山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1… 山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1978年9月22日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸士卒(30期)、陸大卒(39期)。
佐賀県:885人
山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1… 山口 槌夫(やまぐち つちお、1896年12月15日 - 1978年9月22日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸士卒(30期)、陸大卒(39期)。
青木 大吉(あおき だいきち、1896年(明治29年)7月2… 青木 大吉(あおき だいきち、1896年(明治29年)7月2日 - 1994年(平成6年)1月12日)は、日本の公認会計士、税理士。大日本帝国海軍の軍人(最終階級は主計大佐)で、第二次世界大戦後は民間の会計士となり、東京虎ノ門、福岡(「第一公認会計士事務所」)、佐世保に事務所を開く。等松農夫蔵と現在のデロイト トウシュ トーマツの日本のもととなる監査法人事務所を創立した。日本の原価計算の祖と呼ばれる。[要出典]
中野 良次(なかの りょうじ、1896年(明治29年)3月1… 中野 良次(なかの りょうじ、1896年(明治29年)3月10日 - 1977年(昭和52年)2月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県出身。地主・中野佐太郎の長男として生まれる。小城中学校(現佐賀県立小城高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第11連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を卒業。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業し野砲兵第8連隊中隊長に就任した。 1927年(昭和2年)12月、参謀本部付勤務(通信課)となり、参謀本部員、関東軍参謀を務め、1932年(昭和7年)8月、砲兵少佐に進級。
進藤 武左ヱ門(進藤 武左衞門、しんどう ぶざえもん、189… 進藤 武左ヱ門(進藤 武左衞門、しんどう ぶざえもん、1896年 - 1981年)は、日本の実業家。日本発送電副総裁、中国電力初代会長、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁などを務めた。 山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)出身。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)、長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学(現・九州大学)工学部電気科卒業。1923年東邦電力入社。東京電力を経て、東京電灯取締役、関東配電副社長、戦災復興院業務局長、資源庁長官、日本発送電副総裁、通商産業省(現・経済産業省)資源局長、行政審議会委員、中国電力会長、電源開発副総裁、大聖通商株式会社会長、愛知用水公団副総裁、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁、電源開発調整審議会会長代理などを歴任。
小野 十生(おの じゅっせい[要出典]、1896年(明治29… 小野 十生(おの じゅっせい[要出典]、1896年(明治29年) - 1974年(昭和49年))は、日本の剣道家。段位は範士九段。流派は小野派一刀流。 佐賀県生まれ。佐々木正宜、納富教雄らに剣道を学び、佐賀県立鹿島中学校を卒業。京都の大日本武徳会本部講習生を経て、大日本武徳会滋賀支部、滋賀県警察部、朝鮮慶尚北道大邱警察、国士舘専門学校、警視庁の剣道師範を歴任。笹森順造から小野派一刀流剣術を学ぶ。
初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)… 初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)10月20日 - 1976年(昭和51年)2月24日)は、日本の尺八演奏家、作曲家。流派は琴古流荒木派。本名は納富安治(のうとみ やすじ)。後に芸名を納富寿翁(のうとみ じゅおう)に改名。 1895年10月20日、佐賀県三養基郡土井内(当時南茂安村、後に三根町、現みやき町)で納富孫三郎の次男として生まれる。海軍中将・松永貞市(旧姓・納富)とその妻・イツヨとは親戚。イツヨは女学校生時代に中学生の寿童と叔母の家で一緒に過ごし、寿童について「尺八は中学生のころから吹いていました。上手か下手かはわかりませんでしたが、割合におとなしいほうで、私にも親切にしてくれました。
中里 無庵(なかざと むあん、1895年(明治28年)4月1… 中里 無庵(なかざと むあん、1895年(明治28年)4月11日 - 1985年(昭和60年)1月5日) は、陶芸家。唐津焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)。12代中里太郎右衛門。本名は中里重雄。
