岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1… 岸田 久吉(きしだ きゅうきち、1888年8月25日 - 1968年10月4日)は、日本の動物学者。 研究の範囲は哺乳類から節足動物にいたる広範な分野におよび、晩年にいたるまで研究を続けた。 哺乳類については「樺太の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 241-282. 1960年3月)、「千島群島の哺乳動物相」(鳥獣集報. vol. 17 no. 2: 283-306. 1960年3月)などを発表している。哺乳類学者としては、エゾオオカミ・キタキツネ・エゾナキウサギ・ホンシュウジカ等の命名をおこなっている。また、日本人初の哺乳類図説『哺乳動物図解』を刊行した。 農林技官として農業害虫やその駆除に貢献したが、それ以上に岸田の関心は陸上節足動物の中で人の関心を持たれない分野に集中し、クモ目やダニ目、ザトウムシなどの日本における先駆者である。
伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24… 伊東 岩男(いとう いわお、1888年(明治21年)8月24日‐ 1966年(昭和41年)12月23日) は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、北郷町名誉町民。旧姓・関山。 宮崎県南那珂郡、のちの北郷村(北郷町を経て現日南市)で関山宗被の二男として生まれた。1906年(明治39年)宮崎県立農学校(現宮崎県立宮崎農業高等学校)を卒業した。1918年(大正7年)南那珂郡油津町(現日南市)の伊東スマエ(先代善衛門長女)の入夫となり家督を相続した。 南那珂郡農会技手を経て、北郷村会議員、南那珂郡会議員を務め、1923年(大正12年)宮崎県会議員に選出され4期在任した。この間、県会では県当局に迎合せず堂々と論戦を行った。
野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - … 野村 無名庵(のむら むめいあん、1888年8月23日 - 1945年5月25日)は、日本の落語評論家。
勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 -… 勝 精(かつ くわし、1888年〈明治21年〉8月23日 - 1932年〈昭和7年〉7月10日)は、日本の華族、実業家。爵位は伯爵。旧姓は徳川(とくがわ)。 1888年(明治21年)8月23日、徳川慶喜の十男として生まれる。母は新村信で、石工の望月宗兵衛のもとに預けられた。1892年(明治25年)2月8日、勝海舟は嫡子小鹿が早世したため、慶喜の子を孫娘の婿養子に迎えて伯爵の家督を譲ろうと考えた。勝は慶喜の七男・慶久を養子にと望んだが、慶喜は「あれは当家の嗣子であるので」といって断り、末男の精を養子に出したという。慶喜・家達に精との養子縁組を申し入れ、同年2月14日、父の慶喜は精の養子入りを承諾した。
柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月2… 柳井 平八(やない へいはち、1888年(明治21年)8月22日- 1945年(昭和20年)2月15日)は、大日本帝国の陸軍省建築技師。最終階級は高等官一等。靖国神社『遊就館』や陸軍大臣宇垣一成邸、閑院宮載仁親王別邸の設計をした。岡山県井原市出身。 1888年(明治21年)8月22日、岡山県小田郡堺村(現:井原市)の柳井儀三郎の次男として出生。この後、備中成羽藩士である柳井勝太郎の長女・志保と結婚する。1902年(明治35年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学。同期には、同志社大学教授になる中島重や俳優の加藤精一がおり、先輩には、藤岡郊二がいた。特に、藤岡郊二は、後に陸軍省で柳井の上司となる薬師寺主計の第六高等学校・東大時代の友人であり、藤岡郊二邸は薬師寺によるアール・デコ建築が取り入れられており、柳井の建築にも影響を与えることになる。
小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月2… 小島 三郎(こじま さぶろう、1888年〈明治21年〉8月21日 - 1962年〈昭和37年〉9月9日)は、日本の医師。学位は、医学博士。東京帝国大学教授、国立予防衛生学研究所長を歴任。岐阜県各務原市出身。
岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年… 岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年1月29日)は、日本の司法官僚、弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 東京都出身。1914年東京帝国大学法科卒。翌年司法属となり、司法書記官や各地の刑務所長を務める。さらに九州行刑管区司令、関東行刑管区長を経て、弁護士、刑務協会顧問を歴任する。 1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から立候補して当選した。会派は緑風会に所属し、国会内では法務委員長を務めた。参議院議員は1期務め、1953年の第3回参議院議員通常選挙には緑風会公認で出馬したが辞退した。 1966年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲三等からの昇叙)。 1968年1月29日死去、79歳。
樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8… 樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、1888年〈明治21年〉8月20日 - 1970年〈昭和45年〉10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルビン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。 第二次世界大戦前夜、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れた避難民に満洲国通過を認めたとされ、これは「ヒグチ・ルート」と呼ばれたと言われる。[ヒグチ・ルート]からはかつて「2万人を救出した」と喧伝されたこともあったが、実態は不明な部分も多い。 太平洋戦争中、アッツ島の戦いにおいて樋口の命によりアッツ島守備隊は玉砕、その後の南方諸島で続発する日本軍守備隊玉砕の引き金となった。
中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月1… 中嶋 太郎(なかしま たろう、1888年〈明治21年〉8月19日 - 1973年〈昭和48年〉3月16日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、諫早市長。位階は正五位。勲三等瑞宝章綬章。 長崎県出身。1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科卒。コロンビア大学大学院に留学し、記者として二六新聞社などで勤務する。その後、1947年(昭和22年)、諫早市長選挙に立候補して当選。同年4月8日、初代公選市長となった。市長在任中は市立中学の開校、市役所機構の再編、自治体警察の設置、諫早球場の開場など市制改革に追われた。1951年(昭和26年)に再選。翌1952年(昭和27年)4月3日に退任した。第25回衆議院議員総選挙において長崎1区から改進党で立候補したが落選。
堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 196… 堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 1964年2月17日)は、日本の政治家。岡山県玉島市(現・倉敷市)長。 岡山県浅口郡阿賀崎村(のち玉島町→玉島市、現・倉敷市)出身。旧制岡山中学校(現・岡山県立朝日高等学校)、金川中学校(後、岡山県立金川高等学校、現在廃校)を経て、1918年、早稲田大学政治経済学科卒。同年、高等文官試験行政科に合格する。福岡県属、同官房主事、地方課長、兵庫県地方、議事各課長、沖縄、広島、高知、千葉各県の学務部長、宮城、鹿児島各県の経済部長、福井県の総務部長を歴任し、1939年に退官した。退官後は神戸製鋼所総務部長などを経て、1951年、玉島町長に就任。翌年1月、玉島町の市制施行に伴い、玉島市長となった。
石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1… 石山 徹郎(いしやま てつろう、1888年8月18日 - 1945年7月30日)は、国文学者。 秋田県雄勝郡生まれ。1914年東京帝国大学国文科卒。卒業論文で初めて現代文学を扱ったとされる夏目漱石論を書く。同年広島で中学校教師、1915年退職して万朝報記者となる。1918年「新しき村」会員。1920年北海道帝国大学予科講師、のち教授。1923年松江高等学校教授。1924年大阪府女子専門学校教授。1943年11月退職。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 19… 鍋井 克之(なべい かつゆき、1888年8月18日 - 1969年1月11日)は、日本の洋画家。 大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月1… 佐藤 玄々(さとう げんげん、1888年〈明治21年〉8月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月14日)は、20世紀の日本で活躍した彫刻家。 福島県相馬郡中村町(現相馬市)出身、本名・清蔵。1888年宮彫り師の家に生まる。幼い頃から木彫の技術を学ぶ。1905年、17歳で「われ世界第一の彫刻家たらんと祈りき」と上京。翌年山崎朝雲に師事、1913年に朝山の号を貰い独立。30歳で結婚。大森にアトリエを構える。1914年日本美術院同人。院展に出品を続けた後、1922年(大正13年)官費留学により2年間フランスに渡り、アントワーヌ・ブールデルに師事する。 1935年(昭和10年)、帝国美術院の改革が行われると会員に選出されるが、翌1936年(昭和11年)年に示された平生改革案に反対して横山大観ら日本芸術院メンバーなどとともに会員を辞任する。
