尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治… 尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治11年(1878年)1月11日 - 昭和11年(1936年)6月2日)、は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。いわゆる尾竹三兄弟の一人で、尾竹越堂は兄、尾竹国観は弟。 明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。本名は染吉。父は尾竹倉松。4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。竹翁とも号す。5歳の時には襖絵などを描き、6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。また10歳の頃から絵をもって家計を助けたともいわれる。明治24年(1891年)富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞『富山日報』挿絵を描く。
野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月… 野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1945年〈昭和20年〉4月2日)は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した南画家、日本画家。 野口小蕙は、明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年 - 1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年 - 1917年)である。父正章と母小蘋(本名親子)は、正章の父野口正忠(柿村(しそん)と号す)が近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は長く野口家に居候をしているような美術愛好家で漢詩家であったことから知り合い、明治10年(1879年)結婚した。
籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月1… 籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月10日 - 昭和33年〈1958年〉4月28日)は、明治後期から戦前にかけての日本の俳壇の重鎮。旧姓は吉村、本名は仁三郎(じんざぶろう)。俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。 俳書堂・籾山書店の経営者であり、俳句総合雑誌の草分け『俳諧雑誌』の創刊者・主宰者。他、『時事新報社』、昭和化学などの取締役を歴任。 東京府日本橋区呉服町にて、代々飛脚屋と両替屋を兼ねる吉村家の9代目・吉村甚兵衛の長男として生まれる。父の吉村甚兵衛が始めた陸運元會社は現在の日本通運の前身である。陸運元會社は東京日本橋佐内町の和泉屋邸内に股立され、江戸時代から続く旧来の飛脚業者の再編成を行い、その元締めをしていた。
15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治1… 15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治11年)1月10日 - 1967年(昭和42年)5月16日)は、日本の実業家、政治家。藍商・酒造業、西野嘉右衛門家15代当主、貴族院多額納税者議員。旧名・保太郎。 徳島県勝浦郡小松島浦(現小松島市)で、豪商・西野保太郎の二男として生まれた。西野家は創業万治元年といわれる阿波藍商人(屋号・野上屋)で、現在は酒造の西野金陵として知られる。 1900年、専修学校(現専修大学)理財課を卒業。一年志願兵として入隊し陸軍二等主計に進み日露戦争に出征した。兄・14代嘉右衛門の死去により、1905年3月27日に家督を継承し15代嘉右衛門を襲名した。 家業の藍商が、外国産の安価な藍の輸入によって影響を受けたため、化学染料製造を開始した。
加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 194… 加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 1944年3月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県本巣郡、後の生津村出身。1901年、日本法律学校(現・日本大学)卒、同専攻科で学ぶ。日露戦争に従軍して、陸軍歩兵中尉となる。帰郷後は営農する。岐阜県参事会員、本巣郡農会長、岐阜県山林会評議員、地方森林会議員、郡林業協会副会長、県農会議員となる。治水事業に取り組んだ。1919年9月から連続3回13年に渡って、本巣郡選出の岐阜県会議員に当選した。また、1927年12月1日から1928年12月4日まで第37代同議長を務めた。また、これと前後して1920年8月から連続6回24年生津村会議員を務めた。
吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月… 吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月10日 - 1944年(昭和19年)7月12日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。近代簿記会計の開拓者として知られる。早稲田大学教授、東京商科大学教授、中央大学教授を歴任し、会計教育でも大きな影響力を持った。 高知県高知市出身。旧姓・宇賀。海南中学校長の吉田数馬の書生となり、のち養子となる。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒、商学士。1935年「間接費の研究」で東京商科大学より商学博士の学位を取得。1902年から早稲田大学で講師として教え、1906年から早稲田大学教授を務める。1913年から欧米に留学し、コロンビア大学で原価計算のJ・リー・ニコルソンに師事するなどした。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 -… 服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 - 1955年2月16日)は、日本の経済学者。学位はPh.D.(プリンストン大学)、経済学博士。早稲田大学教授、早稲田大学専門部政経科長、専修大学学監、千葉商科大学初代学長、明治学院大学初代経済学部長等を歴任。 1878年滋賀県生まれ。1902年東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。1906年プリンストン大学大学院修了し、Ph.D.学位取得。アメリカ留学後、早稲田大学(旧制)の留学生としてイギリス、フランス、ドイツへ渡り、1908年に帰国。1909年早稲田大学講師を経て同大教授に就任し、貨幣論、金融論、経済原論を担当。1927年より早稲田大学専門部政経科長就任。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 193… 鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 1930年4月25日)は、日本の会計学者、俳人。初代専任京城高等商業学校校長。 静岡県磐田郡向笠村生まれ。1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年同校専攻科卒業。1905年熊本県立商業学校教諭。1907年同校長。 1909年山口高等商業学校教授。1917年からイギリス、アメリカ合衆国、フランスに留学し、帰国後、1921年から京城高等商業学校校長を務め、朝鮮総督府の意向に反し、朝鮮民族美術館設立を支持した。 1927年叙従四位。1928年病気のため辞任し、山口市後河原の自宅で療養していたが、1930年に死去した。俳人としても活動し、俳号は芒生。
高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4… 高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4日 - 1958年〈昭和33年〉3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県海西郡、のちの海津郡海西村(平田町を経て現海津市)出身。京都高等蚕業学校(現・京都工芸繊維大学)卒。岐阜県蚕業取締所吏員、土岐蚕業講習所長、恵那郡蚕業技手、海西村議、同村長、水利組合会議員、県町村会評議員、郡農会、村農会、県農事協会、同地方協会各役員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜4区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3… 門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3日 - 1939年〈昭和14年〉7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県温泉郡、のちの素鵞村(現松山市)で生まれ、伊予郡郡中町(現伊予市)で成人した。東京高等商業学校(現一橋大学)で学ぶ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)の教員となる。日本棉花(株)社員、日本棉花同業会理事長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において愛媛2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1939年に死去した。
有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年1… 有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年10月19日)は、日本の造船技術者。海軍造船少将。 福岡県出身。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1902年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。東大在学中の1901年2月、海軍造船学生試験に合格。 1902年呉海軍造船廠に入り、その後、造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立されると、その造船部部員となる。1907年佐世保海軍工廠造船部部員となる。ここで筑摩型防護巡洋艦の設計を行い、この型の巡洋艦として、筑摩、 矢矧、平戸の3隻が建造された。 1911年造船監督官として英国に出張。ヴィッカース社による戦艦金剛の建造を監督し、竣工まで立ち会っている。
