蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日… 蛭田 禎男(ひるた さだお、1918年(大正7年)7月25日 - 2020年(令和2年)8月3日)は、日本の教育者、歴史家である。長年教諭を務め、小学校校長を務めた後、有漢町教育委員会指導員となり、有漢町の歴史を編纂した人物。岡山県高梁市出身。 1918年(大正7年)、岡山県上房郡高梁町川端(現:高梁市)で出生する。1930年(昭和10年)に上房郡有漢村(後の有漢町)の蛭田傳助の養子となる。岡山県師範学校(現:岡山大学教育学部)を卒業する。 有漢中学校や有漢東小などで教師を40年務める。小学校の校長を務めた後、地元の有漢の歴史や伝承の編纂を行う。1991年(平成3年)には、「有漢点描」として全9巻出版し、明治、大正の動乱を中心に有漢の歴史をまとめている。
浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968… 浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968年4月30日)は、日本の歌人、詩人、医師。ロサンゼルス出身。 1912年、農園を経営していた両親が移住していたロサンゼルスに生まれ、4歳のとき帰国。両親の出身地である鹿児島県国分市(現・霧島市)に育つ。鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)在学中に短歌を始め、旧制姫路高等学校、旧制岡山医科大学を卒業。 1935年に、一中の教員であった安田尚義が主宰する潮音系短歌雑誌『山茶花』に短歌作品を発表。異色ある作品として注目される。以後、『歌宴』『工人』を経由。 1944年に岡山医科大学卒業後、鹿児島市内の済生会病院に勤務(内科医)。 1951年、中井英夫に見出され『短歌研究』8月号の「モダニズム短歌特集」に塚本邦雄らとともに寄稿、1960年には塚本邦雄、寺山修司、山中智恵子、菱川善夫らとともに同人誌「極」に参加。
小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、… 小坂 淳夫(こさか きよお、1915年 - 2005年)は、日本の内科医。岡山大学学長や、岡山県立大学学長、大学入試センター所長を務めた。従三位勲二等旭日重光章。 岡山県赤磐郡鳥取上村(現赤磐市)山口生まれ。1940年岡山医科大学(現岡山大学)卒業。1949年医学博士。1957年岡山大学医学部教授(内科学)。1965年岡山県医師会理事。1973年医学部長。同年岡山県三木記念賞受賞。74年日本糖尿病学会中国・四国支部長。75年岡山大学学長。82年大学入試センター所長。83年山陽新聞社賞受賞。87年勲二等旭日重光章受章。88年岡山県文化賞受賞。同年赤坂町名誉町民。93年初代岡山県立大学学長。05年従三位。
大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 20… 大平 昌彦(おおひら まさひこ、1914年7月1日 - 2010年2月1日)は日本の医学者。岡山大学名誉教授。専門は公衆衛生学。 福岡県出身。1932年福岡県中学修猷館、1935年旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1939年九州帝国大学医学部卒業。同年5月九州帝国大学医学部第3内科(小野寺直助教授)に入局するが、同年7月には海軍軍医となり、横須賀海軍病院、海軍軍医学校、連合艦隊第4潜水戦隊、海南島陸戦隊、稚内通信隊、海軍潜水学校、ラバウル潜水艦基地に勤務する。 1946年5月復員。同年10月九州帝国大学大学院特別研究生となり、1948年9月満了。九州大学医学部助手を経て、1950年5月助教授に就任。
佐藤 重夫(さとう しげお、1912年1月11日 - 200… 佐藤 重夫(さとう しげお、1912年1月11日 - 2003年11月23日)は、日本の建築家。建築史家。広島大学名誉教授。専門は建築意匠設計と建築史。広島県と岡山県の文化財保護審議会委員を歴任。日本民俗建築学会には佐藤重夫賞が設けられている。 1912年、岡山県都窪郡早島町で生まれた。旧制第六高等学校を卒業し、1931年に東京帝国大学工学部建築科に進学。1934年に卒業。 卒業後は渡辺仁建築事務所に勤務。1940年、逓信省航空局に勤務。以降、厚生省保健院、逓信省営繕課、防衛通信施設局、西部逓信総局、広島逓信局に勤務した。1947年から1950年、独立して建築設計事務所を運営し岡山市の復興に携わった。
近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月… 近藤 洋逸(こんどう よういつ、1911年(明治44年)3月30日 - 1979年(昭和54年)5月22日)は、日本の数学史家、科学思想史家。元岡山大学法文学部教授。岡山大学名誉教授。文学博士。 岡山県に生まれる。岡山県立第一中学(現・岡山朝日高等学校)京都帝国大学文学部哲学科に入学。田辺元に師事する。その後東北大学に理科学生として在籍する。 昭和高等商業学校、第六高等学校で教授を務めた後、1952年(昭和27年)より岡山大学法文学部教授となった。 1946年(昭和21年)にゲーデルの赤い本を翻訳して出版した。
