原 恵(はら めぐみ、男性、1927年 - 2009年7月1… 原 恵(はら めぐみ、男性、1927年 - 2009年7月19日)は、日本の教育者、アマチュア天文家。 1927年に東京府に生まれる。青山学院大学文学部英文学科卒業後、同大学院修士課程を修了。オハイオ州立大学大学院修士課程を修了、1954年に文学修士、1956年にマスター・オブ・アーツ。専攻は賛美歌学。日本キリスト教協議会勤務ののち、青山学院大学講師、助教授、教授を歴任した他、フェリス女学院大学音楽部講師、東京神学大学講師、日本聖書神学校講師等を務めた。1996年3月に退官後は青山学院大学名誉教授。 1964年から90年にかけて日本基督教団讃美歌委員を務め、その間『讃美歌第二編』の編集委員、『讃美歌21』の編集委員、讃美歌改訂委員として編集に参与。
冨田 弘一郎(とみた こういちろう、1925年2月16日 -… 冨田 弘一郎(とみた こういちろう、1925年2月16日 - 2006年5月22日)は、日本の天文学者。本格的なプロフェッショナルの天体観測を公共の天文台で職業として行なった草分け的な日本人の一人である。 東京府(現・東京都)出身。小惑星を多数発見し、2009年までにそのうち9個が番号登録され、7個が命名されている。 小惑星 (2391) 冨田は彼にちなんで命名された。
稲垣 富士男(いながき ふじお、1925年2月12日 - )… 稲垣 富士男(いながき ふじお、1925年2月12日 - )は、日本の経営学者・会計学者。商学博士(論文博士・1969年)。青山学院大学名誉教授。勲三等旭日中綬章受章。 東京市(現江東区)出身。1942年旧制日本大学第一中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒、1945年陸軍経理学校卒、1947年中央大学商学部卒、同大学院商学研究科博士課程中退、1969年「連結財務諸表論 アメリカにおける発展を中心として」で、商学博士の学位を取得。 中央大学助教授、日本大学商学部助教授、青山学院大学経営学部教授。1993年定年、名誉教授。 2002年、勲三等旭日中綬章受章。
富岡 素敬(、1924年〈大正13年〉6月15日 - 201… 富岡 素敬(、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2011年〈平成23年〉12月20日)は、日本の特撮映画撮影監督。東京都出身。 1947年(昭和22年)、青山学院大学経済学部を卒業し真持映画に入社。16ミリフィルムの技術現像を研究。 1948年(昭和23年)、東横映画に入社。撮影助手を務める。 1950年(昭和25年)、円谷特殊技術研究所に所属。 1954年(昭和29年)、東宝撮影所の撮影助手として入社。映画『ゴジラ』の撮影に参加する。 1961年(昭和36年)、『モスラ』で特殊撮影係に就任。 1966年(昭和41年)、特撮映画のメインカメラマンとなる。 1976年(昭和51年)、東宝映像美術を退社。
荒井 欣一(あらい きんいち、1923年7月6日 - 200… 荒井 欣一(あらい きんいち、1923年7月6日 - 2002年4月18日)は、日本のUFO研究者。 東京都生まれ。青山学院高等商学部卒業。 復員後、大蔵省勤務、書店経営を経て、不動産業の傍らUFOを研究していた。1955年に日本初の全国的UFO団体・日本空飛ぶ円盤研究会を結成する。2年後、各団体を結集して「日本空飛ぶ円盤研究連合」に発展させた。 ピー・プロダクションの庶務課長をつとめていたこともある。 1979年9月に日本のUFO研究活動の拠点として東京・品川にUFOライブラリーを開設した。 1995年4月に自宅兼貸ビルにUFO展示室をオープンした。著書に「UFO年鑑」「UFO遭遇事典」などがある。
平光 淳之助(ひらみつ じゅんのすけ、1923年〈大正12年… 平光 淳之助(ひらみつ じゅんのすけ、1923年〈大正12年〉4月10日 - 2017年〈平成29年〉3月17日 )は、フリーアナウンサーで、元NHKアナウンサー。本名同じ。 東京府出身。旧制青山学院高等部卒業、青山学院大学文学部英米文学科出身。三菱商事、リーダーズ・ダイジェスト社を経て1951年にNHK入局。秋田放送局、仙台放送局を経て1954年から東京勤務。1959年には皇太子明仁親王と美智子妃の御成婚パレードの実況放送を担当。1960年からワシントンVOA局に日本語放送アナウンサーとして派遣、1962年に帰国。1981年にNHK退職後はテレビ東京(1981年9月まで「東京12チャンネル」)の局契約を経てフリー。
冨山 實(とみやま みのる、大正12年(1923年)2月20… 冨山 實(とみやま みのる、大正12年(1923年)2月20日 - )は、日本の税理士。 青山学院大学文学部教授・冨山太佳夫は長男。 鳥取県西伯郡日吉津村出身。百姓の長男である。 昭和15年(1940年)鳥取県立米子商蚕学校卒業。同年広島国税局松江税務署勤務。 昭和42年(1967年)広島国税局直税部資産税課課長補佐を最後に退職。同年税理士登録、三社の監査役に就任。 昭和45年(1970年)米子市坂口合名会社支配人、昭和54年(1979年)同常務理事、昭和59年(1984年)同常任監査役。 実業家坂口平兵衛 (2代)との関係について、冨山實によれば
