浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
1890年代生まれ:4,677人
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年… 岩元 禄(いわもと ろく 1893年5月23日- 1922年12月24日)は日本の大正期の建築家。歴史主義から離れ、斬新なデザインの作品を設計し、建築を創造として捉えた姿勢は同世代、次世代の建築家に影響を与えた。建築家、建築教育者として将来を嘱望されていたが、病気のため早世した。 西陣電話局を設計し、逓信省営繕の中核をなす設計者の一人であった。夭折のため作品数は少ない。 1893年(明治26年)、鹿児島県鹿児島市照国町生まれ。幼少時に父が死去し、兄・岩元禎が一高教師となったのに伴い、上京。青山小学校、府立一中、一高を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学建築学科に入学。1918年に卒業し、逓信省に入った。
池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年… 池田 克(いけだ かつ、1893年5月23日 - 1977年9月4日)は、日本の司法官僚、検事、裁判官。最高裁判所判事。 静岡県出身。幕臣、郡長・池田忠一の三男として生まれる。三重一中、第一高等学校を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年8月、司法省に入り司法官試補・東京地方裁判所詰となる。 1917年7月、東京地裁予備検事に発令され、同検事、兼司法書記官・行刑局付、刑事局兼行刑局(思想部長)、大臣官房調査課長などを歴任。治安維持法などを立案し、その後、思想犯担当検事(通称・思想検事)となる。 1935年3月、大審院検事に就任。以後、東京刑事地方裁判所検事正、司法省刑事局長、名古屋控訴院(現:名古屋高等裁判所)検事長を歴任し終戦を迎える。
山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月… 山本 晴介(やまもと はるすけ、1893年〈明治26年〉5月20日 - 1978年〈昭和53年〉12月25日)は、日本の武道家。段位は全日本剣道連盟居合道範士九段、剣道教士七段。流派は無双直伝英信流。 高知県香美郡赤岡町須留田で生まれる。香南八ヵ町村組合立城山高等小学校卒業後、唐箕作りの大工修行をしながら大日本武徳会赤岡支所及び高知支部で川崎善三郎らに剣道を学ぶ。1917年(大正6年)、大江正路に入門し、無双直伝英信流居合術を学ぶ。1922年(大正11年)4月、上京し、岩倉鉄道学校3年生に編入するも、同年8月に退学、帰郷する。 土陽新聞通信員兼高知農学校の剣道及び生理衛生科教師となる。1939年(昭和14年)、京都で開かれた全国青年剣道大会に高知農学校剣道部員を引率し、350校の中で準優勝に導いた。
内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 -… 内山 敬二郎(うちやま けいじろう、1893年5月19日 - 1977年12月24日)は、元旧制高等学校教授、元信州大学、元文教大学教授、西洋古典文学(ギリシア悲劇)研究家、西洋古典学会会員。 新潟県生まれ。1917年東京帝国大学文科大学英文科卒業。1922年旧制松江高等学校に英語の教授として奉職、1941年まで務める。1941年旧制松本高等学校に英語の教授として奉職、1949年5月に信州大学に包括されると、文理学部の英語の教授となり、1959年まで務める。その後、文教大学教授を1977年3月まで務めた。 上述の通り、西洋古典学の専門教育を受けた訳ではなく、在学中に田中秀央から西洋古典学を学んだ程度である。
薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5… 薬師寺 尊正(やくしじ たかまさ、1893年(明治26年)5月17日 - 1985年(昭和60年)12月8日)は、日本の弁護士。日本にバスケットボールやバレーボールが紹介された最初期に両競技の選手として活動。大日本体育協会主事を務め、バスケットボールとバレーボールの普及に努めた。第二次世界大戦後に東京都目黒区で人権擁護委員などの役職を務め、区政に貢献したことから、名誉区民として顕彰されている。 熊本県出身。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)、旧制第五高等学校を経て、東京帝国大学に進学。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部政治科を卒業。弁護士となり、岸清一法律事務所で勤務した。
山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 19… 山田 良秀(やまだ よしひで、1893年5月16日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 佐賀県佐賀市出身。1919年に行文行政科に合格し、1920年に東京帝国大学法学部英法学科を卒業し、同年に逓信省に入省し、岡山郵便局長、経理局長、航空局長官などを歴任。1943年に退官し、北海道配電(のちの北海道電力)社長に就任。北海道放送取締役、北日本航空社長なども歴任。 1978年1月7日老衰のために死去。84歳没。
