多田野 久(ただの ひさし、1931年12月15日 - 20… 多田野 久(ただの ひさし、1931年12月15日 - 2008年11月10日)は、日本の経営者。タダノ社長、会長を務めた。 香川県高松市出身。1951年に徳島大学工学部を中退し、同年に多田野鉄工所(のちのタダノ)に入社。 1977年に取締役に就任し、1979年11月に常務、1980年11月に専務を経て、1987年11月には副社長に就任し、1989年6月には社長に昇格。1997年6月に会長を経て、2002年4月に取締役相談役に就任。 1994年11月に藍綬褒章を受章。 2008年11月10日悪性リンパ腫のために死去。76歳没。
神生山 清(かみおいやま きよし、1931年5月24日 - … 神生山 清(かみおいやま きよし、1931年5月24日 - 1982年1月19日)は、香川県高松市仏生山町出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は村川 清(むらかわ きよし)。最高位は西前頭15枚目(1957年3月場所)。現役時代の体格は173cm、90kg。得意手は右四つ、寄り、足癖、小股掬い、投げ。 父・佐吉は、仏生山町で袋を作る工場を経営していた。小学生の頃から郷土が生んだ人気力士・神風に憧れており、1946年暮れに巡業で高松市内を訪れた当人と地元の素人相撲で活躍していた野口という人物の紹介で会った事がきっかけで、二所ノ関部屋へ入門。1947年11月場所にて、16歳で初土俵を踏んだ。
藤本 孝雄(ふじもと たかお、1931年〈昭和6年〉1月17… 藤本 孝雄(ふじもと たかお、1931年〈昭和6年〉1月17日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(10期)、沖縄開発庁長官、厚生大臣、内閣官房副長官、農林水産大臣などを歴任した。 香川県高松市出身。香川県立高松高等学校、東京大学法学部卒業。証券会社、日本電信電話公社勤務を経て、1963年衆院選に初当選。(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。通算当選10回。自民党内では三木→河本派に属し沖縄開発庁長官、厚生大臣、内閣官房副長官、農林水産大臣などを歴任。農水大臣時代は、諫早干潟事業続行決定に対して環境破壊との批判があった。
前川 旦(まえかわ たん、1930年〈昭和5年〉3月10日 … 前川 旦(まえかわ たん、1930年〈昭和5年〉3月10日 - 1986年〈昭和61年〉5月11日)は、日本の政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(3期)。香川県高松市出身。 新東京国際空港(現成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった。
咲村 観(さきむら かん、1930年1月1日 - 1988年… 咲村 観(さきむら かん、1930年1月1日 - 1988年4月24日)は、日本の小説家。 香川県高松市出身。 旧制高松中学、海軍兵学校、旧制高松中学、旧制六高を経て、東京大学法学部を卒業後、住友倉庫に入社し、1976年に退社。1977年に企業小説「左遷」を発表し、中間管理職の哀歓を描いて話題となる。サラリーマン小説を多く書き、のち歴史小説も書いた。1988年に58歳で他界。
辻 義文(つじ よしふみ、1928年2月6日 - 2007年… 辻 義文(つじ よしふみ、1928年2月6日 - 2007年2月11日)は、香川県生まれの日本の経営者。日産自動車の社長、会長、日本自動車工業会会長、日本経済団体連合会副会長を歴任。日産リバイバルプラン以前、1990年代の経営危機において、日産自動車座間工場閉鎖を始め大規模なリストラを敢行した。 香川県高松市出身。旧制高松中学、東京大学工学部を卒業後、1954年に日産自動車入社。生産畑を歩み、1992年同社社長就任、1996年に塙義一を後継社長として会長となり、日本自動車工業会の会長や日本経済団体連合会副会長も務めた。 石原俊、久米豊ら歴代日産社長の拡大路線による失敗を受けて社長となり、1990年代にかけて経営危機に陥った日産のリストラを推し進めた。
明石 晃一(あかし こういち、1927年3月18日 - )は… 明石 晃一(あかし こういち、1927年3月18日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。1947年から1950年までの登録名は明石 武(あかし たけし)。
藤井 義弘(ふじい よしひろ、1926年1月16日 - 20… 藤井 義弘(ふじい よしひろ、1926年1月16日 - 2016年6月1日)は、日本の経営者。日立造船社長、会長を務めた。香川県高松市出身。 旧制高松中学校を経て、1948年に東京大学法学部政治学科を卒業し、同年に三和銀行に入行。1971年11月に取締役に就任し、1974年7月に常務、1977年12月に専務を経て、1982年4月には副頭取に就任し、1985年6月には副会長に就任。1988年6月には日立造船社長に就任し、今日の主力事業である環境事業の祖を築き、経営の再建に尽力し、「中興の祖」として活躍した。また、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンが大阪市に進出する計画が浮上した際には、新宮康男の要請に応じ、桜島工場を閉鎖し、土地を提供し、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業に後押しした。
