中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 -… 中原 悌二郎(なかはら ていじろう、1888年10月4日 - 1921年1月7日)は、大正期日本を代表する彫刻家の一人。 北海道釧路市の生まれ。1897年に母とともに旭川市に移り、母方の叔父の養子となる。1902年に忠別尋常高等小学校高等科(現・旭川市立日章小学校)を卒業し北海道庁立札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)に入学する。 医師を目指していたが、美術教師の林竹治郎に影響を受けて17歳の時に画家を志し、3年生のとき落第したのを機に札幌中を中退して上京、白馬会研究所・太平洋画会研究所洋画部で学び中村彝と親交を結ぶ。その後荻原碌山の感化によって彫刻に転じ、太平洋画会研究所彫塑部で新海竹太郎に師事。
大西 克禮(おおにし よしのり、1888年10月4日 - 1… 大西 克禮(おおにし よしのり、1888年10月4日 - 1959年2月6日)は、日本の美学者。東京帝国大学名誉教授。東京生まれ。 シラー、ヘーゲルなどの美学を学び、これを日本美に応用して『幽玄とあはれ』などの著作に結実させ、また京都帝国大学教授・深田康算によるカント『判断力批判』の未完訳を完結させた。比較美学の先駆者である。定年後は博多に隠棲し研究と著述に明け暮れた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
二見 直三(ふたみ なおぞう、1888年〈明治21年〉10月… 二見 直三(ふたみ なおぞう、1888年〈明治21年〉10月4日 - 1953年〈昭和28年〉12月30日)は、日本の内務・警察・台湾総督府官僚。官選滋賀県知事、盛岡市長。 岩手県盛岡市出身。二見直吉の長男として生まれる。盛岡中学、第八高等学校を卒業。1915年、東京帝国大学法科大学を卒業。1917年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年2月、内務省に入省し福井県属となる。 以後、福井県警視、山口県理事官、秋田県書記官・学務部長、大分県書記官・警察部長、奈良県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、宮城県内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1936年4月、滋賀県知事に就任。同年9月、台湾総督府警務局長に転じた。
堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 -… 堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優。本名近藤 浪之助(こんどう なみのすけ)。松竹蒲田撮影所での主演俳優として、第2期の阪東妻三郎プロダクションの助演俳優として知られる。 1888年(明治21年)10月2日、東京府荏原郡品川町南品川(現在の東京都品川区南品川)に生まれる。 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業、1910年(明治43年)、井上正夫の一門に加わる。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)によれば、初舞台は1909年(明治42年)に井上正夫一座が有楽座(現在の丸の内ピカデリー[要検証 – ノート])で上演した「新時代劇」である旨が記されている。
佐藤 実(實、さとう みのる、1888年10月1日 - 19… 佐藤 実(實、さとう みのる、1888年10月1日 - 1933年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 石川県出身。1909年、石川県立七尾中学校(現・石川県立七尾高等学校)卒。農業を営む。穴水町助役、同町長、鳳至銀行取締役、同監査役、七尾商工銀行、能登産業銀行各取締役、能登新聞社社長となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において石川5区から憲政会公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では石川2区から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には次点で落選した。1933年死去。
小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月… 小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月 - 1959年(昭和34年))は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。岡山県倉敷市出身 1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学する。 その後、1909年(明治42年)6月に同校を卒業し、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し、一年志願兵として入営し陸軍二等計手になった後、1915年(大正4年)台湾銀行書記として入行した。
