小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日… 小倉 静三(おぐら せいぞう、1898年-1987年)は、日本の洋画家。谷口午二主宰の金羊会の結成メンバー。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。在学時期から大牟礼南島の指導を受けたと推定されている。 旧制中学卒業後は東京美術学校や川端画学校で学び、藤島武二、岡田三郎助らに師事したといわれているが定かではない。鹿児島に帰郷後は山下兼秀のすすめで、大嵩双山とともに谷口午二に師事し、金羊会を結成。 南國美術展の創設にも関わったとされる。その後、上京し、松坂屋宣伝部などに勤め、光風会展や日展に出品。また、示現会に所属。 優れた描写力を生かして戦争画も多く残した。
中原 靖夫(なかはら やすお、1898年 - 1970年)は… 中原 靖夫(なかはら やすお、1898年 - 1970年)は、日本の建築技師。大阪府建築課元技師。名古屋建築士補導所・第二職業訓練所元所長。愛知県総合建設共同高等訓練所元講師。 関西工学専修学校(現:大阪工業大学)建築科卒業。大阪府建築課に入庁、技師となる。戦時下で外地官庁技師の任務を経て、終戦により内地に引き揚げた後、名古屋建築士補導所・第二職業訓練所、岡崎職業訓練所の各所長を歴任。愛知県広域で名古屋・安城・刈谷・豊田の各建設職業訓練所講師を務める。また、愛知県総合建設共同高等訓練所講師、三重県上野建設訓練所講師も務めた。特に、これら東海地方の職業教育の功により勲五等瑞宝章を受章。
向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年)… 向井 參之充(むかい さんのじゅう、1898年(明治31年) - 1963年(昭和38年))は、日本の化学者。熊本大学名誉教授。学位は工学博士。専門は応用化学。 本籍地は佐賀県。第八高等学校 (旧制)、九州帝国大学工学部を卒業ののち、九州帝国大学工学部助教授。京城帝国大学教授を経て、戦後は熊本大学教授。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
福嶋 俊翁(ふくしま しゅんおう、1898年 - 1981年… 福嶋 俊翁(ふくしま しゅんおう、1898年 - 1981年)は、禅学者、花園大学名誉教授。 京都帝国大学文学部哲学科卒。東福寺塔頭願成寺住職。花園大学教授、1969年定年、名誉教授。
宮岡 謙二(みやおか けんじ、1898年-1978年)は、日… 宮岡 謙二(みやおか けんじ、1898年-1978年)は、日本の経営者兼作家。元別府亀の井ホテルの社長。 ホテル経営の傍ら執筆。 子は6人。その内の一人は、トリニトロンカラーテレビ開発元ソニー常務の宮岡千里で、甥は元日本郵船社長の宮岡公夫。 1922年 慶應義塾大学政治科卒業大阪商船入社。以後、上海、ブエノスアイレスなどに勤務した。 1946年 大阪商船退職。別府亀の井ホテル入社。同ホテル北、不老町の社宅に住む。その間、国際ロータリー・クラブの発展につくし、また町内の役員もやり近所の住民からも好かれる。 1954年 1954年4月『死面列伝・旅芸人始末書:異国遍路』を執筆。この本はその後、『死面列伝・旅芸人始末書:異国遍路.明治会見記』宮岡謙二筆. 樋口配天著クレス出版2007年9月[復刻版]日本人物詩選集/記田順一郎監修・解説 第8巻に納められる。
平野 ミドリ(ひらの ミドリ、1898年 - 1983年)は… 平野 ミドリ(ひらの ミドリ、1898年 - 1983年)は、日本の看護師、公衆衛生看護学者。ボストンで公衆衛生看護学を学び、ミス・ヌノと共に聖路加国際病院公衆衛生部門を創設した。「日本の保健婦の母」と呼ばれる。「平野 みどり」とも。 父が英語学者の斎藤秀三郎と母・とらの三女として生まれる。平野真三の妻。兄はチェリストで指揮者の斎藤秀雄。父の影響で幼少期より、語学や音楽などに触れていた。 双葉女学校専攻科、聖心女子学院語学科卒業。ボストンへと留学をし、公衆衛生看護学を学び経験を積んだ。 1927年、聖路加国際病院社会事業部へ入職をした。 1931年には、ロックフェラー財団フェローとしてコロンビア大学看護科へと再び留学。
柏倉 俊三(かしわくら しゅんぞう、1898年 - 1996… 柏倉 俊三(かしわくら しゅんぞう、1898年 - 1996年)は、日本の英文学者。 山形県生まれ。1927年東京帝国大学英文科卒。北海道大学助教授、教授、1959年定年退官、名誉教授、相模女子大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