大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日… 大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市長。 佐賀県佐賀市寺町(現・佐賀市唐人)に生まれる。1914年(大正3年)3月に佐賀県立佐賀中学校を卒業後に渡台し、新竹庁財務課に奉職。 ついで新竹州官房税務課、桃園税務出張所州税係長、台北州税務課州税係長、府財務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月に地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に就任した。のち1939年(昭和14年)7月、台中州大甲郡守を経て、1941年(昭和16年)1月に彰化市長に就任した。
田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1… 田中 宗吉(たなか そうきち、1894年11月21日 - 1978年10月22日)は、日本の柔道家(講道館8段)。 一般的な柔道選手が選手としての適齢期を終える31歳で柔道を学び始め、戦前の全日本選士権大会で優勝1度、準優勝1度の成績を残した。指導者としては国鉄や講道館、星薬科大学等で柔道教員を務め、後進の育成に当たった。 佐賀県出身。旧制小城中学校(後の県立小城高校)を中退して上京、31歳の時に初めて柔道衣に袖を通し5歳年長の高橋重蔵5段に師事した。1927年2月に講道館の初段位を許されると、翌28年1月に2段、同年9月には3段へ抜群昇段を果たした。柔道家として生きる事を決意した田中は1930年に警視庁水上警察署の柔道助教となり、以後も1931年4月4段、1932年11月には再び抜群で5段と順調に昇段を重ねた。
成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11… 成富 政一(なりとみ まさいち、1894年(明治27年)11月18日 – 1938年(昭和13年)10月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大佐。位階勲等功級は正五位勲三等功四級。 佐賀県神埼市において士族成富庄吉(佐賀藩士石井探玄の次男、成富延精の養子)の次男として生まれる。生家は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の重臣で、後に佐賀藩主鍋島氏の家老として活躍した成富茂安の養子安利の子孫にあたる。 陸軍士官学校28期を卒業し、1916年(大正5年)陸軍少尉に任官。陸軍大尉の時、陸軍大学校41期に学び、1929年(昭和4年)席次8位の成績で卒業した。 その後、台湾軍基隆要塞参謀、台湾軍司令部付、歩兵第19連隊付、独立歩兵第1連隊大隊長、陸軍歩兵学校教導連隊大隊長、留守第16師団参謀、同参謀長等を歴任し、満洲事変では、中国熱河省及び呼倫貝爾を転戦し、軍功あり。
中尾 都昭(なかお くにあき、1894年(明治27年)4月6… 中尾 都昭(なかお くにあき、1894年(明治27年)4月6日 - 1980年(昭和55年)9月9日)は、佐賀県出身の実業家、佐賀新聞社社長。 1894年(明治27年)、佐賀郡久保田村(現在の佐賀市久保田町)久富の網元中尾清三郎と母チヨの次男として生まれる。新田尋常小学校から青藍高等小学校に進学し、卒業後は一時漁師の家業を継いだものの18歳のときに志願兵として海軍に入り、佐世保海兵団に入団する。第一次世界大戦に従軍し勲八等瑞宝章と従軍記章を授与されて退役した。 その後1926年(大正15年)に佐賀市内にて「農村青年新聞」を発行し新聞経営を始める。翌年には「佐賀自由新聞」(週刊)に改題、1931年(昭和6年)には日刊の「佐賀毎夕新聞」とした。
森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は… 森 歓之助(もり かんのすけ、1894年 - 1960年)は、日本の造園家、作庭家、造園教育者。 造園指導者として人材育成にあたる傍ら、多くの造園作品を残す。大別して住宅庭園や公園緑地(遊園地等)庭園、学校庭園等が多いが、設計のほか施工監督指導等になるものも含めると作品数は多数に及ぶ。 佐賀県唐津市生まれ。 1914年(大正3年)、千葉県立園芸専門学校(現・千葉大学園芸学部)卒業ののち、一時、当時宮内省出入の植木師として名のあった東京府下戸塚の小川重次郎方に徒弟として造園実務にたずさわった。1915年、恩師本郷高徳の推挙で大阪府吏員となり、大屋霊城と共に府営住吉公園改良工事に従事することとなる。
樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)… 樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。 1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 … 辻 演武(つじ えんぶ、1892年(明治25年)2月26日 - 1969年(昭和44年)8月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。祖父は佐賀の干拓の父とも言われる辻演年。弟は後に参議院議員となる福岡日出麿。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位勲二等。 1892年、東与賀村長辻武一郎の長男として東与賀村住吉に生まれる。佐賀中学校を卒業後軍人を志し熊本陸軍幼年学校に進学。さらに陸軍士官学校に進んだ(陸士25期)。砲兵畑を進み、久留米野砲24連隊、朝鮮龍山砲兵隊などに所属。1938年(昭和13年)には野砲兵23連隊長として上海に入り江南の治安確保に当たった。さらに南京政府軍事顧問、第20砲兵団長、中部軍兵器部長などを経て1945年(昭和20年)陸軍兵器学校長となり中将に昇進した。
