瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日… 瀬古 保次(せこ やすつぐ、1887年(明治20年)8月3日 - 1964年(昭和39年)6月9日)は、貴族院書記官長、賞勲局総裁、貴族院勅選議員。 神奈川県三浦郡逗子町(現在の逗子市)で、瀬古保次郎の長男として生まれた。1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、文官高等試験行政科試験に合格した。東京府属、同豊多摩郡長を経て、貴族院書記官となり、内務参事官、同事務官、行政裁判所評定官を兼ねた。貴族院事務局議事課長を経て、貴族院書記官長に就任した。 1940年(昭和15年)からは賞勲局総裁に転じた。 1946年(昭和21年)2月5日には貴族院議員に勅選され、同成会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日… 江崎 浮山(えざき ふざん、1887年(明治20年)8月2日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)出身の実業家(藤枝江﨑新聞店経営者・興行師)・併立写真収集家。本名は江崎 千代吉(えざき ちよきち)。浮山という号の名付け親は評論家の徳富蘇峰であり、静岡市の浮月楼で歓談していた際に命名された。 1887年(明治20年)8月2日に愛知県東春日井郡小牧町(現在の小牧市)に生まれた。出生名は江崎千代吉。父親は江崎友吉であり、千代吉は五男である。 地元の小学校を卒業した後、名古屋市に出て米屋で働き始めた。20歳の時に独立してメリケン粉卸商となり、30歳になると芝居屋という趣味店も開店させた。
土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8… 土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8月 - 1957年〈昭和32年〉11月28日)は、 日本のアイヌ民族研究者。北海道大学教授。 1887年8月、山形県米沢市に生まれる。 米沢中学校を経て、1909年4月に早稲田大学理工科予科入学。1911年9月に家事都合で中退後、1912年6月から同大理工科建築学研究室の佐藤功一の助手となり工芸美術を専攻。1915年1月から建築学会の書記となり、『建築雑誌』の編輯にあたる。 1922年4月から北海道大学予科の講師となり、図画を担当する。1940年9月から教授となり、高等官六等に叙される。1943年に従六位に叙される。1949年5月に同大教授を退官。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29… 重光 葵(しげみつ まもる、1887年〈明治20年〉7月29日 - 1957年〈昭和32年〉1月26日)は、日本の外交官・政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。造船工学者の重光蔟は兄。外交官の重光晶は甥。 大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に旧杵築藩士で大野郡長を務める父・重光直愿と母・松子(重光立平景行の末娘)の次男として生まれた。父は速見郡八坂村の代官の家に生まれたが、10歳で藩に召し出され、維新後初代郡長として赴任し、養蚕の振興に努めた。しかし、母の実家である南安岐村山口の重光本家に子供がなかったため養子となり、重光本家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法科大学を卒業する。
河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-… 河村 重治郎(かわむら じゅうじろう、1887年7月28日-1974年3月13日)は、英語学者、辞書編纂者。 南秋田郡楢山牛島橋通町50(現秋田市楢山共和町)生まれ。1894年、築山小学校に入学。秋田中学校を中退し、検定試験で英語教員免許を取得。聖学院中学校、福井県立福井中学校(のち福井県立藤島高等学校)教諭をへて、1924年横浜高等商業学校教授。岡倉由三郎『新英和大辞典』の原稿を執筆。44年横浜高商を辞し、46年善隣外事専門学校教授。49年これを辞し、明治学院大学、東洋英和女学院短期大学などで講師を務める。 研究社『英和大辞典』の改訂、『クラウン』などの辞書の編纂に生涯を捧げた。墓所は多磨霊園。
高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 195… 高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。 江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。