保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年… 保良 せき(ほら せき、1893年5月15日 - 1980年10月6日)は、日本の看護師、厚生官僚、幼稚園経営者である。日本の訪問看護、公衆衛生、保育事業の先駆者の1人である。 長野県飯田市出身。東京市の東京慈恵医院看護婦教育所卒業後、1921年に女性伝道師として渡米。アメリカ合衆国コロラド州の看護師資格を得る。コロラド病院看護学校、コロンビア大学などで学び、ニューヨーク市で公衆衛生看護やセツルメントの訪問看護に携わる。 1929年に帰国後は大阪市の「大阪朝日社会事業団」(朝日新聞社)の「公衆衛生訪問婦協会」で主任として働きつつ、1931年から1943年まで看護専門雑誌「看護婦」を発刊し続けた。
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月1… 市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。参議院議員(5期)。 1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した。 愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」。
中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年… 中御門 経民(なかのみかど つねたみ、1893年(明治26年)5月13日 - 1989年(平成元年)12月31日)は、大正から昭和期の官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・男爵、中御門経隆の三男として生まれた。父の隠居に伴い、1915年(大正4年)10月30日、男爵を襲爵した。 1917年(大正6年)7月、京都帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。同年、拓殖局嘱託となる。その後、衆議院書記官兼拓務書記官、衆議院秘書課長、同調査部二課長、衆議院事務局議事課長、海軍省事務官、議院制度調査会幹事、議会制度審議会幹事などを務めた。 1939年(昭和14年)6月21日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月1… 元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日 - 1948年〈昭和23年〉7月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福。 愛媛県出身。小学校・元泉久吉の三男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した。 1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む。
紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日… 紅露 みつ(こうろ みつ、1893年〈明治26年〉5月10日 - 1980年〈昭和55年〉12月20日)は、日本の政治家。参議院議員(4期)、衆議院議員(1期)。 群馬県碓氷郡坂本村(現安中市松井田町)出身。神田女学校を卒業して、雑誌記者となり兄の友人[要出典]だった弁護士・紅露昭と結婚。衆議院議員を4期務めた夫の公職追放に伴い、1946年の総選挙に徳島県全県区から出馬(無所属)し、初当選を果たす。 その後民主党に入党するも翌1947年の総選挙では落選、だが同年8月の第1回参議院議員通常選挙補欠選挙で当選(任期3年)して国政復帰を果たし、以後国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党と党籍を変えながら通算4期務める。
鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 -… 鈴木 泉三郎(すずき せんざぶろう、1893年5月10日 - 1924年10月6日)は、日本の劇作家、編集者である。豊島屋主人(としまやしゅじん)、伊豆 巳三郎(いず みさぶろう)などの筆名ももつ。 1893年(明治26年)5月10日、東京市赤坂区の青山地区(現在の東京都港区北青山か南青山)に生まれる。四谷区左門町(現在の新宿区左門町)にあった旧制・四谷第二小学校(現新宿区立四谷第六小学校)を卒業後、四谷銀行に入社、その傍ら、当時、同市同区葵町3丁目(現在の港区虎ノ門2丁目)にあった旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)夜間部に通い、卒業する。が同市神田区錦町3丁目(現在の千代田区神田錦町)にあった国民英学会に進む。
岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 -… 岩切 章太郎(いわきり しょうたろう、1893年5月8日 - 1985年7月16日)は、日本の実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎県宮崎市出身。 宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。 住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物だった。
川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月… 川村 カ子ト(かわむら カネト、1893年〈明治26年〉5月5日 - 1977年〈昭和52年〉1月6日)は、上川アイヌの長で、日本国有鉄道の測量技手。アイヌ文化の啓発・普及にも寄与した。国鉄退職後は川村カ子トアイヌ記念館の館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。弟に川村才登、妹・コヨの夫に貝澤藤蔵がいる。 なお、「カネト」の「ネ」を「子」と書いているのは、かつて使われた、カナの「ネ」の異体字である。「カネト」と書かれることもある。また、カネトアイヌの正確な発音は、長男の川村兼一によると、カネトゥカイヌである。 1893年(明治26年)、旭川永山町(現旭川市永山)キンクシベツに生まれる。
3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治… 3代 諸橋 久太郎(もろはし きゅうたろう、1893年(明治26年)5月3日 - 1973年(昭和48年)2月12日)は、昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。福島県平市長。旧名・守次。位階は正五位。勲三等旭日中綬章。 福島県磐前郡平町(石城郡平町、平市を経て現いわき市)の金物商、釜屋商店の2代諸橋久太郎の嗣子として生まれる。1916年(大正5年)早稲田大学政治経済科を卒業。1930年(昭和5年)3代久太郎を襲名した。1931年(昭和6年)石城郡農会長に就任したのを皮切りに、平市農会長、信用組合平庶民金庫理事長、諸橋合名会社代表、磐城水産工業、片倉磐城製糸、植田水力電気、福島県農工銀行、相馬塩業などの重役を歴任した。
尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治… 尼崎 康定(あまさき やすさだ、旧姓・戸田、1893年(明治26年)5月2日 - 1952年(昭和27年)1月16日)は、日本の実業家。尼崎汽船部常務。尼崎造船、尼崎海上火災、関西汽船各取締役。大阪曹達、大阪曹達商事各監査役。 信州松本藩主・戸田光則(松平光則)の孫。子爵・戸田康泰の息子。子爵・戸田康保の弟。1919年、北海道帝国大学附属水産専門部を卒業した。趣味は謡曲、ゴルフ。宗教は神道。住所は大阪市天王寺区生玉町、同市福島区鷺洲南。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月… 立花 秀吉(たちばな ひでよし、1893年〈明治26年〉5月1日 - 1956年〈昭和31年〉6月13日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。 福島県磐前郡小名浜町(のち石城郡小名浜町→磐城市、現・いわき市)出身。小名浜の大船主の家に生まれる。1937年、小名浜町会議員となり、1954年に小名浜町長に就任する。同年、小名浜町は泉町、江名町、渡辺村と合併し、磐城市が発足、合併後の市長選挙に立候補し、当選した。市長就任後は小名浜港1万トン埠頭の建設、臨海工場の誘致などに常磐地区総合開発期成同盟会の副会長として力を尽くした。1期目在任中の1956年に死去した。
中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)… 中野 泰介(なかの やすすけ、1893年5月 - 没年不詳)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。玄洋社社員。 中野泰次郎の二男として福岡県に生まれる。政治家中野正剛は兄。1912年福岡県立中学修猷館を経て、1917年早稲田大学政治経済学科を卒業。 九州日報社常務取締役を経て、1933年福岡市会議員に挙げられる。 長男は読売テレビ社長を務めた中野達雄。