相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12… 相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業。 同年、内務省入省。千葉県属1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12… 陣内 利夫(じんのうち としお、1891年(明治24年)12月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 佐賀県神埼郡蓮池村(現在の佐賀市)出身。1921年(大正10年)に朝鮮に渡り、1923年(大正12年)に高等試験行政科に合格した。京畿道警視、理事官・江原道学務課長、慶尚南道学務課長、忠清北道地方課長、事務官・平安北道財務部長を経て、1931年(昭和6年)、馬山府尹に就任した。 その後、全州専売支局長、京城地方専売局長、咸鏡南道産業部長、張家口朝鮮総督府出張所長、朝鮮総督府鉄道局理事を歴任した。 退官後、華北煙草株式会社取締役を務めた。
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9… 市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人で、日本海軍の航空草創期のパイロットである。硫黄島の戦いで戦死。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。 佐賀県東松浦郡久里村(現・唐津市)出身。旧制唐津中学校を卒業後、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1910年(明治43年)に海軍兵学校第41期に入校し、1913年(大正2年)に118名中46位の成績で卒業した。1917年(大正6年)12月、第3期航空術学生(飛行学生の前身)となり、1918年(大正7年)12月に卒業し、パイロットの資格を習得。
村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15… 村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本の建築家。日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。 佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。 1910年、小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、東京京橋の石材屋に弟と下宿する。1913年、早稲田大学大学部理工科電気工学科に入学。
土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月… 土橋 勇逸(つちはし ゆういつ、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1972年〈昭和47年〉5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 佐賀県小城郡芦刈村(現・小城市)出身。小城中学校在学中、日露戦争が勃発。郷里から将校が出征する姿や、演習帰りの歩兵第48連隊の留守大隊の将校らを見て自身も軍人を志す。熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校に進学。中隊長は三木宗太郎、区隊長は津村諭吉(のち鴨脚光弘)、指導生徒は神田正種だった。神田の誘いで富久町の善慶寺にて精神修養を行うようになり、陸士卒業後も同期の甘粕正彦と度々訪れている。歩兵第37連隊での勤務を経て陸軍士官学校に進学。しかし区隊長の森本八十三中尉とのそりが合わず、大きく内申点を落としてしまう。
嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月… 嘉村 平八(かむら へいはち、1890年(明治23年)12月25日 - 1967年(昭和42年)6月28日)は、日本の冶金学者。九州工業大学及び西日本工業大学学長を務めた。 1890年12月25日、佐賀市に生まれる。佐賀中学5年生の時、明治専門学校総裁を務めていた山川健次郎の講演に触発されて1909年に私立明治専門学校(現・九州工業大学)1期生として冶金科に入学する。 卒業後明治鉱業に入社、米国リーハイ大学留学を経て、1925年に母校の教壇に立つ。爾来36年間に亘って、明治専門学校、明治工業専門学校、九州工業大学の教育研究に大きな足跡を残した。その間、水素還元製法による超高純度鋼いわゆる嘉村鋼の発明により帝国発明協会表彰、鉄の磁気的性質に及ぼす燐の影響に就いての論文に対して日本鐵鋼協会表彰など鉄冶金界に名声を刻し、九州大学より工学博士の学位を授与される。
