岡 久雄(おか ひさお、1925年6月29日 - )は、日本… 岡 久雄(おか ひさお、1925年6月29日 - )は、日本の電気技術者、工学博士。三菱電機代表取締役副社長や、新エネルギー・産業技術総合開発機構理事長、日本オペレーションズ・リサーチ学会会長、電気学会会長、日本YMCA同盟委員長等を歴任した。 宮城県仙台市生まれ。1943年宮城県工業学校(現宮城県工業高等学校)電気工学科、1952年東北大学工学部電気工学科卒業、三菱電機入社。半導体デバイスの研究開発に従事し、1962年には東北大学工学博士の学位を取得。1972年北伊丹製作所電力半導体部長。1978年LSI開発センタセンタ長。1980年LSI研究所所長。1983年取締役LSI研究所所長。1985年常務取締役開発本部長。
豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年… 豊田 章一郞(とよだ しょういちろう、1925年(大正14年)2月27日 - )は、日本の実業家、技術者。勲等は桐花大綬章。学位は工学博士(名古屋大学・1955年)。トヨタ自動車株式会社名誉会長、日本経済団体連合会名誉会長、株式会社デンソー取締役、東和不動産株式会社取締役会長、社会福祉法人恩賜財団済生会会長、学校法人海陽学園理事長(初代)、学校法人トヨタ学園理事。
古賀 義根(こが よしね、1925年1月1日 - 2014年… 古賀 義根(こが よしね、1925年1月1日 - 2014年9月23日)は、日本の技術者、実業家。東陶機器(現TOTO)社長や、日本セラミックス協会会長、九州・山口経済連合会(現九州経済連合会)副会長、北九州商工会議所会頭等を歴任した。正四位勲二等瑞宝章。藍綬褒章受章 佐賀県唐津市出身。1947年東京工業大学窯業学科卒業後、東陶機器(現TOTO)に入社し、衛生陶器の開発に従事。インドネシア進出担当役員等を経て、1987年からは社長を務め、アメリカ合衆国に子会社を設立するなど、国際化を進めた。1988年藍綬褒章受章。1992年に社長を退任し、同年から10年間北九州商工会議所会頭を務め、末吉興一市長とともに北九州都市圏の再興にあたった。
上原 浩(うえはら ひろし、1925年 - 2006年5月1… 上原 浩(うえはら ひろし、1925年 - 2006年5月1日)は、日本の酒造技術者、元財務局課税物件鑑定官、元鳥取県工業試験場技師、鳥取県酒造組合連合会技術顧問、蔵元交流会常任顧問、日本酒サービス研究会(SSI)最高技術顧問、ここに美酒あり選考会審査委員長、鳥取県出身。 生前は「日本酒界の重鎮」、「生き字引」とも言われたが、大変な「毒舌家」としても知られる。 漫画家・尾瀬あきらは上原が顧問を務める「蔵元交流会」の特別会員である。上原が指導のため九州へ行く時でも、東北を回る時でもペンとカメラを持って付いて行き、そして酒についてあれこれ質問をする。漫画のネタを仕込むためとの理由であり、尾瀬の熱心な取材により代表作の『夏子の酒』(モーニング、講談社)のネタ元になっている。
鈴木 哲夫(すずき てつお、1924年12月5日 - 201… 鈴木 哲夫(すずき てつお、1924年12月5日 - 2015年6月15日)は、日本の技術者、実業家。HOYA中興の祖・元名誉会長。 愛知県瀬戸市生まれ。1943年東京工業大学(のちの東京科学大学)付属高等工業教員養成所卒業。 1944年東洋工学硝子製造所(現HOYA)技術長。1949年同社取締役工場長に昇格。1957年に岳父であり同社創業者の山中茂が病で倒れたため、その跡を受けて代表取締役社長に就任、5年間で売り上げを10倍の20億円に拡大し、社名を保谷硝子に変更、1961年に東証2部に株式上場を果たしたが、昭和40年不況により赤字・無配となり、1967年相談役に降格。 1970年代表取締役社長に復帰。
久保田 博(くぼた ひろし、1924年9月5日 - 2007… 久保田 博(くぼた ひろし、1924年9月5日 - 2007年1月18日)は、日本の鉄道技術者、鉄道研究家。 鉄道省の職員(機関士)の子として、長野県諏訪市上諏訪に生まれる。 1946年秋、大阪大学工学部を卒業し、運輸省に入省。1年間の鉄道現場研修の後、鷹取工場(兵庫県)に配属される。1949年に日本国有鉄道(国鉄)が運輸省から独立発足した際、国鉄に移籍。 以後、長野工場→本社勤務→仙台鉄道管理局・東北支社→中部支社(名古屋)と渡り歩き、小倉工場長を最後に国鉄を退職。その後、高砂熱学工業の技師長や東北大学の講師などを務めた。国鉄本社勤務時代には青梅鉄道公園の保存機関車の選定に携わったことがある。