江本 三千年(えもと みちとし、1922年 - 1987年7… 江本 三千年(えもと みちとし、1922年 - 1987年7月30日)は、日本のアナウンサー。 青山学院専門部(現在の青山学院大学)在学中に、陸上競技の選手として活躍。同校にとって初めての箱根駅伝であった1943年の第22回大会(「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」として開催)では、5区の走者に起用されると、1時間47分53秒というタイム(出場11校中区間8位)を記録した。 1951年に新日本放送(NJB。1958年より毎日放送=MBS)へ第1期生として入社したが、1953年に日本テレビ(NTV)へ第1期生として移籍。移籍後は、主にスポーツ中継の実況を担当した。1955年には、東宝の配給で公開された野球映画『不滅の熱球』へ、同僚アナウンサーの茂木太郎・大平和夫・越智正典とともに出演した。
新庄 哲夫(しんじょう てつお、1921年10月28日 - … 新庄 哲夫(しんじょう てつお、1921年10月28日 - 2006年1月10日)は、日本のアメリカ文学者、ジャーナリスト、編集者、翻訳家。本名は新庄 哲雄(読みは同じ)。 アメリカ合衆国サンフランシスコ生まれ、山口県岩国市が本籍。1943年学徒動員により青山学院英文科を繰り上げ卒業、東京新聞外報部勤務となり、戦時下の外務省、戦後のGHQを担当。1953年にハーマン・ウォークの『ケイン号の反乱』の翻訳を上梓しベストセラーとなる。1957年出版部勤務となり「週刊東京」担当、1960年の同誌廃刊とともに本社編集委員。朝夕刊のコラムを執筆、1968年に退社。 大妻女子大学短期大学部教授に就任後、数多くの英米の小説、ノンフィクションを翻訳。
藤原 審爾(ふじわら しんじ、1921年3月7日 - 198… 藤原 審爾(ふじわら しんじ、1921年3月7日 - 1984年12月20日)は、日本の小説家。幾度も大病を患いながら、純文学からサスペンス、恋愛ものやハードボイルドなど、幅広いジャンルの作品を発表し、「小説の名人」の異名をとった。また映画化された作品の多さから「映画に愛された小説家」とも評される。女優藤真利子は息女。直木賞、小説新潮賞受賞。 東京市本郷に生まれる。3歳で母と生別、6歳で父と死別し、父の郷里である岡山県片上町(現在の備前市・法鏡寺がある場所)で祖母に育てられた。閑谷中学校在学中に祖母とも死別、青山学院高等商業部に進むが、肺結核のため中退する。療養生活を続けながら雑誌社で編集を手伝う傍ら、外村繁に投書雑誌の選者をしていた縁で師事して創作活動を行い、同人誌『曙』を発行。
鈴木一郎(すずき いちろう、1920年 - 2006年)は、… 鈴木一郎(すずき いちろう、1920年 - 2006年)は、西洋古典学者。アメリカのサンフランシスコで生まれる。 東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)および青山学院専門部を経て、1945年東北帝国大学法文学部哲学科卒業、1948年東北大学特別大学院第一期修了。1948‐1963年青山学院大学文学部助教授、1949年ボストン大学、スイスのフリブール大学に留学、ボストン大学修士。1956年帰国。1963年国際文化振興会(KBS、現:国際交流基金)事業部長、1972年組織変更に伴い国際交流基金に移籍、企画室長、資料部長等を歴任。1979年津田塾大学教授、1988年‐1993年恵泉女学園大学教授および図書館長、財団法人学会誌刊行センター監事。
金 溶益(キム・ヨンイク、김용익、1920年 - 1995年… 金 溶益(キム・ヨンイク、김용익、1920年 - 1995年)は韓国の小説家である。慶尚南道統営出身。 1956年、『Harper's Bazaar』に「The Wedding Shoes」を発表して、アメリカ合衆国で作家活動を始めた。1976年発表した「Village Wine」は、アメリカの最高優秀短編(Best American Short Stories)として選ばれた。 1957年から1964年まで、高麗大学と梨花女子大学で講義をし、この時期に英語で書かれた小説のほとんどを韓国語に翻訳して出版した。1964年には、再び渡米して西イリノイ大学(Western Illinois University)、UCバークレー大学(University of California, Berkeley)などで小説創作などを教えた。
久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛、1919年6月6… 久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛、1919年6月6日 - 1982年6月15日)は、日本の男性俳優、声優、青二塾(東京校)初代塾長。元青二プロダクション所属。