横井 芳弘(よこい よしひろ、1924年11月18日 - 2… 横井 芳弘(よこい よしひろ、1924年11月18日 - 2007年7月12日)は、日本の法学者。労働法学者。学位は、法学博士。中央大学名誉教授。元日本労働法学会代表理事。香川県高松市出身、京城で育つ。 この他に、日本労働法学会代表理事(1982年~1984年)、早稲田大学法学部・神奈川大学法学部・一橋大学法学部・法政大学法学部の非常勤講師も務めた。 労働法全般を研究領域としていたが、特に労働協約、団結権論、争議行為を研究。 当時、中央大学には労働法の研究者がいなかった為、学外指導教授として吾妻光俊(一橋大学名誉教授)の薫陶を受けた。 『法学新報』101巻9号、1995年 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 200… 藤井 道夫(ふじい みちお、1922年7月24日 - 2007年12月23日)は、香川県出身のプロ野球選手(外野手)。
小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5… 小森 敏之(こもり としゆき、1922年(大正11年)3月5日 - 1981年(昭和56年)11月8日)は、日本の実業家である。丸大食品の創業者として知られた。 香川県高松市に小森保とその妻のかずえの間に長男として生まれる。今宮第五尋常高等小学校卒業後、証券会社であった不破商店に勤務した。後に水産物加工業務に携わり、1954年(昭和29年)には大阪市内で魚肉ハム及びソーセージの工場の創設、経営に携わった。小森はその工場名を「丸大食品」と称し、1958年(昭和33年)に株式会社化された。 1961年(昭和36年)には、同社で製造されたハムやソーセージにおける独自の小売店への販売システムを導入し、パートタイム労働者への育成に貢献した。
村尾 アサ子(むらお アサこ、旧姓:中村、1921年(大正1… 村尾 アサ子(むらお アサこ、旧姓:中村、1921年(大正10年)12月31日 - 2003年(平成15年))は、日本のオルガニスト。ピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 東京音楽学校器楽科卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校器楽科(現:東京芸術大学音楽学部)を卒業し、オルガンを真篠俊雄、井原秀子に師事する。 大学を卒業後は徳島女子大学音楽学部で講師となり、その後、徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 またこれまでに香川音楽協会、全四国大学音楽学会に所属し、香川県教育委員会音楽指導主事などを歴任した。 2003年(平成15年)、死去。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 20… 稲田 陽一(いなだ よういち、1921年5月21日 - 2006年5月20日)は、日本の法学者(憲法)・弁護士。岡山大学名誉教授。 香川県高松市出身。第六高等学校卒、1947年東京帝国大学法学部政治学科卒、香川大学経済学部助教授、岡山大学法学部助教授、教授を務め、1987年定年退官、名誉教授となり、高岡法科大学法学部教授を務めた。弁護士。
松田 毅一(まつだ きいち、1921年(大正10年)5月1日… 松田 毅一(まつだ きいち、1921年(大正10年)5月1日 - 1997年(平成9年)5月18日)は、日本の歴史学者。専門は、戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・スペインとの関係史。京都外国語大学名誉教授。香川県高松市出身、大阪市育ち。 ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・文化交流にも尽力した。 清泉女子大学教授時代に、非常勤講師として横浜国立大学でスペイン語の講義をおこない、沢木耕太郎も授業を受けている。
福田 信之(ふくだ のぶゆき、1920年〈大正9年〉10月3… 福田 信之(ふくだ のぶゆき、1920年〈大正9年〉10月3日 - 1994年〈平成6年〉11月27日)は、日本の物理学者。理学博士 東京教育大学教授、筑波大学副学長・学長を歴任。世界平和教授アカデミー元会員、日韓トンネル研究会元顧問。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。高松中学校(現・香川県立高松高等学校)、第一高等学校(現・東京大学)、北海道帝国大学理学部を卒業後、理化学研究所に入所。仁科芳雄博士のもとでニ号研究 (原子爆弾開発研究) に携わった。この研究で福田は六フッ化ウランの熱拡散分離の理論を担当した。 世界的水準の「筑波研究学園都市」を建設し、そこに東京教育大学を移転させて核になる総合大学にしようという計画があった。
