牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- … 牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- )は佐賀県佐賀市出身の実業家。サッカーJ2サガン鳥栖を運営するサガンドリームスの元代表取締役社長。
佐賀県立佐賀西高等学校:149人
牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- … 牛島 洋太郎(うしじま ようたろう、1936年7月30日- )は佐賀県佐賀市出身の実業家。サッカーJ2サガン鳥栖を運営するサガンドリームスの元代表取締役社長。
津村 準二(つむら じゅんじ、1936年2月5日 - )は、… 津村 準二(つむら じゅんじ、1936年2月5日 - )は、日本の経営者。佐賀県佐賀市川副町早津江出身。 佐賀郡早津江出身。中川副国民学校から龍谷中学校を経て佐賀県立佐賀高等学校に進む。プロ野球選手の田中久寿男が小学校時代の同級生に、小説家の岩橋邦枝が高校時代の1年先輩に居た。1958年に東京大学法学部を卒業し、所属していたボート部の先輩に勧められ同年に東洋紡績に入社。1980年9月に取締役に就任し、1997年6月には専務に就任した。1999年6月に社長に昇格した。2005年6月に会長に就任し、2010年6月から相談役を務めた。
川内 通康(かわうち みちやす、1935年(昭和10年)12… 川内 通康(かわうち みちやす、1935年(昭和10年)12月2日 - 2019年(平成31年)3月5日)は、日本の実業家。ニッポン放送元社長。佐賀県佐賀市出身。 佐賀市水ケ江にあるロングサン薬局の長男として産まれる。 佐賀大附属中、佐賀高校を経て、1959年に東京大学教育学部を卒業し、同年にニッポン放送に入社。 1979年に取締役に就任し、1983年に常務、1985年に専務、1989年6月に副社長を経て、1992年6月に社長に就任し、1999年6月会長に退いた。 1992年から1999年までに日本民間放送連盟の理事を務め、2001年と2002年に東京国際映画祭のゼネラルプロデューサーも務めた。
岩橋 邦枝(いわはし くにえ、女性、1934年10月10日 … 岩橋 邦枝(いわはし くにえ、女性、1934年10月10日 - 2014年6月11日)は、日本の小説家。本名、根本邦枝。 広島県広島市生まれ。父・岩橋八洲民は植物学者で当時広島文理科大学副手。1945年10歳の時、広島の原爆投下の直前に父の実家のある佐賀県佐賀市へ疎開した。佐賀県立佐賀高等学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)から、お茶の水女子大学教育学科に進み、在学中の1954年『婦人公論』の作文選に「水紋」が川端康成の選により掲載、初めて書いた小説「つちくれ」が『文藝』全国学生小説コンクールに当選、1955年『婦人公論』募集の女流小説に「不参加」が入選、1956年「逆光線」が『新女苑』に発表され、女版石原慎太郎としてマスコミが殺到した。
古川 貞二郎(ふるかわ ていじろう、1934年〈昭和9年〉9… 古川 貞二郎(ふるかわ ていじろう、1934年〈昭和9年〉9月11日 - 2022年〈令和4年〉9月5日)は、日本の厚生官僚。 厚生事務次官、内閣官房副長官、株式会社麻生監査役、社会福祉法人恩賜財団母子愛育会会長・理事長を歴任。 村山内閣から小泉内閣にかけて内閣官房副長官を務め(在職日数3133日)、2021年7月25日に杉田和博に更新されるまで歴代最長の内閣官房副長官だった。 九州大学在学中にも国家公務員採用上級甲種試験を受験するが、失敗。郷里でもある佐賀県庁への入庁を希望していたが、当時佐賀県職員の募集が行われていなかったため、長崎県庁へ入庁。また、九州大学入学以前に一年間のみ佐賀大学文理学部に在籍していた。
増田 信行(ますだ のぶゆき、1934年3月28日 - 20… 増田 信行(ますだ のぶゆき、1934年3月28日 - 2025年6月3日)は、日本の実業家。三菱重工業取締役社長や、同社取締役会長、日本防衛装備工業会会長等を務めた。 長崎県または静岡県出身。佐賀高校を経て、1957年九州大学工学部卒業、三菱造船(現三菱重工業)入社。1987年三菱重工業広島製作所副所長。1989年三菱重工業下関造船所長。1991年三菱重工業取締役下関造船所長。1992年三菱重工業常務取締役機械事業本部長。1994年三菱重工業取締役副社長機械事業本部長。1995年三菱重工業取締役社長。1999年三菱重工業取締役会長、日本原子力発電取締役。2000年日本防衛装備工業会会長。2001年経済産業省産業構造審議会航空機宇宙産業分科会航空機委員会委員長。
折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年… 折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年9月27日)は、映画監督、演出家、テレビプロデューサー、UFO研究家、発明家。アイデア開発研究所代表、発明協会会員。鹿児島県鹿児島市出身。千葉大学工学部工業化学科(写真映画専攻)卒業。 1958年に東映に入社し、助監督として配属された東映京都撮影所を経て、1965年より東映東京制作所に所属する。『丸出だめ夫』・『悪魔くん』・仮面ライダーシリーズなど、特撮テレビドラマの監督として活躍した後、1978年には東映テレビ事業部プロデューサーに昇進し、スーパー戦隊シリーズの『バトルフィーバーJ』からはプロデューサーとして東映キャラクター路線を支える。
