太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8… 太田 哲三(おおた てつぞう、1889年(明治22年)5月8日 - 1970年(昭和45年)7月4日)は日本の会計学者、公認会計士。一橋大学名誉教授、元・中央大学教授。商学博士(一橋大学)。監査法人太田哲三事務所(EY新日本有限責任監査法人の前身)の創設者で、日本公認会計士協会の初代会長。実業界では長浜ゴム工業(のちの三菱樹脂)社長を2年間務め、その後は三菱化成(三菱ケミカルホールディングスの前身)監査役を最晩年まで務めた。従三位・勲二等瑞宝章。 弟子に番場嘉一郎(一橋大学名誉教授)・黒澤清(横浜国立大学名誉教授)・岩田巌(元一橋大学教授)・不破貞春(元明治大学教授)・飯野利夫(一橋大名誉教授)・山邊六郎(元横浜国立大学教授)・井上達雄(中央大学名誉教授)・新井益太郎(成蹊学園名誉理事、成蹊大学名誉教授)・関口重之(元青山学院大学教授)等がいる。
横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8… 横山 昊太(よこやま こうた、1889年(明治22年)5月8日 - 1974年(昭和49年)7月20日)は、岡山県岡山市旭町出身のジャーナリスト、政治家。岡山新聞社長。旧姓・佐藤。位階は正五位。 1889年5月8日、岡山市旭町に生まれる。佐藤武一郎の二男。1916年、横山家の養子となる。1919年、早稲田大学専門部政治経済科を卒業、同年、中国民報(現・山陽新聞)へ入社。記者として働く。岡山毎夕新聞、岡山新聞各社長をつとめた。 1921年、岡山市会議員となる。1925年、憲政会岡山支部を創設。その後、市会議長、岡山県会議員を務める。 1951年、岡山市長に当選。1955年まで1期務める。 退任後は、岡山市政顧問、三恵工業会長を歴任した。
坂本 真琴(さかもと まこと、1889年5月7日 - 195… 坂本 真琴(さかもと まこと、1889年5月7日 - 1954年7月15日)は、大正から昭和初年にかけて婦人参政権運動を推し進めた婦人運動家。旧姓は高田。高田常三郎と妻みよのクリスチャンの家庭の長女として生れる。本名は「まこ」(正式には変体仮名を用いて「ま」と表記する)。妹の高田敏子は日本の女子・英語教育のパイオニア。 静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。一家が神奈川県横浜に移住したため、共立女学校(現在の横浜共立学園)に学び、英文速記者になる。1911年(明治44年)頃、坂本勇吉(染料輸入販売業)と出会い同棲生活を開始、やがて長女出生。この年に発刊した雑誌『青鞜』(せいとう)創刊号の平塚らいてうの巻頭言「元始、女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して」に感銘を受けた真琴は、1913年(大正2年)に青鞜社へ入社。
柳田 宗一郎(やなぎだ そういちろう、1889年(明治22年… 柳田 宗一郎(やなぎだ そういちろう、1889年(明治22年)5月7日 - 1933年(昭和8年)6月18日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士、検事。 茨城県筑波郡葛城村(のち谷田部町を経て、現在のつくば市)出身。1912年に中央大学を卒業し、同年、判事検事弁護士試験に合格。翌年から弁護士業務に従事した。1923年に検事に任命され、1926年に退官するまでの間に、青森区裁判所兼青森地方裁判所検事、大館区裁判所兼秋田地方裁判所検事、仙台地方裁判所検事を歴任した。 退官後は再び弁護士業務を行っていたが、1929年に東京市会議員に立候補し、当選した。さらに1932年の第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
鍋島 直縄(なべしま なおただ、1889年5月6日 - 19… 鍋島 直縄(なべしま なおただ、1889年5月6日 - 1939年4月29日)は日本の政治家、実業家、華族。
佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉… 佐藤 哲三郎(さとう てつさぶろう、1889年〈明治22年〉5月5日 - 1958年〈昭和33年〉12月31日)は、日本の洋画家。 新潟県新潟市寄居町(現 新潟市中央区寄居町)の教育者・佐藤荘松の三男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1912年(明治45年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業。 1912年(大正元年)10月の第6回文展で『化粧』により三等賞を受賞、1913年(大正2年)4月の第3回東京勧業展覧会で『紅き燈』により二等賞を受賞。 二科会の創立会員となるが、文展、帝展にも出品し続けた。 1920年(大正9年)3月に東京美術学校の同期の萬鉄五郎、神津港人、熊岡美彦、片多徳郎、斎藤素巌らと14人で美術団体の四十年社を結成、1929年(昭和4年)2月に青山熊治らと第一美術協会を創立。
島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4… 島田 退蔵(しまだ たいぞう、1889年〈明治22年〉5月4日 - 1970年〈昭和45年〉2月22日)は、日本の国文学者。第三高等学校の最後の校長。 新潟県新潟市一番堀通町(現 新潟市中央区一番堀通町)の弁護士・島田脩三の次男として出生。 1907年(明治40年)3月に新潟中学校を卒業、1910年(明治43年)7月に第三高等学校を卒業、1913年(大正2年)7月に京都帝国大学文科大学文学科(国文学専攻)を卒業。 1914年(大正3年)4月に島根県立浜田中学校教諭に就任、1917年(大正6年)7月に公立中学校教諭に任官(高等官)、引き続き島根県立浜田中学校に勤務、1920年(大正9年)10月に第三高等学校教授に任官。