片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日… 片山 哲(かたやま てつ、1887年〈明治20年〉7月28日 - 1978年〈昭和53年〉5月30日)は、日本の弁護士、政治家。栄典は従二位勲一等。クリスチャン。内閣総理大臣 (46代)。 社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(10期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、民主社会党常任顧問、日本中国文化交流協会会長(初代)を歴任した。 和歌山県西牟婁郡田辺に生まれる。和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、一家で同郷の人物で「軍艦行進曲」の作詞者・鳥山啓宅に寄宿、東京帝国大学法学部独法科卒業。卒業後、YMCA寄宿舎の一室を借りて「簡易法律相談所」を開設、弁護士として活動した。
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月… 山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉三鷹市民。本名は山本 勇造。 人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。 第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。 呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。
三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月2… 三浦 敏事(みうら としわざ、1887年(明治20年)7月27日 - 1953年(昭和28年)7月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 石川県生まれ。1905年(明治38年)3月、金沢第一中学校(12回)を経て、同級生の役山久義らとともに陸軍士官学校(陸士)へ合格。同級生83名から陸海軍の軍人を選んだものが、20名に及ぶ。 1907年(明治40年)5月、陸士(19期)歩兵科を卒業。19期は、日露戦争における下級将校の不足を補うため、一般中学から大量採用された珍しいクラスである。このクラスから後に5人の大将(塚田攻、今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一)が誕生する。三浦の卒業成績は62番/1,068名。
武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27… 武部 鷹雄(たけべ たかお、1887年(明治20年)7月27日 - 1915年(大正4年)3月6日)は、日本の海軍軍人で海軍航空草創期の搭乗員。第一次世界大戦において、日本海軍機の初出撃を行った五名のうちの一人である。のち試験飛行中に殉職。最終階級は海軍大尉。 鳥取県東伯郡三徳村にて武部真貫、たか子夫妻の次男として生まれる。1893年4月1日三徳村立鼎尋常小学校三徳分教場に入学、1897年3月に卒業し補修科へ進み、1899年に河南高等小学校へ入学、1901年3月卒業後、同年4月5日鳥取県立第一中学校へ入学し、1906年3月に抜群の成績で卒業する。卒業後、海軍兵学校の試験を受け、同年9月1日海兵37期生として入校する。
河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25… 河田 重(かわだ しげ、1887年 <明治20年> 7月25日 - 1974年 <昭和49年> 2月17日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 現在の茨城県龍ケ崎市出身。1916年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。 太陽生命保険での勤務を経て、1919年に日本鋼管に転じ、1942年に監査役に就任し、取締役、常務を経て、1947年5月に社長に就任した。1963年11月から1966年11月まで会長を務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1958年に藍綬褒章を受章し、1964年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1974年2月17日、急性肺炎で死去した。
値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25… 値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25日 - 1981年(昭和56年)12月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。 山形県、現在の山形市で、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官した。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した。 1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任。
膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月2… 膳 桂之助(ぜん けいのすけ、1887年〈明治20年〉7月21日 - 1951年〈昭和26年〉11月25日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。位階は従三位。勲等は勲三等。日本工業倶楽部理事、日本団体生命保険社長、経済安定本部総務長官(初代)、物価庁長官(初代)、貴族院議員を歴任した。 1887年(明治20年)、群馬県佐波郡伊勢崎町(現・伊勢崎市)で、薬商・膳浅次郎(好孝)の三男として生まれる。伊勢崎尋常小学校に学んだ。1896年(明治29年)に父が脳溢血で死去。1900年(明治33年)旧制前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学するが、同盟休校(ストアイキ)の首謀者として退学となり、1903年(明治36年)に上京した。
大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 -… 大本 寅治郎(おおもと とらじろう、1887年7月21日 - 1961年9月25日)は、日本の発明家、実業家。妻・フサは樽井藤吉の長女。 機械式計算機である「タイガー計算器」を発明した。 広島県深安郡出身。岡山紡績株式会社鉄工部の見習工となり、備前紡績株式会社鉄工部、神戸湊川川上鉄工所、大阪府下稻畑染工場鉄工所、大阪府下毛斯綸紡織株式会社鉄工部、大阪砲兵工廠火砲第一工場などに勤務した。明治38年(1905年)に大阪府西成郡豊崎村本庄(現・大阪市北区)において共同経営において鉄工業を創設した。 大正元年(1912年)に鉄工業を合意解散し、西成郡豊崎村南濱に個人経営において大本鉄工業を創始し、機械の製作販売を行う。
石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21… 石井 茂吉(いしい もきち、1887年(明治20年)7月21日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、写真植字機の共同発明者。写研の設立者で、石井翁とも呼ばれた。東京都北区堀船町出身。 1887年、東京府北豊島郡王子村(現在の東京都北区王子)に生まれる。京北中学で井上円了の薫陶を受ける。第一高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ入学し、1912年(明治45年)機械工学科卒業。同年神戸製鋼所に入社し技師として働いていたが、1923年(大正12年)秋、星製薬に高級技師として転職。そこで印刷部主任をしていた森澤信夫(のちにモリサワを創業)と出会い、ともに写真植字機の実現を目指すことを誓う。1924年7月に2人で装置の特許を出願。
江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年… 江口 渙(えぐち かん、1887年7月20日 - 1975年1月18日)は、日本の小説家である。東京麹町生まれであるが、出身地は父の故郷である栃木県烏山町である。本名は同表記で「きよし」であるが、戦後は「かん」と改めた。父の江口襄は陸軍の軍医で、東大医学部で森鷗外と同期であった。 三重四中から第四高等学校に進学するも父と進路をめぐって対立し、四高を退学、第五高等学校に入り直す。この時期には俳句に没頭し、河東碧梧桐に認められる。1912年、東京帝国大学英文科に進学する。この年、雑誌『スバル』に短編『かかり船』(後に「赤い矢帆」と改題)を発表し、作家として認められる。このころから佐藤春夫・広津和郎・宇野浩二たちとの交友がはじまる。
東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1… 東原 玉造(とうばら たまぞう 1887年7月20日 - 1955年11月11日)は、日本の元騎手、調教師。別名:東原玉蔵。 1887年7月20日、北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。 1901年に目黒競馬場所属の柴田安治厩舎に見習騎手として入門。5年後の1906年に横濱競馬場のレースにて騎手としてデビュー。騎手時代の1924年秋には横濱競馬場での帝室御賞典をナイトという馬で制覇した記録がある。 調教師となり中山競馬場に厩舎を構えてからは、東京優駿競走をワカタカ(第1回、1932年)、ミナミホマレ(第11回、1942年)で制覇、東京競馬場での帝室御賞典をワカタカ(1932年)で制覇、ミナミモアで天皇賞 (春)を1942年に制覇するなどして、戦中戦後にかけて日本競馬界の名門として名を高めた。
沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月1… 沼田 徳重(ぬまた とくしげ、1887年(明治20年)7月17日 - 1939年(昭和14年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正四位勲一等功二級。茨城県那珂郡額田村(現在の那珂市)出身。 教育総監部高級課員として陸軍軍隊教育の改革を先導、特に戦闘綱要の改正編纂を行った。また、東京帝国大学の配属将校を務め、軍隊教育関係の著作を発表するなど、軍隊教育の発展に努めた。
鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 19… 鳥山 喜一(とりやま きいち、1887年7月17日 - 1959年2月19日)は、日本の歴史学者。 1887年、東京府本郷区に生まれた。東京帝国大学を卒業。東洋史を専攻した。 1928年から1945年まで京城帝国大学教授を務め、渤海国の遺跡を求めて満洲(中国東北部)を精力的に踏査した。 戦後、日本に引揚げてからは第四高等学校校長(第13代)、金沢大学教授、富山大学学長などを務めた。 専門は満鮮史で、渤海史研究では日本のパイオニアとされる。1926年に初版が出た中国通史『黄河の水』は少年少女のためと銘打って書かれたものだが、中国史の好個の入門書として版を重ね、現在まで読み継がれるロングセラーとなっている。
北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月1… 北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月17日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)出身の教育者・郷土史家。竹田市立図書館館長、別府大学文学部講師。竹田市名誉市民。 1887年(明治20年)7月17日、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の旧士族の家に生まれ、1908年(明治41年)に大分師範学校(大分大学学芸学部の前身)を卒業した。1916年(大正5年)に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、鹿児島県、大分県、東京府で中等学校の教諭や校長を務めた。 第二次世界大戦後に竹田町に帰郷し、1953年(昭和28年)に竹田市立図書館の館長に就任した。
玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 -… 玉手山 七郎(たまてやま しちろう、1887年7月14日 - 1941年9月13日)は、福井県大野郡(現大野市)出身で大嶽部屋から雷部屋を経て中村部屋に所属した大相撲力士。本名は縁本 七郎。身長171cm、体重90kg。最高位は関脇。 大嶽部屋に入門し、初め狼を名乗って1904年1月序ノ口となったが翌年脱走。その後小嵐の名で大坂相撲の雷部屋に加入し、1908年1月場所まで大坂相撲を務めて十両まで進む。その後東京相撲に戻ったが、同名力士がいたため改名を考え、イギリス製のラージ自転車にちなんで羅亜地山と改名届を出したが、広告的な四股名は受け入れられないとして協会から却下され、やむを得ず龍田川という四股名を付けた。
小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、18… 小絲 源太郎(こいと げんたろう、新字体:小糸 源太郎、1887年〈明治20年〉7月13日 - 1978年〈昭和53年〉2月6日)は、洋画家、版画家。東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)生まれ。 小絲源四郎、はなの長男として生まれる。生家は東京市下谷区上野元黒門町20番地(現在の東京都台東区)にあった料理屋で、「揚出し」の名で知られた。1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。翌春、藤島の指導する白馬会駒込研究所に入り、デッサンを学ぶ。 1911年(明治42年)に東京美術学校金工科卒業、同年西洋画科に転入するが中退。在学中の1910年(明治43年)、文展に入選。
井口 鹿象(いぐち しかぞう、1887年7月8日 - 195… 井口 鹿象(いぐち しかぞう、1887年7月8日 - 1956年3月13日)は日本の工学者、官僚。工学博士(東京帝国大学)。室蘭工業大学初代学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水工学・河川工学。 静岡県出身。1915年東京帝國大學工学部土木工学科を卒業し、内務省に入省。同内務部土木課長。1930年北海道帝國大學工学部教授(水工学・河川工学講座を担当)。1931年より2年間独・伊・米に留学。1942年同工学部長。1948年北海道大学退官。同名誉教授。室蘭工業専門学校校長に就任。1949年室蘭工業大学初代学長に就任。1956年に同学長在職中に逝去。同名誉教授。 性格は几帳面で責任感が強かったといい、それがもとで亡くなったという。
野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 -… 野田 清(のだ きよし、1887年(明治20年)7月6日 - 1974年(昭和49年)3月29日)は、日本の海軍軍人。大本営海軍報道部長。階級は海軍中将。北海道出身。 北海道出身。旧制函館中学校卒業。海軍兵学校35期。席次は172人中40番。同期生に近藤信竹、高須四郎、野村直邦がいる。「浅間」分隊長として第一次世界大戦に出征した。野田は海軍大学校乙種、砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で、のちに戦艦「鹿島」砲術長を務めている。皇太子裕仁親王の欧州訪問の供奉艦「鹿島」の分隊長として渡欧した際は、海軍士官に芸術の素養が必要であるとの報告書を提出した。帰国後海大甲種17期を卒業。 佐官時代は艦隊では第三艦隊、第二艦隊の各参謀や軽巡洋艦「鬼怒」副長、軍政では軍務局局員兼教育本部員、海軍省副官兼大臣秘書官、臨時調査課長、軍令では海大戦略教官、軍令部第二課長(後任は南雲忠一)などを歴任した。