徳久 克己(とくひさ かつみ、1910年3月20日 - 20… 徳久 克己(とくひさ かつみ、1910年3月20日 - 2001年4月)は、元生長の家理事長。産婦人科医。医学博士。 高知県出身。1937年、岡山医科大学卒業。1942年、「「ビタミン」B1およびB2の雌性性器に及ぼす実験的研究」で医学博士。戦争中は満州で病院長を務める。戦後、生長の家本部練成道場設立や、ブラジル、アメリカ合衆国、中華民国での布教活動に尽力。生長の家関係の要職を歴任し、1982年、生長の家本部理事長。 1983年にはカトリック東京大司教の白柳誠一や全日本仏教婦人連盟の山本杉、日蓮宗管長の金子日威らと「〝生命尊重の日〟実行委員会」を結成した。これは優生保護法が制定された7月13日を「生命尊重の日」として、優生思想や堕胎に反対していこうという運動であった。
赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7… 赤木 五郎(あかぎ ごろう、1909年〈明治42年〉 7月7日 - 1999年〈平成11年〉8月11日)は、医学博士、眼科医師であり、教育者でもある。戦後、広島県立医科大学(現・広島大学医学部)の眼科の初代教授を務めた後、岡山大学第5代学長、川崎医科大学初代学長、岡山県立短期大学(現・岡山県立大学)学長を勤めた。位階は正四位。岡山県高梁市出身。 1927年(昭和2年)旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高校)卒業、1931年第六高等学校卒業を経て、岡山医科大学に入学、1935年(昭和10年)に岡山医科大学卒業した。卒業後嘱託として同大眼科教室副手として勤務する。1938年(昭和13年)青森県立病院眼科部長として赴任。
櫻田 武(さくらだ たけし、1904年(明治37年)3月17… 櫻田 武(さくらだ たけし、1904年(明治37年)3月17日 - 1985年(昭和60年)4月29日)は、昭和の経営者。日清紡績(現・日清紡ホールディングス)元社長。日清紡績"中興の祖"。日経連会長、名誉会長を務め、"ミスター日経連"とも呼ばれた。「財界四天王」の一人。広島県福山市赤坂町出身。福山市名誉市民。 1904年、商家の櫻田斉・仲子の長男として沼隈郡赤坂村(現在の福山市赤坂町)に生まれる。広島高師附属中学校、第六高等学校を経て1926年(大正15年)に東京帝国大学法学部を卒業。紙恭輔は広島高師附属中学の一級上。六高柔道部で同郷で、後に「財界四天王」とともに呼ばれる生涯の盟友・永野重雄に誘われ高専柔道界の王座を築く。
川﨑 祐宣(かわさき すけのぶ、1904年(明治37年)2月… 川﨑 祐宣(かわさき すけのぶ、1904年(明治37年)2月22日 - 1996年(平成8年)6月2日)は、日本の医師・医学教育家・学校経営者・慈善家。総合社会福祉施設を設立して心身障害者の福祉のために尽力した。 鹿児島県姶良郡横川村(後の横川町、現霧島市の一部)出身。旧制鹿児島県立加治木中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、旧制岡山医科大学(現・岡山大学医学部)を卒業後、勤務医を経て、川崎病院、社会福祉施設旭川荘、医療系学校法人川崎学園などを設立した。後に川崎医科大学附属川崎病院(現・川崎医科大学総合医療センター)病院長を務めた[要出典]。 岡山県の名誉県民、倉敷市の名誉市民をはじめ、中国において首都医学院(現・首都医科大学)、上海中医学院(現・上海中医薬大学)名誉教授の称号を受けている[要出典]。
鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 19… 鮫島 宗雄(さめじま むねお、1903年2月10日 - 1947年8月6日)は、昭和初期の日本の臨床医師、医学研究者(医学博士)。南洋庁立の病院の医師として、トラック医院、パラオ医院、ヤップ医院、ヤルート医院、ポナペ医院で現地日本人およびミクロネシア人を診察した。その傍ら、ミクロネシア人についての医学的、人類学的、疫学的研究をおこなった。 1920年(大正9年)、岡山医学専門学校に進学する。在学中の1922年に岡山医学専門学校は岡山医科大学に昇格した。1924年(大正13年)3月、岡山医科大学付属専門部を卒業。 日本の各地の医師を経て、南洋群島に渡り1934年(昭和9年)頃に南洋庁の官医となる。
蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月… 蜂谷 道彦(はちや みちひこ、1903年 - 1980年4月13日)は、日本の医学者・内科医師である。1945年の広島市への原子爆弾投下で被爆しながらも、広島逓信病院(広島はくしま病院の前身)院長として被爆者の治療と原爆症の研究を行い、その苦闘の記録は『ヒロシマ日記』として各国で出版された。岡山県岡山市出身。 1903年、岡山県御野郡牧石村(現:岡山市)に生まれる。(旧制)岡山県立矢掛中学校、(旧制)第六高等学校を経て1929年に岡山医科大学(岡山大学医学部の前身)を卒業する。その後、同大学の稲田内科にて研究を行い、1938年に学位を取得した。そして1942年には広島逓信病院の院長に就任し、これにより後半生を大きく変えることとなった。