丸山 弘志(まるやま ひろし、1924年(大正13年)7月1… 丸山 弘志(まるやま ひろし、1924年(大正13年)7月15日 - 2007年(平成19年)10月10日)は、日本の運輸官僚、超電導リニア研究者、鉄道技術者、鉄道工学者、交通工学者、安全工学者、生産工学者、機械工学者、精密工学者、工学博士。元日本国有鉄道鉄道技術研究所所長、元科学技術庁参与、元文部科学省参与、元材料技術研究協会理事、元研友社顧問、元日本規格協会評議員、日本機械学会名誉員、東京理科大学名誉教授。弟の桑名昭治は桑名病院2代目院長。
笹山 幸俊(ささやま かずとし、1924年〈大正13年〉6月… 笹山 幸俊(ささやま かずとし、1924年〈大正13年〉6月15日 - 2011年〈平成23年〉12月10日) は、日本の政治家、土木技術者。位階は正四位。勲等は勲一等。 神戸市都市計画局長、神戸市助役、神戸市長などを歴任した。 神戸市役所にて都市計画局次長や都市計画局計画部長、都市計画局長を歴任し、1981年12月に神戸市助役に就任した。1989年、市役所内の派閥を大きく二分した熾烈な神戸市長選挙では、同じく神戸市助役だった宮岡寿雄を破り初当選を果たし、以後、3期12年間に渡って神戸市長を務めた。 市長在任中に発生した兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災で神戸市は大きな被害を受けたため、その復興に尽力した。
江守 一郎(えもり いちろう、1924年5月12日 - 19… 江守 一郎(えもり いちろう、1924年5月12日 - 1996年12月30日)は日本の技術者、工学者。交通工学・模型実験などの研究を行っていた。東京都出身。模型実験、交通事故鑑定人の第一人者とされる。 監修・参考資料提供を務めた漫画「交通事故鑑定人 環倫一郎」の主人公である環倫一郎のモデルとなっており、作品で取り上げた事件は江守が解決した事件である。 1949年に東京大学工学部機械工学科を卒業後、ミシガン大学に留学。無一文であったため肉体労働をしながら大学に通い、1952年にミシガン大学機械工学科、理論工学科を修了する。 しかし留学した3年間というブランクがあったため社会から相手にされずブラジルの永住許可を取り日本を離れる。
竹鶴 威(たけつる たけし、1924年〈大正13年〉3月6日… 竹鶴 威(たけつる たけし、1924年〈大正13年〉3月6日 - 2014年〈平成26年〉12月17日)は、広島県福山市出身の日本の実業家で、ウイスキー製造者、技術者、会社経営者。ニッカウヰスキー(アサヒビールグループ)の元社長であり、同社の2代目マスターブレンダー。 叔父、後に養父は竹鶴政孝。息子はブランディングコンサルタントの竹鶴孝太郎。従妹は竹鶴リマ。
宮下 稔(みやした みのる、1924年1月12日 - 200… 宮下 稔(みやした みのる、1924年1月12日 - 2007年8月11日)は、日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 鳥取県岩美郡岩美町出身。1945年、京都帝国大学工学部機械工学科卒業後、当時の京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して発足。企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社。車両部門(守口車両部)に配属される。元は軍艦の建造を志望していたが、太平洋戦争の敗戦により鉄道に方向を変更した。 1949年に京阪電気鉄道が京阪神急行電鉄から分離して再発足すると京阪に移り、1967年に車両部長となる。この時代に通勤電車の混雑対策として、日本で初となる5扉通勤電車の京阪5000系電車(1970年製造)を開発した。
橋本 健(はしもと けん、1924年 - 2007年2月22… 橋本 健(はしもと けん、1924年 - 2007年2月22日)は、日本の電気技術者、著作家。 「幸福科学研究所」設立者。日本超科学会を主宰し、超常現象に関する多数の著書を残した。 アルファ波発生装置「アルファコイル」などの発明者としても知られた。 仙台市生まれ。1943年に旧制姫路高等学校、次いで1945年に東京帝国大学に入学した。同年秋、第二次世界大戦終結後に『生命の實相』に触れ、大いに感化される。1948年、東京大学工学部電気工学科を卒業した後、生長の家の活動に入る。 その後、1955年に富士電工に入社して、諸々の発明に従事し、1982年には黄綬褒章を受章した。 1963年に『超心理学入門』を出版したのを皮切りに、超常現象などについての著書を多数刊行し、1973年に日本超科学会を創設した。
