山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月… 山岡 一三(やまおか いちぞう、1923年(大正12年)4月2日 - 1996年(平成8年)2月25日)は、日本の土木工学者であり、教育者でもある。建設省を経て関西大学工学部教授。国際ジオシンセティックス名誉会員。岡山県高梁市出身。 1923年(大正12年)、岡山県上房郡(現:高梁市)の山岡信治郎の子として出生する。1942年(昭和17年)地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業し、同年、山口県にある旧制山口高等学校理科へ進学する。 その後、同校を1945年(昭和20年)に卒業し、同年、京都帝国大学工学部へ進学。その直後日本は第二次世界大戦に敗北。戦後の混乱の中、1947年(昭和22年)山岡は3年次途中で卒業扱いとなり、同大学を卒業し、建設省へ入省する。
稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19… 稲神 馨(いながみ かおる、1923年(大正12年)3月19日 - 2022年(令和4年)6月5日)は、日本の食品科学者。九州大学名誉教授。元カルピス食品工業(現:アサヒ飲料)常務取締役、元日本食品科学工業学会副会長。カネミ油症事件の原因を解明した。岡山県新見市出身。 1923年(大正12年)、岡山県新見市に生まれる。その後、地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。同期には、天野昇(日本原子力研究所副理事長)、福田正彦(新見市長)、古米初男(丸善石油副参与)、田井庄之助(大分大学教授)がいた。1940年(昭和15年)、高梁中学校を卒業、鳥取高等農業学校獣医畜産学科へ進学する。
名越 二荒之助(なごし ふたらのすけ、1923年3月14日 … 名越 二荒之助(なごし ふたらのすけ、1923年3月14日 - 2007年4月11日)は、日本の思想史家、評論家。元高千穂商科大学教授。専攻は社会思想史。 岡山市生まれ。山口高等商業学校卒業後、新京の陸軍経理学校を経て出征。朝鮮半島で終戦を迎え、ソビエト連邦に抑留を経て1950年に帰国。岡山県に戻り高校教師となり、高千穂商科大学助教授を経て1982年に教授。1997年に退職後、著作活動に専念。 2007年4月11日、呼吸不全のため死去。 パラオでの戦没者の慰霊活動を多く行っており、その一環として南洋神社にパラオ挺身隊の顕彰碑を建立した。
風間 力三(かざま りきぞう、1922年2月7日 - )は、… 風間 力三(かざま りきぞう、1922年2月7日 - )は、日本の国語学者、甲南大学名誉教授。 岡山県津山市生まれ。1947年東北帝国大学法文学部文学科国語専攻卒、甲南大学助教授、教授、1986年定年退任、名誉教授、大手前女子大学文学部教授。
大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921年8月1日 - 1… 大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921年8月1日 - 1997年2月17日)は、日本の哲学者。東京大学名誉教授。 物理学から哲学に転向し、科学における哲学的問題の検証を目指した。物心二元論を否定し、独特の一元論による哲学体系を確立。著書に『言語・知覚・世界』(1971年)、『時間と存在』(1994年)などがある。 岡山県生まれ。東京府立一中から第一高等学校理科乙類を経て、1944年 東京帝国大学理学部物理学科を卒業。 1945年、海軍技術研究所三鷹実験所勤務。当初は物理学を志すも、科学における哲学的問題を問うため、哲学に転向。1949年、東京大学文学部哲学科を卒業する。はじめ現象学などを学ぶが、満足せずアメリカに留学。
入江節次郎(いりえ せつじろう、1921年2月9日- )は、… 入江節次郎(いりえ せつじろう、1921年2月9日- )は、日本の経済学者、同志社大学名誉教授。 岡山市生まれ。1944年東京帝国大学法学部卒。1980年「帝国主義論への道」で大阪市立大学経済学博士。同志社大学経済学部助教授、教授、92年定年退任、名誉教授。
脇本 平也(わきもと つねや、1921年1月11日- 200… 脇本 平也(わきもと つねや、1921年1月11日- 2008年10月24日)は、日本の宗教学者、東京大学名誉教授(文学部)。 岡山県生まれ。1944年東京帝国大学文学部宗教学科卒業。 立教大学助教授を経て、1964年東京大学文学部助教授(宗教学)就任、70年教授に昇任、81年に定年退官し名誉教授、駒澤大学教授、国際宗教学研究所理事長。 1989年に紫綬褒章受章。94年秋、勲三等瑞宝章受勲。
水野 義久(みずの よしひさ、1919年9月13日 - 20… 水野 義久(みずの よしひさ、1919年9月13日 - 2005年5月24日)は、岡山県出身の薬学者。北海道大学名誉教授。第二次世界大戦時は陸軍に入隊した。