香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991… 香川 茂(かがわ しげる、1920年4月14日 - 1991年5月13日)は、日本の児童文学作家、教育評論家。 香川県高松市中新町出身。旧制高松中学から日本大学(芸術科)に進むも中退し、香川県師範学校を卒業。 終戦まで北支と満洲で軍隊生活を送る。戦後、高松市内の小・中学校で教鞭をとった。1951年に上京。川越市立富士見中学校を振り出しに、1960年志木市立志木中学校の校長となり、1980年新座市立新座中学校の校長を最後に退職した。 その間作家として活動、1967年「セトロの海」で野間児童文芸賞、1980年「高空10000mのかなたで」で小学館文学賞受賞。 「中学生文学」を創刊し、編集長を務めて文学教育にも取り組んだ。
二宮 文造(にのみや ぶんぞう、1920年〈大正9年〉1月1… 二宮 文造(にのみや ぶんぞう、1920年〈大正9年〉1月1日 - 2006年〈平成18年〉1月27日)は、日本の政治家。香川県高松市出身。東北帝国大学法文学部中退。参議院議員(4期)。 香川県高松市錦町に生まれた。1941年(昭和16年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業。1944年(昭和19年)東北帝国大学法文学部を中退した。同年、朝日新聞東京本社に入社し、前橋支局勤務、札幌支局勤務を経て政治経済部記者となり、1951年(昭和26年)に退社した。 1959年(昭和34年)高松市議会議員に当選。1962年(昭和37年)7月1日、第6回参議院議員通常選挙で全国区から無所属で立候補し、初当選する(以降、連続4期在任)。
脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日 ‐ … 脇 信男(わき のぶお、1919年(大正8年)9月1日 ‐ 1997年(平成9年)12月12日)は、日本の政治家。1971年から1995年までの6期24年にわたり高松市長を務めた。日本社会党県副委員長、全国革新市長会会長などを歴任。高松市名誉市民。 高松市出身。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て中央大学法学部を卒業。戦後は帰郷し、同郷の成田知巳(後の日本社会党委員長)の秘書を16年間務める。 前市長・三宅徳三郎の1期限りでの引退表明を受け行われた1971年の高松市長選挙に、社会党と共産党の推薦を受け立候補。自身としては3回目の挑戦であったが、当時全国各地で革新自治体が誕生していたことや、保守陣営が分裂したことも手伝い初当選。
大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16… 大森 朔衞(おおもり さくえ、1919年(大正8年)4月16日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の洋画家。風景を幻想的に描く作風で知られた。 大森朔衞 (おおもりさくえ) 1919年香川県小豆島、高松市で育つ。幼少期より絵に親しみ、石井柏亭が審査員の中国四国少年水彩画展で金賞受賞。12歳で画家になる決意をする。13歳の夏休みの早暁、屋島で五剣山の日の出を描く藤島武二に遭遇。14歳で大原美術館を訪問した。 親は画家になることを反対したが、17歳で上京、日本美術学校に入学。親の援助がないため、学費や生活費を稼ぎながらでは続かず中退する。1940年の独立展をはじめとして、次々と団体展に入選する。
清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 201… 清水 彰(しみず あきら、1916年11月20日 - 2012年8月17日)は日本の俳優。 香川県高松市出身。1939年に新国劇に入団。解散後は数々の舞台や時代劇などに出演。2005年には日本演劇協会演劇功労者賞を受賞した。 2012年8月17日に肝不全のため死去。
近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月… 近藤 良三(こんどう りょうぞう、1916年(大正5年)1月20日 - 没年不詳)は、日本の作曲家。元徳島大学学芸学部教授。東京音楽学校卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)を卒業。作曲を下総皖一と田中規矩士に師事した 。 徳島大学学芸学部で教授を務める傍ら、徳島県内の小中学校で数多くの学校歌を手掛け、とりわけ保科千代次が作詞を務めることが多かった。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日… 十返 肇(とがえり はじめ、1914年〈大正3年〉3月25日 - 1963年〈昭和38年〉8月28日)は、香川県出身の作家、文芸評論家、編集者。 本名は十返 一(とがえり はじめ)。筆名=大方宗多(オオカタ ソウダ)。 高松市生まれ。料亭・淀川楼の長男に生まれる。 旧制高松中学校を経て、1935年(昭和10年)日本大学芸術科卒業。在学中から中河与一主宰「翰林」の同人となり、文芸時評を連載。東京市麹町区土手三番町に下宿していたとき、近所の吉行エイスケに師事。 森永製菓宣伝部に勤務。後に、第一書房に入社して「新文化」(「セルパン」改題) 編集長。 戦後、丹羽文雄に勧められて十返肇という筆名を名乗る。