岡田 五郎(おかだ ごろう、1901年(明治34年)8月25… 岡田 五郎(おかだ ごろう、1901年(明治34年)8月25日 – 1965年(昭和40年)9月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。衆議院議員(3期)。 兵庫県加東郡小野町長尾で岡田常次の三男として生まれる。第六高等学校を経て、1925年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年、鉄道省に入省し鉄道属に任官し札幌駅貨物係に配属された。 以後、鉄道局参事、鉄道大臣官房人事課長、同秘書課長、鉄道監、札幌鉄道局長、大阪鉄道局長などを歴任し、1947年に退官した。 1949年1月の第24回衆議院議員総選挙で兵庫県第三区に民主自由党から出馬し当選。以後、第26回総選挙まで連続して当選し、衆議院議員を連続三期務めた。
時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月… 時枝 誠記(ときえだ もとき、1900年〈明治33年〉12月6日 - 1967年〈昭和42年〉10月27日)は、日本の国語学者。学位は、文学博士(東京帝国大学・論文博士・1943年)(学位論文「言語過程説の成立とその展開」)。東京大学名誉教授。 横浜正金銀行サンフランシスコ支店長を務めた時枝誠之の子として東京神田に生まれる。 暁星中学校、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1925年に東京帝国大学文学部国文科を卒業。卒業論文は『日本に於ける言語意識の發達及び言語研究の目的と其の方法』。1943年に学位論文「言語過程説の成立とその展開」で東京帝国大学より文学博士の学位を取得。 1925年に旧制第二東京市立中学校(現・東京都立上野高等学校)教諭。
柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月… 柏原 義則(かしはら よしのり、1900年(明治33年)2月25日 - 1971年(昭和46年)4月30日)は、日本の政治家、宗教家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 徳島市幟町に生まれる。徳島県立徳島中学校、第六高等学校卒業後、京都帝国大学文学部社会学科へ進学し卒業。 大学卒業後は天理教が中心となって設置した奈良県の天理中学校に奉職し校長まで務め、後に徳島に戻り天理教徳島教区長・天理教名東大教会長を歴任した。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、1952年(昭和27年)まで3期を務めた。1949年(昭和24年)には第3次吉田内閣で文部政務次官を務めた。 1970年(昭和45年)、春の叙勲で勲三等旭日中綬章受章。
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月… 吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月11日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、日本の医学者・精神科医。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 岐阜県大垣市出身。大垣中学校、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒業。呉秀三門下となり、同大学精神病学教室助手、東京府立松沢病院に勤務。1925年(大正14年)東京帝国大学文学部大学院へ入学し、1931年(昭和6年)同大学大学院心理学専攻卒業。在学中、市ヶ谷刑務所精神考査嘱託を始めとし、豊多摩刑務所、小菅刑務所にて犯罪学研究に従事する。1936年(昭和11年)東京帝国大学脳研究室創設に際し、講師として着任。
木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16… 木村 義雄(きむら よしお、1897年(明治30年)8月16日 – 1988年(昭和63年)5月27日)は、日本の医師、政治家。 1897年、山口県大津郡仙崎町(現・長門市仙崎)に生まれる。1921年、岡山医学専門学校を卒業。 1937年に妻の従兄弟で当時の日置村長の安倍寛(安倍晋三の祖父)の勧めで大津郡日置村に産婦人科医院を開業。1946年に安倍が死去すると、安倍が出馬を予定していた第22回衆議院議員総選挙に、安倍の長男である安倍晋太郎が被選挙権を得るまでのつなぎ役として出馬し当選するも、戦時中に地元の大政翼賛会の幹部を務めた事により公職追放され、衆議院議員の地位を失う。 1965年から油谷町長を1期務め、1971年には勲四等瑞宝章を受章。
三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 198… 三宅 剛一(みやけ ごういち、1895年1月1日 - 1982年10月8日)は、日本の哲学者。専攻は臨床哲学・倫理学。文学博士(京都帝国大学)。長男は歴史学者の三宅正樹。 岡山県浅口市鴨方町益坂出身。旧制私立金光中学校(現:金光学園中学校・高等学校)、旧制第六高等学校(現:岡山大学)を経て、1916年に京都帝国大学哲学科に進み西田幾多郎、朝永三十郎、波多野精一に学ぶ。卒業後は旧制新潟高等学校(現:新潟大学)や東北帝国大学理学部の教授を歴任した。ドイツにも留学し、フライブルク大学でフッサールから現象学の手法を学んだ。1943年「学の形成と自然的世界:西洋哲学の歴史的研究」により京都帝国大学文学博士。