小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月… 小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の社会学者・教育者。 大阪府出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。佛教大学(現在の龍谷大学)教授を務めるかたわら、京都帝国大学法科大学・文科大学大学院で学んだ。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校教授に任命され、翌年から東京帝国大学文科大学講師を兼ねた。1911年(明治44年)、教育学・社会学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学し、パリ大学・ベルリン大学で学んだ。留学中にロンドンで開催された万国人権会議と、ハーグで開催された万国道徳会議に出席した。1914年(大正3年)、帰国し、1917年(大正6年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校となった。
市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 19… 市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 1963年11月28日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県下伊那郡米川村(現飯田市)生まれ。1902年長野県師範学校講習課修了後、県下の小学校等で教諭を歴任し、1919年山本尋常小学校の校長に就任。1921年から1932年まで旧制飯田高等女学校の教諭を務めた。 1912年に下伊那郡役所から松尾多勢子に関する研究を嘱託されたのを皮切りに、長野県や県下各教育会の依頼を受けて、史論の執筆や調査研究に従事し、「信濃史料」「伊那史料叢書」「長野県史」「下伊那史」等の編纂に携わる傍ら、飯田図書館副館長を務めた。研究対象は考古学、史跡、建築、仏教美術等、多岐にわたる。
滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年… 滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年)1月2日 - 1963年(昭和38年)1月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 滝沢忠三郎の長男として、長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる。1921年(大正10年)家督を相続する。1897年(明治30年)長野県小県蚕業学校卒業。 陸軍に入り、三等主計に進む。蚕業に従事し、1897年(明治30年)には弟の徳太郎とともに蚕種、蚕具販売店を開き、雑誌『蚕友』を発刊した。ほか、長野県蚕種検査員、上田蚕業講習所所長、上田新聞社取締役を歴任した。 1911年(明治44年)家業を整理し上京し、1926年(大正15年)本所区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京鋳物工業組合、日本鋳物工業組合各連合会理事長、可鍛鋳鉄滝沢工業取締役社長、東京鋳物研究所各理事長、日本鋳物工業会長、日本可鍛鋳鉄工業会理事長を歴任した。
西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 … 西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1941年〈昭和16年〉4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。弟の西義顕は満鉄社員で、犬養健、松本重治らと汪兆銘工作を行った。西は稚松会の評議員である。 栃木中学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。1902年(明治35年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1… 古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月10日)は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。 1878年1月1日、都窪郡豊洲村に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ。旧制同志社中学、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学法学部へ進学する。 京都帝大卒業後は貿易業へ就き、その後アメリカへ渡る。17年間滞在し、1922年に帰国する。 1923年、万寿村長となり、その後、岡山県議会議員に3回当選する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力した。 合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり、その後、市議会議長となる。