秋丸 次朗(あきまる じろう、1898年 - 1992年)は… 秋丸 次朗(あきまる じろう、1898年 - 1992年)は、日本の陸軍軍人(主計)、政治家。軍人としての最終階級は陸軍主計大佐。太平洋戦争開戦前の1940年(昭和15年)に陸軍省内に設置された「秋丸機関」(正式名称:陸軍省戦争経済研究班)の班長を務め、日本とアメリカをはじめとする主要国の経済力を比較分析したことで知られる。 宮崎県飯野村(現・えびの市)出身。 陸軍経理学校を首席で卒業後、東京帝国大学経済学部に派遣され経済学を学んだ。満州国では関東軍参謀部付として経済建設に携わり、満洲産業開発五カ年計画などに参画した。 1939年(昭和14年)9月、ノモンハン事件や第二次世界大戦勃発を受けて帰国。
篠崎 平馬(しのざき へいま、1898年 - 1981年)は… 篠崎 平馬(しのざき へいま、1898年 - 1981年)は、日本の化学工学者。元山形大学学長。 茨城県生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を経て、1923年東北帝国大学工学部化学工学科卒業。同年助手。1927年商工省東京工業試験所入所。1928年理学博士。1933年保土谷曹達入社。保土谷曹達郡山工場長を経て、1952年山形大学工学部応用化学科教授。1955年山形大学工学部長。1963年山形大学学長。山形大学工学部に化学工学科を設立し、退官後は、山形大学名誉教授の称号を受け、日本大学工学部工業化学科教授となった。1981年郡山市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田口 正治(たぐち まさはる、1898年(明治31年) - … 田口 正治(たぐち まさはる、1898年(明治31年) - 1978年(昭和53年))は、日本思想史学者、大分大学名誉教授。 1933年(昭和8年)広島文理科大学漢文学専攻卒業。大分師範学校教授、大分大学教授。1961年(昭和36年)定年退官、名誉教授。1962年(昭和37年)「玄語稿本之研究」で九州大学文学博士。三浦梅園を研究、梅園学会会長を務めた。
中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1898年 - 1975年)… 中村 幸彦(なかむら ゆきひこ、1898年 - 1975年)は、日本の化学者・農学者。農学博士(北海道帝國大學)。専門は、生物化学。北海道大学名誉教授・元北海学園大学教授。市立名寄短期大学元学長。北海道出身。 1922年北海道帝国大学農学部農芸化学科卒。同農学部助手を経て、1926年同農学部助教授(生物化学を担当)。1935年ドイツ・アメリカ合衆国に生物化学研究のため留学。 1942年北海道帝国大学農学部教授。1962年北海道大学停年退官。同名誉教授。北海学園大学教養部教授(物質科学・物質環境科学を担当)。1969年市立名寄短期大学3代学長に就任。1973年市立名寄短期大学学長退任。 1942年 北海道帝国大学より農学博士の学位を取得、論文の題は「澱粉より分離せられる新複糖類及びその構造並びにそれより導かれる澱粉分子の構成に対する考察」。
楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中… 楊 建平(よう けんぺい、1898年 - 1949年)は、中国の政治家、官僚、外交官、軍人、実業家、教育者。広東省中央銀行副総裁、上海商務局長、潮山税関監督署長、第11軍後方部大佐局長、国民革命軍少将、復旦大学教授、政法大学教授、農民工民主党創設者の一人。 1898年、広東省大埔県百侯鎮侯南村に旧名、楊金坤として生まれる。広東高等師範学校を経て、1925年、立教大学文学部を卒業(大学令による第1回卒業生)。 同年、中国に帰国後、復旦大学、光華大學(中国語版)、滬江大学(中国語版)、政法大学で講師、教授を歴任。 その後、上海商務局長となり、1928年、第11軍司令官陳銘樞中佐の秘書、第11軍後方部大佐局長を務める。
田中 泰阿弥(たなか たいあみ、1898年 - 1978年)… 田中 泰阿弥(たなか たいあみ、1898年 - 1978年)は、日本の作庭家、庭師。新潟県柏崎市出身。孤高の「庭匠」とよばれた。本名・田中泰治。 1929年、京都慈照寺(銀閣寺)「洗月泉」滝の石組を発見、新聞報道される。この発掘以来、慈照寺出入りの庭師となる。1931年には「相君泉」の石組、紅葉御殿及び西指庵に通ずる路の他、足利義政の築造とされるお茶井戸石組や約50坪の茶席跡と庭園を龍居松之助らと発掘。こうした慈照寺における一連の発掘修復活動によって、その名を知られるようになっていく。 茶道を長安院の住職・多田宗夢に師事。日本庭園協会新潟県支部に田中泰阿弥研究会がある。
晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 198… 晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 1980年)は、教育者・柔道家。岩手県久慈市出身。 江戸時代から大正期まで久慈町の豪商として栄えた橘屋の下かまど(分家)に生まれる。岩手師範学校卒業後盛岡市内の小学校で教鞭を執り、大日本武徳会武道専門学校に入学。岩手県の許可が下りず退学し教職に戻った。岩手県久慈地域の小学校長を歴任し、1946年、戦中翼賛壮年団長だったことから公職追放となった。 追放解除後は整骨院を久慈市と岩泉町で経営する傍ら、久慈町消防団長、久慈市教育委員長、久慈市消防署長を始め、数多くの役職を歴任し、戦前・戦中・戦後を通し、旧久慈町、久慈市の指導的立場にあった。 特筆すべきは、1933年に南部桐を使った「晴山式新案骨格模型」を作成し、当時の石黒英彦岩手県知事から激賞された。
青田五良(あおたごろう、1898年-1935年)は、日本の染… 青田五良(あおたごろう、1898年-1935年)は、日本の染織家。兵庫県神戸市生まれ。 丹波下黒田村で染織を学び、同志社中学校の教諭を務めた。1927年、黒田辰秋等と上賀茂民芸協団を設立。民藝運動の工芸理論に基づく染織を目指す。1929年の上賀茂民芸協団解散後、1935年に結核で亡くなった。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、布や繊維、それを素材とする製品に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:ファッション/P:技術と産業)。
榎本 千花俊(えのもと ちかとし、1898年‐1973年)は… 榎本 千花俊(えのもと ちかとし、1898年‐1973年)は、大正時代から昭和時代の日本画家。 鏑木清方の門人。1898年、東京赤坂に生まれる。本名は親智(ちかとし)。千花俊と号した。18歳の時、1916年から清方に師事している。この頃、清方は本郷龍岡町に住んでおり、先輩に1913年入門の寺島紫明、山川秀峰がいた。まず1918年6月に上野公園美術学校倶楽部にて開催された第4回郷土会展に「幻」を、1920年3月に上野松坂屋にて開催の第5回郷土会展に「おしろい」、「ウンスン加留多」を出品している。清方門下らによる郷土会展においては、この後、1923年3月の日本橋三越にて開催の第8回展に「戻駕籠の人形」、「梅川」を、1924年3月の第9回展(上野松坂屋)に「羽子板と羽根」、「京都所見(嵐山 稲荷山)」を、1925年5月の第10回展(銀座松坂屋)に「鬼童丸」、「求女二図」、「油壷」、「花札」、「おはじき」を、1926年5月の第11回展(日本橋三越)に「愛宕山風景」を、1927年5月の第12回展(日本橋三越)に「本牧所見」を、1928年5月の第13回展(日本橋三越)に「公園二題(公園二題・公園)」を、1929年5月の第14回展(上野松坂屋)に「スイングの練習(スイング)」を、1930年6月の第15回展(上野松坂屋)に「錦魚」を出品したことが知られている。
萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮… 萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮城県出身のエンジニアであり兵器開発者。萱場工業を創設した。後に萱場 資郎と改名。 宮城県宮城郡七郷村にて1898年(明治31年)4月1日、萱場富次郎の二男として生まれる。生家は平家の末裔と言われる素封家で、祖父の利兵衛は小学校長及び村長を務めた。四郎は東北学院中等部を1916年(大正5年)3月に卒業し、早稲田大学理工科に進学。1919年(大正8年)11月に萱場発明研究所を東京市芝区日之出町に開設する。同年大学を中退。1921年(大正10年)に海軍艦政本部の嘱託となる。1923年(大正12年)関東大震災で被災したため発明研究所を閉鎖したが、1927年(昭和2年)1月に芝区西応寺町で新たに萱場製作所を創業。
和田 晋(わだ しん、1898年〈明治31年〉 - 1982… 和田 晋(わだ しん、1898年〈明治31年〉 - 1982年〈昭和57年〉9月17日)は、日本の剣道家。段位は範士九段(全日本剣道連盟)。一刀流溝口派剣術の継承者。 旧会津藩士・和田又四郎の子として福島県会津若松市に生まれる。祖父・井深宅右衛門は戊辰戦争の際、切腹前の萱野長修から箸で一刀流溝口派を伝授された。明治維新後、井深から又四郎に、又四郎から晋に受け継がれた。 1919年(大正7年)、東京高等師範学校に入学し、高野佐三郎に師事。卒業後、石川県師範学校、金沢第四高校、府立第七中学校、攻玉社中学校、若松商業高校、会津短期大学などで剣道を指導した。 晋は他言他見無用の掟を守り、一刀流溝口派を秘密にしていたが、自分が死去すれば貴重な形が失われてしまうため公開した。
海老原 敬吉(えびはら けいきち、1898年 - 1972年… 海老原 敬吉(えびはら けいきち、1898年 - 1972年6月8日)は、栃木県大田原市生まれ。理化学研究所・主任研究員、東京工業大学教授、第28期日本機械学会会長を歴任。工学博士でもある。 高性能なピストンリングを大量に製造する方法「ピン止め加工」を確立し、理化学興業、後の株式会社リケンの技術的基盤を作った。
