島村 亀鶴(しまむら きかく、1900年12月25日 - 1… 島村 亀鶴(しまむら きかく、1900年12月25日 - 1993年4月27日)は日本の牧師である。俳人でもあり哉哉(さいさい)と称した。 高知県安芸郡室戸村室津(現室戸市)で捕鯨業の家に生まれる。1930年に明治学院大学神学部を卒業し、前橋で開拓伝道をする。そして、10年間群馬教会牧師として仕える。 1939年富士見町教会の牧師に就任する。第3代目主任牧師三吉務の元で奉仕を続ける。1948年3月に三吉が主任牧師を辞任すると、1950年より富士見町教会第4代目主任牧師に就任する。1963年に日本基督伝道会の会長に就任する。1969年以降は俳誌『九十九里』の選者になる。 1979年に牧師を引退し、名誉牧師になる。
下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)… 下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日 - 1980年(昭和55年)3月18日)は、日本の声楽家(バス、バリトン)、音楽教育者。藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学、昭和音楽大学短期大学部)の創立者。 高知県高岡郡佐川町出身。 1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業。矢田部勁吉、ベレッティに師事。 1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している。
田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月… 田上 束稲(たがみ つかね、1900年 <明治33年> 3月11日 - 1972年 <昭和47年> 7月11日)は、日本の経営者。日魯漁業 (現・Umios) 社長を務めた。 高知県長岡郡本山町出身。1923年に小樽高等商業学校を卒業。共同水産販売所での勤務を経て、日魯漁業に転じ、1947年4月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1960年4月に副社長に就任し、1964年1月には社長に昇格。1968年1月には会長に就任。 1971年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1972年7月11日、肺ガンのために死去。72歳没。
大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28… 大石 保(おおいし たもつ、1900年(明治33年)1月28日 - 1946年(昭和21年)2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1900年1月28日、高知県で大石寛の長男として生れる。中学海南学校(同級生に横山一郎が首席でいた)を経て、1920年7月、海軍兵学校(48期)を卒業。1921年6月、海軍少尉任官。1923年12月、海軍中尉に昇進し、砲術学校普通科学生を拝命。1925年12月、海軍大尉に昇進し、海軍大学校航海科に入学。1926年12月、「浦風」航海長に就任。1928年12月、練習艦隊参謀に就任。1929年12月、「迅鯨」航海長に就任。1930年4月、「対馬」航海長に就任。
塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月1… 塩見 俊雄(しおみ としお、1899年(明治32年)11月18日 - 1988年(昭和63年)2月27日)は、日本の地方政治家。土佐市長。位階は正六位。 塩見熊吉の長男として高知県高岡郡戸波村(現・土佐市)に生まれる。農業のかたわら青年団に入り戸波青年団会長、高岡青年団会長(5ケ町村連合)などを歴任。1922年(大正11年)戸波村産業組合の職員に採用され、翌年には専務理事に抜擢される。1926年(大正15年)には高知県産業組合中央高知市会の職員となる。 その後高知県農業会高岡支部経理課長、農業会金融課長(昭和20年)となるが、翼賛壮年団長をしていたため、GHQによる公職追放を受ける。サンフランシスコ講和条約の締結により、日本が主権を回復したことに伴い、1953年(昭和28年)追放解除。
右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 199… 右城 暮石(うしろ ぼせき、1899年7月16日 - 1995年8月9日)は、日本の俳人。高知県出身。 長岡郡本山町字古田小字暮石(くれいし)に生まれる。本名は齊(いつき)で、俳号の暮石は出身地の小字の名に因む。 木能津尋常小学校から本山高等小学校に入り、1913年、中退し土佐電鉄に入社。1918年、社会運動家の岡本利吉の世話で、大阪電灯に入社。1920年、大阪朝日新聞社の俳句大会で松瀬青々を知り、青々の主宰誌「倦鳥」(けんちょう)に入会。1935年頃には古屋秀雄、細見綾子とともに「倦鳥」の若手三羽烏と呼ばれた。1938年大阪から奈良県に移住、晩年郷里へ戻るまで、奈良に住み、奈良を愛した。1946年「風」「青垣」同人。
晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 … 晴ノ海 弥太郎(はれのうみ やたろう、1898年12月6日 - 1970年12月23日)は、現在の高知県土佐市出身で友綱部屋に所属した元大相撲力士。本名は中西 弥太郎(なかにし やたろう)。176cm、86kg。最高位は東前頭12枚目。得意技は突っ張り、右四つ、下手投げ。 祖父や父の影響を受けて子供の時から土地相撲で活躍した。1915年5月場所で初土俵を踏む。順調に番付を上げていき、1923年1月場所で十両昇進。7代友綱の部屋継承以降新しい力士が中々育たなかった友綱部屋からの待望の関取であった。十両昇進後は苦戦していたが、1928年5月場所に新入幕を果たした。しかし、幕内は2場所しか務められず、現役晩年は十両で相撲を取り続けた。