赤土 正強(赤土 正强、しゃくど まさたけ、1888年(明治… 赤土 正強(赤土 正强、しゃくど まさたけ、1888年(明治21年)8月16日 - 1944年(昭和19年)3月11日)は、日本の内務官僚、足利市長。 奈良県北葛城郡下田村(現在の香芝市)出身。天王寺中学校を経て、第四高等学校を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。内務省に入省し滋賀県属となる。 以後、滋賀県警視、同県神崎郡長、同野洲郡長、鳥取県理事官・視学官、京都府理事官・産業部長、山梨県書記官・警察部長、奈良県書記官・内務部長、愛媛県書記官・内務部長、福島県書記官・内務部長、長崎県書記官・総務部長などを歴任。 1937年7月8日、依願免本官となり退官した。
蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1… 蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1945年8月7日)は、日本の官僚、政治家。元和歌山県知事。衆議院議員(3期)。官僚としては内務省の警察関連部門で長く勤めた。 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身。小川尋常小学校、熊本県立八代中学校(1906年3月卒業)、第五高等学校(1909年7月卒業)を経て、1913年7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。 大学卒業後の1913年10月に高等文官試験に合格した。以後は内務省官僚となる。1914年8月に大阪府警察部警部、1916年12月から同警視を務めた後、1922年6月に東京府理事官に異動し、その直後から欧米に約1年3か月出張した。
酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21… 酒井 久三郎 (さかい きゅうさぶろう、1888年〈明治21年〉8月15日 - 1958年〈昭和33年〉8月13日)は、日本の政治家。元山形県上山市長(1期)、元山形県議会議員、元宮生村村長。位階は従六位。勲六等瑞宝章。 山形県宮生村金生(現上山市)出身。1903年に上山尋常高等小学校高等科卒業、1909年に東京神田森田簿記専修学校の商業銀行社会一般全科卒業。 1923年に宮生村消防組頭に就任、1929年宮生村村会議員に選出、1931年宮生村助役就任。 1932年に宮生村村長となった。 1934年に上山タクシー社長に就任。 1939年9月25日に山形県会議員に初当選。同年10月に参事会員。 戦後、公職追放となり、1946年12月1日に県会議員を辞職。
小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 19… 小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。主に風景画を手がけた。 1888年、山口県吉敷郡秋穂町(現・山口市)の裕福な地主の家に生まれる。生まれつき、吃音があった。1908年、京都市立美術工芸学校卒業。日本画家の川北霞峰に師事し、号を「霞村」とする。1910年、京都市立絵画専門学校(現 京都市立芸術大学)に入学。在学中、第4回文展に入選。1913年、同校を卒業。1918年頃、日本画から洋画に転向し、鹿子木孟郎の画塾に通う。1922年、上京して梅原龍三郎・中川一政・林武らの指導を受ける。1925年、第3回春陽会で春陽会賞を受賞。翌年も出品し、春陽会賞を受賞した。
小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月1… 小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる。 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般試験を経て合格・入校した。
三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日… 三浦 襄(みうら じょう、1888年(明治21年)8月10日 - 1945年(昭和20年)9月7日)は、日本の実業家。第二次世界大戦時に日本の占領下にあったバリ島でインドネシア解放の大義を信じ民政部顧問として働いたが、日本の敗戦により解放の約束を果たせず、その責任を取り自決した。 1888年(明治21年)、日本基督一致教会の牧師一家の次男として仙台にて生まれる。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)に進むも、在学中は、経済的状況の厳しさから牛乳配達のアルバイトをして過ごした。1905年(明治38年)、父のハワイ日本人教会赴任に伴い、東京都港区に引っ越し、明治学院普通部に編入。 やがて堤林数衛が商売と伝道を兼ねて設立した南洋商会への入会を決意すると、1908年(明治41年)、明治学院を中退し、1909年(明治42年)4月にジャワ島スマランに渡航。
後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月1… 後藤 守一(ごとう しゅいち、1888年(明治21年)8月10日 - 1960年(昭和35年)7月30日)は、大正期から昭和期にかけての日本の考古学者。明治大学名誉教授。 神奈川県三浦郡田越村(現・逗子市)生まれ(鎌倉市生まれや、静岡県生まれとする資料もある)。沼津中学(現・静岡県立沼津東高等学校)、静岡師範学校を経て、東京高等師範学校地歴科を卒業。 1917年(大正6年)3月から1918年(大正7年)7月まで静岡県立静岡中学校で地歴の教諭を務めた後、1921年(大正10年)(1918年とする資料もある)から1940年(昭和15年)まで帝室博物館に勤務し、監査官を担当した。1927年(昭和2年)には博物館視察のためにヨーロッパに派遣された。
