藤田 富雄(ふじた とみお、1923年11月10日 - 20… 藤田 富雄(ふじた とみお、1923年11月10日 - 2010年2月2日)は、日本の宗教学者、宗教哲学者。立教大学名誉教授。 1923年、山口県光市生まれ。1949年に東京大学文学部宗教学科を卒業し、1954年に東京大学大学院を修了した。立教高校で教諭を務め、1957年に『現代の意識 ヘーゲルを超えるもの』を村山書店から出版した。翌1958年、この作品によって日本宗教学会の姉崎記念賞を受賞した。 1959年から立教大学講師、1961年から助教授、1968年から教授を務めた。1976年から1986年まで立教大学ラテン・アメリカ研究所長を務めた。その後、神奈川大学教授を務めた。日本宗教学会、日本ラテンアメリカ学会、比較思想学会に所属した。
吉田矢 健治(よしだや けんじ、1923年(大正12年)10… 吉田矢 健治(よしだや けんじ、1923年(大正12年)10月25日 - 1998年(平成10年)11月6日)は、昭和期の作曲家。山口県岩国市出身。明治大学卒業。通称:ダヤ先生。 明治大学マンドリン倶楽部を経て、作曲家の利根一郎に師事。1950年(昭和25年) 12月よりテイチクレコード専属となり、村澤良夫歌唱の「見果てぬ夢」で作曲家としてデビュー。翌年に菅原都々子の『広東エレジー』で初ヒットを飛ばす。(尚、此の作品は後にシンガポールの演歌歌手黄清元によってカヴァーされ、現地でも広く知られる様になった。)1953年(昭和28年)からキングレコードに専属し、「あなたと共に」、「夕焼けとんび」、「山の吊橋」など昭和期に多くの曲を作曲した。
上野 英信(うえの えいしん、本名:上野鋭之進、1923年(… 上野 英信(うえの えいしん、本名:上野鋭之進、1923年(大正12年)8月7日 - 1987年(昭和62年)11月21日)記録文学作家。「時間を惜しむな、金を惜しむな、命を惜しむな」という姿勢を貫き、炭鉱労働者の生きざまを描き続けた。 山口県吉敷郡井関村(阿知須町)で、父彦一、母ミチの7人兄弟の長男として生まれる。小学校に上がる年に、父の転職により北九州の黒崎に移る。1940年、旧制八幡中学を卒業して満州国建国大学へ進学する。1943年12月1日、学徒出陣により関東軍山砲兵第二十八連隊第五中隊へ入営。1945年8月6日、見習士官として船舶砲兵教導隊第一中隊付の時、広島市宇品において原爆投下に遭遇、被爆する。
属 正(さっか ただし、1923年7月24日 - 2022年… 属 正(さっか ただし、1923年7月24日 - 2022年9月6日)は、日本の経営者。山口県下関市出身。 1952年に九州大学理学部化学科を卒業し、同年に西部ガスに入社。1979年6月に理事に就任し、福岡支店長、取締役、常務、専務、副社長を経て、1989年6月に社長に就任し、1993年6月には副会長に就任。1998年6月から相談役を務めた。 1993年から2004年までに九州生産性本部会長を務めた。 1990年11月に藍綬褒章を受章し、2001年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2022年9月6日、老衰のため死去。99歳没。
益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6… 益田 勝実(ますだ かつみ、男性、1923年〈大正12年〉6月29日 - 2010年〈平成22年〉2月6日)は、日本の国文学者。古代文学専攻。元・法政大学文学部教授。 山口県下関市で、父繁蔵、母コフジの次男として生まれる。兄1人、姉3人の末っ子であった。 家の学問として漢文を教わるチャンスがあって、小学校の終わりごろから 『十八史略』や『日本外史』を読まされていた。旧制山口県立下関中学校時代には、西洋哲学を専攻したい夢があり3年の時から下関バプテスト教会の末崎富彌牧師にギリシャ語を習い始める。 1941年3月に下関中学校を卒業して、4月から下関市立養治国民学校助教として勤めながら、中等教員検定試験合格を目指す。
鮎川 弥一(あゆかわ やいち、1923年6月1日 - 199… 鮎川 弥一(あゆかわ やいち、1923年6月1日 - 1991年11月30日)は、日本の実業家。テクノベンチャー創業者。 山口県出身。旧制成蹊高等学校、東京帝国大学農学部農芸化学科を卒業。日本冷蔵(現・ニチレイ)に入社後、食品化学研究のためフルブライト留学生として渡米。マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。日本人として戦後初の博士の称号を受ける。 帰国後は、食品会社クノールの元親会社で多国籍総合食品化学会社のCPC(現・Ingredion)に入社し、同社極東代表および同子会社・日本CPC会長に就任。また、父・鮎川義介が設立した中小企業助成会を再編し、1974年にテクノベンチャー株式会社として改称して、代表取締役社長に就任。