齊藤 喜久蔵(さいとう きくぞう、1923年11月30日 -… 齊藤 喜久蔵(さいとう きくぞう、1923年11月30日 - 2003年9月8日)は、日本の技術者・実業家。大昭和製紙社長・会長を務めた。 静岡県出身。齊藤知一郎の三男。大昭和製紙2代目社長の齊藤了英(知一郎の長男)と政治家で静岡県知事を務めた齊藤滋与史(知一郎の次男)は兄、政治家で防衛庁長官を務めた齊藤斗志二(了英の次男)と大昭和製紙監査役の齊藤知三郎(了英の三男)、ジーク証券元会長兼社長の齊藤四方司(了英の四男)は甥。トヨタ自動車名誉会長豊田章一郎は次兄・滋与史の義兄にあたる。日本大学旧工学部(現日本大学理工学部)卒。 知一郎の5人の息子の中で唯一技術者の道を歩み、大昭和製紙入社後は技術部長、白老工場長等を歴任した。
楠 兼敬(くすのき かねよし、1923年7月12日 - 20… 楠 兼敬(くすのき かねよし、1923年7月12日 - 2020年9月16日 )は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車取締役副社長や、日野自動車工業取締役会長、中部インダストリアル・エンジニアリング協会会長等を歴任した。 福岡県福岡市生まれ。1946年東北帝国大学工学部機械工学科卒業、トヨタ自動車工業入社。大野耐一に師事し、1972年トヨタ自動車工業取締役特殊部品製造企画室長に昇格。1975年トヨタ自動車工業取締役生産管理部長。1978年トヨタ自動車工業常務取締役衣浦工場長、生産管理部、安全環境部担当。1982年トヨタ自動車工業専務取締役生産関係部門統括。 1984年からトヨタ自動車取締役副社長として、生技生産部門を統括し、好川純一を生産調査室トップに起用するなどし、工場でのトヨタ生産方式の徹底を推し進めた。
武田 郁夫(たけだ いくお、1923年4月6日 - 2012… 武田 郁夫(たけだ いくお、1923年4月6日 - 2012年7月4日)は、日本の製造技術者、実業家。タケダ理研工業(現在のアドバンテスト)創業者。 愛知県出身。1943年4月に日本大学旧工学部電気科に入学した。1944年に学徒動員により逓信省電気試験所(現在の産業技術総合研究所)の神代分室に勤務した。 1945年日本大学電気工学科卒。戦後の1945年11月に電気試験所に正式に採用された。 1950年11月にレッドパージにより電気試験所を退職し、千野製作所(現在のチノー)を退職した3人の技術者とともに八島製作所を創業した。 その後、1954年6月に愛知県豊橋市でタケダ理研工業株式会社を設立した。
中村 恒也(なかむら つねや、1923年(大正12年)3月8… 中村 恒也(なかむら つねや、1923年(大正12年)3月8日 - 2018年(平成30年)12月25日)は、日本の技術者、実業家。セイコーエプソン代表取締役社長を務めた。 山形県酒田市出身。山形県立酒田中学校(現・山形県立酒田東高等学校)を経て、1944年日本大学理工学部機械工学科卒業、第二精工舎(現・セイコーインスツル)入社。1945年に、別会社である株式会社第二精工舎諏訪工場(第二精工舎諏訪工場→諏訪精工舎→セイコーエプソン〈現〉)に転籍した。1956年機械式腕時計「マーベル」を独自に設計し商品化。1959年自動巻腕時計「ジャイロマーベル」を開発。 1963年に諏訪精工舎取締役に就き、1964年東京オリンピックで使用するクォーツ時計の開発プロジェクトリーダーを務めた。
中村 正(なかむら ただし、1923年 - 2013年)は、… 中村 正(なかむら ただし、1923年 - 2013年)は、日本の技術者。三重県伊勢市出身。学位は工学博士。 1966年蛍光表示管を発明、伊勢電子工業株式会社(現・ノリタケ伊勢電子)を創業した。後年は、技術者であるとともに、伊勢に伝わる通能(とおりのう)を舞うことで、地方伝統文化継承にも尽くした。
一色 尚次(いっしき なおつぐ、1922年(大正11年)11… 一色 尚次(いっしき なおつぐ、1922年(大正11年)11月1日 - 2013年(平成25年)6月22日)は、日本の工学者・エンジニア。工学博士(東京大学)、東京工業大学名誉教授。熱力学や伝熱工学、タービンや原動機を専門とし、濃度差エネルギーエンジンやスターリングエンジンの研究で特に有名である。熱力学や伝熱学の教科書執筆も手掛けた。妻は恵泉女学園特別顧問の一色義子。 船舶技術研究所機関開発第2部長、東京工業大学教授、日本大学教授、日本機械学会会長などを歴任。晩年はスターリングテクノラリー技術会会長やNPO日本スターリングエンジン普及協会名誉会長を長く務めた。逝去後には、スターリングエンジンの顕著な貢献を顕彰する「一色尚次賞」が設けられている。
