稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治… 稲浦 鹿蔵(稲浦 鹿藏、いなうら しかぞう、1894年(明治27年)10月19日 - 1978年(昭和53年)3月30日)は、昭和時代の土木工学者、内務官僚、建設事務次官、参議院議員。 三重県に生まれる。1924年(大正13年)京都帝国大学工学部土木工学科を卒業し、内務省神戸土木出張所に入り、神戸高等工業学校講師を兼任する。1935年(昭和10年)大阪府土木部河港課長に転じ、前年の室戸台風の災害復旧として河川の防潮工事などを進めた。1942年(昭和17年)青島埠頭常務取締役に就任し、青島港の整備に当たり、終戦を迎えると兵庫県土木部長、建設技監を経て、1952年(昭和27年)建設事務次官に就任した。
中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - … 中川 与之助(なかがわ よのすけ、1894年7月30日 - 1968年8月1日)は、日本の経済学者、元京都帝国大学教授。文学博士。ナチス研究により戦後公職追放された。川田順の「老いらくの恋」騒動の当事者の一人。 富山県上新川郡熊野村江本(現:富山市江本)の農家、中川滋次郎・チイ夫妻の次男に生まれる。苦学して特待生で東京高等師範学校に入学、卒業後、奈良県郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)で教師をしたあと、1924年に京都帝国大学経済学部卒業、大学院に進み、30歳の時に下宿先の娘鈴鹿俊子(17歳)と結婚、一男二女を儲ける。 1928年に大学院を中退して京大講師となり、1930年助教授、1931年から1933年まで文部省の辞令によりドイツ留学、1943年教授。
田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1… 田岡 嘉寿彦(たおか かずひこ、1894年7月27日 - 1985年7月21日)は、日本の弁護士・法学者。専門は私法学。大阪経済大学元理事長、同名誉教授。 1894年(明治27年)香川県三野郡上高瀬村(現 三豊市高瀬町)に生まれる。旧制香川県立三豊中学校、旧制第三高等学校を経て、1915年(大正4年)京都帝国大学法律科入学、1918年(大正7年)に卒業し司法官試補となる。1920年(大正9年)大阪地方裁判所判事に任官。1922年(大正11年)学界に転じ大分高等商業学校教授に就任、法律学を担当。翌1923年(大正12年)よりイギリス・ドイツに留学する。1929年(昭和4年)彦根高等商業学校に転任し民法、商法などを講じた。
柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26… 柳田 謙十郎(やなぎだ けんじゅうろう、1893年〈明治26年〉11月23日 - 1983年〈昭和58年〉1月16日)は、日本の哲学者。西田哲学から戦後唯物論に転じ、平和運動や労働者教育にも尽くした。 神奈川県愛甲郡南毛利村(現厚木市)生まれ。家は一町数反(約1.5ヘクタール)を耕す農家で、謙十郎は、村会議員を経て収入役・助役になった柳田勘作の長男であった。1908年神奈川師範学校に入学。1913年、愛甲郡高峰小学校訓導に任ぜられた。のち、神奈川師範学校附属小学校訓導、津久井郡協心小学校訓導兼校長、岡山師範学校教諭、岩手師範学校教諭などを務める。 1922年4月、京都帝国大学文学部哲学科選科に入学。
武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1… 武居 高四郎(たけい たかしろう、1893年8月2日 - 1972年8月9日)は、日本の都市計画家、土木工学者。専門は都市計画学。工学博士(京都帝国大学)。京都大学名誉教授。本邦の都市計画学の草分けとして知られる。実業家武居綾蔵の養子で、妻妙子は湯川秀樹の次姉。 岡山県津高郡一宮村(現・岡山市北区)に生まれる(旧姓小野)。旧制岡山県立岡山中学校、第六高等学校を経て1917年京都帝国大学工科大学土木工学科を卒業。 大阪市役所に入り市区改正部などで技師として奉職。次いで内務省技師、国の都市計画の実務に従事する。この間米国ハーバード大学、英国リヴァプール大学に留学、都市計画学を学ぶ。1922年京都帝国大学工学部が日本最初の都市計画の講座(土木工学第六講座)を開設。
末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月2… 末川 博(すえかわ ひろし、1892年(明治25年)11月20日 - 1977年(昭和52年)2月16日)は、日本の法学者(民法)。法学博士(京都帝国大学・論文博士・1931年)。日本学士院会員。立命館大学名誉総長。京都帝国大学教授、戦後に立命館大学学長・学校法人立命館総長を歴任。立命館では末川を名誉総長として顕彰している。長男は立命館大学名誉教授で歴史学者の末川清。清の妻は日本画家・橋本関雪の孫娘。勲四等瑞宝章(1942年)、従四位(1945年)。岡松参太郎に師事。弟子に谷口知平、亀井秀夫、石本雅夫、浅井清信、草鹿浅之介、吉田五郎など。筆名に欽風生。 末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。