鵜澤 昌和(うざわ まさかず、1918年(大正7年)11月2… 鵜澤 昌和(うざわ まさかず、1918年(大正7年)11月24日 - 2019年(平成31年)2月4日)は、日本の経営学者。青山学院大学名誉教授。専門分野は、経営情報システム、コンピューター応用、オフィスオートメーション。 青山学院大学学長、東京家政学院大学学長、日本ファシリティマネジメント推進協会会長、日本セキュリティ・マネジメント学会会長等を歴任し、藍綬褒章、勲三等旭日中綬章を受章した。 東京都生まれ。旧制明治中学校(現明治大学付属明治高等学校)在学中、同校校長を務めていた父鵜澤總明(明治大学総長)が通っていた富士見町教会で洗礼を受ける。1936年に明治中学を卒業し、旧制東京商科大学(現一橋大学)予科に進学。
陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28… 陸井 三郎(くがい さぶろう、1918年(大正7年)6月28日 - 2000年(平成12年)1月13日)は、日本の国際政治評論家である。『ハリウッドとマッカーシズム』などの著作で知られる。 東京出身。1940年、青山学院(のちの青山学院大学)高等商学部を卒業。第二次世界大戦中は太平洋協会、戦後は世界経済研究所に勤務し、アメリカ研究所長(1966年 - 1973年)、アジア・アフリカ研究所員(1961年 - 2000年)、「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」事務局長(1966年 - 1975年)を歴任した。1967年、ベトナム戦争における米国の戦争犯罪を裁く民衆法廷「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)に参加し、調査や証言を行った。
永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011… 永瀬 隆(ながせ たかし、1918年2月20日 - 2011年6月21日)は、日本の英語教師、社会活動家、元陸軍通訳。 岡山県都窪郡福田村(現:岡山県岡山市南区福田地域)生まれ。 1941年青山学院文学部英語科を卒業。同年12月、英語通訳として陸軍省に入省する。1943年、婚約者を置いてタイに赴き泰緬鉄道の建設にあたり、『建設作戦要員』として通訳に従事する。6万2千人ちかくのうち約1万3千人が死んだといわれる連合軍捕虜(en:Far East prisoners of war)虐待(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件)の現場に出くわし、戦後において、この一件についての証言活動に至る。1945年9月、イギリス軍の墓地捜索隊の通訳となる。
新間 進一(しんま しんいち、1917年9月3日 - 200… 新間 進一(しんま しんいち、1917年9月3日 - 2005年12月11日)は、日本の国文学者。北海道大学助教授・青山学院大学教授を経て、青山学院大学名誉教授。 兵庫県神戸市出身。東京芝生まれ。父は神戸市日蓮宗妙法華院住職・新間智啓。神戸一中、六高を経て、1940年東京帝国大学文学部国文学科卒、同大副手。佐佐木信綱に師事した歌人でもある。1946年白百合女子専門学校教授、1950年北海道大学文学部助教授、1957年文部省教科書調査官、1966年青山学院大学教授、1986年定年、名誉教授。中古・中世和歌と近代短歌を研究、特に「梁塵秘抄」と与謝野晶子研究で知られる。2005年、呼吸不全のため88歳で死去。
浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 -… 浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のソングライター。兵庫県神戸市出身。愛称はハマクラ。府立四中卒業、早稲田大学中退。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は子。元女優の渚まゆみは妻。
鬼澤 正巳(おにざわ まさみ、1917年〈大正6年〉7月12… 鬼澤 正巳(おにざわ まさみ、1917年〈大正6年〉7月12日 - 2002年〈平成14年〉12月22日)は、日本の経営者。三井生命保険社長、会長を務めた。位階は従四位。 東京都出身。1949年に青山学院高等商学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社。 1967年5月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1976年4月に副社長に就任し、1981年7月には社長に昇格。1987年4月に会長に就任し、1993年4月に取締役相談役を経て、1996年7月から相談役を務めた。 青山学院大学理事も務めた。 1985年11月に藍綬褒章を受章し、1990年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 2002年12月22日肺炎のために死去。
柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年… 柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年11月)は、日本のジャーナリスト、実業家。日米にまたがる広い人脈を駆使して、日本へのテレビ導入と日本テレビ設立、原子力利用、ゴルフブームに重要な役割を果たした。正力松太郎とも深く関係している。
間垣 洋助(まがき ようすけ、1916年9月29日 - 19… 間垣 洋助(まがき ようすけ、1916年9月29日 - 1990年10月19日)は、日本のプロテスタントの神学者。 台湾出身。青山学院大学大学院修了。1983年「ヨハネ福音書のキリスト論」で立教大学神学博士。日本ルーテル神学大学教授、1979年から1984年まで図書館長、学長。
大窪 愿二(おおくぼ げんじ、1915年(大正4年)5月9日… 大窪 愿二(おおくぼ げんじ、1915年(大正4年)5月9日 - 1986年(昭和61年)5月18日)は、日本の政治学者、翻訳家。専門は日本政治、国際政治。在日カナダ大使館顧問、聖徳学園岐阜教育大学教授を務めた。 1915年、秋田県生まれ。1926年、新潟市に転居。1933年に新潟県立新潟中学校を卒業し、青山学院文学部に入学。英語師範科で学び、1937年に卒業。1938年、太平洋問題調査会(通称IPR)就職する。以後、2度の従軍経験をはさんで1949年までIPRや世界経済調査会などのシンクタンクに勤務する。 1938年に、日本生まれのカナダの歴史家E・H・ノーマンとIPRのオフィスで出会い、交際が始まる。
宇梶 清司(うかじ きよし、1914年11月25日 - 19… 宇梶 清司(うかじ きよし、1914年11月25日 - 1998年12月8日)は、日本の経営者。茨城県出身。 1937年に青山学院商学科を卒業。1948年から1950年までにペンシルヴァニア大学院に留学。 大正海上火災保険での勤務を経て、1941年に東洋経済新報社に転じ、1970年11月に専務に就任し、1972年11月から1978年12月までに社長を務めた。石橋湛山記念財団監事も務めた。 1998年12月8日呼吸不全のために死去。84歳没。
猪木 正道(いのき まさみち、1914年(大正3年)11月5… 猪木 正道(いのき まさみち、1914年(大正3年)11月5日 - 2012年(平成24年)11月5日)は、日本の政治学者。京都大学名誉教授。第3代防衛大学校校長、財団法人平和・安全保障研究所顧問を歴任。「日本政治学界の大御所的存在で、安全保障問題の論客」として知られた。専門は、政治思想。学位は、法学博士(京都大学・1962年)。 1914年、京都府京都市で生まれた。6歳から16歳までを三重県上野(現在の伊賀市)で過ごした。1931年に旧制三重県立上野中学校を卒業し、旧制第三高等学校文科乙類に進学。1934年に同校を卒業。 東京帝国大学経済学部に進学し、在学中は河合栄治郎の演習に参加。自由主義と社会主義の双方に立脚した自らの思想を育んでいった。
白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年… 白 石(ペク・ソク、백석、1912年7月1日 - 1996年1月7日)は、北朝鮮の詩人。平安北道定州の出身。 本貫は水原白氏。本名は白夔行。1929年に日本へ留学。青山学院英文科を卒業したのち咸興で英語教師となった。ペンネームの「石」という一字は、敬愛していた石川啄木から取っている。なお白石の出生年は啄木の没年でもあり、同時代的な交流はない。 白石の詩の世界は、当時のモダニズムの影響をうけながらも、郷土的な叙情の世界を方言で表す特徴を持っている。1938年の作『私とナターシャと白いロバ』ではモダニズムのイメージを用い、『エビガラスズメが来る夕方』『カズラン峠』などでは一般の読者もわからない方言を用いるなど、民俗的な世界を表している。
原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - … 原子 林二郎(はらこ りんじろう、1912年3月10日 - 1980年6月25日)は、日本のジャーナリスト、ロシア語翻訳家、国際問題評論家。 戦前は同盟通信社の記者の傍らロシア文学を翻訳、戦後は時事通信社の記者として主としてロシア問題を論じていたが、1959年、社命によりボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を初めて日本語に翻訳した。 秋田県生まれ。1933年、青山学院文学部英語師範科卒業。 1939年、同盟通信社入社。1945年、時事通信社に入社し、外信部長、モスクワ特派員、時事研究所長などを歴任。1971年退職。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