陣内 孝雄(じんのうち たかお、1933年〈昭和8年〉8月2… 陣内 孝雄(じんのうち たかお、1933年〈昭和8年〉8月24日 - )は、日本の政治家・官僚。元参議院議員(4期)。佐賀県神埼郡神埼町(現・神埼市)出身。佐賀県立佐賀高等学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、京都大学工学部土木工学科卒。同大学院修了。 1958年、建設省に入省。近畿地方建設局企画部長や九州地方建設局長などを経て、1988年1月12日に建設省河川局長を最後に退官。同年4月10日、三池信元郵政大臣の死去に伴う参議院議員補欠選挙に佐賀県選挙区から出馬し、初当選。以後、当選4回。その間、自民党佐賀県連会長、農林水産政務次官・参議院予算委員長・小渕第1次改造内閣の法務大臣などを歴任。 保守派の政治家であり、靖国神社に替わる国立追悼施設建設に反対し、靖国神社参拝に関しても法相在任中に例大祭で献灯を行っている[要出典]。
針 すなお(はり すなお、1933年3月15日 - )は、日… 針 すなお(はり すなお、1933年3月15日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、武道家。本名は高閑者 順(たかがわ すなお)。 政治家や芸能人、スポーツ選手など著名人の似顔絵で知られているほか、武道家として、武術「体の杖(たいのじょう)」を創始した。 佐賀県佐賀市出身。生家は旧佐賀藩の菩提寺・高伝寺(針自身も住職を務めた)。五男。 子供の頃から絵を描くのを好み、実家の寺に届けられた布施の包み紙を住職の父親から貰い絵を描いていた(戦時中で、紙が貴重品であったため)。寺の廊下で住職や兄の似顔絵を、小学校のクラスで友達や教師の似顔絵を描いて人気を得た。中学、高校になると漫画を描くようになった。
糸山 隆司(いとやま たかし、1932年11月14日 - 1… 糸山 隆司(いとやま たかし、1932年11月14日 - 1983年8月17日)は、兵庫県出身の日本のバスケットボール選手である。195cm、85kgという体格を持ち、日本初のビッグマンとして活躍した。 旧制佐賀中学(佐賀西高校)2年でバスケを始め、東京教育大に進み、在学中アジア大会に出場する全日本チームに選ばれる。 卒業後は日本鋼管に入社。メルボルン・ローマの五輪2大会に出場し、ローマ五輪では日本選手団の主将を務めた。 1965年には全日本チームのコーチを務めた。
野口 昌三(のぐち しょうぞう、1930年5月31日 - 2… 野口 昌三(のぐち しょうぞう、1930年5月31日 - 2017年4月14日)は、佐賀県出身の日本のバスケットボール選手。 旧制佐賀中学(佐賀西高校)在学中に学徒動員される。終戦後米軍に接収された学校の体育館でバスケットボールを楽しむ米軍兵を見て競技を始め、学制改革により佐賀第一高校(翌年佐賀高校に改称)となった母校に3年生として編入すると第3回国民体育大会高校の部で準優勝。進学した東京教育大学(現・筑波大学)では吉井四郎の指導を受け、主将として臨んだ4年次に関東大学選手権、関東大学リーグ戦、インカレの3冠を制し、全日本選手権大会では大学チームを準優勝に導いた。 卒業後の1954年、バスケットボールの縁で田辺製薬に入社。
成田 豊(なりた ゆたか、1929年(昭和4年)9月19日 … 成田 豊(なりた ゆたか、1929年(昭和4年)9月19日 - 2011年(平成23年)11月20日)は、日本の実業家。大手広告代理店・電通グループの会長、ならびに電通の最高顧問を務めた。2010年6月より電通名誉相談役。1993年から長年にわたり電通のトップに君臨した。位階は従三位。 1929年、日本統治下の朝鮮忠清南道天安郡(現在の天安市)生まれ。父清臣(きよおみ)は石川県出身・日本統治下の朝鮮総督府鉄道勤務。母ソメは佐賀県出身。従来、京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)生まれと一般に言われてきたが、正確な出生地は天安(ソウルの南約100kmにある街。本人の告白によれば、細かな説明をするのが面倒で京城生まれと言ってきたという)。
土井 定包(どい さだかね、1928年7月27日 - 200… 土井 定包(どい さだかね、1928年7月27日 - 2009年4月14日)は、日本の実業家。佐賀県生まれ。元大和証券社長・会長。大和証券を業界2位に押し上げ「中興の祖」と評されるが、総会屋への利益供与事件によって1997年に退任、顧問に退いた。
神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 19… 神代 辰巳(くましろ たつみ、1927年4月24日 - 1995年2月24日)は日本の映画監督。佐賀県出身。
田中 浩(たなか ひろし、1926年10月23日- )は、日… 田中 浩(たなか ひろし、1926年10月23日- )は、日本の政治学者。一橋大学名誉教授。学位は、法学博士(名古屋大学)。専攻はヨーロッパ政治思想史。トマス・ホッブズ、カール・シュミット、長谷川如是閑の思想史的研究を柱として、現代政治史や福祉国家論などにも業績を持つ。 佐賀県生まれ。旧制佐賀中学校、陸軍経理学校予科、旧制佐賀高等学校文科乙類を経て、東京文理科大学哲学科卒業。 東京教育大学文学部助手、助教授を経て教授となる。同大学の閉学以降、静岡大学人文学部教授を経て、1983年から90年まで一橋大学社会学部教授。定年退官後、大東文化大学法学部教授、立命館大学客員教授、聖学院大学大学院客員教授を歴任し、聖学院大学大学院アメリカ・ヨーロッパ文化学研究科教授に着任する。
