沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 199… 沼田 次郎(ぬまた じろう、1912年8月19日 - 1994年6月29日)は、日本の歴史学者、日本史学者。東京大学名誉教授(史料編纂所元所長)。洋学史、日蘭交渉史が専門で、日蘭学会理事長も務めた。 熊本県熊本市出身(出生地は和歌山県)。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1932年第五高等学校 (旧制)卒業、1935年東京帝国大学文学部国史学科卒業。東京大学史料編纂所に入り、1954年助教授、1965年教授に就任し、1971年から1973年に所長を務める。1973年から1983年まで東洋大学文学部教授。そのほか、1980年から1983年に日蘭学会理事長。勲三等旭日中綬章受章。
稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 200… 稲垣 優(いながき まさる、1908年12月2日 - 2006年1月6日)は、日本の数学者。専門は微分幾何学。第10代東海大学学長、第3代国際武道大学学長を務める。熊本県熊本市出身。 東海大学水泳部初代主将 東海大学付属本田記念幼稚園、第3代園長も務めた。東海大学名誉教授、理事。1987年、勲二等瑞宝章受章。
今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 20… 今村 義孝(いまむら よしたか、1908年3月2日 - 2006年10月18日)は、日本史学者。 熊本県飽託郡島崎村(現熊本市西区)生まれ。1930年東京高等師範学校文科卒業。高田師範学校教諭、熊本県立天草中学校(現熊本県立天草高等学校)教諭、秋田師範学校教諭、1949年秋田大学助教授、1952年教授、1973年定年退官、名誉教授。没後正四位。キリスト教徒。天草、秋田のキリシタン史などを研究した。
大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 19… 大町 文夫(おおまち ふみお、1908年2月25日 - 1982年4月14日)は日本の俳優。本名は瀬戸口文夫。 1908年(明治41年)2月25日、熊本県熊本市に生まれる。長崎高等商業学校卒業後、雑誌・新聞記者、専売局勤務を経て、1934年(昭和9年)に村山知義らの新協劇団の結成に参加し、新劇俳優となる。戦後の1947年(昭和22年)、民衆芸術劇場(後の劇団民藝)に入る。戦中から映画にも出演し、独立プロ作品や日活作品に多く出演した。1957年(昭和32年)頃からはテレビドラマにも出演した。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月… 荒木 克業(あらき かつなり、1907年(明治40年)10月20日‐1932年12月3日)は、日本陸軍の軍人。 陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。 昭和4年(1929年)7月17日、陸軍士官学校(41期)を卒業、同年10月25日より千葉の鉄道第1連隊第2中隊の所属となる。 1932年9月27日、満州国軍の人事配置に不満を持った旧張学良軍の蘇炳文少将ら満州国軍黒龍江省駐留軍の軍人数千人が『東北民衆救国軍』を名のり満州里で挙兵、満州里領事や特務機関長、国境警察署長、民間人ら在留邦人数百名を人質とし、ホロンバイル独立を宣言した。世にいうホロンバイル事件である。
小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 19… 小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 1993年1月6日)は日本の菌類学者。理学博士(東京帝国大学、1940年)。 熊本市生まれ。1931年に東京帝国大学を卒業し、東京文理科大学の助手、講師を務めた後、1941年から1945年まで満州国立中央博物館の薦任官を務め、1946年から2年間、長春大学の教授を務めた。1948年から国立科学博物館の植物研究部員として働き、後に研究部長となった。 菌類の分類学的研究の他に、南方熊楠が残した菌類図譜稿本を整理し、1987年に「南方熊楠菌誌」を出版した。1970年に南方熊楠賞の第1回の受賞者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993… 藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993年5月6日)は、日本の日本史学者。
田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 19… 田中 子玉(たなか しぎょく、1906年9月29日 - 1986年1月28日)は、日本の経営者。テレビ西日本社長を務めた。熊本県熊本市出身。 1930年に早稲田大学高師部英語科を卒業し、1935年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社した。 1958年3月にテレビ西日本専務に就任し、1963年に副社長を経て、1967年から1971年までに社長を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章。 1986年1月28日肺炎のために死去。79歳没。
