栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27… 栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の内務官僚、海軍軍人及び陸上自衛官。第13代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験(高文)行政科に首席で合格し内務省に入省するが、短期現役海軍法務科士官を志願し帝国海軍へ。南方戦線へ従軍し、海軍法務大尉として1945年(昭和20年)8月の終戦を迎える。終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が1948年(昭和23年)まで遅れた。 復員後は官僚に戻らず、弁護士となったが、1950年(昭和25年)に総理府事務官となり、1951年(昭和26年)9月、警察予備隊(保安隊を経て陸上自衛隊)に入隊し、警察士長(陸軍少佐・三等陸佐に相当)に任じられる。
石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 195… 石井 卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 1950年5月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにベトナム独立戦争に参加して戦没。グエン・ソン将軍の軍政顧問。クァンガイ軍政学校教官。トゥイホア陸軍中学教官。ベトナム独立戦争時には、「花谷」「チャン・チ・ズン(陳志勇)」「トン」を名乗った。
宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)… 宮崎 勇(みやざき いさむ、宮﨑 勇、1919年(大正8年)10月5日 - 2012年(平成24年)4月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。太平洋戦争における撃墜王。
カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918… カン・タガミ(Kan Tagami、漢字:田上 寛、1918年2月21日 - 2005年11月24日)は、アメリカ合衆国の軍人。連合国軍占領下の日本において、ダグラス・マッカーサーの個人通訳を務め、昭和天皇と一人で謁見した唯一の日系2世として知られる。 また、樫葉章(英語版)付きの青銅星章をはじめとして、アメリカ従軍記章、アジア・太平洋従軍章(英語版)、進駐軍記章(英語版)、第二次世界大戦戦勝記念章、戦闘歩兵バッジ(英語版)、朝鮮従軍記章(英語版)、国土防衛従軍章、国連朝鮮戦争従軍章(英語版)、予備軍年功記章(英語版)、キャリア・インテリジェンス・メダル(英語版)など、全部で11の勲章を授与された。
上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日… 上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。 広島県出身。上田は5人兄弟姉妹の長男であった。中学を卒業後、呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。術科学校の高等科を卒業した下士官は、日本海軍の実務を担う人材であったが、上田の高等科卒業時の成績は抜群であった。 1941年(昭和16年)9月、上田は帰省を許された。上田は発熱した状態で帰省したが、故郷は豪雨に見舞われ川が氾濫した状態であった。
清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 -… 清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 - 2008年)は、日本海軍の軍人。 海兵60期。最終階級は海軍少佐。戦艦大和の沖縄特攻に従事した乗組員における生存者の一人だった。 広島県呉市出身。早くして両親を失い、兄弟と共に東京の親戚宅に身を寄せるが、関東大震災で被災し再び呉に戻る。 1925年、広島県立呉中学校(在学中に広島県立呉第一中学校へと改称、現広島県立呉三津田高等学校)に入学し、引き続き規定よりはやく飛び入学で4年から[要出典]海軍兵学校に60期生として入学。 卒業後練習艦隊の「八雲」で渡米したことを皮切りに、「高雄」「扶桑」「五十鈴」「妙高」「呉竹」「江風」「三日月」「追風」「朝雲」「大鯨」「龍田」「磐手」といった様々な艦に勤務した。
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月… 河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日… 鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日- 2001年(平成13年)10月28日)は、東京麹町生まれの大日本帝国海軍の軍人、実業家。旧海軍時代の最終階級は海軍中佐。本籍は新潟県岩船郡村上本町。
岡田 慶治(おかだ けいじ、1910年 - 1948年11月… 岡田 慶治(おかだ けいじ、1910年 - 1948年11月)は大日本帝国陸軍の軍人。階級は陸軍少佐。 広島県福山市出身。陸軍士官学校(43期)を出た後、1931年(昭和6年)に陸軍少尉。太平洋戦争では歩兵第56連隊大隊長としてビルマに侵攻。ジャワ島幹部候補生教育隊の教官、パレンバンの南方軍臨時施設隊、ボルネオの混成旅団の大隊長を歴任。 1946年(昭和21年)3月に復員し、長崎で海産物と塩を扱う合資会社を設立するも、1947年(昭和22年)3月、出頭に応じて巣鴨プリズンに収監。同年8月ジャワのチピナン刑務所に移送。スマラン慰安所事件の犯人として、バタビア臨時軍法会議にて死刑を宣告され、1948年(昭和23年)11月に銃殺刑に処された。