本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10… 本田 義英(ほんだ ぎえい、1888年〈明治21年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉7月29日)は、日蓮宗の僧、仏教学者。 京都出身。旧姓は桐山。幼名は伝次郎。1914年京都帝国大学文科大学印度哲学科卒。1929年京都帝大文学部講師、1934年「印度学方法論より観たる法華経」で文学博士、同年助教授、1935年教授。1948年定年退官、名誉教授、立正大学教授、稲沢女子短期大学(愛知文教女子短期大学)教授、印度文化研究所所長。京都の慈雲院、宝塔寺の住職をつとめた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8… 原田 熊吉(はらだ くまきち、1888年(明治21年)8月8日 - 1947年(昭和22年)5月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸士22期、陸大28期。 愛媛県鵜足郡土居村(香川県那珂郡丸亀町を経て現丸亀市土居町)で生まれる。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を卒業し陸軍士官学校に進んだ。 1927年(昭和2年)末、大使館附武官として中国大陸に赴任。1931年(昭和6年)8月から一年間南京にて同職をつとめ、この間、混合委員会共同委員として上海停戦協定に尽力した。 日中戦争開戦後、第35師団長、第27師団長として大陸に駐屯し、1939年(昭和14年)1月梁鴻志の懇請により中華民国維新政府の最高顧問に就任。
鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月… 鏑木 忠正(かぶらぎ ただまさ、1888年(明治21年)8月5日 - 1962年(昭和37年)9月6日)は、日本の内務・商工官僚、政治家、教育者、獣医師。立憲民政党所属の衆議院議員、貴族院多額納税者議員、初代品川区長。上條秀介らと共に昭和大学創設者の一人で、昭和大学理事長、文教大学及び文教大学学園理事長を務めた。 1888年(明治21年)8月5日に島根県邑智郡出羽村(瑞穂町を経て現邑南町)で有井常太郎の次男として生まれる。父は村の家畜市場の取締役を務め、幼少より神童と呼ばれた。1913年(大正2年)、東京帝国大学農科大学獣医学科卒業。1914年に荏原郡中延の地主・鏑木胤義の養子となり、いつの入夫となった。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3… 尹 炳浩(ユン・ビョンホ、朝鮮語: 윤병호、1888年8月3日またはまたは1889年8月3日または1889年8月5日 - 1974年7月13日または7月14日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の実業家、政治家。第3代韓国国会議員。号は滄南。 慶尚南道南海郡出身、本籍は釜山府。普成専門学校経済科、早稲田大学政経科卒。1909年に大同青年団(のちの大韓青年団)を組織し、その後は独立運動のための秘密団体である白山貿易会社設立者、慶尚南道農林局長、原州蚕糸社長、第3代国会絶糧農家救護対策委員会委員長を務めた。 1974年7月13日、ソウル市永登浦区の自宅アパートで持病により死去。享年86。 1942年の朝鮮語学会事件により1年間投獄された。
富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -196… 富岡 正重(とみおか まさしげ、1888年8月2日 -1968年6月)は、日本の光学技術者。富岡光学機械製作所(後の京セラオプテック)を創業したほか、光学設計のテキストを執筆、翻訳したことでも知られる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1… 古川 静夫(ふるかわ しずお、1888年(明治21年)8月1日 - 1967年(昭和42年)5月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 鹿児島県日置郡日置村麓(現在の日置市日吉町日置)出身。古川直衛の三男として生まれた。第七高等学校造士館を首席で卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し静岡県警部となる。 以後、静岡県引佐郡長、同県磐田郡長、同県産業課長、熊本県学務課長、兵庫県学務課長、京都府学務課長、栃木県書記官・警察部長、福岡県学務部長、警視庁書記官・保安部長、同警務部長、同官房主事、神奈川県内務部長などを歴任。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉… 松崎 謙二郎(まつざき けんじろう、1888年〈明治21年〉8月 - 没年不明)は、日本の官僚。愛知県経済部長。族籍は長野県士族。立教大学名誉教授松崎仁の父。 長野県上伊那郡高遠町(現伊那市)に生まれる。長野士族・松崎雅人の長男。第一高等学校を経て、1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。1917年10月、文官高等試験に合格。1918年、北海道庁属となり、山梨県、警視庁、福島県各警視を経て鹿児島県理事官に任じられ、以来宮崎県視学官、静岡県書記官、鹿児島県書記官、愛媛県書記官・警察部長、島根、和歌山、三重各県書記官・内務部長を経て、1935年、愛知県書記官に任じ経済部長に補せられ、1937年、退官する。
