於保 浩己(おほ ひろみ、1975年8月9日 - )は、佐賀… 於保 浩己(おほ ひろみ、1975年8月9日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(外野手)。
佐賀県:103人
於保 浩己(おほ ひろみ、1975年8月9日 - )は、佐賀… 於保 浩己(おほ ひろみ、1975年8月9日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(外野手)。
若林 隆信(わかばやし たかのぶ、1974年2月26日 - … 若林 隆信(わかばやし たかのぶ、1974年2月26日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(投手、内野手)、社会人野球選手。右投左打。父・若林淳至も元プロ野球選手である。
岸川 雄二(きしかわ ゆうじ、1973年7月17日 - )は… 岸川 雄二(きしかわ ゆうじ、1973年7月17日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(内野手)。
内田 大孝(うちだ ひろたか、1972年8月28日 -)は、… 内田 大孝(うちだ ひろたか、1972年8月28日 -)は、日本の元プロ野球選手(内野手)。
前間 卓(まえま たかし、1971年9月30日 - )は、佐… 前間 卓(まえま たかし、1971年9月30日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 鳥栖高では3年春に県大会決勝で9回二死までノーヒットノーラン、九州大会は準優勝。当初は筑波大への進学を希望していたが、1989年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから3位指名を受け入団。 プロ7年目の1996年に一軍初登板、初勝利を果たし、特に前半戦は先発・リリーフにフル回転の活躍を見せた。1997年オフにトレードでロッテへの移籍が決まっていたものの「野球への情熱がなくなった」、「引退後の将来が疑問」という理由からへの移籍を拒否し現役を引退した。 現在は、佐賀県鳥栖市にてTDE式頭蓋脊椎仙骨調整師として「あきぞら」を経営。
中井 伸之(なかい のぶゆき、1971年7月30日 - )は… 中井 伸之(なかい のぶゆき、1971年7月30日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)。 龍谷高時代は、3年次に春のセンバツに出場し、2試合連続完投でベスト8まで進出する。準々決勝では河原隆一が先発した横浜商に敗れた。チームメイトには一緒にプロ入りする田代広之がいた。 1989年オフ、ドラフト外で福岡ダイエーホークスに入団。 1992年から打撃投手になり、1993年に阪神へ移籍。1994年に台湾プロ野球・三商タイガースに入団。6勝を記録。 1年で帰国し、阪神タイガースで打撃投手として契約した。
香田 誉士史(こうだ よしふみ、1971年4月11日 - )… 香田 誉士史(こうだ よしふみ、1971年4月11日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元アマチュア野球選手、監督。現西部ガスコーチ。駒澤大学附属苫小牧高等学校元監督。血液型A型。
古里 泰隆(ふるさと やすたか、1971年4月9日 - )は… 古里 泰隆(ふるさと やすたか、1971年4月9日 - )は、佐賀県武雄市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。
江口 孝義(えぐち たかよし、1969年5月15日 - )は… 江口 孝義(えぐち たかよし、1969年5月15日 - )は、佐賀県小城市出身の元プロ野球選手(投手)。1996年の登録名は江口 嵩芳(読み同じ)。 佐賀工業高在学中、1987年に夏の選手権にエースとして出場を果たす。大会では最速148km/hを記録するなど、本格派右腕として脚光を浴びた。チームは初戦である2回戦で東海大甲府高を2-1で破ったが、3回戦で習志野高に4-12と大敗した。 プロ入りには消極的で、高校卒業後は社会人野球のNTT九州に入社する。入社後も「アマチュアNo.1投手」と高評価を受け、社会人2年目で全日本代表メンバーにも選出された。順風満帆であったが、社会人3年目に右肩を痛め、プロ入り前に「肩の故障があるからプロ入りは拒否」と各球団に提示。
緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )… 緒方 孝市(おがた こういち、1968年12月25日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(外野手、右投右打)。現在は野球解説者、野球評論家として活動している。 2021年9月から、2022年第8回「スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲーム」サポーター。 妻はタレントの緒方かな子。長女は声優の緒方佑奈。 佐賀県立鳥栖高等学校では3年春の九州大会でベスト8、夏は全国高等学校野球選手権佐賀大会でベスト4。出身高校である鳥栖高校の同級生にはオリンピックに出場経験のある元競泳選手の緒方茂生がいる。 1986年のドラフト会議で広島東洋カープが3位指名で交渉権を獲得し契約金3000万円、年俸360万円(金額は推定)で入団合意した。
藤井 将雄(ふじい まさお、本名:藤井 政夫〈読み同じ〉、1… 藤井 将雄(ふじい まさお、本名:藤井 政夫〈読み同じ〉、1968年10月16日 - 2000年10月13日)は、佐賀県唐津市出身のプロ野球選手(投手)。「将雄」は登録名にあたる。 炎の中継ぎと称された。 1968年に福岡市西区に生まれるが、1979年に父母の別居で姉・妹と共に母の出身地である佐賀県唐津市へ転居。母は呼子町の朝市で働き、将雄をはじめ3人の子を女手一つで育てた。なお、藤井の父は別居状態のまま1985年に急病で死去している。市立湊中学校から佐賀県立唐津商業高等学校へ進学。2年生時にエースとして1985年夏の甲子園県予選決勝に進むが、佐賀商に大敗を喫する。その後も甲子園には届かなかった。
山口 裕二(やまぐち ゆうじ、1965年7月5日 - )は、… 山口 裕二(やまぐち ゆうじ、1965年7月5日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投両打。 佐賀・龍谷高から、1983年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから2位指名を受け入団。 プロ3年目の1986年に一軍初出場。1989年はマイナーリーグA級のサリナス・スパーズ(英語版)に野球留学した。俊足の外野手として主に代走、守備固めとして起用されるが打撃力が弱く、しばらく一軍には定着できなかった。 プロ入り9年目の1992年、レギュラー中堅手である大野久の不振よりチャンスを得ると巧打で結果を残してレギュラー中堅手の座を掴んだが、6月序盤に肩を故障してしまいシーズンを棒に振ってしまう。
小川 浩一(おがわ こういち、1965年5月10日 - )は… 小川 浩一(おがわ こういち、1965年5月10日 - )は、佐賀県佐賀市東与賀町出身の元プロ野球選手(内野手)。
岸川 勝也(きしかわ かつや、1965年4月24日 - )は… 岸川 勝也(きしかわ かつや、1965年4月24日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者、野球解説者。 佐賀北高時代に46本塁打を放ち、注目される。打撃練習では頻繁に校外まで打球を飛ばし、近隣の民家や商店に直撃させていたため、外野のネットをより高く建て替えさせたという逸話が残っている。三塁手、四番打者として1983年夏の甲子園県予選決勝に進むが、エース内山正博を擁する鳥栖高に敗れて甲子園には届かなかった。 1983年度プロ野球ドラフト会議で仲田幸司のクジを外した南海ホークスから3位指名を受けて入団した。契約金3300万円、年俸320万円。長距離打者として期待された。 1985年に一軍に上がる。
新谷 博(しんたに ひろし、1964年7月14日 - )は、… 新谷 博(しんたに ひろし、1964年7月14日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)、野球監督。2013年現在、女子野球日本代表および尚美学園大学女子硬式野球部の監督、北海道放送の野球解説者、佐賀魂の総監督、ディレクト・アスリーツの取締役を務めている。
源五郎丸 洋(げんごろうまる ひろし、1964年1月15日 … 源五郎丸 洋(げんごろうまる ひろし、1964年1月15日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)。 東京都江東区生まれ。1978年5月、父の転勤で佐賀県に転居する。大分県立日田林工高等学校では2年生の時、1980年秋季九州大会で準々決勝に進むが、築上中部高に敗退。翌1981年春季九州大会では決勝で興南高を完封し優勝を飾っている。興南高のエースは竹下浩二であったがこの試合には登板しなかった。同年夏は県予選で敗れ甲子園には出場できなかったが、右の本格派として知られた。 1981年のドラフトで阪神タイガースは電電九州の右田一彦投手を1位指名するが、抽選で右田は横浜大洋ホエールズに交渉権を獲得され、外れ1位として指名された。
