加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年1… 加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年12月12日) - 1934年(昭和9年)4月14日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 のちの静岡県城東郡土方村(小笠郡土方村、城東村、大東町を経て現掛川市)に生まれる。土方嶺小学校、韮山の伊豆学校を経て、1891年(明治24年)慶應義塾大学部を卒業する。ドイツ人の経営するイリス商会、横浜貿易商会、兜町金万商会と転じた。日清戦争後の1895年(明治28年)に台湾に渡り、さらに義和団の乱が勃発すると中国に渡り、天津や北京で請負雑貨商を営み巨万の富を築いた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。
山田 七五郎(やまだ しちごろう、1871年2月1日 - 1… 山田 七五郎(やまだ しちごろう、1871年2月1日 - 1945年6月27日)は、日本の建築家。長崎県技師、横浜市の初代建築課長を歴任し、1914年(大正3年)から1929年(昭和4年)まで、横浜市の建築営繕組織のトップとして組織を統率した。1925年にパリで開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アールデコ博)では、日本館の設計を担当した。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
縣 左吉(あがた さきち、明治4年2月 (旧暦)(1871年… 縣 左吉(あがた さきち、明治4年2月 (旧暦)(1871年) - 没年不詳)は、日本の実業家。 福岡県士族縣連の三男として生まれる。1892年福岡県立尋常中学修猷館を卒業。一時三井鉱山に勤務するが、退職し上京して東京物理学校、法律学校に学ぶ。 1895年三井銀行本店営業部に入社し、小樽支店、足利支店、三池支店などで勤務した後、1902年退社し、三井物産との取引事業を満洲に興す。1913年三井系の後援を得て、藤山常一と共に、1915年電気化学工業(現・デンカ)を創業、常務取締役などを務めた。 電気化学工業の傘下企業である、大淀川水力電気の常務取締役なども務めた。
島内 桓太(しまのうち かんた、1871年1月31日(明治3… 島内 桓太(しまのうち かんた、1871年1月31日(明治3年12月11日) - 1940年(昭和15年)9月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀県出身。元佐賀藩士の島内桓二・斐(同藩士の綾部四郎太夫の三女)夫妻の息子として生れる。1893年(明治26年)12月、海軍兵学校(20期)を卒業し、少尉候補生として「吉野」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年(明治28年)3月に海軍少尉任官、旅順口根海兵団分隊士となる。 1898年(明治31年)12月、呉水雷団第2水雷敷設隊分隊長に就任し、「平遠」分隊長、呉水雷団水雷艇隊艇長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長などを歴任し、海軍大学校で乙種学生として学んだ。
川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3… 川口 彦治(かわぐち ひこはる、1871年1月30日(明治3年12月10日) - 1955年(昭和30年)5月)は、日本の内務・警察官僚、実業家。政友会系官選県知事、関東庁事務総長。 日向国諸県郡、後の宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)出身。郷士・川口時清の長男として生まれる。1893年7月鹿児島高等中学造士館予科卒業、1895年7月鹿児島高等中学造士館本科卒業。1899年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し警視庁警部となる。1900年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、警視庁警視・府中警察署長、山梨県警部長、山梨県事務官・第四部長、茨城県事務官・第四部長、大分県事務官・第一部長兼第三部長、愛知県事務官・内務部長などを歴任。
倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈18… 倉場 富三郎(くらば とみさぶろう、明治3年12月8日〈1871年1月28日〉- 昭和20年〈1945年〉8月26日)は、日本の実業家、水産学者。英名はトミサブロー・アワジヤ・グラバー(Tomisaburo Awajiya Glover)、ただし、墓標に刻まれた名はトーマス・アルバート・グラバー(Thomas Albert Glover)。苗字の「倉場」は、「グラバー」をもじったもの。 幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。母は加賀マキとする説もある。また養子として迎えられたイギリス系日本人(British-Japanese)であったとも言われている。
桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871… 桑原 隲蔵(くわばら じつぞう、明治3年12月7日〈1871年1月27日〉 - 1931年〈昭和6年〉5月24日)は、日本の東洋史学者・京都帝国大学教授。文学博士。1898年に出版された著書(中等東洋史.上巻/中等東洋史.下巻)は、東洋史教科書の定番となった。 1871年1月27日 越前国(現・福井県敦賀市)に製紙業者桑原久兵衛の次男として生まれる。京都府尋常中学校から第三高等学校へ進み、1892年に同校卒業、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に入学し、漢文科から同大学院東洋史専攻へ(1896年)。1898年の修了後、母校の第三高等学校教授となった。 翌1899年に高等師範学校(現・筑波大学)教授に転じ(1907年迄)、国費留学のため退官、文部省より中国へ派遣される。
武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年… 武居 綾蔵(たけい あやぞう、明治3年12月5日(1871年1月25日) - 昭和7年(1932年)12月9日)は、日本の実業家。内外綿頭取や在華日本紡績同業会委員長を務めた。 長野県諏訪郡湖南村生まれ。長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)を経て、1892年高等商業学校(現・一橋大学)卒業、市立大阪商業学校(現・大阪公立大学)教諭。1895年日印貿易会社入社。1902年同社副支配人。1903年同社支配人。 1912年内外綿取締役。1922年から同社頭取となり、高付加価値化戦略を進めた。1929年在華日本紡績同業会委員長。また、日華学会評議員、大阪朝日新聞社内東亜調査会評議員なども務め、日満経済協和会を創立。
宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3… 宮崎 滔天(みやざき とうてん、1871年1月23日〈明治3年12月3日〉 - 1922年〈大正11年〉12月6日)は、自由民権思想を根幹とする世界革命を目指し活動した近代日本の社会運動家。孫文ら中国の革命家たちを支援した日本人の代表格として知られ、孫文の自伝「志有れば竟に成る」で「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 としてその名が挙げられている。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。 荒尾宮崎家は1647年、宮崎弥次兵衛正之が荒尾村の有力武士の娘を嫁に迎え、定住したことに始まる。肥後国玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)に遠祖を菅原道真とする郷士の家柄に、その9代目となる宮崎政賢と佐喜夫妻の八男として、1871年(明治3年)に生まれる。
倉知 鉄吉(くらち てつきち、明治3年12月3日(1871年… 倉知 鉄吉(くらち てつきち、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 昭和19年(1944年)12月22日)は、日本の外務官僚。貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。実業家。 加賀藩士倉知行徳の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。内務属となったが、1897年(明治30年)に外務省参事官に転じ、ドイツ公使館書記官、統監府書記官などを歴任した。1908年(明治41年)、外務省政務局長に就任し、1912年(明治45年)には外務次官に昇進した。政務局長・次官在任中に日清協約、日露協約、韓国併合、条約改正などに関わった。 1913年(大正2年)に退官するとともに、貴族院勅選議員(2月13日)、錦鶏間祗候(2月14日)に任じられた。
出口 直吉(でぐち なおきち、1871年1月21日(明治3年… 出口 直吉(でぐち なおきち、1871年1月21日(明治3年12月1日) - 1929年(昭和4年)7月30日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。染色家。衆議院議員。神奈川県高座郡鶴嶺村長。 出口彦四郎、ウタの三男として神奈川県高座郡今宿村(鶴嶺村、茅ヶ崎町を経て現茅ヶ崎市)に生まれる。1892年(明治25年)東京工業学校染工科を卒業し、1896年(明治29年)横浜市高島町に染色工場を開設した。以後、改良機械の導入、モスリン無地染色、羽二重精練などで業界を率いた。1912年(明治45年)には横浜輸出織物染色同業組合を設立し、政府助成を得て岡野町に共用利用工場を設けた。また、横浜商業会議所議員、横浜撚糸織物専務取締役を務めた。
岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈… 岡本 椿所(おかもと ちんしょ、男性、1871年1月21日〈明治3年12月1日〉 - 1919年〈大正8年〉10月10日)は、近代日本の篆刻家である。 本名は岡本義邦(旧姓・山名)、字は叔礼、椿所は号。津山出身。 東京に出て1895年(明治28年)に中井敬所の菡萏居社に入門し篆刻を学ぶ。同門に岡村梅軒・郡司楳所・田口逸所・増田立所・井口卓所などがいる。三村竹清に印を売り、その後交渉している。1907年(明治40年)には河井荃廬・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・山田寒山らと丁未印社を設立した。宮内省図書寮に奉職した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(18… 小金井 喜美子(こがねい きみこ、明治3年11月29日(1871年1月19日) - 昭和31年(1956年)1月26日)は、近代日本の歌人・翻訳者。 近代詩の形成に多大な影響を与えた訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名を連ねるなど、女性文学者として明治期に若松賤子と並び称された歌人・随筆家である。夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精(良精は再婚)、長兄は文豪森鷗外、次兄は劇評家の三木竹二(森篤次郎)、孫の一人は作家の星新一。家族・知人などの回想記を多く著し、とりわけ鷗外と竹二に関する記述は、鷗外研究で重要な資料となっている。 1871年1月19日(明治3年11月29日)、石見国(現島根県)津和野で津和野藩医、森静泰(後年、静男と改名)と峰の間に長女として生まれた(本名キミ)。
藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年1… 藤浪 鑑(ふじなみ あきら、1871年1月19日(明治3年11月29日) - 1934年(昭和9年)11月18日)は、日本の医師、病理学者。藤浪肉腫の発見者として知られる。 1870年(明治3年)旧尾張藩の侍医、藤浪萬得の長男 として愛知県名古屋市に生まれる。生家は代々の尾張藩医という名門であった。 1895年(明治28年)に東京帝国大学医科大学を首席卒業。病理学教室に入り、当時ドイツのウィルヒョウに学んで帰国したばかりの山極勝三郎教授に師事する。翌年ドイツに留学。ベルリン大学ではウィルヒョウに、ストラスブール大学ではレックリングハウゼン病で有名なフリードリッヒ・フォン・レックリングハウゼンに、フライブルク大学病理学教室ではエルンスト・ツィーグラーにそれぞれ学び、4年間を過ごす。
弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦… 弘世 助太郎(ひろせ すけたろう、明治4年12月9日 (旧暦)(1871年1月18日) - 1936年(昭和11年)3月9日)は実業家。日本生命三代目社長で「中興の祖」とされる。弘世現は娘婿。
田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年… 田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日)- 1939年(昭和14年)6月5日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ。 農業を営み、牧畜、蚕業の改良に尽力した。また製糸工場を経営した。下北条村会議員に就任。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任。1927年(昭和2年)県会議長に就任した。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3… 堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(旧暦明治3年11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年1… 浅井 敬吾(あさい けいご、1871年1月15日(明治3年11月25日) - 1950年(昭和25年))は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、医師。長野県上田市長。旧姓は山本。 信濃国小県郡上田城下(現・上田市)の山本家に生まれ、旧上田藩士・浅井器水の養嗣子となる。東京済生学会を卒業し、東京順天堂医院(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院)や横浜十全堂病院(現・横浜市立大学附属病院)を経て、東京帝国大学に入学し、小児選科を修了する。1893年(明治26年)旧制東京医学専門学校卒業。1899年(明治32年)故郷の上田に開業。このころ内村鑑三が訪れ、その影響で上田独立苦楽部を設立し、同会長となる。