横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 … 横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1934年〈昭和9年〉2月14日)は、日本の詩人、歌人。本名は虎寿()[要出典]。別号に利根丸、宝湖、処寿()[要出典]。 茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。3歳の時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。1895年、『文庫』に「神も仏も」を発表し、河井酔茗らに認められる。1898年には民謡調の詩「お才」を発表し、この頃から「筑波嶺詩人」と呼ばれるようになる。1905年、詩集『花守』を刊行して詩人として有名になる一方で、この時期からくる病が悪化して歩行がほぼ困難となる。1907年には河井酔茗主宰の詩草社に参加し[要出典]、1908年から『女子文壇』の選者を務めた。
平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12… 平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)は、日本画家、歌人。 画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。 幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。 1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
守屋 源次郎(もりや げんじろう、1877年(明治10年)1… 守屋 源次郎(もりや げんじろう、1877年(明治10年)12月27日 - 1939年(昭和14年)10月30日)は、日本の官僚、教育者。政友会系官選茨城県知事(25代)。 京都府で守屋萬次郎とスマの長男として生まれる。第二高等学校を経て、1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入省し専売局属兼大蔵属となる。1903年10月20日、文部省外国留学生として欧州へ出発し経済学を3年間学んだ。1906年12月12日に帰国。長崎高等商業学校教授に転じた。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年10月20日、外務省に移り参事官に就任し、政務局第三課兼第一課勤務となる。 1913年3月8日、鉄道院に転じ総裁秘書兼同院参事に就任。
日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月2… 日田 権一(ひた ごんいち、1877年(明治10年)12月27日 - 1966年(昭和41年)12月25日)は、日本の教育者、文部官僚。 山口県厚狭郡厚南村(現在の宇部市)にて士族の日田熊之進の長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京高等師範学校英語科を卒業した。京都府師範学校教諭・附属小学校主事、東京府女子師範学校教諭を務めた。1920年(大正9年)、東京高等師範学校修身教育専攻科を修了。その後、東京高等師範学校教授・附属小学校主事を務め、1928年(昭和3年)にアメリカ合衆国に留学した。1934年(昭和9年)より文部事務官・督学官となり、宗教局・教育調査部勤務、教育調査審議課長を歴任した。
山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉… 山本 信次郎(やまもと しんじろう、1877年〈明治10年〉12月22日 - 1942年〈昭和17年〉2月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将、カトリック教会信者。正三位勲二等功五級。族籍は神奈川県平民。 相模国鎌倉郡川口村(現・片瀬)の旧家の山本庄太郎・ミツ夫婦の次男として生まれ、父親が持ち家をマリア会の別荘として貸していた関係から、小学校卒業後、マリア会の暁星中学校に入学した。暁星中学校は禁教令廃止後に開設されたカトリック教会系の学校であるが、当時はキリスト教に対する敵視が根強く、彼も当初は侮蔑を抱いていた。だが学校を運営しているマリア会の修道士と過ごしているうちにキリスト教を次第に理解するようになる。
佐野 正雄(さの まさお、1877年(明治10年)1月18日… 佐野 正雄(さの まさお、1877年(明治10年)1月18日 - 1933年(昭和8年)3月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)、弁護士。 松江市に佐野浩一の長男として生まれる。1898年(明治31年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。検事となるが、退官して弁護士を開業した。また松江市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その他に山陰製鉄株式会社取締役を務めた。