小村 俊一(こむら しゅんいち、1888年9月30日 - 1… 小村 俊一(こむら しゅんいち、1888年9月30日 - 1958年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 宮崎県出身。東京高等商業学校で学ぶ。飫肥町議、南那珂郡議、宮崎県議、南那珂郡十六ヶ町村電気組合議員、飫肥町信用組合長、南那珂郡林産物同業組合長、日南市森林組合長、斗南新聞、南明館各(株)社長となる 1930年の第17回衆議院議員総選挙において宮崎県全県区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選し、1936年の第19回衆議院議員総選挙でも落選した。1958年死去。
木村 兵太郎(きむら へいたろう、1888年(明治21年)9… 木村 兵太郎(きむら へいたろう、1888年(明治21年)9月28日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。太平洋戦争の南方作戦におけるビルマの戦いで司令官を務めた。戦後はA級戦犯として逮捕され、極東国際軍事裁判で死刑判決を受け処刑された。 東京都出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍砲工学校高等科、陸軍大学校卒。昭和14年(1939年)3月から第32師団長、昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。同年3月から軍事参議官兼兵器行政本部長。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。
石松 量蔵(いしまつ りょうぞう、1888年9月28日 - … 石松 量蔵(いしまつ りょうぞう、1888年9月28日 - 1974年4月23日)は、日本の盲目の牧師。 ジェームス・シェーラー ラファス・ピーリー 山内量平・山内幹枝 山内直丸 川瀬徳太郎 三浦豕 石松量蔵 佐藤繁彦 鍋谷堯爾
小此木 歌治(おこのぎ うたじ、1888年〈明治21年〉9月… 小此木 歌治(おこのぎ うたじ、1888年〈明治21年〉9月28日 ‐ 1953年〈昭和28年〉11月20日) は、大正末から昭和期の実業家、政治家。横浜木材社長。衆議院議員、横浜市会副議長。旧姓・栗原。 埼玉県幡羅郡、のちの大里郡秦村(妻沼町を経て現熊谷市)生まれ。栗原陸五郎の四男。1898年(明治31年)、横浜に移り、横浜三省小学校を卒業。小此木才三の養子となる。1903年(明治36年)、横浜補修夜学を卒業。 1923年(大正12年)、家督を相続し木材販売業を継承。関東大震災後の木材特需で財を成した。 1935年(昭和10年)、倉庫会社を設立。横浜港に大きな倉庫を構え、小此木家は港湾荷役の元締めである藤木組(現・藤木企業)との関係を深める。
関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、188… 関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、1888年 (明治21年)9月28日 - 1937年(昭和12年)5月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。位階は正五位。勲等は勲三等。 高知県長岡郡稲生村(現南国市)において井上虎吉と益の三男として生まれる。高知県立中学海南学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業。卒業席次は149名中78番。少尉候補生として練習艦隊の浅間乗組、香取乗組を経て、1911年12月、海軍少尉に任官。1913年11月、海軍中尉に任官。1914年5月、海軍砲術学校普通科を卒業、同年12月、海軍水雷学校普通科を卒業。曙乗組、鞍馬乗組、扶桑乗組、扶桑分隊長心得を経て、1917年12月、海軍大尉に任官。
細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月2… 細川 嘉六(ほそかわ かろく、1888年〈明治21年〉9月27日 - 1962年〈昭和37年〉12月2日)は、日本のジャーナリスト・政治学者。日本共産党参議院議員。 ※以下、第一高等学校時代までの記述は、1953年に服部之総が細川からの聞き取りにより作成したが未刊となっていた「河童自伝」(2019年刊行の『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』に収録)および『スモモの花咲くころに 評伝細川嘉六』巻末年譜に基づく。 富山県下新川郡泊町(現・朝日町)出身。生家があったのは、東三浦町と呼ばれる一角だった。後年の回想によると、父の実家は町方で晒問屋を営んでいたが、近代的紡績産業の発展で仕事を失い、実家の次男だった父は季節によって様々な仕事に就く「稼ぎ人」と呼ばれる職業だった。
水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明… 水上 源蔵(みなかみ / みずかみ げんぞう、1888年(明治21年)9月26日 - 1944年(昭和19年)8月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東八代郡一宮町(現笛吹市一宮町)出身。水上長光の三男として生れる。旧制日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、1911年(明治44年)5月、同校(第23期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第66連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1919年(大正8年)3月から翌年10月までシベリア出兵に従軍。 その後、歩兵第66連隊中隊長、日川中学校配属将校、第1師団司令部付、歩兵第49連隊副官、歩兵第78連隊大隊長、第8国境守備隊第4地区隊長、歩兵第66連隊長、津連隊区司令官、歩兵第110連隊長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。