田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年… 田宮 貞亮(たみや さだすけ、1893年9月12日 - 没年不明)は、日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1911年卒業)を経て、岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)を卒業した。 1929年に東京帝国大学から医学博士号を取得した。 長く東京帝国大学伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)に務め、1933年には東京帝国大学医学部助教授となる。主にハンセン病の研究者であった。その後、熊本県の国立菊池療養所の所長に任命されたが3か月で辞任し、日本医科大学の教授となった。
藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1… 藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1990年1月15日)は、岡山県生まれの書家。「和漢書道史」「書源(新書道字典)」の編纂者。青龍寺の「空海記念碑」を揮毫。本名は茂(しげる)、鶴来は号。 岡山県玉野市に生まれる。岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)で大原桂南に学び、丹羽海鶴、鈴木翠軒、加藤飯山に師事。比田井天来、松田南溟に益を受ける。 岡山第一中学校の教員を経て、香川師範学校教諭となる。戦後香川大学教育学部教授となり後進の育成につとめる。書道の歴史解説書「和漢書道史」、名跡筆法の字典「書源(新書道字典)」を編纂。中国陝西省西安市青龍寺の「空海記念碑」を揮毫する。 1986年文部大臣より「地域文化功労者」として表彰される。
出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 -… 出 隆(いで たかし、1892年〈明治25年〉3月10日 - 1980年〈昭和55年〉3月9日) は、日本の哲学者。 岡山県苫田郡津山町(現津山市)で、渡部惟明(元鶴山高等小学校校長)の次男として生まれる。津山中学校在学中に叔父・出道直の養子となる。第六高等学校を経て東京帝国大学卒業、大学院に入り、副手を嘱託される。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝国大学助教授となり、1925年より二年間、英国、およびドイツに留学。 1928年(昭和3年)、立教大学文学部教授に就任し、哲学史(古代哲学)や哲学演習を担った。
藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)… 藤森 真治(眞治、ふじもり しんじ、1891年(明治24年)8月5日 - 1957年(昭和32年)5月17日)は、大正から昭和期の医師、政治家。参議院議員、医学博士。 兵庫県姫路市出身。1913年(大正2年)岡山医学専門学校を卒業。1915年(大正4年)耳鼻咽喉科医院を開業する。その後、ベルン大学を卒業して医学博士となる。 姫路市本町に藤森病院を開業し院長に就任、藤森医療財団理事長となる。また兵庫県医師会姫路市支部長、姫路市公職適否審査委員などを務め、姫路市議会議員にも選出された。ほか日本医療法人協会理事長、日本耳鼻咽喉科学会評議員、日本気管食道科学会顧問、社会保障制度審議会委員を歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で兵庫県地方区から出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6… 仁科 芳雄(にしな よしお、1890年〈明治23年〉12月6日 - 1951年〈昭和26年〉1月10日)は、日本の物理学者。学位は理学博士(東京帝国大学・1930年)。日本現代物理学の父。 岡山県浅口郡里庄町浜中出身。東京帝国大学卒。日本に量子力学の研究拠点を作ることに尽力し、理化学研究所(理研)に在籍して宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた。 死去から4年後の1955年、原子物理学とその応用分野の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学とその応用に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また理研の仁科加速器科学研究センターにも名を残す。 ニールス・ボーアの下で身に着けたその自由な学風は、自由で活発な精神風土を日本にもたらし、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げた。
