西丸 四方(にしまる しほう、1910年2月13日 - 20… 西丸 四方(にしまる しほう、1910年2月13日 - 2002年2月14日)は、日本の医学者、精神科医。信州大学名誉教授、愛知医科大学名誉教授。専門は精神病理学。医学博士(東京帝国大学)。 村上仁、島崎敏樹らとともに、日本の精神病理学第一世代を代表する人物である。精神医学の基礎領域である精神病理学を広く精神科臨床に根付かせるなど、日本の精神医学の発展に大きく貢献した。また、老荘思想を心理療法に応用するなどのユニークな試みでも知られる。草間彌生を見いだし、その後の良き理解者として終生交流があった。 島崎藤村の姪である西丸いさの長男。父方の曾祖父は西丸帯刀(旧姓:野口)。西丸帯刀の伯父「野口北川」の長男の孫が野口雨情。
笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月1… 笠松 章(かさまつ あきら、1910年 - 1987年7月19日)は、日本の精神科医。東京大学名誉教授。 和歌山県生まれ。海南中学校卒、第三高等学校卒、1936年東京帝国大学医学部卒、1952年「N2ガス吸入による意識喪失の研究」で医学博士。1956年東京大学医学部助教授、同附属病院精神神経科科長、教授。1971年定年退官、名誉教授、国立精神衛生研究所長、財団法人神経研究所長。
梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 199… 梶谷 鐶(かじたに たまき、1909年2月16日 - 1991年2月19日)は、日本の外科医。消化器外科の権威として知られた。岡山県出身。 1909年、岡山県総社市生まれ。岡山市にある第六高等学校を卒業、1932年、東京帝国大学医学部を卒業、塩田広重教授の第二外科に入局。1939年に癌研究会康楽病院(戦後、付属病院に改称)外科に異動。当時の外科部長の久留勝医師(のちに金沢大教授、大阪大学教授、国立がんセンター病院長)の指導を受け、2年後に久留のあとをついで、外科部長に昇格。胃がんを中心に乳がん、大腸がん手術に取り組んだ。1949年に日本で初めて膵頭十二指腸切除を行い、成功させた。また1965年には、門脈合併切除を伴う肝葉切除術を世界で初めて成功させた。
木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970… 木田 文夫(きだ ふみお、1908年12月2日 - 1970年2月12日)は、日本の医学者・小児科医。 岡山県出身。東京帝国大学医学部卒。1937年パリ大学に学び、北京大学教授、41年「数種薬物に対する感受性の年齢的差異に関する実験的研究」で東大医学博士。熊本医科大学教授、49年日本医科大学教授。69年同付属病院長。 一般向けの著書でも知られ、「ながら神経症」と言ったことから「ながら族」という流行語が生まれたという。
魏 火曜(ぎ かよう、英語: WEI Huo-yang、19… 魏 火曜(ぎ かよう、英語: WEI Huo-yang、1908年11月29日-1995年2月6日)は、台湾の医師。国立台湾大学医学部教授、同大学附属病院院長をつとめた。高雄医学大学第2代学長。 1908年、新竹庁生まれ。台北高等学校で学び、1933年に卒業。1937年、東京帝国大学医学部を卒業して医師となる。その後も同大学大学院に進み、1942年に同大学の医学博士号を取得した。医師として小児科を専攻し、卒業後は東京大学医学部助手となった。台湾へ帰国してからは赤十字会台湾支部病院の小児科主任として勤務すると同時に、医療体制の拡充につとめた。 太平洋戦争終結後、1945年11月15日に台北帝国大学が国民政府に接収され、同年12月に国立台湾大学が発足。
相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 19… 相馬 遷子(そうま せんし、1908年10月15日 - 1976年1月19日)は、日本の俳人、医師。本名は相馬富雄。 長野県出身。東京帝国大学医学部卒。 水原秋櫻子に俳句の指導を受け、1940年より「馬酔木」同人。1945年より同人会長。同時に1938年から「鶴」同人、石田波郷に兄事する。同年斎藤玄の斡旋で句集『草枕』を出版。故郷の自然を詠み堀口星眠、大島民郎などとともに馬酔木高原派と呼ばれたが、山本健吉は遷子の句に他の「高原派」にはない、「鶴」との関わりからくる境涯性を指摘している。以後の句集に『山国』(1956年。一般にはこれが第一句集とされている)、『雪嶺』(1969年)、『山河』(1976年)、『相馬遷子全句集』(1982年)がある。
砂原 茂一(すなはら しげいち、1908年5月16日 - 1… 砂原 茂一(すなはら しげいち、1908年5月16日 - 1988年6月15日)は、日本の医師。 明治41年生まれで三重県阿山郡大山田村(現伊賀市)出身。1933年に東京帝国大学医学部を卒業後に1943年に医学博士。1933年(昭和8年)から国立療養所に勤め、結核薬の効用、手術成績などを研究。1957年(昭和32年)から国立療養所化学療法共同研究班班長として、結核薬の科学的薬効検定結果を発表した。国立東京療養所長を経て1961年から国立療養所東京病院長。1967年に厚生省薬事審議会に入り、1973年に同省の医事紛争に関する研究班班長を務めた。1978年に名誉院長となる。1965年に人類遺伝学会賞を受賞、1987年(昭和62年)にスモン基金賞を受賞する。
秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月… 秋元 寿恵夫(秋元 壽惠夫、あきもと すえお、1908年3月13日 - 1994年2月4日)は、医師、著作家。筆名室田 有。 長野県長野市生まれ。一家は旧諏訪藩士の家系。精神医学者秋元波留夫は実兄。旧制東京府立第五中学、旧制第一高等学校卒業後、東京帝国大学医学部医学科で血清学を専攻し、1938年卒業、1943年大学院博士課程修了、医学博士。同年満州国平房の関東軍防疫給水部本部(731部隊)に加わった。 戦後は東京民主医療機関連合会結成に参加。1949年、臨床検査法の確立と検査技師の教育・育成を目的とする秋元研究所(1952年より病体生理研究所)を開設。長尾研究所、神奈川保健所勤務を経て、1959年3月-1966年3月横浜市衛生研究所長、1966年4月-1984年5月病体生理研究所長、1967年1月新日本臨床検査技師学校長。
山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こうう… 山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日)は、日本の実業家(日本油脂常務、東京顕微鏡院理事長)、禅指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。 1907年3月18日、山田脩(二本松町長・二本松製糸会社副社長)の次男として福島県二本松市に生まれる。 第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格。1930年に卒業。 千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医の山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。
秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2… 秋元 波留夫(あきもと はるお、1906年1月29日 - 2007年4月25日)は、日本の医学者・精神科医。 長野県長野市出身。一家は旧諏訪藩士の家系。3歳時に一家で上京。旧制京華中学、1925年旧制松本高等学校理科甲類を卒業、1929年東京帝国大学(後の東京大学)医学部卒業。その後北海道帝国大学(後の北海道大学)医学部助手に就任。その後、東京帝国大学医学部副手、同学部講師、旧制金沢医科大学(後の金沢大学医学部)教授を経て1958年に東京大学医学部教授に就任した。1936年医学博士(北海道大学)。論文の題は「失行症本質論 」。 長く日本の精神医学界の権威として活躍。帝銀事件に関して、平沢貞通の有罪の証拠とされた精神鑑定の結果を誤りであると指摘し注目を集めた。
瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年… 瀬川 功(せがわ こう、1905年3月26日 - 1984年11月2日)は、日本の小児科医師、陶磁器研究家、医学博士、医療法人瀬川小児病院第3代院長、社団法人日本陶磁協会 第4代理事長。常陸宮正仁親王と清宮貴子内親王の元主治医。旧姓:加瀬。
森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 19… 森山 豊(もりやま ゆたか、1904年10月18日 - 1988年11月19日)は、日本の産婦人科医。
熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 19… 熊谷 洋(くまがい ひろし、1904年10月17日 - 1992年11月11日)は、昭和・平成期の医師、薬理学者。 東京大学医学部教授。東京大学医学部長。日本医師会副会長。日本医学界会長。東京大学薬学科薬品作用学教室の初代教授。医学界や薬理学界の多くの人材を育てた。旧姓 瀬水。 新潟県長岡市出身。旧制新潟県立長岡中学校卒。旧制新潟高校卒業。1930年(昭和5年)東京帝国大学医学部医学科卒業。1943年(昭和18年)薬理学教室講師のままジャカルタに赴任し、日本占領下のオランダ領東インド・ジャカルタの医科大学(ジャワ高等医学校)で医学の教授にあたる。1946年(昭和21年)復員、同年から1957年(昭和32年)まで東京大学医学部薬学科薬品作用学教室の初代教授を兼任。
宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903… 宮崎 吉夫(みやざき よしお、旧姓:伊藤〈いとう〉、1903年〈明治36年〉12月23日 - 1956年〈昭和31年〉10月24日)は、日本の病理学者、医師。医学博士。東京高等歯科医学校病理学教室初代教授、東京大学伝染病研究所病理学研究部長。 新潟県中蒲原郡横越村大字沢海(現 新潟市江南区沢海)の豪農・六代目伊藤文吉の五男として出生。 1920年(大正9年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1923年(大正12年)3月に第二高等学校を卒業、1927年(昭和2年)3月に東京帝国大学医学部医学科を卒業。 1927年(昭和2年)4月に東京帝国大学医学部病理学教室(担任:緒方知三郎教授)副手に就任、1932年(昭和7年)12月に東京高等歯科医学校病理学教室講師に就任、1933年(昭和8年)3月に東京高等歯科医学校病理学教室初代教授に就任、1935年(昭和10年)7月に東京帝国大学から医学博士号を取得、1944年(昭和19年)4月に東京医学歯学専門学校病理学教室教授に就任、1948年(昭和23年)7月に東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授に就任、東京医科歯科大学歯学部病理学教室講師を兼任、1951年(昭和26年)2月に東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授を兼任、1956年(昭和31年)6月に東京大学伝染病研究所所長事務代理に就任、東京大学伝染病研究所病理学研究部部長・教授と東京医科歯科大学歯学部病理学教室教授を兼任。
吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月1… 吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月10日 - 1973年(昭和48年)4月27日)は、日本の医師、病理学者。学位は医学博士(東京大学・1936年)。長崎医科大学教授、東京大学医学部長などを歴任。文化勲章・勲一等旭日大綬章受章。 福島県石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。ラットの腹水癌である吉田肉腫と腹水肝癌の発見で実験腫瘍学に新たな扉を開いた。財団法人癌研究会癌研究所長、財団法人佐々木研究所研究所長、日本学術会議会員・副会長(第6期)、国語審議会委員(第1-6期)などを務めた。テレビディレクターの吉田直哉は長男である。動物学者の田子勝彌は叔父である。
村松 常雄(むらまつ つねお、1900年4月12日 - 19… 村松 常雄(むらまつ つねお、1900年4月12日 - 1981年8月30日)は、日本の医学者、精神科医。 妻は田部隆次の娘。村松剛、村松英子の父。村松えりの祖父。 東京出身。東京帝国大学医学部卒。名古屋大学助教授、1950年教授、1960年医学部長。1964年定年退官、東京都立松沢病院副院長、国立精神衛生研究所長。1971年、勲二等旭日重光章を受賞。
渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 197… 渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 1974年5月7日)は、日本の政治家、医師。栃木県黒磯町長を務めた。 福島県に生まれる。父は明治期から黒磯で医院を開業していた。1924年(大正13年)、東京帝国大学医学部を卒業し同附属病院に就職。1925年(大正14年)、黒磯に戻り実家の医院で医業に従事した。 1925年から1954年(昭和29年)まで町医を、1925年から1965年(昭和40年)まで栃木県立黒磯高等学校(町立実践女学校)の校医を務めた。また、1941年(昭和16年)から1947年(昭和22年)まで方面委員を務めており、医師としてばかりでなく地域住民の相談相手としても信頼された。
坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月… 坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月2日)は、日本の内科医。 高知県出身。東京帝国大学医学部卒、1929年医学博士。東京警察病院内科。東京大学医学部付属分院教授、院長、1960年定年退官、東京自動車連合健康保険組合柳橋病院長を務めた。
植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月… 植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1999年〈平成11年〉5月4日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。衆議院議員(2期)。 奈良県奈良市般若寺町で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業した。 牧場、牛乳商を経営。奈良県獣医師会長を務めた。 政界では、奈良市会議員、同議長、奈良県会議員、同副議長を務めた。1940(昭和15年)11月、大政翼賛会奈良県支部常務委員に就任。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け奈良県全県区から立候補して当選した。この間、拓務省委員、大東亜省委員、翼政会政調厚生・農林兼務委員などを務めた。