森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 19… 森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 1926年7月4日)は日本の人類学者。 京都・五条室町の商家に生まれる。長崎市の長崎商業学校で中国語を学んだ後、1895年(明治28年)9月に台湾駐屯の日本軍の通訳として台湾に渡る。その後台湾総督府の嘱託として台湾先住民の研究にあたった。1896年(明治29年)に台東で、1898年(明治31年)に恒春で鳥居龍蔵と出会い、1900年(明治33年)に鳥居の台湾調査に助手として同行するようになり、生蕃研究に携わるようになる。 日本からの来訪者の案内も務めた。 先住民の生活の調査のために森は台湾全土を移動して先住民の集落を訪れ、人類学・民俗学的に貴重な資料を数多く収集した。
長岡 春一(ながおか はるかず、1877年1月16日 - 1… 長岡 春一(ながおか はるかず、1877年1月16日 - 1949年6月30日)は、日本の外交官。常設国際司法裁判所判事。法学博士。
青木 薫(あおき かおる、1877年(明治10年)1月16日… 青木 薫(あおき かおる、1877年(明治10年)1月16日 - 1938年(昭和13年)10月11日)は、日本の細菌学者。東北帝国大学名誉教授、医学博士。遺伝学者の外山亀太郎は実兄。 1906年10月に東京府南多摩郡堺村(現・町田市相原町)の医師・青木純造の婿養子となった。妻チヨとの間に、廉(きよし)、茂、健、宏を儲けた。 1924年(大正13年)に日本各地で嗜眠性脳炎の流行が起きた際に、病原体としてスピロヘータを発見したとして世を賑わしたものの、まもなくその主張を取り下げるということがあった。嗜眠性脳炎はウイルス性の疾患だと考えられているが、現在も病原体は不明である。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月1… 若尾 瀾水(わかお らんすい、1877年(明治10年)1月14日 - 1961年(昭和36年)12月1日)は、日本の俳人。日本画家。新聞記者。土佐文人研究者。本名は庄吾。雅号は葭厓。 1877年(明治10年)、高知県吾川郡弘岡下ノ村(現在の高知市春野町)に生まれる。生家は富裕な郷士の家であった。1889年(明治22年)、高知尋常中学校に入学。中学時代の親友に森田正馬がいた。 1894年(明治27年)、京都の第三高等学校に入学。三高在学中の1896年(明治29年)、永田青嵐とともに寒川鼠骨より日本派の俳句の教えを受け、同年9月、鼠骨らと京阪満月会を発足させた。 1897年(明治30年)、三高から仙台の第二高等学校に転学。
西尾 常彦(にしお つねひこ、1877年(明治10年)1月1… 西尾 常彦(にしお つねひこ、1877年(明治10年)1月14日 - 1947年(昭和22年))は、大正から昭和時代前期の政治家、警察官。鳥取県米子市長。 西尾利平の長男。鳥取県会見郡彦名村(西伯郡彦名村を経て現米子市)出身。1906年(明治39年)1月、鳥取県警部に任じ、島根県警視を経て、松江警察署長となる。1919年(大正8年)5月、島根県能義郡長に転じ、美濃郡長、簸川郡長などを歴任したのち1922年(大正11年)米子町長に就任した。1926年(大正15年)4月、再選を経て1927年(昭和2年)4月、米子市設立と共に市長代理となり、同年6月21日、米子市長に就任した。
大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1… 大熊 喜邦(おおくま よしくに、1877年1月13日 - 1952年2月25日)は、日本の建築家、営繕官僚。公共建築の中心的人物。中央諸官庁及び地方庁舎に数多く携わる。東京生まれ。妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括した。旧文部省庁舎なども設計。一方、江戸時代の建築・法制などを研究し、その研究書を著す。著書に『世界の議事堂』などがある。工学博士・経済学博士。 麹町生まれ。父は元旗本であった。第一高等学校を経て、1903年、東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)建築学科を卒業。卒業後は大学院に籍を置き、横河民輔の横河工務所に入所。帝国劇場などの設計に関与した。 1905 (M38)年、東京帝国大学工科大学講師。
木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)… 木村 恵吉郎(きむら けいきちろう、1877年(明治10年)1月11日 - 1945年(昭和20年)11月15日)は、日本の化学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。第2代東京写真専門学校(現東京工芸大学)校長。正三位勲一等。 東京府出身。1900年第一高等学校卒業。1904年東京帝国大学工科大学応用化学科卒業、工学士。1906年東京高等商業学校(現一橋大学)助教授。1916年から1918年までアメリカ合衆国へ留学し応用化学及び商品学を研究。1920年から東京商科大学(現一橋大学)予科教授兼大学教授として、奈佐忠行とともに商品学を担当した。1921年東京商科大学予科主事。1937年退官、東京商科大学名誉教授、東京商科大学講師、叙正三位。
