小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日… 小原 古邨(おはら こそん、1877年(明治10年)2月9日-1945年(昭和20年)1月4日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家・木版画の下絵師。祥邨(しょうそん)、豊邨(ほうそん)の号も持つ。 古邨研究の最重要資料とされる『浮世絵師伝』での祥邨(後述)項を引用する。なお、旧字体は常用漢字に直した。振り仮名は略した。 祥邨【生】明治十年二月九日(略) 【画系】鈴木華邨 【作画期】明治-昭和小原氏、本名、又雄、加賀金沢に生れ上京して鈴木華邨に学ぶ。東京美術学校教授(初め東京帝国大学教師)及び帝室博物館の顧問たりし米国人のフエノロサ博士の指導を受けて、米国へ売る花鳥画を多数描く。古邨と云ふ画名にて、両国の大黒屋(松木平吉)より依頼の角判花鳥の版下を描き、大正元年より祥邨と改め、肉筆のみ揮毫せしも、昭和元年より渡辺版画店の需めに応じ、主として氏の得意とする花鳥版画の創作に努力し、大小取交ぜ数十版作画せり。
上村 耕作(うえむら こうさく、1877年〈明治10年〉2月… 上村 耕作(うえむら こうさく、1877年〈明治10年〉2月8日 - 1936年〈昭和11年〉12月1日)は、日本の政治家・衆議院議員(奈良市選出、憲政会)、会社重役。族籍は奈良県平民。 奈良市生まれ。奈良県生駒郡伏見村(現・奈良市)、平民・上村光亨の長男。郡山中学校、第三高等学校を経て、1905年、京都帝国大学法科大学を卒業して法学士の称号を得た。1907年、家督を相続した。 大韓帝国財務官兼農工銀行監理官、東洋拓殖参事、奈良銀行(のち国立六十八銀行、現南都銀行)監査役、豊国火災保険東京支店長、同社支配人、千日土地建物取締役等を務めた。 1917年(大正6年)4月20日に実施された第13回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。
笠井 健太郎(かさい けんたろう、1877年(明治10年)2… 笠井 健太郎(かさい けんたろう、1877年(明治10年)2月8日 - 1937年(昭和11年)11月2日)は、日本の検事。裁判官。 香川県高松市出身。1904年(明治37年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。福島地方裁判所判事、熊谷区裁判所判事、東京区裁判所判事、東京地方裁判所判事代理、東京控訴院判事代理、横浜地方裁判所判事、横浜地方裁判所検事・同区裁判所検事、土浦区裁判所検事を歴任し、1920年(大正9年)に朝鮮総督府検事に転じた。京城地方法院検事、法務局刑事課長、高等法院検事、京城地方法院検事正を経て、1932年(昭和7年)に法務局長に就任した。1934年(昭和9年)から高等法院検事長を務めた。
增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年〈明治10年〉… 增田 又右衞門(ますだ またえもん、1877年〈明治10年〉2月8日 - )は、日本の教育者。位階は従六位。勲等は勲六等。姓の「增」は「増」の旧字体であり、名の「衞」は「衛」の旧字体であるため、增田 又右衛門、増田 又右衞門、増田 又右衛門、とも表記される。 北浜高等女学校校長、静岡県小笠郡視学などを歴任した。 静岡県出身の教育者である。北浜高等女学校の校長に就任し、小笠郡女子青年団の団長を務めるなど、静岡県の女子教育の発展に尽力した。 1877年(明治10年)2月8日、增田甚藏の長男として生まれた。松芳学舎の門を叩き、国学や漢学を学んだ。さらに静岡県師範学校に進学し、これを卒業している。また、皇典講究所においても学んでいる。
相川 茂郷(あいかわ しげさと、1877年〈明治10年〉2月… 相川 茂郷(あいかわ しげさと、1877年〈明治10年〉2月8日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。兵庫県明石市長。族籍は東京府平民。 神奈川県平民・相川正麿の長男。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。分家した。北京財政学堂に入り、台湾総督府警視となり、澎湖庁長、嘉義庁長等を歴任、台湾総督府事務官に昇進勤務した。 1921年(大正10年)に明石市長に選出された。東京市に原籍を有した。
中山 嘉兵衛(なかやま かひょうえ、1877年〈明治10年〉… 中山 嘉兵衛(なかやま かひょうえ、1877年〈明治10年〉2月4日 - 1923年〈大正12年〉9月27日)は、明治から大正時代の政治家。貴族院多額納税者議員。旧名・嘉太郎。 鹿児島県囎唹郡岩川村(現・曽於市)で、豪商・先代中山嘉兵衛の長男として生まれる。1905年(明治38年)1月、家督を相続し嘉兵衛を襲名した。1912年(大正元年)9月、囎唹郡会議員となった。囎唹郡米穀商同業組合長、鹿児島県酒造組合連合会長、岩川村会議員、所得税調査委員などを歴任した。米の生産や品質向上、消防などに尽力した。また、志布志線敷設問題では鉄道院総裁の床次竹二郎を岩川に招くなどした。 1918年(大正7年)鹿児島県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1922年(大正11年)9月4日まで在任した。