五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月1… 五十嵐 勇(いがらし いさむ、1892年(明治25年)1月18日 - 1986年(昭和61年)3月7日)は、日本の金属工学者。 1892年(明治25年)に熊本県に生まれる。1909年(明治42年)に熊本県立玉名中学校を卒業後、広島高等師範学校を経て、京都帝国大学理学部を卒業した。 住友金属工業伸銅所に勤務中の1938年(昭和13年)に航空機に使う超々ジュラルミンを開発した。戦後は1946年(昭和21年)から東北大学教授。その他、秋田大学や岩手大学の教授も務めた。退官後は熊本県熊本市に居住した。1986年(昭和61年)死去。
中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1… 中道 等(なかみち ひとし、1892年(明治25年) - 1968年(昭和43年)8月22日)は、大正時代から昭和時代にかけて活動した郷土史家、民俗学者である。 宮城県登米郡登米町に生まれる。旧姓は砂金(いさご)。後に青森県八戸市に移り青森県立八戸中学校に進学するも1年で中退する。二松學舍を経て、1918年(大正7年)に京都帝国大学教授の内藤湖南のもとで、東洋文献の考証学を学ぶ。同年に八戸の中道トシの養子となり姓を改める。その後、八戸に戻り『実業時論』という雑誌を手がける。推薦を受け、青森県史編纂委員や青森県史跡名勝天然記念物調査委員を務める。また、南部叢書の編纂にも従事した。1928年、小井川潤次郎が中心となって組織した八戸郷土研究会の顧問となる。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。
瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治… 瀧川 幸辰(滝川 幸辰、たきかわ ゆきとき、1891年(明治24年)2月24日 - 1962年(昭和37年)11月16日)は、日本の法学者。法学博士。専門は刑法。岡山県出身。京都帝国大学教授。京都大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。音読みで「たきがわ こうしん」と呼ばれることもあった。 東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の日本の刑法学の基礎を築いた。 瀧川は違法性の実質について、当初M・E・マイヤーに倣って国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であると改説し、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6… 山内 得立(やまうち とくりゅう、1890年〈明治23年〉6月12日 - 1982年〈昭和57年〉9月19日)は、日本の哲学者。京都学派の哲学者。文化功労者。京都大学名誉教授。元京都学芸大学学長。西田幾多郎の弟子の一人。形而上学者として比較哲学の著しい貢献。主書は『ロゴスとレンマ』(1974)である。 奈良県生まれ。旧姓中川。京都帝国大学で西田幾多郎に師事した後、ドイツのフライブルク大学に留学しエトムント・フッサールとマルティン・ハイデッガーに師事。留学中に左右田喜一郎の推薦により東京商科大学(後の一橋大学)助教授に就任。後に京都大学教授等を歴任。蔵書や自筆ノートは山内文庫として一橋大学附属図書館に収められている。
恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3… 恒藤 恭(つねとう きょう、1888年〈明治21年〉12月3日 - 1967年〈昭和42年〉11月2日)は、日本の法哲学者。大阪市立大学名誉教授。法学博士。従三位勲二等旭日重光章。学士院会員。 芥川龍之介の親友、戦前における日本の代表的法哲学者として著名。また、京都帝国大学法学部教授時代に滝川事件で辞任した教官の一人としても知られる。旧姓は井川。息子の恒藤敏彦は京都大学名誉教授(物理学)、恒藤武二(1919年8月31日 - 1998年4月29日)は同志社大学法学部教授(法哲学と労働法担当)。 島根県松江市に兄弟姉妹8人の第5子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。