楠目橙黄子(くすめ とうこうし、1889年(明治22年)5月… 楠目橙黄子(くすめ とうこうし、1889年(明治22年)5月4日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は俳人。 高知県高知市生まれ。本名は省介。間組に勤め、1936年朝鮮支店長。1909年ごろより句作。「ホトトギス」に投句。句集に『橙圃』(とうほ)。高浜虚子の朝鮮旅行、熊野旅行に同道した。「京城日報」俳壇の選者も務めた。墓所は多磨霊園(15-1-6-1) 代表句「焚火人面罵に耐えてゐたりけり」。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日… 野坂 寛治(のさか かんじ、1889年(明治22年)5月2日 - 1965年(昭和40年)4月1日)は、日本の政治家。米子市長、境町長、鳥取県会議員。米子市名誉市民。位階は従五位。 衆議院議員を務めた野坂茂三郎の長男。米子市長野坂康夫、康夫の祖父野坂康久とは姻戚関係にある。 米子・法勝寺町の商家(呉服商)野坂家の長男として生まれた。父は茂三郎、母はたみの。 幼い頃は乳母の手で育てられ“野坂のぼんち”で大きくなった。 野坂家が繁栄したのは父・茂三郎の代で、およそ明治20年代から大正の半ば頃に及んでいる。 1902年(明治35年)、角盤高等小学校から米子中学(現在の米子東高校)に進んだ。 1907年(明治40年)に米子中学を卒業。
原 清(はら きよし、1889年〈明治22年〉5月2日 - … 原 清(はら きよし、1889年〈明治22年〉5月2日 - 1976年〈昭和51年〉8月26日)は、日本の海軍軍人。逓信省海務院長官。海兵38期首席。最終階級は海軍中将。 教員、原権市の長男として佐賀県で生れる。唐津中学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を首席で卒業し、同年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、次いで航海術専修学生として学び、専修学生は優等で卒業した。運送艦「労山」航海長、練習艦隊参謀、第1艦隊参謀、海兵教官を経て、1923年10月、海大甲種21期を卒業した。 「夕張」航海長、呉軍需部員、アメリカ駐在、資源局事務官、給炭艦「野島」特務艦長、海軍省軍務局第2課長、「磐手」艦長、艦政本部総務部第1課長などを経て、1936年12月、海軍少将に進級。
高野 松山(たかの しょうざん、1889年(明治22年)5月… 高野 松山(たかの しょうざん、1889年(明治22年)5月2日 - 1976年(昭和51年)3月5日)は、日本の漆芸家。熊本県出身。本名は重人。 細川藩付の儒学者であった祖父、小学校の校長であった父の長男として生まれる。幼少時より細工に興味を持ち、熊本の工業徒弟学校で漆芸を学んだ。その後は京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)に入学し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)へ転校して同校を卒業する。 東京美術学校では帝室技芸員の白山松哉から蒔絵の技術を習得し、松山という号を授かった。のちに細川護立の援助を得て、目白台の細川邸内に住み込んで「昼は殿様のボディーガード、夜間に制作」という生活を送りながら製作活動に挑む。
関野 聖雲(せきの せいうん、1889年〈明治22年〉5月2… 関野 聖雲(せきの せいうん、1889年〈明治22年〉5月2日 - 1947年〈昭和22年〉10月28日)は、日本の仏師、彫刻家。高村光雲の弟子。本名は関野金太郎。 神奈川県愛甲郡小鮎村(現在の厚木市小鮎)の大工の家に生まれる。数え16歳で高村光雲の弟子となる。1906年4月、東京美術学校彫刻科選科に入学し、1911年3月卒業する。在学中の作品「白拍子」が母校に買い取られた。 1913年の第三回東京勧業展覧会において作品が宮内省御用品となる。1915年、第9回文展に初入選。それ以来毎年入選し、文展、帝展で活躍した。1921年3月17日、東京美術学校の助教授となり、後に教授となる。1944年の退官まで後進の指導に尽力した。
柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - … 柴山 兼四郎(しばやま けんしろう、1889年5月1日 - 1956年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。柴山定次郎の三男として生まれる。茨城県立下妻中学校を卒業し、拓殖大学中退を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、輜重兵少尉に任官し輜重兵第14大隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。 1923年(大正12年)6月、輜重兵第14大隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、参謀本部員などを経て、1928年(昭和3年)11月、張学良顧問補佐官に就任した。1931年(昭和6年)11月、参謀本部員となり、支那公使館付武官補佐官(北平)、参謀本部付(欧米出張)、輜重兵第18大隊長などを歴任し、1936年(昭和11年)3月、輜重兵大佐に昇進、弘前の輜重兵第8連隊長に着任する。
