新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月2… 新木 栄吉(あらき えいきち、1891年〈明治24年〉4月24日 - 1959年〈昭和34年〉2月1日)は、大正から戦後昭和に活躍した日本の銀行家。日本銀行総裁を2度にわたって務めたほか、戦後初の駐米大使も務めた。 石川県小松町(現 小松市)出身。石川四中から第四高等学校 (旧制)首席を経て、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年日本銀行に入行。 日本銀行では国庫局、大阪支店、ニューヨーク駐在(1922年-1926年および1935年-1937年の二度)などを経たのち、外国為替局長、営業局長、理事、副総裁を歴任。1945年(昭和20年)10月に渋沢敬三総裁が幣原内閣の大蔵大臣を拝命して入閣すると、その後任の日銀総裁に就任した。
綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月2… 綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日 - 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の国家主義者、弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島(のち大里郡長井村、現:熊谷市)で、小作農・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学。
野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日… 野田 謙吾(のだ けんご、1891年(明治24年)4月22日 - 1961年(昭和36年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県出身。農業・野田市九郎の四男として生れる。熊本中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊付となる。1914年(大正3年)8月から12月まで青島の戦いに出征。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(第32期)を卒業した。 1921年(大正10年)7月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍歩兵学校教官、朝鮮軍参謀、歩兵第14連隊大隊長、参謀本部員などを経て、1931年(昭和6年)11月から翌年4月まで、陸大専攻学生として学んだ。
京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4… 京極 高修(きょうごく たかおさ、1891年〈明治24年〉4月21日 - 1967年〈昭和42年〉10月2日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・秀雄。位階は従三位。勲等は勲二等。 子爵・京極高徳の五男として生まれる。父の死去に伴い、1928年(昭和3年)6月15日、子爵を襲爵した。 1922年(大正11年)3月、京都帝国大学法学部政治学科を卒業した。 1935年(昭和10年)6月22日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで2期在任した。
阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948… 阿部 勝雄(あべ かつお、1891年4月18日 - 1948年5月26日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 岩手県西磐井郡厳美村(現在の一関市厳美町)で村長・阿部雄七とその妻てふの二男として生れる。旧制一関中学校を経て、1912年7月、海軍兵学校(40期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。1919年11月、海軍砲術学校高等科を卒業し、「磯風」砲術長、第2艦隊参謀、砲術学校教官などを経て、1924年11月、海軍大学校(甲種22期)を次席で卒業した。 「長門」副砲長兼分隊長、アメリカ駐在、海軍省軍務局第1課局員、第2艦隊参謀、海大教官、第3艦隊参謀、海大教官、軍務局第1課長、第2回ロンドン軍縮会議全権随員、「多摩」「龍驤」「加賀」の各艦長、軍令部第3部長などを歴任し、1938年11月、海軍少将に進級。
岡部 周治(おかべ しゅうじ、1891年〈明治24年〉4月1… 岡部 周治(おかべ しゅうじ、1891年〈明治24年〉4月17日 - 1967年〈昭和42年〉11月30日)は日本の政治家。衆議院議員(1期、日本社会党)、群馬県議会議員(2期)、群馬県新田郡強戸村長。 1891年(明治24年)4月17日、群馬県新田郡強戸村大字強戸(現・太田市強戸町)に岡部駒次郎・よし夫婦の次男として生まれる。生家は地主で、父駒次郎は群馬県会議員・強戸村長を務めた。1909年(明治42年)群馬県立太田中学校(現・群馬県立太田高等学校)、1911年(明治44年)東京府青山師範学校第二部、1915年(大正4年)に法政大学専門部法律科を卒業する。 家業の農業に従事し、戦前は強戸村農会長、東毛乾繭販売利用組合理事、新田郡農会長、県農地委員会委員などを歴任。
