志村 清右衛門(しむら せいえもん、1880年12月27日 … 志村 清右衛門(しむら せいえもん、1880年12月27日 - 1930年4月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 千葉県出身。1907年、東京高等商業学校卒。大阪住友銀行社員となる。その後、千葉郡議、同副議長、千葉県議、同参事会員、幕張町長、漁業組合長を務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において千葉1区から政友本党公認で立候補して当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙では千葉1区から立憲民政党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務めた。1930年の第17回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。同年4月に死去した。
苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12… 苫米地 義三(とまべち ぎぞう、1880年〈明治13年〉12月25日 - 1959年〈昭和34年〉6月29日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。運輸大臣(第8代)、内閣官房長官(第3代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、サンフランシスコ講和会議全権委員。 1880年(明治13年)12月25日、青森県上北郡相坂村(藤坂村を経て現在の十和田市)に生まれる。父の金次郎は村の評議員で、明治22年の市町村制施行時は、藤坂村の第1期村会議員にも選ばれた地域の有力者だった。一方で北海道開拓に並々ならぬ関心を抱いており、翌1890年(明治23年)には全財産を担保にして土地を買い、後志国磯谷郡南尻別村大谷地(現在の北海道蘭越町大谷地)に移り住んだ。
沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 193… 沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 1932年10月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1880年(明治13年)、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に生まれた。海南中学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 平和条約実施委員、陸軍大学校兵学教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部運輸課長に就任。1924年(大正13年)7月、歩兵第68連隊長となり、参謀本部運輸課長、陸軍省人事局補任課長を歴任。
白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、188… 白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、1880年(明治13年)1月19日 - 1951年(昭和26年))は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、鹿児島市長。旧姓・池田。 鹿児島県鹿児島市出身。池田休兵衛の四男として生まれ、1885年、母方の白男川渉の養子となる。第三高等学校を卒業。1906年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大阪市に入る。1909年12月、文官高等試験に合格。内務省に転じ沖縄県属となる。 以後、福井県三方郡長、富山県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁土木部長、奈良県内務部長、京都府内務部長などを歴任。 1921年5月、床次竹二郎内務大臣により起用され福井県知事に就任。
淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 -… 淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 - 1937年1月13日)は、日本の実業家、運搬業者、請負業者。昭和期の地下鉄御堂筋線建設などに従事した。 1880年1月16日、石川県江沼郡我谷村(のち西谷村、現加賀市)の淺山金四郎の三男として生まれる。三男であったため、本家の家督は継がず(長男千太郎が家督を継ぐ)他の兄弟とともに大阪へ出て運送業を始める。『人事興信録』には1923年(大正12年)に三男金五郎が分家したと記載されている。これ以後の淺山家兄弟の動向に関しては、二男仁太郎は西野田今開町を拠点に土佐堀で回漕業(運搬船業)を起業し、五男定吉とともに海上運送業務に携わっていたが、東区北久宝寺の合資会社山口運送店設立の際に四百圓出資している。