片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11… 片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。 ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。
寺尾 豊(てらお ゆたか、1898年(明治31年)1月23日… 寺尾 豊(てらお ゆたか、1898年(明治31年)1月23日 – 1972年(昭和47年)11月27日)は、昭和期の政治家、実業家。位階は正三位。 郵政大臣(第13代)、参議院副議長(第5-6代)、衆議院議員(1期)、参議院議員(5期)。財団法人板垣会第13代会長。板垣退助先生顕彰会初代会長。 眼科医・白石純成の三男として、高知県高岡郡須崎町(現須崎市)に生まれる。後に寺尾英吉の養子となる。私立高知工業学校を卒業後、職工を経て上京する。 1929年(昭和4年)3月、立正大学高等師範部を卒業。1934年(昭和9年)に関東正機を設立し代表取締役に就任。戦時中は、同じ高知県出身の軍人・永野修身の仲介により、日本海軍に魚雷用のジャイロスコープを納入。
岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1… 岡村 徳長(おかむら とくなが、1897年1月10日 - 1972年7月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中佐。戦後は日本共産党員として活動した。弟は名戦闘機搭乗員で鹿屋基地司令・岡村基春大佐(海軍兵学校50期)。末妹の清子は艦爆の神様江草隆繁大佐の妻。 1897年(明治30年)に高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生まれる。海軍兵学校45期。岡村は天衣無縫の好漢でその奇行で海軍内でも有名だった。航空機開発に情熱を燃やし大西瀧治郎中将に心酔していた。 横須賀航空隊教官時代、計器飛行の実験中に、主翼が海に接触し危うく一命を落としかけた。1928年(昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。
東 平作(ひがし へいさく、1896年9月2日 - 1966… 東 平作(ひがし へいさく、1896年9月2日 - 1966年6月22日)は、日本の陸軍軍人。陸士31期。最終階級は大佐。 1896年(明治29年)9月、高知県幡多郡東山村古津賀(現在の四万十市)にて東仁太郎の次男として生まれた。県立第三中学を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官。 広島師団司令部付、北京公使館付武官などを歴任。支那事変では、1938年(昭和13年)5月の徐州戦の大運河作戦、同10月の仏山市占領に参加。1939年(昭和14年)11月南寧の上陸作戦などを歴戦、絶妙の戦略を示し武功をたてる。以後、仏印、シンガポール、ジャワ島、ガダルカナル島を歴戦。
桃井 直美(ももい なおみ、1896年(明治29年)7月10… 桃井 直美(ももい なおみ、1896年(明治29年)7月10日 - 1966年(昭和41年)1月9日)は日本の政治家、内務官僚。官選岐阜県知事、公選高知県知事。旧姓・公文。 高知県長岡郡国比左村比江36番屋敷で、県会議員・公文伊三郎、亀寿の三男として生まれた。粟島航海学校に進み海軍兵学校を目指したが、近視のため断念。同海員学校長の桃井百太郎(?〜1945年11月14日)の養子となる。 その後、京都府第二中学校に編入し、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し福島県属・内務部勤務となる。 その後、福島県警部、岩手県・富山県・三重県各勤務、佐賀県書記官・経済部長、山梨県書記官・警察部長、和歌山県書記官・警察部長、鹿児島県書記官・警察部長、神奈川県書記官・学務部長、愛媛県書記官・総務部長、埼玉県部長・内政部長などを歴任。
土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日… 土居 明夫(どい あきお、1896年(明治29年)6月30日 - 1976年(昭和51年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧土佐郷士、警察署長・土居正明の二男として生まれる。海南中学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)9月から翌年11月まで、シベリア出兵に出征。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業し騎兵第11連隊中隊長に就任。 1928年(昭和3年)12月、陸軍騎兵学校教官に就任し、参謀本部付を経て、1932年(昭和7年)1月から1934年(昭和9年)9月までポーランド・ソ連に駐在した。
黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月… 黒岩 重治(くろいわ しげはる、1896年(明治29年)6月10日 - 1986年(昭和61年)4月24日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 高知県香美郡東川村別役(香我美町を経て現香南市)で、黒岩兼太郎、加根の二男として生れた。1916年(大正5年)高知師範学校男子本科を卒業した。 安芸郡安田、香美郡岡ノ内、富家、片地、高知市第五の各尋常小学校訓導、川内、神谷、美良布の各尋常小学校長兼同高等小学校長、城山尋常小学校兼実業青年学校長、高知県視学、高知市立第二国民学校長、城北国民学校長などを歴任し、1947年(昭和22年)に退職した。 高知県教員組合連合委員長を務め、同組織の推薦を受けて、1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に高知県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 … 吉田 源十郎(よしだ げんじゅうろう、1896年3月20日 - 1958年4月4日)は、高知県出身の日本の漆芸家。 1896年(明治29年)3月20日、高知県安芸町(現安芸市)に生まれる。石井吉次郎(別名、石井士口)に師事し漆芸を学んだ。1919年(大正8年)東京美術学校(現東京芸術大学)漆工科選科修了。 1921年(大正10年)東京の上野で開催された平和博覧会に作品を出品、これが注目を集めた。 以後、1928年(昭和3年)、第9回帝展(現日展)で「麦の棚」が初入選、1930年(昭和5年)第11回展「泉の衝立」および1933年(昭和8年)第14回展「トマトの図棚」が特選受賞、1937年(昭和12年)第1回文展(現日展)および1942年(昭和17年)第5回、1943年(昭和18年)第6回で文展審査員を務め、昭和17年度第6回文展出品作品である「梅蒔絵飾棚」は第2回帝国芸術院賞(現日本芸術院賞)を受賞している。
有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治2… 有沢 広巳(ありさわ ひろみ、有澤 廣巳、1896年(明治29年)2月16日 - 1988年(昭和63年)3月7日)は、日本の統計学者、経済学者。位階は正三位。 法政大学元総長。東京大学名誉教授、法政大学名誉教授。統計学が専門分野で、実証に徹した。 高知県出身。高知中学を経て、第二高等学校卒業。東京帝国大学では法学部から独立したばかりの経済学部の第一期生として統計学を糸井靖之の演習にて学ぶ。また河合栄治郎の講義を熱心に聴いた。大内兵衛に師事し、マルクス経済学を学ぶ。1922年(大正11年)に同大学を卒業後、助手を経て1924年(大正13年)に同大経済学部統計学講座の助教授となる。同年、同大講師の猪間驥一を大学から追放した。
政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明… 政岡 壹實(新字体:壱実。まさおか かつたね、1896年〈明治29年〉1月19日 - 1973年〈昭和48年〉7月9日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道範士七段。居合の流派は無双直伝英信流。 高知県吾川郡小川村(現・いの町小川柳野)で生まれる。高知県立第一中学校に入学し、吾川郡の中学生用の寄宿舎で生活しながら、剣道を川崎善三郎に学ぶ。寄宿舎の先輩で高知県立第二中学校5年生の森繁樹から、第二中学校で大江正路という剣道教師が希望者に居合(無双直伝英信流)を教えていると聞いた政岡は、居合を習ってみたいと思うようになる。その翌年、第二中学校は第一中学校に合併され、大江は第一中学校に赴任した。
小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月1… 小川 莚喜(おがわ のぶき、1895年(明治28年)11月12日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 1895年(明治28年)、高知県高岡郡高石村用石(現土佐市)で生まれた。1915年(大正4年)高知県立第一中学校(現:高知県立高知追手前高等学校)を卒業後、1918年(大正7年)11月、海軍兵学校(46期)を卒業。 海軍水雷学校高等科を経て、駆逐艦「灘風」、重巡洋艦「高雄」「五十鈴」「衣笠」、戦艦「霧島」などの水雷長兼務分隊長、駆逐艦「水無月」「夕霧」「白雪」「白雲」などの艦長、巡洋艦「天龍」「筑摩」の副長、第5駆逐隊司令などを歴任。 太平洋戦争開戦当時は、第12駆逐隊司令としてマレー上陸作戦、ジャワ島上陸作戦、ジャカルタ沖海戦などに参加。
渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 198… 渋谷 清見(しぶや きよみ、1895年9月27日 - 1985年2月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 高知県出身。渋谷周・茂兎夫妻の息子として生れる。海南中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第29期)を受験し、双方に合格している。1917年(大正6年)11月、海軍兵学校(45期)を卒業。1918年(大正7年)8月、海軍少尉任官。海軍大学校で航海学生として学ぶ。 1923年(大正12年)12月、「澤風」航海長となり、「沖風」航海長、「第17号駆逐艦」艤装員、「大泊」「安宅」「鶴見」「迅鯨」「川内」の各航海長を歴任し、1929年(昭和4年)11月、海軍少佐に昇進。 1931年(昭和6年)12月、「由良」航海長に転じ、「青葉」「磐手」の各航海長、横須賀鎮守府付、海軍航海学校教官などを務める。