西 春彦(にし はるひこ、1893年〈明治26年〉4月29日… 西 春彦(にし はるひこ、1893年〈明治26年〉4月29日 - 1986年〈昭和61年〉9月20日)は、大正・昭和期の外交官。太平洋戦争開戦時の外務次官である。 鹿児島県川辺郡加世田町津貫(後の加世田市津貫、南さつま市加世田津貫)生まれ。1911年3月旧制鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)卒業。旧制第一高等学校一部丙類(独法・政・独文)に1911年9月入学、1914年7月卒業。東京帝国大学法学部独法科に1914年9月入学、1918年7月卒業。高等文官試験外交科に合格し、1918年10月外務省に入る。1920年結婚。外交官として長春在勤領事(1923年1月)、ソヴィエト連邦在勤大使館三等書記官(1925年8月)、外交書記官ならびに通商局第一課長(1928年2月)、欧米局第一課長(1933年3月)、欧亜局第一課長(1934年6月)、青島在勤総領事(1935年12月)、ソヴィエト連邦在勤大使館参事官(1936年12月)、欧亜局長(1939年6月)、ソヴィエト連邦出張特命全権公使(1940年9月)を歴任し、1941年5月に離任帰国。
石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - … 石橋 長英(いしばし ちょうえい、1893年4月26日 - 1990年9月25日)は、日本の医学者である。千葉市出身。 1918年、東京帝国大学に留学。1920年東京女子医科大学教授に就任。1925年公益財団法人日本国際医学協会を組織し。1936年から日独医学協会長を務めた。1973年獨協医科大学初代学長に就任。
白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 19… 白木 一平(しらき いっぺい、1893年4月26日 - 1948年10月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛知県出身。1910年愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒。農業の傍ら、郵便局長、奥町(現・一宮市)会議員、中島郡会議員、同副議長、奥町教育会長、同農業会長、中島郡農会長、愛知県農会幹事長、蘇東耕地整理組合長、愛知県農業保険組合連合会副会長、中部種苗(株)取締役社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で愛知1区(大選挙区)から日本進歩党公認で立候補して当選。党内では会計監督となった。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。後、公職追放となった。
長友 次男(ながとも つぎお、1893年(明治26年)4月2… 長友 次男(ながとも つぎお、1893年(明治26年)4月25日 - 1986年(昭和61年)9月30日)は、大日本帝国陸軍の陸軍少将、中部憲兵隊司令官。戦後、A級戦犯として逮捕された。 宮崎県に生まれ、東京帝国大学法科を卒業。 1914年、陸軍士官学校を卒業(26期)して陸軍少尉となる。以後、憲兵一筋。 1933年、憲兵司令部第1課長、1937年、憲兵候補者隊長、1938年、羅南憲兵隊長、1939年、陸軍憲兵大佐、1940年、満州の関東憲兵隊警務部長となる。1943年、関東憲兵隊総務部長兼警務部長、1944年、陸軍少将・大阪憲兵隊長、1945年3月、中部憲兵隊司令官となる。 1945年12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され収監された。
江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26… 江熊 哲翁(えぐま / えくま てつお、1893年(明治26年)4月25日 – 1974年(昭和49年)5月20日)は、大正から昭和期の水産技術者、政治家。参議院議員。 大分県宇佐郡、現在の宇佐市で生まれる。1916年(大正5年)農商務省水産講習所(現東京海洋大学)本科養殖科を卒業した。 1918年(大正7年)大分県水産技手に就任。以後、水産試験場技手、台湾総督府技手、滋賀県技手、地方農林技師・佐賀県水産課長兼水産試験場長・水産製品検査所長、愛媛県水産課長、山口県水産課長、下関漁港事務所長事務取扱などを歴任した。その後、山口県健民対策審議会専門委員、同水産業会長、同漁業組合連合会長、山口漁村振興協議会長、福石商会会長、天山商事社長などを務め、山口県の水産業界の振興に尽力した。
野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993… 野田 信夫(のだ のぶお、1893年4月24日 - 1993年4月30日)は、日本の経営学者、元成蹊大学学長。 長野県飯田市生まれ、北海道旭川市育ち。旧制北海道立上川中学、旧制第一高等学校卒業。1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業後、1921年に同経済学科を卒業した 同年三菱財閥合資会社に入社する。のち三菱経済研究所研究員となり、東京帝国大学工学部の講師も務めた。1946年(昭和21年)に三菱重工業企画室調査役となるが、翌1947年(昭和22年)に政府の経済安定本部に迎えられ生産局長となる。物価庁次長(1948年)を経て、1949年には経済安定本部副長官を務めた。 1949年に成蹊大学政治経済学部教授となり、1958年から1969年まで学長を務めた。