田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日… 田尻 生五(たじり せいご、1887年(明治20年)7月5日 - 1944年(昭和19年)7月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、鉄道政務次官。商工官僚。 福岡県山門郡大和村(現在の柳川市)出身。旧制一高を経て、1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。1916年(大正5年)、朝鮮総督府試補となり、事務官、全羅北道財務部長を歴任した。1921年(大正10年)、官営八幡製鉄所に転じ、参事、労務部長、理事を歴任した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。その間、第1次近衛内閣で鉄道政務次官を務めた。
中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 … 中村 彝(なかむら つね、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1924年〈大正13年〉12月24日)は、明治の終わりから大正期の洋画家。 1988年、茨城県近代美術館敷地内に下落合にあった中村のアトリエを新築復元した「中村彝アトリエ」が創設された。 なお、1968年(昭和43年)にザ・ヒロサワ・シティ会館(水戸市千波町)入口に有志らで組織する中村彝会が「中村彝君像」(堀進二作)を建立したが、2025年(令和7年)1月6日に県近代美術館敷地内の「中村彝アトリエ」近くに移設されることとなった。 2013年(平成25年)新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンした。
馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年… 馬岡 次郎(うまおか/まおか じろう、1887年〈明治20年〉7月3日 - 1966年〈昭和41年〉1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 三重県山田郡、のちの阿山郡布引村(大山田村を経て現伊賀市)出身。農林業を営む。布引村長、三重県会議員、同参事会員、同副議長、農林省委員、大山田村長となる。三重県山林会評議員、伊山銀行監査役、伊賀農商銀行、伊賀窯業各(株)取締役、馬野川水電(株)取締役社長、三重県信用購買販売組合連合会会長、全国購買組合連合会監事、全国購買販売組合連合会常務理事となる。 1937年(昭和12年)第20回衆議院議員総選挙において三重1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。
松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2… 松本 忠雄(まつもと ただお、1887年(明治20年)7月2日 - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 長野県上水内郡瀬戸川村(現在の小川村)に、松本八重作の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東亜同文書院を卒業。卒業後はやまと新聞の記者となるが、加藤高明憲政会総裁に見出され、その秘書となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回連続当選を果たした。加藤高明内閣では内閣総理大臣秘書官を務め、第1次若槻内閣では東京市助役を務めた。さらに齋藤内閣・岡田内閣で外務参与官を務め、第1次近衛内閣では外務政務次官を務めた。
友部 泉蔵(ともべ せんぞう、1887年(明治20年)7月1… 友部 泉蔵(ともべ せんぞう、1887年(明治20年)7月1日 - 1941年(昭和16年)4月1日)は、日本の内務・警察官僚。官選和歌山県知事。 宮城県出身。1907年7月、第二高等学校を卒業。1912年7月、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に入省し北海道庁属、内務部・長官官房勤務となる。 以後、兼北海道庁警察部巡査教習所教官、北海道庁警視・警察部勤務、北海道庁理事官、秋田県理事官、埼玉県警察部長、神奈川県警察部長、神奈川県書記官・警察部長、福井県書記官・内務部長、栃木県書記官・警察部長などを経て、1928年2月、内務書記官・警保局保安課長、同年7月、内務事務官・警保局保安課長に就任。
井口 良香(いぐち よしか、1887年(明治20年)7月1日… 井口 良香(いぐち よしか、1887年(明治20年)7月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。蛟河商工公会理事。満州国協和会蛟河県(旧・額穆県)本部委員。 族籍は佐賀県士族。弟は日東製粉元社長の井口良二。衆議院議員で第27代自由民主党総裁かつ第100代内閣総理大臣岸田文雄の母方の大伯父。 佐賀県唐津市大字唐津出身。佐賀県士族・井口兆之助の長男として生まれる。 1906年(明治39年)下関商業学校を卒業後、特産貿易商・岩城商会に入社。その後、唐津・上海・芝罘・青島・大連各支店を歴任。1919年(大正8年)(または1920年(大正9年)とも)、同商会の合資会社への改組とともに代表社員に就任。 1934年(昭和9年)独立創業。