角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月… 角田 柳作(つのだ りゅうさく、1877年〈明治10年〉1月28日 - 1964年〈昭和39年〉11月29日)は、群馬県出身の日本文化の研究者・教育者。コロンビア大学に日本文化研究所を設立し、日本研究コレクションのキュレーターを務めた。日本文学研究者ドナルド・キーンの師として知られる。 1877年(明治10年)1月28日、群馬県勢多郡津久田村(現・群馬県渋川市赤城町津久田)の農家に、父庄作、母ぎんの次男として生まれた。5歳の時父をコレラで失い、祖父の金造と母ぎんに育てられた。1890年4月、群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学したが、1893年10月に退学。 上京して東京専門学校(現・早稲田大学)文学科に入学し、坪内逍遙、アーサー・ロイドの教えを受けた。
薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1… 薄田 斬雲(うすだ ざんうん、「すすきた ざんうん」とも、1877年(明治10年)1月27日 - 1956年(昭和31年)3月27日)は、日本の小説家・ジャーナリスト。伝記作品を多く残した。本名は貞敬。 青森県弘前町蔵主町(現・弘前市)出身。1895年(明治28年)青森県尋常中学校を経て、1899年(明治32年)に東京専門学校(現・早稲田大学)文学科選科を卒業。京成日報記者を経て早稲田大学出版部編集委員となる。1917年(大正6年)には衆議院議員野田卯太郎、頭山満、子爵で法学博士の田尻稲次郎らの組織した大民団(大民倶楽部)に加わり山田三七郎とともに運営本部の任にあたった。作家としては、デビュー当初は自然主義の影響下にある小説・戯曲・随筆などを発表していたが、徐々に関心のメインは伝記などへ移っていった。
田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 196… 田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 1961年10月3日)は、日本の外交官。外務次官、在ソヴィエト連邦特命全権大使、同盟通信社理事会長、日本新聞会会長等を務めた。 京都府宮津市生まれ。旧制京都府尋常中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校の前身)経て、1898年東京高等商業学校(一橋大学の前身)領事科卒。1898年に第7回外交官及領事官試験に合格し外務省入省、同期に本多熊太郎や埴原正直らがいる。同年から領事官補としてソウル、ホノルル、ニューヨークに在勤。1903年から領事として、シンガポール、香港、シアトルに在勤。1908年に帰国し、通商局第二課長に就任。 駐アメリカ合衆国日本大使館参事官を経て、1919年外務省通商局長、1921年同省情報部次長、1922年同省次官兼臨時平和条約事務局長兼情報部長。
小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日… 小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日 - 1967年(昭和42年)9月8日)は、日本の検察官、政治家、弁護士。岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣で司法大臣・法務大臣などの閣僚を務める。新潟県長岡市出身。 新潟県古志郡長岡弓町(長岡本町、長岡町を経て現:長岡市)に、旧長岡藩士田中敬次郎の三男として生まれる。その後、長岡裁判所検事・元会津藩士小原朝忠の養子となり「小原」姓を名乗る。新潟県第七中学区公立第一番小学校(現:長岡市立阪之上小学校)、旧制:新潟県立長岡中学校(現:新潟県立長岡高等学校)から、麹町区永田町の橋本圭三郎宅の書生となり共立学校四年級に編入。旧制第一高等学校では松平恒雄(宮内大臣、初代参議院議長)、長島隆二(大蔵省理財局長心得、政友会代議士、桂太郎総理の娘婿)らと同級であった。
山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1… 山中 千之(やまなか かずゆき、1877年1月23日 - 1949年)は、明治・大正期日本の外交官。元国際連盟委任統治委員。 青森県弘前市笹森町生まれ。1896年青森県第一尋常中学校(現青森県立弘前高等学校)卒業。1900年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1902年同専攻部銀行科卒業。 同期に出淵勝次元駐米大使、鈴木榮作元シドニー総領事、高嶋菊次郎元中支那振興総裁、上田貞次郎元帝国学士院会員など。また、在学中青森県出身学生のための寮として初めて東京に設立された修養社で佐藤尚武元外務大臣とともに住み、佐藤はのちに山中の紹介で山中の叔父佐藤愛麿の娘婿となった。 1903年在ホノルル領事館領事官補。
今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月… 今村 繁三(いまむら しげぞう、1877年(明治10年)1月23日 - 1956年(昭和31年)4月19日)は、日本の銀行家。 相場で財を成した実業家、今村清之助の次男として生まれる。東京高等師範学校附属中学に学び、英国ケンブリッジ市にある全寮制パブリックスクール リース校 (The Leys School) に留学した。この学校は『チップス先生さようなら』のモデルとなった名門で、チャペルには後に今村らが寄付したことを記念して彼らの名前を記したステンドグラスが残っている。また、皇太子時代の昭和天皇が訪問したことでも知られる。 1899年に英国トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)に進学し、1902年に文学士の学位を受ける。
