長光 告直(ながみつ つぐなお、1936年8月5日 - )は… 長光 告直(ながみつ つぐなお、1936年8月5日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 廿日市高校から1955年に南海ホークスへ入団。 1956年に55試合登板し13勝を記録し、1957年にも12勝を記録した。1958年6月4日の近鉄戦でパ・リーグ初の1球敗戦投手となっている。
広島県:212人
長光 告直(ながみつ つぐなお、1936年8月5日 - )は… 長光 告直(ながみつ つぐなお、1936年8月5日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 廿日市高校から1955年に南海ホークスへ入団。 1956年に55試合登板し13勝を記録し、1957年にも12勝を記録した。1958年6月4日の近鉄戦でパ・リーグ初の1球敗戦投手となっている。
秋光 新二(あきみつ しんじ、1936年5月21日 - )は… 秋光 新二(あきみつ しんじ、1936年5月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。 忠海高校から、1955年に大阪タイガースに入団。在籍3年間で勝ち星を挙げることはできずに1957年に退団。 その後、社会人野球の富士製鐵室蘭でプレーした。
恵川 康太郎(えがわ やすたろう、1936年4月22日 - … 恵川 康太郎(えがわ やすたろう、1936年4月22日 - )は、広島県三原市出身の元プロ野球選手。
栗本 光明(くりもと みつあき、1936年3月13日 - 2… 栗本 光明(くりもと みつあき、1936年3月13日 - 2013年6月1日)は、広島県府中市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ。 福山工業高校では2年次の1953年、夏の甲子園予選西中国大会に進出するが、1回戦で岩国高に敗退。卒業後は1955年に倉敷レイヨンへ入社し、岡山工場営繕課に勤務する傍ら、1957年から1961年まで5年連続で後楽園に出場するなどエースとして活躍。1959年の選抜京都大会では5月2日の1回戦で日本新薬を相手に5回途中からリリーフ、延長29回まで24回2/3を投げ切るが、スクイズを決められ敗戦投手となった。同年の都市対抗では準々決勝に進むも大昭和製紙に9回裏サヨナラ負けを喫するが、秋の産業対抗では初優勝を飾る。
藤井 弘(ふじい ひろむ、1935年9月29日 - )は、広… 藤井 弘(ふじい ひろむ、1935年9月29日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。引退後の名前は「藤井 博」(読み方同じ)。初代ゴジラ、通称"ゴジさん"。
永田 徹登(ながた てつと、1935年1月21日 - )は、… 永田 徹登(ながた てつと、1935年1月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
川本 徳三(かわもと とくぞう、1934年10月24日 - … 川本 徳三(かわもと とくぞう、1934年10月24日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(投手)。 基町高校では1951年、2年生エースとして広島県大会でチーム初のベスト4まで進出した。この年に広島カープ後援会が川本に目を付け、左投手不足のチーム事情もあって、広島に入団させるため勧誘した。高校2年生と言うこともあって何度も入団を拒否していたが、3年次の1952年には自宅近くで電器店を営む後援会役員に石本秀一監督の所へ連れて行かれた。尾道西高グラウンドの紅白戦に呼ばれ、前年の県大会で投げ合い、すでに広島へ入団していた大田垣喜夫の投げている姿を見た。石本から「入ってやってみんか」と言われ、開幕6日前の1952年3月15日、ついに入団を決意した。
原田 信吉(はらだ しんきち、1934年8月15日 - )は… 原田 信吉(はらだ しんきち、1934年8月15日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
小畑 正治(こばた まさはる、1934年4月3日 - 202… 小畑 正治(こばた まさはる、1934年4月3日 - 2025年1月22日)は、広島県呉市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 呉三津田高校では、1951年の春の甲子園に出場。1回戦で明治高校と対戦するが、11回延長の末1-4で敗れた。高校の先輩に広岡達朗、1学年下には実業家の碓井優がいる。 1951年に呉市出身で南海ホークスの監督であった鶴岡一人が視察に訪れ、スカウトされるが、もともと大学進学を志望しており、プロ野球界へ進むつもりがなかった。しかし、大日本帝国海軍であった父親が退役し、健康状態も悪く働くことが困難な状態で、経済的に大学進学を断念、両親や兄姉を金銭面で支えるため、悩んだ末に、卒業後の予定を繰り上げ、高校を中退し、南海ホークスに入団することにした。