清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 195… 清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 1958年1月30日)は、日本の医学者、生化学者。 1889年(明治22年)、東京府西多摩郡に生まれる。1915年(大正4年)に京都帝国大学の荒木寅三郞(岡山にあった第三高等学校医学部の元教授)の医化学教室に入り、胆汁酸の研究を始める。1920年(大正9年)にドイツに留学。フライブルグ大学でハインリッヒ・ヴィーラントの下で学ぶ。1923年(大正12年)に岡山医科大学教授となり生化学教室を主宰した。 1927年(昭和2年)、熊胆からのウルソデオキシコール酸(UDCA)の単離・結晶化に成功。成功に至るまでヒキガエル4000匹、イモリ10万匹、さらにクマ、魚、鳥、豚など多くの動物から胆汁を採取したことが伝えられる。
歌橋 憲一(うたはし けんいち、1889年(明治22年)5月… 歌橋 憲一(うたはし けんいち、1889年(明治22年)5月1日 - 1984年(昭和59年)10月10日)は、日本の実業家。ニチバンの創業者として知られている。 歌橋又三郎(洗礼名:アレクサンドル)の子として東京に生まれる。東京薬学専門学校(現在の東京薬科大学)卒業後、1910年(明治43年)父が開店した「薬局歌橋輔仁堂」を後継者として経営する。後に独立し、1918年(大正8年)にニチバンの前身である「歌橋製薬所」を設立した。 製薬所に勤務中、輸入品であったゴム型の絆創膏について学ぶ。これまで負傷した際に用いた包帯に比べ粘着力が大きくなり、父が完成させたチェコ出身のF・J・ピックの製造法を用いた独自のゴム型絆創膏の発明、研究に携わった。
宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)… 宇都宮 則綱(うつのみや のりつな、1889年(明治22年)5月1日 - 1973年(昭和48年)5月31日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 大分県速見郡八坂村(現杵築市)で、酒造業の家に生まれる。大分県農学校(のち大分県立三重農業高等学校となり閉校)を卒業。 速見郡朝日村(現別府市)の兄が経営していた酒店を引き継ぐ。油屋熊八、梅田凡平らと別府宣伝協会を結成して全国に別府を宣伝した。豊洋水産取締役会長、鬼山地獄社長なども務めた。 1924年(大正13年)別府市会議員に選出され同議長にも就任。1943年(昭和18年)全国市会議長会(現全国市議会議長会)会長に就任。1935年(昭和10年)大分県会議員となり1期在任した。
飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治2… 飯田 壽作(飯田 寿作、いいだ じゅさく、1889年〈明治22年〉5月 - 1962年[要出典])は、日本の実業家。西宮酒造取締役。前名・卓三。 兵庫県西宮市出身。先代壽作の長男。1912年、大阪高等商業学校卒業。西宮酒造会社員となる。1930年、家督を相続し、前名・卓三を改め襲名する。 著書に『酒都遊観記』がある。趣味は和歌、俳句、絵画。宗教は真宗。住所は兵庫県西宮市松原町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22… 横井 弘三(よこい ひろぞう/こうぞう、1889年〈明治22年〉5月 - 1965年〈昭和40年〉10月11日)は、日本の洋画家。 戸籍名は「ひろぞう」だが、「こうぞう」と呼ばれることも多い。別名に銀河、釣月、耕雲など。丹念に描かれた素朴な印象の作品から、「日本のアンリ・ルソー」と呼ばれた。 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)に生まれ、3歳ごろ家族で上京し、東京下町で育った。私立大成中学校在学中から東京美術学校への進学を希望していたが、父の強硬な反対にあい断念、早稲田大学商学部に進む。 しかし、画家への夢を諦めることができず、2年で大学を中退して東京電燈に就職。独学で油絵を学ぶ。そして彗星の如く26歳で中央画壇に登場。
鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - … 鷹司 信輔(たかつかさ のぶすけ、1889年4月29日 - 1959年2月1日)は日本の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。「鳥の公爵」と呼ばれた。
栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28… 栗田 健男(くりた たけお、1889年〈明治22年〉4月28日 - 1977年〈昭和52年〉12月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。 1889年4月28日、茨城県水戸市で父・栗田勤の次男として生まれる。父は漢学者であり、大日本史編集員も務めた。祖父は東京帝大教授の文学博士栗田寛(藤田東湖、会沢正志斎の弟子)。水戸藩士の家系であり、祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。青年時代の栗田は学問は出来、頑張りやその上に高い人格を持っていた。 旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1910年7月18日、海軍兵学校を38期生として149名中28番の成績で卒業。