岩本 賢太郎(いわもと けんたろう、1923年5月31日 -… 岩本 賢太郎(いわもと けんたろう、1923年5月31日 - 2007年8月21日)は、日本の実業家。日本石油社長を務めた。 山口県下松市出身[要出典]。1951年に東京大学を卒業して、日本石油に入社した。 1977年より取締役勤労部長となり、1982年に常務を経て、1988年に社長に就任。1992年まで務めた。1974年から1976年まで、野球部の部長も経験している。 2007年8月21日、心不全により川崎市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
北田 傀子(きただ かいじ、本名:北田 茂(きただ しげる)… 北田 傀子(きただ かいじ、本名:北田 茂(きただ しげる)、1923年(大正12年)5月7日 - 2019年(令和元年)9月)は、日本の自由律俳句の俳人。自由律俳句結社「草原」主宰、月刊随句誌『草原』を発行する随句社社主。前号は千秋子。 山口県大島郡小松町中田(現・周防大島町小松)に生まれる。 1938年に上京し、淀橋区の薬局で働き始めるとともに、夜間学校に入学する。1940年、自由律俳句結社「層雲」に入門。荻原井泉水に師事する。この時の俳号は千秋子。1944年、応召され、広島船舶通信連隊補充隊に配属される。1945年、台北の野戦病院で終戦を迎える。同年、東芝に入社。以降、1983年に定年退職を迎えるまで、途中タイへの出向をはさみつつ、同社に勤務する。
多田 公煕(ただ こうき、1923年〈大正12年〉3月18日… 多田 公煕(ただ こうき、1923年〈大正12年〉3月18日 - 2019年〈平成31年〉3月13日)は、日本の実業家。元中国電力代表取締役社長、元中国経済連合会会長。位階は従三位。 山口県生まれ。旧制山口中学、旧制山口高等学校を経て、1947年(昭和22年)九州帝国大学法文学部卒業、同年中国配電入社。 1977年(昭和52年)中国電力株式会社取締役総合企画室第一企画室長、1979年(昭和54年)中国電力株式会社常務取締役、1981年(昭和56年)中国電力株式会社取締役副社長、1989年(平成元年)中国電力株式会社代表取締役社長、1995年(平成7年)中国電力株式会社代表取締役会長、同年中国経済連合会会長、2001年(平成13年)中国電力株式会社相談役。
江田 孝(えだ たかし、1923年3月18日 - 1978年… 江田 孝(えだ たかし、1923年3月18日 - 1978年2月11日)は、山口県玖珂郡本郷村出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 1948年から1955年までの登録名は江田 貢一 (えだ こういち)。 旧制伊丹中学校卒業後、1941年に阪急軍へ入団。同年8月2日の名古屋軍戦(西宮)で先発し7回2/3を投げて降板し、江田の2番手で1回1/3を投げた森弘太郎との継投でのノーヒットノーランを記録。 1943年に応召され、1946年にゴールドスターでプロ球界に復帰し、1947年に初の2桁勝利となる11勝を挙げる。篠崎倉庫を経て1948年に大陽ロビンスへ移籍し、1950年にはオーバースローからシュートやシンカー、カーブ、ナックルを武器に23勝を挙げ、2リーグ分立後初のリーグ優勝に大きく貢献。
水津 一朗(すいづ いちろう、1923年1月1日 - 199… 水津 一朗(すいづ いちろう、1923年1月1日 - 1996年4月8日)は、日本の地理学者。人文地理学を専攻。伝統的地理学と計量革命後の計量地理学の止揚を目指し、「位相地理学」を提唱した。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1971年)。京都大学名誉教授。奈良大学元学長。 1923年山口県山口市生まれ。山口県立山口中学校(山口県立山口高等学校の前身)、旧制山口高等学校(現・山口大学)文科甲類卒業、1942年10月に京都帝国大学文学部史学科に進学するも、学徒出陣により兵役に従う。後に復員、復学。1946年9月に同大学を卒業。その後は特別研究生として大学院に進学。 1952年大阪市立大学講師、同大学助教授を経て、1959年に京都大学文学部助教授に就任(1966年から1967年まで、在外研究でヨーロッパに赴き、ドイツ、スウェーデンに滞在)。
粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 19… 粟屋 和彦(あわや かずひこ、1922年9月15日 - 1995年5月11日)は、日本の教育者、医学者。山口大学第7代目学長。医学博士(1956年、京都大学にて取得)。 山口県宇部市出身。1943年、九州帝国大学附属医学専門部卒業。1955年、山口県立医科大学(現:山口大学医学部)解剖学教室にて「核酸と形質細胞反應」(共著)を著す。1956年、京都大学にて「卵アルブミン刺戟に対するリンパ系の反応様式:特にリンパ球造血における二次小節の役割について」で医学博士となる。1965年より山口大学医学部教授、1977年から1981年まで医学部長。1984年同大学第7代目学長に就任(1990年まで)。1990年より宇部短期大学学長。
伊東 泰治(いとう やすはる、1922年4月18日 - 20… 伊東 泰治(いとう やすはる、1922年4月18日 - 2013年4月2日)は、日本のドイツ文学者。名古屋大学名誉教授。 1922年、山口県萩市で生まれた。1940年に山口県立山口中学校を卒業し、東京高等学校文科乙類に進んだ。1942年に卒業。京都帝国大学文学部ドイツ文学専攻に進み、1946年に卒業。 修了後は、三重県立医科大学予科教授に就いた。三重県立大学助教授、金沢大学法文学部助教授を経て、名古屋大学分校助教授に就いた。その後教養部助教授に配置換えとなり、教養部教授昇格。名古屋大学総合言語センター教授に配置換えとなり、同センター長を併任した。名古屋大学在職中、西ドイツ・アレクサンダー・フォン・フンボルト財団給費留学生として渡独し、ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学、フライブルク大学に滞在して在外研究。
山中 鏆(やまなか かん、1922年1月20日 - 1999… 山中 鏆(やまなか かん、1922年1月20日 - 1999年9月26日)は、山口県下関市出身の日本の実業家。伊勢丹専務から、松屋では副社長・社長・会長を歴任、経営危機に陥っていた同社の再建を果たした後、東武百貨店の社長・会長を歴任した。『ミスター百貨店』『百貨店経営の神様』『松屋中興の祖』とも称された。 1922年1月20日、山口県下関市で7人兄弟の長男として生まれる。名前の鏆は『康熙字典』に記載されている中国の漢字で、大倉土木(現・大成建設)で北洋軍閥向けの貿易を担当していた父親が、「鉄をも貫くような強い意志」との意味を込めて命名した。この仕事のため生後1年で満州の奉天に渡り、南満州鉄道附属地で暮らした。
岩田 礼(いわた れい、1921年11月27日 - 2002… 岩田 礼(いわた れい、1921年11月27日 - 2002年)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。 下関市生まれ。本籍・宮崎県。本名・戸島和郎。1943年毎日新聞社西部本社入社。直後に召集を受ける。46年復員し復職。久留米支局長、徳山支局長、学芸課副参事、76年定年退職。毎日文化センターの自分史・文章講座講師。91年第1回北九州市自分史文学大賞受賞。
大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没… 大橋 智干(おおはし ともひさ、1921年6月25日 - 没年不明)は、山口県出身のプロ野球選手。
清川 妙(きよかわ たえ、1921年3月20日 - 2014… 清川 妙(きよかわ たえ、1921年3月20日 - 2014年11月16日)は、昭和時代後期・平成時代日本の小説家、評論家、随筆家。 山口県防府市生まれ。下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)を経て奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)を卒業。教職を経たのち、30代半ばから文筆活動に入る。古典評論、エッセイ、手紙の書き方、映画評論など、多方面にわたる執筆や講演会で活躍した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
飛鳥 高(あすか たかし、1921年2月12日 - )は、日… 飛鳥 高(あすか たかし、1921年2月12日 - )は、日本の小説家、推理作家。
馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術… 馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術者、著作家。工学博士、技術士。 専門分野(化学)の論文、報告書の他、国際政治や国際経済についての著書を多数執筆した。 父親は内務省官僚であり、朝鮮総督府の高官であった。 山口県に生まれる。1931年、小学校4年生の時に父親の退官に伴い、朝鮮半島より内地(愛媛県松山)に戻る。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1946年、慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。慶應義塾大学大学院工学研究科在学兼東京大学第一工学部付属試験所嘱託。1949年、通商産業省に技官として入省。1961年、通商産業省(課長)を退任後、創立間もないニューヨーク工科大学教授に就任。
松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月1… 松村 昶子(まつむら しょうこ、1920年(大正9年)7月10日 - 1945年(昭和20年))は、昭和時代の競泳選手。 山口県吉敷郡大歳村矢原高畑(現山口市矢原町高畑)の医師松村章の二女として生まれる。1927年(昭和2年)大歳小学校に入学し、椹野川の八光面(石津橋の下)で泳ぎを覚えた。 山口高等女学校在学中、100m自由形で1936年ベルリンオリンピック競泳日本代表に選出されたが、本大会では出場しなかった。
高村 武人(たかむら たけと、1920年(大正9年)4月12… 高村 武人(たかむら たけと、1920年(大正9年)4月12日 - 1998年(平成10年)10月18日)は、日本の陸軍軍人、実業家。山口県柳井市生まれ。 小林よしのりの「新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」(1998年初版)でその生い立ち、戦歴が紹介された。 1935年(昭和10年)4月1日、 東京陸軍幼年学校 第39期生として入学。第3学年在学中の1937年(昭和12年)、日中戦争(支那事変)が勃発し、繰上げで11月19日に卒業。同年12月1日に陸軍予科士官学校へ入学した。1940年(昭和40年)9月、陸軍士官学校 第54期卒業。 陸士卒業と同時に久留米第56師団(竜兵団)に所属し南方パラオに動員後、各地を転戦。
柳井 等(やない ひとし、1919年(大正8年)7月28日 … 柳井 等(やない ひとし、1919年(大正8年)7月28日 - 1999年(平成11年)2月6日)は、日本の実業家。ファーストリテイリングの前身・小郡商事の創業者。小郡商事会長。通産大臣を務めた政治家田中龍夫の後援会長。ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長柳井正の父。 山口県吉敷郡陶村(現山口市陶)出身の父・柳井周吉は牛馬商を営んでいた。等は11人兄弟姉妹の8男である。生家は貧しかった。高等小学校を卒業すると進学をあきらめ、京都で飲食業をやっていた兄を頼って、洋服屋の丁稚奉公をはじめた。 徴兵されて中国で8年ほど過ごしたあと、小郡に帰った。暫くは兄(長男)の家で過ごす。4番目の兄・政雄から小郡商事の繊維・洋服部門を任された。
矢野 純一(やの じゅんいち、1919年1月23日 - 20… 矢野 純一(やの じゅんいち、1919年1月23日 - 2002年12月22日)はプロ野球選手(野手)、元横浜大洋ホエールズ取締役球団代表。山口県出身。
小林 吉雄(こばやし よしお、1919年 - 1997年3月… 小林 吉雄(こばやし よしお、1919年 - 1997年3月29日)は、山口県出身のプロ野球選手。晩年は佐々木姓を名乗った。 当初は親の意向や教員への憧れから、山口師範学校に通っていた。しかし同校には野球部がなく、また1933年の選抜に御園生崇男を擁する山口中学が出場したことに刺激を受け、山口師範学校附属高等小学校の卒業後、山口中学校に編入した。 1939年に大阪タイガースへ入団。同年にホームスチールを決めているが、プロ通算で得点は1のため、得点に占めるホームスチール率10割という珍記録を残している。 1941年に応召のため退団した。 戦後は宇部興産に入社。その際の縁で佐々木家の養子となり、同家が経営する佐々木モーターズの社長に就任した。
平山 菊二 (ひらやま きくじ、1918年9月23日 - 1… 平山 菊二 (ひらやま きくじ、1918年9月23日 - 1998年5月28日)は、日本のプロ野球選手(左翼手)。