川越 博(かわごえ ひろし、1911年(明治44年)2月17… 川越 博(かわごえ ひろし、1911年(明治44年)2月17日 - 1968年(昭和43年)11月9日) は、昭和期の新聞記者、政治家、秘書官。衆議院議員(2期)。 宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。1932年(昭和7年)青山学院高等学部(現青山学院大学)英語師範科を卒業した。 報知新聞社に入社し政治部記者となる。その後、東亜研究所嘱託、日本興亜同盟書記、輿論科学研究所理事、日向青年同志会常任委員などを務めた。 戦後、1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から日本協同党公認で出馬して落選したが、甲斐政治の辞職に伴い同年7月に繰上補充となった。1947(昭和22年)4月の第23回総選挙で宮崎県第2区から国民協同党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1… 竹脇 昌作(たけわき しょうさく、1910年9月5日 - 1959年11月9日)は、日本のアナウンサー。 新潟県出身とされる一方、戸籍謄本には「富山県射水郡作道村大字殿村津幡江村(現在の射水市殿村)生まれ」と記載されている。 もし新潟県生まれだった場合、同県生まれ初のNHKアナウンサーである可能性が極めて高い。 青山学院大学英文科卒業。子供のころから美声として評判で、1934年にNHKが初めて行った全国規模のアナウンサー採用試験に合格し、同期25名の一員として4月に入局したが、わずか1か月後の養成期間中に退職した。退職理由はNHKが解雇したもので、竹脇のアナウンサーとしての能力を認める同期のアナウンサーたちは、解雇の話を聞いて抗議しようとしたが、竹脇が「解雇理由は分かっている。
津田 信敏(つだ のぶとし、1910年1月16日 - 198… 津田 信敏(つだ のぶとし、1910年1月16日 - 1984年1月4日)は、舞踊家。静岡県出身。 青山学院大学英文学科卒業。在学中より児童舞踊から活動を開始。芸術舞踊へ活動の場を広げる。 1935年、モデルネ・タンツ(いわゆるモダンダンス)研究のためドイツ留学。マックス・テルピス舞踊学校やドイツ国立舞踊大学で学んだ。帰国後は津田信敏近代舞踊学校をひらくなどして数々の影響を与えた。 1952年、元藤燁子(1928-2003)と結婚。津田近代舞踊学校(津田・元藤近代舞踊研究所、のちのアスベスト館)を設立した。1962年、津田は、元藤燁子と別れ、アスベスト館を出て、津田信敏舞踊研究所を開設。ここで小林琴美・藤田三恵子・小林美代子・原さなえなどを育てた。
石井 次郎(いしい じろう、1910年 <明治43年> - … 石井 次郎(いしい じろう、1910年 <明治43年> - 1987年 <昭和62年> 3月2日)は、日本の宗教哲学者、教育学者。クリスチャン。九州大学名誉教授。 九州大学教育学部長、東洋英和女学院長、福岡女学院長、活水女子大学学長を歴任した。位階は正五位。 1910年に静岡市に生まれる。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1934年、青山学院専門学校英語科卒業。同年、九州帝国大学法文学部(宗教学)入学。1937年、同大学院入学。1949年、青山学院大学文学部助教授。ボストン大学大学院入学。1954年、九州大学教育学部助教授。1960年、同教授。1963年、同大学教育学部長。九州大学教育学部では人間形成における宗教的要素に関する研究を行った。
生江 哲太郎(なまえ てつたろう、1909年(明治42年)1… 生江 哲太郎(なまえ てつたろう、1909年(明治42年)12月9日 - 没年不明)は、日本の飛込競技選手・実業家。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1909年(明治42年)12月9日、東京府(現在の東京都)に、慶應義塾大学教授の生江惣太郎の息子として生まれる。叔父は青山学院理事を務めた生江孝之。青山学院を卒業後、明治大学法学部に入学した。大学ではラグビーフットボールを行う傍ら、玉川プールで飛込の練習を行い、短期間で上達したために他人を驚かせた。1932年にはロサンゼルスオリンピックで飛板飛込に出場し、8位となった。同年に行われた全国学生飛込大会では高逆飛込で32.70点、飛板飛込で124.54点を獲得しいずれも優勝した。
春木 猛(はるき たけし、1909年11月24日 - 199… 春木 猛(はるき たけし、1909年11月24日 - 1994年1月31日)は、日本の法学者。法学博士(東北大学、1962年)。 専門は国際法、国際政治学。元青山学院大学教授、元学校法人青山学院常務理事。 国際法のほか英語教授法の権威としても知られたが、1973年に教え子の女子学生を強姦したとするスキャンダルにより失脚した。 朝鮮生まれ。青山学院専門部卒業。東北帝国大学博士課程修了。 1933年 - オクシデンタル大学(アメリカ)歴史政治科卒業。ブラウン大学修士課程修了。 1936年 - 南カリフォルニア大学大学院政治学科博士課程修了。 1939年 - 青山学院専門部講師、日本大学講師。1945年 - 日本大学予科講師。
