佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7… 佐々木 芳照(ささき ほうしょう、1877年(明治10年)7月1日 - 1952年(昭和27年)6月27日)は、日本の僧、政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。京都本願寺文学寮本科で学ぶ。語学研究及び状況視察のため、シンガポール、オランダ領東インド、パリに留学する。帰国後、本願寺派摂護寺で布教活動に従事する。都城天竜幼稚園、日州学院を創立する。摂護寺住職、本願寺派本願寺執行所に出仕し、本願寺台湾別院輪番兼台湾開教教所賛事を経て、本願寺アメリカ合衆国開教総長となる。帰国後、内務省道府県感化院教諭となる。その後、宮崎県慎修学校(現・宮崎県立みやざき学園)校長に就任する。
古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)… 古賀 毅(こが つよし、1877年7月 - 1968年1月)は、日本の教育者。 福岡県山門郡沖端村(後の柳川町、柳川市の一部)出身で、古賀生三の子。同じく沖端村(柳川)出身の詩人北原白秋の親友であったといわれている。中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)、1899年7月第五高等学校文科を経て、1902年7月東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 青森県立八戸中学校教諭を経て、長崎県立島原中学校校長、埼玉県立川越中学校校長、埼玉県立熊谷中学校校長を歴任。1924年から1930年まで鹿児島県立第二鹿児島中学校校長。在任中に鹿児島県議会を説得し、第二鹿児島中学校校舎の鉄筋コンクリート造新校舎への建て替えに尽力。
名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、1877年〈明治10年〉7… 名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、1877年〈明治10年〉7月 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、鳥取県の大地主。米子商工会議所顧問。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)出身。名島嘉吉郎の長男。1909年、家督を相続し、前名・庄三郎を改め襲名する。砂糖、醤油、肥料商並金銭貸付業を営む。 銀行会社の重役であり、中国興業銀行頭取、博愛病院代表取締役、山陰貯蓄銀行、米子ガス各取締役、名島合名会社代表社員をつとめる。 宗教は浄土宗。趣味は囲碁、盆栽。住所は米子市博労町1丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月3… 東 くめ(ひがし くめ、旧姓:由比(ゆい)、1877年6月30日 - 1969年3月5日)は、和歌山県東牟婁郡新宮町(現:新宮市)出身の童謡作詞家。日本で初めて口語による童謡を作詞した。1899年に東京女子高等師範学校教授・東基吉と結婚し、東くめとなる。
北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月2… 北尾 日大(きたお にちだい、1877年(明治10年)6月28日 - 1946年(昭和21年)5月29日)は、戯曲『実録日蓮聖人一代記』の作者として知られる日蓮宗の僧。字は啓玉。鳥取県出身。 鳥取市の芳心寺で河合日辰の元で出家し、日蓮宗大学(現在の立正大学)卒業後の1909年(明治42年)、日蓮宗大学中等部で日蓮宗の宗学教諭となる。その後1919年(大正8年)、日蓮宗大学教授を経て1931年(昭和6年)には、芳心寺住職に就任した。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)… 川島 元次郎(かわしま もとじろう、1877年(明治10年)6月23日 - 1922年(大正11年)12月10日)は、日本の歴史学者である。 京都市の旧家にて生まれる。若くして文部省(現在の文部科学省)の検定試験を受験し、悪戦苦闘の末合格する。その後中等学校の教員を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)に選科として入学した。 在学中は主に江戸時代における朱印船貿易の研究に携わり、その研究論文を自身が執筆したものが書籍化された。また同時期に高等学校卒業試験に合格した事により、文学博士を取得した。1912年(大正元年)に卒業後は、京都府学務課長を務めた後に、京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)にて教師として活動する。
島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18… 島田 俊雄(しまだ としお、1877年〈明治10年〉6月18日 - 1947年〈昭和22年〉12月21日)は、日本の政治家。 政界入りする前は地方自治の現場にいて地方自治の研究をした数少ない人物であり、政界に入ってからは衆議院議員選挙に9回当選し、農林大臣・衆議院議長等を務めた。雄弁家としても知られた。 島根県江津市出身。旧制山口高等学校卒業。1900年(明治33年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、雑誌『明美王道』及び『実業時論』両誌の編集者となる。1903年(明治36年)、東京市吏員に転じ、教育課長・勧業課長を歴任。1905年(明治38年)、中国雲南省法制学堂講師となる。1907年(明治40年)、帰国。
奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6… 奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6月16日 - 1948年(昭和23年)5月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階および勲等は従二位・勲三等。幼名は九八郎。旧中津藩主の家系。 東京府出身。伯爵・奥平昌邁の長男として生まれる。父・昌邁の死去に伴い、1885年(明治18年)1月16日、家督を相続し伯爵を襲爵した。幼少より奥平家旧領の中津で学んでいたが、上京して学習院に入学、後に京都帝国大学法科大学を修了。1909年(明治42年)には欧米を漫遊する。 1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、研究会に属して1932年(昭和7年)7月まで在任し、さらに1946年(昭和21年)5月9日、補欠選挙で再選され、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 195… 藤村 トヨ(ふじむら トヨ、1877年6月16日 - 1955年1月18日)は、日本の体育教育者。 香川県阿野郡坂出村(現・坂出市)出身。病気で東京女子高等師範学校を中退。その後、1902年に体操で健康を取り戻し、1904年に体操科教員の文部省検定試験で女性初の合格者となる。同年に東京女子体操音楽学校(現・東京女子体育大学)に就職し、1908年に校長となる。1915年に東京女子医学専門学校(現・東京女子医科大学)に入学し、1920年卒業。1928年から1931年まで海外を視察し、帰国後にはドイツの体育教師G・ワルターとK・ブラントを招聘し、ドイツ体操を奨励した。 1950年に東京女子体育短期大学で初代学長となる。
石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月… 石川 又八(いしかわ またはち、1877年(明治10年)6月14日 - 1935年(昭和10年)9月6日)は、明治後期から昭和前期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田村長。 佐賀県佐賀郡久保田村久保田宿(久保田町大字久保田を経て現佐賀市久保田町大字久保田)で、石川謙助の長男として生まれる。大阪市立高等商業学校(のち大阪商科大学)を卒業。1897年(明治30年)家督を相続し、農業を営む。日露戦争に従軍し、陸軍歩兵中尉で除隊した。 1903年(明治36年)頃より農業改良に取り組み、田での正条植えを奨励し、村内の篤農家と共に晩生稲の時代を主張して、1913年(大正2年)全国五石収穫懸賞会で入賞してその成果が認められた。
三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月1… 三浦 新七(みうら しんしち、1877年〈明治10年〉6月12日 - 1947年〈昭和22年〉8月14日)は、日本の経済学者、実業家、政治家。専門は経済史。1942年(昭和17年)帝国学士院会員。研究者、財界人、政治家として活躍した。 山形県山形市旅籠町三浦新兵衛の四男として生まれる。のちに、一族の宗家である四日町の豪商三浦権四郎の養嗣子となった。 旧制山形中学校(現:山形県立山形東高等学校)を経て、東京高等商業学校(現:一橋大学)卒。1903年(明治36年)からイギリス・ドイツに留学し、ライプツィヒ大学でランプレヒトに師事し、歴史学を研究する。 帰国後の1911年(明治44年)、母校である東京高等商業学校の教授となり経済史、文明史を教えた。
森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945… 森 一兵(もり いっぺい、1877年6月10日 - 1945年11月13日)は大正から昭和前期にかけて活動した日本のジャーナリスト、写真家、新聞経営者。 1877年(明治10年)6月、岡山県勝田郡吉野村(現在の勝央町)で新谷英太郎の長男として生まれる。父の英太郎は旧勝北郡の2代目郡長を務め、岡山県立勝間田高等学校の前身校に当たる林園書院、のち勝間田農林学校の創立者として知られる名士であった。その後、父が養子となっていた新谷家から生家の森家へ復したことに伴い、森姓となる。 東京専門学校を卒業後、博文館に入社し『太陽』の記者を務めていたが三井銀行を経て安田財閥持株会社の安田保善社に入り、安田倉庫の大阪支配人に就いた。
窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日… 窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年(明治10年)6月8日 - 1967年(昭和42年)4月12日)は、日本の歌人・国文学者。日本芸術院会員。元早稲田大学教授。文化功労者。本名は窪田 通治。息子に、同じく歌人の窪田章一郎がいる。 草創期の「明星」に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。古典の評釈でも功績が大きい。詩歌集に『まひる野』(1905年)、歌集に『土を眺めて』(1918年)など。 長野県東筑摩郡和田村(現・松本市和田)生まれ。長野県尋常中学校(現長野県松本深志高等学校)から東京専門学校文学科に進学するも、一度中退。代用教員として働いていたときに校長の影響で作歌を始める。