山本 健一(やまもと けんいち、1922年9月16日 - 2… 山本 健一(やまもと けんいち、1922年9月16日 - 2017年12月20日)は、元旧海軍出身の技術者将校で、戦後東洋工業(現・マツダ)に入社し、開発リーダーとして世界で初めてロータリーエンジンの実用化に成功した自動車技術者。のち同社代表取締役社長、最高顧問などを務めた。 広島県人の父親が日窒の熊本県の工場長時代に熊本で生まれる。日窒の東洋工業と資本提携で広島県に戻り、父の実家がある広島市白島(現在の広島市中区東白島町)に移り住む。原爆で妹を亡くしたが、父と母は生き残った。 1944年(昭和19年)9月に、東京帝国大学(現在の東京大学)第一工学部機械工学科を繰り上げ卒業。同時に川西航空機に入社する。
中込 雪男(なかごめ ゆきお、1922年5月22日 - 20… 中込 雪男(なかごめ ゆきお、1922年5月22日 - 2014年8月18日) は、日本の技術者。国際電信電話副社長、国際ケーブル・シップ社長、電子情報通信学会副会長、テレビジョン学会会長などを歴任した。紫綬褒章受章。 山梨生まれ。1949年東京工業大学電気工学科卒業、逓信省入省、電気通信研究所方式実用化部電信課。1960年東京工業大学工学博士。1973年前島密賞受賞。1976年国際電信電話研究所(のちのKDDI総合研究所)所長。1978年科学技術庁長官賞受賞。1980年国際電信電話研究所取締役、テレビジョン学会評議員。1981年電子通信学会編集長。1983年紫綬褒章受章。1984年国際電信電話常務取締役。
林 政義(はやし まさよし、1922年5月12日 - 201… 林 政義(はやし まさよし、1922年5月12日 - 2014年4月26日)は、日本の電気技術者。中部電力代表取締役副社長や、動力炉・核燃料開発事業団理事長、新エネルギー・産業技術総合開発機構理事長、日本原子力学会会長等を歴任した。 1946年名古屋帝国大学工学部卒業、中部配電入社。1961年中部電力本店東名古屋送変電建設所次長。1969年中部電力名古屋支店次長。1972年中部電力支配人本店系統運用部長。1977年中部電力取締役長野支店長。1979年中部電力常務取締役。1981年中部電力取締役副社長。1983年中部電力代表取締役副社長。1984年動力炉・核燃料開発事業団理事。1986年動力炉・核燃料開発事業団理事長、中部電力顧問。
宇都宮 敏男(うつのみや としお、1921年(大正10年)1… 宇都宮 敏男(うつのみや としお、1921年(大正10年)11月20日 - 2009年(平成21年)11月26日)は、昭和時代から平成時代の電気工学者、通信技術者。 香川県に生まれる。戦時体制中の1943年(昭和18年)9月に半年繰り上げで東京帝国大学第一工学部電気工学科を卒業。卒業後は、内定していた海軍技術士官への道を捨て、新しく発足した大学院特別研究生となり5年の研究生活を送る。特別研究生満了後、東京帝国大学助教授、教授を歴任し、1982年(昭和57年)定年退官後は東京理科大学教授、嘱託教授、非常勤講師を歴任した。その間、1959-60年(昭和34-35年)には文部省在外研究員としてアメリカのコロンビア大学の客員助教授を務めた。
中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 -… 中島 平太郎(なかじま へいたろう、1921年3月19日 - 2017年12月9日)は、デジタルオーディオ技術の草分け的人物とされる日本の技術者である。コンパクトディスク メディア(CD-DA規格) 開発においてソニー側の責任者で、「CDの父」とも呼ばれる。福岡県久留米市生まれ。任意団体CDs21ソリューションズ会長。ビフレステック株式会社代表取締役会長。 CD-DAはソニーとフィリップスの共同開発だが、中島はそのソニー側の責任者だった。規格制定の貢献度は両社50%ずつと公式に発表されているが、技術コンペを経てソニー側が主張した技術が多く採用されている。 デジタル録音可能メディアであるDATとCD-Rにおいて音楽著作権の在り方に関し、日本レコード協会としばしば対立した。
盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 199… 盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 1999年10月3日)は、日本の技術者、実業家。井深大と共に、電気機器メーカーソニー創業者の一人。1992年(平成4年)、名誉大英帝国勲章を受勲。
馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術… 馬野 周二(うまの しゅうじ、1921年- )は、日本の技術者、著作家。工学博士、技術士。 専門分野(化学)の論文、報告書の他、国際政治や国際経済についての著書を多数執筆した。 父親は内務省官僚であり、朝鮮総督府の高官であった。 山口県に生まれる。1931年、小学校4年生の時に父親の退官に伴い、朝鮮半島より内地(愛媛県松山)に戻る。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を経て、1946年、慶應義塾大学工学部応用化学科卒業。慶應義塾大学大学院工学研究科在学兼東京大学第一工学部付属試験所嘱託。1949年、通商産業省に技官として入省。1961年、通商産業省(課長)を退任後、創立間もないニューヨーク工科大学教授に就任。
深海 正治(ふかうみ まさはる、1920年(大正9年)2月2… 深海 正治(ふかうみ まさはる、1920年(大正9年)2月21日 - 2021年(令和3年)5月28日)は、日本の技術者。 オリンパス光学工業専務、オリンパス精機社長。 佐賀県出身。久留米高等工業学校(現 : 九州大学工学部)精密機械科を卒業後、旧海軍の技術士官に採用され、大尉に任官。終戦まで機銃や零式艦上戦闘機の同調発射装置の設計を担当。 終戦後の1948年(昭和23年)にオリンパス光学工業に入社。1949年(昭和24年)、諏訪工場から杉浦睦夫が主任技師を務める研究所に異動。東京大学医学部附属病院副手の宇治達郎から胃の内部を撮影するカメラの製作を杉浦とともに依頼され、海軍時代に銃身内部の検査を行う装置を研究していたことを活かし、食道よりも細い管の中にカメラの全ての機能を詰め込む設計を考案。
今村 好信(いまむら よしのぶ、1919年(大正8年)12月… 今村 好信(いまむら よしのぶ、1919年(大正8年)12月3日 - )は、日本の技術者。日立機電工業の元取締役社長、名誉相談役。大日本帝国海軍の魚雷艇開発史についての著作がある。 1919年12月3日に、愛媛県上分町(現在の四国中央市の一部)で、今村家の二男一女の次男として生まれる。愛媛県立三島中学校(愛媛県立三島高等学校の前身の旧制中学校)、松山高等学校理科乙類を経て、1942年9月に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。 大学卒業後、日立製作所に入社するが、太平洋戦争中であったため、ただちに海軍の短期現役技術科士官に志願する。見習尉官としての半年の教育を経て、造機技術大尉(第32期技術科士官)として呉海軍工廠造機部機械工場や艦政本部5部で服務し、新兵器であった魚雷艇のエンジン開発などに従事する。
大和田 国男(おおわだ くにお、1919年12月3日 - 2… 大和田 国男(おおわだ くにお、1919年12月3日 - 2003年3月24日)は、日本の技術者、実業家。不二越代表取締役社長や、日本プラントメンテナンス協会会長などを務めた。 東京府北豊島郡滝野川町(現東京都北区)生まれ。旧制小学校を首席で卒業後、東京府立化学工業学校(のちの東京都立化学工業高等学校)を経て、1941年に横浜高等工業学校(のちの横浜国立大学理工学部)機械科卒業。同年東京工業大学機械工学科へ進学。 東京工業大学在学中に海軍学生となり、1943年に大学を繰り上げ卒業後、豊川海軍工廠機銃部配属。九九式二〇ミリ機銃、五式三十粍固定機銃などを担当し、大日本帝国海軍技術大尉として日本の降伏時を迎えた。
百瀬 晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日 - 19… 百瀬 晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日 - 1997年1月21日)は日本の航空機・自動車技術者。 富士重工業の四輪自動車ブランド「スバル」の初期車種開発(1951年 - 1960年代)で設計統括を担い、日本の自動車史における卓越したエンジニアの一人に数えられる。主な作品に、日本初のモノコック構造リアエンジンバス「ふじ号」、スバル・360、初代スバル・サンバー、スバル・1000などがある。 1919年(大正8年)2月に、長野県塩尻市の造酒家の家に生まれる。松本高等学校 (旧制)を経て、1939年に東京帝国大学工学部航空学科へ入学し原動機を専攻。1941年12月の卒業後、翌1942年1月に中島飛行機株式会社に入社。
