぐち まさあき、1966年7月6日 - )は、日本の映画監督。
塩田 明彦(しおた あきひこ、1961年9月11日 - )は… 塩田 明彦(しおた あきひこ、1961年9月11日 - )は日本の映画監督、脚本家、映画批評家、教師である。
中江 裕司(なかえ ゆうじ、1960年11月16日 - )は… 中江 裕司(なかえ ゆうじ、1960年11月16日 - )は、日本の映画監督。 京都府京都市出身。京都府立洛北高等学校から琉球大学農学部へ入学して以後、沖縄県で生活する。 学生時代から映画研究会で8ミリ作品を発表しており、自主映画の仲間とともにオムニバス映画『パイナップル・ツアーズ』を制作して商業映画デビュー。日本映画監督協会新人賞を受賞する。以降も、作品のほとんどは沖縄を舞台にしている。2000年に自ら監督・脚本を担当した映画『ナビィの恋』で芸術選奨新人賞、新藤兼人賞・金賞を受賞、2002年の『ホテル・ハイビスカス』では第15回東京国際映画祭審査員特別賞を受賞した。 また、2005年5月には真喜屋力らと、那覇市の閉館した映画館を「桜坂劇場」として復活(劇場支配人は真喜屋)。
林 海象(はやし かいぞう、1957年7月15日 - )は、… 林 海象(はやし かいぞう、1957年7月15日 - )は、日本の映画監督・映画プロデューサー・脚本家。男性。株式会社映像探偵社代表取締役社長、元京都造形芸術大学芸術学部映画学科教授、元東北芸術工科大学デザイン工学部映像学科教授。 1986年にモノクロサイレント映画という異色の作品『夢見るように眠りたい』でデビューした。代表作は永瀬正敏主演の『私立探偵 濱マイク』シリーズなど。 京都府京都市生まれ。立命館中学校・高等学校を経て1977年立命館大学経済学部を中退。。 19歳で上京。27歳までの間、20数種のアルバイトをし、10数回の引っ越しをした。毎日500円以上使わないと決め、社会の底辺をその日暮らしの生活で徘徊していた。
ラッシャー みよし(Rusher Miyoshi, 1956… ラッシャー みよし(Rusher Miyoshi, 1956年2月1日 - )は、日本の作家、AV監督、実業家。アダルトビデオメーカー「RASH」主宰。フェチやマニア系と呼ばれるアングラな性ジャンルを文章や監督作品を通してメディアの表舞台に紹介した人物。ザーメン物、脚フェチ物の創始者。 京都府長岡京市出身。 1977年、京都産業大学外国語学部言語学科を卒業後、早稲田大学大学院文学研究科ロシア文学専攻修士課程に進学。在学中よりセルフ出版(現在の白夜書房)に出入りし、1983年、同社発行の風俗雑誌『元気マガジン』にてライター・デビュー。同誌編集長よりラッシャーみよしのペンネームを与えられ、風俗ライターとして活動を始める。
山前 五十洋(やまさき いそみ、1943年4月28日 - 2… 山前 五十洋(やまさき いそみ、1943年4月28日 - 2020年4月5日)は、日本の実業家、映画監督、俳優である。京都市出身。関西大学法学部2部中退。娘は歌手の倉木麻衣。父は詩人の山前実治。 京都府京都市下京区に生まれ。厳格な父親は京都で出版社、印刷会社を経営する傍ら詩人としても活動し、比較的裕福な家庭で育つ。3歳頃に父親の故郷、岐阜県大野郡荘川村(現在の高山市)へ一時疎開している。小学校入学時は京都市東山区に居住し、小学校5年生から新聞配達などを務める。 京都市立日吉ヶ丘高等学校2年生時、少年画報連載中の堀江卓原作「天馬天平」がフジテレビでテレビ映画化された際、一般公募3万人中から主役天平役に抜擢され、当時の編成局長草間浩之が8チャンネルにちなみ芸名を富士八郎とする。
関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は… 関本 郁夫(せきもと いくお、1942年7月18日 - )は、日本の脚本家・映画監督。京都府京都市出身。日本映画監督協会会員。日本画家の木村了子は長女。 京都の工務店の長男に生まれる。家では工務店の後継にするつもりだったが、本人は継ぐのを嫌ったという。 京都市立伏見工業高等学校建築科を卒業後1961年、東映京都撮影所製作部美術課に入社。美術課では本人が嫌だったという大工仕事ばかりで異動を希望し、製作部に異動、製作事務を担当。そこで多くの台本に目を通すうち「これなら自分にも書けそう」と思って脚本を書き始め、その脚本を当時京都撮影所所長だった岡田茂に読んでもらっていたという。 その後京都撮影所では映画業界斜陽化のこともあって、助監督を大量にNET(現・テレビ朝日)に出向させた影響で助監督不足になり、その穴埋めのような形で演出部に転属し、1973年に監督デビュー。