金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 196… 金子 健二(かねこ けんじ、1880年1月13日 - 1962年1月3日)は、日本の英文学者、翻訳者。 1880年(明治13年)、新潟県中頸城郡新井町に生まれる。高田中学校から東京の郁文館中学校、第四高等学校を経て1905年に東京帝国大学英文科を卒業した。 帝大在学中、一年の前半は小泉八雲、八雲退任後の三年間は夏目漱石の講義に出席して、その様子を詳しく日記に記している。日記の内容は著書『人間漱石』(いちろ社、1948。増補版は協同出版、1956)や、孫の金子三郎が編纂した『川渡り餅やい餅やい――金子健二日記抄』(上中下巻、私家版、1998)、『記録 東京帝大一学生の聴講ノート』(リーブ企画、2002)等に紹介されており、漱石研究者にとって非常に貴重な資料となっている。
北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月… 北沢 種一(きたざわ たねいち、1880年〈明治13年〉1月13日 - 1931年〈昭和6年〉12月9日)は、日本の教育者。 長野県諏訪郡四賀村(現在の諏訪市)出身。長野県師範学校を経て、1906年(明治39年)に東京高等師範学校を卒業した。福井県師範学校を経て、東京女子高等師範学校教授・同附属高等女学校教諭・同附属小学校主事を務めた。1922年(大正11年)から1924年(大正13年)までドイツに留学し、帰国後は東京女子高等師範学校附属高等女学校主事となった。ドイツから帰国後、作業教育を提唱した。
佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日… 佐保 畢雄(さほ ひつお、1880年(明治13年)1月11日 - 1940年(昭和15年)9月9日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)。旧姓・永江。 永江慎一の五男として長崎県に生まれ、佐保ケサの養子となり、1909年(明治42年)家督を相続する。1906年(明治39年)早稲田大学政治経済科を卒業。農業を営む傍ら、佐世保市会議員、長崎県会議員、同参事会員、鉄道大臣秘書官を歴任する。また、佐世保商工会議所議員、佐世保信託、肥薩貯金、佐世保土地、九州鉄工所各取締役、佐世保鉄工所、大和屋洋服店各取締役社長、佐世保貯蓄銀行監査役などを歴任する。南洋方面視察および派遣軍慰問のため満州、北支那に派遣された。
瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月1… 瀬川 直一(せがわ なおいち、1880年(明治13年)1月10日 - 1968年(昭和43年)8月21日)は、日本の船長、第二代日本海事検定協会会長。位階は従五位。 牧師である父、瀬川浅と母つやの長男として佐賀県で生まれ、その後すぐ長崎市へ移り、同地で育つ。 東山学院を経て、1906年(明治39年)に東京商船学校を卒業後、日本郵船に入社。英国留学の経験や英語が得意だったことを活かして、主に欧州航路の乗組船員として乗務に就いた後、小樽丸、加賀丸、靖国丸等の船長を務める。 1933年(昭和8年)に日本郵船を退職、1935年(昭和10年)日本海事検定協会に検査員として就職し、横浜出張所所長や理事などを務めた。
河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 195… 河北 林吾(かわきた りんご、1880年1月5日 - 1958年3月29日)は、明治期から昭和期の実業家、時計商。河北時計店社長。旧姓、牛島。 九州福岡県八女郡出身。 東京に出て、立教大学商学部に入学。この頃、築地にあった立教大学の寄宿学生たちは、「天國は近づけり、汝等食ひあらためよ」と吟じつつ、夕方になると銀座をふらついては、木挽町にあった天丼屋の「天國」で天丼2杯ほどをペロリと平らげて群歩いていたが、林吾もそうした中の一人だった。また林吾は、学生当時、立教最初の英語劇を催した一人であった。 1911年(明治44年)、立教大学商学部を主席で卒業。立教大学第1回卒業生として、小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長、文学部卒)や、久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長)と同級生。
小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961… 小幡 豊治(おばた とよじ、1880年1月4日 - 1961年7月30日)は、日本の内務官僚、検察官、弁護士。政友会系県知事。 千葉県出身。小幡締次郎の三男として生まれる。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法省に入り、千葉地方裁判所・津地方裁判所・名古屋地方裁判所・浦和地方裁判所・東京地方裁判所などの検事を歴任。 1917年(大正6年)1月、内務省に転じ警視庁保安部長に就任。以後、愛知県・大阪府の各内務部長などを歴任。 1922年(大正11年)10月、高知県知事に就任し、郡道の県立移管問題や発電所の増設に尽力。さらに、鹿児島県知事、徳島県知事を務める。1926年(大正15年)9月28日に知事を休職。
石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月… 石川 定辰(いしかわ ていしん、1880年〈明治13年〉1月4日 - 1947年〈昭和22年〉10月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 秋田県南秋田郡秋田町中長町(現秋田市中通)出身。新聞記者、秋田時事新聞主幹、秋田新聞社、東北拓殖、東北物産商事、能代無尽各(株)取締役、秋田木工、辛酉銀行各(株)代表取締役となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において秋田1区(当時)から立憲政友会公認で立候補したが次点で落選した。1936年(昭和11年)第19回衆議院議員総選挙で立候補したが次点落選。最下位当選者とは1票差だった。しかし、同年12月に同じ選挙区の中田儀直の当選無効により、更正決定で議員となる。