小林 肇(こばやし はじめ、1925年(大正14年)10月2… 小林 肇(こばやし はじめ、1925年(大正14年)10月27日 - )は、日本の歴史学者、郷土史家。 現在の佐賀県鳥栖市に生まれる。1945年佐賀師範学校卒業、1952年日本大学法文学部人文地理学科卒業。 佐賀大学教育学部附属中学校教諭、佐賀県立佐賀西高等学校教諭、佐賀県立鳥栖高等学校教諭を経て西九州大学名誉教授。 1984年(昭和59年)4月1日 鳥栖市が公募する「鳥栖市民憲章」で最優秀賞を受賞し採用された。鳥栖市役所前にその市民憲章を彫った石碑が建っている。 ・田代売薬〔対馬田代領〕の史的研究 ・対馬領田代売薬の史的研究(第4報)領域経済と田代売薬の創業 ・対馬領田代売薬の史的研究-第5報-宝歴・天明期における田代売薬 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
松田 武彦(まつだ たけひこ、1921年 <大正10年> 9… 松田 武彦(まつだ たけひこ、1921年 <大正10年> 9月14日 - 1999年 <平成11年> 1月26日)は、日本の工学者、工学博士。位階は従三位。 カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)でハーバート・サイモンに学び、東京工業大学経営工学科助教授、教授、学長を歴任。日本オペレーションズ・リサーチ学会(OR学会)会長、IFORS(国際OR学会連合)会長、経営情報学会初代会長などをつとめ、日本における経営工学、OR研究の黎明期において、その発展、普及に寄与した。研究面では組織知能工学などを提唱。松田研究室出身者に飯島淳一など。
西村 正俊(にしむら まさとし、1921年〈大正10年〉2月… 西村 正俊(にしむら まさとし、1921年〈大正10年〉2月11日 - 2011年〈平成23年〉6月20日)は、日本の政治家。佐賀県佐賀市長(3期)。 佐賀県出身。1939年、旧制佐賀県立佐賀中学校卒業。翌年南満洲鉄道に入る。1946年、佐賀県国民健康保険組合連合会主事になる。1948年、佐賀県庁に入る。国民健康保険課長、厚生部参事を経て、1970年に伊万里市助役に就任、1980年に佐賀市助役に就任する。1987年の佐賀市長選挙に立候補し当選、1999年まで3期務めた。2011年6月20日午前7時43分、多発性骨髄腫のため佐賀市の佐賀県立病院好生館で死去、90歳。死没日をもって従七位から従五位に叙される。
酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月… 酒井 治彦(さかい はるひこ、1917年 - 1944年2月) は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、1936年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも投手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年2月、南方諸島(正確な死没地、没月日は不明)で戦死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の先輩である鶴崎俊篤と共に、彼の名前が刻まれている。
野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日… 野中 国男(のなか くにお、1913年(大正2年)5月15日 - 1947年(昭和22年)4月28日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は陸軍少佐。正六位。インパール作戦に参謀として従軍、終戦後の復員前に不可解な自決を遂げた。 佐賀県神埼郡神埼町において生まれる。野中は幼少の頃より秀才であったが、生家は貧しかったので、町内の素封家の学資援助で、神埼町立神埼小学校へ入学、納富健次郎と生涯にわたる親友となり共に首席を争うが納富にはかなわなかった。納富は海軍兵学校第62期として皇族2名を除いて14番/123名で卒業している。空母「瑞鶴」飛行隊長(海軍大尉)として、1943年(昭和18年)11月8日の第2次ブーゲンビル島沖航空戦で戦死、海軍中佐に二階級特進している。
石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10… 石井 利雄(いしい としお、1912年(明治45年)4月10日 - 2001年(平成13年)1月12日)は、日本の造船技師(専門は舶用内燃機関、造船の生産技術・品質管理などの生産管理全般)、海軍軍人(予備将校)、実業家である。最終階級は海軍中尉。従七位。とくに、戦時急造された海防艦の専門家であり、戦時中、御蔵型など40隻の海防艦を竣工させた。戦後は、南極観測船の建造にも関わった。ブロック工法(ブロック建造方式)による艦船建造の先駆者の一人。 佐賀県神埼市出身。生家は佐賀藩主鍋島家の藩祖以来の外戚家門石井家。初代藩主鍋島勝茂の従兄石井茂成の8代目の子孫という。 神埼市立神埼小学校を経て、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀西高等学校)に進学。
鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7… 鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7月26日)は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)在学中は、甲子園に2回(夏2回〈1928年、1929年〉)出場した。 1932年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも外野手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月26日、朝鮮・釜山の傷痍軍人療養所て戦病死した。享年32。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の後輩である酒井治彦と共に、彼の名前が刻まれている。
新郷 英城(しんごう ひでき、1911年(明治44年)10月… 新郷 英城(しんごう ひでき、1911年(明治44年)10月10日 - 1982年(昭和57年)11月27日)は、日本の海軍軍人、警察官、航空自衛官。海兵59期。最終階級は海軍で中佐、警察で警部補、空自で空将。 1911年10月10日佐賀県に生まれる。佐賀中学校を経て、1928年4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年11月7日兵学校を卒業、少尉候補生として「磐手」乗組、練習航海に出発。1932年7月20日、巡洋艦「羽黒」乗組。1933年2月25日、巡洋艦「愛宕」乗組。4月1日、少尉任官。10月1日、第25期飛行学生拝命。1934年7月2日、館山空付。11月11日、中尉。1935年10月15日、空母「龍驤」乗組。
松平 晃(まつだいら あきら、1911年6月26日 - 19… 松平 晃(まつだいら あきら、1911年6月26日 - 1961年3月8日)は、昭和期の流行歌歌手。本名は福田恒治(ふくだつねはる)。 SPレコード歌謡の揺籃の時代から全盛期にかけて、「佐賀っぽ」という気質を前面に出し、青春のブリリアントな美質と野放図な大胆さでスターダムにのし上がった。芸名の「松平晃」は「松平の殿様のように豊かな生活がしたい」との思いからつけたとの説がある。 一方、歌以外でも機械いじりを得意とし、スポーツカーを乗り回し、自分で録音器を作って公演先からボイスレターを送ったり、テーブルマジックに長けていたりと意外かつ多彩な才能の持ち主でもあった。 同時期にデビューした歌手の楠木繁夫とは親友であり、1956年(昭和31年)に楠木が自殺した際には、涙ながらに「女の階級」を歌い出棺を見送ったという。
下村 治(しもむら おさむ、1910年(明治43年)11月2… 下村 治(しもむら おさむ、1910年(明治43年)11月27日 - 1989年(平成元年)6月29日)は、日本の経済学者、大蔵官僚。池田勇人内閣で高度経済成長のプランナーを務めた。 1910年(明治43年)に佐賀県佐賀郡北川副村(現・佐賀市)に生まれる。旧制佐賀中学校、旧制佐賀高等学校文科甲類を経て、1930年に東京帝国大学経済学部へ進学。 1933年、高等試験行政科試験に合格、1934年、東大経済学部を卒業し大蔵省に入省。配属先は専売局。理財局金融課を経て1936年ニューヨーク駐在。1959年退官までの間に経済安定本部物価政策課長、日本銀行政策委員などを歴任したが、病気がちなこともあり大蔵省内ではいわゆる“傍流”にあった。
永倉 三郎(ながくら さぶろう、1910年(明治43年)2月… 永倉 三郎(ながくら さぶろう、1910年(明治43年)2月15日 - 1993年(平成5年)10月20日 )は、日本の経営者。九州電力社長。九州旅客鉄道初代会長。九州・山口経済連合会会長。 佐賀県佐賀市出身。佐賀県立佐賀高等学校卒業。1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し、同年に東邦電力に入社。 1942年に九州配電(のちの九州電力)に転じる。戦時中は陸軍第49師団の主計中尉としてインパール作戦に従軍した。1963年5月に取締役に就任し、常務、副社長を経て、1974年5月に社長に就任。1983年6月に会長に就任し、1987年6月から取締役相談役を務めた。福岡放送取締役、九州旅客鉄道初代会長、九州・山口経済連合会会長なども歴任。
福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 -… 福岡 日出麿(ふくおか ひでまろ、1909年11月21日 - 1990年10月5日)は日本の政治家。参議院議員(2期)。旧姓は辻。東与賀村長の辻武一郎の子。祖父は佐賀の干拓の父と呼ばれた辻演年。兄は陸軍兵器学校の校長などを務めた陸軍中将の辻演武。 佐賀県佐賀郡出身。旧制佐賀県立佐賀中学校卒業後、上海の東亜同文書院大学に進むが中退。明治28年創業の蔵元「窓の月」を営む福岡家に養子に迎えられる。海外経営に熱心でハルビンや蘇州で酒造を手がけた。戦後、翼賛事務長などを理由に公職追放となり、1948年に生コン、酒類、建築資材などを販売する福岡商店を創業した。 追放解除後の1955年から佐賀県議会議員を5期務めた後、国政に進出。
