菊池 盛登(きくち もりと、1898年〈明治31年〉7月 -… 菊池 盛登(きくち もりと、1898年〈明治31年〉7月 - 1961年〈昭和36年〉5月2日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、禁衛府長官。旧姓・河野。 大分県出身。河野円吉の二男として生まれ、菊池要六の養子となる。第七高等学校造士館を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し高知県属となる。 以後、地方警視として佐賀県警察部、長野県警察部、大阪府警察部で勤務。さらに、宮崎県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、警視庁総務部長、同特別高等警察部長などを歴任。 1943年7月、滋賀県知事に就任。戦時下の食糧対策として琵琶湖周辺の干拓事業を推進した。
浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月2… 浅見 義弘(あさみ よしひろ、1898年(明治31年)6月28日 - 1991年(平成3年)5月6日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。 浅見竹三郎の三男として埼玉県深谷市に生まれる。1931年(昭和6年)分家する。旧制熊谷中学、旧制第一高校を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学工学部電気工学科を卒業し、逓信省電気試験所研究員となる。1925年(大正14年)北海道帝国大学教授となり、12余年に渡り欧米各地に駐在し、帰国後の1936年(昭和11年)10月、工学博士となる。同年9月、北海道に行幸した昭和天皇に帯広市にて「高周波電気現象と其の応用」と題する進講を行った。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)9月、同大学応用電気研究所長、のち1960年(昭和35年)同大工学部長を経て、1962年(昭和37年)退官し、成蹊大学主任教授、1969年(昭和44年)同大工学部長となる。
勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6… 勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6月26日 - 1989年(平成元年)9月3日)は、日本の医師。内科医。国立療養所中部病院長。医学博士。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、1927年(昭和2年)、長崎医科大学卒業、助手。台湾総督府技師、愛知・西尾病院長。1933年(昭和8年)、名古屋帝国大学講師、1934年(昭和9年)、欧米出張。1938年(昭和13年)、勝沼病院長。1947年(昭和22年)4月、国立療養所大府荘長。1966年(昭和41年)4月、国立療養所中部病院長(初代)。1969年(昭和44年)、定年退官。
落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 19… 落合 英二(おちあい えいじ、1898年6月26日 - 1974年11月4日)は、日本の薬学者、薬化学者。東京大学名誉教授。 埼玉県浦和市生まれ。千葉師範学校附属小学校、千葉県立千葉中学校を卒業後、仙台の第二高等学校に入学する。東京帝国大学医学部薬学科卒業。東京帝国大学医学部薬学科薬化学教室第三代教授。アルカロイド、塩素化含窒素複素芳香環化合物について研究、その結果として、多数の新化合物を登場させた。1969年(昭和44年)文化勲章受章。 1928年(昭和3年) 東京大学 薬学博士 学位論文の題は「シノメニンの構造論」。 1898年(明治31年)6月26日 教育家落合初太郎の三男として埼玉県浦和で生誕、母はノブ。
南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1… 南部 彰三(なんぶ しょうぞう、1898年6月26日 - 1981年11月16日)は、日本の俳優である。本名は鴛海 正次(おしうみ まさじ)。旧芸名は南部 章三(読み同じ)、南部 彰(なんぶ あきら)。 1898年(明治31年)6月26日、大分県速見郡日出町に生まれる。 1916年(大正5年)、大分県立杵築中学校(現在の大分県立杵築高等学校)卒業後、県下で代用教員を務め、1919年(大正8年)、歩兵47聯隊に入隊。同年4月、シベリア出兵に従軍し、同年8月に帰還。1921年(大正10年)に除隊後、再び代理教員を務めていたが、1922年(大正11年)4月に上京。陸軍省東京経理部に就職すると共に日本大学商学部予科に入学する。
酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25… 酒井 俊雄(さかい としお、1898年(明治31年)6月25日 - 1982年(昭和57年)8月5日)は、愛知県津島市出身の弁護士。衆議院議員を2期務めた。 愛知県名古屋市東区生まれ。1918年(大正7年)、岡崎師範学校(現・愛知教育大学)を卒業。1929年(昭和4年)中央大学専門部法律科卒業、小学校訓導となる。その後、高等試験司法科試験に合格して、1934年(昭和9年)弁護士となり、税務代理士(現税理士)も務めた。 愛知県臨時社会調査員、同方面委員を務めた。1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に愛知県第2区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙に愛知県第4区から国民協同党所属で出馬して当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23… 伊藤 幟 (いとう のぼり、1898年〈明治31年〉6月23日 - 1963年〈昭和38年〉3月22日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、画家。従五位勲四等。 1898年(明治31年)6月、福島県安達郡本宮町(現:本宮市)に生まれた。福島縣立安積中學校を経て、早稲田大学を卒業。本宮町長や全国町村会長を務めて、馬匹・畜産を盛んにすることに貢献した。1949年(昭和24年)、全国町村長大会に出席した首長が皇居を訪問した際には、町村会会長として昭和天皇に御礼言上する役を担った。 1930年(昭和5年)、福島県美術協会を創設。石井柏亭と親交が深く、美術協会の審査委員長招いて十数年にわたり公募展を開いた。
菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 197… 菊池 勇夫(きくち いさお、1898年6月21日 - 1975年7月13日)は、日本の法学者、九州大学名誉教授、日本学士院会員。 1898年、岩手県遠野で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。卒業後は同大学の副手となった。 1924年、ILO東京支局職員として勤務。1926年より欧米に留学を命じられた。1928年、九州帝国大学助教授に就いた。1929年に教授昇格。1943年から1945年には法文学部長を務めた。 1949年、第9代九州大学総長に就いた。1953年、日本学士院会員に選出された。学界では日本労働法学会の初代代表理事をつとめた。1962年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。
秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1… 秋吉 三郎(あきよし さぶろう、1898年6月21日 - 1982年12月4日)は、日本の高分子化学者。 福岡県出身。1917年福岡県立中学修猷館を経て、1923年九州帝国大学工学部応用化学科を卒業。 商工省大阪工業試験所に入り、技手を経て技師となり、1935年学位を受け、同所の第四部長、第二部長を歴任。第二次世界大戦時には、陸軍兵器行政本部からの委嘱により、「重合「エチレン」蝋状物ノ合成ノ研究」を行っている。 1945年九州帝国大学工学部教授に就任。1951年大阪工業試験所および熊本大学教授も兼務。1956年3月九州大学評議員に選ばれ、1959年7月九州大学工学部長も併任する。 1961年帝人の常務取締役に転じ、開発本部長兼中央研究所所長を務め、1965年1月研究管理室長を委嘱され、1966年11月退任する。
渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年… 渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年〈明治31年〉6月21日 - 1967年〈昭和42年〉2月12日)は、日本の実業家。渋沢栄一の次男で後に廃嫡となる篤二の次男として生まれる。渋沢家の傍系に属しつつ、秩父鉄道、東京製綱、秩父セメント、玉村式索道など祖父・栄一関係の企業に関わり、出版・輸入事業「福本書院」でも活動した。兄に渋沢敬三、弟に智雄。 1898年6月21日、子爵・渋沢栄一の次男篤二と妻・敦子の次男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉にて生まれる。 敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。 1913年、父・篤二が廃嫡となる。
笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月2… 笹本 一雄(ささもと かずお、1898年〈明治31年〉6月20日 - 1964年〈昭和39年〉6月11日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)もしくは邑楽郡館林町(現・館林市)で、警視庁職員・笹本一郎、うらの四男として生まれる。群馬県立館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)を経て明治大学法科で学び、卒業。 内閣調査事務嘱託、軍需省嘱託、商工省事務嘱託などを歴任。その後、朝鮮総督府顧問に就任。帰国して、商工省総務局嘱託、帝国新報社経済部記者となり、東洋電線取締役、東亜窯業取締役などを務めた。また、中小企業経営者を対象として大政翼賛会により組織された新産業連盟の会長に就任した。