森田 米治(もりた よねじ、1888年(明治21年)9月25… 森田 米治(もりた よねじ、1888年(明治21年)9月25日 - 1972年(昭和47年)6月8日)は、日本の実業家。奈良県山辺郡都祁村(現・奈良市都祁小山戸町)出身。1917年(大正6年)に回効散本舗森田製薬所を創業した。 1973年(昭和48年)に、一時は再建を果たした回効散本舗森田製薬も石油ショックや社長になっていた長男、森田重太郎の高齢化もあり、1998年(平成10年)、ライセンスを「龍角散」に売却。廃業した。しかし「龍角散」では、「処方が古く現在の製造規格にあっていない為にラインに乗せることが出来ず、販売する予定はない。」とのこと。 森田米治は80歳を過ぎてから脳梗塞を数回発症。1972年(昭和47年)6月8日、満83歳で逝去した。
徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月… 徳永 寿美子(とくなが すみこ、1888年(明治21年)9月24日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、日本の児童文学作家、翻訳家。 山梨県甲府市出身。1906年(明治39年)東京府立第二高等女学校(現東京都立竹早高等学校)卒。 子に即興の話をせがまれたことから童話を書くようになる。1921年(大正10年)に最初の作品集である『薔薇の踊子』を刊行し、以来母子の愛情を主要なテーマとした作品群を発表し、それらは「お母さん童話」と呼ばれた。「フランダースの犬」を始め、翻訳も数多く手がけ、和歌や絵画も手がけた。 夫の前田晁は山梨市出身の小説家・翻訳家で『文章世界』編集者を務めた。
遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1… 遠山 寛賢(とおやま かんけん、1888年9月24日 - 1966年11月)は、沖縄県出身の空手家。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)総本部修道舘舘長、大師範。昭和期を代表する空手家の一人であり、糸洲安恒の晩年の高弟の一人として知られる。 遠山寛賢は、旧姓を親泊といい、1888年(明治21年)、沖縄県首里市に生まれた。幼少の頃から、板良敷朝郁、糸洲安恒、東恩納寛量らに師事した。それぞれ、どの時期に師事したかは不明であるが、糸洲に師事したのは、遠山が沖縄県師範学校へ入学(1906年)してからであると考えられる。当時の師範学校の唐手師範は糸洲安恒、師範代は屋部憲通が務めていた。在校中の1908年(明治41年)から3年間、遠山は糸洲、屋部の助手を務めた。
石川 善盛(いしかわ よしもり、1888年(明治21年)9月… 石川 善盛(いしかわ よしもり、1888年(明治21年)9月23日 - 1946年(昭和21年)1月18日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 沖縄県中頭郡美里村(現在の沖縄市)出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に沖縄産業株式会社取締役を務めた。
酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月2… 酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月22日 - 1962年〈昭和37年〉2月12日)は、日本の華族、詩人、歌人、書家。位階爵位は正三位伯爵。財団法人致道博物館の創設者。 庄内藩11代藩主だった華族の酒井忠篤伯爵の次男で、最後の藩主酒井忠宝(忠篤の弟)の養子にあたる。幼名は小五郎。1915年(大正4年)の忠篤の死去に伴い、酒井佐衛門尉家20代当主となるとともに、2代伯爵位を襲爵した。富裕な華族で、山形県の多額納税者だった。1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が戦後巡幸した際には、鶴岡市内の邸宅が御泊所となった。 1950年(昭和25年)、地域振興のため所有する庄内藩主御隠殿及び藩校致道館資料を財団法人以文会(現:致道博物館)を設立の上で寄付。
枝正 義郎(えだまさ よしろう、明治21年(1888年)9月… 枝正 義郎(えだまさ よしろう、明治21年(1888年)9月22日 - 昭和19年(1944年)9月8日)は、広島県出身の映画監督、カメラマン。 円谷英二を初め多くの秀でた監督やカメラマンを育てた日本映画初期の先覚者。映画技術者の草分け。 広島県佐伯郡玖島村(現・廿日市市玖島)生まれ。学歴は不詳。上京して明治41年(1908年)日本で最初に映画の興行に着手したといわれる吉沢商店に入り、目黒行人坂撮影所で千葉吉蔵に師事、現像と撮影技術を学ぶ。その後、福宝堂、東洋商会と移籍し大正3年(1914年)、その両社合併により生まれた新会社・天然色活動写真株式会社(天活)へ転じ撮影技師となる。ここでは沢村四郎五郎、市川莚十郎の旧劇映画を撮影。