小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6… 小林 存(こばやし ながろう、1877年(明治10年)6月6日 - 1961年(昭和36年)3月10日)は、日本のジャーナリスト、民俗学研究家、歌人、俳人。名は「ぞん」とも読む。号は粲楼(さんろう)、粲楼学人、烏啼(うてい)。新潟県中蒲原郡横越村(現・新潟市江南区)出身。 1877年、小林祐保・ミン夫妻の末子として生まれる。小林家は代々、新発田藩蒲原横越組の大庄屋を務めた素封家で、郡内の有力地主の一つであった。横越小学校・亀田高等小学校を経て上京し、第一高等学校への進学を目指すが失敗し、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学、坪内逍遥に学んだ。また、同校在学中の1894年に蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂双紙』を発刊した。
加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日… 加藤 武男(かとう たけお、1877年〈明治10年〉6月5日 - 1963年〈昭和38年〉10月17日)は、日本の銀行家。吉田内閣経済最高顧問。 栃木県上都賀郡落合村(現・日光市)に、父・昇一郎の長男として生まれる。加藤家は代々の庄屋で広大な山林を所有していた。 旧制宇都宮中学(現在の栃木県立宇都宮高等学校)を経て、1901年(明治34年)慶應義塾大学部理財科卒業。就職先の第一志望は横浜正金銀行であったが、父の薦めにより、同年、三菱合資会社銀行部に入社。 京都支店長、大阪支店長を歴任。1919年(大正8年)に銀行部が独立して三菱銀行となった際に、春藤和などと共に常務取締役に就任。加藤は、1919年(大正8年)の三菱銀行創設と同時に常務となっているが、翌年の恐慌に始まり関東大震災、金融恐慌、満州事変、金輸出再禁止等の激動の時代に身を置き銀行の経営に携わってきた。
山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日… 山宮 鼎(さんぐう かなえ、1877年〈明治11年〉6月5日 - 1951年〈昭和26年〉11月6日)は、日本の内務官僚。名古屋市助役。 山形県東置賜郡高畠町出身。米沢藩士の山宮咸一の長男として生まれる。山形中学校出身。1905年(明治38年)、早稲田大学法律科を卒業し、文部属となり普通学務局に配属された。1907年(明治40年)11月、文官高等試験に合格。東京府属、三重県事務官、長崎県事務官、鳥取県警察部長、北海道庁警察部長、栃木県内務部長を経て、1920年(大正9年)に神奈川県産業部長に就任した。その後、内務監察官を経て、1924年(大正13年)に退官した。 その後、名古屋市助役を1927年(昭和2年)まで務めた。
煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)… 煙山 専太郎(けむやま せんたろう、1877年(明治10年)6月3日 - 1954年(昭和29年)3月21日)は、明治から昭和にかけての西洋史学者、政治学者。日本のロシア史研究の「草分け」。早稲田大学名誉教授。岩手県出身。 煙山専太郎は、岩手県大川目村(現在の久慈市大川目町)に生まれた。盛岡尋常中学を経て東京帝大の史学科に進んだが、のちに哲学科に転科した。有賀長雄が主宰する『外交時報』に、在学中から寄稿しており、有賀の知遇を得ている。早稲田大学で研究者、教育者として過ごした。 『外交時報』は、1898年(明治31年)に有賀が創刊した国際・外交問題専門誌である。埴原正直が編集人をやめた後、編集事務の方面で田中唯一郎が、執筆面で煙山専太郎が有賀を補佐する存在となったとされる。
川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 19… 川崎 巨泉(かわさき きょせん、1877年6月2日 - 1942年9月15日)は明治時代の浮世絵師、郷土玩具画家。 本名は川崎末吉。明治10年(1877年)に堺県(現:大阪府堺市)に生まれる。他の雅号では人魚洞・芳斎・碧水居とも称した。子供のころから絵が得意で、明治25年(1892年)堺に住んでいた浮世絵師の中井芳滝に師事した。一時期は芳滝の元を離れて東京に絵を学びに行くが、数年で堺に戻って大阪に移住した芳滝に再び師事し浮世絵の手法を学んだ。その後芳滝の娘と結婚し養子となって芳滝の遺志であった新聞・雑誌の挿絵や連載物の他にシリーズで発刊されていた刷物風俗画作品(『大阪名所』)を引き継いだ。更に芳滝と親しかった大阪麦酒(現:アサヒグループホールディングス)との関係も引き継ぎ、明治36年(1903年)、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会のパビリオンの1つ「冷蔵庫」内における陳列とビアホールの様子を描いた絵を残している(アサヒビール蔵)。