尾坂 力(おざか つとむ、1909年5月27日 - 1992… 尾坂 力(おざか つとむ、1909年5月27日 - 1992年10月11日)は、日本の翻訳家。 栃木県宇都宮市出身。青山学院大学英文科卒。映画字幕作成を経て、英米の推理小説を主として翻訳した。
脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7… 脇田 和(わきた かず、男性、1908年(明治41年)6月7日 - 2005年(平成17年)11月27日)は昭和期に活躍した日本の洋画家。新制作協会創立会員。童話的で温かな印象を受ける作風が特徴。実子は洋画家の脇田愛二郎。
高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12… 高野 国本(こうの くにもと、1908年 - 1987年12月11日)は、元NHKのアナウンサーで、昭和初期のスポーツ中継放送黎明期におけるスポーツアナウンサー。特に1933年の中京商対明石中延長25回試合の実況中継を担当した事で知られる。 青山学院大学卒業、大学では子供好きだったため童話部に所属し、毎週土曜日の午後、大学の近所の子供達を集めて童話を語って聞かせていた。時々童話作家の久留島武彦や安倍季雄が姿を見せて指導を受けた。 毎年2回、大学の講堂で二千人の子供達を集め、マイク無しで話して声を鍛える。 1931年5月、JOBK(現:NHK大阪放送局)に入局、同年のJOBKの新人アナウンサーは高野を含めて6名。
土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉… 土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉12月23日 - 1992年〈平成4年〉12月18日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。 鳥取県米子市出身。土井親男の三男。生家は米子東倉吉町、鉄砲火薬の土井親男商店。 1929年に青山学院高等部商科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1967年5月に副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年12月18日に急性心筋梗塞のために死去。84歳没。 長年テニスで身体をきたえた。
土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 198… 土岐 雄三(とき ゆうぞう、1907年6月16日 - 1989年8月7日)は、日本の作家。 東京生まれ。青山学院商科卒。銀行員のかたわらユーモア小説を書き、放送作家も務めた。山本周五郎の研究もしていた。埼玉県浦和市に住んでいた。 1980年参院選に埼玉県選挙区から無所属で出馬し、落選している。
酒井 三郎(さかい さぶろう、1907年4月7日 - 199… 酒井 三郎(さかい さぶろう、1907年4月7日 - 1993年1月23日)は、昭和時代の団体職員。昭和研究会、大政翼賛会、住友通信機、参議院緑風会を経て、日本民間放送連盟創立に参画。 静岡県に生まれる。1930年に青山学院英文科卒業後、大日本青年団本部編集部に入る。後に後藤隆之助と共に青年団を退団し、側近として昭和研究会に参加。のち大政翼賛会、住友通信機、参議院緑風会に所属。 1951年に日本民間放送連盟創立に参画し、事務局長、常務理事を経て、1963年に3月専務理事に就任。1972年12月より日本音楽著作権協会理事長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 19… 森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 1999年5月14日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 茨城県水戸市出身。1930年青山学院英文科卒。卒業後は新聞連合社(のち同盟通信社)に入り、欧州特派員、政治部次長などを務める。戦後、同盟通信社は共同通信社となり、論説委員となる。1947年片山内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官となる。1956年の第4回参議院議員通常選挙において茨城地方区から日本社会党公認で立候補して初当選。連続3期務める。国会内では参議院懲罰、決算各委員長を歴任し、党内では茨城県委員長、党外交部長などを務めた。1974年の第10回参議院議員通常選挙に出馬せず引退。