山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年(明治26)… 山本 為三郎(やまもと ためさぶろう、1893年(明治26)4月24日 - 1966年(昭和41)2月4日)は、実業家。大阪市中央区船場生まれ。「ビール王」、「ホテル王」と呼ばれた。
中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24… 中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年〈明治26年〉4月24日 - 1975年〈昭和50年〉8月18日)は、日本の脳神経外科医・俳人。新潟大学名誉教授。俳号はみづほ、瑞翁、穭翁。島根県津和野町生まれ。 日本における脳神経外科学の権威で、その数々の功績から「日本脳外科の父」とも呼ばれる。 日本初の脳神経外科学講座を新潟大学に設立し、新潟大学脳研究所の設立と発展に貢献した。また、てんかんの治療法として現在も行われている大脳半球切除手術に日本で初めて成功したことでも知られる。ホトトギス派の俳人。主著に『脳手術』、『脳腫瘍』等。 旧制六高を経て東京帝国大学医科大学を卒業後直ちに同大学の近藤次繁教授の外科教室に入局し、4年間の勤務の後新潟医科大学の外科教室に助教授として赴任した。
伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年〈明治26年〉… 伊集院 松治(いじゅういん まつじ、1893年〈明治26年〉4月21日 - 1944年〈昭和19年〉5月24日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。 東京府麹町区(現東京都千代田区)出身。旧制東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)より海軍兵学校43期入校。席次は入校時100名中93番、卒業時96名92番。伊集院五郎元帥は父、大野竹二海軍少将は弟。
富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 19… 富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 1966年9月22日)は、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ べによし)。 日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。
高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 19… 高津 正道(たかつ まさみち、1893年4月20日 - 1974年1月9日)は、日本の社会運動家、政治家。衆議院議員(5期)、衆議院副議長などを歴任した。 広島県御調郡羽和泉村(現・三原市)生まれ。真宗本願寺派南光寺住職の長男で、18歳のときに京都に移り、京都予備学校(のちの京都商業)で学ぶ。卒業後は実家に戻り、1914年に住職を継ぐが、仏教改革を志して檀家と対立した結果、仏教を捨てるに至る。 1918年、妻多代子(のち日本初の女性社会主義グループ「赤瀾会」創立メンバー、28歳で早逝)と共に上京し、早稲田大学文学部哲学科に入学。在学中「暁民会」を組織するなど、活発な社会主義運動を展開した。そのため大学を追われ、日本社会主義同盟を設立するが、1921年に暁民共産党事件で有罪判決を受ける。
横井 忠道(よこい ただみち、1893年(明治26年)4月1… 横井 忠道(よこい ただみち、1893年(明治26年)4月19日 - 1961年(昭和36年)11月18日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1893年(明治26年)に東京府で生まれた。陸軍士官学校第25期卒業。1938年(昭和13年)4月にハイラル特務機関長に就任し、1939年(昭和14年)3月9日に陸軍歩兵大佐に進級。11月27日に留守第11師団司令部附となり、1940年(昭和15年)6月に近衛歩兵第3連隊補充隊長に就任した。1942年(昭和17年)4月に歩兵第109連隊長(第13軍・第116師団・歩兵第20旅団)に就任し、日中戦争に出動。安慶に駐屯して同地の守備に就いた。その後留守近衛第2師団司令部附を経て、1943年(昭和18年)6月28日に高知連隊区司令官に就任した。
稲村 坦元(いなむら たんげん、1893年4月19日 - 1… 稲村 坦元(いなむら たんげん、1893年4月19日 - 1988年4月17日)は、日本の曹洞宗僧、郷土史家。東京都、埼玉県において文化財の調査保護に携わる傍ら、埼玉郷土会を設立。自治体史の編纂にも関わり、埼玉県の郷土史研究を主導した。晩年は永平寺副監院、埼玉県郷土文化会名誉会長。 明治26年、福井県大野郡大野町に石川安兵衛の三男として生まれる。幼名は桃太。なお、戸籍上は6月1日となっている。1903年8月、大野町洞雲寺大洞慧全の下で出家した。後に岐阜県八幡町悟竹院で稲村活元の法を嗣いだ。 1912年3月、福井県立大野中学校(福井県立大野高等学校)を卒業。上京して本郷区菊坂町長泉寺に仮寓し、曹洞宗第一中学林(世田谷学園中学校・高等学校)補習科を経て、曹洞宗大学(現:駒澤大学)で山田孝道、大森禅戒に学ぶ。