井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3… 井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日(明治3年11月22日) - 1931年(昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり、本名:藤田 阿久利)は、日本の体育学者。女子体育の母・日本体育の母。 現在の秋田県秋田市南通亀の町出身。アメリカ留学後女子高等師範学校や日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。 1871年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生。糺は戊辰戦争において久保田藩を勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている。
由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月… 由比 質(ゆひ ただす、明治3年11月20日(1871年1月10日) - 昭和5年(1930年)4月7日)は、日本の教育者。称号は従三位勲二等。 高知県土佐郡神田村(現・高知市)出身。第三高等学校を経て、1896年(明治29年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業。山口高等学校教授・舎監、千葉県千葉中学校校長、第五高等学校教授・生徒監、第三高等学校教授、松山高等学校校長、第七高等学校造士館校長を歴任した。 1930年(昭和5年)、鹿児島市で講演中に脳溢血で倒れて急逝。墓所は染井霊園1-イ-4-19。同所には兄である陸軍大将由比光衛の墓もあり、右側の墓石が質のものである。
濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月… 濱田 彪(はまだ ひょう、1871年1月9日(明治3年11月19日) - 1938年(昭和13年)11月7日)は、日本の技術者、実業家。第3代三菱造船(現三菱重工業)会長を務めた。 長崎県東彼杵郡福重村野田郷(現大村市野田町)で、初代村長一瀬信造の次男として生まれた。大村中学校(現長崎県立大村高等学校)卒業後、1891年東京工業学校(現東京工業大学)機械科卒業、三菱合資入社。長崎造船所で「常陸丸」の受注にあたるなどし、同所機械工場支配人を経て、1898年三菱造船所電気主任技師。三菱造船所副長を経て、1917年三菱造船長崎造船所所長。1920年三菱造船常務取締役。1925年三菱造船会長。1931年蔵前工業会理事長。
柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1… 柴田 駒三郎(しばた こまさぶろう、明治3年11月18日(1871年1月8日) - 1945年(昭和20年)4月11日)は、日本の内務官僚、文部官僚。錦鶏間祗候。 奈良県出身。1896年(明治29年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務属となった。同年、高等文官試験に合格し、群馬県参事官、枢密院書記官、行政裁判所評定官、土木局書記官・内務省参事官、文部省宗教局長を歴任した。その後、維新史料編纂事務局長、維新史料編纂会委員を務め、1942年(昭和17年)に退官した。 1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871… 政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871年1月7日) – 大正10年(1921年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、駐シャム(タイ)公使。法学博士。
三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:187… 三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。 三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。 卒業後はすぐに逓信省へ入省。
釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年… 釈 宗活(しゃく そうかつ、明治3年11月15日(1871年1月5日) - 昭和29年(1954年)7月6日)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京市麹町の生まれ。出家前は入澤譲四郎。号は両忘庵、輟翁、石佛。
岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年1… 岡田 重久(おかだ しげひさ、1871年1月5日(明治3年11月15日) - 1936年(昭和11年)8月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 土佐国香美郡立田村(現・高知県南国市)に生まれた。1893年(明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官。1895年(明治28年)5月、歩兵中尉に進級。1899年(明治32年)3月、歩兵大尉に進級。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。1904年(明治37年)8月、歩兵少佐に進級。日露戦争に満州軍情報参謀として出征した[要出典]。1908年(明治41年)12月、歩兵中佐に進級。 1912年(大正元年)12月、静岡連隊区司令官となり、1913年(大正2年)2月、歩兵大佐に昇進。