金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年また… 金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年または1900年10月12日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字表記は金鍾先とも。日本名は金田 国本(かねだ くにもと)。 現在のソウル特別市鐘路区または全羅南道求礼郡出身。求礼公立普通学校、東京正則英語学校中等科、日本大学政経科卒。1926年に新設の朝鮮殖産信託会社副社長となり、1930年代には現金80万ウォン以上を持つ資産家かつ全羅道の大地主であり、咸鏡南道の安辺郡に鉱山も所有していた。教育にも積極的に関与し、1927年から京城の往十里に旺新青年会で経営する旺新学院を支援し、1929年に私立旺新学院の院長を務め、大金を寄付して校舎を新築した。
加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年) - 1… 加賀 一郎(かが いちろう、1898年(明治31年) - 1946年(昭和21年)11月5日)は、日本の陸上競技選手(短距離走)、陸上競技指導者。 父は衆議院議員も務めた加賀卯之吉で、松竹常務を務めた加賀二郎は実弟、女優の加賀まりこは姪(弟の娘)にあたる。 加賀卯之吉の長男として生まれる。生母は大阪府人・山田ひさよで(庶子にあたる)、大阪府で生まれたとされる。 兵庫県立伊丹中学校の創立30周年記念誌(1932年)には「本校運動部の生める選手」とある。1923年の雑誌の読者質問欄への回答にも出身中学は「伊丹中」と記載されている。公式記録に残っていない旧制伊丹中学校野球部の選手を取り上げた神戸新聞の記事では、加賀は野球部での先輩だったと記された。
神田 清雄(かんだ きよお、1898年または1899年 - … 神田 清雄(かんだ きよお、1898年または1899年 - 1970年5月9日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。
田中 誠二(たなか せいじ、1898年 - 1994年)は、… 田中 誠二(たなか せいじ、1898年 - 1994年)は、日本の法学者。専門は商法。一橋大学名誉教授、法学博士。1981年12月12日から1994年まで日本学士院会員。
伊藤 滋(いとう しげる、1898年 - 1971年7月4日… 伊藤 滋(いとう しげる、1898年 - 1971年7月4日)は、日本の建築家。鉄道省に所属し大正から昭和にかけて鉄道関連の建築諸施設を手がける。旧国鉄の駅舎建築を主導、駅の近代化と民衆駅方式を提唱。鉄道省建築課長、日本建築学会会長を歴任。建築生産の近代化を推奨し建築経済分野の基礎を築く。工学博士。東京都出身。 戦後池袋駅をはじめ多くの民衆駅の企画·設計に関係し、最後に鉄道会館を創立して経営者としての業績でもよく知られ、まとめ役としての能力は特筆すべきものがあったという。戦時体制で伊藤を中心に大村巳代治らとが先ず最初の発起人となって「建築新体制促進同志会」なるものの結成を提唱した時、伊藤の説得力の結果この運動はまず各団体統合をめざすこととなり、建築学会、当時の日本建築士会,大阪の日本建築協会への働きかけとなり、会員は少なかったが堀越三郎会長をはじめ、新体制について熱心に研究していた士会の方々と頻繁に議論をたたかわす。
西尾 滋(にしお しげる、1898年 - 1980年7月6日… 西尾 滋(にしお しげる、1898年 - 1980年7月6日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。 旧制暁星中学校・第一高等学校を経て、1922年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業、ただちに同学部講師に就任。同時に理学部地質学科大学院に2年間在籍し、教授の加藤武夫や助教授の坪井誠太郎の訓育を受け、また助手であった鈴木醇や坪谷幸六の知遇を得る。1924年に助教授に昇進し、鉱山学科において当時の教授であった平林武を補佐し,鉱物学・地質学・鉱山学などの実習を担当する。 1940年、東京帝国大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「別子鉱山含銅黄鉄鉱ノ研究」。同年6月より、文部省在外研究員としてアメリカ合衆国のカリフォルニア大学に留学するも、1941年11月、日米関係の悪化により派遣された引き揚げ船である龍田丸に乗船して帰国。