西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1… 西原 一策(にしはら いっさく、1893年4月18日 - 1945年1月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。1940年の北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。 陸軍憲兵大尉・西原貫洞の三男として生まれる。広島県立広島第一中学校(現、広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、陸軍士官学校25期卒業。同期には、武藤章等。北部仏印進駐に際し、平和進駐を指示していた中央に反して富永恭次らが強行進駐を実施したのを嘆き、陸海軍次官宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発した。 1945年1月23日に死去。死去にあたり祭資の下賜を受けた。
牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 194… 牧野 四郎(まきの しろう、1893年4月18日 - 1945年8月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
稲垣 潤太郎(いながき じゅんたろう、1893年〈明治26年… 稲垣 潤太郎(いながき じゅんたろう、1893年〈明治26年〉4月17日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 鳥取県出身。1917年(大正6年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。長野県警視、同理事官、宮内事務官・参事官、帝室林野管理局事務官、岡山県事務官、北海道庁学務部長、秋田県警察部長、北海道庁警察部長、富山県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1935年(昭和10年)に香川県書記官・総務部長に就任した。 1939年(昭和14年)に退官した後は、1942年(昭和17年)まで福島県若松市(現:会津若松市)助役を務めた。
藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1… 藤原 鶴来(ふじわら かくらい、1893年4月15日 - 1990年1月15日)は、岡山県生まれの書家。「和漢書道史」「書源(新書道字典)」の編纂者。青龍寺の「空海記念碑」を揮毫。本名は茂(しげる)、鶴来は号。 岡山県玉野市に生まれる。岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)で大原桂南に学び、丹羽海鶴、鈴木翠軒、加藤飯山に師事。比田井天来、松田南溟に益を受ける。 岡山第一中学校の教員を経て、香川師範学校教諭となる。戦後香川大学教育学部教授となり後進の育成につとめる。書道の歴史解説書「和漢書道史」、名跡筆法の字典「書源(新書道字典)」を編纂。中国陝西省西安市青龍寺の「空海記念碑」を揮毫する。 1986年文部大臣より「地域文化功労者」として表彰される。
小岩井 貞夫(こいわい さだお、1893年〈明治26年〉4月… 小岩井 貞夫(こいわい さだお、1893年〈明治26年〉4月14日 - 没年不明)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)、地主、神奈川県多額納税者。早稲田大学評議員。 神奈川県人・小岩井義八の長男。1917年、早稲田大学大学部商科卒業。茂木合名会社機械部に勤務した。県会議員、全関東連盟野球団会長、国民同盟県支部総務をつとめた。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 趣味は運動、政治、釣。宗教は真宗。住所は横浜市中区(現・南区)三春台、同区南太田町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 196… 伊藤 道郎(いとう みちお、1893年4月14日 - 1961年11月6日) は、日本のダンサー、振付師。 東京府東京市神田区生まれ。伊藤為吉の長男。慶應義塾普通部卒業。1911年に帝国劇場歌劇部に入団し、三浦環との共演でドイツ語のオペラ『釈迦』で初舞台。 1911年11月1日に声楽家を志し19歳でパリに留学、シャトレ座でニジンスキーを見る、ロダンや、ドビッシー等と交流をもつ。1912年にドイツに移住、ベルリンではイザドラ・ダンカンの公演を観る。その後、ライプツィヒに滞在、ドレスデン郊外ヘレラウのエミール・ジャック=ダルクローズ舞踊学校に入団。 1914年 第一次世界大戦の影響で英国に渡る。1915年、ホルストに 舞踊曲『日本組曲』の作曲依頼をした。
宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月… 宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月14日 - 1974年(昭和49年)2月27日)は、大正から昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。屏東市尹、高雄市尹。北海道函館市長。 岡山県久米郡吉岡村(現在の美咲町)出身。1914年(大正3年)から兵庫県で巡査、巡査部長、警部を歴任。1924年(大正13年)に台湾に渡り、警務局勤務、文教局属、新竹市助役、豊原郡守を歴任。1936年(昭和11年)、屏東市尹に就任し、翌年に高雄市尹に転じた。 退官後、台湾製糖株式会社企画部長、同総務部長、高雄州会議員、屏東商業会議所会頭などを務めた。 戦後は函館市助役を経て、坂本森一の急逝をうけて1947年(昭和22年)に市長に選出された。
松島 清(まつしま きよし、1893年(明治26年)4月12… 松島 清(まつしま きよし、1893年(明治26年)4月12日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 山形県西田川郡加茂町(現在の鶴岡市)出身出身。山沢浩の二男として生まれ、松島鉉太郎の養子となった。1922年(大正11年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、慶尚南道属となった。翌年に高等試験行政科に合格し、警視・全羅南道警務課長、理事官・同学務課長、慶尚南道産業課長、同学務課長、京畿道警務課長を歴任し、1929年(昭和4年)に仁川府尹となった。 その後、全州専売支局長、忠清北道内務部長、京城府総務部長、総督官房外務部勤務を経て、1939年(昭和14年)に京城地方専売局長に就任した。
駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 … 駒泉 徳治郎(こまいずみ とくじろう、1893年4月11日 - 1959年2月24日)は、現在の宮城県大崎市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は高橋 徳治郎。10代大嶽。180cm、96kg。最高位は東前頭2枚目。 旧制古川中学(現・宮城県古川高等学校)を中退し、同郷の大関駒ヶ嶽國力を頼って入門。所属は井筒部屋であったが、駒ヶ嶽の内弟子であった。1911年2月初土俵、1915年1月十両昇進。1917年1月新入幕した。四つに組むと勝ちみに乏しい相撲振りであったが、上背を利しての突っ張り・叩き込み・引き落としには威力があった。1919年5月場所には横綱鳳を外掛けから浴びせ倒して現役時代唯一の金星を獲得している。
清藤 唯七(せいとう ただしち、1893年(明治26年)4月… 清藤 唯七(せいとう ただしち、1893年(明治26年)4月10日 - 1952年(昭和27年)7月15日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。リンゴ移出業界の発展に尽力し「リンゴの清藤」として知られた。 青森県南津軽郡、のちの尾上町(現平川市)で生まれた。1917年(大正6年)3月、正則英語学校(現正則学園高等学校)を卒業した。 家業のリンゴ移出業に従事し、満州など海外への販路拡大に尽力した。青森県食品工業 (有) 社長、日本林檎輸出取締役社長、日本農産加工取締役社長、弘前製氷取締役社長、(有) 弘前製材所代表取締役、弘前倉庫代表取締役、青森県林檎移出商業協同組合連合会理事長、青森県果実ジャム工場組合理事長、青森商工協会理事長、青森県りんご協会副会長、弘前市商工会議所会頭などを務めた。
日高 信六郎(ひだか しんろくろう、1893年4月10日 -… 日高 信六郎(ひだか しんろくろう、1893年4月10日 - 1976年6月18日)は、日本の外交官、登山家。駐イタリア、イタリア社会共和国大使、日本山岳会会長。
千葉ヶ嵜 俊治(ちばがさき としじ、1893年4月10日 -… 千葉ヶ嵜 俊治(ちばがさき としじ、1893年4月10日 - 1933年1月16日)は、千葉県印旛郡富里町(現:千葉県富里市)出身で二十山部屋に所属した大相撲力士。本名は玉ノ井 俊治(たまのい としじ)(旧姓:宍倉)。最高位は東大関。 1893年4月10日に千葉県印旛郡富里町(現:千葉県富里市)で生まれる。子供の頃から相撲好きで、地元で開かれていた宮相撲に参加しては大関を張って活躍していたため、1910年に同郷の二十山を頼って二十山部屋へ入門、1911年6月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。宮相撲で大関を張っていた実力は伊達ではなく、幕下時代の1913年5月場所では、それまで無敗の快進撃を続けていた栃木山守也に初黒星を付けて話題を集めた。