江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4… 江草 隆繁(えぐさ たかしげ、1909年(明治42年)9月4日 - 1944年(昭和19年)6月15日)は、日本の海軍軍人。海兵58期。五二一空陸上爆撃機搭乗員として参加したあ号作戦で戦死した。最終階級は海軍大佐。 1909年(明治42年)9月4日、広島県芦品郡有磨村下有地(現・福山市芦田町)に農家の九右衛門とキタの三男として生まれる。江草家は旧家で代々地主である。江草姓は、同地方の戦国時代の豪族などに見られ、広島と岡山の県境に多く見られる。 1925年(大正14年)、海軍兵学校と陸軍士官学校の両方を合格。江草は海兵に行く気だったが、入校直前の身体検査で結核と誤診されて海兵57期には入校できなかった。
梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25… 梶本 顗(かじもと しずか、1908年(明治41年)6月25日 - 1987年(昭和62年)10月8日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中佐。名は「覬」と表記される場合がある。 1908年(明治41年)6月25日、現在の広島県江田島市鷲部に、父・藤市と母・スギの9人兄弟の末っ子として生まれる。旧制呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)を経て、1925年(大正14年)4月、海軍兵学校に第56期生として入学、1928年(昭和3年)3月卒業。 装甲巡洋艦「八雲」、重巡洋艦「青葉」、航空母艦「赤城」その他に乗組、1930年(昭和5年)中尉に任ぜられる。その後、駆逐艦「菊」砲術長、駆逐艦「朝顔」、防護巡洋艦「対馬」、吹雪型駆逐艦「白雪」への乗組を経て、1934年(昭和9年)、海軍水雷学校高等科に学び、同年大尉に任ぜられる。
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25… 三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12… 小野 寛治郎(おの かんじろう、1906年(明治39年)12月1日 - 1944年(昭和19年)7月8日)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校56期。サイパン島で戦死。最終階級は海軍大佐。旧姓は堂本。 広島県呉市西谷町、堂本永次郎二男。辰川尋常小学校、呉市立工業補習学校卒業後、呉海軍工廠で造船製図見習工として働きながら海軍兵学校を志し、1928年(昭和3年)海軍兵学校(56期)を卒業(卒業席次5番/111人中)。 1929年少尉、1931年中尉任官。1933年「灘風」砲術長。1934年海軍通信学校高等科学生(同年大尉任官)となり、翌年「北上」通信長。以後通信分野を歩む。結婚2年後の1936年、妻の実父小野弥一中将(海兵第33期、予備役)と養子縁組し、小野と改姓した。
源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治… 源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任。大艦巨砲主義だった日本海軍内で、いち早く航空機の有用性を見い出し「零戦」「紫電改」の開発に関与。戦争中は、大本営参謀として真珠湾攻撃を立案・指導。これによりアメリカ太平洋艦隊が機能不全に陥り、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった。以降、ミッドウェー海戦他、海軍の戦闘に参画。また特攻作戦に深く関与し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。戦後1954年(昭和29年)空将補として自衛隊入りし、自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。
溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月… 溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月10日 - 1992年(平成4年)11月3日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大佐、海将。 漢学塾主・溪口廉造の四男として生まれる。兄は溪口豪介大佐(海兵41期)、妻は山下源太郎大将(海兵10期)の娘。広島高師付中を経て、海軍兵学校に進む。海兵(51期)及び海大(甲種33期)をともに恩賜組で卒業した。太平洋戦争中は大使館附武官補佐官としてドイツに駐在。1945年(昭和20年)4月13日、ソ連軍突入直前のベルリンで「出来得る限り多数の独潜水艦を東亜へ回航すべくドイツ側と折衝せよ」という本国訓令を受けた。ドイツ側と折衝したが、結論は「回航するだけの油がない」であった。
榎尾 義男(えのお よしお、1902年9月1日 - 1989… 榎尾 義男(えのお よしお、1902年9月1日 - 1989年)は、日本の海軍軍人。海兵51期。最終階級は海軍大佐。 1902年、広島県双三郡川地村(現三次市)の農家に生まれる。旧制三次中を経る。1920年8月26日海軍兵学校第51期入学、1923年7月14日、海軍兵学校51期を255名中13番で卒業。1933年12月1日、海軍大学校甲種33期に入学、1935年11月卒業。成績は本来恩賜の軍刀に値するものであったが席次を引き下げられている。教官であった高木惣吉は当時の海大首脳の理不尽な指示があったことを指摘している。 1936年12月「有明」駆逐艦長。1937年12月呉鎮守府参謀。1940年1月15日駐仏武官補佐。
扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日… 扇 一登(おうぎ かずと、1901年(明治34年)5月24日 - 2004年(平成16年)1月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は大佐。海兵51期、海大32期。広島県旧世羅郡三川村出身。