福地 経人(ふくち つねと、1963年1月29日 - )は、… 福地 経人(ふくち つねと、1963年1月29日 - )は、佐賀県多久市出身の元プロ野球選手(投手)。 小城高では2年夏の県大会ベスト4、九州産業大学に進学。福岡六大学野球リーグ戦で通算27勝6敗。80回連続無失点のリーグ記録を樹立。3年秋の九州歯科大戦でノーヒットノーランを達成した。大学選手権、明治神宮大会にも出場した。3年春秋ベストナイン。 1985年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから5位指名を受けて入団。 プロ1年目の1986年は、アメリカルーキーリーグに野球留学した。プロ2年目の1987年7月13日のロッテ戦で一軍初登板を果たすが、一軍登板はこの1試合のみで1990年限りで現役を引退。
中島 輝士(なかしま てるし、1962年7月27日 - )は… 中島 輝士(なかしま てるし、1962年7月27日 - )は、佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町)出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、プロ野球コーチ、プロ野球監督。
村岡 耕一(むらおか こういち、1960年7月17日 - )… 村岡 耕一(むらおか こういち、1960年7月17日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(内野手)。 1960年7月17日に佐賀県佐賀市で生まれる。大分県立日田林工高等学校では遊撃手として1978年の第60回全国高等学校野球選手権大会に出場するが、3回戦(対天理高等学校)で敗退する。卒業後は社会人野球の電電九州に入社し、1980年の第51回都市対抗野球大会、1981年の第52回都市対抗野球大会に連続出場を果たした。同僚にはのちに1981年のドラフト会議において阪急ブレーブスから指名される南牟礼豊蔵、村岡と同時に横浜大洋ホエールズへ入団する右田一彦が在籍していた。 同年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから3巡目で指名され、入団する。
辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、… 辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、佐賀県小城市牛津町出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称はハツ、はっちゃん。二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞している。
末次 秀樹(すえつぐ ひでき、1958年4月6日 - )は、… 末次 秀樹(すえつぐ ひでき、1958年4月6日 - )は、佐賀県三養基郡基山町出身の元アマチュア野球選手(捕手)、高校野球指導者。 柳川商業高校では、2年生の時に1975年の春の選抜に一塁手として出場した。1回戦で堀越高に敗退。同年夏は1学年先輩の加倉一馬らと県大会決勝に進出するが、小倉南高に敗れる。その後は捕手に転向。秋はエースの久保康生とバッテリーを組み県南部大会で優勝、九州大会は赤嶺賢勇が先発した豊見城高に完投されて惜敗。翌1976年の春は九州大会準決勝で豊見城高・赤嶺に雪辱し、決勝では酒井圭一が完投した海星高に勝利して優勝。夏の甲子園は三重高を降し3回戦に進出するが、PL学園高に敗退した。
川原 昭二(かわはら しょうじ、1953年11月17日 - … 川原 昭二(かわはら しょうじ、1953年11月17日 - )は佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手)。
加藤 博一(かとう ひろかず、1951年10月9日 - 20… 加藤 博一(かとう ひろかず、1951年10月9日 - 2008年1月21日)は、佐賀県多久市(旧・小城郡)出身のプロ野球選手(外野手、右投両打)、野球解説者、タレント。 多久工業高時代は足の速さを買われ、地元の駅伝大会に陸上部の助っ人として出場した事がある。打撃練習時には隣接する多久警察署(現在の小城警察署多久幹部派出所)に打球が何度も飛んでいったためにネットが増設され、通称「加藤ネット」といわれた。高校の2年後輩に、マラソン選手で現在は天満屋陸上競技部監督を務める武冨豊や、大相撲幕内力士の天ノ山静雄がいた。 国士舘大学や社会人野球チームからも勧誘されていたが、1969年に西鉄ライオンズへドラフト外で入団。