安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年… 安藤 又三郎(あんどう またさぶろう、1877年(明治10年)6月1日 – 1955年(昭和30年)2月4日[要出典])は、日本の鉄道官僚。岐阜県大垣市長。 大垣市出身。教育者、漢学者であった安東老山の次男。高等文官試験(行政科)に合格、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。学生時代、佐竹三吾らとともに濃飛学寮(現・岐阜県学寮)の前身とも言うべき西濃出身学生の寄宿舎「到道館」を設けた。鉄道作業局書記、統監府鉄道管理局参事、朝鮮総督府鉄道局参事を歴任。 1916年に濃飛学寮が創立されるとその運営に携わり、1928年から1937年まで理事、1937年からは第2代理事長を務めた(初代は満鉄総裁などを歴任した野村龍太郎)。
竹内 鳳吉(たけうち ほうきち、1877年〈明治10年〉5月… 竹内 鳳吉(たけうち ほうきち、1877年〈明治10年〉5月31日 - 1931年〈昭和6年〉4月17日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県宇摩郡川之江村(川之江町、川之江市を経て現四国中央市)で、竹内雅三郎の長男として生まれた。1900年(明治33年)神宮皇學館卒。香川県立丸亀中学校(現・香川県立丸亀高等学校)助教諭心得、宇摩郡立農林学校(現・愛媛県立土居高等学校)教諭心得、愛媛県社八幡神社社掌、宇摩郡神職支会副会長、鉄道省嘱託、愛媛県議、同参事会員、同副議長、愛媛県山林会議員となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において愛媛2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選し県会議員を辞職。
塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30… 塩谷 鵜平(えんや うへい、1877年(明治10年)5月30日 - 1940年(昭和15年)12月8日)は、日本の俳人。本名は熊蔵、のちに宇平。別号に芋坪舎、華園など。農業。岐阜県稲葉郡鏡島村(現在の岐阜市)出身。 岐阜県鏡島村の裕福な地主の家に生まれる。塩谷宇平の長男。1898年、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科(現在の政治経済学部)卒業。農業を営む。俳句は中学から詠み始め、当初は正岡子規に師事しホトトギスに投句するも、新傾向俳句に移行していった河東碧梧桐に陶酔し、碧梧桐の門人となる。自身の句誌『壬子集』と合併する形で、碧梧桐が主宰する海紅に参加、自由律俳句を詠むようになる。海紅同人とともに、郷里の岐阜でも『鵜川』『俳薮』などの俳誌を次々と発行、とくに1913年に発行した個人誌『土』は生涯に渡って続けられた。
佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5… 佐藤 丑次郎(さとう うしじろう、1877年〈明治10年〉5月28日 - 1940年〈昭和15年〉3月16日)は、日本の法学者・政治学者。専門は憲法学、政治学。山形県出身。佐藤功の父、さとうまきこの祖父。 山形県鶴岡市生まれ。荘内中学を経て、1899年(明治32年)に第二高等学校 (旧制)を、1902年(明治35年)に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。その後、京都帝大の副手、助手を経て、1906年(明治39年)に助教授(政治学・政治史担当)。1908年(明治41年)にドイツ、フランス、イギリスに留学。1911(明治43年)、京都帝国大学法科大学教授。1914年(大正3年)、澤柳事件で京都帝国大学法科大学を辞職し、中京法律学校(現:中京法律専門学校)講師に転じる。
朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月… 朝吹 常吉(あさぶき つねきち、1877年(明治10年)5月28日 - 1955年(昭和30年)3月10日)は、日本の実業家。元三越社長。元帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。 長男朝吹英一は木琴(シロフォン)の研究家で日本木琴協会(現 日本マリンバ協会)創立者、三男朝吹三吉は元慶應義塾大学法学部教授(フランス文学)、長女朝吹登水子は翻訳家として知られる。フランス文学者で詩人の朝吹亮二は孫。小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は曾孫。2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治とは親族関係である。 実業家朝吹英二の子として東京府(現・東京都)に生まれた。慶應義塾幼稚舎を経て1893年12月、慶應義塾正科を卒業。