国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23… 国友 鼎(くにとも かなえ、1877年(明治10年)1月23日 - 1957年(昭和32年)1月14日)は、日本の医学者。 1877年(明治10年)1月23日 大分県大野郡川登村(現・臼杵市)に生まれる。 1900年(明治33年)11月 第五高等学校医学部卒業。 1904年(明治37年)7月 長崎医学専門学校教授就任。 1913年(大正2年)10月 高等官三等に叙任。 1923年(大正12年) 長崎医専の大学昇格と共に長崎医科大学教授に就任。 1931年(昭和6年) 日本解剖学会理事長に就任。 1940年(昭和15年) 長崎市会議長に就任。 1941年(昭和16年) 県立長崎博物館長に就任。 解剖学の1分野である発生学、とりわけ日本人の胎児の研究を生涯のテーマとして、国内はもとより海外においても第一人者として知られる。
保岡 勝也(やすおか かつや 1877年(明治10年)1月2… 保岡 勝也(やすおか かつや 1877年(明治10年)1月22日 - 1942年(昭和17年)8月2日)は日本の建築家。三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街の設計を行った他、先駆的な住宅設計で知られる。 東京生まれ。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学建築学科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業、工科大学では学長であった辰野金吾に師事した。 岩崎久弥が社長を務める三菱合資会社(現・三菱地所)に入社する。三菱は1889年(明治22年)に、明治政府より丸の内の一括払い下げを受けており、「丸ノ内建築所」を設置、ジョサイア・コンドルによって、1894年(明治27年)、「三菱一号館」が竣工した。保岡は、曽禰達蔵の下で丸の内赤煉瓦街の設計に携わるが、3年で三菱を退社し帝国大学の大学院に入学する(研究テーマは劇場的建築)。
恩賀 徳之助(おんが とくのすけ、1877年(明治10年)1… 恩賀 徳之助(おんが とくのすけ、1877年(明治10年)1月21日 - 1963年(昭和38年)1月16日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 和歌山県那賀郡粉河村で、恩賀定一郎の二男として生まれる。大阪桃山学校を経て東京法学院で学んだが、二年で中退し、帰郷して家業の綿ネル製造業に従事。 1904年8月、北海道函館に移り末広町で呉服太物商を営む。以後、函館商業会議所議員、同常議員、函館呉服太物卸商組合長、函館区会議員、同議長、函館市会議員、同初代・第3代議長(1922年11月7日から1923年6月4日、1924年11月21日から1926年10月30日)、北海道会議員などを歴任。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙で北海道第三区から出馬し当選した林儀作が1935年1月に死去し、同年7月の補欠選挙に出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月… 渡辺 公観(わたなべ こうかん、明治11年(1877年)1月20日 - 昭和13年(1938年)7月20日)は、文展(現日展)を中心に活動し、後に(日本)自由画壇を同士と創設した日本画家。 渡辺公観は、明治11年(1877年)1月20日に滋賀県大津(現大津市)の円満院門跡の侍医渡辺宣と歌人で円満院の侍講を務める服部春樹の娘田鶴の子として生まれ、耕平と名付けられた。明治25年(1891年)大津尋常小学校を卒業後彦根中学校(現滋賀県立彦根東高等学校)に進み、明治27年(1893年)京都美術工芸学校(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)に転校後、明治28年(1894年)学校を辞し森川曽文に入門した。 師である森川曽文は明治36年(1902年)に没し、公観は以降独自に画業を研鑽し、明治40年(1906年)第1回文展に「進言」で初入選し、以後大正3年から7年迄の間に4回入選したが、大正8年(1919年)帝展(現日展)が開設されると官展から離れ、井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘中堅画家らと自由な日本画制作を目指し日本自由画壇を結成した。
永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日… 永屋 茂(ながや しげる、1877年(明治10年)1月20日 - 1923年(大正12年)11月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士、弁理士。 広島県甲奴郡階見村(現在の神石郡神石高原町)に永屋要平の二男として生まれる。広島県師範学校を卒業後、日本大学で法学を学び、1910年(明治43年)に卒業した。卒業後は東京で弁護士となり、花井卓蔵弁護士の補助を務めたこともある。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。 その他、日本人造絹糸株式会社監査役を務めた。