乾 信一郎(いぬい しんいちろう、1906年5月15日 - … 乾 信一郎(いぬい しんいちろう、1906年5月15日 - 2000年1月29日)は、日本の小説家、翻訳家。 米国シアトル生まれ。本名・上塚貞雄で、本名での著作もある。 1912年、母とともに父母の郷里熊本県甲佐町早川に戻り、現在の甲佐町立白旗小学校に通った。その後上京し、青山学院高等部を卒業した。 同商科在学中の1928年、翻訳が『新青年』に採用される。1930年卒業後、博文館に勤務し、『新青年』に探偵小説を書く。1935年『講談雑誌』編集長、1937年『新青年』編集長。1938年フリーとなり、文筆に専念。 戦後「青いノート」「コロの物語」などNHK連続放送劇の脚本を手がける。ユーモア小説、動物小説を多く書いたが、探偵小説やミステリー小説などの翻訳も数多く手がけた。
佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12… 佐伯 敏子(さえき としこ、1906年〈明治39年〉3月12日 - 1984年(昭和59年)10月11日)は、日本の写真家、歌人。熊本県熊本市出身、私立女子英学塾(後の津田塾大学)卒業。旧姓は梅村。 1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで桜蔭高等女学校(後の桜蔭学園)の教員を務めた後、1947年(昭和22年)、英語教室「津田英語会」創立共に、同会の講師となった。私生活では1928年(昭和3年)に結婚し、二男二女をもうけた。1942年(昭和17年)に東京都世田谷区に移住した。 1950年代頃より、世田谷の自宅を訪れる野鳥を寄せ親しみ、主婦としての家事の合間を縫って観察を続けた。1955年(昭和30年)に日本野鳥の会に入会した。
牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月… 牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。 熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。
大久保 武雄(おおくぼ たけお、1903年11月24日 - … 大久保 武雄(おおくぼ たけお、1903年11月24日 - 1996年10月14日)は、日本の政治家。労働大臣(第36代)、衆議院議員(7期)。俳人でもあり、俳号は大久保 橙青(おおくぼ とうせい)で、息子も俳人の大久保白村。 1903年、熊本城下西通町にある醤油屋の三男坊として生まれる。祖先の大久保八左衛門宗雅は、長水と号し近郊では有名な蕉門の俳人であった。 1928年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。在学中は、五高時代から親しんだ野球の主力として全国高等専門学校野球大会優勝を果たしている。逓信省に入省すると、先輩の富安風生の紹介で、東大俳句会に入り高浜虚子に師事。郷土熊本が橙の産地であることから橙の字を使い、俳号を橙青とつける。
清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2… 清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2日 - 1988年(昭和63年)2月7日)は、日本の技術者。日立製作所取締役副社長を経て、動力炉・核燃料開発事業団理事長や、原子力委員会委員長代理を務めた。「もんじゅ」や「ふげん」の名付け親でもある。 熊本県熊本市出身。1928年九州帝国大学工学部卒業。1940年日立製作所取締役副社長。1967年動力炉開発臨時推進本部委員。動力炉・核燃料開発事業団副理事長在任中の1970年、大洗工学センターの発足式で、高速増殖炉もんじゅ、新型転換炉ふげんの命名を行った。1972年動力炉・核燃料開発事業団理事長。1978年原子力委員会委員。同年原子力委員会委員長代理。
美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 19… 美作 太郎(みまさか たろう、1903年9月17日 - 1989年7月3日)は、昭和期の編集者、出版会社経営者、出版学研究者。 熊本県熊本市生まれ。1927年東京帝国大学法学部卒業後、日本評論社に入社。東大で教わった師の河合栄治郎の著作『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』『ファッシズム批判』『学生に与う』『学生叢書』などの出版を担当する。 1938年、河合栄治郎事件が起こり、河合著の『ファッシズム批判』などが発禁となる。自身は1944年に横浜事件により逮捕される。両事件により、日本評論社は相当な被害を被る。戦後は同社に復帰し、編集局長、専務取締役になる。1951年退社し、1952年に新評論社(のち新評論)を創立し、社長、のち会長となる。