山本 善雄(やまもと よしお、1898年(明治31年)6月2… 山本 善雄(やまもと よしお、1898年(明治31年)6月20日 - 1978年(昭和53年)11月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市出身。 旧制山形県立荘内中学校より海軍兵学校第47期入校。山本は海軍大学校甲種課程卒業後は、海軍中央部に在職することが多かったいわゆる赤レンガ組士官であり、太平洋戦争中の軍政の中枢にあった人物である。最後の軍務局長を務めた後、公職追放を経て、海上自衛隊の前身、海上警備隊建設準備委員会(Y委員会)主宰を務めた。
白井 勇(しらい いさみ、1898年(明治31年)6月19日… 白井 勇(しらい いさみ、1898年(明治31年)6月19日 - 1984年(昭和59年)4月12日)は、日本の政治家、参議院議員。 全国食糧検査協会理事長を務めるなど食糧行政の権威として重きを成した。 庄内藩新徴組取扱役・西郷村長だった白井重遠の6男として山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)に生まれる。1917年(大正6年)に山形県立荘内中学校)を卒業し、北海道帝国大学予科を経て東京帝国大学農学部農政経済科に進学。1925年(大正14年)に大学を卒業すると農林省に入省し、仙台米穀事務所長(1933年(昭和8年))・食糧庁検査課長(1945年(昭和20年))で退官する。 1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬、362,293票を得て初当選し左派社会党に入党するが翌年社会党から除名、自由党に入る。
多湖 實夫(たご じつお、1898年(明治31年)6月16日… 多湖 實夫(たご じつお、1898年(明治31年)6月16日 - 1985年(昭和60年)5月11日)は、日本の内務官僚、実業家。官選山梨県知事、学校法人愛知医科大学理事長、ワシントンホテル社長。 三重県員弁郡笠田村(現いなべ市)出身。多湖實の長男として生まれる。愛知県立第一中学校、第八高等学校を卒業。1922年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年11月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し東京府属となる。 以後、内務省社会局勤務、奈良県理事官、内務省社会局事務官・保険部勤務、静岡県書記官・経済部長、第16回国際労働会議出席(1932年ジュネーヴ開催、政府側顧問)、東京府学務部長、宮城県書記官・総務部長、大阪府総務部長などを歴任。
山桝 義寛(やまます よしひろ、1898年(明治31年)6月… 山桝 義寛(やまます よしひろ、1898年(明治31年)6月16日 - 1965年(昭和40年)3月10日)は、日本の養蚕学者である。 鳥取県に生まれ、京都高等蚕業学校(現在の京都工芸繊維大学工芸科学部)に入学する。1921年(大正10年)に卒業後は母校の助教授として活動し、後に教授に昇格した。その後は学校名の改称により京都工芸繊維大学の教授となり、後に京都大学農学部でも養蚕の教鞭を執る。 その傍らでカイコが患う病気予防の消毒やその解毒剤として利用される晒粉の研究に携わった。1945年(昭和20年)には農学博士を取得し、後に同大学の繊維学部長を1952年(昭和27年)の退官まで務める。晩年は日本学術会議の会員を2期務めた。
川本 末治(かわもと すえじ、1898年(明治31年)6月1… 川本 末治(かわもと すえじ、1898年(明治31年)6月16日 - 1983年(昭和58年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県愛知郡、のちの長久手村(長久手町を経て現長久手市)で生まれる。1922年(大正11年)明治大学法学部を卒業した。 実業界では、横浜製糸取締役社長、横浜石材取締役社長、東洋製油工業専務取締役、日本螺旋管工業専務取締役、三進興業専務取締役などを務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙に愛知県第2区から民主自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任。この間、民主自由党庶務部副部長などを務めた。 その後、全国消火弾工業会長、消防団員等公務災害保障等共済基金理事などを務めた。
音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月… 音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月15日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の漆芸家である。本名:芳雄。本姓は木村。 香川県高松市の生まれ。石井磬堂の門下となり、「讃岐彫」と呼ばれる木彫や彫漆を学んだ。その後独立し、玉楮象谷の作風を研究した後にこの作風を模して作成した漆器を多く作成する。その後は東京に移住し、1942年(昭和17年)に開催された第5回文展にて音丸の作品が出品された。 後に自身の作風は現代風を取り入れた玉手箱等、彫漆の作風に新しく取り入れたものにより、1955年(昭和30年)に「彫漆」分野として人間国宝(重要無形文化財)に認定された。その後は多くの門下を輩出し、1982年(昭和57年)に門下の育成によって「公益信託音丸漆芸奨励基金」の創設に携わった。