古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日… 古賀 清志(こが きよし、1908年〈明治41年〉4月10日 - 1997年〈平成9年〉11月23日)は、日本の海軍軍人。五・一五事件に連座し、反乱罪で有罪となった海軍中尉である。戦後、不二人と改名し、不二流体術を創始。 長崎県佐世保市で生まれ、佐賀県佐賀市で育つ。佐賀中学を経て、1928年、海軍兵学校56期卒。王師会会員となる。 1931年(昭和6年)12月、霞ケ浦海軍飛行学生、海軍中尉となる。 1932年(昭和7年)五・一五事件では牧野伸顕邸や警視庁を襲撃。 事件後、横須賀鎮守府軍法会議で反乱幇助罪に問われ、禁錮15年の刑を受け失官。小菅刑務所に服役する。これにより従七位を失位、大礼記念章(昭和)を褫奪された。
田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 199… 田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 1991年5月30日)は、日本の保守評論家。 佐賀県出身。旧制佐賀中学、旧制佐賀高校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎に師事。京都市立第一工業学校で英語教師をするが(同僚に下村寅太郎、北川桃雄)、1937年主催誌『リアル』が治安維持法違反の嫌疑をかけられ二年投獄。その間澤木興道に傾倒、禅思想を研究。1939年上京し上智大学でカトリック大辞典を編纂。 戦後、保守思想に共鳴して生長の家関連の出版社である日本教文社に入社、編集局長。谷口雅春に帰依し、生長の家政治連合会長として政界で活動。1955年公職を離れる。1974年に自由民主党から第10回参院選に出馬するも落選。
池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8… 池田 不二男(いけだ ふじお、1905年(明治38年)8月8日-1943年(昭和18年)11月27日)は昭和初期の音楽ディレクター、作曲家。38歳で亡くなるまでの僅かな期間であったが、戦前の日本歌謡史に残る抒情的な佳曲を多数残した。その作風はクラシックや海外の音楽を積極的に取り入れたものであり、ワルツやタンゴを好み、編曲も自らによるものが多い。ペンネームは原野為二、金子史郎、池上敏夫などがある。 1905年(明治38年)8月8日、佐賀県に生まれる。祖父は佐賀(鍋島)藩医の池田陽雲、父は蘭学者・医者・技術者の池田陽一。 佐賀県立佐賀中学校(現:佐賀西高等学校)を卒業し上京、東京高等音楽学院(現:国立音楽大学)にて矢田部勁吉、片山禎太郎に師事し、声楽を専攻。
三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月… 三上 卓(みかみ たく/たかし、1905年〈明治38年〉3月22日 - 1971年〈昭和46年〉10月25日)は、日本の海軍軍人、政治活動家、国家主義者。最終階級は海軍中尉。号は大夢。 佐賀県出身。第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。『青年日本の歌』(昭和維新の歌)の作詞者。著名な弟子に野村秋介がいる。 佐賀県佐賀郡本庄村(現・佐賀市本庄町)出身。父は北鮮日日新聞社長の三上新。佐賀中学校在学中は野球部に所属しており、チームメートには伊丹安広(のち早大監督、野球殿堂入り)や山口猛彦(画家)、小林竜二郎(東京製綱社長)などがいた。1926年(大正15年)3月に海軍兵学校を卒業(54期)。
中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1… 中地 シゲヨ(なかち シゲヨ、1905年〈明治38年〉2月1日 - 2021年〈令和3年〉1月11日)は、日本の教育者、長寿の女性(スーパーセンテナリアン)。佐賀県佐賀市出身。存命中は田中カ子に次いで日本国内で2番目の長寿者であった。 1905年(明治38年)2月1日、佐賀県佐賀市西与賀町の米屋の5人兄弟の2番目の長女として生まれる。12歳で佐賀高等女学校に入学。女学校時代に大隈重信から講義を受けた経験を持つ。卒業後、17歳から小学校教員として30年間勤務し、戦後は資格を取得して62歳まで幼稚園教員として14年間働いた。 小学校教員の頃は厳しい指導がモットーで、勉強が苦手な児童を毎日放課後居残りで指導したが、頑張ったご褒美にあんパンを食べさせた。
古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 -… 古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 - 1997年(平成9年)5月5日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田町長、久保田町名誉町民。位階は従五位。 佐賀県 佐賀郡久保田村久富(久保田町久富を経て現佐賀市久保田町久富)で、古賀銀三郎、トクの長男として生まれる。1917年(大正6年)久保田村立新田尋常小学校卒業。1921年(大正10年)佐賀県立佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)4年を修了し、佐賀高等学校に入学。1924(大正13年)同校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。1928年(昭和3年)同大経済学部を卒業。 卒業後、久留米歩兵第48連隊に入隊し、1929年(昭和4年)に除隊して農業に従事した。
藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 … 藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 - 1932年〈昭和7年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海兵53期卒。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者で革命児と称された人物であり、また、日本海軍搭乗員最初の戦死者の一人である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1904年〈明治37年〉8月3日、長崎県平戸に生れる。本籍は佐賀県。 父は炭鉱主であったが事業に失敗し、藤井は祖父、次いで親族の山口半六に引き取られ養育を受けた。山口は孫文の革命運動に協力した人物であり、藤井は大きく影響を受けたといわれる。 佐賀中学を卒業するにあたり、山口は藤井に外交官を勧めたが、海軍士官の道を選ぶ。
松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜磨(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は運輸省航空庁長官および日本航空社長・会長を務めた人物。 佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。 連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組み、フラッグ・キャリアの日本航空の設立に実現したことから戦後日本航空業界の父と言われる。 杵島郡若木村(後の武雄市若木町)に4人兄弟の次男として生まれた。松尾家は代々庄屋を務める旧家であり、靜麿の祖父・安兵衛は土木建築業・松尾組(現、松尾建設)を創業、更に佐賀県内の各種企業の経営に参画するなど地元財界にて重きを成した。 旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制佐賀高等学校(現・佐賀大学)を経て、九州帝国大学工学部機械工学科卒業。
松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は、元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長。佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組んだことから戦後日本航空業界の父と言われる。
実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月2… 実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年(明治35年)11月20日 - 1996年(平成8年)12月20日)は、日本の海軍軍人、著作家。 米内光政海相時代の大臣秘書官や、駐米大使館附武官補佐官を務め、太平洋戦争においては情報解析に実績を残す。海軍大佐で終戦を迎え11年半の巣鴨プリズン生活をおくった後は主として海軍関係の書を著し、刊行数は100点近くにおよんだ。 小学校校長の長男として佐賀県武雄市に生まれ 海軍兵学校に進んだ。母校の佐賀中学は佐賀藩の藩校弘道館の流れをくみ、当時の最難関校の一つであった海軍兵学校に多くの合格者を送り出した中学である。実松は海兵51期生として中位の席次で卒業後、「浅間」乗組みとして実務訓練を受ける。
三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1… 三好 十郎(みよし じゅうろう、1902年4月23日 - 1958年12月16日)は、昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した劇作家、詩人、小説家。 佐賀県佐賀市八戸町生まれ。戸籍上は父の兄の子で、旧姓は森。孤児として育つ。4歳で三好家の養子になり、12歳で両親と育ててくれた祖母を失う。旧制佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を経て、早稲田大学英文科卒業。早稲田大学在学中の1924年(大正13年)に「早稲田文学」に詩「雨夜三曲」など五篇を発表してデビュー。サンジカリズムからマルクス主義に接近。壺井繁治らと左翼芸術同盟を結成し、ナップの下部組織プロット(日本プロレタリア劇場同盟)に属して、プロレタリア劇の作家として活動。
池田 直(いけだ すなお、1901年 <明治34年> 11月… 池田 直(いけだ すなお、1901年 <明治34年> 11月19日 - 1985年 <昭和60年> 7月13日)は、日本の政治家・官僚。佐賀県知事を5期20年務めた。位階は正三位。 佐賀県佐賀郡川副町出身。旧制佐賀中学校、旧制佐賀高等学校文科甲類を経て、1929年に東京帝國大学(東京大学の前身)法学部を卒業し、会計検査院に入庁。戦時中には南方司政官を務めた。 1952年から1959年2月まで7年以上の間、会計検査院事務総長を務めた。1959年4月に佐賀県知事選に出馬し初当選。1979年まで連続5期にわたり在任した。赤字だった県財政の立て直しや、米作りの推進、若楠国体、佐賀医科大学の誘致などを進めた。