高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月… 高橋 統閭(たかはし のりさと、1887年(明治20年)2月21日 - 没年不明)は、日本の政治家。千葉県市川市長。医学博士、内科医。 山梨県出身。1911年(明治44年)岡山医学専門学校(のち岡山医科大学、現在の岡山大学医学部)卒業。卒業後は佐々木杏雲堂病院医長、岡山医学専門学校、岡山医科大学各講師となる。1923年(大正12年)千葉県東葛飾郡市川町で開業する。翌年学位を受ける。 その後、市川市医師会長を経て、1944年(昭和19年)3月市川市長に就任。市長に就任してから戦況は悪化の一途をたどり、終戦を迎えた。終戦後は市長として戦後の処理に当たっていたが、1946年(昭和21年)に市長を辞職した。
菅 實(かん みのる、1884年? - 1946年(昭和21… 菅 實(かん みのる、1884年? - 1946年(昭和21年))は、日本の医師、政治家。新字体にて菅 実(かん みのる)と表記されることもある。菅納家重の子。第94代内閣総理大臣菅直人の祖父。 久米郡医師会会長、久米郡会議員などを歴任した。 岡山県出身。生家は江戸時代には村の庄屋を務めており、元は豪族であった。 旧制岡山県津山中学校(現・岡山県立津山高等学校)を経て岡山医学専門学校を卒業し、医師となる。岡山県病院で研修の後、1911年(明治44年)に津山市内で開業。1913年(大正2年)に郷里に戻って医業を続け、久米郡医師会長、郡会議員などを歴任。囲碁、俳諧の趣味も楽しみ、1946年(昭和21年)に62歳で死去。
磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月1… 磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月19日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本の漆芸家。本名は雪衛(ゆきえ)、あらため雪枝。 香川県高松市出身。香川県立工芸学校(現、香川県立高松工芸高等学校)を卒業後、大阪山中商会で中国漆器の修理などに携わり、技術を習得した。1909年に高松に戻り、製法が絶えて久しかった香川漆器を独自研究を重ねて復興し、近代化を確立した。讃岐漆芸の中興の祖と称される。母校の工芸学校や工芸研究所で後進の育成にもあたっている。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した「漆サボテンにホロホロ鳥飾棚」で選奨を受賞。1953年(昭和28年)には岡山大学教授に就任。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 … 大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日)は、日本の実業家・社会事業家・慈善家。倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現在のクラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を歴任、大原財閥を築く。社会・文化事業にも熱心で、財団法人石井記念愛染園、倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)、大原美術館、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)、倉敷労働科学研究所(現・大原記念労働科学研究所)、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立。 早稲田大学推薦校友。
竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月… 竈門 亀千代(かまど かめちよ、1879年(明治12年)5月24日 - 没年不明)は、日本の医師。竈門眼科医院院長。有田郡医師会評議員、健保査定委員。族籍は和歌山県平民。 和歌山県出身。湯浅町湯浅在籍。1905年(明治38年)8月、岡山医学専門学校(のちの岡山大学医学部)を卒業後、同年香川県高松市市立病院勤務。1906年(明治39年)、神戸市山本眼科病院勤務。なお、勤務中に船医としてハワイ(布哇)移民局トラホーム検査の情態視察に赴き、同地に四か月滞在した。 1907年(明治40年)、和歌山市木下眼科医院に勤務し、同年竈門眼科医院を開業。 趣味は書画と魚釣り。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。
佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9… 佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9年〉9月1日 - 1959年〈昭和34年〉11月29日)は、日本の栄養学者、医師。医学博士。「栄養学の創始者」、「栄養学の父」と称される。世界に先駆けて医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。 栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。自分で料理をすることはほとんどなかった。 佐伯が少年時代に育った愛媛県郡中町(現・伊予市)の栄養寺には、佐伯の筆による「栄養」の書と「栄養」顕彰碑が建立されている。 1876年9月1日、愛媛県新居郡氷見村(現・西条市)の医師の家に生まれる。
秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23… 秦 佐八郎(はた さはちろう、1873年(明治6年)3月23日 - 1938年(昭和13年)11月22日)は、日本の医師、細菌学者。医学博士(東京帝国大学医科大学)。 数百年に渡り、不治の病の筆頭として人類を苦しめて来た梅毒の、史上初の治療薬となったサルバルサン(砒素化合物製剤606号)を、ドイツのパウル・エールリヒ(エールリヒは、秦との共同研究以前の業績で1908年ノーベル生理学・医学賞を受賞していた)と共に開発し、多くの患者を救ったことで知られる。 秦は、1911年にノーベル化学賞と1912年・1913年にノーベル生理学・医学賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸した。島根県美濃郡都茂村(現:益田市)出身。
松崎 章太郎(まつざき しょうたろう、明治5年(1872年)… 松崎 章太郎(まつざき しょうたろう、明治5年(1872年)5月 – 没年不詳)は、東京市麻布区長、東京府豊多摩郡落合町長、医師。 岡山県和気郡福河村(現在の備前市)出身。1893年(明治26年)、第三高等中学校を卒業し、翌年医術開業免状を得た。日清戦争では陸軍三等軍医として従軍した。その後岡山や大阪で開業。1903年(明治36年)より内務省衛生局に技手として勤務し、日露戦争では陸軍二等軍医として従軍した。その後、静岡県技師・警察医長、同衛生課長、宮城県技師・衛生課長、愛知県技師・衛生課長などを歴任した。退官後、東京市主事・衛生課長に任命され、のち麻布区長に転じた。1928年(昭和3年)、落合町長に選ばれた。
皿井 立三郎(さらい たつさぶろう、明治3年10月11日(1… 皿井 立三郎(さらい たつさぶろう、明治3年10月11日(1870年11月4日) - 昭和20年(1945年)12月18日)は日本の医師、俳人。大阪府士族。元皿井耳鼻咽喉科医院長。 妻・清江は本田親雄男爵の三女。五男五郎の妻昭子は女優司葉子の姉。長女慶子は旧伯太藩主家の渡辺英綱子爵に嫁いだ。 岡山県士族・武市文太郎の二男。皿井安太郎の養子となる。明治20年(1887年)家督を相続する。 明治28年(1895年)、岡山医専卒業。同校講師。独逸に留学しロストック大学に学び帰朝、耳鼻咽喉科医師となる。 趣味は俳句。俳人としても活動。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(18… 大林 森次郎(おおばやし もりじろう、慶応3年8月1日(1867年8月29日) – 昭和5年(1930年)1月4日)は、衆議院議員(立憲政友会)、医師。 讃岐国綾歌郡富熊村(現在の香川県丸亀市)の松井家に生まれ、大林三斎の養子となった。第三高等中学校医学部を卒業し、医師となった。香川県医師会副会長、香川県医師会会長、綾歌郡医師会会長を歴任した。 また郡会議員、郡参事会員、県会議員、県参事会員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。
矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月… 矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月18日) - 昭和26年(1951年)9月23日)は、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた実業家。第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。 備前国上道郡角山村(現・岡山県岡山市東区)で生まれる。播磨国赤穂郡砂野庄矢野(現・兵庫県相生市北部)を本貫とした清和源氏山県氏流矢野氏の末裔と称した。 1889年、第三高等中学校医学部(後の岡山医専、現・岡山大学)を卒業、日本生命に診査医として就職する。 しかし、1892年に経営陣との対立から退社し、安田生命(現・明治安田生命保険)の前身である共済生命保険の設立に関わり、その後、支配役となる。
石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4… 石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4月11日) - 1914年(大正3年)1月30日)は、明治期の慈善事業家。岡山孤児院を創設した人物である。その功績から、「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。 岡山で医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、生活に困窮する母親から子どもを預かったことをきっかけに孤児教育会を設立する。その後、預かる子どもの数が増え、育児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして、英国のキリスト者のジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。