小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13… 小林 順一郎(こばやし じゅんいちろう、1880年(明治13年)1月3日 - 1963年(昭和38年)11月20日)は、日本の陸軍砲兵大佐、実業家、右翼の黒幕、右翼団体三六倶楽部主宰者、大政翼賛会総務。戦後A級戦犯として逮捕された。新潟県長岡市出身。 旧長岡藩士・小林保四郎の長男として生まれる。長岡中学・陸軍中央幼年学校を経て、1901年、陸軍士官学校卒業(13期)。同期には志賀直方(志賀直哉の叔父、近衛篤麿の親友)・井田磐楠・林茂清・中岡弥高・建川美次らがいる。 1902年、砲兵少尉となる。1904年、日露戦争に出征し砲兵中尉となる。1908年、陸軍砲工学校高等科卒(14期)、砲兵大尉となる。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 19… 大緑 仁吉(おおみどり にきち、1880年1月3日 - 1954年7月19日)は、現在の福井県福井市出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は帰山 仁吉。8代大山。179cm、94kg。最高位は東前頭3枚目。 1901年1月初土俵、1907年1月十両昇進。1908年1月、6勝2分2休で、現在なら十両優勝にあたる成績をあげ、翌5月場所で新入幕。3場所連続の好成績で3枚目まで躍進するが、以後は下降線を辿り、十両に陥落。1912年5月に引退して大山を襲名した。1938年5月に廃業し、瀬戸物業を営んだ。 エコノミーホテルほていやブログ~ 両店のルーツと山谷の宿の変遷 ~ - 帰山仁吉とその一族の足跡について書かれた記事 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1… 杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1945年〈昭和20年〉9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。また、軍要職にあった際の記録を『杉山メモ』として遺したことで知られる。 1880年(明治13年)1月2日、福岡県企救郡横代村(後の小倉市を経て現:北九州市小倉南区横代)に杉山貞の長男として生まれる。 父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動で農兵として従軍した後、教育者として活躍しており、広寿山福聚寺(現:北九州市小倉北区)に事績が記録される。
長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日… 長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉8月15日)は、日本の神職。熱田神宮名誉宮司。 1880年、石川県の社家に生れる。1911年に神宮皇學館を卒業、1912年に駒形神社宮司となって以降、1913年から大鳥神社、1920年から松尾大社、1923年から多賀神社、1934年から橿原神宮の宮司をつとめ、1936年から熱田神宮宮司、その後同名誉宮司。1946年の神社本庁設立などに尽力した。皇學館大学の初代理事長も務めている。
斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1… 斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の日本の政治家。鉄道官僚。三重県宇治山田市長。 国井清廉の三男として岐阜県、のちの羽島郡笠松町に生まれ、斎藤光の入夫となる。1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。更に大学院に学んだ。帝国鉄道院に出仕し、同書記、同参事、鉄道局参事、札幌、仙台、各鉄道局運輸課長、鉄道監察官を経て、札幌鉄道局長および鉄道省監察局長に進んだのち退官する。その後、参宮急行電鉄専務取締役を経て、1935年(昭和10年)11月、宇治山田市長に就任した。1940年(昭和15年)1月、再選した。3期務め1946年(昭和21年)3月に退任。
松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年… 松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1963年〈昭和38年〉6月2日)は日本の農林官僚であり、退官後に貴族院議員及び参議院議員を務めた。 松村眞平とヒサの間に長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、農商務属兼農商務大臣秘書官となる。同年、高等文官試験に合格し、特許局審査官と農商務参事官を兼任した。さらに農商務書記官に昇進し、大臣秘書官を兼ねた。1910年(明治43年)、法制局参事官に転じ、行政裁判所評定官を兼ね、1918年(大正7年)には法制局第一部長に就いた。その後、農商務省に戻って、畜産局長、商務局長、農林省水産局長、農林局長を歴任し、1929年(昭和4年)には農林次官に就任した。
塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年)1月1… 塩野 季彦(しおの すえひこ、明治13年(1880年)1月1日 - 昭和24年(1949年)1月7日)は、日本の司法官僚、政治家。司法大臣である。思想検事の主流として活動し、「塩野閥」などと言われた派閥を形作っていたことで知られている。(特捜検察と公安検察の対立参照。)
大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。
葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1… 葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1942年1月15日)は山口県出身の実業家、政治家。日本の冷凍物流事業の先駆けとして知られる。大正期に山口電灯を設立し、次いで山口県下の電気事業者をまとめて山陽電気に改組した後、大型冷蔵庫の製造や冷凍船を建造するなど冷凍魚の保存及び販売事業を推し進めた。後に衆議院議員も務める。 1879年(明治12年)12月22日、 山口県吉敷郡小郡町上郷字新町東上で葛原富次郎の二男として生まれる。1897年(明治30年)に旧制高等商業学校(現・一橋大学) に入学。また、東京英語専修学校(現・立教大学)に修学。在学中の1900年(明治33年)に農商務省の海外実業練習生に応募すると、見事合格し渡米。
猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日… 猪飼 たね(いかい たね、1879年〈明治12年〉1月18日 - 1995年〈平成7年〉7月12日)は、日本のスーパーセンテナリアン。かつて日本国内最高齢かつジャンヌ・カルマンに次ぐ世界で2番目の長寿であった愛知県名古屋市出身の女性。 愛知県愛知郡寛政村(現・名古屋市港区寛政町)の農家の三女として生まれ、結婚後三男一女をもうけたが、子四人全員に先立たれた。 100歳ころまでは、杖を使いながら老人ホームの外へ買い物へでかけたり、レクリエーションに参加するなど元気であり、趣味の縫い物を嗜んでいたという。108歳の時には「長生きのヒケツは、病気しないこと」と語っていた。その後、何度か脳卒中で入退院を繰り返し、113歳の時に発症してからは寝たきりであった。
清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 19… 清水 銀蔵(しみず ぎんぞう、1879年1月17日 - 1937年4月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 野洲郡中里村(現・野洲市)生まれ。1902年東京専門学校英語政治科卒。愛国生命保険(株)に入る。その後、江州日日新聞社取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀3区から立憲国民党公認で立候補したが落選。1924年の第15回衆議院議員総選挙では革新倶楽部公認で立候補したが落選。1927年の補欠選挙で初当選。1928年の第16回衆議院議員総選挙で滋賀県全県区から立憲政友会公認で立候補してトップ当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙で当選。1932年の第18回衆議院議員総選挙では2度目のトップで当選。
寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、… 寺田 三郎兵衛(てらだ さぶろべえ、旧姓・川上、前名・豊通、1879年〈明治12年〉1月16日 - 没年不明)は、日本の商人(稲元屋、呉服商)。神奈川県多額納税者。 神奈川県高座郡藤沢町(現藤沢市)出身。川上九兵衛の長男。1892年、寺田満重の養子となり1917年、前名・豊通を改め1921年、家督を相続した。 稲元屋と称し、呉服商を営み、県下の多額納税者であった。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。住所は藤沢。 旧稲元屋呉服店は初代寺田三郎兵衛が弘化2年に創業、昭和初期には「湘南の三越」ともいわれていた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
前田 晁(まえだ あきら、1879年(明治12年)1月15日… 前田 晁(まえだ あきら、1879年(明治12年)1月15日 - 1961年(昭和36年)9月9日)は、日本の小説家・翻訳者。号は木城。妻は童話作家の徳永寿美子。
高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)… 高橋 寿太郎(たかはし じゅたろう、1879年(明治12年)1月15日 - 1945年(昭和20年)4月8日)は、日本の海軍軍人。階級は海軍少将。衆議院議員(立憲民政党→国民同盟→立憲民政党)。位階は従四位。勲等は勲二等。 岩手県上閉伊郡千徳村(現在の宮古市)生まれ。東北学院を経て、1900年(明治33年)に海軍兵学校を卒業した。日露戦争の際には戦艦「富士」の乗組員として旅順港閉塞作戦や日本海海戦などに参加した。1912年(明治45年)、海軍大学校を卒業し、軍令部参謀、海軍大学校教授を歴任した。第一次世界大戦では青島の戦いで第二艦隊参謀を務めた。その後、海軍大学校教頭、海軍砲術学校校長、第一水雷戦隊司令官などを歴任した。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - … 新美 卯一郎(にいみ ういちろう、1879年1月12日 - 1911年1月24日)は、明治期の社会主義者である。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人。 熊本県出身。熊本県尋常中学校卒業。東京専門学校中退。 1907年松尾卯一太と『熊本評論』創刊。宮崎民蔵(宮崎滔天の次兄)によって組織されていた土地復権同志会に紙面を提供する。1910年の幸徳事件(大逆事件)で検挙され、1911年1月24日8時55分、市ヶ谷刑務所で絞首刑が執行された。32歳没。