瀬之口 傳九郎(せのくち でんくろう、瀬之口 伝九郎とも、1… 瀬之口 傳九郎(せのくち でんくろう、瀬之口 伝九郎とも、1876年〈明治9年〉2月18日- 1953年〈昭和28年〉8月28日)は、日本の考古学者・宮崎県職員。宮崎県出身。 現在宮崎県都城市となっている同県北諸県郡山田町に生まれる。宮崎県尋常師範学校を卒業し、小中学校の教師を務めたが、並行して宮崎県内の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)や史跡の保護に参画し、1932年(昭和7年)から宮崎県庁に「史蹟主事」として勤務。県内の遺跡の保護活動に尽力した。そのほか、宮崎県域から九州南部にかけての遺跡について多くの調査に参加し、同地域の歴史・考古分野の論文・著書を多数発表した。 1941年(昭和16年)の宮崎県児湯郡新富町における旧日本陸軍飛行場(現在の航空自衛隊・新田原基地)建設に際しては、一部が破壊されることになった新田原古墳群石船支群の緊急発掘調査を実施し、対象となった古墳を移築するなどの手段で遺跡保護に努めた。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年(明治9年)2月17日 - 1944年(昭和19年)8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。
田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日… 田中 穂積(たなか ほづみ、1876年〈明治9年〉2月17日 - 1944年〈昭和19年〉8月22日)は、長野県出身の財政学者、法学博士、早稲田大学第4代総長。 1876年、長野県更級郡石川村(現・長野市)の豪農の家に生まれる。旧制長野県尋常中学校(現・長野県松本深志高等学校)在学中は、病のため療養生活を送った。その間、当時東京専門学校出版局(現・早稲田大学出版部)から発行されていた講義録雑誌で勉強した。1895年、編入試験を受けて東京専門学校(現・早稲田大学)に入学。1896年、同校政治科を卒業。東京日日新聞の記者になる。1901年、コロンビア大学に留学し、1902年、マスター・オヴ・アーツの学位を取得した。
栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 196… 栗原 基(くりはら もとい、1876年2月15日 - 1967年8月26日)は、日本の英語教育者、キリスト教学者、翻訳家。 1876年、宮城県仙台生まれ。第二高等学校、仙台ホサナ教会でアニー・S・ブゼルにキリスト教を学び、東京帝国大学文学部英文科に進んだ。大学では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の教えを受ける。1901年に大学を卒業。 卒業後、1902年より広島高等師範学校教授。1912年、京都YMCA主事、第三高等学校教授に就任。1930年に三・一五事件との関連により退官した。その後は同志社大学、尚絅女学院大学で教えた。
坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15… 坂井 兵吉(さかい へいきち、1876年(明治9年)2月15日 - 1953年(昭和28年)8月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。子に二・二六事件に参加した坂井直がいる。 三重県三重郡桜村出身。1897年(明治30年)陸軍士官学校第9期卒業。 1921年(大正10年)7月に陸軍歩兵大佐・堺連隊区司令官を経て、1923年(大正12年)8月に歩兵第37連隊長に任官。その後、1926年(大正15年)3月2日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月22日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
野方 次郎(のがた じろう、1876年(明治9年)2月10日… 野方 次郎(のがた じろう、1876年(明治9年)2月10日 - 1956年(昭和31年)2月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、医師。 静岡県田方郡韮山村(現在の伊豆の国市)出身。1897年(明治30年)、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)を卒業。国立伝染病研究所で細菌学を修め、警視庁検疫委員を務めた。その後、東京帝国大学医科大学選科で病理学・内科・精神科を学び、1907年(明治40年)に修了した。神奈川県横浜市で開業し、神奈川県医師会代議員・常任理事、横浜市医師会代議員・常任理事、横浜市学校医会会長、神奈川県学校医会副会長を歴任した。 1919年(大正8年)と1928年(昭和3年)に神奈川県会議員に当選し、参事会員にも選ばれた。
森川 源吾(もりかわ げんご、1876年2月8日 - 195… 森川 源吾(もりかわ げんご、1876年2月8日 - 1957年9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1900年、東京法学院卒。司法官試補、検事代理、判事となる。その後、弁護士となり、大津弁護士会会長を務める。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金1000円の判決を受けた。これにより従七位返上を命じられ、大礼記念章を褫奪された。1957年に死去した。