逸見 吉之助(へんみ きちのすけ、1919年6月28日 - … 逸見 吉之助(へんみ きちのすけ、1919年6月28日 - 1997年11月11日)は、日本の地球科学者。専門は鉱物学。岡山大学名誉教授。理学博士。 岡山市生まれ。岡山一中、第六高等学校を経て、1941年東京大学理学部地質学科を卒業。満州国大陸科学院高等官試補、岡山県立岡山操山高等学校教諭を経て、1951年、岡山大学理学部講師に着任。1952年助教授。教授、理学部長を経て1984年に退官し以後、名誉教授。 戦後、岡山県倉敷市の三吉鉱山の金属鉱床から日本で初めて砒銅ウラン石を発見した。さらに、広島県庄原市東城町久代および岡山県高梁市備中町布賀の高温型スカルンを発見し、高温型スカルンの成因の解明のみならず、多数の世界新鉱物の発見した。
石田 寛(いしだ ひろし、1919年3月1日 - 2019年… 石田 寛(いしだ ひろし、1919年3月1日 - 2019年1月22日)は、日本の地理学者、広島大学名誉教授。岡山県出身。 岡山県熊山村(後の熊山町→赤磐市)に生まれ、岡山県第二岡山中学校(後の岡山県立岡山操山中学校・高等学校の前身)から広島高等師範学校地歴科に進み、1940年3月に文科第三部乙を卒業、さらに京都帝国大学文学部で地理学を学んだ。1942年9月、文学部史学科地理学専攻を繰り上げ卒業後、大学院に進んだが、召集を受け10月に中部第48部隊(歩兵第10連隊留守隊)に入隊した。1944年8月兵科見習士官として陸軍中央通信調査部に配属され、アメリカ軍の暗号解読に従事した。1945年1月陸軍少尉に昇進したが、敗戦を受け、9月に召集解除となった。
山上 正太郎(やまのうえ しょうたろう、1919年 - 20… 山上 正太郎(やまのうえ しょうたろう、1919年 - 2010年)は、日本の歴史学者、電気通信大学名誉教授。西洋史専攻。 岡山県岡山市生まれ。東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。学習院大学助教授、電気通信大学教授、1983年定年退官、名誉教授。第一次世界大戦、第二次世界大戦、フランス革命などを研究した。
蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日… 蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日 - 2020年(令和2年)8月3日)は、日本の教育者、歴史家である。長年教諭を務め、小学校校長を務めた後、有漢町教育委員会指導員となり、有漢町の歴史を編纂した人物。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県上房郡高梁町川端(現:高梁市)で出生する。1930年(昭和10年)に上房郡有漢村(後の有漢町)の蛭田傳助の養子となる。岡山県師範学校(現:岡山大学教育学部)を卒業する。 有漢中学校や有漢東小などで教師を40年務める。小学校の校長を務めた後、地元の有漢の歴史や伝承の編纂を行う。1991年(平成3年)には、「有漢点描」として全9巻出版し、明治、大正の動乱を中心に有漢の歴史をまとめている。
美土路 達雄(みどろ たつお、1917年(大正6年)5月1日… 美土路 達雄(みどろ たつお、1917年(大正6年)5月1日 - 1992年(平成4年)11月29日)は、日本の農業経済学者・教育学者・家政学者。専門は農業経済学・農民教育論・農業家政学・農業協同組合経営論など。農産物市場論において市場構造分析の基礎を築き、農協の経営主義を批判するなど、研究領域は多岐に渡る。教育学博士(北海道大学)。名寄女子短期大学名誉教授。 岡山県津山市生まれ。1938年第一高等学校 (旧制)卒業。1942年東京帝国大学農学部卒業。同年、日本勧業銀行に入社。1945年東京帝國大学大学院(旧制)特別研究生修了。その後、病気療養。1955年協同組合短期大学協同組合科助教授に就任。
福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 198… 福武 直(ふくたけ ただし、1917年2月12日 - 1989年7月2日)は、日本の社会学者。文学博士(東京大学)。東京大学名誉教授。岡山県岡山市出身。 1917年(大正6年)岡山県岡山市に出生する。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1937年(昭和12年)第六高等学校を卒業する。その後、1940年(昭和15年)東京帝国大学文学部社会学科卒業した。 卒業論文は「社會學と社會的現實−社會學方法論における諸問題−」。1948年に東京大学文学部助教授、1960年に教授。1962年に「日本村落の社会構造」で東京大学より文学博士の学位を取得。1977年(昭和52年)に定年退官、名誉教授。
久山 康(くやま やすし、1915年(大正4年)8月12日 … 久山 康(くやま やすし、1915年(大正4年)8月12日 - 1994年(平成6年)12月30日)は、日本の哲学者、プロテスタントの宗教学者。 岡山県津山市生まれ。1941年京都帝国大学文学部哲学科卒、1942年聖和女子大学教授、1946年関西学院大学予科教授、1949年関西学院大学文学部専任講師、1951年助教授、1957年教授、1962年同国際日本研究所理事長、1969年関西学院理事、1974年理事長・院長。1989年退任、関西学院大学名誉教授。1982 - 1988年キリスト教学校教育同盟理事長。1990年勲二等旭日重光章受勲。 長男・久山敦 (1947 - ) は植物学者・咲くやこの花館館長。