百田 慎太郎(ももた しんたろう、1951年 - )は、日本… 百田 慎太郎(ももた しんたろう、1951年 - )は、日本の元アマチュア野球選手(投手)。 有田工業高校では、エースとして1969年夏の甲子園県予選に出場し、1回戦で龍谷高校を相手にノーヒットノーランを達成し、2回戦でも神埼農業高校を相手にノーヒットノーランを達成する。しかし、準々決勝で佐賀商業高校に敗れ、甲子園への出場を果たすことができなかった。 同年のドラフト会議で巨人から14位指名を受けたが、入団を拒否。 卒業後は福岡大学に進学。大学卒業後は電電東海に入社。
緒方 修(おがた おさむ、1950年6月17日 - 2021… 緒方 修(おがた おさむ、1950年6月17日 - 2021年2月9日)は、佐賀県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 厳木高校では、エースとして1967年秋季九州大会に進むが、1回戦で楠城徹のいた小倉高に敗退。 1968年ドラフト会議で南海ホークスから2位指名を受け入団。九州では屈指の本格派投手として稲尾二世と評判が高く巨人、西鉄、中日なども目をつけていた。 上手投げでスピードはないが、落ちるカーブを主体にスライダーとシュートを内角に散らすピッチングが持味だった。 1971年に一軍に上がり、9月5日には東映を相手に初先発を果たす。9月15日には阪急を相手に先発、石井茂雄と投げ合い6回2/3を1失点と好投、プロ初勝利を記録した。
永尾 泰憲(ながお やすのり、1950年5月2日 - )は、… 永尾 泰憲(ながお やすのり、1950年5月2日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(内野手)。娘は関西地区でレポーター・ナレーターとして活躍する永尾光湖。
渡辺 博敏(わたなべ ひろとし、1948年11月23日 - … 渡辺 博敏(わたなべ ひろとし、1948年11月23日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 伊万里高校から日本大学へ進学。大学卒業後は一度野球から離れ教職に就いた。 しかしプロ野球への夢を捨てきれず、当時福岡を本拠地としていた西鉄ライオンズの入団テストを受験し合格。1970年のドラフト外で西鉄ライオンズへ入団する。 西鉄では出場の機会はなく、1972年オフに金銭トレードで阪神タイガースへ移籍。移籍後、1974年に一軍初登板。1976年オフに現役を引退した。サイドスローからの癖球を武器としていた。 引退後は運動用品メーカーに勤務していた。1999年には、国際協力機構の知人を通じてアフリカのガーナで野球指導を行っている。
若林 淳至(わかばやし じゅんじ、1946年-1998年7月… 若林 淳至(わかばやし じゅんじ、1946年-1998年7月31日)は元プロ野球選手(投手)である。
川内 八洲男(かわうち やすお、1945年11月27日 - … 川内 八洲男(かわうち やすお、1945年11月27日 - 2014年7月2日)は、佐賀県藤津郡出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 佐賀県立鹿島高等学校では、1962年秋季九州大会県予選準決勝に進むが、佐賀商に敗退。翌1963年夏も県予選準々決勝で龍谷高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 1964年に近鉄バファローズへ入団。 1965年のジュニアオールスターに選出された。 1967年には中継ぎとして一軍に定着、初勝利を挙げた。 1968年は39試合に登板、8月20日には初先発で西鉄ライオンズに完封勝利、同年は4勝を記録した。 1970年オフに伊藤竜彦とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。 1971年には、4月から先発陣の一角として起用され、43試合に登板、自己最多勝利となる7勝を記録。
佐賀ノ海 輝一(さがのうみ てるかず、1945年10月20日… 佐賀ノ海 輝一(さがのうみ てるかず、1945年10月20日 - 1999年10月3日)は、佐賀県佐賀郡諸富町(現在の佐賀市)出身で、近鉄バファローズ所属の元プロ野球選手(投手)、井筒部屋(後に君ヶ濱部屋)所属の元大相撲力士。本名は土師 一男(はじ かずお)。大相撲時代は身長185cm、体重107kg、得意手は左四つ、寄り、上手投げ。最高位は西十両11枚目(1972年7月場所)。土師一夫の四股名でも関取在位がある。 佐賀県立佐賀工業高等学校を経て1964年に近鉄バファローズに入団。2年間在籍するも一軍登板なく退団した。 退団後すぐに力士に転向し、大相撲の井筒部屋に入門して1965年11月場所で初土俵を踏んだ。