高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち… 高柳 儀八(たかやなぎ のりはち、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日本の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。 佐賀県出身。高柳米吉の息子として生れる。旧制佐賀中学卒を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、海軍兵学校(41期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1920年(大正9年)11月、海軍砲術学校高等科を卒業。戦艦「鹿島」分隊長、駆逐艦「海風」砲術長、砲術学校教官などを経て、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業した。
黒沢 富次郎(くろさわ とみじろう、1891年〈明治24年〉… 黒沢 富次郎(くろさわ とみじろう、1891年〈明治24年〉4月16日 - 1972年〈昭和47年〉8月29日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 長野県南佐久郡穂積村(現・佐久穂町大字穂積)の醤油製造業・黒沢陸之助(通称:丸ト)の長男として生まれる。野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)を卒業後、家業の醤油醸造業を継ぐ。地元の商工会長、消防組頭を経て、佐久製材社長や長野県消防協会長、佐久通運社長、長野電鉄監査役、同取締役を歴任した。 1946年(昭和21年)12月16日より1年間貴族院議員を務め、貴族院廃止後の1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に長野県第2区から日本自由党公認で出馬したが落選した。
島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月1… 島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月16日 - 1949年(昭和24年)4月8日)は、国文学者。東洋大学教授、東京大学教授、文学博士。 生家は島津氏分家・花岡島津家。鹿児島県鹿児島市の天文館通りにあった花岡島津屋敷で生まれ育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校(旧制)を経て、第七高等学校造士館(旧制)に進み、1913年に卒業。1916年東京帝国大学文科大学を卒業。東大在学中、芳賀矢一の知遇を受ける。また、成績優秀のため、卒業時に恩賜銀時計を受ける。大学院に入り勉学を続ける。 1919年日本大学講師となり、同年第一高等学校(旧制)教授となった。1922年、母校の東京帝国大学助教授となったが、1924年に病気のため休職し1926年に退職。
長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4… 長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4月16日 - 1968年(昭和43年)5月15日)は、日本の政治家。徳島市長。明治大学政治経済学部卒業。 旧名東郡加茂名村(現在の徳島市庄町)で生まれた。 徳島農業高等学校、明治大学政治経済学部卒業。明治大学では弁論部に同郷の後輩三木武夫を勧誘し、以後も支援する。 1934年、徳島市役所に勤務、佐古青果市場理事長に就任。 1951年に徳島市長に就任し1958年まで2期を務める。一坂俊太郎以来、戦後初めて2期以上、市長を務めた。1967年、日本ポルトガル親善とモラエス翁顕彰の功によりポルトガル国徳島駐在名誉領事に任じられた。 1968年(昭和43年)5月15日、77歳で没する。
大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 -… 大蛇潟 粂藏(おろちがた くめぞう、1891年4月15日 - 1933年5月15日)は、秋田県能代市出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は宮腰 粂藏(のちに錦島姓)。最高位は西関脇。現役時代の体格は175cm、113kg。得意手は左四つ、寄り。 明治時代に幕内力士だった7代錦島に入門し、1905年(明治38年)1月場所に序ノ口から初土俵を踏む。実力は高く18歳2か月で迎えた1909年(明治42年)6月場所に「能代潟」の四股名で十両昇進、翌1910年(明治43年)6月場所、19歳2か月で入幕、師匠の現役時代の四股名だった「大蛇潟」に改めた。当時は年2場所時代で、彼に近いスピードでの若年昇進といえばのちの第33代横綱武藏山が挙がるが、大蛇潟の入幕は武藏山よりも3か月早いものだった。