團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年〈大正2年〉11月… 團藤 重光(だんどう しげみつ、1913年〈大正2年〉11月8日 - 2012年〈平成24年〉6月25日)は、日本の法学者。専門は、刑法・刑事訴訟法。裁判官。学位は、法学博士(東京大学・論文博士 1962年)。東京大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。文化勲章受章。位階は正三位。勲等は勲一等。団藤 重光とも表記される。 東京帝国大学法学部助教授、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長、慶應義塾大学法学部教授、最高裁判所判事、社団法人学士会理事長などを歴任した。 山口県生まれ、岡山県育ちの法学者である。専門は刑事法全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。東京帝国大学、東京大学、慶應義塾大学で教鞭を執ったのち、最高裁判所判事に就任した。
団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大… 団藤 重光(だんどう しげみつ、正字体:團藤、1913年(大正2年)11月8日 - 2012年(平成24年)6月25日)は、日本の法学者。岡山県出身(ただし生まれは山口県)。東京大学名誉教授。1974–83年(昭和49–58年)最高裁判所判事。1981年(昭和56年)日本学士院会員。1987年(昭和62年)勲一等旭日大綬章。1995年(平成7年)文化勲章。
蓬郷 巌(ほうごう いわお、1913年 - 1998年)は、… 蓬郷 巌(ほうごう いわお、1913年 - 1998年)は、岡山県津山市河辺出身の官吏、郷土史家。 1913年岡山県で生まれる。本籍地は、津山市河辺である。1930年、金川中学校(現・金川高校)卒業後、岡山県職員となる。 以後、警察官、兵隊、県広報主幹、県民課長などを歴任し、1969年、退職。 1969年から、県政史、県議会史の編纂を嘱託され、その後、岡山県郷土史に関する数多くの著書を出版する。 また、岡山市半田町に在住し、半田町元町町内会の初代会長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4… 岡 映(おか あきら、1912年7月10日 - 2006年4月13日)は岡山県出身の部落解放運動家、歴史家。 岡山県英田郡江見町(現・美作市)の被差別部落に生まれ、京都で友禅職人として働く。1932年、日本共産党に入党。 1935年、全国水平社第13回全国大会に参加。 戦後は、農民運動・重税反対闘争に積極的に取り組んだ。 岡山県美作地方を中心に岡山県農民同盟の活動や岡山県人民解放同盟青年協議会副会長、部落解放全国委員会岡山県連合会常任委員、および同書記長を歴任。 1955年、部落解放同盟岡山県連書記長に就任。同中四国ブロック協議会議長を経て、1966年、同県連委員長に就任。 1970年2月19日、第5回部落解放同盟岡山県委員会開催。
近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月… 近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月30日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、日本の数学史家、科学思想史家。元岡山大学法文学部教授。岡山大学名誉教授。文学博士。 岡山県に生まれる。岡山県立第一中学(現・岡山朝日高等学校)京都帝国大学文学部哲学科に入学。田辺元に師事する。その後東北大学に理科学生として在籍する。 昭和高等商業学校、第六高等学校で教授を務めた後、1952年(昭和27年)より岡山大学法文学部教授となった。 1946年(昭和21年)にゲーデルの赤い本を翻訳して出版した。
三宅 静雄(靜雄、みやけ しずお、1911年(明治44年)2… 三宅 静雄(靜雄、みやけ しずお、1911年(明治44年)2月26日 - 1999年(平成11年)7月31日)は、日本の物理学者。専門は結晶物理学。東京大学物性研究所第3代所長。東京大学名誉教授。岡山県岡山市生まれ。位階は正四位。 静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1933年(昭和8年)、東京帝国大学理学部物理学科卒業。同年3月、理学部助手、1934年(昭和9年)、理化学研究所研究生、1940年(昭和15年)、小林理学研究所研究員、1942年(昭和17年)、理学博士(東京帝国大学)。1949年(昭和24年)東京工業大学教授、1957年(昭和32年)東京大学物性研究所教授、1965年(昭和40年)、同所長、1971年(昭和46年)定年退職、東京大学名誉教授。
藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月1… 藤岡 一男(ふじおか かずお、1911年(明治44年)1月10日 - 1994年(平成6年)1月9日)は、地質学者であり、教育者でもある。北海道帝国大学理学部を卒業後、理学部助手となり、植物化石の研究に従事。秋田鉱山専門学校教授となり、秋田大学鉱山学部教授、秋田大学名誉教授となる。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 明治44年(1911年)1月10日、川上郡落合村福地(現・高梁市落合町福地)に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)を経て広島高等師範学校を卒業。高等師範学校在学中から成羽地域に分布する三畳紀植物化石の研究を始め、北海道帝国大学大石三郎助教授の指導を受け、昭和9年(1934年)北海道帝国大学理学部地質学鉱物学科に入学、引き続き大石助教授に師事する。
黒崎 秀明(くろさき しゅうめい、1911年 - 1976年… 黒崎 秀明(くろさき しゅうめい、1911年 - 1976年2月24日)は、岡山県岡山市出身の脚本家、郷土史家。 1911年、岡山市蕃山町で生まれる。1927年、岡山第一商業高校(現・岡山東商業高校)卒業後、上京し、独学で劇作を学ぶ。 戦後、NHK岡山放送局専属のシナリオライターとして活躍した。 また、版画が上手く、1967年、『版画 岡山後楽園』を出版した。郷土史研究を行っており、晩年は、岡山県の人物に関する著書を出版した。
時実 利彦(ときざね としひこ、1909年9月4日 - 19… 時実 利彦(ときざね としひこ、1909年9月4日 - 1973年8月3日)は、日本の生理学者。東京大学名誉教授。専門は大脳生理学。医学博士。岡山県和気郡備前町(現備前市)生まれ。その名前を冠した時実利彦記念賞もある。 時実は、実験脳生理学の手法を日本に導入、大脳皮質の活動水準を調節し行動に至る神経活動を電気生理学的に体系づけた。 大学の恩師に橋田邦彦がいる。また数学者の岡潔と親交があり、岡の晩年は時実よりも岡の方が大脳生理学の師に近い関係であった。
三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 199… 三宅 泰雄(みやけ やすお、1908年4月17日 - 1990年10月16日)は、日本の地球化学者。東京教育大学教授。 岡山県岡山市にて誕生。岡山県立岡山中学校、静岡県立静岡中学校、旧制静岡高等学校を経て、1931年東京大学理学部化学科を卒業。 北海道大学理学部助手、中央気象台、同台研究部(戦後はそのまま気象庁・同庁気象研究所に改称)勤務。1940年 東京大学にて、「西部北太平洋の海洋科学」の論文で理学博士号を取得。 1957年、東京教育大学教授。 1954年のビキニ事件を発端にビキニ周辺海域・大気の放射能汚染を調査、研究し、高い評価を得た。以後、海洋や大気の放射能汚染の危険性を訴えつづけた。第五福竜丸の船体の保存にも尽力。
猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月… 猶原 恭爾(なおはら きょうじ、1908年(明治41年)4月- 1987年(昭和62年)4月11日 )は、日本の植物生態学者である。資源科学研究所研究員を経て、山に牛を放牧する酪農である山地酪農を提唱し日本に広めた。岡山県高梁市出身。 1908年(明治41年)に岡山県高梁市で出生。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学を経て、1928年(昭和3年)に鹿児島市にある第七高等学校理科甲類へ進学する。1931年(昭和6年)同校を卒業し、1932年(昭和7年)東北帝国大学理学部生物学教室へ入学する。1935年(昭和10年)3月に同大学を卒業した。 猶原は大学卒業後、1938年(昭和13年)30歳とき、東京府大泉師範学校の設立時教諭となり、同時期に、企画院の外郭団体として設立された大日本帝国の国策調査・研究を行う機関である東亜研究所に所属する。
塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 197… 塩見 賢吾(しおみ けんご、1908年3月31日 - 1971年6月4日)は、日本の化学者。東京大学名誉教授、学位は理学博士。専攻は植物栄養化学。 岡山県出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、第六高等学校を経て、1930年(昭和5年)東京帝国大学理学部化学科卒業。台湾総督府工業研究所技師、第一高等学校教授、東京大学教授を経て、東邦大学教授在職中の1971年(昭和46年)逝去。
可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944… 可児 藤吉(かに とうきち、1908年1月1日 - 1944年7月18日)は、日本の群集生態学者。「河川形態型」を提唱し、今西錦司と共に棲み分け理論の基礎を築いたが、陸軍に徴兵され、サイパンの戦いで戦死した。 1908年、岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。「河川形態型」が発表された同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。藤吉の墓は勝央町勝間田の共同墓地にある。 河川における上流、中流、下流の形態を特徴的に示すことによって河川そのものの保護や維持、生息する生態系の保護に広く利用されている方法。
伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日… 伊吹 知勢(いぶき ちせ、1906年(明治39年)10月2日 - 1983年(昭和58年)4月11日)は、日本の英文学者、お茶の水女子大学名誉教授。戦前に2つの日本の大学を卒業する。その後、渡米しカリフォルニア大学ロサンゼルス校英文科に学ぶ。帰国後、大学教授としてジェイン・オースティン、ヴァージニア・ウルフなどを研究・翻訳した。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1906年(明治39年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の父・伊吹岩五郎、母・美志の四女として出生する。親戚には、群馬大学医学部教授の伊吹令人がいる。1923年(大正12年)3月、16歳のとき、地元の岡山県立順正高等女学校(現:岡山県立高梁高等学校家政科)を卒業する。
山下 勝治(やました かつじ、1906年 <明治39年> 5… 山下 勝治(やました かつじ、1906年 <明治39年> 5月12日 - 1967年 <昭和42年> 12月5日)は、日本の会計学者。学位は、経営学博士(神戸大学・論文博士・1951年)。位階は従三位、勲等は勲三等旭日中綬章。 岡山県笠岡市出身。笠岡商業学校(現岡山県立笠岡商業高等学校)を経て、1927年大分高等商業学校卒、愛知県豊橋市立商業学校教諭、1932年神戸商業大学(現:神戸大学)卒。1934年同研究科修了。平井泰太郎研究室出身。1934年彦根高等商業学校講師、1936年教授、1944年神戸経済大学助教授、1951年大阪大学法経学部教授併任、1951年「損益計算制度の発展」で神戸大学より経営学博士の学位を取得。
小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 194… 小野 晃嗣(おの こうじ、1904年12月18日 - 1942年3月24日)は、日本の歴史家。旧名は小野均。 岡山県岡山市生まれ。1925年第六高等学校、1928年東京帝国大学文学部国史学科をそれぞれ卒業。卒業論文は「近世城下町の研究」。同年から東京帝国大学史科編纂所に勤務、1937年史料編纂官となる。主に『読史備要』の作成、『大日本史料』の編纂を担当。近世都市と中世商業の研究を進めた。
相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日-1983… 相馬 勝夫(そうま かつお、1904年11月26日-1983年1月31日)は、専修大学理事長、専修大学総長。専修大学創立者の相馬永胤の孫。経済学博士。専門は保険論。岡山県岡山市出身。 1924年東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)卒業後、専修大学講師。1932年東京商科大学旧制大学院修了。1938年専修大学教授。その後、学生部長・就職指導部長・を歴任。1955年商経学部長。1957年体育部長。1961年経営研究所長。1961年専修大学にて論題「新価保険」で経済学博士を受く。 1961年(昭和36年)専修大学第10代学長。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - … 葉上 照澄(はがみ しょうちょう、1903年8月15日 - 1989年3月7日)は、哲学者、天台宗の僧侶、千日回峰行大行満大阿闍梨、大僧正。比叡山延暦寺長﨟で初代印度山日本寺竺主および世界連邦日本宗教委員会会長を務めた。世界平和のためには宗派を超えた宗教者の連帯が必要との持論から、世界宗教サミットを発起・開催した。 岡山県赤磐郡石生村原(現在の岡山県和気郡和気町原)の天台宗・元恩寺住職の葉上慈照の長男として生まれる。小学校一年の時、備前岡山藩主の池田家の寺である金剛山常住寺の弟子となる。1916年(大正5年)9月、岡山県立岡山中学校に進学、1920年(大正9年)第六高等学校 (旧制)の入学試験では数学で満点を取り、首席入学した。
蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月… 蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月13日)は、日本の医学者・内科医師である。1945年の広島市への原子爆弾投下で被爆しながらも、広島逓信病院(広島はくしま病院の前身)院長として被爆者の治療と原爆症の研究を行い、その苦闘の記録は『ヒロシマ日記』として各国で出版された。岡山県岡山市出身。 1903年、岡山県御野郡牧石村(現:岡山市)に生まれる。(旧制)岡山県立矢掛中学校、(旧制)第六高等学校を経て1929年に岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)を卒業する。その後、同大学の稲田内科にて研究を行い、1938年に学位を取得した。そして1942年には広島逓信病院の院長に就任し、これにより後半生を大きく変えることとなった。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