佐藤 寛子(さとう ひろこ、1907年〈明治40年〉1月5日… 佐藤 寛子(さとう ひろこ、1907年〈明治40年〉1月5日 - 1987年〈昭和62年〉4月16日)は、日本の首相・佐藤栄作の妻(内閣総理大臣夫人)。日本の歴代首相夫人の中では三木睦子と並んで著名な人物であると見る向きもある。 山口県熊毛郡田布施町に旧長州藩士の士族・佐藤家当主の松介と妻・藤枝の長女として生まれる。父・松介は明治の中頃に東京帝国大学医科大学を出て、岡山医学専門学校教授を務めた。母・藤枝はのちに外相を務めた松岡洋右の妹である。松介は1911年(明治44年)に34歳で急逝し、一家はその後、松岡に引き取られて三田尻で暮らした。また、松介の世話で岡山中学校に進学していた甥(寛子の従兄)の岸信介(当時は旧姓の佐藤信介)は、松介の死後に同じく山口へ戻った。
左近 義慈(さこん よししげ、1906年5月13日 - 19… 左近 義慈(さこん よししげ、1906年5月13日 - 1990年2月18日)は、日本の牧師・聖書学者。青山学院神学部元教授、東京神学大学名誉教授。 青山学院神学部元教授左近義弼は父。東京神学大学元学長左近淑は義理の息子。 1906年、左近義弼・まつの次男として米国・ニューヨークで生まれる。青山学院中等部、専門部を経て渡米し、南カリフォルニア大学を卒業。 ニュージャージー州マディソンにあるドルー大学神学大学院に進み、旧約聖書学を専攻。1935年に修士課程を修了し、修士号を取得。特別奨学金を得てエルサレムにあるアメリカ東洋研究所(W. F. Albright Institute of Archaeological Research)の特別研究員としてウィリアム・オルブライトの下で聖書考古学およびセム語を研究。
小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日… 小山 威雄(こやま たけお、1905年〈明治38年〉7月1日 - 1981年〈昭和56年〉8月24日)は、日本の実業家、政治家。長野県小諸市長。 長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)で、小山重右衛門、婦美野の息子として生まれた。旧制小諸商業学校(現長野県小諸商業高等学校)を経て、旧制青山学院専門部商科修了。1930年(昭和5年)丸五商店に入社し、丸五商会に改組し代表取締役となる。1944年(昭和19年)計理士を開業。1947年(昭和22年)小諸商工会議所会頭となる。1951年(昭和26年)長野県商工信用組合監事に就任した。 1953年(昭和28年)小諸市教育委員、1963年(昭和38年)小諸市議会議員となり1971年(昭和46年)まで2期在任し、同議長も務めた。
清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は… 清沢 清志(きよさわ きよし、1905年 - 1959年)は、日本の詩人、劇作家。 長野県南安曇郡東穂高村(現安曇野市)生まれ。旧制青山学院専門部卒業。1921年、穂高演劇協会を創設、「安曇野モダニズム」の拠点とした。1924年、在京中に知り合った吉行エイスケとモダニズム雑誌『売恥醜文』を発刊(後に発禁処分)。同人誌『葡萄園』に「東を目指す」を発表。1930年には第二次信州詩人連盟講演会を行い、1939年には「藤村会」を創設。戦後は県下各地で積極的に公演を行った。
大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8… 大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8月3日 - 1989年(平成元年)8月3日)は、日本の教育者、経済学者、経済学博士。青山学院大学第11代院長、青山学院理事長。 1904年8月3日、山梨県甲府市に生まれる。1922年3月、甲府商業学校を卒業し、校長の推薦により同年4月に朝鮮銀行に就職する。同年10月、同行大邱支店在勤中にF.H.スミスから洗礼を受け、さらにクリスチャンだった支店長の薦めにより、1925年に青山学院高等学部商科に無試験入学する。1929年3月に卒業した後、同年6月に同学院の留学生として渡米し、アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学経済学部に留学し、その卒業後さらにコロンビア大学大学院で経済政策を専攻してマスター・オブ・アーツの学位を取得する。
北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - … 北村 謙次郎(きたむら けんじろう、1904年7月5日 - 1982年6月30日)は、日本の作家、評論家。本名は北村謙二郎。別名に喜多謙。 東京市麹町生まれ。本籍は山形県米沢市。父は逓信省の判任官だった。兄は造園家の北村徳太郎。 1912年に一家で満洲に移住し、大連の小学校と大連一中に通う。大連一中時代に、同級生と文芸同人誌「アンジェラス」を出す。卒業後は東京に帰り、青山学院高等科、國學院大學文学部予科に学ぶが、卒業はしていない。1930年に赤松月船の協力で文芸雑誌「文芸プランニング」を創刊し、宮沢賢治と文通を交わした。太宰治や今官一をはじめ井伏鱒二の家に集う若い作家たちとも交友を持つようになり、「青い花」の創刊に参加し、大半のメンバーが引き継がれた「日本浪曼派」同人となって、小説を発表する。