平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - … 平井 常次郎(ひらい つねじろう、1898年6月13日 - 1989年11月12日)は、日本の実業家。朝日放送元社長。 大阪府大阪市出身。1919年に大阪高等商業学校を卒業。朝日新聞大阪本社で社会部長、編集局次長などを歴任し、1951年に3月朝日放送に移り、専務に就任し、1959年6月に副社長を経て、1968年6月から1971年5月までに社長を、1979年6月から1983年6月までに会長をそれぞれ務めた。1964年に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲二等瑞宝章を受章した。また、大阪日伊協会会長を務めるなど日本とイタリアの親善交流に尽力し、その功績により、1974年にイタリア政府から勲二等イタリア政府功労章を受章した。
7代 野本 吉兵衛(のもと きちべえ、1898年〈明治31年… 7代 野本 吉兵衛(のもと きちべえ、1898年〈明治31年〉6月13日 - 1984年〈昭和59年〉3月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、八幡浜市長。幼名・定敏。 愛媛県西宇和郡八幡浜町須賀之町(現八幡浜市)で、商家・6代野本吉兵衛定一の長男として生まれ、のち7代吉兵衛を襲名した。 1922年高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)卒。東京土地住宅(株)勤務のあと、帰郷し家業に従事し、八幡浜町議、同市助役、同市長、愛媛県方面委員、市翼賛壮年団長、予州銀行監査役、理研木材工業(株)社長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛3区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。
5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治… 5代目 古今亭 今輔(ここんてい いますけ、1898年〈明治31年〉6月12日 - 1976年〈昭和51年〉12月10日)は、群馬県佐波郡境町(現:伊勢崎市)出身の落語家。本名:鈴木 梧郎(旧姓:斎藤、旧名:五郎)。日本芸術協会会長を務めた。出囃子は『野毛山』。実子は曲芸師の鏡味健二郎。俗にいう「お婆さん落語」で売り出し、「お婆さんの今輔」と呼ばれた。 群馬県佐波郡境町の銘仙織元「藤本屋」の斎藤松右太・かんの三男として生まれる。第5子であったことから五郎と名付けられる。母は1904年(明治37年)に死去。自身は太田中学校、陸軍士官学校と進学し、軍人になることを望んでいたが、父が米相場に手を出して失敗したことにより、進学の道は諦めることとなった。
田中 薫(たなか かおる、1898年6月11日 - 1982… 田中 薫(たなか かおる、1898年6月11日 - 1982年9月20日)は、昭和の地理学、経済地理学者。神戸大学名誉教授。子爵。
守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - … 守屋 富次郎(もりや とみじろう、1898年6月10日 - 1974年3月2日)は、日本の航空技術者。東京帝国大学、名古屋帝国大学、旅順工科大学教授、防衛庁技術研究所本部長、日本航空学会(現・日本航空宇宙学会)会長などを務めた。東京大学名誉教授。航空機の翼理論の権威。 岐阜県本巣郡真桑村上真桑に生誕。静岡県立静岡中学校に学ぶ。中学時代は野球部に所属。旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学に入学。新設された同大工学部航空学科の第1期生。1923年3月、卒業論文「Die Tragflügeltheorie.」(翼理論)を提出して卒業。東京帝国大学の講師、助教授を経て、1934年、教授。1938年、万国応用力学会議に日本代表として参加、ヨーロッパの航空事情の調査・研究を行った。
安倍 三郎(あべ さぶろう、1898年6月6日 - 1974… 安倍 三郎(あべ さぶろう、1898年6月6日 - 1974年5月7日)は、日本の心理学者。旧姓は島田、1924年から母方の安倍姓を名乗る。 1898年、岩手県下閉伊郡山田町で生まれた。1929年、卒業論文『二時程比較之研究』を提出して東北大学法文学部心理学科を卒業。 1935年3月、師道高等学校教授に就いた。1939年3月、満州国立建国大学教授に就任。1940年に学位論文『時間意識の実験的研究』を東北帝国大学に提出して文学博士号を取得 (勅令第200号による)。 戦後は1946年8月に引揚帰国する。1947年広島文理科大学・広島高等師範学校教授となるが、間もなく公職追放のため辞職。東北大学教養部教授となり、1962年に定年退官、名誉教授となる。