石本 雅男(いしもと まさお、1902年 <明治35年> 8… 石本 雅男(いしもと まさお、1902年 <明治35年> 8月21日 - 2003年 <平成15年> 7月30日)は、日本の法学者。専門は、民法・不法行為責任論。岡山県出身。大阪大学名誉教授、神戸学院大学名誉教授。位階は従四位。 神戸学院大学法学部の設置にも関与した。1984年日本学士院賞受賞。 旧制岡山中学(現:岡山朝日高校)、旧制第六高等学校を経て、1926年京都帝国大学法学部卒。京都帝国大学在職中に滝川事件が起こり、抗議のため同大学を辞職した。100歳になっても、家族の介助による口述筆記により論文を書き上げた、というエピソードも残っている。2003年死去。死没日付をもって正七位から従四位に進階した。
小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1… 小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1975年10月31日)は、日本の技術者、工学博士。元日本電気(NEC)専務取締役。元慶應義塾大学工学部教授。 岡山県久米郡加美村字亀甲(現・久米郡美咲町)生まれ。父親が広島で郡長、のち広島赤十字社主事等になったため広島県比婆郡庄原町(現庄原市)や府中市他で育つ。 1917年、福山中学校(現・福山誠之館高校)から広島高師附属中学(現・広島大学附属高校)に転入、第八高等学校を経て東京帝国大学工学部電気工学科卒業(1926年)。同年日本電気(NEC)入社。大学の先輩・丹羽保次郎が優秀な大学卒を採用するという方針で入社した第一期で、英才の誉れ高い小林が引っぱられたものであった。
川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月1… 川上 六馬(かわかみ むつま、1902年(明治35年)2月13日- 1986年(昭和61年)7月28日)は、日本の医学者であり、満州国ハンセン病療養所・同康院の初代院長を務めた後、厚生省医務局長を務めた。国立がん研究センターの設立に深く関わり、顧問となっている。岡山県高梁市出身。位階は正五位。 1902年(明治35年)岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)の川上佐源太の三男として出生する。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀、言語学者の鳴瀬恒太郎がいた。1920年(大正10年)同校を卒業し、慶應義塾大学予科へ進学する。その後、慶應義塾大学医学部へ入学し、小林六造教授に従う。
塩尻 公明(しおじり こうめい、1901年11月6日 - 1… 塩尻 公明(しおじり こうめい、1901年11月6日 - 1969年6月12日)は、日本の哲学者、神戸大学名誉教授。J・S・ミルが専門だが、宗教的な人生論を多く書いた。 岡山県吉備郡岡田村(現:倉敷市)出身。旧制岡山第一中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第一高等学校在学時に出講していた河合栄治郎と出会う。東京帝国大学法学部卒業直後、西田天香の一灯園に入り求道生活を送り、のち高知高等学校教授、戦後神戸大学教育学部教授、65年定年退官、帝塚山学院大学教授。
米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - … 米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - 1958年5月3日)は、日本の法学者。専門は、商法・保険学。学位は、法学博士。1955年「約款法の理論」で日本学士院賞受賞。岡山県出身。 岡山県都窪郡茶屋町(現倉敷市茶屋町)生まれ。旧制第一岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業(青山衆司ゼミナール)。 1923年文官高等試験行政科合格、1925年商工省入省、商務局保険課勤務。1929年明治大学兼任講師(火災保険論)を経て、1930年東京商科大学(現一橋大学)助教授兼予科教授就任。ベルリン、ローマ、パリへの留学を経て、1934年第10回国際アクチュアリー会議日本代表。
和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986… 和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986年11月28日)は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。第2代久留米工業短期大学学長。初代久留米工業高等専門学校校長。日本学士院賞受賞。和栗雄太郎九州大学名誉教授は長男。 岡山県出身。1923年九州帝国大学工学部機械学科卒業。1936年九州帝国大学工学博士。九州帝国大学工学部講師、九州帝国帝国大学工学部助教授を経て、1938年九州帝国大学校工学部教授。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、中田孝東京工業大学教授とともに日本学士院賞を受賞。1964年久留米工業高等専門学校校長、日本機械学会名誉員。1969年勲二等瑞宝章受章。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。