岩間 和夫(いわま かずお、1919年2月7日 - 1982… 岩間 和夫(いわま かずお、1919年2月7日 - 1982年8月24日)は日本の技術者、経営者、実業家である。第4代ソニー社長。トランジスタに着目し、日本における半導体産業の基盤を創った男ともいわれた。愛知県名古屋市出身。
齋藤 雅男(さいとう まさお、1919年 - 2016年)は… 齋藤 雅男(さいとう まさお、1919年 - 2016年)は、日本の鉄道技術者。 福岡県福岡市で、祖父は医学士、父はレントゲン技師という家庭に生まれる。戦時中に早稲田大学理工学部(機械工学)を卒業し、陸海軍技術将校となる。戦後、運輸省に入省するが、同省から鉄道部門が日本国有鉄道(国鉄)として独立した際そこに移籍、以降、東海道新幹線での安定化・輸送力増強に尽力したのを始め、内外の鉄道技術やシステムに深く関与。国際連合開発計画エグゼクティブ・アドバイザー、鉄道工学専門家。台湾高速鉄道では、審査官を務め、島隆とともに日本の技術供与にも尽力し、開業後もコンサルタントとして何度も台湾に渡航していた。2016年に死去。
星 晃(ほし あきら、1918年〈大正7年〉12月13日 -… 星 晃(ほし あきら、1918年〈大正7年〉12月13日 - 2012年〈平成24年〉12月8日)は、日本の鉄道車両技術者である。元日本国有鉄道(国鉄)副技師長、元川崎重工業常務取締役車両事業本部長。富山県富山市出身。 1950年代から1960年代にかけての国鉄最盛期に、旅客車両(電車・客車)の開発に携わり、革新的な新型車両群を産み出した国鉄技術者の一人として知られる。当時の車両設計技術やデザイン、接客設備など多方面の質的向上に、大きな役割を果たした。 また鉄道趣味界にも深く携わり、この方面でも同業の後継人物にとって貴重な資料・文献とされる多くの著述がある。 1942年9月東京帝国大学第一工学部機械工学科を卒業し、鉄道省入り。
杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 19… 杉浦 睦夫(すぎうら むつお、1918年3月13日 - 1986年8月26日)は、日本で初めて胃カメラを開発した技術者である。 静岡県浜松市生まれ。1938年4月にオリンパス光学工業株式会社に入社。35ミリカメラの開発などに取り組む。 1949年7月、東京大学付属病院小石川分院の外科医、宇治達郎が勤務先のオリンパス光学工業に相談に来て、杉浦がその対応にあたった。胃の中の写真を撮る「胃カメラ」を開発したいが可能かどうか尋ねられたところ、「光があり、レンズがあり、フィルムがあればたとえカメラがどこにあっても撮影は出来る」という内容にて回答したという。当時は胃の病気の診断を、レントゲンか胃鏡で実施していたが、レントゲンでは胃の内壁まではわからず、胃鏡では診断できる者が少ない上、確認しづらい部分があることや患者に与える苦痛も大きかったという状況であった。
織本 匠(おりもと たくみ、1918年 - 2001年)は、… 織本 匠(おりもと たくみ、1918年 - 2001年)は、日本の構造家・構造設計技術者・構造学者・武蔵野美術大学名誉教授・織本匠構造設計研究所(現:織本構造設計)創立者。 織本姓は義父である織本道三郎に由来する。旧姓は佐伯。 1942年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業した。卒業後は鹿島建設に入社した。 親交のあった芦原義信が中央公論社ビルを設計する際に構造設計を担当した際、独立を企図していた芦原に協力するため独立に踏み切り、1956年に織本匠構造設計研究所(現・織本構造設計)を設立する。一方、1965年に武蔵野美術大学に建築学科の教授に就任し、1970年には主任教授となった 。 1984年に織本匠構造設計研究所の社長を退任し、2年後には武蔵野美術大学建築学科も退職した。
山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は… 山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は日本の技術者。 累計1万台以上の山田風車が製造され、北海道はもとより、国内外の各地に設置されたが、各地の電化が進むにつれて、1960年代にはその役割を終えた。この数はウィンドファームが設置されている現在の日本国内での設置台数よりも多い。数々の特許を取得した。風トピアで実験の結果、弱風から発電を開始して、強風では独特の構造で風を避け、発電効率が高く、耐久性にも優れ、輸入機より高性能であることが実証された。当時製造された風力発電機は現在の基準でも遜色ない水準で費用対効果に優れていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