城野 勝博(じょうの かつひろ、1944年8月17日- )は… 城野 勝博(じょうの かつひろ、1944年8月17日- )は、佐賀県出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは投手。 鳥栖工業高校では、1年生の時、エースとして1960年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、西九州大会決勝に進出するが、鹿島高の宮崎昭二投手に完封を喫する。1962年夏にも西九州大会準決勝まで進むが、大崎高に敗退し、甲子園出場はならなかった。卒業後、1963年に広島カープへ入団。 重い速球と切れの良いシュートを主な武器とし、1年目から一軍で投げた。だが、好投しても打線の援護に恵まれない不運に多く見舞われた事もあって、本来の力を出し切れなかった。1967年に一軍初勝利、10月には大洋ホエールズを相手に初完封を記録するが、その後は低迷。
藤本 典征(ふじもと のりゆき、1944年7月29日 - )… 藤本 典征(ふじもと のりゆき、1944年7月29日 - )は、日本のプロ野球選手、審判員。元パシフィック・リーグ審判部長。 佐賀県出身。佐賀県立伊万里高等学校卒業後、1963年に投手として広島カープに入団も、肩を痛め一軍出場はなし。引退後、晃商事を経て1969年パ・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は24(1977年初採用から。指導員に転じた2002年以降もつけていたが専任となった2003年から返上し以降空き番。)。1978年、34歳にして日本シリーズ初出場を果たすと、以降1978年から1988年まで11年連続日本シリーズ出場と、シリーズの常連審判となった。1998年から2001年まで審判部長を務め、通算3242試合出場、オールスター7回出場(1976年、1977年、1981年、1985年、1989年、1997年、1998年。
宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )… 宮崎 昭二(みやざき しょうじ、1943年4月16日 - )は、佐賀県鹿島市出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿島高校では2年次の1960年に投手として夏の甲子園に出場し、熊本商、平安高、明石高を降して勝ち進む。準決勝ではこの大会に優勝した法政二高と対戦するが、同じ2年生エースの柴田勲らに抑えられ完封負けするが、佐賀県勢初のベスト4入りの原動力となった。同年の熊本国体にも出場するが、1回戦で秋田商の今川敬三(早大-秋田商監督)に完封を喫する。3年次の1961年夏には西九州大会準決勝に進出するが、海星高のエース池辺巌を崩せず惜敗、夏の選手権への連続出場はならなかった。 卒業後の1962年に東映フライヤーズへ入団し、1年目の同年から一軍に上がる。
永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は… 永渕 洋三(ながふち ようぞう、1942年5月4日 - )は、佐賀県佐賀市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。
蒲原 弘幸(かもはら ひろゆき、1939年4月22日 ‐ )… 蒲原 弘幸(かもはら ひろゆき、1939年4月22日 ‐ )は、日本の高校野球指導者。佐賀県出身。4校を甲子園大会に導いている。 佐賀県佐賀市(旧川上村)の生まれ。上京後、東京都立田園調布高等学校に進学。早稲田大学では野球部で三塁コーチを務めた。卒業後は河合楽器硬式野球部に所属したが、教員試験合格後、1964年に佐賀県立佐賀商業高等学校の監督に就任。翌年に第47回全国高等学校野球選手権大会出場に導いたが、スパルタ指導が問題視され辞任。その後、千葉県に移り、千葉県立東金商業高等学校では甲子園に導けなかったが、千葉県立千葉商業高等学校では1970年の第42回選抜高等学校野球大会に導いている。1974年に千葉県立印旛高等学校に移り3度の甲子園出場を果たす。