永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年… 永井 貞三(ながい さだぞう、1901年3月 - 1944年10月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将[3]。広島県出身。
吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3… 吉川 潔(きっかわ きよし、1900年〈明治33年〉11月3日 - 1943年〈昭和18年〉11月25日)は、日本海軍の軍人。戦死後、二階級特進して海軍少将。広島県広島市段原町出身。海兵50期。 父は漢学者。七男四女のうち、四男。旧制広陵中学(現・広陵高等学校)を卒業後、海軍兵学校を受験するが身長と胸囲不足で不合格。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷作業で体を鍛え上げた。翌1919年(大正8年)兵学校(海兵50期)に合格。兵学校時代は成績も下の方で「寡黙の吉川」といわれるほど目立たなかった。「量も大切だが最後を決するのは質と精神だ」を口癖としていたという。 1922年(大正11年)6月1日、海軍兵学校を卒業し、同日附で少尉候補生。
杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月2… 杉本 五郎(すぎもと ごろう、明治33年(1900年)5月25日 - 昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。
友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11… 友近 美晴(ともちか よしはる、1899年(明治32年)11月16日 - 1980年(昭和55年)3月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 愛媛県出身。呉服卸商・友近彦次郎の三男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第4連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1928年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し野戦重砲兵第4連隊中隊長に就任。
佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月1… 佐々木 丙二(ささき へいじ、1899年(明治32年)3月15日 - 1945年(昭和20年)9月1日)は、日本海軍の軍人。海軍兵学校48期。太平洋戦争末期のミンダナオ島防衛戦において、第32特別根拠地隊ザンボアンガ派遣隊長兼第33警備隊副長として戦死。最終階級は海軍中佐。五・一五事件を契機に予備役に編入され、満州国軍政部に籍を置いた時期もあった。 広島県広島市出身。代々広島藩の上士の家系。広島高等師範学校附属中学校(現:広島大学附属中学校・高等学校)を卒業し、1917年(大正6年)江田島の海軍兵学校(48期)に進んだ。卒業直前に、宮中御内儀として明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に仕えた叔母マチと養子縁組した。
三好 康之(みよし やすゆき、1898年(明治31年)8月1… 三好 康之(みよし やすゆき、1898年(明治31年)8月12日 - 1989年(平成元年)11月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県出身。広島地裁判事・三好康親の息子として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第42連隊付となる。1922年(大正11年)12月、歩兵中尉に昇進。1923年(大正12年)2月から10月まで、陸軍航空学校で操縦学生として学んだ。1923年11月、飛行第3大隊付となる。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵に転科し航空兵中尉に任官し飛行第3連隊付となる。
安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1… 安田 義達(やすだ よしたつ、1898年(明治31年)3月1日 - 1943年(昭和18年)1月2日)は、日本の海軍軍人。大田実と共に海軍を代表する陸戦の権威として知られた人物で、太平洋戦争において戦死後2階級特別進級した海軍中将である。 広島県府中市出身、広島高等師範附属中学を経て1918年(大正7年)海軍兵学校第46期を卒業。席次は124名中66番。同期生の山本親雄は安田の人柄を「剛毅闊達、稚気愛すべき好漢」としている。 砲術学校高等科学生を修了し、「比叡」・「陸奥」の各分隊長を歴任。次いで砲術学校専攻科学生となり、陸軍歩兵学校に派遣された。砲術学校専攻科学生は数年に一人という存在で、この課程を経た陸戦専門家は1942年(昭和17年)で7名のみである。
岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1… 岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 陸軍中野学校(設立時の名称は防諜研究所)の設立他、多くの諜報機関の設立に関わり、「謀略の岩畔」の異名をとった。また日米開戦回避に奔走した他、戦中はインド国民軍(INA)及び自由インド仮政府の樹立に中心的に関わった。戦後は京都産業大学設立者として理事を務めた。 広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。倉橋島は海軍兵学校があった江田島の隣の島である。島育ちながら「なんとはなしに船に乗ることはあまり好きではない」という理由で、陸軍を志願し、広島中学校(現広島県立国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。