志波 西果(しば せいか、1900年12月17日 - 196… 志波 西果(しば せいか、1900年12月17日 - 1960年代半ば)は、日本の映画監督、脚本家である。本名-頼之(よりゆき)、。 1900年(明治33年)12月17日、佐賀県佐賀市城内町(現在の同市城内)に生まれる。旧制・佐賀県立佐賀中学校(現在の佐賀県立佐賀西高等学校)を卒業後、1922年(大正11年)、東京の国際活映に入社、同社の常設館に勤務する。同年、志波が書いたオリジナルストーリーが同社の巣鴨撮影所で採用され、細山喜代松監督によって映画化され、『雲光の岐に』として同年9月1日に公開された。 1923年(大正12年)5月、22歳のときに、オリジナル脚本『彼の山越えて』がマキノ映画製作所に採用され、衣笠貞之助監督によって映画化され、脚本家としてデビューするとともに、同社の等持院撮影所に助監督として入社する。
坂井 米夫(さかい よねお、1900年9月1日 - 1978… 坂井 米夫(さかい よねお、1900年9月1日 - 1978年11月21日)は、日本の新聞記者。 佐賀市に生まれ、旧制佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)を卒業後、明治学院に学んだ。1926年に映画雑誌『写真と演芸』の特派員として渡米した。 アメリカでは邦字紙「日米」や「羅府新報」の記者を務め、1932年のロサンゼルスオリンピックをきっかけに東京朝日新聞の通信員を兼ねる。1937年にはスペイン内戦を取材し、爆撃直後のゲルニカにも足を向けている。またインドシナや中近東の取材もおこない、1938年に再び渡米。日米開戦により強制収容の対象となったが、アメリカ海軍日本語学校の教官に採用されて、収容所から解放された。
西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年〈1900年〉7… 西久保 豊成(にしくぼ とよなり、明治33年〈1900年〉7月8日 - 昭和2年〈1927年〉12月4日)は、日本の陸軍軍人、内務官僚。陸軍歩兵少尉となるが病の為依願退職し内務省に勤める。官位は陸軍歩兵少尉従七位。 父は樺太攻略戦において戦死した歩兵第50連隊第1大隊長の西久保豊一郎陸軍少佐で、豊成が6歳の時に父と死別する。母は佐賀県士族石井忠男の長女秀。明治33年7月に生まれ、明治35年3月には妹の千代子(後に島内源一郎の子、島内砲兵大尉に嫁ぐ)が生まれる。 佐賀市勧興小学校(現・佐賀市立勧興小学校)、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)を夫々首席となり、熊本陸軍地方幼年学校に進む。
市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968… 市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日 - 1968年12月16日)は、日本の実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。 「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。銀座4丁目交差点に建てた円柱・総ガラス張りの個性的な「三愛ドリームセンター」(1963年完成、2023年解体)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものであった。 産業界・学界で功労者を顕彰する市村賞にその名を遺す。 1900年4月4日、佐賀県三養基郡北茂安村(現在のみやき町)の農家・市村豊吉の長男として生まれる。
福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30… 福地 春男(ふくち はるお、1899年(明治32年)3月30日 - 1953年(昭和28年)12月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 佐賀県出身。陸軍少佐・福地守太郎の長男として生まれる。佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1923年(大正12年)12月、陸軍砲工学校高等科(29期)を卒業した。1924年(大正13年)3月から7月まで陸軍戸山学校学生となる。陸軍野戦砲兵学校付などを経て、1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業した。
西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 19… 西村 熊雄(にしむら くまお、1899年1月27日 - 1980年11月12日)は、日本の外交官。 佐賀県出身。佐賀中学、五高を経て1923年(大正12年)、東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業後外務省入省、在中華民国日本国大使館外交官補。入省同期や前後期に井口貞夫(駐米大使、外務事務次官)、田尻愛義(外務次官、大東亜次官、政務局長)、安東義良(駐ブラジル大使、欧亜局長)、伊東隆治(自治政務次官、衆議院議員)などがいる。 在フランス日本国大使館書記官を経て、1937年条約局三課長、1940年条約局一課長、1944年(昭和19年)ハノイ総領事。終戦(敗戦)後の1947年(昭和22年)から1952年(昭和27年)の条約局長時にサンフランシスコ平和条約、旧日米安保条約締結の事務にあたる。