横光 吉規(よこみつ よしのり、1888年(明治21年)9月… 横光 吉規(よこみつ よしのり、1888年(明治21年)9月21日 – 1965年(昭和40年)3月11日)は、静岡県浜松市長。台湾総督府官僚。 大分県下毛郡中津町(現在の中津市)出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。台湾総督府鉄道部書記、同事務官、同庶務課長、殖産局商工課長、台南州内務部長、殖産局農務課長、台南州知事を歴任した。 1935年(昭和10年)、浜松市長に就任し、2期在任した。 その後は静岡県食糧営団理事長を務めた。戦後、公職追放となった。
本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1… 本山 桂川(もとやま けいせん、1888年9月21日 - 1974年10月10日)は、日本の民俗学者、文学碑研究家、文筆家。本名・豊治。孫は漫画家の本山一城。 長崎市出島町出身。1912年早稲田大学政治経済科卒。民俗および民芸の研究に従事し「日本民俗図誌」全20巻、「生活民俗図説」などの著書がある。戦後、金石文化研究所を主宰。その他実用書を含めて多種多様な著作をもつ。
松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治2… 松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年〈明治21年〉9月21日 - 1980年〈昭和55年〉9月30日)は日本の奇術師。敦賀市生まれ。本名は山田(旧姓:島田)松太郎。初代・第3代日本奇術協会会長。 日本における奇術の発展と普及に貢献した業績により、日本奇術界の「中興の祖」とも呼ばれた。 母親は奇術師の松旭斎天一の姉であった。子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。 1905年(明治38年)に17歳で松旭斎天一に弟子入り、して松旭斎天松という芸名をもらった。兄弟弟子には松旭斎天勝や松旭斎天二らがいた。「天一一座」では天一の手伝いをやりながら、奇術の腕を磨いた。 師匠の天一が死去してからは松旭斎天洋と改名し、1912年(大正元年)に「天洋一座」を旗揚げして座長として独立し活躍した。
伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978… 伊豆 富人(いず とみと、1888年9月20日 - 1978年4月13日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、熊本日日新聞社長。熊本県近代文化功労者、八代市名誉市民。 熊本県芦北郡日奈久町(現八代市)生まれ。上京して早稲田大学専門部政治経済科に入学、永井柳太郎の講義を聴いていた。上京後、同郷の池辺三山を頼るが、一年足らずで亡くなったため、池辺三山の弟分である鳥居素川に相談する。鳥居素川が安達謙蔵に話をして、故郷熊本の九州日日新聞の東京通信員という名目で学費を補助してもらうことになり、雑誌にも毎月二十枚ほど書くようになった。鳥居素川から卒業したら朝日新聞に入れてやると言われ、1915年(大正4年)に早大卒業翌日に東京朝日新聞編集局長の松山忠二郎と面会して外務省担当を打診されるが、九州日日新聞から通信員の名目で学費補助を受けていたことを説明して、九州日日新聞に入社する。
足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉… 足立 豊(足立 豐、あだち ゆたか、1888年〈明治21年〉9月19日 - 1945年〈昭和20年〉1月5日)は、大正から昭和期の教育者、政治家、華族。貴族院男爵議員。旧姓・田口。 茨城県で田口贇郎の五男として生まれ、1906年(明治39年)12月、足立正声の養子となる。養父の死去に伴い、1907年(明治40年)5月13日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)東京農業大学を卒業。1920年(大正9年)宮内属に就任。その後、東京農業大学助手、同講師などを務めた。 1925年(大正14年)7月10月、貴族院男爵議員に選出され、公正会に属して活動し1939年(昭和14年)7月9日まで2期在任した。
錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - … 錦洋 慶祐(にしきなだ けいすけ、1888年9月19日 - 1929年6月8日)は、現在の香川県坂出市出身で井筒部屋に所属した力士。本名は野口 慶祐。174cm、112kg。最高位は東前頭11枚目。 角界入門以前には上京して砂糖屋で働いていたが、主人の紹介で井筒部屋に入門。1916年1月幕下付出で初土俵、1918年1月十両昇進、5月に十両優勝し、1919年1月に新入幕を果たした。体格にも恵まれ、上突っ張りを得意として、出足も速く、腰も良いため、早くから将来の三役と期待されていた。しかし新入幕場所の直前に腸チフスに罹り、連続休場し十両に陥落。結局幕内では1日も出場できなかった。その後、2度目の十両優勝を果たすも再入幕はならず、1922年1月廃業した。
渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月… 渋谷 兼八(しぶたに かねはち、1888年(明治21年)9月19日 - 1968年(昭和43年)12月16日)は、日本の水産業者である。 島根県島根郡片江浦(後の八束郡美保関町、現在の松江市)の生まれ。アメリカ合衆国への渡航を志したことにより、1909年(明治42年)に日本郵船が所有する「セイロン丸」の水主として乗船する。しかし航海中にイギリスのトロール漁船に遭遇したことにより下船し、帆船の手操網漁法の改善のために1911年(明治44年)に大日本水産会漁船船員養成所で学んだ。修了後は島根県水産試験場に勤務し、機船による手操網の試験および操業に携わる。 1913年(大正2年)に独立後は友人ら仲間と共に帆船である「方結丸」の建造に携わり、5年後の1918年(大正7年)には動力による網の巻上機の考案にも携わり日本で初の機船底引網漁法の開発に尽力した。