広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月… 広岡 恵三 (ひろおか けいぞう、1876年(明治9年)2月8日 - 1952年(昭和27年)1月6日)は、日本の実業家。大同生命第2代社長。 1876年(明治9年)、子爵・一柳末徳の次男として東京で生まれる。 東京帝国大学在学中に広岡浅子(明治・大正期の実業家)の娘・亀子との縁談がまとまり、1901年(明治34年)に結婚、広岡家の婿養子となる。 1904年(明治37年)、岳父・広岡信五郎(浅子の夫)の死を機に加島銀行に入社し、浅子らの事業を継承。 1909年(明治42年)、加島屋9代目当主・広岡久右衛門正秋の死を機に、加島銀行頭取、大同生命第2代社長に就任。 1910年(明治43年)、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道の前身)の初代社長に就任(1912年に辞任)。
玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日… 玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した。反木堂派として活動した。 岡山県和気郡東片上村(片上村、片上町、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し、片上郵便局勤務を経て和気郡書記に就任。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた。
原 耕(はら こう、1876年(明治9年)2月7日 - 19… 原 耕(はら こう、1876年(明治9年)2月7日 - 1933年(昭和8年)8月3日)は、日本の政治家、医師、漁業経営者。 1876(明治9)年11月に鹿児島県川辺郡西南方村大字泊(現南さつま市坊津町泊)で、原平之進、サトの二男として生まれた。生家は代々カツオ漁業を経営していた。 1902(明治35)年大阪高等医学校(現在の大阪大学医学部の前身)を卒業後、日本領事館付医官として2年間アメリカとカナダに滞在。帰国後に神戸市衛生課、船医勤務等を経て枕崎に医院を開業した。 医院開業のかたわら第16回・第18回衆議院議員総選挙に当選し、衆議院議員を2期務めた(立憲民政党、新党倶楽部、立憲政友会に所属)。
川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6… 川越 壮介(かわごえ そうすけ、1876年(明治9年)2月6日 - 1954年(昭和29年)3月10日)は、日本の内務官僚。 鹿児島県日置郡吹上町(日置市)出身。川越重常の二男として生まれる。鹿児島高等中学造士館予科、第五高等学校を経て、1902年(明治35年)、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り神奈川県属となる。岩手県事務官、鳥取県事務官・警察部長、香川県事務官・警察部長、奈良県事務官・内務部長、徳島県・長野県・福岡県の各内務部長などを歴任。 1919年(大正8年)4月より沖縄県知事を務め、1921年(大正10年)5月から1924年(大正13年)6月まで徳島県知事を務めた。
臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日… 臼杵 才化(うすき さいか、1876年(明治9年)1月31日 - 1917年(大正6年)12月13日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の医学者・小児科医である。東京帝国大学卒、医学博士。 日本統治時代の台湾総督府医院小児科医長、台湾総督府医学校教授に任ぜられる。 東京帝国大学より医学博士の学位を授与される。正論文『生理的並びに病的関係に基ける哺乳児腸内に於ける脂肪の運命』。 30代臼杵仁(長男)(昭和20年12月10日没)も同墓地。31代臼杵薫(次男)(昭和37年3月10日没)は三重県尾鷲市、金剛寺。(28代臼杵玄貞までの先祖の墓地は、三重県津市榊原、海泉寺にあり永代供養されている)
牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30… 牛島 貞雄(うしじま さだお、1876年(明治9年)1月30日 - 1960年(昭和35年)9月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 熊本県玉名郡弥富村(現・玉名市)出身。牛島義雄の五男として生まれる。1893年(明治26年)12月、陸軍教導団に入り、1900年11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。 1904年7月、歩兵第24旅団副官となり日露戦争に出征。1906年3月、歩兵第23連隊中隊長となり、歩兵第1連隊中隊長を経て、1912年(大正1年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1913年5月、参謀本部員となり、歩兵第54連隊大隊長、陸大教官を経て、1921年11月から翌年2月までアメリカ合衆国に出張。