田崎 勇三(たざき ゆうぞう、1898年(明治31年)7月5… 田崎 勇三(たざき ゆうぞう、1898年(明治31年)7月5日 - 1963年(昭和38年)5月24日)は、日本の医師。医学博士。癌研究会附属病院長。 長崎県出身。1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒。病理学、内科学を専攻し、癌研究会附属病院に入り、内科部長、副院長、院長となる。日本内科学会評議員、日本消化学会理事、日本癌学会理事、会長を歴任した。このほか横綱審議委員、巣鴨学園理事長などを務めた。1963年(昭和38年)に癌で死去した。墓所は多磨霊園。
緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20… 緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の小児科医。山王病院名誉院長 曾祖父は緒方洪庵。緒方惟準の二男・銈次郎の長男として大阪府に生まれる。母方の祖父は三浦安。弟は緒方富雄。叔父に緒方章と緒方知三郎。五世祖父に佐藤泰然。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、1924年東京帝国大学医学部卒業。1932年「鐵症の実験的研究」で東京帝大医学博士。1937年東宮侍医となり、今上天皇の幼時まで担当医となる。山王病院院長を経て名誉院長。
橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 -… 橋爪 檳榔子(はしづめ びんろうじ、1897年8月17日 - 1963年11月8日)は、日本の医師、薬学者、日本における医療評論家の先駆者とされる。本名は恵(めぐみ)。男性。 長野県松本市出身。弟に橋爪健、橋爪克巳(1903-1983)がいる。1922年東京帝国大学医学部薬学科卒、1927年千葉医科大学卒。三共製薬社員、別府化学薬品代表、日本薬学会編集主任。川端康成の友人。
宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1… 宇賀田 為吉(うがた ためきち、1897年3月25日 - 1999年2月28日)は、日本の医師、たばこ研究家、江戸版本蒐集家。 埼玉県加須市出身。東京帝国大学医学部卒、1928年「パラメチウム発育の生化学的研究」で医学博士。沖電気工業診療所長。大槻玄沢『蔫録(えんろく)』の調査研究が終生のテーマで、室号を「蔫々堂文庫」と称した。江戸時代の版本の蒐集家でもあり、そのコレクションは、たばこと塩の博物館に寄贈されている。101歳で死去。
若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)… 若松 有次郎(わかまつ ゆうじろう、1897年(明治30年)2月1日 - 1977年(昭和52年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医少将。旧姓・池田。 香川県出身。農業・池田仲三郎の息子として生まれ、官吏・若松八郎の養子となる。慶應義塾普通部、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)4月、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。同年7月、二等獣医に任官し騎兵第13連隊付となる。1924年(大正13年)11月、サガレン州派遣軍軍政部付となり、電信第1連隊付を経て、1926年(大正15年)3月、一等獣医に昇進し騎兵第12連隊付となる。 1928年(昭和3年)4月、東京大学伝染病研究所員に就任し、陸軍士官学校付兼馬術教官、ドイツ駐在、陸軍獣医学校防疫学教官を務め、1934年(昭和9年)8月、三等獣医正に進級した。
佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991… 佐野 保(さの たもつ、1896年12月20日 - 1991年1月23日)は、日本の医師。専門は小児科学。医学博士。主な業績に「栄養失調性くる病」「新生児肺炎ウイルス タイプ仙台」の研究報告がある。 香川県生まれ。 旧制第六高等学校を経て1923年に東京帝国大学医学部卒業。1926年、金沢医科大学(現金沢大学医学部)助教授に就任。1931年 - 1932年、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学。 1939年、東京大学医学部助教授。1944年、長崎医科大学(現長崎大学医学部)教授。1948年、東北大学医学部教授。1950年、東北大学医学部附属病院院長。1960年、同大学定年退官後、東北公済病院院長。