中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月1… 中野 英光(なかの ひでみつ、1890年(明治23年)4月18日 - 1982年(昭和57年)3月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 旧佐賀藩士・中野竹九郎の長男として生まれる。佐賀中学を卒業。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業し、参謀本部支那班に配属された。 1926年(大正15年)5月、関東軍司令部付としてハルビン特務機関に配属。その後、歩兵第63連隊大隊長、参謀本部員、吉林特務機関長、満州国軍政部顧問などを歴任。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進。
原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日… 原口 忠次郎(はらぐち ちゅうじろう、1889年11月12日 - 1976年3月22日)は官僚、政治家。第12代神戸市長。工学博士、参議院議員。
原 清(はら きよし、1889年〈明治22年〉5月2日 - … 原 清(はら きよし、1889年〈明治22年〉5月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月26日)は、日本の海軍軍人。逓信省海務院長官。海兵38期首席。最終階級は海軍中将。 教員、原権市の長男として佐賀県で生れる。唐津中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を首席で卒業し、同年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで航海術専修学生として学び、専修学生は優等で卒業した。運送艦「労山」航海長、練習艦隊参謀、第1艦隊参謀、海兵教官を経て、1923年10月、海大甲種21期を卒業した。 「夕張」航海長、呉軍需部員、アメリカ駐在、資源局事務官、給炭艦「野島」特務艦長、海軍省軍務局第2課長、「磐手」艦長、艦政本部総務部第1課長などを経て、1936年12月、海軍少将に進級。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月… 岸川 健一(きしかわ けんいち、1888年(明治21年)3月29日 - 1954年(昭和29年)6月10日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡兵庫村(現佐賀市)出身。最終階級は陸軍中将。 1888年生まれ。佐賀中学校から陸軍士官学校(陸士23期)に進み卒業後歩兵少尉に任官。麻布連隊区司令官、第6守備隊長(大佐)から少将に昇進し歩兵第29旅団長、第29歩兵団長、独立混成第17旅団長を歴任。1945年(昭和20年)3月中将に昇進し第63師団長として終戦を迎えた。 その後はシベリアに抑留され、さらに中国に引き渡され撫順戦犯管理所に収容された。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた。所謂中国抑留者で4人いた師団長の一人(ほかは第39師団長・佐々真之助中将、第59師団長・藤田茂中将、第117師団長・鈴木啓久中将)で、抑留中の1954年収容所にて病死。
内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 196… 内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 1969年9月28日)は、日本の地理学者。日本における歴史地理学の開拓者と知られ、他に政治地理学・郷土教育などに功績がある。 佐賀県東松浦郡呼子(よぶこ)の士族の家に生まれた。唐津中学在学中、日露の日本海海戦の砲声を聞いた。同校を19歳で卒業し、23歳(1910年)の時東京高等師範学校本科地理歴史科を卒業し、当時唯一の地理学の専門課程があった京都帝国大学文科大学史学科に入学。 1913年(大正2年)、大学を卒業し、大学院に進学。1914-1916年までは同助手を勤める。この間、小川琢治・石橋五郎・中目覚らに学ぶ。また、日本近世史が専門の内田銀蔵や、東洋史の権威である内藤湖南にも学んだ。
空閑 昇(くが のぼる、1887年〈明治20年〉12月8日 … 空閑 昇(くが のぼる、1887年〈明治20年〉12月8日 - 1932年〈昭和7年〉3月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 佐賀県佐賀市水ヶ江町出身。地裁監督書記・空閑正尚の長男として生れる。空閑家は龍造寺家の血を引き、代々鍋島藩の槍術師範を務めた家柄で、父・正尚は佐賀の乱に参戦した経歴がある。高等小学校、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月歩兵少尉に任官し歩兵第69連隊付となる。青島守備歩兵第3大隊付、歩兵第69連隊付などを経て、シベリア出兵に従軍。1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵学校甲種を卒業。