緒方 研二(おがた けんじ、1917年 <大正6年> 11月… 緒方 研二(おがた けんじ、1917年 <大正6年> 11月21日 - 2009年 <平成21年> 10月31日) は、日本の技術者。日本電気 (NEC)副社長や、NECエンジニアリング社長、テレビジョン学会会長、電子通信学会会長などを歴任した。従四位、勲二等瑞宝章受章。父は緒方竹虎元副総理。岳父に名和武。 福岡県福岡市出身。東京府立第四中学校、第一高等学校を経て、伊藤庸二の勧めで、1941年東北帝国大学工学部電気工学科を卒業した。在学中大日本帝国海軍委託生となり、1942年海軍技術士官に任官して、横須賀海軍工廠に配属され、横須賀砲術学校に入校した。 タラワ島や、マキン島でレーダーサイトの整備にあたったのち、海軍技術研究所に転属する。
風戸 健二(かざと けんじ、1917年7月 - 2012年6… 風戸 健二(かざと けんじ、1917年7月 - 2012年6月26日)は、日本の技術者、実業家。電子顕微鏡の開発と普及に努め、日本電子を設立した。 レーシングドライバーの風戸裕は次男。 千葉県長生郡茂原町(現・茂原市)に生まれる。1938年に海軍機関学校(46期)を卒業後、1944年11月からは海軍技術研究所電波研究部に勤め、奮龍の開発などに関わった。海軍在職時に、黒岩大助の著書『電子顕微鏡』を目にして電子顕微鏡への興味を抱いた。 太平洋戦争後に電子顕微鏡の開発研究に着手し、1949年に日本電子光学研究所(1961年に日本電子に改称)を設立して社長に就任した。1968年に日本電子顕微鏡学会会長を務める。
松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日… 松本 正雄(まつもと まさお、1917年(大正6年)6月1日 - 1986年(昭和61年)10月20日)は、日本の建築家・土木技術者、政治家。郷里である富山県小矢部市の市長を4期14年務めた。市長としては「メルヘン建築」の建設で知られる。 1917年(大正6年)、富山県西礪波郡東蟹谷村平桜(現在の小矢部市平桜)に生まれる。砺波中学校(現在の富山県立砺波高等学校)、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進む。 東京帝国大学工学部土木工学科を卒業後、内務省に入省。重要河川の改修工事に携わる。建設省北陸地方建設局長在任中の1969年(昭和44年)には、集中豪雨による富山大橋の橋桁沈下に対応した。同年、建設省を退官。
田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19… 田中 次郎 (たなか じろう、1917年〈大正6年〉1月19日 - 2017年〈平成29年〉9月28日[要出典])は、日本の航空機・自動車技術者。 立川飛行機入社後、陸軍に入隊し、陸軍機の各種エンジン評価を担当。1944年(昭和19年)から、軍籍のまま元の勤務先の立川飛行機にて、試作遠距離偵察爆撃機キ74の与圧室装備等の設計仕上げを担当。戦後、米軍にキ74とキ77を引き渡すための修理・整備を行う。 その後、立川飛行機から分離した東京電気自動車(後のたま電気自動車→たま自動車→プリンス自動車工業)にて電気自動車、そしてガソリン自動車の開発に従事する。 日産自動車と合併後、同社役員を経て、日産ディーゼル工業副社長を歴任し、1986年(昭和61年)、同社を顧問で退社。
福田 孝(ふくだ たかし、1916年(大正5年)12月25日… 福田 孝(ふくだ たかし、1916年(大正5年)12月25日 - 1998年(平成10年)8月19日)は、日本の技術者、実業家、経営者、フクダ電子創業者。 千葉県印旛郡大森町(現在の印西市)に生まれる。電機学校(現・東京電機大学)卒業後、大学で学んだ知識を医療に生かそうと、特に1930年代に登場した心電計に着目した。1939年(昭和14年)に独力で福田特殊医療電気製作所(現・フクダ電子)を創業。当時の心電計は直流電池を電源に真空管3本と可動鉄片型ガルバー、ゼンマイ式モーターを使った簡単な構造の心電計で、オシログラフペーパーに記録し現像するという代物だった。 戦後、交流電源を使うようになったが、今度は雑音が激しく専門家が操作を手助けするような状況で、まだまだ臨床での利用にはほど遠かった。
河西 健一(かさい けんいち、1916年(大正5年)10月3… 河西 健一(かさい けんいち、1916年(大正5年)10月31日 - 1992年(平成4年)2月16日)は、日本の鉄鋼技術者。