山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月2… 山本 健児(やまもと けんじ、1895年(明治28年)9月20日 - 1975年(昭和50年)4月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知市西町出身。山本雄秀・駒の二男として生れる。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという。県立中学海南学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる。1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。 1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った。
伊藤 正一(いとう しょういち、1895年5月15日 - 1… 伊藤 正一(いとう しょういち、1895年5月15日 - 1969年9月15日)は、日本の会計学者。ドイツ会計学専攻。成城大学学長代行等を務めた。 高知県高知市生まれ。1913年高知商業学校(現高知市立高知商業高等学校)卒業。1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。1920年同専攻部卒業。三菱合資会社入社後、三井物産入社。オランダ領東インドやハワイでの勤務や、青山学院教諭を経て、1926年高岡高等商業学校(現富山大学経済学部)教授に就任。1927年から2年間文部省在外研究員としてドイツ、フランスに留学し会計学を修めた。 1931年横浜専門学校(現神奈川大学)教授。1938年日本通運に入社し、同社の会計組織の確立に尽力した。
浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月… 浜田 平(濱田、はまだ ひとし、1895年(明治28年)1月18日 - 1945年(昭和20年)9月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡大篠村明見(現・南国市明見)出身。浜田正之・礼の四男として生まれた。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。1918年(大正7年)11月、陸軍砲工学校普通科を卒業し、1919年(大正8年)11月、同校高等科(25期)を卒業。陸軍工科学校教官などを経て、1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1925年12月、野砲兵第4連隊中隊長に就任。
上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年… 上田 庄三郎(うえだ しょうざぶろう、1894年(明治27年)11月10日 - 1958年(昭和33年)10月19日)は、日本の教員、教育評論家である。 高知県幡多郡三崎町(現土佐清水市)出身。高知師範学校(現高知大学教育学部)卒業。 高知県下の小学校教師・校長を経て1925年に上京。生活綴方運動に参加、1929年雑誌『綴方生活』同人となり、1931年には雑誌『観念工場』を創刊・主宰した。大正自由教育運動を果敢に実践し、池袋児童の村小学校を手本として、神奈川県茅ケ崎の雲雀岡(ひばりがおか)児童の村小学校校長を務めた。戦後、「日本教育新聞」編集局長などを務めた。 戦前戦後の教育界に鋭い議論を展開し、特に教師論で多くの理解者・支持者を得た。
武田 宣城(たけだ のぶき、1894年 <明治27年> 11… 武田 宣城(たけだ のぶき、1894年 <明治27年> 11月5日 - 1987年 <昭和62年> 11月17日)は、日本の経営者。 三菱江戸川化学社長を務めた。高知県高知市出身。位階は正五位。 1918年に東京高等工業学校応用化学科を卒業。 三菱製紙での勤務を経て、1931年に江戸川化学工業に転じ、1946年に取締役に就任し、1949年5月に常務を経て、1956年5月には社長に就任。1964年5月から1968年5月までに会長を務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1987年11月17日老衰のために死去。93歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明… 中越 義幸(なかごし / なかごえ よしゆき、1894年(明治27年)9月23日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、高知県高岡郡檮原村長、同東津野村長。位階は従五位。 高知県高岡郡西津野村越知面(檮原村を経て現檮原町)で、中越義隆、光子の二男として生まれる。1915年(大正4年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業。1921年(大正10年)家督を相続した。農業を営む。 檮原村農会技手に就任。その後青年学校教員となる。檮原村産業組合理事、檮原村信用組合長、高岡郡畜産組合長、高岡郡教育会長、檮原村警防団長、高知県椎茸組合長、高知県森林組合連合会常務理事、同副会長、同県大政翼賛会組織部長、同会事務局長などを務めた。
依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1… 依光 好秋(よりみつ よしあき、1894年8月29日 - 1968年1月10日)は、日本のジャーナリスト・政治家。衆議院議員総選挙に通算3回当選した。 依光重義の三男として高知県幡多郡奥内村(現・大月町)泊浦に生まれた。芳の沢小学校を卒業した後弘見小学校高等科に入学、同校卒業後は高知県立第三中学校(現・高知県立中村中学校・高等学校)に入学した。県立三中の4年次を修了後専修大学政治経済科に入学し、同大学卒業後読売新聞社に入社し、のちに同社政治部長に就任した。1927年12月に時の内閣総理大臣・田中義一の内閣書記官長だった鳩山一郎らに認められ、朝鮮総督・山梨半造の秘書官に就任。だが山梨の側近らと意見が合わず秘書官を辞して帰郷。