権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、… 権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手・内野手、右投右打)・コーチ・監督・野球解説者・野球評論家。 現役時代は中日ドラゴンズでプレーし、全盛期は短いながら1961年から1962年にかけて2年連続で30勝以上を記録してセントラル・リーグの最多勝利投手となるなど、エース投手として活躍、新人年の1961年にはセ・リーグの投手三冠(最多勝・最優秀防御率・最多奪三振)を達成、沢村賞と同リーグの新人王を同時受賞した。投手としての通算成績は5年間で210登板、1136投球回、82勝60敗、667奪三振、防御率2.69。引退後は中日や近鉄バファローズ、福岡ダイエーホークス、横浜ベイスターズでコーチを、また1998年から2000年には横浜の監督を務め、横浜監督就任1年目の1998年にはチームを38年ぶりのセ・リーグ優勝と日本シリーズ優勝に導いた。
打越 敏彦(うちこし としひこ、1936年11月30日 - … 打越 敏彦(うちこし としひこ、1936年11月30日 - 2003年3月3日)は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手。 常磐高校から1956年に西鉄ライオンズへ入団。 1958年シーズン終了後トレードで中日ドラゴンズへ移籍。 1962年に近鉄バファローズへ移籍し、同年引退。 西鉄時代はバッティングピッチャーやブルペンキャッチャーとしての仕事が多く、出場機会はほぼなかった。1958年に西鉄が日本シリーズ三連覇を果たした際には、これまでの貢献を考慮して三原監督から金一封が送られた。
原 貢(はら みつぐ、1936年〈昭和11年〉3月30日 -… 原 貢(はら みつぐ、1936年〈昭和11年〉3月30日 - 2014年〈平成26年〉5月29日)は、佐賀県神埼郡三田川町(現:吉野ヶ里町)出身のアマチュア野球監督・社会人野球選手。東海大学硬式野球部名誉総監督。 長男は元プロ野球選手・監督の原辰徳。孫(長女の長男)はプロ野球選手の菅野智之。 佐賀県立鳥栖工業高校卒業、立命館大学中退。社会人野球の東洋高圧大牟田を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。1965年に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、三池工フィーバーを起こした。 その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者:総長松前重義の招きで1966年12月9日に大牟田を発ち、翌10日に神奈川県着。
田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2… 田中 久寿男 (たなか くすお、1935年4月24日 - 2001年2月24日)は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)・コーチ。 長男の浩二は、かつて俳優として活動していた。 佐賀工業高校から東洋高圧大牟田を経て、投手として1955年に西鉄ライオンズへ入団。 2年目の1956年に4月15日の近鉄戦ダブルヘッダー第2試合(大阪)にて初登板で先発投手を任されるが、打者2人に1安打1四球で1死も取れずに降板。シーズン中盤には野手に転向した。3年目の1957年には河野昭修と一塁手のレギュラーを争い、三塁手や外野手としても起用され、同年は50試合に先発出場。1958年の巨人との日本シリーズでは全7戦中5戦に先発出場するが、19打数3安打と活躍できなかった。
吉田 勝豊(よしだ かつとよ、1935年3月21日 - 20… 吉田 勝豊(よしだ かつとよ、1935年3月21日 - 2016年3月9日)は、佐賀県武雄市出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ。 武雄高校では、1951年秋季九州大会県予選準決勝に進むが佐賀高に敗退。翌1952年夏の甲子園県予選も準決勝で佐賀商に敗れる。卒業後は日鉄二瀬に入社し、1956年の都市対抗に四番打者として出場。1回戦では本塁打を放ち富士製鐵室蘭を降すが、2回戦で日本コロムビアに9回サヨナラ負け。チームメートには古葉竹識・江藤慎一・井洋雄らがいた。 1957年、東映フライヤーズへ入団。3月30日の阪急との開幕戦(西宮)では新人ながら四番左翼手に抜擢され、梶本隆夫からプロ初安打を放つ。
権藤 正利(ごんどう まさとし、1934年5月1日 - )は… 権藤 正利(ごんどう まさとし、1934年5月1日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)。