松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2… 松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2000年3月11日)は、日本の民法学者。現在の倉敷市生まれ。名古屋大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。
長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月2… 長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月26日 - 没年月日不明 )は日本の哲学者。元八幡大学教授。岡山県出身。 備前岡山の池田家家老 日置健太郎を母方の祖父とする名門の家に生まれる。父親、長崎常は札幌農学校で内村鑑三と共にクラーク博士に学んだ農務省官僚であった。なお、常は九州法学校創設時に宇賀田順三と親交があった人物。母キヨは日本画壇の女流画家。 明は岡山一中から慶応義塾、松本高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し伊藤吉之助に師事する。卒業後西南学院専門学校、九州専門学校で教鞭を執る。1947年、宇賀田順三の要請により 戸畑専門学校開校時に教授に就任。1948年から1956年まで八幡大学教授(1954年に法経学部長就任)。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 198… 蔵内 数太(くらうち かずた、1896年8月1日 - 1988年7月6日)は、日本の社会学者。 岡山県後月郡西江原村(現井原市西江原町)出身。興譲館中学校、第六高等学校を経て、1920年東京帝国大学文科大学哲学科社会学専修卒。文部省嘱託を経て、1935年九州帝国大学教授、1947年「分科社会学」で東京大学文学博士。1948年大阪大学教授、1960年定年退官、名誉教授、関西学院大学教授、1967年追手門学院大学教授。教育社会学から出発して、後に社会学理論の研究に進み、日本思想や東洋思想をふまえた独自の理論体系を構築した。
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2… 黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日 - 1949年(昭和24年)9月3日)は、日本の経済学者、農業史家、農村社会史学者。専門は経済史、経済地理学。経済学博士(京都帝国大学)。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。 1895年(明治28年)岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て1909年(明治42年)4月岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学、1914年(大正3年)3月同校を卒業し同年9月第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し他に歴史や経済史を研究した。1916年に黒正家の養子となる(旧姓中山)。翌1917年(大正6年)7月に六高を卒業し同年9月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。
三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 198… 三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 1982年10月8日)は、日本の哲学者。専攻は臨床哲学・倫理学。文学博士(京都帝国大学)。長男は歴史学者の三宅正樹。 岡山県浅口市鴨方町益坂出身。旧制私立金光中学校(現:金光学園中学校・高等学校)、旧制第六高等学校(現:岡山大学)を経て、1916年に京都帝国大学哲学科に進み西田幾多郎、朝永三十郎、波多野精一に学ぶ。卒業後は旧制新潟高等学校(現:新潟大学)や東北帝国大学理学部の教授を歴任した。ドイツにも留学し、フライブルク大学でフッサールから現象学の手法を学んだ。1943年「学の形成と自然的世界:西洋哲学の歴史的研究」により京都帝国大学文学博士。
原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27… 原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27年)11月24日 - 1975年(昭和50年)12月17日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院副議長。本名は彪之助。 岡山県小田郡金浦村(現・笠岡市)に生まれる。岡山一中、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。その後は文部省嘱託、鉄道省鉄道講習所講師、明治大学講師を経て、1928年法政大学教授に就任。政治学・政治史を講じていた。 学生時代より社会主義に共鳴し、1924年安部磯雄らと社会主義研究団体「日本フェビアン協会」を結成する。以後安部に付き従い、1932年安部を委員長とする社会大衆党が結成されると原も入党し中央執行委員になる。