石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 … 石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 - 1954年)は、日本の国文学者・歌人。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校、第六高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授を歴任した。国文学者。歌人。号して横村。
清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1… 清閑寺 良貞(せいかんじ ながさだ、旧字体: 淸閑寺良貞、1888年(明治21年)7月30日 - 1951年(昭和26年)12月12日)は、大正から昭和前期の宮内官、政治家、華族。貴族院伯爵議員。 子爵・吉田良義の二男として生まれ、伯爵・清閑寺経房の養子となる。養父の隠居に伴い、1938年(昭和13年)1月15日、伯爵を襲爵した。 1915年(大正4年)京都帝国大学法科大学を卒業。1926年(大正15年)以降、主猟官、式部官、皇太后宮事務官、同会計課長などを務めた。 1946年(昭和21年)6月27日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月2… 河根 良賢(かわね よしかた、1888年(明治21年)7月29日 - 1949年(昭和24年)2月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 1888年(明治21年)に広島県福山市で生まれ、1890年(明治23)に福山誠之館を卒業。陸軍士官学校第23期卒業。1936年(昭和11年)8月に輜重兵第2連隊長(第2師団)に就任し、満州に駐屯した。1937年(昭和12年)8月に陸軍輜重兵大佐に進級し、1938年(昭和13年)7月に自動車第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に輜重兵科教育を行う唯一の予備士官学校である久留米陸軍予備士官学校の初代校長に就任した。 1941年(昭和16年)3月1日に陸軍少将に進級し、7月28日に北支那方面軍司令部附を経て、8月8日に第3野戦輸送司令官(南方軍・第14軍)に就任し、フィリピン攻略戦に出征した。
大竹 十郎(おおたけ じゅうろう、1888年(明治21年)7… 大竹 十郎(おおたけ じゅうろう、1888年(明治21年)7月28日 - 1979年(昭和54年)8月4日)は、日本の内務官僚。朝鮮総督府官僚。静岡県福田町長。 静岡県磐田郡福田町(現在の磐田市)に鈴木治平の五男として生まれ、大竹清一郎の養子となった。1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。文部属、同普通学務局勤務を経て、山口県都濃郡長、同理事官、福島県理事官、神奈川県理事官、同学務部長、佐賀県警察部長、宮崎県警察部長、三重県警察部長、岡山県警察部長、福岡県警察部長、大阪府警察部長、警視庁警務部長を歴任した。その後、朝鮮総督府に転じ、慶尚北道内務部長、警務局保安課長、平安北道知事を歴任し、1936年(昭和11年)に内務局長に就任し、中枢院書記官長も兼ねた。
織田 信大(おだ のぶひろ、明治21年(1888年)7月28… 織田 信大(おだ のぶひろ、明治21年(1888年)7月28日 - 昭和39年(1964年)1月8日)は、明治期から昭和期の華族。位階は正四位、爵位は子爵。主な役職は巧芸社常務理事など。 明治21年(1888年)7月28日、旧丹波柏原藩主・織田信親の次男として誕生した。明治34年(1901年)7月、学習院初等学科を卒業。大正5年(1916年)、東京美術学校洋画科を卒業。その後、美術図書出版会社の巧芸社に入社し、常務理事などを務める。昭和2年(1927年)12月28日、父信親の死去により家督を相続し、子爵となる。昭和39年(1964年)1月8日死去。昭和2年から昭和3年にかけて『明治大正名作大観』(西洋画・日本画上下・彫刻の全4冊)を編集し、出版している。
小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27… 小林 郁(こばやし かおる、1888年(明治21年)7月27日 - 1974年(昭和49年)1月22日)は、大正から昭和期の医師、政治家。衆議院議員、滋賀県彦根市長、滋賀県議会議長。 滋賀県犬上郡高宮村(高宮町を経て現彦根市高宮町)で、小林二郎の五男として生まれた。1913年(大正2年)に京都帝国大学医学部を卒業。同大学附属病院内科副手として勤務。その後、彦根町で医院を開業した。 青年時代から政界に感心が強く、彦根町会議員(2期)、彦根市会議員(2期)、滋賀県会・滋賀県議会議員(3期)を務めた。この間、彦根市会副議長、同議長、滋賀県議会議長に在任した。 1947年(昭和22)8月16日に彦根市長に就任し、1953年(昭和28年)3月24日まで2期在任。