森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、187… 森 広三郎(旧字体: 森 廣三郞、もり ひろさぶろう、1871年1月4日(明治3年11月14日)- 1939年(昭和14年)7月13日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・広輔。 越前国今立郡稲寄村(福井県今立郡稲寄村、国高村稲寄、武生市を経て現越前市)で、豪農、先代・森広三郎の長男として生まれた。1901年(明治34年)8月、家督を相続し広三郎を襲名した。父の反対を受けながらも上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学んだが、ついに父の意思に従い中退して帰郷した。 今立郡会議員に就任。1903年(明治36年)9月、福井県会議員に選出され、1905年(明治38年)5月まで在任し、同参事会員も務めた。
松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年… 松井 房吉(まつい ふさきち、1871年1月 - 1950年6月24日)は、日本の大正期から昭和初期の実業家、相場師。松井房吉商店(現在の松井証券)の創業者。 明治初期に三重県桑名市の医者・加藤勘兵衞の次男として生まれる。松井家に養子に出され松井姓になる。日本橋蛎殻町で丸三商店(現在の丸三証券)創業者の1人である川北徳三郎のもとで相場を修業し、川北とともに日本橋兜町に進出する。兜町で5人の仲間と匿名組合を設立して、株取引の仲介業務を始め、1918年5月10日他の5人から権利を買い取り松井房吉商店を創業した。兜町では「売りの房吉」と恐れられ、第一次世界大戦後の1920年3月15日の株価大暴落で、兜町でただ1人大儲けをし、巨万の富を築く。
上代 淑(かじろ よし、1871年 - 1959年11月)は… 上代 淑(かじろ よし、1871年 - 1959年11月)は、日本の教育者。山陽高等女学校(後の山陽学園大学・山陽女子中学校・高等学校(現在の山陽学園中学校・高等学校))の校長を51年間務め、岡山県の女子教育の推進に寄与した人物。岡山市名誉市民。 1871年(明治4年)、伊予松山藩士・上代知新の娘として愛媛県松山市に生まれる。程なくして父である知新が生活の糧を得るために淑を含む家族を連れて大阪に上り、同地で新島襄と出会い、彼より洗礼を受けてキリスト教の信徒(のちに牧師)となったため、これに伴う形で淑もまた洗礼を受け、その縁から自家の近所にあった梅花女学校(現在の梅花学園)にて女子教育を受ける事となった。
小林清作(こばやしせいさく、1871年 - 1935年)は、… 小林清作(こばやしせいさく、1871年 - 1935年)は、日本の教育者。愛知淑徳女学校(現:愛知淑徳中学校・高等学校)の初代校長。 元衆議院議員の小林憲司は曾孫。 新潟県西蒲原郡燕町(燕市)の菓子屋「渋屋」の長男として生まれた。燕小学校卒業後、弥彦村の明訓尋常中学に入学。先生に帝大進学を勧められ、1886年(明治19年)明訓中学校を中退、東京第一高等中学の受験科目である英語と数学の教育が進んでいる東京開成中学への編入を選んだ。 1888年(明治21年)、第一高等中学に合格。学友に大町桂月・姉崎嘲風・高山樗牛・武島羽衣・建部遯吾・桑木厳翼らがいる。第一高等中学では回覧雑誌が盛んであり、小林清作は『璞』(あらたま)なる回覧雑誌を主宰し、北越散人の筆名を用いた。
武笠 三(むかさ さん、1871年 - 1929年)は、日本… 武笠 三(むかさ さん、1871年 - 1929年)は、日本の国文学者。族籍は埼玉県士族。孫に北海道大学名誉教授の武笠 幸一がいる。 現在の埼玉県さいたま市緑区出身。氷川女体神社の旧神主家・武笠家に生まれる。埼玉県士族・武笠幸息の長男。 東京帝国大学を卒業後、第四高等学校 (旧制)、埼玉県第一中学(現:埼玉県立浦和高等学校)、第七高等学校造士館 (旧制)で教鞭をとった。 1908年、文部省からの要請を受け、その後17年間にわたり国定教科書の編纂および尋常小学唱歌の作詞に取り組んだ。武笠三の作詞と言われているものには「案山子」「雪」「池の鯉」「日の丸の旗」などがあるが、編纂官だったために名を伏せ、作詞作曲不詳とされているものもある[要出典]。
林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - … 林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - 1941年(昭和16年))は、日本の画家である。「朝の祈り」という名画を描き、北海道美術界の基礎を築いた。ハンセン病患者のために生涯を尽くした医師林文雄の父。 1871年に宮城県に生まれ、仙台師範学校(現宮城教育大学)へ入学した。師範学校在学中の1889年(明治22年)にキリスト教の洗礼を受けた。同年上京して東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、3年後の1892年(明治25年)東京美術学校の特別課程を卒業すると、1898年(明治31年)9月北海道師範学校の教諭になった。2年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として28年間美術を教えた。