久保山 誠(くぼやま まこと、1934年4月15日 - 20… 久保山 誠(くぼやま まこと、1934年4月15日 - 2022年7月17日)は、佐賀県三養基郡基山町出身のプロ野球選手(捕手)・監督。 鳥栖工業高校卒業後の1953年に西鉄ライオンズへ入団し、2年目の1954年に初出場。リーグ優勝した1956年には自己最多の59試合出場で4本塁打を放ち、巨人との日本シリーズでは7戦中2戦に3番手としてマスクを被る。三原脩監督のポスト日比野強化の構想により、和田博実・田辺義三と正捕手の座を競い合ったが、結局は同年がキャリアハイとなった。1960年には阪急ブレーブスへ移籍するが、1年で退団。 退団後は阪急のチームメイトであった藤木孝二と共に電気化学工業へ入社し、引退後は監督に就任。
久保山 和夫(くぼやま かずお、1933年10月20日 - … 久保山 和夫(くぼやま かずお、1933年10月20日 - )は、佐賀県出身のプロ野球審判員。 佐賀県立鳥栖工業高等学校卒業後、立命館大学に入学。大学卒業後にパ・リーグ審判部に入局し、3000試合出場を達成するなど長らく活躍、1995年まで現役をつとめた。審判員袖番号は8(1977年初採用から1995年引退まで、8は1997年以降栁田昌夫がつけている)。日本シリーズ3回、オールスター6回出場しており、1970年代から1980年代を代表する名審判であった。 通算試合出場数は3190試合。 プロ野球を離れてからは少年野球の審判指導などで活躍。京都府K-Ball少年野球連盟の理事(審判部長)も務めた。
木塚 忠助(きづか ただすけ、1924年4月23日 - 19… 木塚 忠助(きづか ただすけ、1924年4月23日 - 1987年12月16日)は、佐賀県唐津市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。 昭和20年代を代表する遊撃手。1948年に南海に入団すると、長らく不動の一番・遊撃手を務め、ベストナイン遊撃手を7回獲得した。強肩・俊足でバカ肩、イダ天とも称された。通算盗塁数479個は歴代4位(引退当時はプロ野球最多記録)。 唐津中学(現・佐賀県立唐津東高校)出身。野球を始めたのは3年からと遅かったが、5年次には佐賀県大会で1試合16奪三振を記録する好投手となり、職業野球からも誘いを受けた。しかし警察官の父親の勧めで、鉄道省門司鉄道局に進む。 門鉄では三塁手を務め、俊足・強肩・強打の三拍子揃った活躍を見せた。
林 茂(はやし しげる、1923年11月30日 - 生死不明… 林 茂(はやし しげる、1923年11月30日 - 生死不明)は、佐賀県出身の元プロ野球選手。 佐賀県立唐津中学校、横浜高等工業学校を経て1950年に西日本パイレーツに入団。1951年に松竹ロビンスに移籍。オーバースローから、内角低めの重いシュートと、外角に落ちるカーブを武器とした。翌年退団。
石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1… 石丸 進一(いしまる しんいち、1922年7月24日 - 1945年5月11日)は、プロ野球選手(投手・内野手)、大日本帝国海軍軍人。
荒木 正(あらき ただし、1921年8月27日 -没年不明 … 荒木 正(あらき ただし、1921年8月27日 -没年不明 )は、佐賀県出身のプロ野球選手。 唐津商業学校から門司鉄道管理局を経て、1941年に南海軍へ入団。1944年に退団。
川崎 徳次(かわさき とくじ、1921年5月7日 - 200… 川崎 徳次(かわさき とくじ、1921年5月7日 - 2006年4月25日)は、プロ野球選手(投手、外野手)・監督。
酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月… 酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月) は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1936年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも投手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年2月、南方諸島(正確な死没地、没月日は不明)で戦死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の先輩である鶴崎俊篤と共に、彼の名前が刻まれている。
石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年7月25日 - 1… 石丸 藤吉(いしまる とうきち、1914年7月25日 - 1991年11月21日)は、佐賀県佐賀市出身のプロ野球選手(内野手)。