安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月… 安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま、1889年〈明治22年〉4月27日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市尹、台中市尹。 熊本県玉名郡伊倉町大字伊倉出身。1903年(明治36年)玉名郡南都尋常高等小学校卒業。1904年(明治37年)7月、熊本県小学校准訓導検定試験に合格し、玉名郡賢木小学校准訓導となる。1907年(明治40年)熊本県師範学校を退学。1912年(明治45年)3月、殖産局林業講習所を卒業する。 ついで、1915年(大正4年)文官普通試験合格後、翌年、新竹市庁に出仕。1920年(大正9年)3月に台湾総督府営林局書記、同年同府属、1932年(昭和7年)台湾総督府地方理事官を経て、台北州基隆郡守となる。
山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月… 山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月24日 - 1937年(昭和12年)12月25日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、教育者。
山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月2… 山下 太郎(やました たろう、1889年(明治22年)4月24日 - 1967年(昭和42年)6月9日)は、日本の実業家。その業績から「満州太郎」「アラビア太郎」「山師太郎」などと呼ばれた。 秋田県平鹿郡大森村(のち大森町、現・横手市)に近藤正治・みつ夫妻の長男として生まれる。太郎の祖父母にあたる山下太惣吉・ひさ夫妻の養子となり、山下姓を名乗る。祖父はまもなく死去し、祖母の手で育てられた。大森小学校4年を修了し、東京の実父母の元で慶應義塾普通部に通った。その後北海道帝国大学農学部(旧札幌農学校、現北海道大学)に入学、北海道に渡った。 北海道帝国大学時代、のちに北海道学芸大学(現北海道教育大学)および帯広畜産大学の学長を務めた農学者の田所哲太郎(秋田県能代の出身)と知り合い、親交を深めた。
猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月… 猪俣 津南雄(いのまた つなお、明治22年(1889年)4月23日 - 昭和17年(1942年)1月19日) 戦間期日本の社会主義者。日本共産党創設(1922年)に参加。その後、『労農』同人に加わり、(第二次)共産党との論争で中心的役割を果たすが29年9月に脱退し、独自の立場から戦略論・組織論を展開。日本資本主義論争には参加せず。人民戦線事件(1937年)で逮捕されるまで政治・経済の現状分析や農村踏査に心血を注いだ。 ・1889年4月、新潟市の芸者・広木チヨの子として生まれる。父は長岡で油問屋を営む猪俣津平。小学校入学と同時に長岡の猪俣家に引き取られ、しばらくして猪俣姓を名乗る。 ・1902年に入学した県立長岡中学校は俳句が盛んなところで、猪俣も「鹿語」(ろくご)の俳号で句作に熱中する。
村上 義温(むらかみ よしあつ、1889年(明治22年)4月… 村上 義温(むらかみ よしあつ、1889年(明治22年)4月22日 - 1954年(昭和29年)10月20日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。 石川県出身。1910年(明治43年)、神戸商業高等学校(現在の神戸大学)を卒業し、翌年に外交官及領事官試験に合格した。上海に領事官補として赴任し、以後大使館三等書記官、領事・関東都督府事務官、外務事務官・帝都復興院書記官などを歴任し、その間、長春、南京、ニューヨーク、イギリスに勤務した。1924年(大正13年)より香港総領事、ハンブルク総領事を務め、1931年(昭和6年)からはトルコ大使館参事官となった。1933年(昭和8年)に駐ペルー公使に任命され、1935年(昭和10年)からは駐エクアドル公使を、1936年(昭和11年)からは駐ボリビア公使を兼ねた。
塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952… 塚本 三(つかもと ぞう、1889年4月21日 - 1952年8月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。公選初の名古屋市長(2期)。戦前は衆議院議員(1期)、名古屋市会議員などを務めた。旧姓は井箟。 岐阜県土岐郡稲津村(現・瑞浪市稲津町)出身。幼くして塚本竜三郎の養子となる。稲津小学校、瑞浪高等小学校卒業。1907年、旧制名古屋中学校卒業。 日本陶器、森村組を経て、1920年2月に名古屋新聞政治記者となる。 1921年10月、名古屋市会議員に就任。1922年3月、名古屋新聞編集長となる。1928年2月、名古屋新聞を退社。 1937年、第20回衆議院議員総選挙で当選し、立憲民政党の衆議院議員となる。