長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月… 長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月6日 - 1988年(昭和63年)7月22日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、ジャカルタ市長。 東京市本郷区春木町(現・文京区本郷三丁目)に生まれる。1921年(大正10年)3月、東京高等商業学校を卒業し、同年11月、台湾総督府財務局金融課に奉職する。 1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格し、1931年(昭和6年)7月に地方理事官に進み、高雄州知事官房税務課長に発令される。1933年(昭和8年)9月、台中州知事官房税務課長に転じ、1934年(昭和9年)9月、台湾総督府税関事務官・財務局勤務、1935年(昭和10年)9月に東勢郡守を経て、1936年(昭和11年)10月に彰化郡守に就任する。
岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 -… 岡 正雄(おか まさお、1898年(明治31年)6月5日 - 1982年(昭和57年)12月5日)は、日本の民族学者。戦中戦後を通じて日本の民族学・文化人類学を主導した。兄は民族学や考古学、山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄。息子に文化人類学者の岡千曲。
金子 博信(かねこ ひろのぶ、1898年6月5日 - 198… 金子 博信(かねこ ひろのぶ、1898年6月5日 - 1988年8月17日)は、日本の洋画家。 福岡県久留米市出身。1924年に東京美術学校西洋画科を卒業した。安井曾太郎に師事した。卒業後は地元に戻っていたが、同窓の佐伯祐三がフランスで成功すると東京に移住した。 1928年の第17回二科展に初めて出品し、その後も出品を続けた。 1936年に一水会創立後は同会に所属し、1941年に一水会賞を受賞した。後に一水会の会員や常任委員にもなった。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「柔道」という題名の作品を出品している。
坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4… 坂田 重保(さかた しげやす、1898年(明治31年)6月4日 - 1984年(昭和59年)1月6日)は、昭和時代中期~後期の日本の銀行家。親和銀行の頭取を長年務めた。 現在の佐賀県佐賀市諸富町出身。旧制唐津中学校を経てシンガポールにあったアングロ・チャイニーズスクールを卒業後、神戸の鈴木商店に入社。1923年(大正12年)に同社の先輩であった北村徳太郎から招かれ、佐世保商業銀行に移り、為替課長、副支配人を歴任。 1939年9月、佐世保銀行と佐世保商業銀行が合併して、親和銀行が誕生すると、1942年に取締役に選任。常務、専務、副頭取を経て、1960年4月に頭取に就任した。 銀行家には珍しい、豪放磊落で、親分肌の人物であり、北村が政界に転じてからは、46歳の若さで副頭取に就いた坂田が、親和銀行の経営を仕切った。
海野 源蔵(うみの げんぞう、1898年〈明治31年〉6月3… 海野 源蔵(うみの げんぞう、1898年〈明治31年〉6月3日 - 没年不明)は、日本の金融業者、大阪府多額納税者、地主・家主。 大阪府西成郡中津村・海野源太郎の長男。今宮中学校を経て1921年、同志社大学法学部経済科を卒業する。大阪府庁に入り議事課に勤務し、1924年にこれを辞す。金融業、土地家屋賃貸業を営む。 地家主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。1940年、紺綬褒章を下賜される。趣味は囲碁、撞球、浄瑠璃。宗教は真宗。住所は大阪府西成郡中津町下三番、大阪市東淀川区中津浜通4丁目。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2… 河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2日 - 1965年〈昭和40年〉7月8日)は、日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。春秋会(河野派)会長、領袖。 新聞記者を経て1932年に政友会の代議士となり、戦後、自由党結成に参加。自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」 と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を務め、日ソ国交回復交渉及び漁業交渉に尽力した。総理総裁を狙い、1964年、池田首相退陣後の総裁の座を佐藤栄作と争ったが敗れ、翌年急死した。
大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月… 大八木 栄治(おおやぎ えいじ、明治31年(1898年)5月29日 - 昭和37年(1962年)3月19日)は、日本の画家。大山町教育長。 美術教師を務める傍ら画業に励み、日本画、水彩画、油彩画など多くの作品を残した。代表作に、第9回帝展で入選した『枯れたる向日葵』がある。
荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981… 荻野 一(おぎの はじめ、1898年5月28日 - 1981年11月9日)は、昭和期の実業家、警察官。 1924年、関西大学専門部卒業。警察に入り、警察官として勤務し、後に特高警察を経て、太平洋戦争末期に兵庫県警察部の労務係長を辞した。身長180cm、体重95kgの巨体。日本製鉄出入りの運輸会社富島組に入社し常務となる。終戦直後、GHQから、広島県呉市沖の瀬戸内海に堆積していた旧日本陸海軍の砲弾処理作業を請け負い巨額の富を得る。爆弾を2メートル程度の浅瀬に捨て、処理料を得て、再び掘り出して火薬を抜き去り、抜け殻をスクラップとして売り払い二重にもうけた。これを元手に解散寸前の山陽製鋼(現・山陽特殊製鋼)を1000万円で買収、1948年社長に就任した。
打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 -… 打越 顕太郎(うちこし けんたろう、1898年5月26日 - 1962年6月29日)は、日本の教育者。鳥取県鳥取市出身。協同組合短期大学(1973年廃止)の創設者でもある。 宮部一郎 | 打越顕太郎 | 美土路達雄 | 湯河元威 | 江上繁一
堀 真琴(ほり まこと、1898年(明治31年)5月24日 … 堀 真琴(ほり まこと、1898年(明治31年)5月24日 - 1980年(昭和55年)1月16日)は日本の政治学者、政治家。宮城県出身。
清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月2… 清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1989年(平成元年)10月22日)は、日本の法学者。専門は憲法。学位は、法学博士(東北大学)。東北大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。宮沢俊義とともに戦後の憲法学界をリードした。日本学士院会員。美濃部達吉門下。弟子に佐間忠雄、樋口陽一など。
木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5… 木村 吉太郎(きむら きちたろう、1898年(明治31年)5月23日 - 1937年(昭和12年)4月4日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。サッカー選手。 大阪市南区(現在は浪速区)出身。早稲田大学に学ぶ。大阪サッカー倶楽部部長を務め、極東選手権競技大会・明治神宮競技大会に出場した。大阪府会議員に3度、同参事会員に2度選ばれ、大阪市会議員・同参事会員にも選出された。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 また若槻礼次郎立憲民政党総裁秘書も務めた。
一井 保造(いちい やすぞう、1898年5月22日 - 19… 一井 保造(いちい やすぞう、1898年5月22日 - 1985年3月27日)は、日本の実業家。三井船舶社長や、同社会長、日本船主協会会長などを務めた。 兵庫県神戸市で生糸商伊藤商店の三男として生まれる。のち篠山藩士一井家に養子入りする。兵庫県立神戸商業学校(現兵庫県立神戸商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1923年旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業。上田貞次郎ゼミ出身。大学同期に中山伊知郎がいる。 大学卒業後兼松入社。のち三井物産入社。1946年から三井船舶社長を務め、同社を日本郵船とならぶ海運業大手に成長させた。1951年東京水上防火協会初代会長。1954年造船疑獄により逮捕されるが釈放される。
緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20… 緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の小児科医。山王病院名誉院長 曾祖父は緒方洪庵。緒方惟準の二男・銈次郎の長男として大阪府に生まれる。母方の祖父は三浦安。弟は緒方富雄。叔父に緒方章と緒方知三郎。五世祖父に佐藤泰然。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、1924年東京帝国大学医学部卒業。1932年「鐵症の実験的研究」で東京帝大医学博士。1937年東宮侍医となり、今上天皇の幼時まで担当医となる。山王病院院長を経て名誉院長。
片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18… 片倉 衷(かたくら ただし、1898年(明治31年)5月18日 - 1991年(平成3年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍少将。戦後は大平商事会長。 仙台に片倉小太郎陸軍大佐の次男として生まれる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て1917年(大正6年)12月に陸軍士官学校(第31期)に入校。1919年(大正8年)5月、同校を卒業し士官候補生、同年12月に陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第27連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月に歩兵中尉に進級し陸軍大学校(第40期)に入校、1928年(昭和3年)12月、同校を卒業した。1929年(昭和4年)3月に歩兵大尉に進級し、歩兵第27連隊中隊長に補される。