西川 一三(にしかわ かずみ、1918年9月17日 - 20… 西川 一三(にしかわ かずみ、1918年9月17日 - 2008年2月7日)は、日本の情報部員。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。 山口中学校、山口高等学校を経て、1940年4月に東京帝国大学工学部航空学科(原動機專修)入学、1942年9月繰り上げ卒業。同年中島飛行機(富士重工業「スバル」の前身の一つ)に入社、航空エンジン開発部門のエンジニアを務め、同時に帝国陸軍の航技中尉(技術中尉)として陸軍航空技術研究所や陸軍航空審査部に属し、超大型重爆撃機「富嶽」や ジェット戦闘襲撃機キ201「火龍」などの開発に携わる。 敗戦後、1950年オート三輪メーカーの日本内燃機製造(後の東急くろがね工業、現・日産工機)に転職。
中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 199… 中村 良夫(なかむら よしお、1918年9月8日 - 1994年12月3日)は、本田技研工業(ホンダ)のエンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督。山口県下関市入江町出身。
久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944… 久保 克彦(くぼ かつひこ、1918年9月5日 - 1944年7月18日)は、日本の画家。東京美術学校工芸科図案部(現・東京芸術大学デザイン科)を首席で卒業した後、太平洋戦争の中国戦線に出征し、戦死した戦没画学生。東京美術学校卒業生の戦没者はわかっているだけで167名おり、久保はそのうちの1人である。卒業後直ちに応召した後、ほどなく戦死しているので目立った作品が多いわけではないが、1971年 (昭和46年) に東京芸術大学芸術資料館に展示された「図案対象」は、戦没画学生の作品発掘のきっかけの1つになった。 久保克彦は、1918年(大正7年)に山口県熊毛郡佐賀村佐合島(現平生町)の醤油醸造業を営む家で女4人男2人の6人兄弟の末っ子として生まれた。
藤本 英雄(ふじもと ひでお、1918年5月18日 - 19… 藤本 英雄(ふじもと ひでお、1918年5月18日 - 1997年4月26日)は、山口県下関市彦島(朝鮮・釜山生まれ)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 … 林 忠彦(はやし ただひこ、1918年〈大正7年〉3月5日 - 1990年〈平成2年〉12月18日)は、日本の写真家である。 山口県生まれ。木村伊兵衛、土門拳、渡辺義雄などと並ぶ昭和を代表する写真家の一人である。太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の風俗や文士、風景など多岐にわたる写真を撮影した。 特に文士を撮影したものは有名で、銀座のバー「ルパン」で知り合った織田作之助・太宰治・坂口安吾の酒場での姿や、坂口安吾の紙屑に囲まれた仕事場の風景は、林忠彦の名を世に知らしめた。 太宰治の写真を撮った時のことについて、林は以下のように回顧している。ルパンは銀座の文春画廊の裏横丁にあって、仕事の連絡場所として林が使っていたバーだった。
伊藤 拾郎(いとう じゅうろう、1918年〈大正7年〉2月1… 伊藤 拾郎(いとう じゅうろう、1918年〈大正7年〉2月13日 - 2003年〈平成15年〉3月19日)は、日本のハーモニカ演奏者。 兄は詩人の中原中也であり、中也の兄弟で最後の存命者であった。日本ハーモニカ芸術協会理事を務めた。 名前が中也、亜郎(亜は2番目の意)、恰三、思郎(四)、呉郎(五)ときて急に飛んで拾郎(十)になったのは長年謎に包まれている。最近の研究では恐らく親は十という数字が好きなのだろうと考えられている。 山口県山口市において、中原医院を営む父・中原謙助、母・フクの六男として生まれる。出生名は中原拾郎。6人兄弟の末弟であり、長兄の中也は11歳年上であった。拾郎が5歳の頃に中也は郷里を離れており、末弟の拾郎にとっては時折山口に帰省してくる「兄様」であった。
木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 19… 木暮 実千代(こぐれ みちよ、1918年1月31日 - 1990年6月13日)は、日本の女優。身長159cm。本名:和田 つま(わだ つま)。 父が税関で山口県下関市彦島福浦町で生まれた。英文学者・随筆家の黒川鍾信は甥。梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。日本大学芸術学部在学中に田中絹代に見出されて、1938年に松竹に入社。松竹入社当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが1年余りで準幹部から幹部に昇進。 日本人離れしたルックスとスタイルに加え、悩殺的でコケティッシュな色気もあり、純情可憐型が主流の松竹では恋敵役が多かった。 1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚。マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満洲に渡った。