石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10… 石井 龍猪(いしい たつい、1897年(明治30年)9月10日 - 1950年(昭和25年)10月10日)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北市尹、台南州知事。旧姓は加藤。 加藤十四郎の四男として佐賀県佐賀郡高木瀬村(現・佐賀市)に生まれ、石井力三郎の養子となる。県立中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。翌年、高等文官試験行政科試験に合格し、台湾総督府に出仕する。 1922年(大正11年)5月に高雄州勧業課長、1924年(大正13年)12月に台中州教育課長、1927年(昭和2年)7月に台南州警務部長、1929年(昭和4年)12月に同府警務局衛生課長、1931年(昭和6年)5月に台南州内務部長、1932年(昭和7年)4月に同府内務局地方課長兼地理課長を経て、1936年(昭和11年)10月、台北市尹に就任した。
梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月2… 梁井 淳二(やない じゅんじ、1897年(明治30年)5月25日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。台北州知事。衆議院議員。 梁井幾太郎の二男として佐賀県三養基郡基山村大字長野(現・基山町大字長野)に生まれる。旧制佐賀中学校、第一高等学校を経て、1920年(大正9年)10月、高等試験に合格し、1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 卒業後、内務省に出仕し土木局属となり、熊本県葦北郡長、新潟県警察部保安課長、同県内務部商工課長、広島県内務部農務課長、徳島県学務部長、大分県警察部長、滋賀県警察部長、長崎県経済部長、拓務局総務課長を経て、1939年(昭和14年)11月に台湾総督府文教局長、ついで1942年(昭和17年)7月に台北州知事に就任した。
川嶋 孝彦(かわしま たかひこ、1897年〈明治30年〉2月… 川嶋 孝彦(かわしま たかひこ、1897年〈明治30年〉2月23日 - 1958年〈昭和33年〉2月23日)は、日本の官僚。内閣統計局長。位階勲等は従三位勲二等旭日重光章。 太平洋戦争前から戦中にかけて政府上層部に統計制度の刷新を建議した。戦後の1945年11月には人口調査を実施するほか、統計制度改革案を政府および連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に提出し、戦後の統計制度改革の端緒を開いた。 1897年(明治30年)2月23日、当時富山県師範学校訓導であった父・川嶋庄一郎と母・志まの長男として富山市に生まれる。本籍地は和歌山市。 旧制佐賀中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学法学部政治学科に進み、在学中の1922年(大正11年)に文官高等試験に合格。
進藤 武左ヱ門(進藤 武左衞門、しんどう ぶざえもん、189… 進藤 武左ヱ門(進藤 武左衞門、しんどう ぶざえもん、1896年 - 1981年)は、日本の実業家。日本発送電副総裁、中国電力初代会長、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁などを務めた。 山梨県北巨摩郡小淵沢村(現・北杜市)出身。山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)、長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、佐賀県立佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)、旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学(現・九州大学)工学部電気科卒業。1923年東邦電力入社。東京電力を経て、東京電灯取締役、関東配電副社長、戦災復興院業務局長、資源庁長官、日本発送電副総裁、通商産業省(現・経済産業省)資源局長、行政審議会委員、中国電力会長、電源開発副総裁、大聖通商株式会社会長、愛知用水公団副総裁、水資源開発公団(現・水資源機構)総裁、電源開発調整審議会会長代理などを歴任。
初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)… 初代納富 寿童(のうとみ じゅどう、1895年(明治28年)10月20日 - 1976年(昭和51年)2月24日)は、日本の尺八演奏家、作曲家。流派は琴古流荒木派。本名は納富安治(のうとみ やすじ)。後に芸名を納富寿翁(のうとみ じゅおう)に改名。 1895年10月20日、佐賀県三養基郡土井内(当時南茂安村、後に三根町、現みやき町)で納富孫三郎の次男として生まれる。海軍中将・松永貞市(旧姓・納富)とその妻・イツヨとは親戚。イツヨは女学校生時代に中学生の寿童と叔母の家で一緒に過ごし、寿童について「尺八は中学生のころから吹いていました。上手か下手かはわかりませんでしたが、割合におとなしいほうで、私にも親切にしてくれました。