手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 19… 手塚 縫蔵(てづか ぬいぞう、1879年1月12日 - 1954年8月16日)は日本の教育者。基督者。 長野県東筑摩郡広丘村(現塩尻市)生まれ。長野県師範学校に入学し、信濃毎日新聞主筆の山路愛山からキリスト教に関する感化を受け、在学中に長野教会で高木信吉牧師から受洗する。明治35年(1902年)、太田水穂が校長を務める東筑摩郡和田尋常小学校に赴任。同37年(1904年)に休職して上京し、植村正久の東京神学社に学ぶ。復職後は上高井郡川田、須坂の各尋常小学校の訓導、東筑摩郡会田尋常小学校校長を経て、明治44年(1911年)長野市後町尋常小学校首席訓導に転じ、教師仲間と「東西南北会」を結成し、形式主義的な教育に対抗して、教師自身の人格を高め、生徒の個性や人格を尊重するという「人格主義教育」を唱えた。
神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月… 神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月10日 - 1924年〈大正13年〉11月21日)は、日本の医師、軍医。李王家御典医。広島県高田郡長田村(現在の安芸高田市)出身。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。
半澤 洵(半沢 洵、はんざわ じゅん、1879年1月9日 -… 半澤 洵(半沢 洵、はんざわ じゅん、1879年1月9日 - 1972年9月25日)は、日本の農学者・教育者。学位は、農学博士(北海道帝國大學)。日本学士院会員。北海道帝國大學名誉教授。市立名寄短期大学初代学長。北海道札幌郡白石村(現・札幌市白石区)出身。 納豆菌の純粋培養を大正時代に成功させ、納豆製造業の近代化に道を開いたことで知られる。 細菌学を研究し、細菌研究の先駆者にして、第一人者。特に、納豆菌研究が有名。半澤に拠れば「滋養に富み、消化良好にして、欧米のチーズに匹敵する」として、「半澤式納豆製造法」として確立した。従来の藁納豆に比べ、衛生的で、純粋培養の納豆菌の使うだけに高い栄養価も維持された。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 … 水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 - 1929年(昭和4年)4月30日)は、日本の華族(子爵)・政治家。貴族院の院内会派・研究会の幹部で、加藤高明内閣の陸軍政務次官。水野宗家第18代当主。旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の五男。養父は旧結城藩当主家の水野忠愛。妻は旧菊間藩主・水野忠敬の三女・貞子。教育調査会会員、臨時教育会議委員、学習院御用掛、鉄道会議臨時議員などを歴任した。 1879年(明治12年)1月5日、旧紀伊新宮藩藩主・水野忠幹の五男として東京府で生まれる。1884年(明治17年)10月に水野宗家第17代当主・水野忠愛の養嗣子となって同年12月に家督を相続する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学卒業。
大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4… 大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の郷士家。農業土木技術者。大場家は源平合戦(治承・寿永の乱)に勇名を知られた大庭景親の後胤で近世では代々世田谷郷の井伊家領土の代官。信続は13代目にあたる。父信愛の長男として世田谷邸世田谷代官屋敷に生まれる。 東京帝国大学農科大学農学科に入学し、学生時代農科の端艇部ボート選手として紫友会に活躍。1903年(明治36年)卒業後、兵役に服し陸軍砲兵少尉に任じる。1905年(明治38年)大学院に進学。農業工学を研究し、また1年間大学主催の耕地整理講習会にも参加。その後、東京農業大学の前身東京高等農学校講師、農商務省嘱託。
牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4… 牧野 輝智(まきの てるとし 1879年(明治12年)1月4日 - 1941年(昭和16年)8月29日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。専門は財政学。学位は経済学博士(東京帝国大学) 牧野鼎藏の三男として熊本県に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)を1897年(明治30年)に卒業して、熊本県立商業学校で英語や地理を教え、間もなく教頭になる。その後佐賀県立佐賀中学校、暁星中学校等の教壇に立つ。 同郷の大先輩である清浦奎吾が農商務大臣に就任すると、清浦の要請で農商務省特許局嘱託の農商務大臣秘書に転身し、清浦と久米金弥特許局長が創設した工業所有権保護協会の機関誌『工業所有権雑誌』の主幹も務める。