内村 清次(うちむら せいじ、1902年(明治35年)4月8… 内村 清次(うちむら せいじ、1902年(明治35年)4月8日 - 1964年(昭和39年)11月22日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 熊本県飽託郡春日村(春日町、熊本市春日町を経て現:熊本市西区春日)で、内村政平、ノトの息子として生まれる。古町小学校を経て、1918年(大正7年)3月、西部高等小学校を卒業した。 1918年4月、鉄道院(のち鉄道省)熊本機関区の機関夫試傭試験に合格。1919年(大正8年)2月、機関科教習所に入所し、同年5月に卒業。1922年(大正11年)4月、機関士見習に合格し、1923年(大正12年)4月、機関士科を卒業。同年6月、機関士に任じられた。1924年(大正13年)1月、徴兵され歩兵第13連隊に入隊し満洲に派遣され、1925年(大正15年)11月に除隊した。
岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 198… 岩永 巌(いわなが いわお、1901年7月28日 - 1985年1月9日)は、日本の経営者。熊本県熊本市出身。 1915年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(現在の東レ)に入社。1947年に取締役に就任し、1948年に常務を経て、1960年に副社長に就任し、1963年には三井石油化学工業社長に昇格。1969年11月に会長に就任。 1965年に藍綬褒章を受章し、1971年に勲二等瑞宝章を受章。 1985年1月9日急性心不全のために死去。83歳没。
堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月… 堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 - 1948年〈昭和23年〉9月25日)は、日本の海軍軍人、体操研究者。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。海兵50期。 御馬下尋常小、濟々黌を経て、海軍兵学校第50期入校。席次は入校時298名中283番、卒業時272名中156番。堀内は第13期飛行学生(艦上機班)となったが飛行作業中に車輪止め位置を直そうと駆け寄りプロペラ接触、2日間意識不明の重症を負い2ヶ月間程治療後、飛行場に出るも教官から次期飛行学生に編入されると告げられ憤然とし「次期編入であれば飛行学生を辞めます」と立ち去ったという。このため砲術専攻へ転科し、のち駆逐艦や巡洋艦の砲術長を歴任した。
立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月2… 立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月20日 - 平成3年(1991年)1月12日)は、日本の実業家、技術者。オムロンの創業者。立石孝雄は長男、立石信雄は次男、立石義雄は三男。 熊本県熊本市(現・熊本市中央区)新町に伊万里焼盃を製造販売する立石熊助およびエイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し熊本に移住、「盃屋」を店開きした。 一新尋常小学校(現・熊本市立一新小学校)、旧制熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を経て、1921年(大正10年)熊本高等工業学校電気科一部(現・熊本大学工学部)卒業。兵庫県庁での勤務を経て、1930年(昭和5年)に「彩光社」を京都市にて設立。
金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 19… 金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 1980年9月21日)は、日本の実業家である。RKB毎日放送の社長・会長を務めた。熊本県熊本市出身。 1924年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。同年に毎日新聞社に入社し、大連支局長、天津支局長、北京支局長、西部本社論説委員などを歴任した。 1951年6月にラジオ九州設立と同時に代表取締役代表に就任した。専務、副社長を経て、1961年11月に社長に就任し、1969年11月に会長に就任し、1971年11月に相談役に就任した。日本民間放送連盟で理事、副会長、顧問を務めた。1965年に藍綬褒章を受章し、1970年に勲二等瑞宝章を受章した。著書に「音波から映像へ」、「私の飲み食い放談」などがある。
牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1… 牛島 憲之(うしじま のりゆき、1900年8月29日 - 1997年9月16日)は、洋画家。熊本県熊本市二本木町生まれ。 世田谷区在住であったが、多摩川近郊、特に府中によくスケッチに出かけた縁から、東京都府中市の府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されている。 風景画の作品が多く、柔らかな線と穏やかな色彩を特徴とする。牛島の描くモティーフの種類はある程度限定され、同じ風景が数多く繰り返し描かれる。 熊本の裕福な地主の息子に生まれ、東京芸大の講師になるまで勤め人になったことが無かったという。日展に入選後も絵を売らず、また華やかな場に参列することも少なく、画家とは名誉ではなく描き続けることであるという立場を貫いた。