高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日… 高倉 輝(たかくら てる、1891年〈明治24年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉4月2日)は、日本の劇作家、小説家、政治家、著述家。 1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。 ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。
平沢 要(ひらさわ かなめ、1891年〈明治24年〉4月11… 平沢 要(ひらさわ かなめ、1891年〈明治24年〉4月11日 - 1957年〈昭和32年〉5月25日)は、日本の逓信官僚。 長野県上伊那郡西春近村(現・伊那市)出身。旧制第一高等学校を経て、1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信省に入り、為替貯金局書記、同事務官補・逓信事務官補、電気局事務官、逓信省参事官・大臣官房文書課勤務、逓信書記官・電気局監理課長、同業務課長、大臣官房文書課長、広島逓信局長を歴任。1936年(昭和11年)、逓信省電務局長・逓信官吏練習所長となり、翌年には逓信次官に就任した。 退官後は中支那振興株式会社副総裁に就任し、1943年(昭和18年)まで在任した。
河合 正臣(かわい まさおみ、1891年〈明治24年〉4月1… 河合 正臣(かわい まさおみ、1891年〈明治24年〉4月10日 - 1958年〈昭和33年〉7月18日)は、大正から昭和時代の政治家。埼玉県川越市長。 秋田県に生まれる。中央大学を卒業し、東京興信所書記、同興信所川越出張所主事を経て、1930年(昭和5年)民政党系同志会が改称した愛市同盟に所属して川越市会議員に当選した。1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)の間に市会議長を2度務めた。1945年(昭和20年)同市長に就任。終戦を挟んで1946年(昭和21年)7月、ソースを公定価格の3倍近い価格で市民に配給した「ソース事件」の責任を取り、8月に辞任した。
竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月… 竹下 義晴(たけした よしはる、1891年(明治24年)4月9日 - 1979年(昭和54年)2月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 広島県出身。竹下一清の二男として生まれる。広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。参謀本部付勤務、陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業し歩兵第41連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、支那駐屯軍司令部付、参謀本部員(兵要地誌班)を経て、1926年(大正15年)3月、歩兵少佐に昇進。
平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 19… 平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 1940年2月2日)は、日本のジャーナリスト。父は漢学者の平川清音。 熊本県熊本市出身。1908年熊本県立熊本中学校卒業。1911年旧制第五高等学校卒業。1914年東京帝国大学法学部政治学科卒業。大阪毎日新聞社に入社し、上海特派員、整理部長、社会部長などを歴任する。1938年常務取締役、編集主幹となる。1940年2月2日死去。
大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 … 大田 實(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
荷見 安(はすみ やすし、1891年(明治24年)4月6日 … 荷見 安(はすみ やすし、1891年(明治24年)4月6日 - 1964年(昭和39年)2月22日)は、日本の農林官僚。農林次官。茨城県出身。
一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日… 一場 武平(いちば ぶへい、1891年〈明治24年〉4月5日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の政治家(群馬県吾妻郡吾妻町長・岩島村長ほか)・軍人。藍綬褒章(1963年)。 吾妻町(現・東吾妻町)生まれ。岩島高等小学校卒業。高崎歩兵第15連隊に入営。1921年(大正10年)、岩島村軍人分会会長に就任。1924年(大正13年)、岩島村消防組頭に就任。 1929年(昭和4年)、岩島村会議員に当選した。1933年(昭和8年)同村助役となった。1937年(昭和12年)助役に再任された。同年3月、村会議員の再選を果たした。1941年(昭和16年)8月に助役を辞職した。1942年(昭和17年)7月、村会議員に3選。