城野 亀吉(しろの かめきち、1888年〈明治21年〉7月2… 城野 亀吉(しろの かめきち、1888年〈明治21年〉7月27日 - 没年不明)は、昭和時代前期の官吏。京都市左京区長、上京区長。東京市牛込区長、品川区長。 城野林平の五男として新潟県加茂郡下新穂村(佐渡郡新穂村を経て、現佐渡市)に生まれる。1914年(大正3年)広島高等師範学校を卒業し京都市に奉職する。同市視学、秘書課長、左京区長、上京区長を経て、東京市視学に転じる。1936年(昭和11年)10月、牛込区長に就任し、1938年(昭和13年)12月まで務めた。その後、社会局保護課長、市監査部区務監察課長を経て、1939年(昭和14年)12月、品川区長となった。 戦後、日本歯車協会理事長となった。
船渡 佐輔(ふなど さすけ、1888年7月26日 - 194… 船渡 佐輔(ふなど さすけ、1888年7月26日 - 1949年6月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県武儀郡、後の洞戸村(現関市)出身。1910年早稲田大学商科卒。農業及び山林業を営む。洞戸村長、洞戸郵便局長、関町会議員、岐阜県会議員となる。ほかに岐阜県水産会長、岐阜県貨物自動車運送事業組合理事長を務める。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では岐阜1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。追放中の1949年死去。(死去後の1951年に追放解除。)
大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月… 大里 俊吾(おおさと しゅんご、1888年〈明治21年〉7月25日 - 1974年〈昭和49年〉2月27日)は、日本の医学者(内科)、教育者。号は「春郊」。 福岡県出身。深町俊太郎の三男として生まれたが、大里広次郎の養子となる。1914年に東京帝国大学医科大学を卒業する。1921年に医学博士号を取得した。 その後金沢医科大学と東北帝国大学で教授を務めた。医学者としては癌の化学療法に関する研究を手がけた。 1950年に福島県立医科大学が開学すると、初代学長に就任した。11年あまり務め、1961年4月末をもって退任。 学長退任後は秋田県立中央病院を経て、1965年から出身地である福岡県にある飯塚学園の理事長兼校長を務めた。
二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(… 二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(明治21年)7月24日 - 1969年(昭和44年)12月1日)は、大正・昭和時代の資産家、実業家。旧名は清吾。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。三重農場取締役会長。諸戸殖産社長。諸戸合名代表社員。三菱鉱業、朝鮮無煙炭各監査役。三重県桑名で家業の山林経営をつぎ、林産物の生産、加工、販売などをおこなう。 1888年(明治21年)7月24日に三重県に生まれた。初代諸戸清六の四男、諸戸精太の弟、諸戸精文の叔父である。初代清六と深い親交のあった大隈重信が設立に関わった早稲田中学校に進学したが、彼が18歳の時初代清六が没したため、急遽呼び戻され、次男精太が初代の屋敷を継承し、四男清吾が清六の名を襲名した。
島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1… 島村 民蔵(しまむら たみぞう、1888年7月22日 - 1970年11月15日)は、日本の劇作家、演劇研究家。 東京神田生まれ。号を甲鳥、柳水。開成中学校をへて1909年早稲田大学英文科卒。東京帝国大学独文科中退。坪内逍遥、大塚保治に師事。劇作、演劇研究をおこない、早稲田大学、日本大学で教える。戦後は静岡女子短期大学教授。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年… 近藤 兵太郎(こんどう ひょうたろう/へいたろう、1888年7月17日- 1966年5月19日)は、日本人の野球指導者。愛媛・松山商や、台湾台南州立嘉義農林学校(現在の国立嘉義大学)野球部などで監督を務めた。松山商野球部を初の全国出場に導くなど戦前の黄金時代の礎を築いた監督として、また日本統治下の台湾の嘉義農林学校を率いて甲子園に出場し、準優勝に導いたことで台湾野球史にもその名を残した。
原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - … 原 龍三郎(はら りゅうざぶろう、1888年7月15日 - 1968年12月30日)は、日本の応用化学者。工学博士。東北帝国大学工学部名誉教授。文化功労者、日本学士院会員。日本化学会名誉会員。 先祖は金沢の士族、父が飯田の中学校長在任中に生れた。一高を経て1913年東京帝国大学応用化学科卒。九州帝国大学講師、1914年助教授、1917年新設の東北帝国大学工学部に転じ、1922年教授。1925年東北大学工学博士 「青化水素及其ノ「ナトリウム」塩ニ関スル研究」 。 1947年健康上の理由から定年に2年先立って退官。 初期における研究の中心は窒素固定に関連する。青化物に関するもの、とくに青化水素の物理化学的性質についての精緻を極めた研究は特筆に値する。