山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 … 山縣 雄杜三(山県 雄杜三、やまがた おとぞう、1871年 - 1941年)は、日本の教育者、神学者、歴史学者、聖職者。立教大学教授、聖公会神学院教授、日本聖公会の聖職者。教会史の権威で、東京聖三一教会、府中聖マルコ教会で司牧。 立教大学校(現・立教大学)に入学。1883年(明治16年)に築地で創設された米国式カレッジの立教大学校には日本の野球の先駆けとなる野球チーム(現・立教大学野球部)があり、試合は新橋停車場内の広場で行われていたが、山縣は優勝チームの選手の一員として活躍した。 留学し、神学士(Bachelor of Theology(英語版))の学位を取得。 その後、立教大学でチャプレンを務め、立教大学文学部の教授としても基督教史を教えた。
岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 195… 岸 吉松(きし きちまつ、1871年(明治4年) - 1956年(昭和31年))は、新潟県出身の実業家。岸宇吉の子。アメリカ合衆国テキサス州南東部に移住して当地に稲作を広め、また当地での石油採掘で財を成した。現地では「バロン・キシ」と呼ばれた。 岸吉松は新潟県長岡市の名家に8人兄弟の1人として生まれた。東京高等商業学校(現一橋大学)に進学したものの、1904年に日露戦争が勃発すると徴兵され、翌1905年の終戦まで満州にとどまった。その後、岸は満州に残ることを望んだが、地価と治安の問題により帰国した。 岸が渡米する数年前、1902年に、駐米総領事内田定槌はアメリカ合衆国南部を視察し、当地の稲作は未発達で、大きな利益が望めるとの報告を持ち帰った。
高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年… 高井 利五郎(たかい としごろう、1871年 - 1929年)は、日本の教育者。 徳島県板野郡三俣村にて、長尾惣五郎の次男として誕生。東京高等工業学校建築科卒。 旧徳島藩士・高井幸雄の娘・シウ子と結婚し、同家の婿養子となる。明治37年に徳島県立工業学校教諭となったのを皮切りに、明治39年に香川県立工芸学校長、大正3年に広島県立職工学校長、大正13年に台北州立台北工業学校長(第4代)に就任した。昭和4年現職のまま死去(59歳)。 台北工業学校時代の綽名は「トマト」であった。
楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931… 楢崎 平太郎(ならさき へいたろう、1871年 - 1931年)は広島県出身の実業家。北海道の室蘭を拠点に事業を起こし、北海道鉱業鉄道や後のナラサキ産業を創業した。 広島県平民、楢崎九郎と妻リンの長男として1871年(明治4年5月5日)に同県芦品郡駅家村大字中島で生まれる。生家は庄屋を務める傍ら農業を営んでおり、1880年(明治13年)に区町村会法が制定されると父は村長に推選された。平太郎はその後上京し、菊池武夫の事務所で働きながら日本法律学校で学ぶ。1894年(明治27年)7月に同校を卒業。一時期は郷里で教職に就いていたが、1898年(明治31年)に北海道へ渡ると北海道炭礦鉄道に入社して室蘭売炭所で働いた。
櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は… 櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は山口県出身の弁護士。納税額の多寡によらない普通選挙の実現を目指し、全国普選連合会の幹部を務め、後に衆議院議員(静岡県第2区、当選1回)に選出された。 長門国萩(後の山口県萩市)で1871年2月23日(明治4年1月5日)出生。山口県士族・櫛部善人の長男。川島小学校より萩中学校及び山口中学校を経て司法省文部省認定。1886年(明治19年)に家督を相続。1903年(明治36年)、明治法律学校(後の明治大学)を卒業し、翌年弁護士試験に合格した。 東京弁護士会評議員、台湾台中弁護士会長、日本弁護士協会理事などを務める。 荒熊は全国普選連合会の幹部を務めるなど普選運動に深く関わった論客の一人であり、連合会員の先頭に立って原敬首相邸へ辞職勧告デモも行った。