津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2… 津川 雅彦(つがわ まさひこ、1940年〈昭和15年〉1月2日 - 2018年〈平成30年〉8月4日)は、日本の俳優・映画監督・芸能プロモーター・時事評論家。 芸能事務所グランパパプロダクションに所属し、同社の代表取締役を務めた。位階は従五位。 俳優としては1956年の映画『狂った果実』が本格デビューであり、1959年に木下恵介監督の『惜春鳥』、1960年には大島渚監督の『太陽の墓場』など多くの話題作に出演。1980年代以降は『マルサの女』や『スーパーの女』など伊丹十三監督作品に多数出演し存在感を示した。1999年には『プライド・運命の瞬間』で東條英機役を演じ日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
山城 新伍(やましろ しんご、1938年〈昭和13年〉11月… 山城 新伍(やましろ しんご、1938年〈昭和13年〉11月10日 - 2009年〈平成21年〉8月12日)は、日本の俳優・司会者・タレント・映画監督・映画評論家・声優。大橋巨泉と同様、知的・反権力・少しエッチな芸風の司会者として活躍した。最終所属はオフィスタッチ。本名は渡辺 安治(わたなべ やすじ)。京都市上京区出身。 元妻は花園ひろみ、娘は南夕花。 京都府京都市で開業医の子として生まれる。京都府立山城高等学校卒業。高校ではラグビー部に入っていた。両親と同じ道に進もうと医大への進学を考えて大阪医科大学、関西医科大学を受験したが、いずれも不合格だった。 医師の道を諦め、時代劇スターに憧れ、エキストラをやった後、東映ニューフェイス第4期に応募して、1957年に東映へ入社。
中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年〈昭和10年〉11… 中島 丈博(なかじま たけひろ、1935年〈昭和10年〉11月12日 - )は、日本の脚本家・小説家・映画監督。京都府生まれ、高知県中村市(現・四万十市)育ち。 父は日本画家の中島敬朝。京都で生まれ、太平洋戦争の影響で1945年10歳のとき、高知県中村市へ疎開。そこでプライバシーが筒抜けな地元住民の生活に衝撃を受け、それが作風にも影響を与えたと語っている。この頃のことは『野蛮な詩』(疎開後の小学生時代)、『郷愁』(中学時代)、『祭りの準備』(20代、上京まで)で小説・映画化している。1954年に高知県立中村高等学校を卒業。家はずっと貧乏で、父が胃潰瘍で入院して金がかかり大学進学を断念し、高知相互銀行に就職し三年ほど勤務する。
松尾 正武(まつお まさたけ、1935年8月15日 -没年不… 松尾 正武(まつお まさたけ、1935年8月15日 -没年不詳 )は日本の映画監督、東映俳優養成所講師。大阪府大阪市北区出身。兵庫県へ転居するが第二次世界大戦の影響で京都府に移住する。 1954年に京都府立桃山高等学校を卒業し同志社大学商学部に入学。1960年に卒業と同時に東映京都撮影所の助監督として入社。厳密に言えば第二東映(のちにニュー東映)の契約助監督。1964年2月1日に東映京都テレビプロダクションの設立に参加。同年2月16日に結婚。媒酌人は長谷川安人監督。1967年にテレビディレクターに昇進。 日本映画監督協会公式サイトの物故会員欄に名前が記載されており、現在は故人である。 井沢雅彦「お奉行様と娘たち」1961年 秋元清晴(秋元隆夫の別名義)「逆襲天の橋立」1961年 小沢茂弘「赤い影法師」1961年 内出好吉「てなもんや三度笠」1963年 (チーフ助監督 林伸憲) 佐々木康「浪人街の顔役」1963年 松田定次「血と砂の決斗」1963年 マキノ雅弘「八州遊侠伝・男の盃」1963年 長谷川安人「十七人の忍者」1963年 加藤泰「風の武士」1964年 註:B班助監督、B班監督は大西秀明 ▲テレビ映画(東映京都テレビプロダクション制作) タイトルに監督名のないものは、すべて河野寿一監督作品の助監督 「忍びの者」第一部 1964年 「つむじ風三万両」 1964~1965年 「新選組血風録」1965~1966年 「われら九人の戦鬼」1966年 「銭形平次」第13回 田坂勝彦 1966年 「銭形平次」第17回 田坂勝彦 1966年 「俺は用心棒」1967年 「剣」第29回 山内鉄也 1967年 「次郎長三国志」1968年 註:撮影は1967年、途中第10話で監督昇進。
吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )… 吉川 一義(よしかわ かずよし、1935年1月28日 - )は、日本の映画監督である。平仮名表記の「よしかわ いちぎ」名義で『電子戦隊デンジマン』の監督も手掛けた。京都府京都市出身。 日本大学藝術学部卒業後東映に入社。今井正に師事し、1968年に監督デビュー。以降テレビドラマ作品を中心に活動し、刑事ドラマ・時代劇・2時間ドラマと数多くの作品で現在もメガホンを執り続ける。特に1988年のスタートから足掛け20年続いた『はぐれ刑事純情派』ではメイン監督として長年携わり、その縁から藤田まこと主演の東映テレビ時代劇にもコンスタントに参加した。 瀬川昌治が塾長を務める瀬川塾では講師を務めた。