2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治… 2代 竹原 友三郎(たけはら ともさぶろう、1891年〈明治24年〉4月4日 - 1973年〈昭和48年〉6月4日)は、大正から昭和にかけての日本の実業家である。大阪の証券会社竹原証券の社長や関西土地社長、不動化学工業(現・フドー化学)社長などを務めた。友三郎の名は養父・初代友三郎から継いだもので、襲名前は竹原 義一を名乗った。 2代竹原友三郎は、1891年(明治24年)4月4日、太田聿郎の長男として生まれた。出身地は大阪府高槻市、初名は義一。のちに伯父にあたる大阪市で両替商・株式仲買業を営む初代竹原友三郎の養子となる。また岸和田の富豪寺田甚与茂の次女・秀(1894年生)を妻とした。学業は1913年(大正2年)に大阪高等商業学校を卒業した。
三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971… 三浦 弥平(みうら やへい、1891年4月2日 - 1971年4月)は、日本の陸上選手(長距離走)。現在の福島県伊達市出身。1920年アントワープ・1924年パリオリンピックのマラソン競技に出場。早稲田大学卒業後、ドイツに留学して体育学を修め、帰国後は郷里のスポーツ振興に尽力した。 福島県伊達郡白根村字木ノ田(現在の伊達市梁川町白根字木ノ田)に生まれる。生家は蚕種製造を行う大きな農家であった。 白根村立白根尋常小学校から梁川町立梁川尋常高等小学校(現在の伊達市立梁川小学校)に進む。幼いころから病弱であり、高等小学校2年時にはリウマチによって1年半の休学を余儀なくされている。1907年、白石中学校(現在の宮城県白石高等学校)に進学後も病気のため留年を経験した。
小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年… 小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年)4月1日 - 1974年(昭和49年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 兵庫県出身。農業・小林荘助の三男として生れる。鳳鳴中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。 1923年(大正12年)1月、歩兵第70連隊中隊長に就任。陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)3月から1929年(昭和4年)6月までイギリスに駐在。この間、1927年12月、歩兵少佐に昇進した。
木原 円次(きはら えんじ、1891年(明治24年)4月1日… 木原 円次(きはら えんじ、1891年(明治24年)4月1日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚、陸軍司政長官。台北市尹、台北市長。弁護士。 広島県安芸郡海田市町(現在の海田町)出身。1914年(大正3年)に陸軍士官学校(26期)を卒業し、歩兵少尉に任官。1918年(大正7年)に中尉に昇進するが、1920年(大正9年)に病のため予備役となった。1921年(大正10年)、中央大学を卒業し、会計検査院書記を務めながら、翌年に弁護士試験と高等試験に合格した。1923年(大正12年)、台湾総督府属となり、警視、事務官・警務局理蕃課長、台北州警務部長、警務局警務課長、新竹州内務部長、内務局土木課長、専売局参事・庶務課長を歴任。
大山 安(おおやま やすし、1891年(明治24年)4月 -… 大山 安(おおやま やすし、1891年(明治24年)4月 - 1962年(昭和37年)6月21日)は、日本の政治家。緑風会所属参議院議員。 本籍茨城県。上京し、東京市立浅草工業専修学校(現・東京都立蔵前工科高等学校)高等科を卒業する。卒業後は農業と土木請負業等に従事する。 1947年4月、第1回参議院議員通常選挙において全国区に出馬し当選(任期3年)。1950年6月、第2回通常選挙で落選し、1953年4月、第3回通常選挙で落選し、参議院議員を一期務めた。
齋藤 百合(さいとう ゆり、1891年(明治24年)3月31… 齋藤 百合(さいとう ゆり、1891年(明治24年)3月31日 - 1947年(昭和22年)1月17日)は、日本の社会運動家。盲人女性のための教育施設・福祉施設を設置し、その地位向上に力を尽くした。旧名は野口小つる。 愛知県八名郡石巻村(現・豊橋市)にて、野口浪太郎の次女・小つるとして生まれた。父の浪太郎は旅まわりの浪曲師で、母のきくは村の旧家の娘であったが彼に心を寄せ、駆け落ち同然に所帯を持った。二人の間には子どもが5人生まれた。長女のつるは浪太郎の実家の竹上家に引き取られ、次女の小つるが生まれた頃に浪太郎は野口家の養子となり、小つると2人の男の子(沢治・福三郎)は祖父母に預けられ、三女のきんは三ヶ日の外山家に養子に出された。