河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月… 河石 九二夫(かわいし くにお、1895年(明治28年)1月17日 - 1973年(昭和48年)1月28日)は、日本の医師、医学者。 水泳選手で、1932年ロサンゼルスオリンピック銀メダリストの河石達吾は親戚に当たる。 1895年(明治28年)1月17日、現在の広島県江田島市大柿町大原に生まれる。 第一高等学校を経て東京帝国大学医学部に進み、1921年(大正10年)に大学を卒業。その後、愛知医科大学・名古屋医科大学斉藤外科の講師・助教授となる。1938年(昭和13年)には、台北帝国大学教授となり、河石外科教室を創設。1944年から1945年にかけて、医学部付属病院の第4代院長を務めた。 1949年(昭和24年)に日本に帰国し、広島医科大学教授、後に学長となる。
黒澤 潤三 (くろさわ じゅんぞう、1894年7月27日 -… 黒澤 潤三 (くろさわ じゅんぞう、1894年7月27日 - 1966年9月10日)は、日本の医師。第9代日本医師会会長。 埼玉県野上村(現長瀞町)出身。東京帝国大学医学部卒業。専門は眼科学。東京女子医専(現東京女子医科大学)講師、日本医科大学教授を経て、1927年、小川眼科病院長。1945年、日本眼科医会会長、1954年、第9代日本医師会会長を歴任。 初代 北里柴三郎1916-1931 / 2代 北島多一1931-1943 / 3代 稲田龍吉1943-1946 / 4代 中山寿彦1946-1948 / 5代 高橋明1948-1950 / 6代 田宮猛雄1950 / 7代 谷口弥三郎1950-1952 / 8代 田宮猛雄1952-1954 / 9代 黒澤潤三1954-1955 / 10代 小畑惟清1955-1957 / 11代 武見太郎1957-1982 / 12代 花岡堅而1982-1984 / 13代 羽田春兔1984-1992 / 14代 村瀬敏郎1992-1996 / 15代 坪井栄孝1996-2004 / 16代 植松治雄2004-2006 / 17代 唐澤祥人2006-2010 / 18代 原中勝征2010-2012 / 19代 横倉義武2012-2020 / 20代 中川俊男2020-2022 / 21代 松本吉郎2022- この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14… 北野 政次(きたの まさじ、1894年(明治27年)7月14日 - 1986年(昭和61年)5月17日)は、日本の陸軍軍人、医師、細菌学者。陸軍軍医中将。勲三等。東京帝国大学医学博士。博士論文は「チフス及パラチフス菌属の血清耐性に関する実験的研究」。 兵庫県出身。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業後、大日本帝国陸軍に入隊。第2代731部隊長を務め、人体実験や細菌攻撃を推進する立場であったとされている。 第二次世界大戦後は、文部省に奉職しながら日本ブラッドバンクの創業に関わり、顧問に就任。 凍結乾燥装置を用いた乾燥血漿製造の研究成果を応用し、血液製剤の製造、販売を行った。同社設立期においては、朝鮮戦争における米軍向けの輸血用血液製造を行った。
渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 19… 渡辺 甲一(わたなべ こういち、1894年3月2日 - 1968年11月11日)は、日本の陸軍軍人、医師。最終階級は、陸軍軍医中将。 埼玉県比企郡松山町(現東松山市)出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学卒業。1930年、医学博士(東京帝国大学)。 1921年、東京陸軍兵器支援診療所主治医となる。1923年、陸軍三等軍医正。1926年、陸軍一等軍医。1945年、陸軍軍医学校長、陸軍省医務局長となる。第二次世界大戦後、復員局医務部長となり戦後処理にあたる。 復員局を退職後、東京都中野区で開業し地域医療に尽くした。
尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1… 尼子 富士郎(あまこ ふじろう、1893年12月1日 - 1972年3月17日)は日本の医師、老年医学者。医学博士。 広島出身の医師で医学中央雑誌の創設者でもある尼子四郎の長男として山口県下松市で生まれ、まもなく一家で上京する。誠之小学校では中川一政と同級生であり、また東京高等師範学校附属中学校の受験のため夏目漱石に英語の個人教授を受けていた。 世界に先駆けて老年医学の重要性に着目し、その研究と教育の先駆者と評価されている。日本老年医学会は「尼子賞」を設けている。 その一方、父から医学中央雑誌の編集を引き継ぎ、全ての文献の採択、抄録の編集、校正に目を通し、それを優先するため生涯国外に出なかった。
皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 197… 皆見 省吾(みなみ せいご、1893年11月1日 - 1975年9月6日)は、日本の皮膚科医。九州大学名誉教授。 岡山医科大学、九州帝国大学皮膚科教授を務め、皮膚科学を研究。若い皮膚科研究者を育てる為に皆見賞を創設。ドイツ留学中に世界大戦後の戦傷後の腎不全を研究。挫滅症候群(クラッシュ・シンドローム)を世界で初めて報告した。 広島市生まれ。1918年、東京帝国大学(現東京大学)医学部卒業。1922年、文部省在外研究員として渡欧(2年間)。1924年、岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)皮膚科教授。1929年、第29回日本皮膚科学会を岡山で主催。1931年、九州帝国大学(九州大学の前身)皮膚科教授。
比企 能達(ひき よしさと、1893年9月22日 - 196… 比企 能達(ひき よしさと、1893年9月22日 - 1968年10月17日)は、日本の医師。専門は、病理学及び内科学。医学博士。長男は比企能樹。 神奈川県中郡旭村(現・平塚市)出身。加藤房吉の三男として生まれ、叔父で開業医・政治家の比企喜代助(1866年~1944年)の養子となる。旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業。1927年、同医学部病理学教室助手(教授緒方知三郎)。1932年、同医学部内科学教室副手(教授島薗順次郎)。1934年、東京大学医学博士、論文の題は「唾液腺の内分泌に就て : 唾液腺條紋部(streifenstuck)の構造竝に機能に就て」。 1945年、日本大学医学部第一内科教授。
中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24… 中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24日 - 1975年〈昭和50年〉8月18日)は、日本の脳神経外科医・俳人。新潟大学名誉教授。俳号はみづほ、瑞翁、穭翁。島根県津和野町生まれ。 日本における脳神経外科学の権威で、その数々の功績から「日本脳外科の父」とも呼ばれる。 日本初の脳神経外科学講座を新潟大学に設立し、新潟大学脳研究所の設立と発展に貢献した。また、てんかんの治療法として現在も行われている大脳半球切除手術に日本で初めて成功したことでも知られる。ホトトギス派の俳人。主著に『脳手術』、『脳腫瘍』等。 旧制六高を経て東京帝国大学医科大学を卒業後直ちに同大学の近藤次繁教授の外科教室に入局し、4年間の勤務の後新潟医科大学の外科教室に助教授として赴任した。
大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治… 大沼 貞藏(おおぬま ていぞう、旧姓:吉田、1893年〈明治26年〉1月23日 - 1974年〈昭和49年〉8月1日)は、日本の医師。医学博士。(社)山形県医師会会長〈初代〉。(社)山形市医師会会長〈初代、第5代〔法人化以前からの通算では第7代、第11代〕〉。山形市医師連盟委員長〈初代〉。山形市立病院済生館館長〈第10代〉。大日本帝国陸軍軍医大尉。
水原 秋桜子(旧字体: 水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし… 水原 秋桜子(旧字体: 水原 秋櫻子、みずはら しゅうおうし、1892年〈明治25年〉10月9日 - 1981年〈昭和56年〉7月17日)は、日本の俳人・医師。学位は医学博士。 本名は水原 豊()。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。 はじめ窪田空穂に師事、短歌で独自の叙情性を育てたが、のちに俳句へ転じた。高浜虚子から指導を受け、昭和初期の「ホトトギス」を彩る四Sの一人として活躍。従来の俳句に短歌的表現を取り入れるなど、新鮮な句作を行った。
戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月1… 戸塚 文卿(とづか ぶんけい、1892年〈明治25年〉2月11日 - 1939年〈昭和14年〉8月17日)は、日本のカトリック教会 司祭、医師、桜町病院創立者。 東京公教神学校教授。洗礼名はヴィンセンシオ・ア・パウロ。 彼は海軍軍医総監・戸塚環海(とづか かんかい)の長男として神奈川県横須賀に生まれ、佐世保の高等小学校に入学していたが暁星中学校に編入、1909年、第一高等学校在学時にカトリック教会の洗礼を受ける。代父は暁星時代の先輩でのちにカトリック司祭になった岩下壮一。 1912年、東京帝国大学医学大学(現・東京大学医学部)に入学、医学を学び、卒業後、佐藤外科に入局。1921年、北海道帝国大学助教授に任命され、文部省(現・文部科学省)からヨーロッパ留学の命を受ける。
荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月… 荒川 伸也(あらかわ しんや、1891年(明治24年)12月4日 - 没年不明)は、日本の医師(内科医)、実業家、政治家。旭土地、耕地整理組合各顧問。愛知中央鉄道取締役。医学博士。名古屋市会議員。 愛知県人・荒川徳右衛門の三男。後に前名松次郎を改め、1922年に兄徳次郎方より分かれて一家を創立する。第八高等学校を経て1918年に東京帝国大学医科大学医学科を卒業し、杏雲堂医院に勤務し後に郷里に帰り医を開業する。傍ら会社の重役である。 名古屋市会議員、同市参事会員に選ばれる。趣味は観劇、謡曲、芝居。宗教は真宗大谷派。住所は愛知県名古屋市中区長良町、西日置町廻間口、中村区日置通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日… 勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日 - 1969年(昭和44年)3月9日)は、大正から昭和期の医師、技官、公衆衛生学者、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、厚生省顧問、藤楓協会理事。父は、医師で第2代上田市長を務めた勝俣英吉郎。日本の近代公衆衛生の父と称された。 長野県小県郡上田町馬場町(現上田市)で勝俣英吉郎の長男として生まれた。上田中学校(現長野県上田高等学校)、第八高等学校を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業。 北里研究所に入所。慶應義塾大学医学部に転じ細菌学教室助手に就任。 1923年(大正12年)内務省衛生局に移り防疫官に就任。関東大震災では医療救護に尽力。
豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年… 豊田 栄(とよだ さかえ、1891年3月3日 - 1966年4月19日)は、医師、英語講師、キリスト教無教会主義の新約聖書研究家。内村鑑三、塚本虎二に師事した。 1891年3月3日、医師である父・豊田貫一と母・豊田琴の5人兄弟の四男として出生した。志波尋常小学校に入学したのち転校し、吉井尋常高等小学校を卒業。明善中学校を卒業、熊本県の第五高等学校を卒業したのち上京、東京帝国大学医科大学を1917年7月に卒業した。その後約1年間を海軍軍医として勤務後、軍艦比叡に乗艦。1920年に和泉橋慈善病院の小児科医局員となる。 1923年1月、古田孝子と結婚。同年より、東京帝国大学薬理学教室で2年間研究に従事。
金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月2… 金森 虎男(かなもり とらお、1890年(明治23年)9月26日 - 1957年(昭和32年)11月27日)は、日本の大正・昭和期における歯科医・医学博士。東京高等歯科医学校(現在の東京医科歯科大学)教授・東京大学教授・札幌医科大学教授。福井県出身。 1890年(明治23年)、福井県大野郡大野町(現大野市)に伊藤作四郎の四男として生まれ、1909年(明治42年)医師金森辰二郎の養子となった。1902年(明治45年)7月第四高等学校を卒業し、1916年(大正5年)12月東京帝国大学医科大学を卒業した。 養父辰二郎が東京帝国大学医科大学歯科学教室教授である石原久と大学同窓であったため石原に親しみ、虎男は歯科を志望し1916年(大正5年)12月大学卒業後同教室に入局した。
西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月… 西 恒次郎(にし こうじろう、1889年(明治22年)11月 - 1971年(昭和46年)2月)は、日本の医師。倫理哲学者西晋一郎の弟。 鳥取県鳥取市出身。士族西昇蔵の二男。 第七高等学校造士館を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学医科大学医学科を卒業、副手となって母校で研修し、その傍ら駒込病院に3年間勤務した。 1918年(大正7年)5月、新潟県吉田病院長として赴任した。 1926年(大正15年)5月、京都府綾部町の郡是製糸の郡是病院長となり、1948年(昭和23年)まで勤務した。
鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月… 大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月25日 - 1974年〈昭和49年〉2月27日)は、日本の医学者(内科)、教育者。号は「春郊」。 福岡県出身。深町俊太郎の三男として生まれたが、大里広次郎の養子となる。1914年に東京帝国大学医科大学を卒業する。1921年に医学博士号を取得した。 その後金沢医科大学と東北帝国大学で教授を務めた。医学者としては癌の化学療法に関する研究を手がけた。 1950年に福島県立医科大学が開学すると、初代学長に就任した。11年あまり務め、1961年4月末をもって退任。 