小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 20… 小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 2024年12月10日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で長く現役として作品を発表し続けた人物であった。監督作は400本を超える。 1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる。
渡辺 邦彦(わたなべ くにひこ、1934年3月17日 - 2… 渡辺 邦彦(わたなべ くにひこ、1934年3月17日 - 2017年3月28日)は日本の映画監督。京都府京都市出身。
伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1… 伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、日本の映画監督・俳優・脚本家・エッセイスト。本名は池内 義弘(いけうち よしひろ)。雑誌編集長・商業デザイナー・イラストレーター・CMプランナー・ドキュメンタリー映像作家としても活動し、料理通としても知られた。 監督デビューは51歳と遅咲きだったが、それまでに表現手段を追究する職を多数経験し、その集大成として映画に挑戦し、ヒットメーカーとなった。 1984年の監督デビュー作である『お葬式』からいきなり数々の映画賞を獲得するなど絶賛を浴びた。その後、『タンポポ』『マルサの女』『マルサの女2』『あげまん』『ミンボーの女』『大病人』『スーパーの女』『マルタイの女』などを演出し、いずれも大ヒットを記録した。
高林 陽一(たかばやし よういち、1931年4月29日 - … 高林 陽一(たかばやし よういち、1931年4月29日 - 2012年7月15日)は、日本の映画監督・映画プロデューサー。京都府京都市生まれ。父親は着物のデザイナー。 1955年、立命館大学法学部政治学科中退。1960年、銀座ヤマハホールで8m/mの自主映画の個人映写会を開き、若手実力派映画監督として注目される。同年の『石っころ』が評価された。1963年、16m/m第1作の「砂」がベルギー実験映画祭で特別賞を受賞。 1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、大林宣彦、金坂健二、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。1964年に発表した「ひなのかげ」はニューヨーク近代美術館所蔵作となり脚光を浴びる。
井川 徳道(いかわ のりみち、1929年3月20日 - 20… 井川 徳道(いかわ のりみち、1929年3月20日 - 2024年5月16日)は、日本の映画美術監督。京都府京都市出身。 京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大学)デザイン科を卒業後、52年に綜芸プロ、近代映画協会美術の美術助手を経て、54年に東映京都撮影所と契約。58年に沢島忠監督の『江戸の名物男 一心太助』で初めて美術監督となる。以来、東映を中心に約135本の劇場用映画に携わった。後に東映美術センターに所属。さらに 大阪芸術大学映像学科非常勤講師、客員教授など後進の指導に従事してきた。 2003年に旭日小綬章受賞、2011年に京都府文化功労章受賞。 2024年5月16日、老衰のため死去。
井上 昭(いのうえ あきら、1928年12月10日 - 20… 井上 昭(いのうえ あきら、1928年12月10日 - 2022年1月9日)は、日本の映画監督。京都府出身。京都商業学校を経て、同志社大学文学部英文科卒業。 1950年、大映京都撮影所に入社、助監督となる。同期には土井茂、黒田義之、池広一夫らがいる。 助監督として溝口健二、森一生、吉村公三郎らについた。井上は森から映画を撮るテクニックを、溝口から「形而上学的な情念の世界」を学んだと述べている。1960年に『幽霊小判』で監督としてデビュー。井上によるとこの作品は『悪魔のような女』を時代劇にアレンジしたものだという。監督デビュー以降も『大菩薩峠』、『釈迦』では助監督を務めた。大映在籍中に21本の作品で監督を務めた。