備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 201… 備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - 2015年9月7日)は、広島県尾道市出身のプロ野球選手(投手)。引退後は広島東洋カープコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。旧名は「大田垣 喜夫」(おおたがき よしお)。
白崎 泰夫(しらさき やすお、1933年7月24日 - 20… 白崎 泰夫(しらさき やすお、1933年7月24日 - 2019年7月1日)は、広島県竹原市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 少年時代は家族で広島から旧満州に渡り、敗戦に伴い日本に引き揚げた。その後、中学編入後に野球を始め、忠海高校二年生の秋から本格的に投手となる。当時、中国一と謳われた豪速球で、1952年に夏の甲子園県予選にて優勝したが、西中国大会1回戦で柳井商工のエース森永勝也に抑えられ敗退し、甲子園出場はならなかった。 しかし、広島商や広陵高など強豪を破り、当時全くの無名であった忠海高校が県大会で優勝したことから注目され、翌1953年に南海ホークスへ入団。なかなか一軍で活躍できなかったが、1958年には先発陣の一角として起用され7勝を挙げる。
榊原 盛毅(さかきはら せいき、1933年6月30日 - )… 榊原 盛毅(さかきはら せいき、1933年6月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 尾道西高校から1952年に広島カープ へ入団。9月29日の対名古屋ドラゴンズダブルヘッダー2戦目で初先発に抜擢されると8回1失点、打者でも4打数3安打2打点と活躍し4-3で勝利しプロ初勝利を挙げた。この年の広島は9月28日時点で勝率3割を切っており球団解散危機に瀕していた。榊原の勝利で勢いに乗った広島は次の日のダブルヘッダーを連勝し、その後の8試合を4勝4敗で乗り切り最終的に勝率.316で球団解散の危機を脱した。 1954年に右肩を痛め、その後は登板数も減り1956年に引退した。 引退後は名城大学に進学し、卒業後は東洋工業に勤務した。
木織 武美(きおり たけよし、1933年4月3日 - )は、… 木織 武美(きおり たけよし、1933年4月3日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。
土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )… 土屋 弘光(つちや ひろみつ、1932年11月25日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者。引退後は、所属していた中日ドラゴンズの球団マネジャー・スカウト・コーチなどを務めた。
小倉 薫(おぐら かおる、1932年10月30日 - )は、… 小倉 薫(おぐら かおる、1932年10月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。 広島観音高校から1952年に大洋ホエールズへ入団。 観音高のワンマン投手、シュートが武器、26年国体で優勝した。 1954年に外野手へ転向。1955年に引退。
長谷川 繁雄(はせがわ しげお、1932年10月2日 -19… 長谷川 繁雄(はせがわ しげお、1932年10月2日 -1966年6月24日)は、1950年代半ばから1960年代前半にかけて活躍したプロ野球選手(一塁手、外野手)である。広島県竹原市出身。 竹原高校を卒業後、法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは中心打者として活躍したが、優勝には届かず、1954年秋季リーグの2位が最高成績であった。大学同期に中野健一、1年下に斎田忠利・古川啓三がいる。 1956年に南海ホークスへ入団。同年は開幕直後から一塁手、五番打者に抜擢され、寺田陽介とレギュラーを争う。四番打者としても11試合に出場した。1957年のシーズン後半から中堅手に回る。1958年には122試合に出場し規定打席にも到達、打率.276(リーグ9位)、16本塁打の好成績を残した。
神崎 安隆(かんざき やすたか、1932年8月24日 - 1… 神崎 安隆(かんざき やすたか、1932年8月24日 - 1985年)は、広島県出身のプロ野球選手(捕手)。
稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 20… 稲垣 人司(いながき ひとし、1932年6月15日 - 2000年10月15日)は、広島県三次市出身の高校野球指導者、監督。 三次中学校(現在の三次高校)卒業後、大蔵省中国財務局に入局するが2年で退職し、石本秀一の書生となって2年間野球を学ぶ。1968年春から1970年春にかけて2年間、大東文化大学硬式野球部の2代目監督に就任。これは、初代監督の岡田悦哉が広島東洋カープ二軍バッテリーコーチに就任したためだった。広島工業高校コーチを経て1976年、創部まもない東京の創価高校監督に就任。小野和義を擁して1983年夏の甲子園に同校を初出場に導いた。その後、神奈川の桐光学園監督を経て1989年、創立8年目の埼玉の花咲徳栄高校に招かれ監督就任。