中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月… 中村 汀女(なかむら ていじょ、1900年(明治33年)4月11日 - 1988年(昭和63年)9月20日)は、日本の俳人。本名、破魔子(はまこ)。星野立子・橋本多佳子・三橋鷹女とともに4Tと呼ばれた、昭和を代表する女流俳人。 高浜虚子に師事。「ホトトギス婦人句会」で活躍。俳誌「風花」を創刊、主宰。女流俳人の第一人者として、ラジオ、テレビなどを通し、俳句を家庭婦人層へ普及させた。句集に『春雪』(1940年)、『紅白梅』(1968年)など。 熊本県出身。熊本県飽託郡画図村(現熊本市東区江津1丁目)に斉藤平四郎・テイの一人娘として生まれる。平四郎は地主で、村長も務めた。1912年(大正元年)、熊本県立高等女学校(現熊本県立第一高等学校)に入学。
細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1… 細川 隆元(ほそかわ りゅうげん、1900年〈明治33年〉1月17日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の政治評論家、衆議院議員。熊本県熊本市出身。 中学濟々黌、旧制第五高等学校大学予科(現熊本大学)を経て1923年、東京帝国大学法学部を卒業、同年朝日新聞社に入社する。記者を務め1936年政治部長、1940年ニューヨーク支局長、1944年編集局長。 1947年朝日新聞社に在籍したまま熊本県知事選に出馬するも落選した。同年、朝日新聞を退社して日本国憲法成立直後の第23回衆議院議員総選挙で日本社会党から熊本2区から出馬して初当選、衆議院議員を1期務めた。 その後、政治評論家に転身し1957年から始まったTBSの『時事放談』で小汀利得(後に藤原弘達)とホストを務めた。
末延三次(すえのぶ さんじ、1899年 <明治32年> 12… 末延三次(すえのぶ さんじ、1899年 <明治32年> 12月5日 - 1989年 <平成元年> 7月24日)は、日本の法学者。専門は英米法。学位は法学博士。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。末延道成の養子(旧姓・平井)。日本学士院会員。末延財団設立者、同初代理事長。位階は正四位。土方寧、高柳賢三に師事。弟子に海原文雄、伊藤正己、土屋喜平、大木雅夫、田中英夫など。 熊本県熊本市西唐人町の坪井川沿いで蝋燭・マッチ商を営んでいた平井茂八の三男として生まれる。五高、東京帝国大学を出て、東京帝国大学助手を経て助教授となり、1928年英国留学、ケンブリッジ大学で学んだのち渡米し、イエール大学、ハーバード大学で研究。
吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - … 吉岡 範武(よしおか のりたけ、1899年10月15日 - 1969年7月15日)は、日本の外交官。初代駐カンボジア特命全権大使。 熊本県熊本市出身。府立第四中学校(現東京都立戸山高等学校)、第三高等学校を経て、1923年東京帝国大学法学部政治学科卒業。1936年在中華民国大使館二等書記官。1940年外務省調査部第六課長。1945年在フランス大使館参事官。 同年から外務大臣官房儀典課長事務取扱を務め、帝国ホテルの犬丸徹三と相談し、連合国軍占領下の日本における連合軍将官宿舎の選定を進めた。 1946年終戦連絡京都事務局長。1948年京都連絡調整事務局長。1953年外務省参与。1954年駐カンボディア特命全権公使。
稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1… 稲ノ森 勉(いねのもり つとむ、1899年5月17日 - 1963年7月20日)は、熊本県熊本市出身で入間川部屋、出羽海部屋に所属した力士。本名は古閑 勉。173cm、94kg。最高位は東前頭14枚目。 1919年1月初土俵、出世は速く、序ノ口から7場所目の1923年5月に十両昇進。土俵上の駆け引きに熟練するところがあり、柔軟な取り口はうまく、四つに組んでの投げにも無理がなく、寄り身も速かった。1926年5月に入幕するも、幕内では全く通用せず、対戦相手の為すがままに取られて11戦全敗を喫し十両に陥落。幕内在位はこの1場所に終わり、十両陥落後も勝ち越せず、1928年3月廃業。
迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898… 迫 静二(さこ せいじ、古い文書では「靜二」と表記 1898年(明治31年)3月26日 - 1983年(昭和58年)8月6日)は、日本の銀行家、富士銀行初代頭取。 熊本県熊本市出身。熊本県立熊本中学校、官立第五高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部を卒業。安田銀行に入社。1946年(昭和21年)常務取締役、48年と社長となり、行名を富士銀行と改める。翌年社長を頭取に改称し、初代頭取に就任。全国銀行協会連合会会長などを務めた。 1983年8月6日死去、85歳没。
佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23… 佐々 弘雄(さっさ ひろお、1897年〈明治30年〉1月23日 - 1948年〈昭和23年〉10月9日)は、日本の政治学者、ジャーナリスト、参議院議員。 1897年(明治30年)1月23日、衆議院議員佐々友房の三男として東京府東京市四谷区四谷箪笥町に生まれる。 東京府立第四中学校・第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学。吉野作造や美濃部達吉の薫陶を受け法学者・政治学者として将来を嘱望される。東京帝大では新人会に参加した。1920年(大正9年)卒業。 卒業後は直ちに東京帝国大学法学部副手・助手を経て、外務省欧米局の嘱託となり英仏独に2年間留学。特にドイツにおいては、ハイパーインフレの惨状やヴァイマル共和国の行き詰まり、そしてナチス勃興を目の当たりにし、反ヒトラー派となって帰国した。
本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 198… 本田 正次(ほんだ まさじ、1897年1月20日 - 1984年7月1日)は、日本の植物学者。東京大学名誉教授。昭和天皇の植物研究の相手も務め、伊豆や那須に同行した。熊本県熊本市出身。 1897年(明治30年)1月20日、熊本県熊本市に生まれた。熊本県立熊本中学校、第五高等学校を経て、1921年(大正10年)5月に東京帝国大学理学部植物学科を卒業し、同時に東京帝国大学助手に任じられた。 1931年(昭和6年)3月に博士(理学)の学位を授与され、1934年(昭和9年)4月に東京帝国大学助教授に就任した。1940年(昭和15年)7月には史蹟名勝天然紀念物調査会臨時委員となり、1942年(昭和17年)9月には史蹟名勝天然紀念物調査会委員となった。
仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1… 仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和62年(1987年)4月10日)は、日本の映画監督である。山中貞雄を助監督として起用し、その脚本を数多く監督した。川谷拓三は義理の息子、仁科貴と仁科扶紀は孫にあたる。 両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち、中学3年のとき会津に戻る。 1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。
野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年… 野田 武夫(のだ たけお、1895年2月8日 - 1972年6月7日)は、昭和期の日本の政治家。総理府総務長官・自治大臣。位階は正三位。元衆議院議員の野田毅は娘婿。 熊本県飽託郡川口村(現・熊本市南区)出身。 旧制熊本中学校(現熊本県立熊本高等学校)を経て、1923年早稲田大学法学部独法科を卒業後、国民新聞記者、東京朝日新聞政治部記者、神奈川新聞社社長、町田忠治商工大臣秘書官を経て、1936年第19回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧神奈川2区より立候補して当選を果たす。以後戦後も含めて当選8回。戦前は軍需政務次官、商工省参与などを務めた。政党解消後は翼賛議員同盟→翼賛政治会→大日本政治会に所属した。
国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10… 国崎 定洞(くにざき ていどう、1894年(明治27年)10月5日 - 1937年(昭和12年)12月10日)は、日本の衛生学者・共産主義者・社会主義者。社会衛生学の創始者。ドイツで日本人の社会主義者グループを組織して、ドイツ共産党日本語部を結成した。しかしソビエト連邦移住後に大粛清により処刑された。 1894年に熊本県熊本市に生まれる。父の宗英は医師で、村医をしていた対馬で育った。13歳で単身、姉の嫁ぎ先である埼玉県川越町(現・川越市)の田中家に移り寄宿して川越高等小学校、川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を卒業。さらに第一高等学校第3部(英語組)を卒業。一高では常に3番以内の成績だったという。
原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 19… 原田 敏明(はらだ としあき、1893年11月1日 - 1983年1月17日)は、日本の民俗学者、宗教学者。東海大学名誉教授。熊本県出身。 1893年、熊本県山本郡吉松村(現在の熊本市北区(鹿本郡植木町))に原田官太の二男として生れる。吉松尋常高等小学校、熊本県立鹿本中学校(現在の熊本県立鹿本高等学校)を卒業の後、1919年、神宮皇學館本科を卒業。東京帝國大學文学部宗教学宗教史学科選科に入学。姉崎正治の指導のもと、「ヘブライの宗教意識の発達」を研究テーマとする。1922年に選科、1927年に本科を卒業。東大在学中には宗教学研究調査を委嘱され、雑誌『宗教研究』の編集などにも携わっている。 青山学院、東洋大学、大谷大学、龍谷大学、九州帝國大學、日本大学、東京帝國大學、京都帝國大學、東京文理科大学、大正大学などに出講、また帝国学士院からの研究費補助、「本邦農耕儀礼の宗教民族学的研究」のテーマで有栖川宮記念奨学金を受けるなどして、研究生活に従事。