中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981… 中平 亮(なかひら りょう、1894年1月1日 - 1981年3月8日)は、日本のジャーナリスト、ソ連研究家。 1894年(明治27年)、高知県高岡郡蓮池村城の医師光代、寅の次男として生まれる。1912年(明治45年)県立第一中学校(現在の追手前高校)卒業。神戸に移り、大阪税関に勤務しながらロシア語を修得。 1917年(大正6年)、大阪朝日新聞社に入社。同年12月シベリアに派遣されるが病気のため帰国。翌年シベリア出兵の従軍記者として再びウラジオストックに派遣される。1919年(大正8年)5月、過激派討伐連合軍の従軍記者となりシベリア横断中に連合軍は過激派に敗退。同年7月革命後間もないモスクワに単身潜入、逃避行の末スパイ容疑で逮捕され、同年12月に釈放になる。
久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 -… 久野村 桃代(くのむら とうだい、1893年12月22日 - 1979年11月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県出身。医師・久野村桃蹊の三男として生れる。海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第44連隊付となる。1925年11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 歩兵第44連隊中隊長、教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、歩兵第37連隊大隊長、陸軍省軍務局課員、教育総監部課員、独立歩兵第13連隊長、教育総監部第3課長などを経て、1940年12月、陸軍少将に昇進。 第36歩兵団長、陸士幹事を歴任し、太平洋戦争には1943年5月、第15軍参謀長として出征した。
尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月2… 尾崎 卓爾(おざき たくじ、1893年(明治26年)11月20日 – 1958年(昭和33年)10月13日)は、高知県出身の歴史家・記者。号は吸江(ぎゅうこう)。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した人物。陽明社の創始者・尾崎旦は兄。 1893年(明治26年)11月20日、尾崎旦爾(手島熊吉)の四男として高知県安芸郡北川村野川番地に生まれる。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 旧制高知商業学校を経て明治大学へ進む。卒業後、土陽新聞の速記部長、のち徳島日日新聞の東京支局長などを務める。 文壇「博浪沙」に参加、大町桂月、田中貢太郎らと交わる。土佐人の典型のような、豪放磊落で気骨のある性格で、あるとき貢太郎を伴って北川村の実家に帰ったが、議論伯仲し、両人とも酒豪であったため、二人で一斗樽を飲み空かしたと言われる。
山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月1… 山田 龍雄(やまだ たつお、1893年(明治26年)11月17日 - 1945年(昭和20年)4月2日)は、日本の大蔵官僚。逓信次官。 高知県出身。旧制高知県立第一中学校(現・高知県立高知追手前高校)、旧制第六高等学校を経て、1918年(大正7年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。大蔵省では銀行局に配属した後、司税官、税務監督局事務官、同書記官、銀行検査官、預金部書記官・監理課長、大蔵書記官・主計局予算決算課長、主計局予算課長、内閣調査局調査官、大蔵省主税局長・醸造試験所長を歴任した。1937年(昭和12年)、大蔵省造幣局長に就任し、1940年(昭和15年)に逓信次官に転じた。
山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月… 山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月20日 - 1978年〈昭和53年〉12月25日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道教士七段。流派は無双直伝英信流。 高知県香美郡赤岡町須留田で生まれる。香南八ヵ町村組合立城山高等小学校卒業後、唐箕作りの大工修行をしながら大日本武徳会赤岡支所及び高知支部で川崎善三郎らに剣道を学ぶ。1917年(大正6年)、大江正路に入門し、無双直伝英信流居合術を学ぶ。1922年(大正11年)4月、上京し、岩倉鉄道学校3年生に編入するも、同年8月に退学、帰郷する。 土陽新聞通信員兼高知農学校の剣道及び生理衛生科教師となる。1939年(昭和14年)、京都で開かれた全国青年剣道大会に高知農学校剣道部員を引率し、350校の中で準優勝に導いた。