青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日… 青木 まつ(あおき まつ、1877年〈明治10年〉1月10日 - 1959年〈昭和34年〉1月23日)は、日本の社会事業家。兵庫県姫路出身。旧姓は吉川。バプテスト派の婦人宣教師タムソン夫人の片腕として、日本初の福祉的幼稚園である善隣幼稚園で、恵まれない子供たちの保育に尽力した。 1877年に兵庫県姫路で誕生、横浜の捜真女学校(現・捜真女学校中学部・高等学部)を卒業した。 1895年(明治28年)にタムソン夫人が神戸の葺合地区に、神戸の恵まれない子供たちのために、善隣幼稚園を設立した後、同幼稚園に勤めて、タムソンの片腕となり、その後の約40年間にわたって、保母として仕事を助けた。「善隣」名は「善い隣人として地域社会の改善を図る」との意味で、まつが発案した名前である。
深尾 隆太郎(ふかお りゅうたろう、1877年(明治10年)… 深尾 隆太郎(ふかお りゅうたろう、1877年(明治10年)1月9日 - 1948年(昭和23年)4月17日)は、日本の実業家。貴族院議員。男爵。
鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日… 鯉沼 巌(こいぬま いわお、1877年(明治10年)1月8日 - 1933年(昭和8年)11月3日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選秋田県知事。旧姓・河野。 大分県速見郡、後の山香町(現杵築市)出身。河野伝次郎の三男として生まれ、1906年、鯉沼かねの養子となる。 高等小学校を卒業後、苦学して日本大学を卒業。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年5月、内務省に入省し福島県属となる。 以後、島根県事務官、島根県警察部長、長野県警察部長、三重県警察部長、青森県内務部長、三重県内務部長などを経て、1927年5月、神奈川県書記官・警察部長に就任。 1928年2月、秋田県知事に就任。
永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 … 永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 - 1934年(昭和9年)2月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従三位勲二等功五級。旧姓・楊井。 山口県玖珂郡広瀬村大字船津(現・岩国市錦町)出身。楊井正之進の二男として生れ、西南戦争の植木口の戦いで戦死した同郷の陸軍少佐・永井勝正の養嗣子となる。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業。 1904年(明治37年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第17連隊中隊長に就任。
林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944… 林 仙之(はやし なりゆき、1877年1月5日 - 1944年5月31日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
長野 幹(ながの みき / かん、1877年1月4日 - 1… 長野 幹(ながの みき / かん、1877年1月4日 - 1963年1月)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。旧姓・大木。 元福井藩士・教師である三寺三作(後に大木本彌に改名)の息子として生れ、長野家の養子となる。1903年7月に東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年11月、高等文官試験行政科に合格。内務省に入省。東京府属。 1911年には、ドイツで開かれた万国衛生博覧会に参加。欧米各国を視察した。その後、1916年に三重県知事に任命され、その後、山梨県知事、朝鮮総督府学務局長、秋田県知事、鹿児島県知事などを歴任。1927年5月17日に鹿児島県知事を休職となり、以後民間で会社経営などにあたった。
高野 茂義(たかの しげよし、1877年〈明治10年〉1月2… 高野 茂義(たかの しげよし、1877年〈明治10年〉1月2日 - 1957年〈昭和32年〉3月31日)は、日本の剣道家。流派は中西派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。旧姓は千種。 旧水戸藩の北辰一刀流指南役・千種甲午郎茂春の次男として茨城県水戸に生まれる。小学校の仲間に、内藤高治の甥で後に横綱力士となる常陸山谷右エ門がいた。茂義は力が強く、相撲部屋への入門を勧められたこともあったという。 14歳で父を亡くし、旧弘道館剣術方教授小澤寅吉の道場・東武館で剣術を学ぶ。1895年(明治28年)、高野佐三郎(中西派一刀流)の道場・浦和明信館に入門。1900年(明治33年)、高野佐三郎の養子となる。 1914年(大正3年)、南満州鉄道株式会社の招聘を受け、終戦まで同社の剣道師範を務める。
黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)… 黒崎 延次郎(くろさき のぶじろう、1877年(明治10年)1月1日 – 1967年(昭和42年)3月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 現在の栃木県塩谷郡高根沢町で黒崎邦三郎の子として生まれる。1897年(明治30年)に陸軍士官学校を卒業し、翌年に砲兵少尉に任じられた。さらに1908年(明治41年)に東京帝国大学工科大学電気科を卒業した。大阪砲兵工廠技術課長、陸軍技術本部総務部長、大阪砲兵工廠弾丸製造所長、陸軍技術本部第一部長を歴任した。1927年(昭和2年)、陸軍中将に昇進し、翌年には陸軍科学研究所所長に就任した。1932年(昭和7年)、予備役に編入された。 その後、奉天造兵所株式会社代表取締役、満洲計器股份有限公司監査人、奉天商工会議所特別議員を務めた。
田中 一馬(たなか かずま / はじめ、1877年(明治10… 田中 一馬(たなか かずま / はじめ、1877年(明治10年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月1日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 京都府南桑田郡亀岡町(現・亀岡市)で実業家・田中源太郎の長男として生まれる。 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、さらに同専攻部を卒業。 1907年(明治40年)以降、京都工商社長、同会長、亀岡銀行頭取、伏見銀行取締役、京都織物社長、同会長、京都電燈社長、京都商工会議所議員、京都取引所理事などを務めた。 1925年(大正14年)京都府多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、公正会に所属して1932年(昭和7年)9月28日まで1期在任した。
関場 茂樹(せきば しげき、1876年(明治9年)12月29… 関場 茂樹(せきば しげき、1876年(明治9年)12月29日 - 1942年(昭和17年)1月7日)は、日本の橋梁設計者。日本の橋梁建設黎明期から橋梁会社技師長として活動し、登録有形文化財の犀川大橋、澱川橋梁などを設計した。 青森県出身である。父の忠武は斗南藩権少属を務め、青森県少属を経て、内務省に出仕した。関場は忠武の内務省時代に誕生している。関場不二彦は兄、林権助、大瀬甚太郎は義兄である。 一高を経て、東京帝国大学を卒業。土木工学科の同級生に八田嘉明がいる。関場は渡米してアメリカン・ブリッジで5年弱の研鑽を積む。樺島正義は同僚で、飲み仲間でもあった。20世紀初頭の米国では橋梁建設が盛んに行われ、日本の橋梁関係者の関心を集めており、増田淳も渡米している。
君島 八郎(きみしま はちろう、1876年(明治9年)12月… 君島 八郎(きみしま はちろう、1876年(明治9年)12月28日 - 1955年(昭和30年)10月14日)は、日本の土木工学者。工学博士、九州帝国大学教授。日本における道路研究の先駆者であり、その著書『君島大測量学』と『河海工学』は戦前土木名著100書に選ばれている。 福島県若松町諏訪町四谷の旧会津藩士君島勝平の次男として生まれる。1895年(明治28年)会津中学を一回生として卒業する。松江春次、森俊六郎、平石弁蔵らが同級生で、特選生として野口英世が通学しており、のちに留学先で再会している。二高第二部工科を首席で、1901年(明治34年)には東京帝国大学を19名中首席で卒業した。 大学院在学中に『道路学一斑』を著し、母校の講師や助教授、独国、仏国、米国での留学を経て、1911年(明治44年)、新設された九州帝国大学の工学部教授に就任。
安藤 秋三郎(あんどう あきさぶろう、1876年(明治9年)… 安藤 秋三郎(あんどう あきさぶろう、1876年(明治9年)12月28日 - 1962年(昭和37年)3月11日)は日本の教育者。大正時代から昭和中期にかけて、尾張地方の人材教育に尽力した。 1876年(明治9年)12月28日、愛知県丹羽郡重吉村(現:愛知県一宮市丹陽町重吉)で出生。生家は農業を営んでいた。地元の高等小学校を卒業後、尋常小学校の代用教員となる。その後愛知県尋常師範学校、東京高等師範学校を卒業後、明治37年(1904年)に北海道庁立上川中学校(現:北海道旭川東高等学校)生物科教員。上川中学に在籍中の明治40年、小泉秀雄含め教諭ら5人と高校生らのグループで初めての大雪山の植物収集調査を行う。
納富 陳平(のうとみ ちんぺい、1876年(明治9年)12月… 納富 陳平(のうとみ ちんぺい、1876年(明治9年)12月26日 - 1934年(昭和9年)3月1日)は、日本の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員。北浜銀行取締役兼支配人、福岡銀行取締役などを歴任。 福岡県怡土郡神在村(糸島郡加布里村大字神在、前原町、前原市を経て現糸島市神在)で、納富義雄の二男として生まれる。1896年(明治29年)福岡県立尋常中学修猷館、1899年(明治32年)第五高等学校法科、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、北浜銀行に入行。陸軍三等主計となる。 その後、北浜銀行取締役兼支配人となり、1919年(大正8年)12月、同行破綻の整理を行い退職。