小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治2… 小出 源吉(こいで げんきち、旧姓:酒井、1888年〈明治21年〉11月8日 - 1977年〈昭和52年〉5月31日)は、日本の耳鼻咽喉科学者、耳鼻咽喉科医、実業家、政治家。医学博士。長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授、新潟県医師会副会長、越後天然ガス取締役、新津市議会第5代議長。趣味は楽焼の制作。 新潟県中蒲原郡吉沢村(現 五泉市吉沢)の機業家・酒井準治郎の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第四高等学校を卒業、1914年(大正3年)11月に京都帝国大学医科大学医学科を卒業。 1914年(大正3年)12月に京都帝国大学医科大学外科学教室助手に就任、1915年(大正4年)2月に退職、6月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室副手に就任、8月に助手に就任、1916年(大正5年)6月に退職、同月に小倉記念病院耳鼻咽喉科部長に就任、1917年(大正6年)12月に退職、1918年(大正7年)1月から京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室および解剖学教室で研究、9月に京都帝国大学医科大学耳鼻咽喉科学教室助手に就任、11月に助教授に就任、1919年(大正8年)6月から新潟医学専門学校耳鼻咽喉科学教室講師を兼任したが翌7月に辞任、12月に長崎医学専門学校耳鼻咽喉科学教室教授に就任、1922年(大正11年)4月に依願退官。
内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 196… 内田 寛一(うちだ かんいち、1888年3月3日 - 1969年9月28日)は、日本の地理学者。日本における歴史地理学の開拓者と知られ、他に政治地理学・郷土教育などに功績がある。 佐賀県東松浦郡呼子(よぶこ)の士族の家に生まれた。唐津中学在学中、日露の日本海海戦の砲声を聞いた。同校を19歳で卒業し、23歳(1910年)の時東京高等師範学校本科地理歴史科を卒業し、当時唯一の地理学の専門課程があった京都帝国大学文科大学史学科に入学。 1913年(大正2年)、大学を卒業し、大学院に進学。1914-1916年までは同助手を勤める。この間、小川琢治・石橋五郎・中目覚らに学ぶ。また、日本近世史が専門の内田銀蔵や、東洋史の権威である内藤湖南にも学んだ。
千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、… 千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。女学校などでの教鞭の傍ら、遺伝学研究に没頭した。その実績が認められ、京都帝国大学に招かれ、京都帝国大学理学部助教授を務める。1940年日本遺伝学会賞受賞。 戦後、母校である旧制諏訪中学が新制諏訪清陵高校になるのに伴い、郷土出身の著名な学者を呼ぼうということになり、初代校長(旧制諏訪中学を含め第13代校長)を務めた。校長当時、生徒だった人物に、1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞した考古学者武居幸重がいる。1937年京都帝国大学理学博士。論文の題は「黒猩々蝿の遺傳學的研究 」。
鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - … 鳥養 利三郎(とりがい りさぶろう、1887年2月8日 - 1976年9月24日 )は、日本の電気工学者。工学博士(1925年)。京都大学名誉教授。元京都大学総長。従二位勲一等、元日本学士院会員、文化功労者。京都市名誉市民。徳島県生まれ。 黎明期の日本の電気工学界を支えた重鎮。高電圧過渡現象の測定や高周波焼入に関する研究で業績を上げた。また、教育行政においても手腕を発揮し、京都大学総長・電気学会会長・大学基準協会副会長などを務めた。特に、京都大学総長としては、戦後の混乱期を支えた名総長として知られている。
西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉1… 西田 直二郎(にしだ なおじろう、1886年〈明治19年〉12月23日 - 1964年〈昭和39年〉12月26日)は、日本の国史学者。本名・直二。京都大学名誉教授。 1886年、大阪府西成郡清堀村(現・大阪市天王寺区)で生まれた。京都帝国大学文学部に進学し、史学科国史学専攻1期生として内田銀蔵・三浦周行・原勝郎・内藤湖南らの下で学んだ。1910年に卒業。同年、同大学大学院に進み、日本文化史を専攻。 1915年、京都帝国大学講師に就いた。1919年に助教授、1924年に教授昇格。1924年に学位論文『王朝ノ庶民階級』を京都帝国大学に提出して文学博士の学位を取得。 政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任。
黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1… 黒田 徳米(くろだ とくべい、1886年10月17日 - 1987年5月15日)は、日本の博物学者・貝類学者。日本の貝類研究の第一人者。日本で初めての貝類総目録を完成させ、日本貝類学会の創設者の一人でもある。発見した貝の新種は650種に及ぶ。 兵庫県三原郡福良浦(現:南あわじ市福良向谷)出身。学歴は小学校卒業のみである。1901年(明治34年)、京都の平瀬與一郎の丁稚奉公をしながら、彼の貝類の研究を手伝う。1919年(大正8年)、平瀬貝類博物館閉鎖に伴い、2年間にわたって残務処理を行う。1921年京都帝国大学助手。1928年(昭和3年)、日本貝類学会の創設にかかわり、のち会長となる。日本産貝類の分布や種類をあきらかにし、「日本産海棲貝類目録」などを刊行した。