吉野 高善(よしの こうぜん、1898年(明治31年)5月1… 吉野 高善(よしの こうぜん、1898年(明治31年)5月15日 - 1965年(昭和40年)11月4日)は、八重山民政府の政治家で、八重山民政府知事を務めた。沖縄県八重山郡竹富町小浜島出身。 明治31年生まれ。沖縄県立第二中学校を経て台北医学専門学校を卒業する。 その後、昭和2年(1927年)に帰島し、石垣島で医院を開業した。 沖縄戦後は、八重山自治会の副会長に選出され、続いて八重山支庁の衛生部長に就任する。その後、米軍によって八重山民政府の知事に任命される。 1950年の八重山群島知事選挙では、安里積千代候補に敗れた。
能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 19… 能島 武文(のじま たけふみ、1898年5月15日 - 1978年3月10日)は、日本の演劇評論家、劇作家、翻訳家。 大阪府大阪市北区出身。早稲田大学英文科卒。 在学中の1922年(大正11年)市村座脚本部に入り、かたわら「劇と評論」を創刊。同年に戯曲「秋の心」「波紋」を発表。のち「演劇新潮」編集同人となり、劇評・劇論を担当。また第一書房の『近代劇全集』の編集にも従事した。他に「東京小景」「詩人の靴」などの作品がある。 戦後は、主に推理小説などの翻訳などをおこなった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年… 井上 房一郎(いのうえ ふさいちろう、1898年〈明治31年〉5月13日 - 1993年〈平成5年〉7月27日)は、日本の実業家。井上工業社長・会長。 ブルーノ・タウトを招聘しての工芸運動や、群馬交響楽団の創設、群馬音楽センターの建設といった文化活動によっても知られている。 1898年(明治31年)群馬県西群馬郡高崎町新町(現・高崎市八島町)に生まれる。高崎白衣大観音の建立に力を尽くした井上工業社長・井上保三郎の長男。母は戸ウ(こう)。実母は1904年(明治37年)に死去した。 高崎市立南尋常小学校、旧制高崎中学校を経て、1916年(大正5年)に早稲田大学へ進学する。同時に川合玉堂の塾に通い、山本鼎・北原白秋・片上伸らの知遇を得る。
松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月… 松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月13日 - 1981年〈昭和56年〉2月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者、思想家。文学博士。浄土宗の僧籍。 戦前はボン大学教授や報知新聞論説委員などを務め、戦後は日本科学振興財団理事長、芝中学校・高等学校理事長・校長、淑徳短期大学(現淑徳大学短期大学部)教授、大正大学理事長などを歴任した。 1898年、広島市に生まれる。浄土宗内地研究生となった後、1921年〈大正10年〉から1927年〈昭和2年〉にかけて仏教学者で東京帝国大学文学部教授の高楠順次郎の助手となり、「大正新脩大蔵経」刊行事業に従事。1927年〈昭和2年〉からセイロン島で南方仏教を研究した後、ドイツのボン大学に入学。
西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - … 西下 経一(にしした きょういち、1898年5月10日 - 1964年1月17日)は、日本の国文学者、東京教育大学名誉教授。旧姓は岡村。 岡山県西北条郡津山町(現・津山市)出身。1922年東京高等師範学校国漢科卒業後、佐賀中学校教諭。東京帝国大学国文科選科を経て、1927年に本科卒。東大国文学研究室副手として源氏物語などの書誌研究を行う。 第六高等学校教授を経て、1953年「古今集の伝本の研究」で東京大学より文学博士の学位を取得。戦後は岡山大学教授、東京教育大学教授、上智大学教授。平安朝文学、特に古今集の和歌を専門とする。蔵書は没後に国文学研究資料館に収蔵された。
西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5… 西村 彰一(にしむら しょういち、1898年(明治31年)5月8日)- 1958年(昭和33年)11月24日)は、日本の農林官僚、教育者、政治家。富山県知事、大東文化大学教授、衆議院議員。旧姓・永井。 長野県上水内郡古牧村平林(現長野市)出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、松本高等学校理科を経て1923年、東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業し、翌1924年、同大法学部政治学科を卒業。農林省に入り農林属となる。 以後、農林事務官、農林書記官、大阪営林局長、農林省山林局長などを歴任。1944年2月、富山県知事に就任し、同年7月まで在任。農商省農政局長に移り、さらに馬政局長官、農林省開拓局長を務めた。