和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 19… 和田 順顕(わだ じゅんけん、1889年4月21日 - 1977年12月13日)は、日本の建築家。横浜郵船ビルなどの作品で知られる。 石川県金沢市生まれ。石川県立金沢第一中学校を経て、東京美術学校図案科に進み、小島憲之、大澤三之助、古宇田実、岡田信一郎らの指導を受ける。1912年(明治45年)に卒業後、古宇田実設計の松屋呉服店、鶴屋呉服店の工事監督に従事する。1914年から松屋呉服店建築顧問(1921年まで)。1915(大正4年)年に独立した。1921年にアメリカ各地の建築を視察した。1923年(大正12年)、丸ビルに建築事務所を開いた。 1930年代後半から日本精工川崎工場など工場を多く設計した。
石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日… 石野 瑛(いしの あきら、1889年〈明治22年〉4月21日 - 1962年〈昭和37年〉12月5日)は、日本の教育者・歴史学者・考古学者。福井県出身。神奈川県横浜市に武相中学校・高等学校(学校法人武相学園)を創設した。 現在の福井県坂井市にあたる旧坂井郡丸岡町に生まれる。15歳で岐阜県内の郵便局に就職するが、教育者になることを志して教員資格を取得し、一家で神奈川県横浜市に転居する。 1905年(明治38年)、17歳で三浦郡葉山町の小学校教員となるが、自らも教養を高めるべく神奈川県尋常師範学校に通う。1911年(明治44年)に同師範学校を卒業し、神奈川県立旧制横浜小学校の教員(訓導)となる。 1914年(大正3年)、25歳の時に沖縄県に招聘され那覇天妃(てんぴ)小学校の校長となる。
萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18… 萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18日 - 1956年〈昭和31年〉2月18日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。宮崎県児湯郡高鍋町出身。陸士22期、陸大32期。 天津駐屯歩兵隊(昭和11年5月30日からは支那駐屯歩兵第2連隊)長、歩兵第136旅団長などを歴任し、太平洋戦争開戦後は、留守第6師団長から新設された第46師団の師団長となるが師団が南方に渡る前に予備役、その後召集され再び留守第6師団長。 退役後、1945年に宮崎市長に就任したが、連合国軍の進駐にともない辞職した。その後、公職追放となり、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、通州事件に関する証言をおこなっている。
君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月… 君島 清吉(きみじま せいきち、1889年(明治22年)4月16日 - 1966年(昭和41年)1月11日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)出身。君島寅吉の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1917年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県工場監督官補となる。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、奈良県警視、国勢院書記官、内務省社会局事務官、同書記官、同労働部労務課長、兼同部労政課長などを歴任。 1931年12月、茨城県知事に就任。1932年6月、香川県知事に転任。県下の治安と県民の生活安定に尽力。1933年6月、宮崎県知事に転任。
井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 -… 井上 吉次郎(いのうえ きちじろう、1889年4月13日 - 1976年3月4日)は、ジャーナリスト、社会学者。 和歌山県出身。東京帝国大学卒。1916年東京日日新聞社入社、大阪毎日新聞社出版局次長。1946年創刊の「新大阪新聞」主筆。1949年関西大学教授、60年定年、1966年追手門学院大学教授。1959年「社会交通と文化交流に就いての社会学的考察」で関西大学文学博士。
加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 19… 加藤 精一(かとう せいいち、1889年4月11日 - 1963年8月28日)は、日本の俳優である。本名同じ。坪内逍遙の文芸協会に参加、新劇の初期から舞台俳優として活動した人物として知られる。 1889年(明治22年)4月11日、岡山県上房郡高梁町(現在の同県高梁市)に生まれる。父は熊本藩の漢学者出身の人物であったが、精一の出生後、まもなく死去したため、精一は、加藤家の養子となった。のちの俳優の成松和一(1905年 - 1944年)は義弟にあたる。地元の旧制高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)へ通い卒業する。 東京に移り、早稲田大学英文科に入学、小川未明、三木露風、北原白秋、西條八十らと詩作を通じて親交を結んだ。