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26… 荒木 貞夫(あらき さだお、1877年〈明治10年〉5月26日 - 1966年〈昭和41年〉11月2日)は、日本の陸軍軍人、政治家。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣、第1次近衛改造内閣・平沼内閣の文部大臣。位階勲等功級爵位は従二位勲一等功四級男爵。最終階級は陸軍大将。 陸軍発の社会の革新を訴える派閥「一夕会」の領袖として陸軍省を掌握。一夕会の分裂後は昭和維新を掲げる急進的な青年将校に担がれるが、二・二六事件後の異動により予備役編入。 文相就任時の「皇道教育」導入等を理由として、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として起訴され、終身禁固刑を言い渡された。 1877年(明治10年)5月26日、東京都狛江市(出生当時は神奈川県多摩郡和泉村)に、小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。
田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日… 田子 勝彌(たご かつや、1877年(明治10年)5月26日 - 1943年(昭和18年)12月23日) は、日本の動物学者。 福島県石城郡三阪村(現在のいわき市)に生まれる。東京帝国大学の学生時代からサンショウウオを研究していた。内務省時代に史蹟名勝天然記念物調査の考査員を務めた。
神谷 良平(かみや りょうへい、1877年(明治10年)5月… 神谷 良平(かみや りょうへい、1877年(明治10年)5月25日 - 1935年(昭和10年)2月17日)は、日本の医師。千葉市長。 千葉県市原郡千種村(現:市原市)出身。千葉中学校を経て、1902年(明治35年)、千葉医学専門学校を卒業し、同校附属病院医員となった、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)まで函館区立病院産科婦人科医長を務めた。その後、郷里に医院を開業したが、1910年(明治43年)に千葉町に移転した。1917年(大正6年)より千葉町会議員、同市会議員、同議長、千葉県会議員を歴任した。 1928年(昭和3年)、千葉市長に就任した。
結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5… 結城 豊太郎(ゆうき とよたろう、1877年(明治10年)5月24日 - 1951年(昭和26年)8月1日)は、日本の銀行家、大蔵大臣・日本銀行総裁、第5代日本商工会議所会頭を歴任。
高頭 仁兵衛(たかとうじんべえ/にへえ、1877年5月20日… 高頭 仁兵衛(たかとうじんべえ/にへえ、1877年5月20日 - 1958年4月6日)は、明治から昭和にかけての登山家、地主、実業家。仁兵衛は高頭家当主の代々の名乗りで、歴代との区別のため「山の仁兵衛」とも称される。本名は式(しょく)、字は義明、号は海峰。 1877年(明治10年)5月20日、新潟県三島郡深沢村(現在の長岡市)の豪農である父・清蔵義宗と母・リクの長男として生まれる。幼名は式太郎(しょくたろう)。始祖藤原高藤から37代目、中興の祖である高遠宗朝(信州高遠に由来)から16代目、初代仁兵衛義清から9代目、牧野忠精に謁見し名字帯刀を許され高頭姓を名乗った仁兵衛義章から5代目となる。高頭家は代々長岡藩川西組の庄屋を務めた家系で多額納税者でもあり、祖父義直は当時県内で貴族院の互選資格を持つ15人のうちの1人であった。
山本 荘一郎(やまもと そういちろう、1877年(明治10年… 山本 荘一郎(やまもと そういちろう、1877年(明治10年)5月19日 - 1940年(昭和15年)12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員。 長野県小県郡東内村(現上田市)生まれ。小県蚕業学校(長野県上田東高等学校)卒業後、家業の蚕種製造業に従事し、明治33年(1900年)に村収入役となる。同44年(1911年)小県郡会議員となり、大正12年(1923年)村長に推挙され、また同年長野県会議員となり、昭和6年(1931年)に議長を務めた。昭和7年(1932年)第18回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。政友会系の小県政友倶楽部を主宰した。 長野県農会副会長、長野県蚕種同業者組合副組合長などを歴任し、昭和6年(1931年)上田市に本店を置く信濃銀行が経営難に陥ると、頭取に就任し、同行の整理を完了させた。
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5… 薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5月19日 - 1945年〈昭和20年〉10月9日)は、日本の詩人・随筆家。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いた。 1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)に、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれた。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。玉島高等小学校を経て、1893年に岡山県尋常中学校(後に第一岡山中学校。現在の県立岡山朝日高校)を中退。