宮坂 作衛(作衞、みやさか さくえ、1887年〈明治20年〉… 宮坂 作衛(作衞、みやさか さくえ、1887年〈明治20年〉7月 - 1933年〈昭和8年〉10月21日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、長野県諏訪郡上諏訪町長。 長野県諏訪郡上諏訪村角間(上諏訪町を経て現諏訪市)の白作呉服店・宮坂作之助の長男として生まれる。1906年(明治39年)諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。上京して、1911年(明治44年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 帰郷して家業の白作呉服店の経営に加わる。1920年(大正9年)家督を相続。呉服店を成長させ、諏訪電気取締役、長野農工銀行取締役、上諏訪商工会議所会頭などを務めた。 政界では、1921年(大正10年)上諏訪町会議員に選出され、1923年(大正12年)長野県会議員となる。
増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 196… 増田 胤次(ますだ たねじ、1887年6月29日 - 1964年6月5日)は、日本の医学者。東京帝国大学医学部耳鼻咽喉科の教授。埼玉県出身。 1887年(明治20年)6月29日生まれ。東京帝国大学医科大学卒業。スイスに留学し、陸軍軍医学校教官を経て、1924年(大正13年)母校である東京帝国大学の教授となる。同年、医学博士を取得。1942年(昭和17年)、東京帝国大学附属病院長に就任。1952年(昭和27年)東京大学名誉教授。 1964年(昭和39年)6月5日死去。76歳。墓地は奥多摩にある。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
名和 仁一(なわ にいち、1887年(明治20年)6月28日… 名和 仁一(なわ にいち、1887年(明治20年)6月28日 - 1934年(昭和9年)2月10日)は、台湾総督府官僚。台中市尹。 山形県北村山郡東郷村(現在の東根市)出身。山形県師範学校を経て、1911年(明治44年)に広島高等師範学校本科地理歴史科を卒業した。山形県立高等女学校教諭、宮内省臨時編修局書記、臨時帝室編修官を務めた。1920年(大正9年)10月、高等試験行政科に合格。台湾総督府に入り、編修官、高雄州教育課長、高雄高等女学校校長事務取扱、台北州地方課長、同勧業課長を経て、1930年(昭和5年)、台中市尹に就任した。その後、総督官房会計課長に転じた。
三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6… 三宅 正太郎(みやけ まさたろう/しょうたろう、1887年6月27日 - 1949年3月4日)は、日本の法曹。元判事・弁護士。
安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月2… 安武 直夫(やすたけ ただお、1887年(明治20年)6月24日 - 1959年(昭和34年)3月21日)は、日本の内務官僚、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚。 福岡県の田崎家に生まれ、長じて後に安武一(はじめ)の婿養子となった。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。内務省に入省し、山形県理事官、警保局事務官、朝鮮総督府事務官を歴任。さらに社会局書記官・庶務課長となり、臨時震災救護事務局書記官、資源局事務官を兼ねた。1932年(昭和7年)、台湾総督府文教局長に就任し、1935年(昭和10年)には平安南道知事に転じた。台湾総督府文教局長時代には、伝習館中学(現在の福岡県柳川市にある伝習館高等学校)の先輩でもあり親交のあった北原白秋を台湾に招聘している。
岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治2… 岩崎 輝弥(岩崎 輝彌、いわさき てるや、1887年(明治20年)6月18日 - 1956年(昭和31年)9月17日)は、日本の実業家。日本における鉄道趣味の先駆者である。 岩崎弥之助・早苗夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる。 1899年(明治32年)に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1905年(明治38年)に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。東京帝国大学農科大学実科(現・東京農工大学農学部)を卒業。 三菱の創業者一族・岩崎家に生まれたこともあって大学卒業後は実業界に進んだ。 輝弥は実業家としては酪農業に従事しており、立川養豚場や吉屋信子の代表作『安宅家の人々』のモデルとなったことで知られる子安農園を経営したことで知られている。