前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日… 前田 鼎(まえだ かなえ、1886年(明治19年)4月16日 - 1961年(昭和36年)7月2日)は、医学者、京都帝国大学医学部長・名誉教授。第三高等学校長も務めた。 前田鼎は、1886年(明治19年)4月16日に滋賀県高島郡大溝村(現滋賀県高島市)の前田文良の三男として生まれた。前田家は代々大溝藩殿医を務めた。滋賀県立第2中学校(滋賀県立膳所高等学校)から1907年(明治40年)第三高等学校第三部を、また1911年(明治44年)京都帝国大学医科大学を卒業した。 卒業後荒木寅三郎教授に師事し医化学教室へ入室、同年12月には助手に任ぜられ、1915年(大正4年)6月荒木教授の京都帝国大学総長就任に伴い助教授に昇任した。
松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - … 松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。山口大学初代学長。能楽師。京都大学名誉教授。理学博士(1918年)取得。1929年に世界で初めて「地球の磁場逆転現象」説を提唱したことで知られ、258万~77万年前の逆磁極期は「松山逆磁極期」と名付けられている。 大分県宇佐郡駅館村大字上田(駅川町を経て現宇佐市)の曹洞宗の寺院雲栖寺の住職であった墨江天外と末原コウの間に出生。当時は、僧職の妻帯は認められていなかったため母の姓を名乗り、1896年に父が山口県豊浦郡清末村(現下関市)の高林寺の住持になると、姓を父方に改めた。少年期を過ごし両親の墓も存在する同地には現在顕彰碑が建てられている。
牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – … 牧野 信之助(まきの しんのすけ、1884年4月23日 – 1939年9月25日 )は、日本の歴史家。専門は日本中世の社会経済史。 福井県に生れる。1903年、福井県立武生中学校を卒業する。尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、1906年、広島高等師範学校雇となり図書館に勤務し、内田銀蔵に師事するようになる。内田が京都帝国大学に転じると、牧野も1908年4月に京都帝国大学文科大学雇として国史研究室勤務となり、同年9月には助手となる。 1909年に京都帝国大学史学科選科に入学し、1912年に修了。同年10月に石川県立師範学校教諭となり、1916年に福井県史編纂主任になる。以後、滋賀県史編纂主任、堺市史編纂長、北海道史編纂長、大津市史編纂監修、福井県今立郡岡本村の村史編纂顧問などを務め、また1933年から京都帝国大学文学部講師も務めた。
平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2… 平瀬 信太郎(ひらせ しんたろう、1884年(明治17年)2月28日 - 1939年(昭和14年)9月9日)は、日本の貝類学者。父の平瀬與一郎や同年代の黒田徳米らとともに、日本における貝類学の発展に寄与した学者の一人である。 ニシキウズガイ科の巻貝の一種 ヒラセギンエビス Ginebis argenteonitens hirasei Otsuka et Taki,1943 は、平瀬の功績を記念した献名がなされている。 1884年(明治17年)、平瀬與一郎の長男として淡路島福良(現 : 南あわじ市)に生まれた。旧制の京都府立第一中学校(現 : 京都府立洛北高等学校)、第三高等学校、京都帝国大学文学部(現 : 京都大学)を卒業した。
羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月… 羽溪 了諦(はたに りょうたい、1883年〈明治16年〉8月17日 - 1974年〈昭和49年〉8月13日)は日本の仏教学者、浄土真宗の僧侶。 福井県遠敷郡出身。旧姓・向嶋。号・青浜。1909年京都帝国大学文科大学哲学科を首席で卒業。同大学院を経て副手、1923年講師、1927年助教授、1935年教授。1921年龍谷大学教授を兼ね、1931年大谷大学教授を兼ねる。1934年「西域仏教ノ特徴」で京大文学博士。1936年龍谷大学長。1943年9月京大定年退官。京大、龍谷大、京都女子大学各名誉教授。浄土真宗本願寺派総務。1955年紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受勲。1945年戦後のGHQ指導のもとの教育刷新委員会において教育基本法原案の骨組みを担当した第一特別委員会のメンバー。
喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日… 喜多 源逸(きた げんいつ、1883年(明治16年)4月8日 - 1952年(昭和27年)5月21日)は、日本の工業化学者である。京都帝国大学名誉教授。 奈良県生まれ。郡山中学を経て、京都市の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)卒業後、上京し東京帝国大学工科大学(現在の東京大学大学院工学系研究科・工学部)応用化学科に入学する。1906年(明治39年)に同大学を卒業後は、翌1907年(明治40年)に同大学の講師を経て1908年(明治41年)には同大学の助教授に昇格した。1916年(大正5年)に京都帝国大学(現在の京都大学)に転勤し、同大学の工科大学(現在の京都大学大学院工学研究科・工学部)の助教授として活動し後に研究のため欧米に留学する。
野上 俊夫(のがみ としお、1882年5月2日-1963年5… 野上 俊夫(のがみ としお、1882年5月2日-1963年5月24日)は、日本の心理学者、京都帝国大学名誉教授。新潟県佐渡出身。会津八一は新潟中学校の同級生。第一高等学校を経て、1906年東京帝国大学文学部心理学科卒。1911年京都帝大助教授、1915年米国へ留学、1917年教授、1942年定年退官、名誉教授、浪速大学(現在の大阪府立大学)教授、京都女子大学教授。米国の青年心理学者スタンリー・ホールの影響を受け、実際的な心理学を目指した。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1… 古武 弥四郎(こたけ やしろう、1879年7月12日 - 1968年5月30日)は、岡山県出身の生化学、医化学者。 旧大阪府立高等医学校卒業後、京都帝国大学荒木寅三郎の門下となる。のち大阪帝国大学医学部教授。退官後県立和歌山県立医科大学の設立に参画、同学長。帝国学士院賞。文化功労者。勲二等旭日重光章。アミノ酸、特にトリプトファンの中間代謝の研究で知られる。和歌山県立理科短期大学(1955年廃止)の学長にも就任した。 以下の記述は古武弥四郎が昭和37-38年に邑久町医師会誌「この道」に発表した記事が基になっている。 古武弥四郎の研究経歴を見ると1910年(明治43年)から2年間のドイツ留学が一大転機となったことが分かる。
今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - … 今 裕(こん ゆたか、1878年(明治11年)2月7日 - 1954年(昭和29年)2月5日)は、日本の医学者。医学博士。専門は病理学・細菌学。 青森県弘前出身。津軽藩侍医・今幹斎の五男。1896年(明治29年)青森県第一尋常中学校卒。1900年(明治33年)第二高等学校医学部卒。京都帝國大学医学部助手、台湾総督府医学校助教授、1909年(明治42年)東京慈恵会医学専門学校教授。東京歯科医学専門学校教授兼任。1918年(大正7年)北海道帝國大学農学部教授。1919年(大正8年)同医学部教授。1925年(大正14年)同医学部長。1937年(昭和12年)北海道帝國大学総長。1941年(昭和16年)北海道帝國大学停年退官。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1… 松井 元興(まつい もとおき、1873年12月25日 - 1947年5月24日)は、日本の物理化学者。京都帝国大学総長、立命館大学学長、日本物理化学研究会初代会長。
米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2… 米田 庄太郎(よねだ しょうたろう、1873年〈明治6年〉2月1日 - 1945年〈昭和20年〉12月18日)は、日本の社会学者。京都帝国大学教授。文学博士。日本聖公会の信徒。 奈良県添上郡杏村(のち添上郡辰市村、現・奈良市杏町)で農業を営む八十平の長男として生まれた。生地は被差別部落であった。1878年、村立辰市小学校に入学。 1886年、大阪府立郡山中学校(現・奈良県立郡山高等学校)に入学。1887年、奈良英和学校(立教大学の姉妹校)に転校。キリスト教聖公会に属する宣教師アイザック・ドーマンのもとで洗礼を受けた。1891年に同校を卒業。 1891年、恩師アイザック・ドーマンが東京の聖三一神学校(現・聖公会神学院の前身の一つ)の比較宗教学講師を嘱託されるにあたり、助手として上京。
日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日… 日比 忠彦(ひび ただひこ、1873年(明治6年)1月20日 - 1921年(大正10年)6月1日)は、日本の構造家、建築系構造工学者、京都帝国大学工学部教授。 専門は建築材料学・構造建築学・材料強弱学などで、鉄筋コンクリート建築の権威と呼ばれた。 福井県士族日比登の二男として生まれる。磯部尚は実弟である。明治18年、長岡学校(現在の新潟県立長岡高等学校)に入学。明治30年、帝国大学工科大学土木科を卒業し工学士となり、京都帝国大学理工科大学助教授となる。 明治35年土木工学硏究のためドイツに留学、明治37年帰国し工学博士の学位を取得。大正3年7月京都帝国大学工学部工科大学教授。 京都大学旧工学部建築学教室本館(総合研究15号館)等の構造設計を手がける。
桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871… 桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871年1月27日〉 - 1931年〈昭和6年〉5月24日)は、日本の東洋史学者・京都帝国大学教授。文学博士。1898年に出版された著書(中等東洋史.上巻/中等東洋史.下巻)は、東洋史教科書の定番となった。 1871年1月27日 越前国(現・福井県敦賀市)に製紙業者桑原久兵衛の次男として生まれる。京都府尋常中学校から第三高等学校へ進み、1892年に同校卒業、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に入学し、漢文科から同大学院東洋史専攻へ(1896年)。1898年の修了後、母校の第三高等学校教授となった。 翌1899年に高等師範学校(現・筑波大学)教授に転じ(1907年迄)、国費留学のため退官、文部省より中国へ派遣される。
高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈18… 高瀬 武次郎(たかせ たけじろう、明治元年12月16日〈1869年1月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉2月9日)は明治から昭和にかけての陽明学者。号は惺軒。従三位勲三等文学博士京都帝国大学名誉教授。 漢詩は鈴木豹軒、和歌は山本行範に学んだ。 明治元年12月16日(1869年1月28日)、讃岐国山田郡西十川村仲下所(香川県高松市十川西町107番地1)佐々木弥惣八(八十八、小五郎)の四男に生まれた。鰹宇神社で森口四郎に儒学を学ぶ。 京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校(金沢市)または第五高等学校(熊本市)を経て、明治31年(1898年)7月東京帝国大学文科大学漢学科を卒業し、同大学院に進学、明治38年(1905年)11月論文「先秦諸子哲学」により文学博士号を取得、明治39年(1906年)1月東京帝国大学講師、同時に哲学館、日蓮宗大学、佛教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学講師も務めた。
狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月… 狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、日本の中国学者。中国文学、中国哲学、敦煌学に業績を残す。京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都学派東洋史学の創始者の一人。肥後国(現:熊本県)生まれ。 1868年(明治元年)狩野直恒の三男として熊本市京町に生まれる。竹馬の友に中国文学者の古城貞吉がいる。1879年(明治12年)、創設まもない同心学舎に入学し、明治17年に後身の済々黌を卒業。その後上京し、共立学校で英語・数学を学んだのち、大学予備門に入り1892年(明治25年)に卒業。東京帝国大学文科大学漢学科に入学。
足立 文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(186… 足立 文太郎(あだち ぶんたろう、慶応元年6月15日(1865年8月6日) - 1945年(昭和20年)4月1日)は、日本の解剖学者、人類学者、京都帝国大学医学部教授。専門は軟部人類学。日本人と欧米人の解剖学的差異を解明した。 静岡県田方郡市山村(現:伊豆市)出身。父親が失踪したため、母方の伯父の元で育つ。1894年東京帝国大学医科大学卒業後、1899年からドイツのストラスブール大学に留学、帰国後第三高等学校教授を経て京都帝国大学医学部教授となり、解剖学を担当。筋の異常の統計学的研究のほか、諸民族の体臭と耳垢についての遺伝学的・組織学的研究などが知られ、「身体的特徴において人種的優劣はない」と唱えた。
狩野 良知(かのう りょうち、1829年〈文政12年1月〉 … 狩野 良知(かのう りょうち、1829年〈文政12年1月〉 - 1906年〈明治39年〉12月14日)は、江戸時代から明治時代にかけての武士、漢学者。久保田藩大館城代家老、のち内務属権小書記官。秋田市の都市公園である「千秋公園」の命名者として知られる。秋田魁新報の前身である「聚珍社」「遐邇新聞」も良知の命名である。幼名は国松、のちに深蔵を名乗った。字は君達、号は羽北。京都帝国大学文科大学初代学長を務めた狩野亨吉の父。 狩野家はもともと山形を本拠地とする最上氏に仕えた武家である。最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城があった大館の佐竹西家に仕えた。 良知は出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。