大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)… 大森 仙太郎(おおもり せんたろう、1892年(明治25年)10月3日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍特攻部長、第7艦隊司令長官を務めた。熊本県熊本市出身。 1892年10月3日、熊本で大森太郎吉の息子として生まれる。熊本中学校卒業。1913年12月、海軍兵学校41期を16番の成績で卒業。在学中に品行善良章を授与された。1914年12月、海軍少尉任官。1919年12月、大尉に昇進。海軍水雷学校高等科を卒業。その後、第15艇隊艇長、葦駆逐艦長、陸奥分隊長、野風水雷長、響駆逐艦長、榛名分隊長を歴任、1925年12月、少佐に昇進、水雷学校教官に着任する。
平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 19… 平川 清風(ひらかわ せいふう、1891年4月7日 - 1940年2月2日)は、日本のジャーナリスト。父は漢学者の平川清音。 熊本県熊本市出身。1908年熊本県立熊本中学校卒業。1911年旧制第五高等学校卒業。1914年東京帝国大学法学部政治学科卒業。大阪毎日新聞社に入社し、上海特派員、整理部長、社会部長などを歴任する。1938年常務取締役、編集主幹となる。1940年2月2日死去。
上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日… 上塚 司(うえつか つかさ、1890年(明治23年)5月1日 - 1978年10月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。
阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 … 阿蘇ヶ嶽 寅吉(あそがたけ とらきち、1890年2月17日 - 1942年9月21日)は、熊本県熊本市出身で八角部屋、雷部屋、再度八角部屋に所属した力士。本名は田尻 虎吉。170cm、97kg。最高位は東小結。 吉田司家の紹介で入門。1908年5月初土俵、序二段優勝と三段目優勝を記録し、1915年1月十両昇進。1916年5月に入幕し、1921年1月には小結に昇進した。小兵だが食い下がって鋭く寄るか押す地味ながら正攻法の取り口で、時に鋭い投げも見せた。1924年5月に廃業した。 錦山 虎吉→明(あきらか) 虎吉(1909年6月場所-)→阿蘇ヶ嶽 梶右エ門(1919年1月場所-)→阿蘇ヶ嶽 寅吉(1924年1月場所-)
大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治2… 大野 熊雄(大野 久磨夫、おおの くまお、1889年〈明治22年〉11月6日 - 1981年〈昭和56年〉6月1日)は、日本の武道家、弁護士。 熊本市生まれ。大野家は熊本藩藩主細川氏の家臣であった。熊雄は幼時より熊本藩伝の新陰流剣術、伯耆流居合術を修行し免許皆伝を授かる。熊本県中学済々黌、京都帝国大学経済学部、法学部を卒業。 東亜同文書院教授、大阪毎日新聞記者、京都帝国大学学生主事を歴任。大日本武徳会で武道の修練、大映京都撮影所で剣戟映画指導も行った。著書に『剣士内藤高治』、『剣士一代』、『日本名刀伝』がある。 1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬したが落選した。
堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月… 堅山 南風(かたやま なんぷう、1887年〈明治20年〉9月12日 - 1980年〈昭和55年〉12月30日)は、熊本県熊本市出身の日本画家。本名は堅山 熊次。 横山大観に認められ、院展、日展などで活躍した。花鳥画、特に鯉を中心とする秀逸な魚類を描いた。1914年(大正3年)の日本芸術院再興にも加わり、同芸術院常務理事、日展参事などを務めた。ほか、熊本市名誉市民、文化功労者、文化勲章受章者であり、大正から昭和にかけての日本画界を支える中核だった。代表作に「白雨」。 1887年9月12日、熊本県熊本市に三男として生まれる。1888年に母を、1893年に父をと早くに父母を失い、以後祖父によって養育された。