清水 盛明(しみず もりあき / もりあきら、1896年〈明… 清水 盛明(しみず もりあき / もりあきら、1896年〈明治29年〉8月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 愛知県出身。久留米で陸軍少佐・清水盛次の長男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)3月、砲兵大尉に昇進し野砲兵第3連隊中隊長に就任。
佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1… 佐々木 半九(ささき はんく、1896年〈明治29年〉1月1日 - 1971年〈昭和46年〉10月6日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争において特殊潜航艇(甲標的)部隊指揮官として真珠湾攻撃、シドニー湾攻撃に参加。のち第六艦隊参謀長として回天作戦に関わる。最終階級は海軍少将。 広島県出身。三次中学を経て海軍兵学校45期卒。席次は89名中31番。同期に有賀幸作、富岡定俊、古村啓蔵らがいる。佐々木は水雷学校及び潜水学校高等科を修了した潜水艦専攻士官で、大尉、少佐時代に4艦で潜水艦長を務めている。中佐時代は潜水学校と水雷学校で教官を務めた後、「神威」、「八雲」、木更津海軍航空隊で副長を務め、第21潜水隊司令に就任。
唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月… 唐川 安夫(からかわ やすお、1895年〈明治28年〉11月19日 - 1977年〈昭和52年〉7月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 福山中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 野砲兵第1連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、イタリア駐在、陸軍兵器本廠付、陸軍重砲兵学校教官、参謀本部員を経て、1938年(昭和13年)6月から翌年3月まで大本営謀略課長を務めた。イタリア大使館付武官、参謀本部欧米課長、参謀本部謀略課長を歴任し、日中戦争に第13軍参謀長として出征。
桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)1… 桑原 支那吉(くわばら しなきち、1895年(明治28年)10月7日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。広島県出身。
田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日… 田村 浩(たむら ひろし、1894年(明治27年)5月23日 - 1962年(昭和37年)12月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・戸倉。 広島県出身。戸倉浩夫の二男として生まれ、左官職・田村直蔵の養子となる。ホノルル小学校、広島高等師範学校附属中学校(現広島大学附属中学校・高等学校)を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第6連隊付となる。1919年(大正8年)11月、陸軍砲工学校高等科(25期)を卒業。1921年(大正10年)4月から翌年3月まで、東京外国語学校英語科で委託学生として学んだ。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第6連隊中隊長に就任。
黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月… 黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 - 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。
小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年〈明治26年〉9月10… 小川 貫爾(おがわ かんじ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1973年〈昭和48年〉1月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。広島県広島市中区出身。 旧制広島県立第一中学校より、海軍兵学校および陸軍士官学校(第27期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第4位、卒業時成績順位は96名中第9位。 元来は武田姓だったが小川家に養子に入り姓が変る。海軍省教育局所属時に柳澤正樹に皇道論についての本を著すよう慫慂し助言や資料を与えた。戦後は宇垣纏中将の日記『戦藻録』改訂版の編纂に携わった事で知られる。
西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1… 西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1945年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1940年の北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。 陸軍憲兵大尉・西原貫洞の三男として生まれる。広島県立広島第一中学校(現、広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校25期卒業。同期には、武藤章等。北部仏印進駐に際し、平和進駐を指示していた中央に反して富永恭次らが強行進駐を実施したのを嘆き、陸海軍次官宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発した。 1945年1月23日に死去。死去にあたり祭資の下賜を受けた。