石黒 慶蔵(いしぐろ けいぞう、1888年9月18日 - 1… 石黒 慶蔵(いしぐろ けいぞう、1888年9月18日 - 1963年3月1日)は、日本の歯科医師、歯科医療器具発明家、歯科医院経営者。(社)鶴岡歯科医師会会長、(社)山形県歯科医師会理事。 23歳年上の従兄弟に発明家・斎藤外市がいた事が影響したのか、歯科医師を務める傍ら、歯科医療器具の発明に熱心に取り組んで、数多くの新案特許を収得している。玄人の域に達していたと云われる、ラジオ受信機の組立てや芸術写真が趣味であった。また、当時の地元では、歯学士の学位を収得した歯科医師は珍しく関心を持たれた。
松岡 潤吉(まつおか じゅんきち、1888年(明治21年)9… 松岡 潤吉(まつおか じゅんきち、1888年(明治21年)9月18日 - 1951年(昭和26年)9月7日)は、大正から昭和時代前期の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。松岡汽船創業者。旧姓は馬場、前名は敬三。 兵庫県武庫郡精道村(現芦屋市)出身。馬場三右衛門の弟として生まれ、のち松岡修造の養子となり1925年(大正14年)家督を相続し前名敬三を改めた。1909年(明治42年)慶應義塾大学部理財科卒業。 1910年(明治43年)以降、大和田紡績、松岡汽船各社長、北海道松岡牧場主、阪神急行電鉄監査役、東洋鋼板、北海道炭礦汽船、東宝各取締役、日本海運協会顧問、日本体育協会評議員、神戸日伯協会理事、大阪駐在ポーランド国名誉領事などを歴任した。
吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17… 吉野 信次(よしの しんじ、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1971年〈昭和46年〉5月9日)は、日本の農商務・商工官僚、政治家。 商工大臣、運輸大臣、貴族院議員、参議院議員を歴任。大正デモクラシーを主導した政治学者吉野作造の弟。 宮城県志田郡大柿村(現大崎市古川)に綿屋を営む吉野年蔵、こう夫妻の三男として生まれた。吉野作造は長兄である。 旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)、一高を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を首席卒業(銀時計受領)し、農商務省に入省する。農商務大臣秘書官、1925年に農商務省が農林省と商工省に分離し、以後は商工省文書課長、工務局長を経て、1931年(昭和6年)商工次官。
尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 … 尚 昌(しょう しょう、1888年〈明治21年〉9月17日 - 1923年〈大正12年〉6月19日)は、日本の華族、宮内官。爵位は侯爵。貴族院侯爵議員。第二尚氏第21代当主。 1888年(明治21年)9月11日、尚典の長男として首里で誕生。1896年(明治29年)に上京し、学習院初等科に入学する。1909年(明治42年)に旧制学習院高等科を中退し、1911年(明治44年)に父の薦めでオックスフォード大学に留学した。随行員として沖縄県出身の大蔵官僚である神山政良を伴う。 1915年(大正4年)に帰国し、宮内省式部官となる。1918年(大正7年)9月18日に長男誕生。東恩納寛惇に名前(尚裕)をつけてもらっている。
木村 弘人(きむら ひろと、1888年(明治21年)9月15… 木村 弘人(きむら ひろと、1888年(明治21年)9月15日 - 1978年(昭和53年)4月23日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓は西山。 1888年(明治21年)に宮城県で生まれた。陸軍士官学校第21期、東京帝国大学冶金学科卒業。1932年(昭和7年)、陸軍砲兵大佐に進級と同時に陸軍造兵廠名古屋工廠千種兵器製造所長に就任した。1934年(昭和9年)に関東軍兵器部長、1935年(昭和10年)に陸軍造兵廠名古屋工廠作業課長を経て、1936年(昭和11年)に陸軍造兵廠技術部長に就任。 1937年(昭和12年)に陸軍少将に進級し、1938年(昭和13年)に陸軍造兵廠名古屋工廠長に就任。
杉村 キナラブック(すぎむら キナラブック、1888年9月1… 杉村 キナラブック(すぎむら キナラブック、1888年9月15日 - 1973年9月9日)は、北海道雨竜郡イチャン(現在の深川市一已)出身のアイヌ女性。雨竜村で育ち、結婚後は旭川市に移り住み、一生をそこで終えたため旭川のアイヌ文化伝承者として知られる。 アイヌ名のKinarapukをそのままカタカナ表記にするとキナラプㇰとなるが、一般的にはキナラブックという表記で知られる。Kinarapukは「蒲の節を手に取る」の意で、実際に彼女はチタラペ(蒲で編んだござ)作りの名人だった。 雨竜郡イチャン(一已)コタンに生まれる。父は稲高トンビン、母はイトモシマツ。妹の太田コウンテカン(和名シモ)もアイヌ文化伝承者として知られる。