福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 19… 福田 保朝(ふくだ やすとも、1913年2月19日 - 1994年9月7日)は朝日放送元社長。 香川県高松市出身。1936年に関西大学専門部卒業後、朝日新聞社へ入社。社会部次長、整理部次長をつとめた後、1951年に朝日放送設立に参加。放送部報道課長、編成局次長、総務局長、営業局長、1962年取締役、1968年常務、1971年専務、1974年9月副社長、1983年6月社長就任。1990年6月相談役就任。1994年9月、呼吸不全のため81歳で死去。 毎年、兵庫県西宮市の自宅の庭で500株以上のチューリップを植えて育てた。 1988年、勲二等瑞宝章受章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
成田 知巳(なりた ともみ、1912年〈大正元年〉9月15日… 成田 知巳(なりた ともみ、1912年〈大正元年〉9月15日 - 1979年〈昭和54年〉3月9日)は、日本の政治家。衆議院議員、日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。 香川県高松市出身。肥料商で高松市議会議員をつとめた成田鷹次の子として生まれる。旧制高松中学(現・香川県立高松高等学校)を経て、第四高等学校(現・金沢大学)、東京帝国大学(現・東京大学)法学部へと進む。高松中では野球部のマネージャーも務めており、1学年上に梶原英夫、三原脩がいた。大学卒業後、三井鉱山に入社する。1941年、三井化学に転属となり、1943年には文書課長に昇進した。第四高等学校時代には後に社会党の参議院議員となる亀田得治と同じクラスだった。
西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 200… 西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 2002年11月28日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手・監督。ポジションは外野手。
福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日… 福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月17日)は、日本の政治家。勲二等従四位。衆議院議員総選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。 香川県高松市出身。旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満洲に渡って満洲国の機関紙「斯民」の記者となる。満洲人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年に25歳で社長就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月1… 三木 忠直(みき ただなお、1909年〈明治42年〉12月15日 - 2005年〈平成17年〉4月20日)は、日本の海軍軍人、工学者。最終階級は海軍技術少佐。爆撃機「銀河」、特攻機「桜花」特攻機、新幹線の開発者。 1909年12月15日、香川県高松市生まれ。香川県立高松中学校、第六高等学校を経て、1938年、東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業。海軍造船官となって海軍造船中尉に任官し、海軍航空技術廠に配属された。 アジア・太平洋戦争中に陸上爆撃機「銀河」、特攻兵器「桜花」などの機体設計を担当した。 1944年(昭和19年)6月前後、大田正一少尉が航空技術廠長和田操中将に特攻兵器桜花を提案した。三木によれば、和田はもう決めた様子で、大田は「自分が乗っていく」と言うため、研究に協力したという。
穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月2… 穴吹 夏次(あなぶき なつじ、1909年〈明治42年〉7月29日 - 2000年〈平成12年〉10月24日)は、株式会社穴吹工務店元社長。地方の建築業者だった穴吹工務店を、全国展開のデベロッパーに成長させた。また、穴吹興産や学校法人穴吹学園の創業者でもある。位階は従六位。 穴吹喜作と穴吹ムメの長男として、香川県高松市に生まれる。 1930年1月から家業の土木建築業に従事した。1937年3月に、川添村立川添青年学校の教官に就任する。[要出典] 1940年6月に、京都府警察部で警察官となった[要出典]。太平洋戦争中は軍に召集され、ウォレアイ環礁(メレヨン島)で終戦を迎えた。1945年10月に復員して、実父の建設業を継承した[要出典]。
水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19… 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。
堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 19… 堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 1936年(昭和11年)2月21日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1… 宮武 三郎(みやたけ さぶろう、1907年7月23日 - 1956年12月11日)は、日本のプロ野球選手。
宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年… 宮武 徳次郎(みやたけ とくじろう、1906年 <明治39年> 11月3日 - 1989年 <平成元年> 8月23日)は、日本の経営者。大日本製薬社長、会長を務めた。香川県高松市出身。位階は正五位。 1928年に高松高等商業学校を卒業し、同年に大日本製薬に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務、1950年に専務を経て、1956年には社長に就任。社長在任時にはサリドマイド事件の対応に追われた1981年から1985年までに会長を務めた。 1977年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1989年8月23日心不全のために死去。82歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4… 加藤 常太郎(かとう つねたろう、1905年〈明治38年〉4月30日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位。加藤海運社長、宇部工業短期大学初代学長、参議院議員(1期)、衆議院議員(13期)、労働大臣(第34代)。 香川県高松市出身。先代・常太郎の長男として生まれ、襲名する。高松商業を経て、奉天外国語学堂支那語科を卒業。 父が急逝したため、24歳で家業を継ぎ、機帆船を主にした加藤海運社長となる。海運業に慣れてくると神戸に乗り出し、小型汽船70隻を統合し、日本近海汽船(現:川崎近海汽船)を設立。代表取締役になった。しかし、太平洋戦争が激しくなったことを受け、会社経営を友人に任せ帰郷した。
神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 197… 神崎 清(かんざき きよし、1904年8月31日 - 1979年3月2日)は、日本の小説家、文筆家。 島本 志津夫(しまもと しづお)の筆名も用いた。 香川県高松市出身。旧姓は河野であった。 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)から大阪高等学校に進学。大阪高等学校在学中の1925年に大阪で創刊された文芸同人誌『辻馬車』に藤沢桓夫らとともに参加。 東京帝国大学文学部国文科を1928年に卒業。卒業後、大森高等女学校(現・三田国際学園中学校・高等学校)の教員を務めたが、思想的な理由により1930年に退職に追い込まれる。以後、文筆業に就く。 島本志津夫名義で映画『女學生と兵隊』の原作も手がけた。
三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 19… 三木 龍喜(みき たつよし, 1904年2月11日 - 1966年1月9日)は、香川県高松市出身の男子テニス選手。大阪高等商業学校(現大阪市立大学)卒業。 1934年のウィンブルドン混合ダブルス部門でドロシー・ラウンド(イギリス)とペアを組んで優勝し、日本人初のグランドスラム優勝者になった選手。また現在でもウィンブルドン男子・ウィンブルドン混合・4大大会男子混合の最後の日本人優勝者である。 英語文献では“Ryuki Miki”(リュウキ・ミキ)という表記で掲載されることも多い。海外の同僚選手たちからは「ミッキー」と呼ばれることも多かった。 通信省官吏・三木喜次郎の子として高松市に生まれる。祖父の三木伊平は最後の讃岐松平藩主松平頼聡に仕えた土族で、三木家は明治維新により武士から官吏に転じた典型的な家系で、家は裕福だった。
石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 … 石井 健一郎 (いしい けんいちろう、1903年9月19日 - 2001年4月29日)は、元大同特殊鋼社長。同社名誉会長。元日経連副会長。愛知県経営者協会元会長。香川県高松市出身。 1924年(大正13年)第一回選抜高校野球大会において、母校である高松商業の監督を務め優勝に導く。(大同特殊鋼 創業100周年特設サイト 選抜発祥の地) 1926年(大正15年)、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業後、大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社。モータリゼーション時代の到来を予見し、特殊鋼一貫製造拠点の知多工場を建設。また、巧みな手腕で業界再編成を推進。同社の礎を築き、同社“中興の祖”と称されている。