影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7… 影佐 禎昭(かげさ さだあき、1893年(明治26年)3月7日 - 1948年(昭和23年)9月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県沼隈郡柳津村(後の松永市柳津町、現・福山市柳津町)に生まれる。幼名は亨(陸大学生時代に禎昭に改名)。影佐家は代々、広島浅野藩士の家系。 小学校を卒業後、姉の住んでいた大阪に出て、大阪府立市岡中学校を経て1914年、陸軍士官学校を優等卒業(26期)。1917年、陸軍砲工学校高等科第23期を優等で卒業。1923年、陸軍大学校優等卒業(35期)。大尉時代の1925年4月から1928年3月まで東京帝国大学政治科で学んだ学究肌。その後、参謀本部付として中国と深く関わり、陸軍部内でも中国通として一際目立つ存在となった。
住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10… 住吉 正(すみよし ただし、1893年(明治26年)2月10日 - 1976年(昭和51年)3月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県吉舎町[要出典]出身。陸軍少尉住吉義夫の長男として生まれる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し、同年12月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第11連隊付となる。陸軍砲工学校高等科で学び、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 参謀本部員、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、留守第3師団参謀、気球連隊練習部長などを経て、1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第3連隊長となり日中戦争に出征した。
和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 … 和知 鷹二(わち たかじ、1893年(明治26年)2月1日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。
伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - … 伊藤 良秋(いとう よしあき、1893年(明治26年) - 1972年(昭和47年)7月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。広島県出身。
竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月… 竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月9日 - 1979年(昭和54年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。竹下一清の二男として生まれる。広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。参謀本部付勤務、陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し歩兵第41連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員(兵要地誌班)を経て、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進。
山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)… 山口 儀三郎(やまぐち ぎさぶろう、1889年(明治22年)11月26日 - 1972年(昭和47年)12月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。位階勲等は正四位勲一等。 広島県佐伯郡宮内村(廿日市町を経て現廿日市市)に生まれた。1912年(明治45年)7月、海軍兵学校第40期を卒業し、1913年(大正2年)12月、海軍少尉に任官。その後、海軍水雷学校高等科を卒業し、第一遣外艦隊司令部附兼参謀、「日進」分隊長、海軍水雷学校教官兼分隊長などを歴任。1924年(大正13年)12月、海軍少佐に進級し、海軍大学校甲種第24期学生となる。1926年(大正15年)12月に長門通信長兼分隊長に就任し、1927年(昭和2年)12月、高松宮宣仁親王附武官兼八雲乗組となった。
多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19… 多田 勉吉(ただ べんきち、1889年(明治22年)9月19日 - 1958年(昭和33年)4月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。広島県出身。