久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう、1888年9月11日… 久留島 秀三郎(くるしま ひでさぶろう、1888年9月11日 - 1970年9月22日)は京都府出身の日本の実業家、作家。鉱山技師で工学博士でもある。同和鉱業社長、日本科学技術連盟第5代理事長、ボーイスカウト日本連盟第5代総長など多くの要職を務めた。義父は児童文学者の久留島武彦。従三位。 1888年(明治21年)9月11日、京都で薬種商を営んでいた父(六代)中野忠八と母みねの間に生まれた。次男ではあったが、曾祖父の幼名であった秀三郎の名を受け継いだという。京都修道小学校、第三高等小学校を卒業。 京都第二中学校に進学するも5年半をかけて卒業できず、1905年(明治38年)に上京し日本中学校に転校した。
三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉… 三宅 哲一郎(みやけ てついちろう、1888年〈明治21年〉9月11日 - 1979年〈昭和54年〉1月23日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 和歌山県出身。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を経て、1911年(明治44年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1914年(大正3年)、外交官及領事官試験に合格。領事官補・関東都督府事務官、領事、公使館三等書記官、外務事務官・参事官、外務書記官・条約局第三課長、公使館二等書記官、同一等書記官などを歴任し、その間、スウェーデン、オランダに勤務した。バタヴィア総領事時代には、横浜正金銀行に学校設立を働きかけたり、シムラ会商に政府代表として参加し、イギリス、インドと通商問題の交渉を行うなどした。
増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 … 増田 清(ますだ きよし、1888年(明治21年)9月9日 - 1977年(昭和52年)2月9日)は、日本の建築家。 主に大阪を拠点に活動したが、現存するものは少ない。 功績に対して知名度が低く「知られざる名建築家」「戦前活躍しながら忘れられていた名建築家」などと紹介されている。 娘婿は阿川弘之、阿川尚之と阿川佐和子は孫にあたる。 増田は日本の初期鉄筋コンクリート構造(RC構造)建築普及に貢献した建築家である。大阪を中心に京都・奈良・兵庫で、更に東京や広島・呉で仕事し、設計したすべての建築物がRC構造であった。大きな特徴として、芸術・造形美よりも構造美・機能美、特に耐震を重視し極めて頑丈な建物を設計していることが挙げられる。
佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970… 佐久間 鼎(さくま かなえ、1888年9月7日 - 1970年1月9日)は、日本の心理学者、言語学者、国語学者。 1888年、千葉県で生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に入学。心理学専修で学び、1913年に卒業、同大学大学院に進んで日本語のアクセントについて研究した。 1923年に欧州留学を命じられ、ドイツ留学中にベルリン大学のヴォルフガング・ケーラーのもとでゲシュタルト心理学を学んだ。1925年に帰国し、九州帝国大学の初代心理学講座担任教授に就いた。九州大学には、戦後1949年の退官まで奉職。1966年には日本学士院会員に選出された。 1952年、東洋大学教授に迎えられ、心理学、国語学を担当。
石橋 うめ(いしばし うめ、1888年〈明治21年〉9月5日… 石橋 うめ(いしばし うめ、1888年〈明治21年〉9月5日 - 1971年〈昭和46年〉8月9日)は、日本の55代内閣総理大臣である石橋湛山の妻。福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)出身。 旧藩時代、米沢藩士として家老職を務めた名門・岩井家出身の岩井尊記の三女として生まれる。東小松川松江尋常高等小学校の教師をしていたうめは、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で1912年(大正元年)11月に石橋湛山と結婚する。ちなみにうめは、福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子であった。 1944年(昭和19年)2月には海軍主計中尉だった次男・和彦がマーシャル群島のクェゼリン環礁で戦死した。 夫の湛山は1956年(昭和31年)12月23日に内閣総理大臣に就任するが、病気を理由に翌年の1957年(昭和32年)2月25日に退任。
3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21… 3代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年〈明治21年〉9月4日 - 1971年〈昭和46年〉2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上 良太郎。位階は正五位。 東京浅草生まれ。隅田川に窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、旧制錦城中学校卒業の頃、1905年から作陶に従事する。板谷波山に師事。1914年に横浜へ移り、1928年、帝展初入選。1953年、第1回横浜文化賞受賞。1959年、「丸紋平皿」で日本芸術院賞を受賞。1966年、日展理事に任じられるとともに、日本芸術院会員となる。1967年、勲三等瑞宝章受賞。1971年死去。死没日付をもって正五位に叙された。 温厚な人柄を反映したかのような、気品の高い風格ある作風が特徴である。