上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月2… 上枝 一雄(うええだ かずお、1903年(明治36年)1月20日 - 1987年(昭和62年)5月5日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 香川県高松市出身。1934年に東京帝国大学法学部を卒業し、三和銀行の前身である三十四銀行に入行。取締役、常務、専務を経て、1957年11月から副頭取を務め、1960年5月から頭取に就任し、1971年9月までに務めた。 その一方で、1966年から1977年までに関西経済連合会副会長を務め、南海電気鉄道、江崎グリコ、関西電力の各取締役、毎日新聞社相談役、関西テレビ放送監査役などを歴任した。1973年に勲二等旭日重光章を受章した。 1987年5月5日脳卒中により兵庫県芦屋市内の自宅で死去。
猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年… 猪熊 弦一郎(いのくま げんいちろう、1902年〈明治35年〉12月14日 - 1993年〈平成5年〉5月17日)は、昭和期の洋画家。新制作協会創立会員。 「絵を描くには勇気がいる」とよく口にし、新しいものへ挑戦し続けた彼の画業は多くの人の心を捉えている。 丸亀市にある猪熊弦一郎現代美術館(設計:谷口吉生)には、猪熊の作品が常設展示されている。また、猪熊の死後、丸亀コミュニティバスにいのくまバスが登場した。建築家・丹下健三が設計した香川県庁舎の壁画は、猪熊の作である。
芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34… 芦原 義重(蘆原、あしはら よししげ、1901年 <明治34年> 3月4日 - 2003年 <平成15年> 7月12日)は、昭和期の実業家。関西電力元社長・会長・名誉会長。位階は正三位。芦原義倫は四男。 香川県高松市出身。高松中学、旧制第六高等学校を経て、1924年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒業。同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現・阪急阪神ホールディングス)に入社した。1942年の配電統制により関西配電へ引継採用され、工務部電務課長に就任した。1946年、同社常務取締役、1950年、同社取締役副社長。 1951年の電気事業再編成により、関西電力常務取締役に就任した。1959年に太田垣士郎の後任として取締役社長に就任し、黒部川開発を始めとした電源開発と共にいち早く原子力発電を導入した。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月… 音丸 耕堂(おとまる こうどう、1898年(明治31年)6月15日 - 1997年(平成9年)9月8日)は、日本の漆芸家である。本名:芳雄。本姓は木村。 香川県高松市の生まれ。石井磬堂の門下となり、「讃岐彫」と呼ばれる木彫や彫漆を学んだ。その後独立し、玉楮象谷の作風を研究した後にこの作風を模して作成した漆器を多く作成する。その後は東京に移住し、1942年(昭和17年)に開催された第5回文展にて音丸の作品が出品された。 後に自身の作風は現代風を取り入れた玉手箱等、彫漆の作風に新しく取り入れたものにより、1955年(昭和30年)に「彫漆」分野として人間国宝(重要無形文化財)に認定された。その後は多くの門下を輩出し、1982年(昭和57年)に門下の育成によって「公益信託音丸漆芸奨励基金」の創設に携わった。
菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 19… 菊池 武一(きくち たけかず、1896年3月28日 - 1972年4月24日)は、日本の英文学者、翻訳家。 高松市出身。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学文学部英文科卒業。國學院大學教授を務め、戦後になって古代文学、歴史研究に重きを置く方向付けに尽力する。また代々木ゼミナールの校長を務めた。子息菊池映二はフランス文学者で明治大学教授を務めた(1929-2002)。 日本の文芸、特に室町時代の謡曲文学、仕舞に造詣が深く、笛もよくした。スコット『アイヴァンホー』訳は、文庫上巻刊行後の1965年に入院し、退院後も執筆を続けたが、下巻の原稿を残して没し、菊池が國學院に迎えた高見穎治が校訂し刊行された。
小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - … 小西 康裕(こにし やすひろ、1893年(明治26年) - 1983年(昭和58年))は、日本の空手家、武道家。神道自然流開祖。全日本空手道連盟(旧)(現在の錬武会)初代副会長。
22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、… 22代 木村 庄之助(にじゅうじだい きむら しょうのすけ、1890年〈明治23年〉3月1日 - 1994年〈平成6年〉4月23日)は、大相撲の立行司の一人。1951年9月から1959年11月にかけて木村庄之助を襲名していた。本名は泉 林八、所属:竹縄(大阪)→出羽ノ海部屋、香川県三木郡牟禮村(現:高松市)出身。通称は泉の親方。 1898年秋、尋常小学校を二年で中退して大坂相撲の竹縄部屋に入門し、1899年6月に木村金八の名で初土俵。1907年6月に木村信之助で幕下格、1909年5月十両格、木村錦太夫の名で1912年1月に幕内格となったが、1922年5月に、当時の大坂相撲が暴力団の組長によって運営され、東京相撲と比較にならないデタラメがまかり通っているのに愛想をつかし1923年5月場所限りで廃業。
磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月1… 磯井 如真(いそい じょしん、1883年(明治16年)3月19日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本の漆芸家。本名は雪衛(ゆきえ)、あらため雪枝。 香川県高松市出身。香川県立工芸学校(現、香川県立高松工芸高等学校)を卒業後、大阪山中商会で中国漆器の修理などに携わり、技術を習得した。1909年に高松に戻り、製法が絶えて久しかった香川漆器を独自研究を重ねて復興し、近代化を確立した。讃岐漆芸の中興の祖と称される。母校の工芸学校や工芸研究所で後進の育成にもあたっている。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した「漆サボテンにホロホロ鳥飾棚」で選奨を受賞。1953年(昭和28年)には岡山大学教授に就任。
植田 平太郎(うえた へいたろう、1877年〈明治10年〉8… 植田 平太郎(うえた へいたろう、1877年〈明治10年〉8月14日 - 1949年〈昭和24年〉7月25日)は、日本の剣道家。流派は天真正伝神道流剣術、無双神伝英信流抜刀術、無双神伝抜刀術兵法。称号は大日本武徳会剣道範士、居合術教士。 昭和天覧試合3回出場。大日本武徳会香川支部、香川県警察部、高松監獄署、高松高等商業学校、高松商業学校、高松第一中学校の剣道師範を務めた。 愛媛県香川郡池西村(現香川県高松市)生まれ。父与佐衛門は天真正伝神道流剣術に堪能で、農業のかたわら自宅に道場を開いていた。平太郎は14歳から与佐衛門に天真正伝神道流剣術を学び、30歳のとき皆伝を授かった。また、16歳から叔父の酒井親時に宅間当流柔術を学んだ。
笠井 健太郎(かさい けんたろう、1877年(明治10年)2… 笠井 健太郎(かさい けんたろう、1877年(明治10年)2月8日 - 1937年(昭和11年)11月2日)は、日本の検事。裁判官。 香川県高松市出身。1904年(明治37年)、京都帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった。福島地方裁判所判事、熊谷区裁判所判事、東京区裁判所判事、東京地方裁判所判事代理、東京控訴院判事代理、横浜地方裁判所判事、横浜地方裁判所検事・同区裁判所検事、土浦区裁判所検事を歴任し、1920年(大正9年)に朝鮮総督府検事に転じた。京城地方法院検事、法務局刑事課長、高等法院検事、京城地方法院検事正を経て、1932年(昭和7年)に法務局長に就任した。1934年(昭和9年)から高等法院検事長を務めた。
上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(… 上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(明治5年11月20日)- 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。 香川県香川郡一宮村(現高松市)で上原秀次郎の長男として生まれる。1896年5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年1月25日、陸軍歩兵少尉に任官。義和団の乱、日露戦争に出征。陸軍大学校(17期)で学び、1903年11月28日に卒業した。 以後、参謀本部部員、陸軍大学校教官、第4師団参謀、歩兵第62連隊長、第11師団参謀長、陸軍航空部附、航空部員などを歴任。1921年7月20日、陸軍少将に進み近衛歩兵第1旅団長に就任。
児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年… 児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年11月7日) - 1954年(昭和29年)2月13日)は、日本の実業家。 香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。 会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した。 1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5… 大場 長平(おおば ちょうへい、1859年1月28日(安政5年12月25日)- 1916年(大正5年)8月10日)は、明治から大正初期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。 讃岐国山田郡、のちの香川県山田郡林村(木田郡林村を経て現高松市)で、大場吉次郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1889年(明治22年)6月、家督を相続した。 1889年、讃岐鉄道取締役に就任。その他、讃岐農工銀行頭取、韓国実業監査役、東讃電気軌道(現高松琴平電気鉄道)社長などを務めた。 政界では、六条村戸長、林村会議員、木田郡四ケ池普通水利組合常設議員などを務めた。香川県会議員に選出され、1899年(明治32年)10月21日、同議長に就任し同月27日まで7日間在任した。