中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3… 中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3日 – 1968年(昭和43年)2月18日)は、農商務官僚、商工官僚、実業家。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。翌年より農商務試補、山林局事務官、水産局書記官、広島大林区署長、高知大林区署長、東京大林区署長、大臣官房文書課長、会計課長、特許局長、山林局長を歴任した。1924年(大正13年)、農商務次官に就任し同年末に製鉄所長官に転じた。1934年(昭和9年)、製鉄所が日本製鉄株式会社に改組されると初代社長に就任し、1939年(昭和14年)まで在任した。
島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 -… 島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 - 1915年〈大正4年〉7月28日)は、日本の漢学者・書誌学者。若くして校勘学で名をあげ、日中の文人と広く交流した一方で、書籍の窃盗などの事件を起こし、37歳のとき自殺した。 字は彦禎または彦楨。号は双桂后人。 1879年(明治12年)1月2日、東京府小石川区(現在の東京都文京区)にて、島田篁村を父とする学者の家系に生まれる。幼少から漢籍を愛し神童と評されたが、吃音を患い会話が苦手だった。 1891年(明治24年)、東京高等師範学校付属尋常中学校に入学、幼馴染の永井荷風や井上唖々と親交する。荷風の回想によれば、彼らはともに軟派で文弱だったため、しばしば同級生の鉄拳制裁の対象になったという。
国米 泰石(こくまい たいせき、1879年1月1日 - 19… 国米 泰石(こくまい たいせき、1879年1月1日 - 1957年12月30日)は、鳥取県八頭郡智頭宿(現・智頭町)出身の仏像修復師(仏師)。墓所は智頭町の興雲寺。 約50年に渡って仏像の修復などに携わり、16府県の95以上の神社・寺院にある約320の仏像修復を手掛けた。「今日の日本の国宝・重要文化財の仏像の命脈は泰石によって保たれた」と称されている。 1879年(明治12年)1月1日、鳥取県八頭郡智頭宿(現・智頭町)に生まれた。父は狩野派の画家である小林桃渓(国米善太郎)、母は諏訪神社の小林正広神主の長女八重野であり、泰石は次男だった。なお、鳥取市が刊行した『鳥取市七十年 市史』では国米泰石が「本市出身」とされている。
西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月… 西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月27日 - 1934年(昭和9年)9月18日)は、日本の実業家。福井県を人絹織物王国にした立役者。福井県今立郡岡本村(現・越前市定友町)にて、西野市兵衛(源助)の四男として誕生。 福井撚糸染工を経て福井精錬加工(現在のセーレン株式会社(英: SEIREN CO.,LTD.))、福井紡績(現在のダイワボウホールディングス株式会社)などを設立し、代表を務める。 1932年(昭和7年)に福井人絹取引所を開設し初代理事長となる。1934年(昭和9年)9月18日死去。享年57歳。福井県多額納税者、没後に正六位の位記を追賜。
山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)… 山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)12月26日 - 1958年(昭和33年)2月2日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。極洋捕鯨(現・極洋)の創業者である。 東京府京橋区新富町(現・東京都中央区)で、警視庁勤務・山地享吉の長男として生まれる。山地家は土佐国安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)の出身で、先祖代々「津呂組」という鯨組の株主だった。父が西南戦争従軍後、一家は1880年(明治13年)に高知県へ帰郷した。土佐太郎は1888年(明治21年)、安芸郡羽根尋常小学校を卒業。同県土佐郡第一高等小学校に進学したが、父の死去に伴い1891年(明治24年)に高等小学校を中退し、家業に従事した。
鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 -… 鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 - 1943年4月8日)は中華民国の司法官、政治活動家。江蘇高等法院第二分院首席検察官、鄭蘋如の父。鄭英伯、鄭越原とも言う。 1878年、浙江省蘭渓県に生まれる。1906年に日本に留学し、岩倉鉄道学校に入学する。同時期に政治結社の中国同盟会に入会する。岩倉鉄道学校を中退し、法政大学法政速成科に入学し、法政速成科を卒業後、専門部法律科に進学し、1912年に卒業する。留学中に、木村はな(鄭華君)と出会い、結婚する。 1916年に上海に帰国し、律師(弁護士)資格を取得する。1919年、陝西靖国軍に参加し、一等秘書に任命される。陝西靖国軍解散後は、上海に戻り、律師をしながら、復旦大学で法学を教える。