玉野井 芳郎(たまのい よしろう、1918年1月23日 - … 玉野井 芳郎(たまのい よしろう、1918年1月23日 - 1985年10月18日)は、日本の経済学者。経済学博士(東北大学・1960年)。東京大学名誉教授。正四位、勲三等旭日中綬章。 弟に発生学の専門家、千葉大学名誉教授の玉野井逸朗がいる。 経済学者大河内一男の弟子の一人。 専攻は経済理論、経済学史。後期にはエコロジーや反近代主義に関心を移し、カール・ポランニーやイヴァン・イリイチを日本に紹介した。 著作集全4巻がある。 1984年、小出昭一郎、槌田敦、河宮信郎、室田武、藤田祐幸らとエントロピー学会を設立している。エントロピー読本に村上陽一郎、武谷三男、鶴見和子、廣松渉、伏見康治、宇井純、野坂昭如らの著名人が執筆しているのは玉野井芳郎の影響力が貢献している。
中部 新次郎(なかべ しんじろう、1917年10月9日 - … 中部 新次郎(なかべ しんじろう、1917年10月9日 - 没年不明)は、プロ野球チーム・横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の元オーナー。 山口県下関市出身。早稲田大学専門部商科を経て、1942年に水産講習所を卒業後、大洋漁業の前身である林兼商店に入社。大洋漁業下関支社営業部長、営業本部長などを歴任し、1973年から副社長を務めた。中部謙吉の死去に伴い、1977年から横浜大洋ホエールズのオーナーに就任した。 1987年に古葉竹識が監督に就任し、その披露パーティーでたけし軍団に因んで、「竹識軍団となってばく進せよ!」とスピーチした。 1990年のシーズンをもって、オーナーを退任。 同社の軟式野球部で投手、遊撃手としてプレーしたことがある。
松原 治(まつばら おさむ、1917年〈大正6年〉10月7日… 松原 治(まつばら おさむ、1917年〈大正6年〉10月7日 - 2012年〈平成24年〉1月3日)は、日本の実業家。紀伊國屋書店名誉会長などを務めた。 山口県佐波郡徳地町(現在の山口市)に軍人の息子として生まれる。のちに父は電柱の銘板を取り扱う会社を経営していた。 大阪市築港南尋常高等小学校を卒業した1930年(昭和5年)、大阪府立市岡中学校(旧制)に入学。旧制浪速高等学校を経て東京帝国大学法学部に進む。同期に中曾根康弘がいた。 卒業後は南満洲鉄道に入社するも召集を受け、陸軍経理学校を首席卒業。中国各地を転戦し、陸軍主計中尉として太平洋戦争の敗戦を迎える。 復員後、1946年、大日本塩業株式会社に取締役業務部長として入社。
河村 憐次(かわむら れんじ、1917年(大正6年)6月14… 河村 憐次(かわむら れんじ、1917年(大正6年)6月14日 - 2014年(平成26年)2月15日)は、日本の政治家。山口県下松市長(4期)、山口県議会議員(5期)、下松市議会議員。位階は従四位。山口県下松市出身。慶應義塾大学法学部卒業。
藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 19… 藤原 亮子(ふじわら りょうこ、1917年3月1日 - 1974年1月27日)は昭和期の歌手。 山口県萩市出身。東洋音楽学校本科声楽科卒業。 1937年(昭和12年)、「泣いて居る」でビクターレコードからデビュー。 柴田睦陸との「朝だ元気で」、小畑実との「勘太郎月夜唄」、「婦系図の歌(湯島の白梅)」、「小太刀を使う女」、竹山逸郎との「誰か夢なき」、「月よりの使者」など、男性歌手とのデュエットでヒットを飛ばす。 生涯独身で、晩年は横浜で暮らした。 昭和40年代の懐メロブームの際に再登場し、テレビ番組などで自身のヒット曲を披露していた。その際は、ソロで披露することが多く、特に不仲だったとされる竹山逸郎とは、決してデュエットしなかった。
嘉屋 實(かや みのる、1917年1月1日 - 2002年1… 嘉屋 實(かや みのる、1917年1月1日 - 2002年12月3日)は、日本の経営者。 山口県岩国市出身。広島高等学校を経て1939年に東京帝国大学経済学部商業学科を卒業し、同年、日本鉱業に入社した。短期現役海軍主計科士官(3期)を志願。同年10月、海軍経理学校に入学し海軍主計中尉に任官。1940年3月に経理学校を卒業。1941年10月、主計大尉、1944年11月、海軍主計少佐に進み終戦を迎えた。 1965年8月に共同石油に転じ、取締役に就任し、常務、専務を経て、1978年6月に副社長に就任し、1983年6月には社長に昇格した。1985年11月に会長に就任し、1990年6月から相談役を務めた。
鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1… 鶴田 六郎(つるた ろくろう、1916年11月10日 - 1997年3月30日)は、日本の歌手。山口県大島出身。 沈没した戦艦陸奥の記念館や、作詞家星野哲郎の出身地で有名な山口県大島出身。岩国中学卒業後、日本大学芸術科に進み、同時に声楽を勉強するために東洋音楽学校にも籍を置く。東洋音楽学校在籍時に、渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」などのヒット曲でも知られる細田義勝に見初められ、1938年(昭和13年)5月ビクターより「晴れの土俵」でデビュー。8月「カタカナ忠義」発売。この「カタカナ忠義」は国内よりアメリカ在住の日系人たちの間で評判を取り、米国でヒットする。 その後、細田がテイチクに移籍したのに行を共にする。
秋枝 三郎(あきえだ さぶろう、1916年(大正5年)9月1… 秋枝 三郎(あきえだ さぶろう、1916年(大正5年)9月15日 - 1942年(昭和17年)5月31日)は、日本の海軍軍人。特殊潜航艇「甲標的」搭乗員としてマダガスカル攻撃作戦に参加し、戦死。二階級特進により最終階級は海軍中佐。 山口県豊北町阿川土井出身。9人兄弟姉妹の三男である。妻は海軍大佐・小早川隆次の娘、文子。山口中学を経て、海軍兵学校を卒業。秋枝は海兵66期で、同期生に特殊潜航艇(以下「特潜」)艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、中馬兼四らがいる。1939年(昭和14年)6月、海軍少尉任官。戦艦「霧島」、駆逐艦「江風」乗組みを経て、1940年(昭和15年)11月、水上機母艦「千代田」 乗組みとなる。
阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 … 阿部 善次(あべ ぜんじ、1916年(大正5年)8月18日 - 2007年(平成19年)4月6日)は、日本の海軍軍人。海兵64期。最終階級は、海軍では海軍少佐、空自では一等空佐。ペンネームは阿部善朗(あべ ぜんろう)。 1916年(大正5年)8月18日、山口県に生まれる。1933年(昭和8年)3月、山口中学校を卒業し、海軍兵学校に第64期生として入校。1937年(昭和12年)3月23日、海軍兵学校(64期)を卒業し、任海軍少尉候補生。1937年(昭和12年)11月、熊野に乗組。1938年(昭和13年)3月10日、海軍少尉に任官。同年3月28日、卯月に乗組。同年7月28日、第31期飛行学生を拝命。
熊野 紀一(くまの のりかず、1916年2月11日 - 20… 熊野 紀一(くまの のりかず、1916年2月11日 - 2006年3月19日)は、日本の経営者。山口県山口市出身。 1939年に早稲田大学文学部を卒業し、1945年に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)に入社。1970年11月から1985年6月までに宝塚音楽学校校長と1982年6月から1997年6月までに逸翁美術館館長を務めた。 2006年3月19日大腸がんのために死去。90歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1… 御園生 崇男(みそのお たかお、1916年1月16日 - 1965年7月10日)は、山口県防府市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 日本プロ野球史上2人目のシーズン無敗を達成した。 1916年1月16日に山口県防府市で生まれる。山口県立山口中学校在学時は1933年の第10回選抜中等学校野球大会に出場経験を持つ。進学先の関西大学体育会野球部では新人戦で完封勝利を記録するなど話題の投手となり1936年2月1日に設立されたばかりの大阪タイガースから誘われると僅か1年で大学を中退し、入団した。 入団当初から主戦投手として活躍し、同年5月27日の対阪急軍戦で初勝利を挙げると、1937年秋季には15試合に登板して11勝無敗、勝率1.000の大活躍でタイガースの初優勝に貢献した。