棈松 熾(あべまつ さかん、1891年(明治24年)3月30… 棈松 熾(あべまつ さかん、1891年(明治24年)3月30日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県日置郡上伊集院村(現・鹿児島市)に生まれる。1909年(明治42年)2月、台湾総督府税関官吏に任ぜられ、府属、台北州属、総督官房秘書課勤務を経て、1928年(昭和3年)9月、地方理事官に進み、基隆市助役に就任した。1930年(昭和5年)4月、台北州羅東郡守、1931年(昭和6年)5月、高雄州潮州郡守を歴任し、1932年(昭和7年)4月に退官した。 退官後は、清水街長、台北市主事、台南商工会議所理事、花蓮港市会議員などを歴任した。
戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - … 戸塚 九一郎(とつか くいちろう、1891年3月27日 - 1973年10月13日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議員(3期)、徳島県知事、山口県知事、宮城県知事(第28代)、福岡県知事、北海道庁長官(第25代)、労働大臣(第8代)、建設大臣(第8代、第9代)、北海道開発庁長官(第5代、第6代)、衆議院議員(3期)を務めた。 静岡県出身。酒造業・町長、戸塚藤平の三男として生まれる。掛川中学(現在の静岡県立掛川西高等学校)、一高を経て、1917年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、内務省に入り香川県属となり内務部地方課に配属。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。
酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26… 酒井 直次(さかい なおじ、1891年〈明治24年〉3月26日 - 1942年〈昭和17年〉5月28日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、陸軍通信学校長、歩兵第19旅団長等を歴任し、階級は陸軍中将功二級に至る。暗号通信の権威として知られる。本籍は東京府。 1891年(明治24年)3月26日、出羽国庄内藩初代藩主酒井忠勝の6男酒井忠直(藩主家一門・酒井奥之助家)の後裔である酒井直興の次男として山形県西田川郡鶴岡五日町(現:鶴岡市)に生まれる。1902年(明治35年)、東京に移住し、1903年(明治36年)、成城中学校に入学。 1904年(明治37年)、陸軍中央幼年学校予科に入学し同本科を経て、1911年(明治44年)5月27日、陸軍士官学校を92番/740名で卒業する。
清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月2… 清水 善造(しみず ぜんぞう、1891年(明治24年)3月25日 - 1977年(昭和52年)4月12日)は、群馬県西群馬郡箕輪村(現・高崎市箕郷町)出身の男子テニス選手。 日本人初のウィンブルドン出場者でありベスト4に進出した。全米選手権でもベスト8入りしている。 元俳優の清水善三、関西学院大学教育学部教授の藤木大三らは、清水の孫にあたる。 群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)に進学。東京高等商業学校(現:一橋大学)を卒業後、1912年に三井物産に入社、カルカッタ(インド)、ニューヨーク(アメリカ合衆国)へに駐在員として在任した。テニス選手として国際大会に出場したのはこの期間である。
中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25… 中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25日- 1974年(昭和49年)2月7日)は、日本の医学者、生化学者、古地図学者。本業である生化学者としての業績のほか、古地図研究でも多くの業績を残している。 1891年、福島県伊達郡梁川町に生まれる(現在の伊達市)。1916年第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)東京帝国大学医学部を卒業。 1921年、伝染病研究所(長与又郎研究室)に入り、パリのパスツール研究所に留学。1924年ガブリエル・ベルトラン(英語版)教授に師事し、ソルボンヌ大学から理学博士号を授与される。1925年、東京帝国大学から医学博士号を授与される。1926年にポール・ジャクレーの母で18歳上の未亡人ジャンヌ (1874-1940)と結婚。