小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年… 小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年9月12日)- 1924年(大正13年)7月1日)は、日本の園芸家である。号は楽山園。 備前の赤磐郡稗田村に生まれる。幼少時に漢学を学び、後に廃藩置県により赤磐郡議会の書記を務めた。その後園芸栽培の活動を始め、同地で生産されるモモやナシ、ブドウ等多くの果実の品種改良に携わる。 またその果実の袋掛け法の改善や害虫駆除のために、殺虫剤の研究開発にも携わった。この開発は後に石油浸出法による石油乳剤を用いたものであり、「六液」の名で知られ普遍的に多くの農家で使用された。その後も果実の販売向上のために市場の開業や、大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)からの招聘よって果樹園の経営にも携わった。
片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年1… 片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。 美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。 1877年(明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。
中桐 康介(なかぎり こうすけ、12月28日 - )は、西日… 中桐 康介(なかぎり こうすけ、12月28日 - )は、西日本放送の男性アナウンサー。
金野 純子(かねの じゅんこ、8月10日 - )は、元あいテ… 金野 純子(かねの じゅんこ、8月10日 - )は、元あいテレビの社員。 愛媛県松山市出身。愛媛県立松山南高等学校、岡山大学経済学部経済学科卒業。 2007年にあいテレビに入社し、同期の岡田麻希とともに同局のリポーターになる。 その後、2011年4月に報道部へ異動。以後は報道記者として活動し、警察・県庁・市役所関係の取材を主に担当した。途中、結婚・出産・育児休業を経て、2017年10月に『Nスタえひめ』のキャスターに就任。それと並行して、ニュースデスクと特別番組のディレクターも務めていた。 2022年6月にあいテレビを退社した。
東尾 公彦 は、日本の実業家である。コナミグループ株式会社の… 東尾 公彦 は、日本の実業家である。コナミグループ株式会社の代表取締役社長 グループCEOを務める。
阿部 祐美子 は、日本の政治家。
市場 晋吾 は、日本の医学者、医師。専門は、救急医学・集中治… 市場 晋吾 は、日本の医学者、医師。専門は、救急医学・集中治療医学・心臓血管外科学。学位は、博士(医学)。
伊野 英男(いの ひでお)は、日本の医学者、医師、医学博士。… 伊野 英男(いの ひでお)は、日本の医学者、医師、医学博士。岡山大学副理事・教授などを務める。 専攻は医学(特に医療教育、シミュレーショントレーニングなど)。
苅田 昌(かんだ さかえ)は、日本の実業家、新聞編集者、大学… 苅田 昌(かんだ さかえ)は、日本の実業家、新聞編集者、大学関係者。岡山大学監事などを務める。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
宮 瑾(グン・ジン)は、中華人民共和国出身の科学者。現在、山… 宮 瑾(グン・ジン)は、中華人民共和国出身の科学者。現在、山形大学大学院理工学研究科助教。世界初の透明な形状記憶ゲルの開発に成功したことで知られる。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
伊達 洋至(だて ひろし)は、日本の呼吸器外科医師、医学博士… 伊達 洋至(だて ひろし)は、日本の呼吸器外科医師、医学博士、京都大学大学院医学研究科器官外科学講座呼吸器外科学教授、日本胸部外科学会理事。
坂本 剛史(さかもと つよし、3月8日 - )は、福井テレビ… 坂本 剛史(さかもと つよし、3月8日 - )は、福井テレビ (FTB) の元アナウンサー。 兵庫県神戸市出身。兵庫県立長田高等学校、岡山大学医学部卒業。専攻は放射線技術科学で、診療放射線技師免許を取得している。 大学を卒業後、2009年4月に福井テレビに入社。2024年2月末で他部署に異動。
鍋谷 淳(なべたに あつし)は、日本の石油探鉱技術者、地球科… 鍋谷 淳(なべたに あつし)は、日本の石油探鉱技術者、地球科学者。 1956年 兵庫県赤穂市生まれ 1974年 兵庫県立赤穂高等学校卒 1978年 岡山大学理学部地学科卒。岡大時代は逸見吉之助教授に師事。鍋谷の岡大時代の同期に金沢大学名誉教授の奥野正幸がいる。 1981年 東京大学大学院理学系研究科修士課程修了(地質学専攻)。同大学院では飯山敏道教授に師事。 1981年、INPEXの前身であるインドネシア石油に入社。石油探鉱技術者として従事。インドネシア、ベトナム、シリア、イエメン、ブラジル、アフリカ諸国などでの探鉱プロジェクトを担当(主に本社にて現場から送られてくる地震探鉱データおよび物理検層データの解析作業に従事)したほか、海外の主要石油会社の上流資産調査を担当した。