山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1… 山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1980年12月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 警察署長・山崎重光の長男として生れる。海南中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業。席次は入校時120名中16番、卒業時118名中20番。翌年12月、海軍少尉任官。1920年11月、海軍水雷学校高等科を卒業し、海軍潜水学校教官、「第13潜水艦」艦長、第2潜水戦隊参謀などを歴任。1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。第一次世界大戦末期に第二特務艦隊に配属となり、戦利潜水艦の回航に携わる。 「呂号第18潜水艦」・「呂号第67潜水艦」の各艦長、第1潜水戦隊参謀、潜水学校教官、海大教官などを歴任。
岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 … 岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 - 1982年8月6日)は、日本の国文学者・文芸学者。文学博士。日本学士院会員。 高知市生まれ。東京帝国大学卒、1923年東北帝国大学助教授、のち東北大学教授、1955年共立女子大学教授。1965年日本学士院会員。 美学に基づく日本文芸学を唱えた。1937年谷崎潤一郎が『源氏物語』の現代語訳を出した際、光源氏と藤壺の密通の場面が削除されたことを批判した。『岡崎義恵著作集』全10巻がある。 墓所はさいたま市西区三橋の青葉園。
川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12… 川口 清健(かわぐち きよたけ、1892年(明治25年)12月3日 - 1961年(昭和36年)5月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は従四位勲二等。 高知県高知市西町出身。川口清俊陸軍中佐・母スガの息子として生まれる。高知一中(城東中学)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。当時は陸軍一といわれるほどの「ショーネン」(美少年)であった[要出典]。参謀本部付勤務を経て、1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 歩兵第8連隊中隊長、参謀本部付勤務、第4師団参謀、台湾軍参謀、陸軍重砲兵学校教官、陸軍省軍務局課員、陸軍省副官、支那駐屯軍参謀、第4師団司令部付(外事主任)、東京湾要塞参謀、北支那方面軍司令部付(宣伝部長)などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍大佐に進級。
秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25… 秋山 俊一郎(あきやま しゅんいちろう、1892年〈明治25年〉10月22日 - 1972年〈昭和47年〉12月3日)は、大正から昭和期の水産技術者、実業家、政治家。参議院議員。 高知県長岡郡東豊永村(大豊村を経て現大豊町怒田)で、秋山紋弥、春女の長男として生まれる。1912年(明治45年)高知県立第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)を卒業。1915年(大正4年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)漁撈科を卒業。 台湾宜蘭庁技手に任官し、1916年(大正5年)台湾総督府に転任。1920年(大正9年)長崎県に転じた。1928年(昭和3年)高知県水産課長に就任。その後、佐賀県水産課長を経て、長崎県水産試験場長となった。
弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)… 弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう、1892年(明治25年)6月30日 - 1952年(昭和27年)11月17日)は、日本の作曲家。 1892年(明治25年)高知県安芸市に生まれる。一絃琴の名手であった母親から、音楽的才能を受け継いだと言われている。 父の転任に従って3歳の時高知を離れ、千葉師範学校附属小学校、三重県立第一中学校(現:三重県立津高等学校)を経て、1910年(明治43年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)器学部ピアノ科に入学する。東京音楽学校では本居長世に師事。在学中に歌曲『昼』を発表した。文部省唱歌の『鯉のぼり』は作者不詳とされてきたが、弘田龍太郎が在学中に作曲したものと言われている。
長野 長広(旧字体: 長野 長廣、ながの ながひろ、1892… 長野 長広(旧字体: 長野 長廣、ながの ながひろ、1892年(明治25年)4月1日 – 1965年(昭和40年)3月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党→自由党)、文部政務次官、内務政務次官を務めた。 高知県長岡郡介良村(現在の高知市)出身。1909年(明治42年)、高知県立農林学校を卒業。小学校訓導、高知県立農業学校教諭、熊本農業学校教諭、実業補習学校教員養成所教諭、文部省社会教育官、宇都宮高等農林学校教授を歴任。のち満州国文教部に勤務し、満州国体育連盟理事を兼ねた。 1937年(昭和12年)、衆議院に補欠当選。同年の第20回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日… 西田 祥実(にしだ よしみ、1892年(明治25年)3月1日 - 1944年(昭和19年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。