森田 富士郎(もりた ふじお、1927年12月14日 - 2… 森田 富士郎(もりた ふじお、1927年12月14日 - 2014年6月11日)は、日本の撮影技師、撮影監督、特撮監督。 1927年(昭和2年)、京都府葛野郡太秦村(現在の京都市右京区太秦)の出身。映画監督の黒田義之とは京都市立太秦小学校の同級生だった。1945年(昭和20年)、京都市立第一工業学校卒業。 1947年(昭和22年)、大映京都撮影所撮影部に戦後第一号入所。撮影助手として相坂操一キャメラマンに師事。当時、敗戦後の復員によって、京都撮影所は撮影助手だけで総勢40人の大所帯だった。相坂の他、杉山公平、宮川一夫の撮影助手も多数務めた。 1949年(昭和24年)、『幽霊列車』(野淵昶監督)、『透明人間現わる』(安達伸生監督)で円谷英二の特撮助手を務め、これが円谷との出会いとなる。
酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4… 酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4月25日)は、日本の映画監督。 京都市北区西白梅町生まれ。酒井米子と俳優の葛木香一の子。1942年京都府立京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒、慶応義塾大学法学部に入学、44年、陸軍特別操縦見習士官を志願して合格、熊谷陸軍飛行学校に入学、陸軍航空少尉で敗戦を迎える。慶大に復学するが食料事情が悪く京都に帰り、母の劇団を補佐していたが、49年母の世話で松竹京都撮影所監督部に入る。助監督として溝口健二に師事。58年に監督に昇進。「大盗少盗」で監督デビュー。おもに喜劇を撮った。66年フリーとなる。
井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2… 井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本の映画監督、脚本家、作詞家である。 京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。 1955年、日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。 1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。
大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没… 大西 秀明(おおにし しゅうめい、1923年5月3日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画製作者である。当初、本名の大西 三郎(おおにし さぶろう)で俳優として活動、戦後、上記の筆名で助監督から監督へ昇進、のちに大西 孝典(おおにし こうてん)、橋本 忠典(はしもと ちゅうてん)とも名乗る。 1923年(大正12年)5月3日、京都府南桑田郡亀岡町(現在の同府亀岡市)に生まれる。 1938年(昭和13年)3月、旧制・亀岡尋常高等小学校(現在の亀岡市立亀岡小学校)を卒業、その3年後の1941年(昭和16年)、京都・太秦の日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所)に入社、俳優課に配属される。「持ち前の明るい人柄」を評価され、前年に自らのプロダクションを解散して日活に入社して当時同社の看板スターだった片岡千恵蔵の内弟子になる。
内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 … 内川 清一郎(うちかわ せいいちろう、1922年7月13日 - 2000年2月22日)は、日本の映画監督、脚本家である。 1922年(大正11年)7月13日、京都府宇治市菟道只川に生まれる。 1947年(昭和22年)に設立された新東宝で助監督を務める。1948年(昭和23年)からは市川崑、清水宏、小津安二郎らのチーフ助監督を務めた。 1950年(昭和25年)公開の『雪夫人絵図』では溝口健二監督のチーフ助監督に就いた。1949年(昭和24年)末にラストシーンを十和田の湖で撮影するという溝口とともにロケハンに出かけたが、既に雪が積もっており、危険だと止められたが溝口が聞き入れなかった。そのため、地元の猟師に案内してもらって雪の中を出掛けたが、積雪で歩行が困難なうえに溝口が谷に落ちるなどして大変な苦労をした。