広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年〈昭… 広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡、1932年〈昭和7年〉2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。 現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。 実兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を打った広島カープの元選手である。 辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても批評を下すことがある。 1932年2月9日、広島県呉市にて6人兄弟(男5人、女1人)の末っ子として生まれる。
箱田 淳(はこだ じゅん、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)… 箱田 淳(はこだ じゅん、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)、1932年2月1日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)・野球解説者。
長谷部 稔(はせべ みのる、1931年10月15日 - )は… 長谷部 稔(はせべ みのる、1931年10月15日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。1956年の登録名は長谷部 健(はせべ たけし)。 旧制中学校の広島県立広島工業学校(現在の広島県立広島工業高等学校)時代に広島原爆に遭遇した経験を持つ。その後に学制改革などで広島県立広島工業学校が広島県立広島皆実高等学校になるなどした後に皆実高等学校では捕手で4番打者として活躍、高校3年夏の1949年第31回全国高等学校野球選手権大会予選の西中国大会決勝に駒を進めたが山口県立柳井高等学校に敗れて甲子園大会出場は成らなかった。 卒業後は土木技術者を目指していたが、1949年に翌年から地元初のプロ野球球団として創設される、広島カープの入団テストへ試しに参加した。
渡辺 礼次郎(わたなべ れいじろう、1931年7月27日 -… 渡辺 礼次郎(わたなべ れいじろう、1931年7月27日 - )は、広島県府中市出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 府中高校から明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは1952年秋季リーグで打率.333の記録を残し、同じ明大の岩崎亘利と首位打者を分け合う。1953年秋季リーグでは、秋山登らの好投もあって戦後初優勝を飾った。リーグ通算71試合出場、227打数57安打、打率.251、0本塁打、26打点。 1954年に国鉄スワローズへ入団。1年目から一軍に上がり、9月から遊撃手として36試合に先発出場。一番打者としても20試合に起用される。その後も中村栄、大久保英男と定位置を争い、5年目となる1958年にはレギュラーを獲得した。
渡辺 信義(わたなべ のぶよし、1929年8月23日 - 2… 渡辺 信義(わたなべ のぶよし、1929年8月23日 - 2006年9月18日)は、広島県三次市三良坂町出身の元プロ野球選手(投手)。 私立日彰館中学校卒業後、広島県庁の軟式野球チーム「オール県庁」で広岡富夫とバッテリーを組む。剛速球投手として知られていた渡辺はある日、広島球団から呼び出しがあって広陵高へ行ってみると石本秀一監督が立ち合ってのテストであった。ものの10分ほど投げると「カープへ来ないか」と誘われたが、渡辺に入る気は無く、県庁の職員からも「なんで渡世稼業みたいな世界に入らないけんのや」と猛反対された。結局、渡辺は「独身だったし、測量や設計の技術者だったこともあって食べることには心配ない。
広岡 富夫(ひろおか とみお、1928年2月20日 - 20… 広岡 富夫(ひろおか とみお、1928年2月20日 - 2009年9月26日[要出典])は、広島県呉市出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツで活躍した広岡達朗は弟。 呉二中から広島県庁に入り、軟式野球チーム「オール県庁」で強打の捕手として活躍していた。バッテリーを組んでいた渡辺信義が1951年に広島へ入団していて、広岡も「周囲からカープへ入ったらどう?」と言う声が起こって欲も得もなく、1952年に広島カープへ入団。公務員からプロ入団という珍しいケースであり、弟の達朗によると「子供のころから器用で、運動神経も私よりはるかにまさっていたがまさかプロになるとは思わなかった。私のプロへの道筋は、細々と芽生えていたんだ」と語っている。
木庭 教(きにわ さとし、1926年7月28日 - 2008… 木庭 教(きにわ さとし、1926年7月28日 - 2008年5月23日)は日本の元プロ野球スカウトである。「スカウトの神様」と呼ばれ、1975年から始まる広島東洋カープ黄金時代を創った影の主役と言われている。
宝山 省二(ほうざん しょうじ、1926年4月5日 - )は… 宝山 省二(ほうざん しょうじ、1926年4月5日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは三塁手。