学長退任後は秋田県立中央病院を経て、1965年から出身地である福岡県にある飯塚学園の理事長兼校長を務めた。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月… 高橋 隆篤(たかはし たかあつ、1888年(明治21年)4月8日 - 1951年(昭和26年)9月24日)は、日本の陸軍軍人、獣医師。最終階級は陸軍獣医中将。 秋田県出身。小学校教員・高橋隆忠の長男として生まれる。郁文館中学校(現郁文館中学校・高等学校)、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学農科大学獣医学科を卒業。1915年(大正4年)2月、獣医少尉に任官し野砲兵第16連隊付となる。1916年(大正5年)12月、陸軍獣医学校に乙種学生として入校した。 1918年(大正7年)9月、伝染病研究所勤務となり、1919年(大正8年)4月、獣医中尉に昇進。1920年(大正9年)9月、獣医学校教官に就任し、臨時検疫所員、獣医学校副官兼教官、イギリス駐在、獣医学校教官を務め、1925年(大正14年)8月、三等獣医正に進級し獣医学校付となる。
伊佐山伊三郎(いさやま いさぶろう、1887年12月-194… 伊佐山伊三郎(いさやま いさぶろう、1887年12月-1945年5月)は、日本の獣医師、朝鮮総督府官僚、朝鮮総督府道獣医官。 埼玉県出身。旧制埼玉県立熊谷中学校、旧制第二高等学校を経て、1915年、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。 1920年、青島守備軍民政部技師となる。1925年、朝鮮総督府道獣医官仁川牛検疫所長となる。1927年以降、朝鮮総督府道獣医官兼朝鮮総督府道技師、移出牛検疫所長、京畿道警察部衛生課技師、警務局衛生課、獣疫血清製造所長、家畜衛生研究所長、警務局家畜防疫に関する専任技師を歴任する。 1936年、朝鮮総督府警務局家畜衛生主任道獣医官となる。 移出牛の血清診断の強制制度を緩和するための交渉の際、農林省に派遣され折衝した。
杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949… 杉田 直樹(すぎた なおき、1887年9月3日 - 1949年8月29日)は、日本の医学者、精神科医。 1887年、東京府生まれ。第一高等学校に入学し、高校在学時代の友人に谷崎潤一郎がいた。その後東京帝国大学に進学し卒業する。欧米に留学。帰国後に東京帝国大学助教授となり、松沢病院副院長。1931年名古屋医科大学教授、戦後名古屋大学教授となるがほどなく死去した。 妹の息子に小田切秀雄、小田切進がいる。
正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 -… 正木 不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家・医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。医学博士。結核専門の高原サナトリウム富士見高原療養所初代院長として知られる。 長野県上水内郡長野村(現長野市)に旧上田藩士・正木直太郎の次男として生まれる。父は長野県師範学校、埼玉県師範学校 香川県師範学校の各校長を歴任。母は旧岩村田藩士の娘。小学校時代に派遣教員の島木赤彦より俳句の影響を受け、その後文筆にも親しむ。 埼玉県師範学校附属小学校、旧制獨逸学協会中学、第一高等学校を経て、1913年東京帝国大学医学部卒、恩賜の銀時計を賜る。福島市の福島共立病院副院長を経て、1920年パリのパスツール研究所に学ぶ。
富村 登(とみむら のぼる、1886年9月7日 - 1964… 富村 登(とみむら のぼる、1886年9月7日 - 1964年)は、茨城県の地方史研究者、医師。 茨城県水海道(現常総市)で、医師・富村玄仙の長男として生まれた。獨逸学協会中学校(現獨協中学校・高等学校)、第一高等学校卒。1911年東京帝国大学医学部卒。1912-13年東大医科学教室副手。1914年日本郵船船医嘱託(欧州航路)。 父の死去に伴い、故郷で1915年開業、地方史研究家。
瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946… 瀬尾 貞信(せお さだのぶ、1886年1月8日 - 1946年10月5日)は、日本の外科医、外科医学者。食道外科の大家。 新潟県中頸城郡板倉町(現・上越市板倉区)出身。旧姓は島田。東京帝国大学医科大学を1911年(明治44年)に卒業、外科入局。 1920年(大正9年)千葉県立千葉病院副部長、同年千葉医学専門学校教授、1922年(大正11年)同校付属医院外科医長、1923年(大正12年)千葉医科大学教授兼同大専門部教授。1924年(大正13年)医学博士を取得、1944年(昭和19年)「動脈注射療法の研究」で朝日賞を受賞。 教え子に中山恒明らがいる。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。