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18… 酒井 隆(さかい たかし、1887年(明治20年)10月18日 - 1946年(昭和21年)9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。太平洋戦争勃発時に第23軍司令官として香港を攻略した。のち、このときの虐殺事件で戦犯となり死刑となる。 広島県賀茂郡原村(現・東広島市)出身。神戸一中(現・神戸高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、 中央幼年学校本科を経て 、1908年(明治41年)陸軍士官学校(20期)を卒業し、同年歩兵第38連隊付少尉に任官した。1916年(大正5年)には陸軍大学校(28期)も卒業している。 1924年(大正13年)少佐。1928年3月の済南事件では、済南で日本人280人が虐殺されたとのデマ報道が日本で一時流れたが、これは当時済南で駐在武官となっていた彼が日本軍の大量出兵を目論み、画策したものではないかとの見方がある。
岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)… 岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年(明治20年)9月30日 - 1946年(昭和21年)11月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大将。北支那方面軍司令官、第3方面軍司令官、第6方面軍司令官。 広島県広島市袋町(現中区袋町)に於いて、陸軍書記を務めていた岡部栄次郎の三男として生まれる。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(18期)と進み、陸軍大学校(27期)卒業。陸士同期生には山下奉文、藤江恵輔、阿南惟幾、山脇正隆、安井藤治、小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年(大正7年)にハバロフスク特務機関(砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。
岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月… 岡田 偆一(おかだ しゅんいち、1887年(明治20年)5月10日〈1886年生とも〉- 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階および勲等は従四位・勲三等。 平民出身で初めて宮家(高松宮)付の武官となった人物。 広島県芦品郡駅家町大字服部本郷(現在の福山市)の屋号観音堂の、岡田馳次郎・アサの次男として生まれる。品治高等小学校2年を修了後、広島県第二中学校(後の誠之館)に入学する。1904年(明治37年)、19歳の時に広島県立福山中学校(誠之館)を卒業する。1907年(明治40年)、22歳の時に海軍兵学校を第35期生として卒業する。1909年(明治42年)、24歳の時に海軍大学を第16期生として卒業。
新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月1… 新見 政一(にいみ まさいち、1887年〈明治20年〉2月14日 - 1993年〈平成5年〉4月2日)は、日本の海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中将。 広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもある。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』および『持久戦ニ関スル意見書』を当局に提出した。
国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20… 国崎 登(くにさき のぼる、1886年(明治19年)8月20日 - 1960年(昭和35年)11月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉… 谷本 馬太郎(たにもと うまたろう、1886年〈明治19年〉4月20日 - 1942年〈昭和17年〉11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県福山市出身。旧制広島県立福山誠之館中学校より海軍兵学校第35期入校。海軍兵学校入校時成績順位は183名中第82名、卒業時成績順位は172名中第37位。 第1次上海事変の際に、第3戦隊旗艦の軽巡洋艦「由良」艦長として参戦したが、上官の堀悌吉第3戦隊司令官の命令を忠実に守り、攻撃対象を中国軍関係に対してのみ限定させ中国国民への被害を最小限度に止めた為に作戦終了後、攻撃が手緩いとの批判が相次いだが、谷本は報告書の中で『堀司令官ノ判断処置ニ鑑ミ一点ノ非アラザル事明白ニシテ現地ニ於ケル事当ラザリシ者ガ非難スルハ司令官ヲ陥シ入レントスル意図明白ナリ』と憤懣やるかたなき状況を伝えている。
桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年(明治18年)10… 桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年(明治18年)10月22日 - 1945年(昭和20年)12月6日)は、日本の陸軍軍人。陸士16期恩賜・陸大26期恩賜。最終階級は陸軍中将。 本籍石川県。桑木崇台歩兵大佐の三男として広島で生まれる。広島一中、広島陸軍地方幼年学校(首席)、中央幼年学校(首席。次席は永田鉄山。)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)(全兵科では4番/549名であり、砲兵科首席、恩賜)を卒業。同年11月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)3月から1906年(明治39年)2月まで日露戦争に出征。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校普通科(恩賜)高等科(16期)を卒業。