五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1… 五明 砂(ごみょう すな/いさご、1878年(明治11年)1月19日 - 没年不詳)は、日本の外交官。バンクーバー領事、特許弁理士、弁護士。 長野県更級郡今里村出身。法政大学在学中の1907年(明治40年)に第14回文官高等試験行政科合格。同年更級郡会議員。翌年の1908年(明治41年)に法政大学卒業後、中央大学、東京帝国大学法科大学政治学科選科に進学。外務省入省。通商局を経て1916年(大正5年)ポートランド領事事務代理。1918年(大正7年)に副領事。 1923年(大正12年)にバンクーバー領事に就任。1924年(大正13年)、前年の関東大震災による影響で一時帰国、内務省経理部供給課に配属。
鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18… 鈴木 虎雄(すずき とらお、1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、日本の古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。燕市名誉市民。 父鈴木惕軒は、長善館二代館主、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻鶴代は陸羯南の次女。 幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、東京帝国大学文科大学漢学科卒業。同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。
伊藤 貞次(いとう ていじ、1878年〈明治11年〉1月17… 伊藤 貞次(いとう ていじ、1878年〈明治11年〉1月17日 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の実業家、政治家。第15代広島市長。広島商工会議所顧問。族籍は新潟県平民。 元キャンディーズのメンバーで、俳優水谷豊の妻である女優・歌手の伊藤蘭は曽孫、女優の趣里は玄孫にあたる。 新潟県岩船郡関谷村大字下関(現・関川村大字下関)出身。伊藤東蔵の長男。早くに父を亡くし、一家は困窮する。母の実家・渡邊家に身を寄せる。農作業に精を出す。 1896年、家督を相続する。1897年3月、東京数学院中学全科を卒業。鉄道局運輸課傭、北海道庁事業手。1899年7月、大蔵省文官普通試験に合格、同年8月北海道庁鉄道書記試験に合格。
樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1… 樺島 正義(かばしま まさよし、1878年1月15日 - 1949年)は、日本の橋梁技術者。構造家。 設計思想のうち橋梁については「橋梁外観に配慮することが経済的にマイナスとなっても配慮すべきで、よく練られた外観からもたらされるものは大きく、都市の風格を整えることになる」と、外観の重要性を強調している。 新常盤橋、一石橋、神宮橋、三原橋、鍛冶橋、今川橋、九道橋、高橋、二ノ橋、猫俣橋、羽衣橋、荒川鉄管橋、中川鉄管橋、安倍川橋、犬山橋、大井川橋、南旨橋、鼎岩橋、水郷大橋、境橋、南洋町パラオの橋梁、日本橋呉服橋、大阪四ツ橋、富士川橋など、後世に残る著名橋梁の設計や、日本製鉄工場貯炭場起重機設計など、多くの構造設計に関わったことで知られる。
緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 … 緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。 1878年1月12日に石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰郷。 春日山部屋(師匠は元幕下二段目・朝日森の)へ、序二段・春柳(後の三段目・小猫又)の世話で入門した。 東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日… 谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日 - 1962年(昭和37年)3月5日)は、高野寺第4世住職。高野山真言宗宿老・宗機顧問。板垣会館設立発起人。 明治11年(1878年)1月11日、徳島県板野郡鳴門村(現・鳴門市)に生まれる。明治28年(1895年)、高野中学校に入学。明治31年(1898年)、同校卒業後、高野山大学へ進学。さらに京都東寺専修学校に学ぶ。同校卒業後、郷里に戻り、徳島県麻植郡・重楽寺の住職となる。のち、同県板野郡瀬戸町・吉祥寺の住職に転任。さらに同県里浦村師跡・宝珠寺の住職に転じ、鳴門村・潮明寺と兼務した。大正11年(1922年)、高知県高知市・高野寺の第4世住職に就任。
藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月1… 藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。 この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