清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)1… 清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)12月14日 - 1941年(昭和16年))は、日本の映画監督、脚本家である。 1902年(明治35年)12月14日、宮城県仙台市立町(現在の同県同市青葉区立町)に生まれる。本籍は山形県東置賜郡和田村(現在の同県同郡高畠町和田地区)にあった。仙台市立立町尋常小学校(旧制尋常小学校、現在の仙台市立立町小学校)、宮城県立仙台第二中学校(旧制中学校、現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業、旧制専門学校の青山学院英文科(現在の青山学院大学)に入学する。 同学在学中に当時、松竹蒲田撮影所脚本部に在籍していた伊藤大輔の指導を受けつつ、脚本執筆の手伝いをはじめる。
関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 19… 関屋 五十二(せきや いそじ 1902年12月4日 - 1984年10月15日)は、栃木県出身の童話作家、放送作家。 栃木県足利郡御厨町(現在の足利市)出身。青山学院大学卒。1925年、東京中央放送局(現・NHK放送センター)に入局し、児童向けの夕方のワイド番組「子供(少国民)の時間」のニュース解説のコーナー「コドモの新聞」を担当し「関屋おじさん」として知られ、「村岡おばさん」こと村岡花子(作家)とともに、番組をリードしていった。 戦後もバラエティー番組「二十の扉」、「話の泉」などを手掛け、自らも出演した。その後は民間放送に活躍の場を移し、プロテスタントの布教活動の番組「ルーテルアワー」を企画し、派生番組であった「ルーテルアワー・夜の名曲」などを含め、脚本・演出を務めた。
湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16… 湯浅 与三(ゆあさ よぞう、1902年(明治35年)5月16日 - 1977年(昭和52年)12月17日)は、日本の牧師である。 湯浅治郎と湯浅初子の第13子として京都府に生まれる。1910年(明治43年)に東京府に移り、日本組合基督教会霊南坂教会に通う。1919年(大正8年)11月16日、霊南坂教会牧師小崎弘道から洗礼を受ける。その後、青山学院(旧制)高等学部を卒業して米国へ留学し、オーバリン大学神学部を卒業、1931年(昭和6年)に帰国する。1940年(昭和15年)、按手礼を受け牧師になる。佐久、沼田の教会の牧師をした後、初台教会に移った。墓所は多磨霊園。
佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 199… 佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 1997年2月25日)は日本の幼児教育者。 1902年(明治35年)大分県直入郡(現・竹田市)の漢学者の家に一人娘として生まれる。17歳のときに医師を志して上京し、高等女学校を経て東京女子医学専門学校に入学するが、体をこわして中退する。青山女学院家政科に移り、そこで幼児教育を生涯の仕事と定め、夜間には東京府教育会附属幼稚園保姆傳習所に通って1923年(大正12年)に卒業する。千駄ヶ谷の幼稚園、ついで阿佐ヶ谷幼稚園に勤めたのち、1936年(昭和11年)に柿ノ木坂幼稚園を設立、1942年(昭和17年)には園長に就任した。幼稚園の運営のかたわら後進の育成にも力をそそぎ、1954年(昭和29年)には原宿高等保育学校(現・草苑保育専門学校)を設立して校長に就任、東洋英和女学院短期大学と青山学院大学の講師も長年にわたって務めた。
気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 … 気賀 重躬(けが しげみ、1901年(明治34年)8月8日 - 1958年(昭和33年)3月24日)は、日本のキリスト教神学者、牧師、青山学院大学学長。 1901年8月8日、静岡県引佐郡気賀町に、気賀定吉・すみ子の長男として生まれた。気賀小学校、静岡県立浜松第一中学校で学んだ。1916年1月7日に日本基督教団浜松教会にて鵜飼捨吉牧師より洗礼を受け、1919年4月、青山学院神学部に入学。1923年5月、第1回全国学生英語演説大会に青山学院代表として出場し、第1位となった。 1924年3月に青山学院を卒業し、同年4月から本郷中央教会の副牧師となる。1925年4月から日本メソヂスト小樽教会の牧師、1927年4月から日本メソヂスト浅草教会の牧師、1928年4月から日本メソヂスト銀座教会の副牧師を務めた後、同年同月より青山学院神学部の講師となった。