原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1… 原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年)1月29日 - 昭和24年(1949年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員、貴族院議員。
堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926… 堀田 貢(ほった みつぐ、1876年1月28日 - 1926年2月3日)は、日本の内務官僚。警視総監、内務次官。 福島県安積郡河内村(現:郡山市)で堀田喜左衛門の二男として生まれる。安積中学、第二高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。逓信省に入り通信属として通信局に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、内務省に転じ内務属として地方局に配属された。 1905年11月、千葉県事務官に就任。以後、千葉県第三部長、神奈川県事務官、茨城県事務官・警察部長、内務書記官・大臣官房文書課長、内務省参事官兼内務大臣秘書官兼官房文書課長、大臣官房会計課長兼文書課長、京都府内務部長などを歴任。
小山 松寿(こやま しょうじゅ / こやま まつじゅ、187… 小山 松寿(こやま しょうじゅ / こやま まつじゅ、1876年〈明治9年〉1月28日 - 1959年〈昭和34年〉11月25日)は、日本の政治家、新聞経営者。第33代衆議院議長(1937年7月 - 1941年12月)。歿時正三位勲一等旭日大綬章受章。 長野県佐久郡小諸与良町(現:小諸市)に、生糸仲買人・小山与右衛門の長男として生まれる。1895年(明治28年)、東京専門学校(現:早稲田大学)法律科を卒業後、中国研究のため福建省廈門に渡り、貿易事情を中心に調査活動を行っていた。1900年(明治33年)、大阪朝日新聞より戦時特別通信員を委嘱されたことを契機に、新聞界入りすることとなる。 帰国後の1902年(明治35年)、大阪朝日に正式採用され、名古屋通信部に赴任する。
泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27… 泉二 新熊(もとじ しんくま、1876年〈明治9年〉1月27日 - 1947年〈昭和22年〉10月25日)は、日本の刑法学者、裁判官、司法官僚。第20代大審院長、第13代大審院検事総長、枢密顧問官。法学博士。奄美大島出身で、「東京奄美会」初代会長。 鹿児島県大島郡中勝村、現在の龍郷町中勝出身。泉二当整の長男。中勝小学校簡易科に入学し、後に簡易科廃止・学校統合により戸口小学校に通学。1887年(明治20年)名瀬小学校に転校し、その後同校を卒業。1889年(明治22年)、名瀬に高等小学校が設置され、1期生として入学。1890年(明治23年)、母方の叔父である大島信の勧めにより、高等小学校1年修了で上京して郁文館中学校(旧制)に入学。
三田 定則(みた さだのり、1876年1月27日 - 195… 三田 定則(みた さだのり、1876年1月27日 - 1950年2月6日)は、日本の法医学者、血清学者。 1876年、岩手県盛岡で関定昌の三男・関定則として生まれた。盛岡中学を卒業。東京帝国大学医科大学専科で学び、1901年に卒業。1904年、岩手医科専門学校(現:岩手医科大学)創立者の三田俊次郎の養子となった。 1901年、東京帝大医科大学医化学教室に入った。1904年に助教授となり、法医学講座に転じた。法医学講座の初代教授は法医学の父と言われた片山国嘉で、その後を継いで法医学講座を担当した。1907年にドイツ、フランスに留学を命じられ、血清学を研究。1912年に帰国。1914年、医学博士号を取得。
西村 金三郎(にしむら きんざぶろう、1876年(明治9年)… 西村 金三郎(にしむら きんざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1957年(昭和32年)12月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 京都府伊勢田(小倉村 (京都府)とも。現宇治市)出身。同志社予備学校、第二高等学校を経て1904年東京帝国大学法科大学政治科卒。二高と東大では吉野作造と同期だった。 大学卒業後、京都の六條生命保険(1899-1907、大阪の中央生命保険の後身)の整理局、マニファクチァラーズ保険会社(Manufacturers Life Insurance, 現・マニュライフ生命保険)日本中央部総支配人、内外肥料社長などを務め、1915年からは同志社校友会会長、同志社財団理事も務めた。
岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月2… 岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1955年(昭和30年)11月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、久留米市長。 三潴県三井郡通町(現福岡県久留米市通町)で、3代・岡茂平の三男として生まれる。父の死後、兄が事業に失敗して朝鮮に渡ったため、岡家の再興を志し、1924年(大正13年)母が死去すると直ぐに中国・青島に渡航して沈没船引揚業を営んだ。私財を蓄えて帰国し、久留米絣 (株) の支配人を経て絣問屋を設立した。その後、久留米商工会議所議員、久留米縞同業組合議長、久留米絣同業組合議長、地方森林会議員、福岡県教育会評議員、同県国防会参与、久留米絣工業組合連合会副理事長、久留米畜産組合長などを務めた。