比護 与三吉(ひご よさきち、1871年〈明治4年〉 - 1… 比護 与三吉(ひご よさきち、1871年〈明治4年〉 - 1937年〈昭和12年〉5月20日)は、日本の料理人、駅弁販売者。明治後期に北海道札幌駅で駅弁の販売を開始し、北海道の食材にこだわった駅弁を考案したり、大正期には飯とおかずを別々の容器に詰める弁当箱「二重折り箱」を発案したりするなどの工夫により、日本全国の駅弁の歴史に大きな影響を与えた。 比護与三吉は1871年(明治4年)に、新潟県の糸魚川で誕生した。長男でなく、家を継ぐ立場になかったため、手に職をつけて1人立ちしようと、料理人の道を目指した。 修行の末に料理人として十分な技量を身につけた後、知人から「札幌は人が集まり、活気があるので、新たな商売の地に良い」と勧められて、1897年(明治30年)、妻子を連れて北海道へ移り、札幌駅近くに日本料理の店を開店した。
原浅(はら あさ、1871年〈明治4年4月〉- 1923年〈… 原浅(はら あさ、1871年〈明治4年4月〉- 1923年〈大正12年〉3月2日)は、日本の第19代内閣総理大臣である原敬の妻(内閣総理大臣夫人)。岩手県江刺郡岩谷堂町出身。 1871年(明治4年)、岩手県江刺郡岩谷堂町(現在の奥州市)で生まれ育つ。父は菅野弥太郎。実家が貧しかったため、東京・烏森にある「紅葉館」の芸者として働く。 1896年(明治29年)に後の夫である原敬の母・リツと会わされ、原家に出入りするようになり、1908年(明治41年)に入籍。敬には貞子という前妻がいたが、1905年(明治38年)に離婚している。原敬の暗殺の際には遺言状を忠実に実行し、盛岡市で葬儀を執り行っている。 1923年(大正12年)3月2日、感冒で療養中に肺炎を併発して死去。
大星 鶴松(おおほし つるまつ、1871年 - 1936年1… 大星 鶴松(おおほし つるまつ、1871年 - 1936年10月11日)は、日本の実業家・大工職人。福井県丹生郡国見村(現・福井市)出身。号は「皖是」(きよゆき)。 福井の大工職人の大星重次郎の長子として生まれ、1890年北海道に弟と共に移住。札幌区で山本卯三郎の下で下請け大工となる。1897年に大型木造建築業者として独立。木工場も経営し、札幌で当代一流の木造建築業者として名を馳せる。官公庁との繋がりが深く、北海道庁立釧路中学校新築工事(1912年竣工)や旧札幌鉄道病院庁舎新築工事(1922年竣工)、札幌市第二高等小學校新築工事(1931年竣工)など官公庁関係の木造施設建築を多く受注した。1922年北海道土木建築請負業者聯合会の設立に参画し同会幹事。
徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)… 徳永 仁臣(とくなが ひとおみ、1871年 - 1936年)は、明治-大正期にかけて活躍した岡山県出身の画家。画号は柳洲(りゅうしゅう)のほか、青々居という別号も使用した。 1871年(明治4年)6月8日、備前国和気郡藤野村(現在の岡山県和気郡和気町)の農家であった徳長吉太郎とむめの次男として生まれる。幼名が武四郎、のちに仁太、仁臣。(遠祖が徳永と称していたため、仁臣は徳長から徳永へ姓を変えた) 岡山市で初めて洋画を見て感激し、洋画家になることを決心する。母校の小学校で助教員をしながら、松原三五郎の天彩学舎に通い洋画の基礎を学んだ後、1889年(明治22年)に18歳で上京し、二代目五姓田芳柳に師事した。
後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安… 後藤 安太郎(ごとう やすたろう、1859年12月30日〈安政6年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉10月2日)は、日本の実業家、資産家。財団法人後藤安報恩会(公益財団法人後藤報恩会の前身)初代理事長。族籍は岐阜県平民。 美濃国今尾村(のち岐阜県海津郡今尾町、現・海津市)の百姓、安太郎の長男。1880年、家督を相続し、襲名する。郷里で油雑穀営業に従事する。不動産、米、株と青年時代から利殖に心を砕く。株式仲買業を営む。 会社の重役であり、後藤商事社長、名古屋米穀取引所理事長・同相談役、愛知電気鉄道、名古屋電力各取締役などをつとめる。名古屋商業会議所議員に推される。 趣味は書画。画幅も多く、珍品を蒐集する。
斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月2… 斎田 功太郎(さいた/さいだ こうたろう、1859年12月28日(安政6年12月5日)- 1924年(大正13年)1月22日)は、日本の植物学者である。 信濃松代藩士の斎田虎尾の長男として生まれる。10代前の斎田仁右衛門が真田信幸に仕えてからの家柄であった。儒学者竹内錫鳴や藩校の文武学校で漢籍や和算を学ぶ。その傍らで家計のために樵夫と共に田野の耕しに携わり、木版彫刻も習得した。明治維新後の1874年(明治7年)に上京し、訓蒙学舎で学んだ後に同人社に入る。その後は東京大学予備門の前身である官立東京英語学校に入学し、1881年(明治14年)に卒業した後に旧制東京大学(後の東京帝国大学)地質学科に入学した。
片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年1… 片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。 美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。 1877年(明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。
阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政… 阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政6年12月1日) - 1934年(昭和9年)10月4日)は、青森市長、衆議院議員(立憲政友会)。号は波城。 陸奥国南津軽郡浪岡村(現在の青森県青森市)出身。1878年(明治11年)、青森県師範学校予科を卒業し、小学校教員となった。ついで青森県医学校監事補、青森県御用掛を務めた。その後、官を辞して上京し、明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ。 帰郷後、南津軽郡会議員に選出され、さらに青森県会議員に選出された。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、1917年(大正6年)と1925年(大正14年)の2度青森市長に選出された。
時重 初熊(ときしげ はつくま、安政6年11月28日(185… 時重 初熊(ときしげ はつくま、安政6年11月28日(1859年12月21日) - 大正2年(1913年)4月19日)は、日本の獣医学者。 東北地方の産馬地に蔓延した馬の仮性皮疽の原因究明および治療法の確立と予防、羊の腸結節の原因である寄生虫の発見や血清の創設、牛疫の国内流入を防ぐため朝鮮における牛疫調査に功績がある。その他ヒムシ病、結核、ダニ熱を研究し各種予防液血清、診断薬の製造、原因不明の伝染病の研究指導を行い日本獣医学の祖とされる。 周防国都濃郡戸田村(現在の山口県周南市)出身。1859年(安政6年)時重音二郎の長男として生まれる。1871年(明治4年)17才の時に小学校員養成所を卒業後、宮市小学(現在の防府市立松崎小学校)、末武北村立花岡小学校(現在の下松市立花岡小学校)の教員となるが、辞職し上京。
寺田 栄(てらだ さかえ、1859年12月12日(安政6年1… 寺田 栄(てらだ さかえ、1859年12月12日(安政6年11月19日) - 1926年(大正15年)1月13日)は、日本の官僚・裁判官・政治家。玄洋社幹部。族籍は東京府平民。貴族院議員。長女の鳩山薫(鳩山薫子)は鳩山一郎(総理大臣)の妻で共立女子学園長。鳩山威一郎の祖父、鳩山由紀夫(総理大臣)、鳩山邦夫の曽祖父。鳩山紀一郎、鳩山太郎、鳩山二郎の高祖父。 1859年(安政6年)、福岡県人・寺田案山子の長男として生まれる。1877年(明治10年)に福岡で発生した士族反乱、反政府暴動である「福岡の変」に参加し、国事犯に問われたため一族と別れ、分家して一家を創立した。 1882年(明治15年)、明治法律学校を卒業。
西村 真太郎(西村 眞太郎、にしむら しんたろう、1859年… 西村 真太郎(西村 眞太郎、にしむら しんたろう、1859年12月12日(安政6年11月19日) - 1922年(大正11年)9月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。族籍は兵庫県平民。 播磨国加東郡(後の兵庫県加東郡下東条村、現小野市)生まれ。西村重太郎の長男。家は代々農業を営む。漢学を修める。 加東郡農事会議員、同議長、戸長、郡徴兵参事員、同学務委員、兵庫県会議員となった。また、播磨鉄道取締役、加東郡米穀取引所理事長、関西競馬倶楽部監事、社銀行、大阪四ツ橋銀行各頭取、西丹貯蓄銀行取締役、兵庫県農工銀行、台湾銀行各監査役などを務めた。 1894年3月、第3回衆議院議員総選挙において兵庫県第六区から出馬し当選。
今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年… 今井 五介(いまい ごすけ、安政6年11月15日(1859年12月8日) - 昭和21年(1946年)7月9日)は、日本の実業家、政治家。片倉財閥家出身。片倉兼太郎の実弟。 信濃国諏訪郡三沢村(現長野県岡谷市)の片倉市助の三男に生まれる。藤森桂谷、武居用拙らに学び、1877年(明治10年)今井太郎の養子となる。1886年(明治19年)農商務省の蚕病試験場に入り、一時渡米を経て、片倉組松本製糸所長となる。 1909年(明治42年)松本商業会議所初代会頭、松本電灯社長に就任。1914年(大正3年)には信濃鉄道(現・JR大糸線)の社長に就任し、信濃大町駅-松本駅間を開通させる。また経営難に陥っていた私塾「松本戊戌学校」を支援し、「松本商業学校」として再出発させた。
安立 綱之(あだち つなゆき、1859年12月8日(安政6年… 安立 綱之(あだち つなゆき、1859年12月8日(安政6年11月15日) - 1938年(昭和13年)12月2日)は、日本の内務官僚、政治家。警視総監、貴族院議員。旧名・国分彦七、迫田彦七、安立彦七。1889年6月、綱之と改名。 鹿児島城下城ヶ谷(現在の鹿児島市長田町)に薩摩藩士・国分市郎右衛門の三男として生まれる。明治4年10月(1871年)、長兄・国分友諒に伴われ上京し、共立学舎に入る。明治六年政変により兄・友諒が警察を辞し帰郷したのに同行。1874年5月、二人の兄、友諒、友実と共に台湾出兵に従軍。兄・友実は病死し、同年9月、鹿児島に帰還。1875年、兄・友諒の再度の上京に同行し、共立学舎に復して学んだ。