内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年(明治24年)3月… 内藤 政光(ないとう まさみつ、1891年(明治24年)3月24日 - 1961年(昭和36年)3月28日)は、大正から昭和期の考古学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 愛知県西加茂郡挙母村(現豊田市)で子爵・内藤政共の長男として生まれる。父の死去に伴い、1902年(明治35年)12月23日、子爵を襲爵した。 1916年(大正5年)3月、学習院高等学科を卒業し、さらに、1922年(大正11年)東京帝国大学文学部国史学科を卒業した。 1924年(大正13年)実践女子専門学校講師に就任。以後、国士舘専門学校講師、同教授、東京帝室博物館歴史課事務嘱託、同館学芸委員、外務省調査局勤務などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1… 本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23… 立松 ふさ(たてまつ ふさ、1891年(明治24年)3月23日 - 1992年(平成4年)11月16日)は、日本の声楽家。声種はソプラノ。音楽教育者。作曲家。武蔵野音楽大学名誉教授。旧姓は薗部。名は房子と表記されることが多い。フサと表記されることもある。 東京府亀戸出身。警察官、薗部久五郎の長女として生まれる。東京府立第一高等女学校卒。東京音楽学校にてハンカ・シェルデルップ・ペツォルト、宮廷歌手ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。1913年(大正2年)に同校本科声楽部を卒業。1915年(大正4年)から同校声楽講師。1925年(大正14年)私立東京女子体操音楽学校(現:東京女子体育大学)講師。1927年(昭和2年)函館で演奏会を開催。
川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年… 川並 密(かわなみ ひそか / みつ、1891年〈明治24年〉3月22日 - 1978年〈昭和53年〉11月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 茨城県出身。土浦中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉任官。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。陸軍歩兵学校勤務となる。 1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官に就任した。1937年(昭和12年)3月、陸軍通信学校教育部長に異動。同年9月、歩兵第6連隊長に戦死した前任者の後任として着任し日中戦争に出征。南京攻略戦、徐州会戦、武漢作戦に参加した。
柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月2… 柴田 知常(しばた ともつね、1891年(明治24年)3月22日 - 1980年(昭和55年)1月20日)は、日本の音楽教育者、作曲家。東京市出身。東洋音楽短期大学初代学長、前東京音楽大学理事長。 1891年(明治24年)東京市生まれ。麹町小学校、東京府立第四中学校を経て、1916年(大正5年)東京音楽学校 (旧制)卒業。1927年(昭和2年)、東京市の視学制度により視学官としてアメリカ合衆国の教育事情を視察するために渡米。1951年(昭和26年)から東洋音楽学校校長を務めた。その後、東洋音楽短期大学発足に伴い、同大学の初代学長に就任。東京音楽大学に改組されてからは理事長を務めた。この間、日本音楽文化協会理事や上野学園大学教授、早稲田大学講師、東京芸術大学同声会会長などを歴任。
古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22… 古賀 米吉(こが よねきち、1891年(明治24年)3月22日 - 1983年(昭和58年)6月7日)は日本の教育者。千葉県市川市の学校法人市川学園の創立者として知られる。 1891年、古賀米吉は福岡県三井郡(現在の小郡市)で生まれた。9歳のときに父が亡くなり、貧乏な母子家庭で育ったという。1915年に[要出典]福岡師範学校二部を卒業したが、経済的理由で上級学校に進めなかったという[要出典]。卒業後は小学校教諭となり、教師として働く傍らで学資を貯めていたという[要出典]。 27歳のときに上京し、1922年に[要出典]旧制東京外国語学校英語科(現在の東京外国語大学英文科)を卒業した。その後[いつ?]、府立四中(現在の都立戸山高校)の英語教師、主任として働きながら自身も進学し、1930年に39歳で東京帝国大学文学部社会学科を卒業したが、その後府立四中を退職した。
岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 19… 岩井 盛次(いわい もりつぐ、1891年3月21日 - 1974年3月20日)は、日本の実業家で、エコナックホールディングスの創業者でもある。 京都府京都市出身。1908年に京都市立第一商業学校を卒業した。1926年に日本レースを設立し、1942年に同社の社長に就任した。 近畿放送、京都銀行の各取締役などを歴任し、1965年4月に京都商工会議所会頭に就任した。1965年11月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1974年3月20日に腹部腫瘍のために死去。82歳没。
森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月2… 森 寿五郎(もり ひさごろう、1891年(明治24年)3月20日 - 1983年(昭和58年)1月8日)は、日本の経営者。工学博士。岡山県高梁市出身。 1891年(明治24年)岡山県川上郡落合村福地(現:高梁市落合町)に信原忠吉の四男として生まれる。この後、川上郡成羽町中村にある森家の養子となる。地元の旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、第三高等学校を1914年(大正3年)に卒業し、1919年(大正8年)に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した。 卒業と同時に、宇治川電気へ入社。翌年、日本電力に移り、試験係長、大阪変電所長、発電・送電各課長、送電総務理事などを歴任し順調に出世した。1950年(昭和25年)10月、59歳で日本発送電副総裁に就任し、翌年、1951年(昭和26年)5月に関西電力が発足すると同時に、関西電力副社長に就任した。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16… 出羽 重芳(でわ しげよし、1891年(明治24年)3月16日 - 1946年(昭和21年)6月7日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。 海軍士官・出羽重遠の四男として生まれる。父の死去に伴い、1930年(昭和5年)3月15日、男爵を襲爵した。 1916年(大正5年)早稲田大学商学部を卒業した。同年、日本郵船に入社。その後、国際汽船に移り、横浜出張所長、調度課長を務め、さらに大阪商船で勤務。その他、鶴見化学工業取締役、東京測機監査役、船舶運営会副参事などを務めた。 1946年(昭和21年)5月11日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属したが、翌月に死去した。
古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1… 古市 春彦(ふるいち はるひこ、1891年3月15日 - 1943年1月9日)は、日本の学者・労働運動家。 鹿児島県熊毛郡南種子村(現・南種子町) 出身。農業に従事していたが、20歳で志をたてて上京し錦城中学に入る。在学中友愛会の賛助会員となる。第五高等学校を経て京都帝国大学に入るが友愛会運動を続ける。京大では1918年9月に結成された河上肇を顧問とする労学会に所属し、同年10月には同年12月に赤松克麿らが東大で新人会をつくるきっかけにもなる東西両大学連合演説会(岡崎公会堂で東京帝国大学と京都帝国大学の学生が行った)で東京帝大の赤松らと論戦する。卒業後の大正10年に上京し出版社隆文館に勤務するが、13年福岡の西南学院商科長となる。
小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)… 小笠原 長丕(おがさわら ながまさ、明治24年(1891年)3月15日 - 昭和43年(1968年)4月7日)は、日本の華族。子爵。旧安志藩忠脩系小笠原家第13代当主。旧小倉藩小笠原家当主小笠原忠忱の二男。 兄に小笠原長幹、弟に小笠原豊、妹に津軽英麿夫人、百子(尚昌夫人)。養子に小笠原忠幸。 明治38年(1905年)、安志小笠原家12代の子爵小笠原貞孚が後嗣なく没したため、貞孚の甥にあたる長丕が養子として跡を継いだ。明治44年(1911年)3月、学習院中等科を卒業。その後、早稲田大学専門部に進学、卒業。東京府立第一中学校、法政大学商業学校などの講師となる。昭和5年(1930年)に隠居し、養子忠幸(兄小笠原長幹の子)に家督を譲った。
清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24… 清水谷 恭順(しみずだに きょうじゅん、1891年〈明治24年〉3月14日 - 1979年〈昭和54年〉8月8日)は、天台宗の僧、仏教学者、浅草寺貫首。 1891年(明治24年)、群馬県新田郡笠懸村西鹿田(現・みどり市笠懸町西鹿田)の長昌寺住職・林恵順の子として生まれる。幼名・光司。笠懸尋常小学校を経て、県立太田中学校へ進学。1906年(明治39年)清水谷慶順につき得度し、清水谷姓となる。 1915年(大正4年)天台宗大学を卒業。1919年(大正8年)天台宗大学教授となり、1926年(大正15年)の大正大学創設に伴い教授に就任し、1945年(昭和20年)に退任。この間、宮内省職員養成所講師や、比叡山中学校校長も務める。
寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1… 寺岡 謹平(てらおか きんぺい、1891年3月13日 - 1984年5月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 1891年(明治24年)3月13日、山形県東田川郡羽黒町手向(現・鶴岡市)で小学校長・寺岡義秀の二男として生れる。新庄中学校を経て、1912年(明治45年)7月に海軍兵学校(40期)を卒業、少尉候補生となる。 1913年(大正2年)12月、海軍少尉任官。1915年(大正4年)12月、中尉に昇進。1918年12月、大尉に昇進。1919年(大正8年)12月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第二艇隊艇長に就任。1920年(大正9年)8月、檜 (桃型駆逐艦)に乗組。1921年(大正10年)6月、菱 (樅型駆逐艦)に乗組。
仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3… 仲井間 宗一(なかいま そういち、1891年(明治24年)3月13日 - 1965年(昭和40年)12月2日)は、沖縄県出身の日本の弁護士、政治家。衆議院議員。 名護間切名護(現名護市)で、仲井間宗宣の長男として生まれる。1911年、沖縄県立第一中学校5年に在学中に上京。苦学して日本大学専門部法律科に入学。1922年、弁護士試験に合格。 1923年に帰郷して那覇に弁護士事務所を開業した。その後、那覇弁護士会会長に就任。 1930年2月の第17回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から立憲民政党所属で出馬して当選。その後、第19回 から第21回総選挙まで連続三回の当選を果たし、衆議院議員を通算四期務めた。
川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年… 川崎 備寛(かわさき よしひろ、かわさき びかん、1891年3月13日 - 1963年3月26日)は、日本の翻訳家、麻雀研究家。 大阪府貝塚市生まれ。関西学院大学政治部中退後、文筆活動に入り1923年(大正12年)『文藝春秋』の同人となる。1924年から麻雀を始め、1929年(昭和4年)日本麻雀連盟創立に際し中央委員。1930年(昭和5年)最高段位7段となる。1932年(昭和7年)麻雀団体が合併して大日本麻雀連盟が結成され、機関誌『麻雀日本』の編集長に就任。 1934年(昭和9年)、警視庁による麻雀賭博の摘発が続く中で、川崎も同年2月に死去した直木三十五の追善麻雀大会に参加したことを追及され、同年3月に福田蘭童、多賀谷信乃、淵川銀次らとともに一斉検挙された。
河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月… 河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。 三条実美の四男として東京に生まれる。河鰭家当主・河鰭公篤の養子となる。養父の死去に伴い、1922年4月29日、子爵を襲爵した。東京帝国大学文学部卒業。大正天皇の侍従。1949年昭和女子大学教授、1969年学長。1960年に日本風俗史学会の設立に参加。1961年「近世に於ける公家服飾の史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。墓所は多磨霊園。
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)… 安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の政治家。内務・厚生官僚、東京都長官(6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、新潟県知事(34代)、衆議院議員(1期)を歴任した。位階は正三位。 参議院議長を務めた安井謙と、雪印食品副社長を務めた安井三郎は弟。 岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971… 飯野 哲二(いいの てつじ、1891年3月9日 - 1971年1月3日)は、昭和期の日本の国文学者。松尾芭蕉の研究で知られる。 栃木県芳賀郡二宮町(現・真岡市)出身。第二高等学校を経て、1921年に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 卒業後は鉄道省勤務、東京府立第一商業学校(現・東京都立第一商業高等学校)教諭といった職に就く。1925年に東京帝大大学院に入ったが、修了を待たずに1926年より再度教職に戻り、熊本県女子師範学校と、熊本県立第二高等女学校(熊本県立第一高等学校の前身の一つ)を兼任した。 1928年、宮城県女子専門学校(戦後、新制東北大学に統合)教授に就任する。松尾芭蕉の研究は、この時期に『奥の細道』の講義を仙台放送局の依頼でおこなったことに始まった。