速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 194… 速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 1943年6月27日)は、日本の心理学者。 1876年、岡山県生まれ。東京帝国大学を卒業。旧制山口高等学校、第一高等学校教授、1924年京城帝国大学教授、のち総長。墓所は多磨霊園
稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉… 稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉12月22日 - 1949年〈昭和24年〉4月1日)は、日本の神学者、聖職者、教育者、翻訳者。聖公会神学院校長、日本聖公会の司祭。 1894年(明治27年)和歌山聖救主教会で、アイザック・ドーマン宣教師から受洗。同年9月、開設された立教学校(現・立教大学)専修科に入学する。この時、信仰復興運動の中心となる永野武三郎(1877‐1898)も立教学校の3年に編入している。 翌1895年(明治28年)、稲垣、永野、池澤駿太郎(1876‐1956)らで、雑誌『廿八年』を発行して「十字同盟」を結成したことをきっかけに、寄宿舎の一室で祈祷会が朝夕開かれるようになり、盛んに伝道活動が行われた。
大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月1… 大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月16日 - 明治44年(1911年)6月14日)は明治時代の日本画家。 尾形月耕及び川端玉章の門人。明治9年(1876年)1月16日、東京府京橋に生まれる。本名は新之助。幼少から絵を好み、始め京橋桶町の尾形月耕に絵の手ほどきを受け、後に玉章に師事する。同門の結城素明とともに東京美術学校日本画科に入学、師玉章の指導する第三教室において俊秀の誉れがあった。明治24年(1891年)の日本青年絵画協会臨時研究会に「楓亀」を出品すると五等褒状、明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「朧月白鷺」を出品すると三等褒状を受ける。その後、明治29年(1896年)の日本絵画協会第1回絵画共進会に「錦魚」、「空濶」を出品、前者により二等褒状、明治30年(1897年)春の同第2回絵画共進会に「月」を出品して一等褒状、同年秋の同第3回絵画共進会に「夏の海」、「妙音」を出品、後者で一等褒状を受賞、明治31年(1898年)春の同第4回絵画共進会には「海岸」を出品している。
松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日… 松江 春次(まつえ はるじ、1876年(明治9年)1月15日 - 1954年(昭和29年)11月29日)は、日本の男性実業家。南洋興発の創業者で初代社長。 1876年(明治9年)、現在の福島県会津若松市で旧会津藩士・松江久平の次男として生まれる。 1895年(明治28年)会津中学を卒業(1回生)。特選生として通学していた野口英世と親交があった。 1899年(明治32年)に東京工業学校(東京高等工業学校、東京工業大学を経て、現東京科学大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。 1903年(明治36年)に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得した。
岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 … 岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 - 1960年3月28日)は、愛知県中島郡(現・一宮市)出身の地質学者。初めて台湾の鉱物を採集した事で知られる。北投善光寺に彼の頌徳碑が現存する。 著書に『台湾鉱物調查報告』(1911年)、『台湾産北投石調查報告文』(1916年)、『福岡県鉱物誌』(1944年)などがある。 子供のときに受けた理科の授業に影響を受け鉱物に興味を持つようになる。 1899年4月に台湾へ渡航し、台湾総督府国語学校の教諭として現地台湾人の教育に当たる。翌年、角板山への鉱物採集旅行後、台湾の鉱物に関する研究を開始する。明治38年(1905年)北投温泉の公衆浴場瀧乃湯にて入浴をした帰りに北投石を発見する。
中村 亨(なかむら とおる、1876年(明治9年)1月13日… 中村 亨(なかむら とおる、1876年(明治9年)1月13日 - 1957年(昭和32年)6月17日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員、東京府北多摩郡調布町長。 神奈川県多摩郡上石原村(北多摩郡調布町、東京府北多摩郡調布町、東京都北多摩郡調布町を経て現調布市上石原)で、自由民権運動家中村克昌の長男として生まれる。二松学舎(現二松學舍大学)で学んだ。農業を営む。 1913年(大正2年)調布町会議員に就任。調布町助役、同町長、北多摩郡会議員、同参事会員を務めた。1924年(大正13年)東京府会議員に選出され、同参事会員、営業税調査委員、北多摩郡教育会副会長などにも在任した。 秋本喜七の地盤を受け継ぎ、1928年(昭和3年)2月、第16回衆議院議員総選挙(東京府第7区、立憲政友会公認)で当選し、衆議院議員に1期在任した。