安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日… 安永 登(やすなが のぼる、1893年(明治26年)4月9日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 福岡県出身。1912年(明治45年)、小学校教員となり、訓導に進んだ。1918年(大正7年)に日本大学高等師範部を卒業し、内務属となる。1921年(大正10年)に高等試験行政科に合格。富山県属、同警視・警務課長、青森県事務官、鹿児島県事務官、朝鮮総督府事務官・平安南道警察部長を歴任した。 1932年(昭和7年)より関東庁事務官に転じ、金州民政署長、内務局地方課長、旅順民政署長を歴任。1938年(昭和13年)に関東専売局長に就任した。 退官後、福岡市助役を務めた。
大槻 喬(おおつき たかし、1893年4月8日 - 1969… 大槻 喬(おおつき たかし、1893年4月8日 - 1969年11月16日)は、日本の電気工学者。電気学会会長。 兵庫県生まれ。1914年、東京高等工業学校付設工業教員養成所電気科卒業。1919年、東京外国語学校専修科ドイツ語学科卒業。1921年からアメリカ・イギリス・ドイツに留学。熊本高等工業学校教授を経て、1929年、東京工業大学助教授。ドイツ留学を経て、1932年に東京大学工学博士号を修得、1934年に東工大電気工学科教授。1954年、定年退職し、名誉教授となると共に、明治大学教授、東洋電機製造取締役・技術研究所長に就任。1965年、東海大学工学部長。1969年、電気学会会長。 1969年11月16日、脳卒中のため東京都目黒区自由が丘の自宅にて死去。
山木 武夫(やまき たけお、1893年(明治26年)4月4日… 山木 武夫(やまき たけお、1893年(明治26年)4月4日 - 1983年(昭和58年)10月11日)は、昭和時代の政治家。農政家。衆議院議員(1期)。別名に栄太、孫左衛門。 農業・山木孫左衛門の長男として山形県東田川郡新堀村落野目(現酒田市落野目)に生まれる。1910年(明治43年)藤島の庄内農学校を卒業し、家業に従事する傍ら新堀村小学校の代用教員を務める。県立自治講習所に入り加藤完治に学び、1918年(大正7年)同所を卒業すると農村問題に取り組み、大陸移民政策の推進に関与した。1928年(昭和3年)落野目信用組合を組織し同組合長となり、農業倉庫を設立し、県信用組合連合会、県連合農業倉庫、北斗会などの理事を歴任した。
丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月… 丹羽 保次郎(にわ やすじろう、1893年(明治26年)4月1日 - 1975年(昭和50年)2月28日)は、NE式写真電送装置(ファクシミリ)を開発した技術者。東京電機大学初代学長。日本の十大発明家の一人として数えられることもある。工学博士。三重県松阪市名誉市民(第1号)[要出典]。 三重県松阪市出身。旧制八高を経て1916年(大正5年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。逓信省電気試験所を経て、1924年(大正13年)6月に日本電気に入社する。同年から翌年末にかけ欧米へ最新の通信技術を学びに視察。1926年(大正15年)2月に学位論文の「矩形枠捲線輪特ニ其誘導系数ノ計算方法ニ関スル研究」で帝大より工学博士を授与される。
世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月3… 世耕 弘一(せこう こういち、1893年〈明治26年〉3月30日 - 1965年〈昭和40年〉4月27日)は日本の教育者・政治家。衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第2次岸内閣)、学校法人近畿大学理事長などを歴任した。位階は従三位。 和歌山県東牟婁郡敷屋村(現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。一旦は材木店に丁稚奉公をするが、その後苦学して1918年専門学校入学者検定試験に合格、日本大学予科に入学。1923年、日本大学法文学部卒業。日大の政治経済海外研究員としてベルリン大学に5年間留学。帰国後の1931年に日本大学教授。1944年に日大と関係の深い大阪専門学校の校長と大阪理工科大学長に就任。
上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893… 上島 三之助 清忠(うえしま さんのすけ きよただ、1893年3月30日 - 1987年)は、日本の武道家である。大阪で空真流空手道を発展させた。 3歳のとき、兵庫県赤穂市で上島作治郎、松原嘉年、赤田政治から今真流柔捕術を学び始める。 9歳のとき、沖縄出身の赤穂市警察官上島菅から空手型のピンアンとクーシャンクー(公相君)を教わり研究を始めた。 1918年、25歳で上島は今真流柔捕術の教授に任命された。 1926年、本部朝基著『沖縄拳法 唐手術 組手編』の出版にあたり、本部門下の唐手術普及会幹事長、杉本得二とともに編集に携わる。大阪市東淀川区に移り1925年(大正14年)上島柔道場を開設。また沖縄の空手教師数名がそこで空手も練習し、教えた。