池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は… 池田 善蔵(いけだ ぜんぞう、1923年11月15日- )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 200… 野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 2009年7月30日)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手)・監督・コーチ。
石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 -… 石風呂 良一(いしぶろ りょういち、1923年6月27日 - 1985年5月12日)は、広島県出身のプロ野球選手。 広島県立忠海中学校卒業後、広島県内の運送会社のノンプロチーム(会社名不明)に所属。1949年11月に24歳で大阪タイガースへ入団。入団から間もない11月16日の対阪急戦(明石)でプロ初登板・初先発。初回から四球連発で痛打を浴び、1アウトもとれずに降板、4失点で敗戦投手となった。「カーブも投げらない者を先発させるとは」と内外から批判され、この先発起用が若林忠志監督退団の切っ掛けといわれる。この後、一軍で登板することはなく、1951年に引退した。このため、石風呂の通算防御率は、算出不可能(無限大)となっている。
梅田 正巳(うめだ まさみ、1923年5月24日 - 没年不… 梅田 正巳(うめだ まさみ、1923年5月24日 - 没年不明)は、広島県出身のプロ野球選手。
松田 耕平(まつだ こうへい、1922年1月28日 - 20… 松田 耕平(まつだ こうへい、1922年1月28日 - 2002年7月10日)は、マツダ(東洋工業)の創業者一族であり、同社元社長、プロ野球・広島東洋カープ元オーナー。広島県広島市上幟町(現・中区)出身。京北中学校 - 旧制修道中学校 - 慶應義塾大学卒業。
道仏 訓(どうぶつ さとし、1921年12月2日 - 200… 道仏 訓(どうぶつ さとし、1921年12月2日 - 2005年7月25日)は、昭和期のプロ野球選手・パシフィック・リーグ審判。広島県呉市出身。
岩本 信一(いわもと のぶかず、 1921年1月26日 - … 岩本 信一(いわもと のぶかず、 1921年1月26日 - 2000年1月20日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・審判員。 兄は元祖神主打法として知られる岩本義行。 旧制広陵中学では白石勝巳らの2学年下に当たり、中学時代は主力投手ではなかったが、卒業後の1939年に明治大学へ進学。谷沢梅雄監督率いる黄金時代で活躍し、戦後は明電舎を経て、1946年に広陵の先輩・平桝敏男や濃人渉、門前眞佐人らと広島駅前で遊興産業に携わっていた広島鯉城園のノンプロチームに参加。同年夏に戦後初の都市対抗野球大会へ出場し、初戦で先発・橋本正吾の後を継ぐ2番手としてマウンドに上がるも、この大会優勝した大日本土木に打ち込まれ惨敗した。
藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 19… 藤村 隆男(ふじむら たかお、1920年10月5日 - 1993年12月25日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手(投手)・監督。
柚木 進(ゆき すすむ、1920年9月28日 - 1997年… 柚木 進(ゆき すすむ、1920年9月28日 - 1997年10月22日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手(投手)。1940年代後半-1950年代に南海ホークスのエースとして活躍した。
河内 卓司(こうち たくじ、1920年4月26日 - 201… 河内 卓司(こうち たくじ、1920年4月26日 - 2016年6月8日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手(三塁手)。 旧制広島一中(現広島国泰寺高校)から慶應義塾大学へ進み、遊撃手として活躍。1943年(昭和18年)10月16日、出陣学徒壮行早慶戦にも八番遊撃手として出場。この後太平洋戦争の激化により大日本帝国陸軍に入隊し、広島の野砲兵第五連隊・西部第五部隊に所属、中尉として台湾で終戦を迎えた。戦後復員し慶應野球部に戻り1946年春、戦後最初の東京六大学リーグ戦優勝の中心選手となる。リーグ通算14試合出場、39打数7安打、打率.179。卒業後1947年、大洋漁業入社。野球部の四番遊撃手として3番戸倉勝城らと第20回都市対抗野球大会でチーム初出場に貢献(林兼商店としては戦前1930年に出場がある)。
津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 … 津田 一男(つだ かずお、1919年(大正8年)7月20日 - 1984年(昭和59年)12月26日)は、日本のプロ野球記者、野球解説者。広島県広島市出身。 出身校は、広島県立広島第一中学校(広島一中。のちの広島県立広島国泰寺高等学校)→神戸高等商業学校(神戸高商。のちの神戸大学)。中学時代はは堅守の内野手として鳴らしたものの、親の反対により野球を断念。戦後の復員以降は、知人と乾物店を経営しながら、母校・広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していた。 1948年(昭和23年)に中国新聞社へ入社し、運動部記者となりプロ野球記者としての活動を開始。1949年(昭和24年)秋の地元球団・広島カープ(のちの広島東洋カープ)創設以降はカープの番記者として活動。