山本 慎平(やまもと しんぺい、1876年(明治9年)1月2… 山本 慎平(やまもと しんぺい、1876年(明治9年)1月22日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)出身。1901年(明治34年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科を卒業。長野新聞社・新潟日報社で主筆・社長を務める。 長野県会議員、同参事会員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たす。第16回、第18回でも再選された。その後、稲荷山町長を務めた。 その他に、大日本法令出版株式会社取締役、帝国法規出版株式会社取締役、鹿曲川水力電気会社取締役などを務めた。
土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 … 土岐 嘉平(とき かへい、1875年(明治8年)2月16日 - 1946年(明治21年)3月22日)は、日本の内務官僚・政治家。府県知事、北海道庁長官、京都市長。 和歌山県那賀郡、のちの山崎村(岩出町を経て現岩出市)出身。土岐綱右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1901年、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。 1901年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り土木局に配属された。以後、山梨県参事官、内務省書記官、同参事官、大阪府内務部長などを歴任。 1914年6月、高知県知事に就任。地元の利害に直結する市町村の土木補助費問題に関して、県議会での調整に尽力した。
三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日… 三上 義夫(みかみ よしお、1875年〈明治8年〉2月16日 - 1950年〈昭和25年〉12月31日)は、日本の数学史家、和算研究家。日本の数学と中国の数学を英文で西洋に紹介した。 父親は三上助衛門安忠、母親は勝。妻は近藤幸八郎の三女武。 広島県高田郡上甲立村(現在の安芸高田市甲立)の素封家である三上本家(「安国屋」家)に生れる。1890年(明治23年)12月に広島高等小学校を卒業後、翌年4月に千葉県尋常中学校2年級に編入学した。1892年(明治25年)には神田錦町の国民英学会および神田猿楽町の東京数学院に学ぶ。 1895年(明治28年)、徴兵検査のため帰郷するが、虚弱のため免役される。同年、武と結婚。
関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15… 関田 駒吉(せきだ こまきち、1875年(明治8年)2月15日 - 1939年(昭和14年)11月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1875年(明治8年)2月15日、高知県長岡郡大篠村(現在の南国市)に生まれた。初め宮地氏を称し、3歳にして父に別れ、醫家関田修斎に養われて、その家を継いだ。夙に才学に秀で、海南学校より海軍兵学校に進学し卒業(24期)。明治30年10月、少尉候補生を命ぜられるとともに軍艦比叡乗組となり、後、松島や厳島に転じ、翌年4月1日海軍少尉に任ぜられ、尋いで5月10日正八位に叙せられた。宇治艦長、最上艦長、松江艦長、満州艦長などを歴任。のち少将を任官。退役後は郷土史の研究をした余生を過ごした。
重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14… 重村 義一(しげむら ぎいち、1875年(明治8年)2月14日 - 1938年(昭和13年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍機関少将。広島県出身。
飯塚 国三郎(いいづか くにさぶろう、旧字体: 飯塚 國三郞… 飯塚 国三郎(いいづか くにさぶろう、旧字体: 飯塚 國三郞、1875年(明治8年)2月13日 - 1958年(昭和33年)7月25日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。慶應義塾體育會柔道部師範、国際柔道協会会長などを歴任した。 栃木県出身。飯塚茂七郎の二男。 早くより武道を稽古していたが若き日に上京の後、慶應義塾大学、二松學舍で学ぶ傍ら、1891年11月に講道館に入門して柔道を修業する。講道館や慶應義塾において、横山作次郎や山下義韶、嘉納治五郎と共に斯道の発達普及に従事。東京高等師範学校、旧制第二高等学校、第七高等学校造士館の柔道教師を歴任。大日本武徳会において形制定に従事する。
小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 -… 小野 廉(おの すなお、1875年(明治8年)2月12日 - 1952年(昭和27年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大分市長、別府市長。弁護士。 大分県大分郡、のちの阿南村(庄内村、庄内町を経て現由布市)で医者の家に生まれる。大分中学校を経て、1902年(明治35年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。弁護士を開業し、後に大分弁護士会長を務めた。大分市会議員、同参事会員、大分県会議員、同参事会員、同議長に選出された。1935年(昭和10年)、別府市長に就任した。 1936年(昭和11年)、第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第20回でも再選された。その間、1938年(昭和13年)に大分市長に選出された。
蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1… 蟹江 一太郎(かにえ いちたろう、1875年2月7日 - 1971年12月20日)は、日本の実業家。カゴメ創業者。「トマト王」とも称される。 元カゴメ社長の蟹江一忠は養子。元カゴメ社長の蟹江嘉信は孫。カゴメ不動産社長の蟹江信孝は孫。 1875年(明治8年)、愛知県知多郡名和村(現・東海市名和町)に農家の長男として出生。当時の名前は佐野市太郎。1893年(明治26年)18歳で蟹江家に婿入りしたが、近隣に蟹江市太郎という同姓同名の人物がいたため、名を一太郎に改名した。 1896年(明治29年)、名古屋にあった歩兵第6連隊に入隊し、3年間の兵役を務め上げた。除隊の折り上官の西山中尉より西洋野菜の栽培を勧められ、1899年(明治32年)にトマトなどの西洋野菜の栽培に着手。
飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 195… 飯島 忠夫(いいじま ただお、1875年2月3日 - 1954年9月27日)は、日本の東洋史学者。 長野県松代町(現長野市)の旧松代藩士の家に生まれる。祖父は藩の故実家・飯島勝休。小学校卒業後、母校で雇として教えるかたわら、外祖父で旧藩上級藩士の長谷川昭道に漢学を師事、1901年上京し旧制錦城中学に編入、翌年卒業。臨時お茶の水第一教員養成所に入り、1904年卒業し学習院中等科教授、1937年(昭和12年)まで務めた。東京帝国大学選科修了。帝大では上田万年に師事した。東宮御学問所御用掛も務めた。1929年(昭和4年)「支那古代史論」で東京帝大文学博士。中国古代史、暦法研究のほか、郷土の人物として佐久間象山も研究した。
小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)… 小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)、1875年(明治8年)2月3日 - 1926年(大正15年)1月15日)は日本の小説家。愛知県生まれ。 愛知県知多郡半田町(現半田市)に薬種商(美濃半)の長男として生まれる。幼名磯平、のち磯夫と改めた。少年の頃から近世稗史小説を好み、柳亭種彦、為永春水らを耽読、また嵯峨の屋おむろ「初恋」などに感動し、『少年園』などに投稿、1889年、家業を継ぐ勉強のため上京。済生学舎、商業素修学校を経て、錦城中学校に学ぶ。1891年高等学校の入試に失敗し一時不良となるが、文学に志を持ち、家業は弟に任せ、尾崎紅葉の硯友社に入門。1893年九州を放浪し、その経験をもとに「片靨」を書き読売新聞に掲載。
鈴木 忠治(すずき ちゅうじ、1875年2月2日 - 195… 鈴木 忠治(すずき ちゅうじ、1875年2月2日 - 1950年12月29日)は、日本の実業家。鈴木商店(現味の素)創業者二代目鈴木三郎助の弟で、同社代表取締役社長や、昭和電工代表取締役社長、電気化学協会会長、内閣顧問などを務めた。 神奈川県堀内村(現三浦郡葉山町)出身。耕余塾を経て、1894年横浜商業学校卒業。外国貿易商店に勤めたのち、鈴木商店(現味の素)創業者である兄鈴木三郎助とともに、味の素の製造・販売を進めた。1931年(昭和6年)から兄の後任として鈴木商店および東信電気の代表取締役社長を務め、多角化を進めて、昭和酒造(現メルシャン)や宝製油(現J-オイルミルズ)、宝製薬社(現味の素ヘルシーサプライ)の設立を行った。
村上 清(むらかみ きよし、1875年(明治8年)2月2日 … 村上 清(むらかみ きよし、1875年(明治8年)2月2日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の検事。高知市長。財団法人板垣伯銅像記念碑建設同志会第6代会長。 高知県香美郡山北村(現在の香南市)出身。通信書記、海軍属を経て、1899年(明治32年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。翌年、判事検事登用試験に合格し、高知、福知山、京都、堺、大阪、五條、青森の各裁判所で検事を務めた。1908年(明治41年)、韓国の検事に転じた。その後、朝鮮総督府裁判所検事を務め、1920年(大正9年)には朝鮮総督府地方法院検事正に任ぜられ、勅任官待遇となった。1924年(大正13年)、退官して弁護士を開業した。
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 19… 岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本の教育者。号は天機。 長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」を設立し、長野に三宅雪嶺、犬養毅、古島一雄、池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。 諏訪郡・小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが、教育に専念するため辞職。