古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉… 古河 和一郎(ふるかわ わいちろう、1887年〈明治20年〉6月18日 - 1945年〈昭和20年〉7月9日)は、日本の計理士、政治家。衆議院議員(兵庫県第四区選出、当選2回)。 1887年、兵庫県生まれ。古河弥太郎の長男。1902年、家督を相続する。関西大学専門部法律科で学び、中退した。 税務署に務めた後、一ノ宮商業銀行大阪支店長に就任する。同銀行退職後は、大阪北浜で株仲買店を経営する。1927年、計理士を開業し、計理士会理事、大阪市、大阪府各計理士会長を務める。その他、日本連管工業社理事長を務めた。 1928年の第16回衆議院議員総選挙から1932年の第18回総選挙まで兵庫県第4区から立候補し続けたが落選続きで、1936年の第19回総選挙で立憲政友会公認で立候補して初当選した。
池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)… 池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)6月16日 - 1975年(昭和50年)7月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの大口市(現伊佐市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍司令部附となり、旅順工科大学に配属され、1936年(昭和11年)8月に第1独立守備隊司令部附に転じたが、旅順工科大学配属が続いた。1937年(昭和12年)8月2日に関東軍司令部附となり、12月28日に福岡連隊区司令官に就任した。 1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に留守第4師団司令部附となり、1940年(昭和15年)8月に独立混成第9旅団長に就任。
山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年… 山脇 敏子(やまわき としこ、本名:山脇 トシコ、1887年〈明治20年〉6月14日 - 1960年〈昭和35年〉11月2日)は、日本の洋画家、服飾手芸家、研究家。教育者、山脇洋裁学院(現・山脇美術専門学校)創設者。日本の服飾デザイナー先駆者。 立体裁断や実寸による独自の割り出し法を広め、手芸や編物の分野でも欧州の新しい傾向をいち早く紹介、昭和初期のモガモードを創るなど戦後ファッションをリードした。また戦前・戦後を通じ多くの後進も育て、雑誌・テレビなどでも活躍し手芸・服飾、礼儀作法関係本を多数遺した。 洋裁店「アザレ」は、1964年に南青山骨董通りのアタリー(athalie)へ引き継がれ、現在に至る。
福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月1… 福田 狂二(ふくだ きょうじ、1887年(明治20年)6月14日 - 1971年(昭和46年)11月13日)は、日本の明治から昭和にかけての社会運動家。大正末から昭和初年にかけての島根の社会主義運動の担い手の多くを育てる。別名福田素顕。 島根県簸川郡久多美村東福(現・出雲市)に生まれる。父・蓮之助は県会議員・県会議長を務めた県政界の有力者であった。1903年(明治36年)、上京して成城中学に入学。1904年(明治37年)11月、普通選挙実現や治安警察法改正を求める平民懇親会(於錦輝館)に参加する。1905年(明治38年)、早稲田大学政治科に入学。清国からの留学生と交流する中で社会主義を受容し、同大学を中退して社会運動に身を投じる。
木下 道雄(きのした みちお、1887年〈明治20年〉6月1… 木下 道雄(きのした みちお、1887年〈明治20年〉6月13日 - 1974年〈昭和49年〉12月5日)は、昭和天皇の侍従。 東京生まれ。1912年(明治45年)東京帝国大学法学部卒。1913年(大正2年)岡山県警部。1917年(大正6年)岡山県和気郡郡長、内閣書記官。1924年(大正13年)東宮事務官・宮内書記官・東宮侍従。1927年(昭和2年)皇后宮事務官。1930年(昭和5年)宮内大臣官房秘書課長、1931年(昭和6年)同官房総務課長、1933年(昭和8年)内匠頭。1936年(昭和11年)帝室会計審査局長官、1945年(昭和20年)10月皇后宮大夫・侍従次長。1946年(昭和21年)依願免官。
井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月… 井上 徳命(いのうえ とくめい、1887年(明治20年)6月11日 - 1966年(昭和41年)5月3日)は、明治末から昭和期の僧侶、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・岡。 佐賀県藤津郡、のちの七浦村(現鹿島市)の関家で生まれる。1904年(明治37年)鹿島中学校(現佐賀県立鹿島高等学校)を卒業後、すぐに鹿児島市和田の妙行寺のおじを頼って来鹿し第七高等学校造士館に入学。1910年(明治43年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科(教育学)を卒業した。 佐賀の龍谷中学校(現龍谷中学校・高等学校)で勤務後、のちの出水市、西照寺・井上尽済の養子となる。鹿児島別院副輪番などを務め、出水高等女学校教員、伊作高等女学校長に在任。