陸士25期。第二次世界大戦中、エニウェトクの戦いにて戦死した。最終階級は陸軍少将、死後中将に特進。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。 高知県土佐郡一宮村薊野(現・高知市薊野)に又吉・令の次男として生まれる。高知県尋常中学海南学校(現・高知県立高知小津高等学校)、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校卒業後、歩兵第41連隊附となり、中国東北部に駐屯する。 内地帰還後、陸軍士官学校生徒隊附、歩兵第41連隊中隊長、歩兵第25連隊大隊長を経て、1933年(昭和8年)歩兵第13旅団副官となり、再び中国東北部に出征する。
明石 猛繁(あかし たけしげ、1891年(明治24年)10月… 明石 猛繁(あかし たけしげ、1891年(明治24年)10月12日 - 1941年(昭和16年)7月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍主計少将。 高知県香美郡美良布村(現在の香美市)で、明石秀太郎、秀の長男として生まれた。1910年(明治43年)県立第一中学校卒を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍経理学校(8期)を卒業した。三等主計に任官し歩兵第43連隊付となり、1920年(大正9年)歩兵第44連隊付となりシベリア出兵に従軍。 1928年(昭和3年)陸軍経理学校高等科を卒業。以後、近衛師団経理部員、陸軍被服本廠員兼陸軍経理学校教育部教官、関東軍司令部付などを務める。1938年(昭和13年)主計大佐に昇進。
宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 … 宇賀 武(うが たけし、1891年(明治24年)9月23日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1891年(明治24年)9月、高知県幡多郡中村町(中村市を経て現四万十市)に生まれた。県立第三中学校を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官。 1920年(大正9年)から1922年(大正11年)の間、シベリア出兵に従軍。1932年(昭和7年)、満州事変に出兵。1937年(昭和12年)には日中戦争(支那事変)に従軍し中南支各地を転戦。功により1940年(昭和15年)、旭三、功四級金鵄勲章を受ける。同年、山砲兵第55連隊長になる。
山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月… 山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月23日 - 1959年(昭和34年)5月2日)は、日本の海軍軍人、華族。山下源太郎の養嗣子で艦隊派の一員である海軍大佐、男爵である。 高知市に生まれる。米沢の医師、水野廉平の次男。山本五十六夫人の礼子は従妹。山下源太郎の長女、千鶴子と結婚し山下家の養嗣子となる。米沢中学を経て海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中30番。山口多聞、大西滝治郎、宇垣纏らが同期生である。1913年(大正2年)12月に少尉任官。 第一次世界大戦では「周防」乗組みとして出征し、青島攻略戦で陸戦隊を指揮して功五級に叙せられた。山下は砲術学校高等科、および同校の教官養成課程である専攻科を修了した砲術専攻の士官で、同校教官や軽巡洋艦「球磨」砲術長などを務めた。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
五藤 齊三(ごとう せいぞう、1891年1月31日 - 19… 五藤 齊三(ごとう せいぞう、1891年1月31日 - 1982年7月11日)は、日本の技術者・実業家で、天体望遠鏡やプラネタリウムなどの専門メーカー、五藤光学研究所の創業者。高知県生まれ。 父が司法官であったため、幼少時は宇和島市、高松市、大阪市と転居を繰り返した。 戦前の日本光学工業(現在のニコン)では、すでに小型の天体望遠鏡を製造しており、中学校や高等学校むけに販売していた。五藤はこれらの営業を担っていたが、その価格は、一般の学校で簡単に導入できるようなものではなく、販売は伸び悩んでいた。 また、当時(第一次世界大戦後)、ドイツから日本光学工業へ招聘されていた光学技術者から、「優れた光学機器を作れば必ず儲かる」とも聞かされた。
山崎 常吉(やまざき つねきち、1891年(明治24年)1月… 山崎 常吉(やまざき つねきち、1891年(明治24年)1月15日 - 1961年(昭和36年)1月5日)は、日本の労働運動家、政治家。衆議院議員、ブリキ職人。 高知県香美郡夜須村(現香南市)で生まれ、6歳で両親を失い、小学校を中退し高知市でブリキ屋の小僧として働く。徴兵後に大阪でブリキ職人として働いたが、喧嘩による傷害罪で8ヵ月服役し、その後名古屋に転居した。 1918年米騒動で、同年8月10日、名古屋市鶴舞公園の集会で演説を行い逮捕されたが無罪となり、これをきっかけに労働運動に加わった。名古屋労働者協会に加入し、1922年、名古屋自由労働者組合を結成し組合長に就任。1923年、名古屋麻裏工組合を結成し、麻裏工争議を指導して検挙されたが無罪となった。
葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月… 葛目 直幸(くずめ なおゆき、1890年(明治23年)10月10日 - 1944年(昭和19年)7月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功二級。 高知県長岡郡岡豊村笠ノ川(現・南国市岡豊町笠ノ川)出身。農業・葛目倉次・ふさの二男として生まれる。高知第一中学校(現高知県立高知追手前高等学校)卒業を経て、1913年(大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。歩兵第22連隊附としてシベリア出兵に従軍。内地帰還後の同年12月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第4連隊付に転じる。 1923年(大正12年)8月、歩兵大尉に昇進し近衛歩兵第4連隊中隊長に就任。東京警備副官を経て、1931年(昭和6年)8月、歩兵少佐に昇進し独立守備歩兵第3大隊付となる。
森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 19… 森下 雨村(もりした うそん、1890年2月27日 - 1965年5月16日)は、日本の編集者、翻訳家、小説家。本名・岩太郎。別名・佐川春風。高知県佐川町出身。早稲田大学英文科卒、博文館に勤め、1920年に探偵小説雑誌『新青年』編集長となり、内外の探偵小説の紹介に努め、自らも創作をおこなった。 土佐の生まれで、酒豪だった。横溝正史によると、「親分肌で、常に周囲に若いものを集め、ちっくと一杯と人に奨め、相手を盛りつぶしては悦に入っていた」という。横溝も「たびたび森下に盛りつぶされているうちに、おいおい上達して、ついに出藍の誉れを高くしたものである」と語っている。 『新青年』編集長として江戸川乱歩を世に送り、多くのすぐれた探偵作家を誕生させた雨村を、横溝は「森下こそ日本の探偵小説の生みの親といっても過言ではないだろう」と評し、「義理がたい乱歩は終生雨村に恩誼を感じていたようである」、「松本清張は雨村を、推理小説界における大正期の中央公論の滝田樗陰であると言っている」と述べている。
山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1… 山本 拙郎(やまもと せつろう、1890年2月22日 - 1944年9月13日)は、日本の建築家。住宅専門会社あめりか屋技師長として知られる。 1890年(明治23年)2月22日、高知県香美郡岩村(現南国市)に生まれる。旧制高知中学校(現高知県立高知追手前高等学校)から、第三高等学校に進学。卒業後の1914年(大正3年)、早稲田大学理工学部建築学科入学。当時、三高から私学に進学するのは異例で、いとこで早稲田大学教授だった山本忠興の勧めと考えられている。1917年(大正6年)、同校卒業。 同年、橋口信助が創立した住宅設計施工会社「あめりか屋」へ就職、5年後に設計部の技師長になる。住宅改良会の機関誌『住宅』の編集・寄稿や、著書『家を住みよくする法』などを通して啓蒙的な執筆活動を行った。
加勝山 鹿治(かしょうざん しかじ、1889年(明治22年)… 加勝山 鹿治(かしょうざん しかじ、1889年(明治22年)10月9日 - 1914年(大正3年)9月20日)は、高知県安芸市出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は寺尾 鹿治(てらお しかじ)。最高位は東前頭14枚目。 1889年10月9日に高知県安芸市で生まれる。旧制安芸中学2年生のとき、相撲が強かったことで高知市の商家に引き取られて相撲に専念し、ここで腕を上げて1907年5月場所で初土俵を踏み、1912年1月場所で新十両昇進、1913年5月場所では十両優勝を果たした。小柄な力士の多かった当時としても体格は恵まれていなかったが、相撲巧者で、いつも前髪がすり切れているほどの稽古熱心が実って1914年1月場所で新入幕を果たしたが、幕内では在位2場所で各場所1勝ずつしか挙げられず、巡業中だった同年9月20日に、新潟県南蒲原郡三条町(現:三条市)にて心臓脚気により死去、24歳没。
田所 芳秋(たどころ よしあき、 1889年(明治22年)8… 田所 芳秋(たどころ よしあき、 1889年(明治22年)8月 - 1977年(昭和52年)6月29日) は、日本の鉱物学者。元日本製鐵八幡製鐵所研究所長。帝国学士院賞受賞。 高知県出身。旧制高知県立中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、1911年旧制大阪高等工業学校卒業。1916年東北帝国大学理科大学物理学科卒業、理学士。同年官営八幡製鐵所(研究課)入所。1920年東北帝国大学理学博士。官営八幡製鐵所研究所で研究し、日本製鐵八幡製鉄所技師、研究所監事、研究所長、日本製鐵理事などを経て、高知県工業試験場長に就任。1923年正七位勲六等瑞宝章。1934年帝国学士院賞受賞、従四位。1938年日本鉄鋼協会香村賞受賞。
楠目橙黄子(くすめ とうこうし、1889年(明治22年)5月… 楠目橙黄子(くすめ とうこうし、1889年(明治22年)5月4日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は俳人。 高知県高知市生まれ。本名は省介。間組に勤め、1936年朝鮮支店長。1909年ごろより句作。「ホトトギス」に投句。句集に『橙圃』(とうほ)。高浜虚子の朝鮮旅行、熊野旅行に同道した。「京城日報」俳壇の選者も務めた。墓所は多磨霊園(15-1-6-1) 代表句「焚火人面罵に耐えてゐたりけり」。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。