池園 哲太郎(いけぞの てつたろう、1888年(明治21年)… 池園 哲太郎(いけぞの てつたろう、1888年(明治21年)9月2日 - 没年不詳)は、東京市区長。慶應義塾大学教授。 福岡県出身。1911年(明治44年)、立教大学文科を卒業。1916年(大正5年)からアメリカ合衆国に留学し、1918年(大正7年)にコロンビア大学文科を卒業し、1919年(大正8年)にゼネラル神学院とニューヨーク大学文科を卒業し、修士号を得た。帰国後、慶應義塾大学教授を経て、東京市に入り、社会教育課長を務めた。1931年(昭和6年)1月に浅草区長となり、淀橋区長、豊島区長、下谷区長を歴任した。 その他、大日本連合青年団嘱託、東京市連合青年団嘱託を務めた。 その後、仙台市助役を務めた。
金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1… 金原 省吾(きんばら せいご、1888年〈明治21年〉9月1日 - 1958年〈昭和33年〉8月2日)は、長野県茅野市出身の美学者、美術史学者。昭和期の歌人。帝国美術学校教授。旧姓は河西。 長野県諏訪郡湖東村(現茅野市湖東区)の河西家に生まれ、北安曇郡大町の金原家の養子となる。1910年長野師範学校卒業後に諏訪郡湖南小学校(現在の諏訪市湖南小学校)の訓導となるが上京し、正則英語学校を経て、1915年早稲田大学文学部哲学科を卒業する。さらに同大研究科で東洋美学、東洋美術史を研究。 1921年より日本美術学校教授、1929年より帝国美術学校(現武蔵野美術大学)教授(1935年、校長北昤吉と学生らの対立より起きた同盟休校事件(学生ストライキ)が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立)。
加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月3… 加藤 みどり(かとう みどり、1888年(明治21年)8月31日 - 1922年(大正11年)5月1日)は、明治・大正期の小説家。本名はきくよ。月刊誌「青鞜」の社員であった。 1888年(明治21年)8月31日、長野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)にて、医師の父・高仲泰一と、母・久与の間に、長女として生れる。1899年(明治32年)12月11日、母・久与が病死(享年32歳)。幼い4人の弟妹たちの世話を、11歳のきくよがすることとなった。 文学に憧れ始めたのは小学校4年か5年の頃のことで、受持ちの教師の作った狂歌のようなものを面白く思い、家にあった本の物語や和歌を読み耽った。その後、「新小説」「早稲田文学」「明星」などの文芸雑誌や、与謝野晶子、島崎藤村などを愛読した。
渕田 長一郎(淵田、ふちた ちょういちろう、1888年(明治… 渕田 長一郎(淵田、ふちた ちょういちろう、1888年(明治21年)8月30日 - 1971年(昭和46年)10月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、人吉市会議長、熊本県人吉市長。 熊本県で渕田常一の長男として生まれる。1907年(明治40年)熊本商業学校(現熊本県立熊本商業高等学校)を卒業し、同年父が死去して家督を相続し、家業の「銀の露」焼酎醸造業を継承した。通信教育で資格を取得し、1917年(大正6年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した。その後、人吉酒造組合長、熊本県酒造組合連合会副会長、日本茶業取締役などを務めた。 早稲田大学在学中に友人たちが人吉町会議員選挙に立候補届をして本人不在のまま当選。
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30… 明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日 - 1956年(昭和31年)5月6日)は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。 日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。 東京生まれ。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け、大学院特選給費学生として母校に残った。 学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという。
秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年〈明治21年〉8月… 秋山 徳蔵(あきやま とくぞう、1888年〈明治21年〉8月30日 - 1974年〈昭和49年〉7月14日)は、日本の料理人。大正期から昭和期にかけて宮内省(のち宮内庁)で主厨長を務めた。位階・勲等は正四位勲三等。フランス料理アカデミー名誉会員。 その生涯を描いた小説やドラマ化作品のタイトルから「天皇の料理番」として知られる。皇室の食卓を預かり、宮中で行われる公式行事の料理を掌るのみならず、日本における西洋料理の普及にも大きな足跡を残した。 1888年(明治21年)、福井県今立郡村国村(国高村村国、現・越前市村国三丁目)において、裕福な料理屋の次男として生まれる。旧姓は高森。高森家は大地主で庄屋だった。