山田 芳太郎(やまだ ほうたろう、1898年 - 1945年… 山田 芳太郎(やまだ ほうたろう、1898年 - 1945年4月1日)は、外務官僚。外務省調査局長などを務めた。 広島県出身。旧制修道中学校(現:修道中学校・高等学校)から東京帝国大学法学部に進み、1922年(大正11年)大学在学中に文官高等試験外交科に合格。翌年大学を退学し外務省に入省、広東官補に着任。その後在厦門領事、在アメリカ大使館一等書記官などを務めた。太平洋戦争末期の1945年、外務省調査局長として東南アジアへの救援物資配送の使節団(団長大東亜省次官竹内新平)に加わり、サイゴンで南方軍総司令官と、バンコクでタイのシンシナ外相、アパイウォン首相と会談。4月1日シンガポールから帰任の途中、台湾海峡において、病院船扱いの安導権をアメリカ政府によって保証されていた乗船阿波丸が米国潜水艦クイーンフィッシュによる国際法違反の雷撃によって沈没(阿波丸沈没事件)し在職中に逝去。
崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年また… 崔 昌燮(チェ・チャンソプ、朝鮮語: 최창섭、1898年または1899年4月29日 - 1979年11月30日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国のジャーナリスト、政治家。制憲・第3・4代韓国国会議員。 慶尚南道陜川郡出身。釜山商業(高等)学校、日本大学社会学科卒。東亜日報・朝鮮日報で記者を8年間務めた後、治安維持会慶尚南道総本部治安部長、独促国民会陜川郡支部宣伝部長、自由党陜川郡党委員長・中央委員、第3代国会大邱毎日新聞テロ事件真相調査委員会委員長を務めた。 しかし、第4代国会議員のとき、隣の陜川郡甲選挙区選出の同じ自由党の兪鳳淳議員が滄浪号ハイジャック事件当時に拉北されて、その後また韓国に帰還したスパイだと誣告したため、2年の有期刑を言い渡されて投獄された。
山下 博章(やました ひろあき、1898年 ‐ 1943年1… 山下 博章(やました ひろあき、1898年 ‐ 1943年12月5日)は、弁護士、法学者。日本大学教授を務めた。岡山県生まれ。1918年日本大学法律科卒。1921年から1924年までドイツ留学し、その後日本大学教授。息子は中国哲学者・山下龍二。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
氏家 寿子(うじいえ ひさこ、1898年 - 1985年)は… 氏家 寿子(うじいえ ひさこ、1898年 - 1985年)は東京出身の教育者であり家政学者。日本女子大学教授や日本家政学会会長を務めた。勲三等瑞宝章。 旧尾張藩士の家系。寿子は野呂景武の娘として、1898年(明治31年)2月7日に東京の深川区木場で生まれる。三姉妹の長女。小学一年生の途中で青山高樹町に越した為、明治小学校から青山師範学校附属小学校へ試験を受け編入。東京府立第三高等女学校を経て日本女子大学師範家政科に入学し、井上秀の教えを受けた。1919年(大正8年)に卒業するとそのまま同大で教職に就き、1966年(昭和31年)に定年退職するまでに家政学部教授、家政学部長、評議員などを歴任した。その間、氏家隆武と結婚。
牧野 政信(まきの まさのぶ、1898年 - 1948年3月… 牧野 政信(まきの まさのぶ、1898年 - 1948年3月9日)は日本の柔道家(講道館8段)、政治家。 秋田県山本郡浜口村の出身で講道館入門は1913年。1924年に明治大学政治経済科を卒業すると、設立されたばかりの旧制弘前高等学校(現・弘前大学)にて講師を約1年ほど務めた。 その後東京に戻ってからは職らしい職には就かず、柔道の稽古に明け暮れる毎日に。1930年に第1回全日本選士権大会が開催されると牧野は一般壮年後期の部に第2区(東京)代表で出場し、福岡の島井安之助5段に次ぐ準優勝という成績を残した。1931年に母校・明治大学の選手を引率して渡米しカリフォルニア州とハワイ州で柔道を紹介し、1937年の満州遠征には理事を務める東京学生連合会の監督として参加。
久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月… 久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月1日)は、日本の音楽家・音楽評論家、書画骨董の研究者、鑑識家。 1898年(明治31年)、北海道旭川市の智山派寺院に生まれ、智山勧学院に入学、平田元吉や西田幾太郎の講義から影響を受けた。6歳から仏典・漢籍を父に仕込まれた為、12歳にして伝法灌頂を授かる。中学1年生からはヴァイオリンを習い、川島栄三郎より本格的に稽古を受けてヴァイオリニスト・作曲家としての知名度を上げ、京都基督教青年会音楽学校のヴァイオリン科主任教師となる。 1923年(大正12年)夏に過労から喀血して演奏・作曲の一線から身を引き、門下育成・執筆活動へと転向する。京都帝国大学内京都文学会発行の『芸文』へ「ベートーヴェンとスザンヌ」「未来派及び表現派の絵画の陥れる本質的誤謬を指摘して絵画の本質に及ぶ」の発表を契機に、『音楽新潮』へ音楽の批評・解説を執筆する。