河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - … 河村 喜典(かわむら よしぶみ、1915年12月27日 - 2010年5月25日)は、日本の経営者。三共株式会社(現第一三共)代表取締役社長・会長。 1915年12月27日山口県生まれ。豊浦中学校、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 サラリーマン社長ながら1975年から25年間の長期にわたって三共株式会社社長を務め、抗炎症剤ロキソニンや高脂血症治療剤メバロチンなどを大型製品に育てた。1997年、勲二等旭日重光章受章。2000年に代表取締役会長に就任するが、同年、取締役である息子の不祥事によって会長を退任する。2011年5月25日死去、95歳。
桜井 光堂(さくらい こうどう、1915年11月23日 - … 桜井 光堂(さくらい こうどう、1915年11月23日 - 没年不明)は、日本の国際法学者、駒澤大学名誉教授。 山口県宇部市生まれ。旧制松江高等学校を経て1941年東京帝国大学文学部国文科卒、同大学院に進む。1942年同法学部政治学科に入学し1944年卒業、1946年東北大学法学博士。 1953年九州大学助手、1955年北九州大学商学部助教授、1958年麗澤短期大学助教授、1961年国士舘大学政経学部助教授、1964年教授、1966年駒澤大学法学部教授、1992年定年退職。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
13代坂田 泥華(13だい さかた でいか、1915年11月… 13代坂田 泥華(13だい さかた でいか、1915年11月10日 - 2010年2月24日)は山口県長門市深川にて代々継承されている萩焼の伝統名跡名家陶芸家の名。本名を一平。山口県長門市出身。萩商卒。12代坂田泥華(本名:浩三)の長男。 坂田家は萩焼の始祖である李勺光(りしゃくこう)の流れをくむ家柄で、深川萩四家の一つ。(深川萩四家とは現在、坂田泥華窯の他、坂倉新兵衛窯、田原陶兵衛窯、新庄助右衛門窯の四窯元がある)1950年(昭和25年)萩焼深川(ふかわ)窯の当主13代泥華を名のる(窯は長門市深川にある)。戦後の昭和萩陶芸史を語る上で、萩焼を担う中心人物の一人で特に井戸茶碗に研鑽を積み、「泥華井戸」と称されるおおらかで伸びのある独自の優雅な作風を確立。
佐々木 英治 (ささき えいじ, 1915年(大正4年)8月… 佐々木 英治 (ささき えいじ, 1915年(大正4年)8月23日 - 2007年12月15日) は、日本の実業家。元宇部興産(現・UBE)代表取締役副社長、元テレビ山口社長。 山口県山口市生まれ。山口県立山口高等学校を経て京都帝国大学経済学部卒業。 1940年、沖ノ山炭鉱入社。1944年に宇部炭鉱が宇部興産と合併。1969年にテレビ山口株式会社取締役と宇部興産株式会社常務取締役を兼務。1983年宇部興産代表取締役副社長、1984年テレビ山口代表取締役社長に就任。宇部興産飲料と宇部ゴルフ観光の社長を歴任。山口テレメッセージ株式会社相談役も勤めた。
平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 20… 平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 2000年3月5日)は、日本の天然物化学者。名古屋大学名誉教授。 1915年、山口県山口市生まれ。山口高等学校理科甲類を卒業し、1938年に東京帝国大学理学部化学科に入学。1941年に卒業した。卒業研究および同大学大学院においては、有機化学の久保田勉之助教授(ポール・サバティエ門下)の下で黄変米の有毒成分を研究した。 1943年より、母校である東京帝国大学助手になる。1944年1月、名古屋帝国大学に理学部講師として着任し、6月には助教授に就任。太平洋戦争中の戦時下では、研究室疎開先の長野県上田市で江上不二夫の指導の下、乏しい物資の中で研究に当たった。
川崎 桃太(かわさき ももた、1915年(大正4年)3月3日… 川崎 桃太(かわさき ももた、1915年(大正4年)3月3日 - 2019年(令和元年)9月30日)は、日本の言語学者、歴史学者。京都外国語大学名誉教授。 山口県大津郡俵山村(現・長門市俵山)出身。1930年(昭和5年)にブラジルに渡り、リオ・デ・ジャネイロ州ノーヴァフリブルゴ市アンシェータ大学哲学科卒業、サン・レオポルド市クリスト・レイ大学大学院修了。1955年(昭和30年)に帰国後、カトリック河原町教会で司祭を務める。京都外国語大学ブラジルポルトガル語学科助手を経て、1975年(昭和50年)より教授。1992年(平成4年)に名誉教授となる。 2019年(令和元年)9月30日、食道癌のため死去、享年104歳。