大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月… 大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1980年〈昭和55年〉5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。法政大学総長(第8代)、社会保障制度審議会会長(初代)、統計審議会会長(初代)などを歴任。 東京大学経済学部が特に優れた卒業論文に贈る大内兵衛賞の由来にもなっている。 兵庫県三原郡高田村(町村制後:松帆村、現:南あわじ市松帆脇田)出身。旧制洲本中学校(当時の在校生に川路柳虹、高木市之助がいた)、第五高等学校を経て東京帝国大学法科大学経済学科(現:経済学部)を首席で卒業(1913年に銀時計受領)。 東京帝大卒業後は大蔵省に書記官として入省(大臣官房銀行課〈後:銀行局、現:金融庁監督局〉配属)。
三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月2… 三川 軍一(みかわ ぐんいち、1888年〈明治21年〉8月29日 - 1981年〈昭和56年〉2月25日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大22期。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡高田村(能美町を経て現:江田島市)で生まれる。広島一中を経て、1910年(明治43年)7月、海軍兵学校38期を3位/149名の好成績で卒業。1912年(大正元年)12月、戦艦「金剛」乗組。1913年(大正2年)7月、巡洋艦「宗谷」乗組。同年12月、海軍中尉に進級、水雷学校普通科学生。1914年(大正3年)5月、砲術学校普通科学生。12月、巡洋艦「阿蘇」乗組。1916年(大正5年)2月、駆逐艦「杉」乗組。 1916年、海軍大尉に進級。
永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29… 永井 照雄(ながい てるお、1888年(明治21年)8月29日 - 1942年(昭和17年)1月4日)は、朝鮮総督府官僚。 広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)出身。1917年(大正6年)に鹿児島高等農林学校を卒業し、朝鮮総督府営林廠に勤務した。1923年(大正12年)、京都帝国大学経済学部を卒業し、朝鮮総督府属となる。1925年(大正14年)に高等試験行政科に合格。咸鏡北道学務課長、同視学官、慶尚南道地方課長、同産業課長などを歴任した。1932年(昭和7年)、木浦府尹に就任し、1933年(昭和8年)に仁川府尹に転じた。在任中の1941年(昭和16年)12月20日に仁川神社で行われた戦捷奉告祭に風邪で40度の高熱がありながら参加、帰宅後に急性肺炎を併発、1942年(昭和17年)1月4日に死去、53歳。
勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29… 勝田 信(かつた しん、1888年 <明治21年> 8月29日 - 1989年 <平成元年> 9月16日)は、日本の経営者、銀行家。鹿児島銀行頭取を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1911年に東京高等商業学校専攻部銀行科を卒業し、同年に日本銀行に入行。1944年2月に鹿児島興業銀行(のちの鹿児島銀行)頭取に就任し、1960年5月には相談役に退いた。鹿児島商工会議所会頭も務めた。 1956年5月に黄綬褒章を受章し、1965年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1989年9月16日、心不全のために死去。101歳没。死没日付をもって従五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28… 難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。 岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校、関西中学校、金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙で犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選。昭和会や立憲政友会に所属。 1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。
井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1… 井上 麗三(いのうえ れいぞう、1888年8月28日 - 1953年12月30日)は、日本の俳優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。井上 麗吉(-れいきち)とも名乗った。新派、無声映画の俳優から監督へと転身、活動写真資料研究会、マキノ映画製作所での作品を残す。 1888年(明治21年)8月28日、広島市大手町(現在の同市中区)に生まれる。同県立の旧制中学校を中退したのち、当時日本の植民地であった台湾に渡る。事業に失敗して帰国、東京で新派の俳優になる。 1921年(大正10年)、32歳のときに松竹キネマに入社、新派出身の岩田祐吉、関根達発とともにヘンリー・小谷監督、栗島すみ子主演の映画『虞美人草』に出演、続いて同監督の『電工と其妻』に主演の岩田、栗島、そして新派出身の岡本五郎とともに出演した。