田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年1… 田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年10月9日)は、日本の柔道家。 明治31年群馬県安中市生まれ。日本柔道選士権大会 第六回3位。第八回準優勝、講道館6段(財団法人講道館 記録資料より)。県立高崎高等学校など、広く後進の育成にあたり、篠原秀吉らと共に群馬県柔道界を牽引した。最終段位は講道館8段。 赤川徳次郎(六段/東京)− 田中良三(六段/群馬) この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P柔道/PJ柔道)。
岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 19… 岡戸 武平(おかど ぶへい、1897年12月31日 - 1986年8月31日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家。 愛知県知多郡横須賀町(現・東海市)生まれ。小学校教員を経て、『名古屋新聞』『大阪時事新報』に勤務。小酒井不木の助手として『闘病術』の執筆を手助けする。 後に上京して博文館に入社。『文藝倶楽部』の最後の編集主任となる。1932年の同誌廃刊と同時に退社し、作家活動に入る。 1935年に第1回直木賞の候補となる。 太平洋戦争下の1944年に愛知県有松町(現・名古屋市)へ疎開し、そのまま名古屋に定住する。 戦後は東海地方の企業史執筆が多く、1960年に愛知県文化功労者。 『大阪時事新報』時代には江戸川乱歩と同僚であり、乱歩名義で発表された『蠢く触手』の代作を行ったことがある。
手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27… 山田 穣(やまだ みのる、1897年(明治30年)12月27日 - 1985年(昭和60年)12月4日)は、昭和時代の日本の鉱山学者。採鉱学の権威。主な研究分野は炭坑内のガス爆発や炭塵爆発。九州大学名誉教授。 現在の愛媛県伊予市にて生まれる。1922年(大正11年)九州帝国大学工学部採鉱学科を卒業。1939年(昭和14年)工学博士。同年、母校の九州帝国大学の教授となり、生産科学研究所長、工学部長を歴任。1953年(昭和28年)11月から1961年(昭和36年)11月まで同大学総長を、退官後の1967年(昭和42年)4月から1978年(昭和53年)3月まで九州共立大学の学長を務めた。ほか、1963年(昭和38年)11月に起きた三井三池三川炭鉱炭塵爆発の政府技術調査団団長を務めた。
上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12… 海野 十三(うんの じゅうざ)、1897年(明治30年)12月26日 - 1949年(昭和24年)5月17日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、漫画家、科学解説家。「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる。本名は佐野 昌一(さの しょういち)。 徳島市徳島本町に生まれ、幼少期は安宅町の祖父の家で育つ。徳島市立福島小学校3年生の時、神戸に移住。神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業後、早稲田大学理工科で電気工学を専攻。逓信省電務局電気試験所に勤務しながら、機関紙などに短編探偵小説を発表。 1928年(昭和3年)、雑誌『新青年』から依頼を受け、探偵小説「電気風呂の怪死事件」を発表して本格的文壇デビュー。
岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉1… 岸田 正次郎(きしだ まさじろう、1897年〈明治30年〉12月26日 – 1979年〈昭和54年〉3月29日)は、日本の実業家。 元衆議院議員岸田正記の弟。元衆議院議員岸田文武の叔父。衆議院議員・第100代内閣総理大臣岸田文雄の大叔父。 広島県出身。父は岸田幾太郎。大正10年(1921年)早稲田大学政経科、大正14年(1925年)ハーバード大学各卒業。英独に留学、昭和元年(1926年)帰朝、内務省嘱託、富士瓦斯紡績に勤務、昭和9年(1934年)幾久屋百貨店専務。 宗教は真宗。趣味は庭球、碁。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月2… 大久保 琴(おおくぼ こと、1897年〈明治30年〉12月24日 - 2013年〈平成25年〉1月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。神奈川県川崎市在住していた長寿の女性。2012年(平成24年)12月17日から死去するまで存命中の女性長寿世界一となっていた。 2011年12月2日に佐賀県在住の長谷川チヨノが死去したことに伴い、女性長寿日本一となる。 2012年12月17日、ディーナ・マンフレディーニが死去したことに伴い、114歳359日で女性長寿世界一となる。 2013年1月12日午前12時過ぎ、肺炎のため川崎市高津区の有料老人ホームで死去。7002115000000000000♠115歳19日没。