井口 良香(いぐち よしか、1887年(明治20年)7月1日… 井口 良香(いぐち よしか、1887年(明治20年)7月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。蛟河商工公会理事。満州国協和会蛟河県(旧・額穆県)本部委員。 族籍は佐賀県士族。弟は日東製粉元社長の井口良二。衆議院議員で第27代自由民主党総裁かつ第100代内閣総理大臣岸田文雄の母方の大伯父。 佐賀県唐津市大字唐津出身。佐賀県士族・井口兆之助の長男として生まれる。 1906年(明治39年)下関商業学校を卒業後、特産貿易商・岩城商会に入社。その後、唐津・上海・芝罘・青島・大連各支店を歴任。1919年(大正8年)(または1920年(大正9年)とも)、同商会の合資会社への改組とともに代表社員に就任。 1934年(昭和9年)独立創業。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月… 尾崎 天風(おざき てんぷう、1886年〈明治19年〉12月25日 - 1960年〈昭和35年〉3月24日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。初名・百平。 佐賀県藤津郡古枝村(現鹿島市)で尾崎重吉の三男として生まれる。1898年頃、父の移住先北海道常呂郡常呂村に来住。すぐに働きはじめ、農業、出前持ち、馬橇の御者、馬喰などを経て、料理屋経営を行う。 1916年頃、釧路新聞通信所記者となる。北見実業新聞記者を経て、1920年、札幌に出て休刊中の『北海道報』を継承し『北海道新聞』(現『北海道新聞』とは異なる)に改題して経営を行う。同年4月、裁判所の許可を得て「天風」と改名した。その後、常呂郡置戸村の公有林伐採事件で検挙されて『北海道新聞』が休刊となり、釈放後上京して、雑誌「建設ノ日本」社長となった。
大川内 傳七(大川内 伝七、おおかわち でんしち、1886年… 大川内 傳七(大川内 伝七、おおかわち でんしち、1886年〈明治19年〉9月2日 - 1958年〈昭和33年〉2月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。佐賀県塩田町出身。 軍歌『比島決戦の歌』で「海に鉄血大川内」と歌われていることで知られる。 旧制佐賀県立鹿島中学校より海軍兵学校37期入校。大川内の奉職履歴で他の海軍将校と際立って異なるのは、自身を含め練習艦隊に4度参加していることである。 1936年(昭和11年)、上海の日本租界の警備にあたる上海海軍特別陸戦隊の司令官に就任。在職中の翌1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発した。国際都市である上海を重視する中国国民党軍は、上海駐留の日本軍が手薄な状態なのに乗じて攻撃をかけた(第二次上海事変)。
吉田 駛馬(よしだ はやま、1885年〈明治18年〉10月2… 吉田 駛馬(よしだ はやま、1885年〈明治18年〉10月25日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。新竹市尹。 吉田兼徳の二男として、佐賀県藤津郡山浦村(能古見村を経て現鹿島市)に生まれる。のち本籍を東京市赤坂区に置いた。1912年(大正元年)渡台し、同年9月、台中庁庶課にて勤務する。松岡拓殖合資会社庶務課長、新竹製糖庶務課長を経て、台中州属兼台中州郡属に任じ豊原郡に勤務し、台中州内務部地方課勤務、豊原郡庶務課長、大屯郡庶務課長、大屯郡守代理、台中州内務部地方課地方係長兼庶務課長を歴任し、1932年(昭和7年)4月、台北州文山郡守に就任した。 1935年(昭和10年)9月、新竹州中壢郡守に転じ、1937年(昭和12年)8月16日、新竹市尹に就任した。
河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)… 河村 嘉一郎(かわむら かいちろう、1885年(明治18年)8月7日 - 1943年(昭和18年)10月17日)は、佐賀県出身の実業家、政治家。初代唐津市長。 1885年(明治18年)旧唐津藩士・河村藤四朗の長男として、佐賀市赤松町で生まれる。旧制唐津中学、旧制岡山第六高校を経て、1911年(明治44年)、東京帝国大学法科、政治学科を卒業。一時渡鮮したが、1923年(大正12年)帰郷。唐津銀行に入り取締役支配人となる。のち唐津電気製鋼所社長、唐津薫業(株)専務取締役、唐津製紙(株)社長、唐津製綿(株)監査役、唐津商工(株)監査役、小倉東洋車輌(株)常務取締役などを務め、唐津実業界の発展に貢献した。
田澤 義鋪(たざわ よしはる、1885年(明治18年)7月2… 田澤 義鋪(たざわ よしはる、1885年(明治18年)7月20日 - 1944年(昭和19年)11月24日)は、大正期及び昭和初期の社会教育家、政治家、思想家。佐賀県鹿島市出身。 青年教育と政治教育そして選挙粛正に一生を捧げた。とりわけ青年団運動及び青年教育に尽力した活動が知られており、「青年団の父」と称されている。 1885年(明治18年)7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村(現鹿島市)大字高津原434番地に、父義陳・母みすの長男として生まれる。4歳で鹿島小学校に入学。幼少時は、旧鹿島藩主鍋島直彬の薫陶を受ける。1901年(明治34年)旧制佐賀県立鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。熊本第五高等学校 (旧制)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。
江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)… 江副 孫右衛門(えぞえ まごえもん、1885年(明治18年)2月6日 - 1964年(昭和39年)8月24日)は、明治期の実業家。日本特殊陶業初代社長、日本碍子社長、東洋陶器(現 TOTO)社長・会長を務めた。有田町初代町長。 佐賀県有田町上幸平の陶磁器製造業の父八蔵の長男として生まれる。祖先は佐賀藩の有田皿山代官所の役人だったと言われ、廃藩により明治時代は祖父・父ともに窯焼きを家業としていた。白川尋常高等小学校(現・有田小学校)、佐賀県立有田工業高等学校製陶科を経て、1909年に東京高等工業学校(現 東京科学大学)窯業科を卒業し、継ぐ予定だった家業が破綻したため、日本陶器に入社。 対立した飛鳥井孝太郎技師長が1910年に追放されたことで、白色硬質磁器研究体制の中心となる。