石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年… 石田元季(いしだ もとすえ、1877年5月17日-1943年1月9日)は、日本の国文学者。 京都出身。号は春風。平安義黌卒。愛知医科大学教授、第八高等学校(現・名古屋大学)講師。研究誌「紙魚(しみ)」を主宰する。 尾張地方の文人や芸能人を研究し、1940年「俳文学考説」で帝国学士院賞を受賞。 1930年「名古屋市行進歌」を作詞(作曲:信時潔)。 死後、蔵書のほとんどは天理図書館に入ったが、一部の手沢本は愛知県立大学図書館に収められた。
平川 松太郎(ひらかわ まつたろう、1877年(明治10年)… 平川 松太郎(ひらかわ まつたろう、1877年(明治10年)5月15日 - 1943年(昭和18年)5月19日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 広島県双三郡和田村(現在の三次市)出身。1901年、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。弁護士試験に合格し、弁護士を開業。また小田原商業学校校長も務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は7回を数えた。その間、濱口内閣で小泉又次郎逓信大臣の秘書官を、第2次若槻内閣で逓信参与官を、平沼内閣で逓信政務次官をそれぞれ務めた。
中村 吉蔵(なかむら きちぞう、1877年5月15日 - 1… 中村 吉蔵(なかむら きちぞう、1877年5月15日 - 1941年12月24日)は、日本の劇作家、演劇研究家。文学博士。早稲田大学教授。 島根県津和野生まれ。後田今市にあった魚屋の岩崎屋に生まれた。大阪に出て為替貯金管理所に勤めるかたわら、雑誌へ小説を投稿する。大阪で高須梅渓らと雑誌「よしあし草」を発行。1899年、作家の広津柳浪を頼って23歳で上京し、東京専門学校(現・早稲田大学〉文学科に入学。在学中から春雨と号して「無花果」など多くの小説を発表。1903年(明治36年)で卒業(27歳)、同年結婚。妻のこうはバイオリニストで晩香女学校などで講師をした。 1906年(明治39年)からアメリカ、ドイツ等で留学し、雑誌記者や日本人倶楽部の文書係などをしながら、演劇を研究する。
植原 悦二郎(うえはら えつじろう、旧字体: 植原 悅二郞、… 植原 悦二郎(うえはら えつじろう、旧字体: 植原 悅二郞、1877年(明治10年)5月15日 - 1962年(昭和37年)12月2日)は、日本の政治家・政治学者。位階は正三位、勲等は勲一等。国務大臣・内務大臣。 長野県安曇郡、のちの南安曇郡明盛村(三郷村を経て現安曇野市)生まれ。3歳の時に生家が没落し、豊科高等小学校卒業後、製糸工場での女工の検番、横浜税関勤務を経て、1899年(明治32年)渡米。学校で給仕として働きながらハイスクールを出て、週刊紙『日米商報』を発行しながら、1907年(明治40年)ワシントン州立大学を卒業。ワシントン大学ではジョン・アレン・スミスの政治経済、ウイリアム・セーボリーの哲学などを学んだ。
小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11… 小松 武平(こまつ ぶへい、1877年(明治10年)5月11日 - 1930年(昭和5年)9月5日)は、長野県の教育者。長野県上田中学(現長野県上田高等学校)、長野県諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)、長野県松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)校長を務めた。 長野県諏訪郡米沢村(現在の茅野市大字米沢にあたる)の鋳物師屋に笹岡初右衛門、わかのの二男として生まれる。 武平は6尺の大男でどこでも大変目立った。彼の教え子の一人元東京地方裁判所判事の樋口和博はそのエッセイ『峠の落し文』の中で、「六尺豊かな体で、街を歩かれる姿は実に威風堂々、頼もしい限りであった」と評している。しかし、気持ちはたいへん細やかで、優しいひとでもあった。
南 梅吉(みなみ うめきち、1877年(明治10年)5月10… 南 梅吉(みなみ うめきち、1877年(明治10年)5月10日 - 1947年(昭和22年)10月24日)は、日本の社会運動家、部落解放運動家、水平運動家。全国水平社初代委員長、日本水平社初代会長。 滋賀県蒲生郡桐原村(現近江八幡市)の農家に生まれた。孤児となり親族に保育される。小学校卒業後、京都に出て徒弟奉公ののち竹皮草履の仲介業をはじめる。 1894年(明治27年)、京都市上京区鷹野北町に移り化粧品製造に従事。1902年(明治35年)から部落改善運動(融和運動)に携わり、青年団を結成。青年団長や村議会議員を務めた。 1922年(大正11年)、全国水平社(全水)の初代委員長となり、京都の自宅に総本部が置かれた。
矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日… 矢沢 孝子(やざわ たかこ、1877年(明治10年)5月6日 - 1956年(昭和31年)4月13日)は、日本の女流歌人である。本名はたか。 兵庫県の篠山町(現在の丹波篠山市)にて、篠山藩士だった矢沢一貫とその妻のてるとの間に長女として生まれた。幼くして父から漢詩や和歌を学び、大阪府立堂島高等女学校(現在の大阪府立大手前高等学校)に入学する。その後中退し、1893年(明治26年)に留学のため上海に移住し、東洋学館にて英語等を学んだ。その後帰国し、1896年(明治29年)には20歳の若さで妻の父の次男と結婚した後に小学校の教員として活動する。 教職を引退した直後に新潮社に入社し、自身が詠んだ歌を同社が出版する「スバル」に寄稿し発表した。