山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2… 山下 長(やました たけし、1889年4月8日-1959年2月9日)は、日本の実業家。オリンパス(旧・高千穂製作所)創業者、高千穂製作所社長。顕微鏡をはじめとする光学機器の製造業を経営した。 鹿児島県名瀬の金久(現・奄美市内)出身。名瀬の高等小学校で3年間学んだ後、鹿児島の本家にひきとられて中学造士館に入る。1904年に上京。東京の京北中学校 (旧制)と京都の第三高等学校 (旧制)を卒業。1915年東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。弁護士となるが、父の勧めで実業界に転じ親戚の松方正義関連の企業に就職することとなる。川崎造船所などの大企業は断り、松方の五男・五郎が経営する常盤商会に1918年入社。
山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月… 山本 熊一(やまもと くまいち、1889年(明治22年)4月8日 - 1963年(昭和38年)1月17日)は、日本の外交官。外務次官、大東亜次官、駐タイ大使。 山口県出身。1912年(明治45年)、東亜同文書院を卒業。外交科試験以外の合格者を採用する「門戸解放」の一環として、高等文官試験に合格し、1920年(大正9年)に外務事務官となり、トルコ大使館三等書記官、外務省通商局勤務、イギリス大使館二等書記官、満州国大使館二等書記官、同一等書記官、外務省調査部第五課長、同通商局長を歴任した。1940年(昭和15年)東亜局長となり、1941年(昭和16年)10月にはアメリカ局長を兼任した。さらに1942年(昭和17年)外務次官に就任し、同年11月1日大東亜次官に転じた。
川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日… 川副 隆(かわそえ たかし、1889年(明治22年)4月8日 - 1962年(昭和37年)8月2日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 長崎県西松浦郡伊万里町(現伊万里市)で、政治家川副綱隆の長男として生まれる。1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 三菱商事に入社。漢口出張所長、船舶部長代理、漢口日本居留民団行政委員などを歴任。その後、海運業に従事し、神戸会陽汽船取締役、大阪静鉱業取締役、佐世保親和銀行取締役、佐世保運輸取締役、西肥菱油取締役、川副商会社長、日東燃料社長、九北運輸社長、丸三肥料社長、佐世保魚市場社長、佐世保製氷冷蔵社長などを務めた。 1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、立憲民政党公認)で初当選し、1942年(昭和17年)4月の第21回総選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して再選された。
菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉… 菊池 知勇(きくち ちゆう・ともお、1889年〈明治22年〉4月7日 - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、日本の教育者、歌人。 岩手県東磐井郡渋民村(現・一関市大東町曾慶)出身。奥玉高等小学校に入学したのち下折壁高等小学校を卒業。岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)卒業。上京し、慶応幼稚舎の教員となる。1910年若山牧水の『創作』の創刊に参加、1926年初めての綴方専門誌『綴方教育』を創刊。1927年口語短歌誌『ぬはり』を創刊した。幼稚舎での教え子に詩人の薩摩忠がいる。 『ぬはり』は戦時下の用紙統制で1944年、『真樹』(1930年、山本康夫創刊)などと合併し『直毘』(なおび)として刊行された時期もあったが、その後も刊行が続いている。
中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4… 中山 詳一(なかやま しょういち、1889年(明治22年)4月6日 - 1945年(昭和20年)3月20日)は、日本の外交官。駐イラン公使。 京都府出身。1913年(大正2年)、京都帝国大学法科大学を卒業。1916年(大正5年)、外交官及領事官試験に合格し、漢口に領事官補として赴任した。以後、浦塩派遣軍政務部員、ロシア在勤外交官補、外務事務官、通商局第二課勤務、在アメリカ合衆国大使館三等書記官、同二等書記官、牛荘領事・関東庁事務官、外務書記官、亜細亜局第一課長、同第二課長、在英国大使館一等書記官、中華民国公使館一等書記官、同大使館参事官を歴任。1934年(昭和9年)からはイタリア大使館参事官を務めた。
板垣 只二(いたがき ただじ、1889年(明治22年)4月5… 板垣 只二(いたがき ただじ、1889年(明治22年)4月5日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。弁護士。 徳島県出身。井村乕吉の二男として生まれ、板垣住蔵の養子となった。1911年(明治44年)、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)紡織科を卒業。朝鮮総督府属、同税関鑑定官を務めた。1921年(大正10年)、高等試験行政科に合格。朝鮮総督府税関監視官・事務官、税関関税官、理事官、馬山府尹、木浦府尹などを歴任した。 退官後の1932年(昭和7年)、高等試験司法科に合格し、弁護士を開業した。1935年(昭和10年)には中央大学法学部を卒業した。 その他、東京ビタミン製造会社社長、第一化学工業株式会社社長、北陸工業株式会社社長、小倉鉱業株式会社社長、時事写真速報株式会社取締役会長、京浜昭興株式会社社長、共立企業株式会社取締役、蔵前工業会館株式会社取締役、共立興業株式会社取締役、壁谷ゴム工業株式会社取締役、銀座昭興株式会社監査役などを務めた。