武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12… 武富 敏彦(たけとみ としひこ、1884年(明治17年)12月13日 - 1964年(昭和39年)8月21日)は、日本の外交官。駐オランダ公使、駐トルコ大使。
尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月… 尾高 亀蔵(すえたか かめぞう、1884年(明治17年)9月28日 - 1953年(昭和28年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・大谷。 佐賀県出身。農業・大谷平治の二男として生まれ、尾高家の養子となる。唐津中学校を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)を卒業する。同期には岡村寧次・土肥原賢二・板垣征四郎・安藤利吉ら陸軍大将がいる。同年11月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。日露戦争に出征後、陸士生徒隊付、歩兵第13連隊中隊長などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 陸軍歩兵学校教官、関東兵站参謀、教育総監部付、教育総監部課員などを歴任し、1923年(大正12年)8月、第14師団参謀となる。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月2… 岡崎 忠雄(おかざき ただお、1884年(明治17年)5月20日 - 1963年(昭和38年)5月1日)は、大正、昭和期の実業家、企業経営者。岡崎財閥の創業者で、神戸財界の雄と呼ばれた岡崎藤吉の婿養子。佐賀県出身。慶應義塾大学部理財科卒業。 岡崎財閥の創業者岡崎藤吉には男子がいなかったため、岡崎藤吉の兄である石丸忠英の息子・石丸忠雄を婿養子に迎えた。これが後の岡崎忠雄である。忠雄は大学卒業後、養父岡崎藤吉が設立した岡崎汽船で海運業に従事したが、一方で1913年(大正2年)7月、神戸財界の有力者によって内外ゴムが創業された際、出資者の一人として名を連ね、更には1917年(大正6年)5月、養父が神戸岡崎銀行を設立した際は、常務に就任するなど、若いうちから後継者として育てられた。
宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)… 宮原 民平(みやはら みんぺい、1884年 - 1944年)は、中国学者、拓殖大学教授、学監。佐賀県現多久市出身。拓殖大学校歌の作詞者である。長男は北海道大学教授の宮原将平。
秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月… 秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1952年〈昭和27年〉4月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。佐賀県佐賀市巨勢町出身。 旧制佐賀中学校から海軍兵学校に進学。1905年(明治38年)5月27日、翌28日にかけて日本海海戦に参戦する。同年11月28日、海軍兵学校33期卒業。同期に豊田貞次郎、豊田副武、有地十五郎、小野弥一、中村亀三郎など。 各軍艦勤務をへて海軍砲術学校高等科に入校。1912年(大正元年)英国出張。第一次世界大戦・日独戦争では英国と共に海軍陸戦重砲隊中隊長として、ドイツ帝国が清国から租借し、権益を持つ山東省青島の戦いで奮戦した。1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。
横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月… 横尾 龍(よこお しげみ、男性、1883年(明治16年)7月21日 – 1957年(昭和32年)1月7日)は、日本の実業家、政治家。通商産業大臣(第4代)。参議院議員(1期)。 佐賀県小城郡芦刈町(現小城市)に生まれる。佐賀県尋常中学校唐津分校、第五高等学校を経て、1907年東京帝国大学工科大学造船科を卒業、三菱長崎造船所に入社する。その後鈴木商店に転職し、1921年神戸製鋼播磨造船工場工作課長、後に工場長、1929年播磨造船所専務取締役となる。1943年社長に就任。 戦後の1949年、兵庫県選挙区で行われた参議院補欠選挙に民主自由党より立候補し当選。1950年第3次吉田第1次改造内閣にて通商産業大臣として入閣する。
古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28… 古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28日 - 1944年(昭和19年)10月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士17期卒。最終階級は大佐、死後少将。 佐賀県田代村(現・鳥栖市)出身。兄の古賀真一も少将。熊本陸軍地方幼年学校3期生より陸軍士官学校を17期生として卒業。歩兵第13連隊第3中隊長、台湾歩兵第2連隊配属将校を経て、鯖江連隊区司令部部員。1933年8月30日に大佐で予備役編入。1944年、大正5年~9年生まれの九州北部各地の応召兵2000名からなる「南方総軍緊急補充要員久留米師団第161部隊」(通称マルコ部隊、コは古賀の頭文字)の輸送指揮官として10月13日博多港を発し、26日ボルネオ島に到着したが間もなく同地にて病死。