金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月… 金子 武麿(かねこ たけまろ、1897年〈明治30年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉1月14日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階は従四位。勲等は勲六等。 官僚・政治家、金子堅太郎の二男として生まれる。父の死去に伴い1942年(昭和17年)6月1日、伯爵を襲爵した。 1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)内閣属となる。以後、加藤友三郎内閣・第2次山本内閣・清浦内閣の内閣総理大臣秘書官、田中義一内閣内閣総理大臣秘書官兼外務大臣秘書官、齋藤内閣・中島久万吉商工大臣秘書官、大礼使事務官などを歴任。 実業界では、電気化学工業取締役、台湾電化取締役、日本塗紙工業取締役、東北振興化学監査役、カーバイト共販監査役、東京都商工経済会評議員、日本硫硝酸統制社長などを務めた。
呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 197… 呉 茂一(くれ しげいち、1897年12月20日 - 1977年12月28日)は、日本の西洋古典学者で古代ギリシア・ラテン文学者。 1897年、東京帝国大学医科大学教授(精神病学講座)を務めた呉秀三・みな夫妻の長男として東京市本郷区に生まれた。第一高等学校医科をへて、1919年東京帝国大学医学部に入学したが、1922年に文学部英文科へ転じた。有島武郎を崇敬し、生前しばしば訪ねており、また父と同じく精神科医の歌人斎藤茂吉とも終生交流があった。 1925年に大学卒業した後、東京帝国大学文学部言語学科副手に採用された。1926年にヨーロッパ留学し、古代ギリシア文学・ラテン文学を修めた。1929年に帰国し、文学部講師に昇格。
神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 … 神田 久太郎(かんだ きゅうたろう、1897年12月20日 - 1977年6月15日)は、日本の柔道家。講道館9段。 柔術を修行して肩車や双手刈といった技に長じ戦前の全日本選士権大会や明治神宮競技大会柔道競技で優勝、戦後も50歳で全日本選手権大会に出場するなど永く選手として活動した、昭和初期を代表する柔道家の1人である。警視庁柔道師範や福島県警柔道師範を務めたほか、1964年の東京五輪柔道競技での強化委員や福島県柔道連盟会長等も歴任した。 福島県出身で本籍地は福島市荒町。幼少時より宏道館道場の渡辺峰松の元で約3年、さらに大日本武徳会福島支部にて学んだ。 上京して日本大学中学校(現:日本大学第一中学校・高等学校)に進学するも中退し、時を前後し千葉の武徳殿で戸塚派揚心流山本欽作範士の門下となって1915年には武徳会の初段を取得。
河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日… 河野 密(こうの みつ、1897年(明治30年)12月18日 - 1981年(昭和56年)1月4日)は、日本の政治家。千葉県出身。 東京帝国大学法学部卒。大学在学中に新人会に参加し、卒業後日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議員総選挙で初当選する。以後、当選12回。 戦後、日本社会党結成に参加するも、戦時中に大政翼賛会の活動に参画していたことから公職追放。追放解除後、1952年の第25回衆議院議員総選挙で社会党右派から政界復帰、1955年10月左右統一の日本社会党結成に参加する。 1956年鈴木茂三郎委員長の下で党国会対策委員長に就任。1958年警察官職務執行法改正法案に成田知巳総務局長と政府の赤城宗徳内閣官房長官への抗議や浅沼稲次郎書記長と与党自民党の川島正次郎幹事長、村上勇国対委員長に抗議した。
久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月1… 久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日 - 1949年(昭和24年)11月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 香川県出身。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征。