福田 重清(ふくだ しげきよ、1889年〈明治22年〉4月4… 福田 重清(ふくだ しげきよ、1889年〈明治22年〉4月4日 - 1964年〈昭和39年〉7月19日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。初代日立市長(1期) 。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 富山県出身。1909年(明治42年)中央大学法律科卒。日本鉱業(日鉱)に入り、日立鉱業所庶務課長を経て、1933年(昭和8年)副所長も兼任する。1939年(昭和14年)日立市が発足すると同所副所長のまま市長に就任した。市長は翌年まで務め、1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受け立候補して当選する。衆議院議員在職中に日立鉱業所の所長に就任する。
大友 順治(おおとも じゅんじ、1889年(明治22年)4月… 大友 順治(おおとも じゅんじ、1889年(明治22年)4月4日 - 1966年(昭和41年)10月14日)は、日本の政治家。宮城県富谷村長(2期)。 宮城県黒川郡富谷村(のち富谷町、現・富谷市)出身。富谷高等小学校卒。家業(米穀・食糧・肥料・雑貨の販売)に従事し、1929年(昭和4年)富谷村会議員に当選。1945年(昭和20年)11月富谷村長に就任した。 1947年(昭和22年)地方自治法の施行に伴う初の公選による富谷村長に当選した。戦後の財政的に苦しい時期に六・三・三制による教育改革での新制中学校校舎建設計画を立案し、着工に至り、完成にこぎつけた。また、度重なる台風被害に対し、災害からの早期復旧事業の達成に力を入れた。
西村 卓爾(にしむら たくじ、1889年〈明治23年〉4月3… 西村 卓爾(にしむら たくじ、1889年〈明治23年〉4月3日) - 1967年〈昭和42年〉10月10日)は、大正時代中期の歯科医師である。 長門国美祢郡大嶺村(山口県美祢市大嶺町重安)に醫家西村家第四代当主西村俊三(にしむら しゅんぞう)の嫡男として生まれた。父親と同じく医師を志し大阪高等医学専門学校(現:大阪医科薬科大学)を卒業。しかし剣道の試合中に耳を痛め、歯科医師へ転向する。東京歯科医学専門学校(現:東京歯科大学)卒業(第3期)。大正2年3月、山口県下関市新地町において西村歯科医院開業。 大正7年、山口県に2歯科医師会が存立し、対立状態が続いた当時、日本連合歯科医師会会長である血脇守之助氏、山口県歯科医師会会長である林義三郎氏と会談、問題解決に尽力する[どうやって?]。
多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 … 多田 北烏(ただ ほくう、1889年〈明治22年〉4月3日 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の商業美術家。本名は多田 嘉寿計(かすけ)。大正から昭和初期にかけてポスターや雑誌のデザインを多数手がけ、日本のポスターデザインの先駆者と言われる。 長野県松本市北深志出身。多田庄野の長男として生まれる。江戸時代に信濃国安曇郡で発生した貞享騒動の義民多田加助の子孫にあたる。13歳で上京し、日本画家の大和雲陽に師事、旧制東京高等工業学校図案科選科修了、川端画学校に学び、凸版印刷図案部を経て、東京図案研究所長等を歴任した。大正11年(1922年)に、日本初のデザイン制作会社である実用美術研究所サン・スタジオを創設し、商業美術の向上と後進の指導に努力した。
太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日… 太宰 施門(だざい せもん、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、日本のフランス文学者。京都大学名誉教授。名前の読み方は「しもん」あるいは「よしかど」とされることもある。 岡山県倉敷市児島出身。旧制岡山県立岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1907年に旧制第一高等学校へ進学、1910年、同校を卒業する。1913年東京帝国大学文学部卒。1919年第一高等学校教授在職中にフランス留学を命ぜられ、1920年出発、1921年京都帝国大学文学部助教授に任ぜられ、1923年帰国し着任、京都帝大に仏文研究室を開設。1931年オノレ・ド・バルザック「人間喜劇」の研究で文学博士、論文の題は「ラ、コメヂ、ユメーヌの研究」。
雪沢 千代治(雪澤 千代治、ゆきざわ ちよじ、1889年(明… 雪沢 千代治(雪澤 千代治、ゆきざわ ちよじ、1889年(明治22年)4月1日 - 1970年(昭和45年)2月20日)は、日本の内務官僚、政治家。府県知事、衆議院議員。 長崎県西彼杵郡雪浦村(現在の西海市)出身。雪沢梅太郎の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り静岡県属となる。 以後、岩手県理事官、兵庫県警視、内務事務官、新潟県書記官・学務部長、内務省土木局港湾課長、大臣官房都市計画課長などを歴任。 1937年6月、岩手県知事に就任。以後、熊本県・愛知県・京都府の各知事を歴任。1944年4月、愛媛県知事兼四国地方行政協議会長となる。