石井 徳久次(いしい とくじ、1887年〈明治20年〉6月1… 石井 徳久次(いしい とくじ、1887年〈明治20年〉6月11日 - 1970年〈昭和45年〉10月24日)は、日本の実業家、農業協同運動指導者、政治家。衆議院議員。 福岡県鞍手郡金生村(のち鞍手郡若宮町、現:宮若市大字金生)で、醸造家「富久鶴」石井房次の長男として生まれる。1908年(明治41年)、大阪高等工業学校醸造科を卒業後に家業を継承。 シベリア出兵に陸軍輜重兵少尉として従軍。その後、若宮村会議員、福岡県会議員、同参事会員、郡教育会長、同育英会長などを務めた。また、農業協同運動にも尽力し、福岡県信用組合連合会長、帝国農会議員、福岡県農会長、福岡県購買販売組合連合会長などを歴任した。 また、1933年(昭和8年)11月から1935年(昭和10年)10月まで第25代福岡県会副議長を務めた。
小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月1… 小野 秀一(おの しゅういち、1887年(明治20年)6月11日 - 1972年(昭和47年)7月18日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、福島町長。旧姓・宮下。 長野県西筑摩郡福島村(現木曽郡木曽町福島)で、宮下喜久市の長男として生まれ、小野広助の養子となる。1909年、慶應義塾大学部法律科を卒業。帰郷して、福澤桃介の木曽川水系電源開発事業に協力。木曽銀行重役、木曽川電力常務取締役、大同製鋼(現・大同特殊鋼)取締役、奥羽電灯取締役、長谷川鋳鋼取締役などを務めた。 政界では、福島町会議員、西筑摩郡会議員、長野県会議員、同参事会員、同議長などを歴任し、廃娼運動に取り組んだ。1940年、福島町長に当選。
大西 一郎(おおにし いちろう、1887年(明治20年)6月… 大西 一郎(おおにし いちろう、1887年(明治20年)6月11日 – 1950年(昭和25年)1月21日)は、戦前日本の内務官僚。第11代横浜市長を務めた。 香川県香川郡川東村(現在の高松市)で、大西三千児の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1912年(明治45年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、北海道庁属となった。北海道庁警視、同理事官拓殖課長、同勧業課長、岩手県学務課長、兵庫県視学官・知事官房主事・学務課長、香川県警察部長、朝鮮総督府事務官兼参事官、慶尚北道内務部長、復興局土木部庶務課長、東京第一出張所長を歴任した。
長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月1… 長野 国助(ながの くにすけ 1887年(明治20年)6月11日 – 1971年(昭和46年)4月12日)は、日本の弁護士。第3代日本弁護士連合会会長。 1887年、現在の愛媛県今治市生まれ。1912年、明治大学を卒業。1918年、弁護士登録。1921年、自由法曹団の結成に参加。1952年、第3代日本弁護士連合会会長に就任。1964年、学校法人明治大学理事長に就任。 全国人権擁護委員連合会会長も務めるなど、人権擁護活動においても功績を残す。また、裁判官任命諮問委員会委員、国際弁護士団の首席弁護士、日本国際法律家連絡協会会長、日ソ交流協会理事長、日朝協会会長なども務めた。1971年、死去。83歳。
岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉… 岩下 保太郎(いわした やすたろう、1887年〈明治20年〉6月10日 - 1937年〈昭和12年〉2月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 大分県大分市出身。大分中学校より海軍兵学校第37期入校。入校成績順位は180名中第17位、卒業成績順位は179名中第3位。 妻は山屋他人海軍大将の長女ハツ。長女・春子は中村亀三郎海軍中将の長男・元夫の妻。 岩下は軍令部第1部在勤中に次期新型艦建造に関して、中村良三や中澤佑、富岡定俊などと共に、高速戦艦型ではなく巡洋戦艦型を主張したが、大艦巨砲主義に支配された首脳部に受け入れられず、少数意見として否定された。しかし太平洋戦争における戦闘の推移を概観すれば、巡洋戦艦ならば重巡洋艦や航空母艦との洋上機動作戦行動が可能であったことから、結果的には岩下側の主張が正しかった事になる。
大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月1… 大森 洪太(おおもり こうた、1887年(明治20年)6月10日 - 1946年(昭和21年)5月24日)は、日本の司法官僚、判事、検事。
梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日… 梅ノ花 市五郎(うめのはな いちごろう、1887年6月10日 - 1926年4月5日)は、現在の福井県福井市出身で雷部屋に所属した力士。本名は山田 市五郎(五郎とも)。164cm、105kg。最高位は東前頭4枚目。 1903年5月初土俵、1908年5月十両昇進。1909年6月新入幕。色白で端正な顔立ちが女性に人気があったが、前頭4枚目に躍進したあとは幕内下位に低迷。病を得て十両に陥落した。1915年1月廃業した。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。