古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)… 古荘 四郎彦(ふるしょう しろひこ、1884年(明治17年)7月18日 - 1967年(昭和42年)10月24日)は、日本の銀行家。初代千葉銀行頭取、千葉工業大学理事。千葉銀行レインボー事件で有罪となった。熊本県熊本市出身。陸軍大将の古荘幹郎はいとこ。 熊本藩士・古荘幹実の四男として生まれる。第五高等学校 (旧制)を経て、1912年(大正元年)東京帝国大学独法科を卒業、帝国商業銀行(後の富士銀行)に入行する。支配人まで昇進したのち、1923年(大正12年)に、帝大同窓の業界仲間で親しい友人の河合良成の紹介で、河合の弟の岳父川崎八右衛門 (2代目)が経営する川崎銀行の営業局長代理に転進。1925年(大正14年)には川崎系の房州銀行と安房銀行が合併して発足した安房合同銀行の常務に就任する。
阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - … 阿部 嘉八(あべ かはち、1884年(明治17年)2月 - 1938年(昭和13年)5月18日)は、日本の外交官、実業家。在シカゴ帝国領事、在バンクーバー帝国領事、大阪鐵工所取締役等を歴任した。 熊本県熊本市生まれ。壷川小学校を経て、1900年(明治33年)熊本商業学校卒業。1904年(明治37年)東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、大阪商船に入社。1906年(明治39年)同校専攻部卒業。柔道部出身。1907年(明治40年)外交官試験に合格し、領事官補任官。1908年(明治41年)在ホノルル総領事代理。1909年(明治42年)在サンフランシスコ領事官補。 1910年(明治43年)在シアトル領事官補。
新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月… 新開 渧観(しんかい ていかん、1883年(明治16年)8月5日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。福岡県八幡市長。神奈川県小田原町長。茨城県日立市長。 熊本県熊本市出身。1900年(明治33年)に第五高等学校に入学し、1903年(明治36年)に卒業。その後、東京帝国大学法科大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業し、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。群馬県警視、同事務官、栃木県理事官、宮崎県警察部長、岩手県警察部長、愛知県警察部長などを歴任。1921年(大正10年)からは石川県内務部長を務めた。 退官後の1926年(大正15年)には八幡市長に就任した。1935年(昭和10年)には小田原町長に選ばれ、さらに1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで日立市長を務めた。
内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977… 内藤 濯(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)は、フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。
荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月2… 荒川 真郷(あらかわ まさと、1881年(明治14年)7月25日 - 1951年(昭和26年)10月26日)は、日本の陸軍軍人、政治家。衆議院議員、陸軍少将。 熊本市出身。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。1903年(明治37年)2月12日、歩兵少尉に任官。その後、日露戦争・済南事件に従軍した。1928年(昭和3年)8月10日、歩兵大佐に昇進し富山連隊区司令官に就任。1931年(昭和6年)8月1日、歩兵第21連隊長に転じた。1933年(昭和8年)8月1日、陸軍少将に進級し待命となり、同年8月30日、予備役に編入された。 その後、熊本県選挙粛正地方委員、九州司法保護事業聯盟評議員、熊本県社会教育協会副会長、帝国在郷軍人会熊本市聯合分会長などを務めた。
小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月1… 小山 令之(おやま よしゆき、1881年(明治14年)4月14日 - 1938年(昭和13年)10月25日)は、衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 熊本県飽田郡奥古閑村(天明村、天明町を経て現熊本市南区)出身。熊本中学校、第五高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。卒業後は熊本中学の教諭兼舎監となったが、辞して熊本市で弁護士を開業した。 熊本県会議員を2期務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 その後、満州に渡り、弁護士業のかたわら熊本海外協会満洲本部長に就任した。奉天市で客死。
橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)… 橋本 信次郎(はしもと しんじろう、1879年(明治12年)4月11日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。内国通運(現:日本通運)社長、極東煉乳(現:明治)創業者及び専務。東京市会議員。 橋本忠次郎の長男で、熊本県熊本市出身。工手学校卒業。1916年(大正5年)家督相続。父が創業した土木鉱山業の橋本店を受け継ぎ、北海道倶知安の鉄山売却で手腕を発揮する。1917年(大正6年)極東煉乳創業者の1人として取締役となる。1921年(大正10年)千原伊之吉を利用して河村寛裕一派の工作によるお家騒動で内国通運を乗っとる形で社長就任。1923年(大正12年)同社長辞任。 1929年(昭和4年)3月、東京市会議員となり、関東大震災からの復興に携わる。
岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日… 岡本 佃(おかもと つくだ、1878年(明治11年)7月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。北海道釧路市長。 熊本県下益城郡隈庄町(現在の熊本市南区)出身。日本大学に学び、1907年(明治40年)11月に文官高等試験に合格した。熊本県属、同警視、香川県事務官、同理事官・視学官、福島県警察部長などを歴任した。1919年(大正8年)に海軍事務官・臨時南洋群島防備隊民政部附となり、翌年からは台湾総督府に転じ、台北州警察部長、新竹州内務部長、警務局警務課長を歴任した。 退官後の1926年(大正15年)1月18日に釧路市長に選出された。1月20日に就任、市の基盤整備に尽力し、1927年(昭和2年)6月7日に市長を退任した。
井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4… 井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4月30日 - 1959年〈昭和34年〉3月18日)は、明治後期から昭和前期の工学者、政治家。工学博士、貴族院子爵議員。 熊本県出身。熊本藩儒学者・岡松甕谷の四男として生まれ、井上毅の養嗣子となる。1895年(明治28年)4月5日、養父の死去に伴い子爵を襲爵。東京府尋常中学、第一高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を優等で卒業し銀時計を授与された。さらに大学院に進み、同時に工科大学講師に就任。1900年(明治33年)2月、東京帝大工科大学助教授に進んだ。1901年(明治34年)9月、採鉱冶金学研究のため留学し、ドイツ、アメリカで学んだ。
宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日… 宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日 - 昭和49年(1974年)2月19日)は、日本の儒学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京大学名誉教授。 1875年、熊本県熊本市出身。熊本藩士・宇野丈九郎の四男。済々黌、東京帝国大学漢学科卒業。卒業時には成績優秀者として恩賜の銀時計を明治天皇から賜る。 1907年(明治40年)前後、東京帝大助教授として、清朝末期の中国大陸に留学。同世代の東洋史学者桑原隲蔵と共に旅行している。次いで帝政期のドイツ留学、知見を得た西洋哲学の手法で中国哲学を読み解き講義著述した。東京帝国大学文学部支那哲学講座教授を務めた。この頃、渋沢栄一に頼まれて孫の渋沢敬三の家庭教師として月に1回『論語』の講義をした。
井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日… 井島 義雄(いじま よしお、1875年(明治8年)3月10日 - 1920年(大正9年)6月27日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 熊本県熊本市出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。弁護士を開業し、熊本市会議員、熊本県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他に肥後酒精株式会社監査役を務めた。
深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月… 深水 清(ふかみ きよし、明治2年5月10日(1869年6月19日) - 昭和17年(1942年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→国民同盟)。ジャーナリスト。 熊本市出身。1894年(明治27年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。朝鮮に渡り、『漢城新聞』主幹、日韓殖産株式会社取締役、『京城日報』主幹を務めた。さらに京城居留民団議員、京城学校組合議員、京城商業会議所副会頭などを歴任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第18回でも再選を果たした。 その他、熊本米穀取引所理事、九州日日新聞社社長を務めた。