猿谷 吉太郎(さるや きちたろう、1889年〈明治22年〉4… 猿谷 吉太郎(さるや きちたろう、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1987年〈昭和62年〉3月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1889年(明治22年)群馬県碓氷郡松井田町五料(現・安中市松井田町五料)に生まれる。旧制安中中学校(現・群馬県立安中総合学園高等学校)、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校第22期卒業。1935年(昭和10年)12月に陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所長に就任し、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍砲兵大佐進級と同時に陸軍造兵廠名古屋工廠熱田製造所長に着任した。同年10月25日に兼陸軍造兵廠名古屋工廠高蔵製造所長となり、1939年(昭和14年)9月に陸軍造兵廠名古屋工廠立川兵器製造部長に転じた。
久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1… 久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1968年〈昭和43年〉2月3日)は、日本の政治家、実業家、著述業。衆議院議員(岡山県第一区選出、当選6回)。岡山県会議員。 岡山県久米郡大井西村(現・津山市)に生まれた。久山茂樹の長男。1909年、家督を相続した。早稲田大学に学び、中退した。中国民報社に勤務し、記者となった。岡山県交通互助会長、高信銀行支店長、同支配人、久山工業所長、西美鉄道、美作電化工業各会社重役を務めた。 1919年、岡山県会議員に当選。1928年、衆議院議員に当選(6期連続当選)。立憲政友会に所属した。立憲政友会総務を務めた。1937年6月、第1次近衛内閣で司法政務次官に任ぜられ、1939年1月、退任した。
21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ… 21代 木村 庄之助(にじゅういちだい きむら しょうのすけ、1889年4月1日 - 1970年11月25日)は、大相撲の立行司。所属部屋:伊勢ノ海→井筒→双葉山道場・時津風。風貌から「蔣介石庄之助」と通称されている。 長野県更級郡塩崎村(現長野市)出身。本名:樽田→竹内重門。祖父、父(湊崎)ともに東京相撲の力士で、廃業後も浦風部屋の地方世話人(巡業の世話)をしていた。そのため幼少の頃に父の力士時代からの知人であった伊勢ノ海部屋所属の年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。
藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1… 藤田 定市(ふじた さだいち、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉9月3日)は、日本の実業家。フジタ工業(現・フジタ)会長。広島県知事をつとめた藤田雄山は孫。 広島県賀茂郡中黒瀬村字大多田(現・東広島市黒瀬町)の農家に生まれる。藤田次助の三男。1910年12月、21歳の頃、兄の一郎とともに広島市台屋町で土木建築請負業を始める。 土木建築請負業を営む。1916年、「藤田組」を名乗り、兄の一郎が組長に、定市が副組長になる。1944年、藤田組社長に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、定市は自宅で家屋の下敷きとなり、重傷を負う。1962年、藤田組会長に就任。
大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - … 大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - 昭和42年(1967年)4月)は、日本の技術者、政治家。元米子製鋼所長。元成実村会議員。 鳥取県西伯郡成実村(現在の米子市)の農家に生まれた。唯次郎の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て明治44年(1911年)大阪高等工業学校卒業。米子製鋼所に迎えられ、生涯ここにとどまって、技術の研究開発につとめ、製鋼業の基盤を確立した。 大立が所長になったのは、坂口豊蔵所長が没した昭和5年(1930年)頃からと思われる。そのころから、新持馨(中国電力の重役)、今井兼文(今井書店の会長)の二人と親交を結び、謡、碁、旅行などの清遊を楽しんでいる。 戦後、大立は野に帰って百姓を始めた。
辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年… 辰馬 夘一郎(辰馬 卯一郎、たつうま ういちろう、1889年〈明治22年〉3月26日 - 1979年〈昭和54年〉10月23日)は、日本の政治家。兵庫県西宮市長。西宮市会議員。西宮市名誉市民。 兵庫県武庫郡西宮町(現西宮市)出身。先代辰馬卯一郎の三男。 関西大学専門部に学び、中退する。1933年(昭和8年)、万歳酒造代表取締役となる。西宮町議を経て同市議に当選する。 1946年(昭和21年)3月2日から1959年(昭和34年)4月29日まで西宮市長を務めた。最後の官選市長であり、初代公選市長でもある。 1949年(昭和24年)には、夙川河川敷緑地に1,000本の桜の若木の植樹を行った。 1959年(昭和34年)、西宮市初の名誉市民。