田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)… 田中 鉄三郎(たなか てつさぶろう、1883年(明治16年)1月20日 - 1974年(昭和49年)12月2日)は、大正時代から昭和時代の日本の銀行家、実業家。満州中央銀行や朝鮮銀行の総裁を務めた。 旧鹿島藩士で沖縄県学務課長や師範学校長、佐賀県藤津郡郡長などを務めた田中馨治の三男として佐賀県藤津郡高津原村(後に南鹿島村、現在は鹿島市高津原)に生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学政治学科を卒業する。1909年(明治42年)に日本銀行に入行し、1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけてロンドン代理店監督役付を務め、第一次世界大戦の賠償会議に委員として参加する。1929年(昭和4年)ロンドン代理店監督となる。
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月2… 江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。 佐賀県神埼郡蓮池村(現・佐賀市蓮池町)に生まれた。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。暮らしは貧しかった。6人兄弟姉妹の長男(姉2人と弟と妹2人)だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。 1897年(明治30年)春、小学校高等科を卒業した。薬の商売のほかに朝食前の塩売りを始めた。1901年(明治34年)6月、父が死去。
香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6… 香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6日 - 1950年〈昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 佐賀県出身。陸士14期、陸大24期。 佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した。 第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
田代 皖一郎(たしろ かんいちろう、1881年〈明治14年〉… 田代 皖一郎(たしろ かんいちろう、1881年〈明治14年〉10月1日 - 1937年〈昭和12年〉7月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。佐賀県多久市出身。陸士15期、陸大25期。 第一次上海事変終結直前にテロに倒れた派遣軍司令官白川義則大将の参謀長として事件を早期に収拾し、その手腕は高く評価された。その後、支那駐屯軍司令官となるが病を得て、司令官の職を香月清司中将に譲り、1937年(昭和12年)7月16日に亡くなった。盧溝橋事件が起ったとき、北京武官だった今井武夫陸軍少将は戦後、当時を回想して、「穏健で部下から信望を集めていた田代軍司令官が、危篤状態でなく、健在だったならば、日中戦争にいたらなかったかもしれない。
副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月… 副島 千八(そえじま せんぱち、1881年(明治14年)8月15日 - 1954年(昭和29年)2月15日)は、日本の明治期から昭和期の官僚。幣原内閣の農林大臣や関東証券の社長を務めた。位階および勲等は従三位、勲二等。 佐賀中学校(旧制)から郁文館中学校に転校。第一高等学校に進学し、1907年(明治40年)東京帝国大学法科大学を卒業した。 農商務省に入省し、農政課長、食糧局長、製鉄所次長、鉱山局長を歴任した。1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省商務局長に就任し、関税率改正準備委員会臨時港湾調査会、国産振興委員会委員、関税常設委員会、損害保険制度調査委員会、不当廉売審査委員会などの委員を務めた。
石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月… 石川 三郎(いしかわ さぶろう、1881年(明治14年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月10日)は、明治後期から昭和前期の陸軍軍人、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(立憲政友会)、佐賀県砥川村長。 佐賀県小城郡砥川村柳鶴(現在の江北町)出身。大地主・石川源蔵の三男として生まれる。砥川小学校、佐賀県立佐賀中学校を卒業。1900年(明治33年)、陸軍士官学校に入学し、1901年(明治34年)11月22日に卒業(13期)し、1902年(明治35年)6日23日に砲兵少尉に任じられた。日露戦争に従軍し、砲兵中尉に昇進。1906年(明治39年)陸軍砲工学校に入学し、1908年(明治41年)に同校高等科を卒業して砲兵大尉に任ぜられた。