平子 鐸嶺(ひらこ たくれい、1877年5月4日 - 191… 平子 鐸嶺(ひらこ たくれい、1877年5月4日 - 1911年5月10日)は、日本の美術史家である。本名は平子 尚(ひらこ ひさし)。「鐸嶺」の号は、郷里である鈴鹿の嶺に由来するものである。ほかに昔瓦・鈴岱子・古柏艸堂主人・古柏陳人・塵庵といった号をもった。 1877年(明治10年)5月4日、三重県津町片浜町(現在の津市東丸之内近辺)に長子として生まれる。父の尚次郎は「津の断髪三人男」とも呼ばれた開明的な人物で、横浜で生糸貿易商を営み、帰郷ののちは弁理士、米穀商、妓楼の運営、参宮鉄道の建設などに参画した。母のかうは津の呉服商・伊阪屋の長女で藩主・藤堂家の奥向として仕えた。 津市立養正小学校を経て、1889年(明治22年)に旧津藩士のための私塾である励精館に入学。
森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 … 森 巻吉(もり けんきち、1877年(明治10年)5月3日 - 1939年(昭和14年)7月12日)は、日本の教育者。 石川県金沢市に岐阜訓盲院創設者森巻耳の長男として生まれた。第四高等学校を経て、1904年(明治37年)、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業。第一高等学校嘱託として、清国留学生の英語授業を担当した。1909年(明治42年)、第一高等学校教授に就任し、1922年(大正11年)から翌年にかけて欧米に在留した。1927年(昭和2年)、松本高等学校校長となり、1929年(昭和4年)には第一高等学校校長に転じた。 1937年(昭和12年)に退官した後は、法政大学文学部長・同高等師範部長を務めた。
倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)… 倉島 富次郎(くらしま とみじろう、1877年(明治10年)4月28日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 長野県小県郡本原村(現・上田市真田町本原)出身。1898年(明治31年)陸軍士官学校第10期卒業。 1922年(大正11年)2月に麻布連隊区司令官を経て、同年4月に陸軍歩兵大佐に昇進。その後、1923年(大正12年)8月に歩兵第69連隊長、1925年(大正14年)5月に富山連隊区司令部附、同年8月に第9師団司令部附・金沢医科大学服務を経て、1927年(昭和2年)3月に陸軍少将・歩兵第4旅団長に補任。翌年の1928年(昭和3年)8月10日に待命、同年8月29日に予備役に編入した。
碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年)4… 碧川 企救男(みどりかわ きくお、明治10年(1877年)4月27日) - 昭和9年(1934年)4月12日)は日本のジャーナリスト。 婦人運動家碧川かたの夫、映画カメラマン碧川道夫の父。 福岡県企救郡小倉町(後の小倉市、その後北九州市小倉区を経て現在は分区により小倉北区)に長崎裁判所小倉区裁判所長碧川真澄、みねの二男として生まれた。父真澄は、もと伊予新谷藩の下級武士。 米子の角盤高等小学校、鳥取中学(現在の鳥取西高等学校)を経て東京専門学校英語政治科(現在の早稲田大学)を卒業。北海道集治監釧路分監出張所(現在の網走刑務所)に行き、そこで一年間生活をした 明治35年(1902年)『小樽新聞』の論説記者になる。
藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年… 藁谷 勇三郎(わらがや ゆうさぶろう、1877年(明治10年)4月24日 - 1966年(昭和41年)7月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。 福島県士族の三男である。会津中学を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(第10期)を卒業し、翌年6月27日、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊附となった。戸山学校教官、将校生徒試験常置委員、歩兵第15連隊大隊長、歩兵第59連隊附、松本連隊区司令官等を歴任し、1922年(大正11年)予備役編入となる。日露戦争、シベリア出兵に従軍し、功五級に叙せられた。教官を務めた戸山学校は陸軍歩兵戦術の研究、教育に当たる機関で、藁谷は剣術、水泳、体操に関係する下記の著作を刊行した。
伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治… 伊藤 小坡(いとう しょうは、本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)は、三重県度会郡宇治浦田町(現伊勢市宇治浦田町)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。 伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、1891年(明治24年)頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始める。明治28年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いた。 1898年(明治31年)には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けている。
廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 19… 廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年4月23日 - 1925年8月20日)は、清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党では容共左派の指導者として知られる。仲愷は字で、名は恩煦。別名に夷白。筆名に屠富、淵実。祖貫は広東省恵州府帰善県。兄は廖鳳書。妻は何香凝。子は廖夢醒、廖承志。 アメリカ合衆国サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれる。1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した。翌1897年(光緒24年)10月に何香凝と結婚している。1902年(光緒28年)に日本へ留学し、早稲田大学経済予科を経て中央大学政治経済科に入学した。
田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月… 田中 喜代松(たなか きよまつ、1877年(明治10年)4月20日 - 1944年(昭和19年)3月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・関原。 群馬県群馬郡新波村(現:高崎市)で関原家に生まれ、田中敬造の養子となる。1899年、群馬県尋常中学校を卒業し、その後、同志社で学ぶ。同志社在学中、日露戦争時に基督教青年会軍政慰問部主事として満州に赴任し慰問事業に二年間従事した。 1907年4月、北海道に移り製材事業を経営。(株) 田中木工場社長、北海興業取締役、北海工業取締役、旭川曲木工芸取締役、北海石炭取締役、昭南電燭取締役などを務めた。 政界では、旭川区会議員、同市会議員、同副議長、同議長、北海道会議員を歴任。
神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月… 松平 恆雄(まつだいら つねお、1877年(明治10年)4月17日 - 1949年(昭和24年)11月14日)は、日本の外交官、政治家。
辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月… 辻 善之助(つじ ぜんのすけ、 1877年(明治10年)4月15日 - 1955年(昭和30年)10月13日)は、戦前の日本の歴史学者。東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授。文学博士。専門は日本仏教史。仏教史研究から日本人の精神と日本文化の形成を探求し実証主義的研究を貫き、日本史学の発展に寄与し、実証的な日本仏教史を確立。 1877年(明治10年)4月、兵庫県姫路元塩町(現在の兵庫県姫路市元塩町)に生まれる。父は善次郎。母はつね。神童の誉たかく、小学校・中学校と抜群の成績であった。1893年(明治26年)に姫路中学校(現兵庫県立姫路西高等学校)より京都の第三高等中学校予科3年に編入。翌1894年(明治27年)に学制改革で第三高等学校に改組の上、予科が廃止されると、他の高校に転属を余儀なくされたが、第一高等学校に転校することができた。
小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月1… 小寺 謙吉(こでら けんきち、1877年〈明治10年〉4月14日 - 1949年〈昭和24年〉9月27日)は、日本の政治家、学校経営者。衆議院議員、第11代神戸市長。博士(Doctor of Civil Law、 コロンビア大学)。 1877年旧三田藩士・小寺泰次郎の長男として神戸市生田区(現中央区)所在の小寺邸(現相楽園)に生まれる。1894年(明治27年)兵庫県立神戸商業学校 卒業、1896年(明治29年)杉浦重剛の称好塾に学んだのち、1897年(明治30年)米国に留学し、コロンビア大学で法律を、ジョンズ・ホプキンス大学で政治学を学び、更にヨーロッパのハイデルベルク大学、ウィーン大学、ジュネーブ大学で政治・法律学を修めた。
伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 19… 伊藤長七(いとう ちょうしち、1877年4月13日 - 1930年4月19日)は、日本の教育者。東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校)の初代校長として大正自由教育運動(欧米では「新教育運動」)を担い、当時としては画期的な教育を次々と打ち出した型破りの教育者として知られる。 明治10年(1877年)4月13日、長野県諏訪郡四賀村五八五七番地(現・諏訪市四賀普門寺)で、富農の伊藤孫右衛門の三男として生まれる。母は河西兵四郎の長女・りか。長七が3歳のときに母が死去したため、祖母のなかに育てられた。 幼少より神童と囃され、入学年齢よりも1年早く就学した。上桑原学校初等科を経て、1888年、郡立諏訪高等小学校3年に編入。