野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月… 野村 芳太郎(のむら よしたろう、1919年(大正8年)4月23日 - 2005年(平成17年)4月8日)とは、日本の映画監督。父は映画監督の野村芳亭、祖父は浮世絵師の二代目野村芳国。 父・芳亭は日本の映画監督の草分け的存在で、松竹蒲田撮影所の所長も務めた。その関係で、京都と東京を行き来して育つ。京都市生まれで、生後まもなく東京市浅草区に移った。蒲田小学校から暁星小学校、暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部芸術学科卒業。大学卒業後の1941年、松竹大船撮影所に入社。 1946年に復員。黒澤明作品の『醜聞』『白痴』では助監督を務め、黒澤からは「日本一の助監督」と評価された。1952年の『鳩』で監督デビュー。
堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12… 堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12月28日 - 2012年〈平成24年〉9月5日)は、日本の映画監督。成城大学名誉教授の堀川直義は兄。 京都府京都市出身。東京市立一中(現:九段高校)、成城高等学校(現:成城大学)を経て、1940年、東京帝国大学文学部卒業。同年、東宝撮影所製作部に演出助手係として入社。最初に山本嘉次郎の『馬』の盛岡ロケから助監督として参加し、この時にチーフ助監督だった黒澤明と仲良くなり、仕事を終えるといつも2人で飲みに回ったという。入社1年後にオーバーワークがたたって肺を病み、1年半休職する。復帰後はすでに監督になった黒澤の作品に就き、『一番美しく』『続姿三四郎』に参加、1945年に軍隊に召集されるが、敗戦となり10月に復員して東宝に戻る。
金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 196… 金田 繁(かねだ しげる、1906年10月20日 - 1966年3月15日)は、日本の映画監督、脚本家。 1906年(明治39年)、京都府京都市下京区に生まれる。妹・みねは、のちに東亜キネマの助監督時代に金田が師事した広瀬五郎の妻となった。 旧制・京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業し、東亜キネマ等持院撮影所助監督部に入社した。仁科熊彦、広瀬五郎の作品におもに助監督として就いた。同社は1931年(昭和6年)に製作部門が崩壊し、同社が新設した東活映画社に移り、同年12月5日に公開されたサイレント映画『閃影双刃録』で、満25歳で監督に昇進した。同社は翌1932年(昭和7年)10月に解散しており、同社が製作し、金田が大伴麟三と共同で監督したサイレント映画『決戦荒神山』は、同年12月31日、新設の宝塚キネマ興行が配給して公開された。
中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 19… 中川 信夫(なかがわ のぶお、1905年4月18日 - 1984年6月17日)は、日本の映画監督。 怪談映画の名手として知られる。 1905年(明治38年)4月18日、京都市洛西の嵯峨二尊院門前町に生まれる。父・中川竹次郎は嵐山の料理旅館「嵐峡館」のシン(板前の主任)、母・ソノは同旅館の仲居頭だった。橘尋常小学校卒業後、兵庫県の旧制育英商業学校(現在の育英高等学校)に入学。1924年(大正13年)卒業。文学者になることを目指し同人誌『幻魚』に小説を執筆するが、文学者になるには大学を出ていなければ駄目だと思いその道をあきらめ、映画の道に進む。 キネマ旬報読者寄書欄の素人映画評論家を経てマキノ・プロダクションに入社し、助監督となる。
坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 19… 坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 1975年9月2日)は、日本の映画監督、映画製作者。溝口健二の下でキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。 1904年(明治37年)12月7日、京都市上京区で縮緬織りの織元だった父・坂根清一と母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれる。母の生家佐久間家は丹後の旧家であったが、跡取りがいなかったため、田鶴子は2歳で佐久間家の当主として登録され、佐久間田鶴子となる。しかし、田鶴子は生涯父方の苗字「坂根」を使い続けた。 夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)へ進んだ。
二階 健(にかい けん)は、日本の映画監督・映像作家・クリエ… 二階 健(にかい けん)は、日本の映画監督・映像作家・クリエイター。京都府出身。