室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12… 室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12月15日 - 1972年 <昭和47年> 4月30日)は、日本の経営者。北海道放送社長を務めた。位階は正五位。 北海道江差町出身、1905年より新潟県巻町(現・新潟市西蒲区)に住む伯母に養育された。このため新潟県出身と表記する資料も存在する。新潟県立巻中学校(現・新潟県立巻高等学校)を経て、1917年に東京薬学校を中退。 1917年3月に網走の回漕店に入社するも、同年9月に親戚が務める樺太の新聞社・樺太日日新聞社に転職し編集局社会部に配属される。 1918年に札幌で泊まっていた宿で記者募集の広告を見たことをきっかけに、北海タイムス社(現・北海道新聞社)に入社。
嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月1… 嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月15日 - 1933年(昭和8年)11月30日)は、日本の私小説家。山口県吉敷郡仁保村(現在は山口市仁保)出身。わずか6年間に約30の短編小説を書いたのみだが私小説作家として当時高い評価を得た。 人生問題に悩み、近角常観に傾倒。妻の婚前の男関係に悩んだ末、妻子を捨てて、愛人と駆落ちして上京。『不同調』記者となり、同誌に発表した『業苦』『崖の下』で注目された。葛西善蔵に強く影響され、『途上』で文壇に地位を確立するも、翌年病没。厳しい倫理観を基調に、自己を告白した独自の作風で、いわゆる破滅型私小説の代表的存在と目された。 1897年(明治30年)12月15日、父・若松、母・スキとの間に生まれる。
斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)… 斉藤 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年(明治30年)12月15日 - 1972年(昭和47年)6月6日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。斎藤と表記されることが多い。 宮崎県宮崎郡住吉村(現宮崎市)で、斉藤東作の四男として生まれる。1922年(大正11年)東亜同文書院商務科を卒業(第20期生)した。 東京中央金庫を経て天津隆和公司に入社。1927年(昭和2年)天津正栄洋行を設立した。その後、満州国の創立に尽力し、同国国務院総理秘書、満州日日新聞社顧問、大連日日新聞社顧問などを務めた。また1940年(昭和15年)財団法人宮崎県斉藤奨学会を設立し会長に就任した。 1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け宮崎県全県区から出馬して当選し、衆議院議員を1期務めた。
遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12… 遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12月15日 - 1989年(平成元年)12月)は、日本の実業家。作家・遠藤周作の父。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の祖父。 鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。 東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。
柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12… 柴田 周吉(しばた しゅうきち、1897年〈明治30年〉12月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月2日)は日本の教育者、実業家、財界人。位階勲等は勲二等正四位。桐蔭学園の創立者。 筑波大学(旧東京教育大学)移転の際には質実共に陰の力となり長期に渡ったプロジェクトの実現に尽力した。筑波学都資金財団を創設し各理事長をつとめ、筑波研修センターを建設した。紫峰会を設立。 理事長をつとめた茗渓会の同窓と共に茗溪学園創立。 未来ある若者を思い奨学金制度、財団法人柴田育英会(現公益財団法人柴田育英会)を創立。 茗渓会会長、桐蔭学園初代理事長、茗渓学園初代理事長、科学技術学園理事長、柴田育英会初代会長、筑波学都資金財団各理事長、紫峰会初代会長、都教育委員をつとめる。