山根 実(やまね みのる、1919年6月4日 - )は、広島… 山根 実(やまね みのる、1919年6月4日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手。
田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 198… 田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 1981年8月22日)は、昭和中期から後期(1940年代後半~1970年代)のプロ野球選手・プロ野球審判員。
塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - … 塚本 博睦(つかもと ひろよし、1918年10月14日 - 2009年8月20日)は広島県呉市出身のプロ野球選手(外野手。主に中堅手)・野球指導者・監督。
原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は… 原 一朗(はら いちろう、1918年4月10日 - 戦死)は広島県出身のプロ野球選手。
奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島… 奈良 友夫(なら ともお、1917年6月20日 - )は広島県出身の元プロ野球選手、内野手。
門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1… 門前 眞佐人(もんぜん まさと、1917年5月15日 - 1984年2月22日)は、広島県三次市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。大阪タイガース契約第1号選手。「眞」が旧字体であるため、媒体によって門前 真佐人と表記される。 旧制広陵中学3年次に正捕手となる。強肩強打で鳴らし、4年次には豪打広陵の4番に座る。1934年は夏の選手権広島予選決勝で何度も苦汁をなめさせられた藤村富美男率いる呉港中学にまたも惜敗(2対3)。呉港中はこの年、田川豊・橋本正吾・保手浜明らを揃え、高い総合力で川上哲治らの熊本工業などの全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇、門前らは地団駄を踏む。門前が最上級となった1935年、今度は広陵が白石勝巳・岡田宗芳・海蔵寺弘司・戒能朶一・秋山正信・室脇正信ら7人がプロ入りするという強力打線を形成。
保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広… 保手浜 明(ほてはま あきら、1917年 - 没年不明)は広島県出身の元プロ野球選手。
橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )… 橋本 正吾(はしもと しょうご、1916年8月21日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)。
藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1… 藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手・監督・解説者。
鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27… 鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、広島県呉市東二河通(現:西中央)出身 のプロ野球選手(内野手)・監督、野球解説者。1946年から1958年までは「山本 一人(やまもと かずと)」。
浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没… 浜崎 忠治(はまざき ただはる、1915年9月28日 - 没年不明)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手、二塁手、三塁手)。パ・リーグ審判。
海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - … 海蔵寺 弘司(かいぞうじ こうじ、1915年9月20日 - 生死不明)は、広島県安芸郡府中町出身のプロ野球選手。 広陵中学校では1935年の第12回選抜野球大会にセンターとして出場し、準優勝メンバーとなる。 慶應義塾大学を経て1938年秋に南海軍へ入団。翌年のシーズン終了後に退団。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
上田 正(うえだ ただし、1914年10月25日 - 194… 上田 正(うえだ ただし、1914年10月25日 - 1944年)は広島県出身のプロ野球選手。