里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 … 里見 弴(さとみ とん、1888年(明治21年)7月14日 - 1983年(昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。本名:山内 英夫(やまのうち ひでお)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 兄有島武郎・生馬の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受け、晩年まで長く活躍した。 1888年(明治21年)、有島武と妻幸子の四男として神奈川県横浜市に生まれる。生まれる直前に母方の叔父の山内英郎が死去したため、出生直後にその養子となり山内英夫となったが、有島家の実父母の元で他の兄弟と同様に育てられた。 1900年(明治33年)に学習院中等科 (旧制) へと進み、この頃から泉鏡花の作品に慣れ親しむ。
倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月… 倉永 辰治(くらなが ときはる、1888年(明治21年)7月13日 - 1937年(昭和12年)8月29日)は、大正・昭和初期の軍人。佐賀郡東与賀町(現佐賀市東与賀町)出身。最終階級は陸軍少将(戦死特進)。 1888年、東与賀村立野で、元佐賀藩士の袋武辰の次男として生まれる。兄は戦後酪農の振興や旧佐賀競馬場の開設に尽力した袋正美。与賀高等小学校から佐賀中学校、さらに陸軍士官学校(陸士23期)、陸軍大学校(陸大34期)に進んだ。なお陸軍中尉時代に父の実家である藩の元馬術指南倉永勝太郎の跡を継いで倉永姓となっている。 陸大卒業後、第59連隊中隊長、第20師団、第11師団参謀、陸軍歩兵学校教官を経て、1935年(昭和10年)歩兵大佐に昇任。
川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7… 川本 宇之介(かわもと うのすけ、1888年(明治21年)7月13日 - 1960年(昭和35年)3月15日)は大正時代から昭和時代にかけての日本の教育者。 東京市および文部省の職員を経て東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)、東京盲学校(筑波大学附属視覚特別支援学校の前身)両校の教諭となり、のち東京聾唖学校長、国立ろう教育学校長兼附属ろう学校長、東京教育大学国府台分校主事を歴任した。昭和初期のろう教育において、手話を否定し純粋口話法による教育を推進した人物のひとりである(同じ時期に口話法を推進した人物として、西川吉之助、橋村徳一らがいる)。また、近代日本での教育として、「教育の社会化と社会の教育化」論を展開した。
松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月… 松坂 義正(まつざか よしまさ、1888年〈明治21年〉7月12日 - 1979年〈昭和54年〉11月13日)は、日本の皮膚科・泌尿器科医師、政治家。広島県医師会会長。日本赤十字社理事。医学博士。広島市名誉市民。広島市会議長(21代、22代)。広島市会副議長(28代)。 宮城県仙台市出身。松坂佐兵衛の長男。1908年(明治41年)、日本医学校(現・日本医科大学)卒業。同年11月より1912年(明治45年)3月まで東大医学部専攻生。1929年(昭和4年)11月より1934年(昭和9年)3月まで東大医学部研究生。 1912年(明治45年)3月、広島県警察医。1915年(大正4年)、開業する。1921年(大正10年)、広島市会議員に当選する。
津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 19… 津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 1959年)は、株式会社津田式ポンプ製作所の創業者であり、同社元社長、広島県立広島観音高等学校元PTA会長。紫綬褒章と紺綬褒章を受章。 明治21年(1888年)7月11日に広島県佐伯郡鹿川村に生まれる。その後、養子として親戚の津田氏に入籍した。 大正9年(1920年)10月、広島市広瀬町において、従来の手押しポンプを改良・考案し、合資会社・津田式ポンプ製作所を設立し「津田式ポンプ大臣號」と名付けたポンプの製造販売を行った。「菱形の中に大臣」の商標を使用した。 専売特許などを自身が持つ約30種以上の各種ポンプ製造に従事した。また地下水に含まれる塩分を薬品を用いずに完全に除去する機能を持つ浄水ポンプを発明、特許を取得した。
今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10… 今 和次郎(こん わじろう、1888年〈明治21年〉7月10日 - 1973年〈昭和48年〉10月27日)は、日本の建築学者、民俗学研究者。考現学の第一人者。 医学者今裕の甥。銅版画家今純三の兄。息子の今保太郎は東映の美術監督。 早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり、考古学に対し現在の通常の人々の日常生活や行動を考察する「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。