町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 197… 町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 1971年1月16日)は、日本の法学者。専門は西洋法制史。一橋大学名誉教授。
岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日… 岡本 茂(おかもと しげる、1898年〈明治31年〉5月7日 – 1980年〈昭和55年〉9月30日)は、日本の内務官僚、政治家。山口県知事(官選第27代)、富山県知事(官選第31代)、衆議院議員(4期)。旧姓は小野。 奈良県出身。小野は奈の三男として生まれ、岡本佐七の養子となる。1924年、京都帝国大学法学部政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。大学にさらに一年間在学し、1925年に法学部法律学科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 1927年、島根県に移り、会計、学務、庶務の各課長を務める。以後、香川県警察部・新潟県警察部の各特別高等警察課長、満洲国国務院民政部総務科長、内務省社会局事務官、滋賀県書記官・警察部長、警視庁衛生部長、同保安部長、内務省計画局都市計画課長、同地方局振興課長、大阪府書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。
永野 若松(ながの わかまつ、1898年(明治31年)5月7… 永野 若松(ながの わかまつ、1898年(明治31年)5月7日 - 1977年(昭和52年)3月30日 )は、日本の内務官僚。勲二等瑞宝章。福井県知事などを歴任し、特に原爆被災時の(官選)長崎県知事として知られる。 福岡県北九州市小倉区生まれ。東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、同大学法学部に編入し卒業後、内務省に入省。厚生省労政課長、警視庁刑事部長、同特高部長、内務省保安部長、福井県知事、東海地方協議会参事官、内務省防空総本部総務局長を経て1945年4月21日、長崎県知事に任命された。 同年8月8日夕方、広島市への原子爆弾投下後に被災状況を実見し、長崎に帰った西岡竹次郎代議士から広島の惨状を聞いた永野は、警察との協議で現時点で無傷である長崎にも原子爆弾が投下される可能性が高いとの結論に至った。
内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7… 内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7日 - 1972年(昭和47年))は、昭和初期に活躍した日本の歌手、舞台演出家。東京府(現:東京都)出身。 浅草オペラ時代には宇津美 清(うつみ きよし)の名で知られていた。妻は同じく歌手の松島詩子。 東京府吾嬬町(後に東京市向島区東)で履物商を営む内海喜太郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校卒業後、浅草オペラで活躍した。1917年(大正6年)、河合澄子、天野喜久代、千賀美寿一らとともに佐々紅華の東京歌劇座に参加している。 レコードは宇津美清の時代からニッポノホンでお伽歌劇などを吹き込んでいるが、昭和期にはオリエントおよびニットーレコードでジャズソングを数多く録音した。
弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年… 弘 好文(ひろ よしふみ、1898年5月6日 - 1958年6月19日)は昭和期の日本の医学者。 熊本県立玉名中学校(1917年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。1926年から1929年まで東京帝国大学大学院に在学。1930年に医学博士を取得。 札幌市立病院の小児科医となり、田坂重元とともに風疹ウイルスを日本で初めて発見した。また、日本における臨床ウィルス学の先駆者と呼ばれている[誰によって?]。1934年から1936年まで欧米に留学し、主にベルリン大学小児科教室・病理科教室で研究に当たった。1947年熊本医科大学医学部教授及び熊本医科大学附属病院院長、1950年北海道大学医学部教授となった。
安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月… 安藤 孝三(あんどう こうぞう、1898年(明治31年)5月3日 - 1985年(昭和60年)2月10日)は、日本の政治家、操縦士。衆議院議員(2期)。 愛知県知多郡岡田村(岡田町、知多町を経て現知多市)出身。1916年、名古屋港上空で米飛行士アート・スミスの曲芸飛行を見て航空界を志す。陸軍所沢飛行第四大隊に入り、一等飛行機操縦士となる。陸軍を除隊後、知多郡八幡村(現・知多市)に水上飛行場を開設する。その後、名古屋二見間の定期航空路や和歌山新宮間の航空路を開設する。その一方で1924年に安藤飛行機研究所を開き、所長となり、操縦士、機関士の育成などを行った。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では旧愛知2区(戦前)から無所属で立候補して初当選。