尾佐竹 徇(おさたけ となう、1916年(大正5年)10月1… 尾佐竹 徇(おさたけ となう、1916年(大正5年)10月12日 - 2006年(平成18年)7月17日)は、昭和から平成時代の電気工学者、通信技術者。 1941年(昭和16年)東京帝国大学工学部電気工学科卒業後、逓信省に入省する。その後、逓信省東京中央電気通信局岩槻無線分局長、通信院工作所東京第一工場長などを歴任する。1945年(昭和20年)、母校の東京帝国大学工学部助教授、1959年(昭和34年)東京大学教授となった。 電気通信工学を主な研究分野とし、周波数変調方式、電子交換方式、通信網構成論の分野において先駆的な研究を行った。大学外では、郵政省有線放送審議会、科学技術庁電子技術審議会、日本電信電話公社電気通信技術委員会などに参加した。
中野 友雄(なかの ともお、1916年2月10日 - 201… 中野 友雄(なかの ともお、1916年2月10日 - 2010年4月22日)は、日本の技術者、実業家。北海道電力代表取締役社長、北海道経済連合会会長などを務めた。勲一等瑞宝章、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章受章。 石川県羽咋郡志賀浦村(現志賀町)生まれ。北海道士別市出身。旧制旭川中学(現北海道旭川東高等学校)を経て、1941年北海道帝国大学工学部電気工学科卒業、日立製作所入社、日立工場回転機部配属。1942年大日本帝国陸軍八戸飛行場の第六航空教育隊入隊。ビルマの戦いに参加しシンガポールで日本の降伏を迎えた。レンパン島での捕虜生活を経て、1946年復員し北海道配電入社。1951年北海道電力入社。
長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 20… 長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 2008年4月29日)は、日本の技術者。 鳥取県鳥取市出身。1939年に東京帝国大学航空学科を卒業後、立川飛行機に入社。キ94の設計主務などを務める。キ94の翼型は「TH翼」という層流翼で、長谷川の研究の応用である(THは長谷川のイニシャル)。終戦に伴い、1946年にトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)に入社。初代トヨエースの主査を皮切りに、初代パブリカ、トヨタスポーツ800、初代カローラの主査を歴任した。1967年に取締役製品企画室副室長に就任、その傍ら初代セリカ・カリーナの開発主査を務める。またそういった量産車以外にもFRP製のスポーティな試作車23A(1956年)なども設計している。
仁杉 巌(にすぎ いわお、1915年〈大正4年〉5月7日 -… 仁杉 巌(にすぎ いわお、1915年〈大正4年〉5月7日 - 2015年〈平成27年〉12月25日)は、日本の鉄道技術者、実業家。第9代日本国有鉄道総裁(在任1983–1985年)。 東京市牛込区(現在の新宿区西五軒町)生まれ、静岡県駿東郡清水町で育った。1938年4月東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省入省。国鉄技師として長年勤め、1965年4月15日常務理事に就任した。この間1954年には信楽線の第一大戸川橋梁復旧の際、日本初の本格的なプレストレスト・コンクリート橋を採用し橋梁技術に革新を起こした。1966年には新幹線建設の功績より、紫綬褒章を受章、1968年4月に一旦国鉄を退く。 1971年6月1日顧問として西武鉄道に入社、同年11月1日取締役に選任され、専務取締役に就任、その後副社長となる。
久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22… 久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22日)は、テレビ技術者。静岡県生まれ。 松下電器製作所(現在のパナソニック)における、ラジオ、テレビの開発黎明期の中心的メンバーの一人である。
渋谷 巌(しぶや いわお、1914年9月28日 - 2003… 渋谷 巌(しぶや いわお、1914年9月28日 - 2003年12月13日)は、日本の航空技術者。中島飛行機の課長、東北大学の教授、富士重工業の常務などを務めた。戦前は一〇〇式重爆撃機「呑龍」の構造設計、超大型爆撃機「富嶽」の開発など、戦後はジェットエンジン「JO-1」の開発などを手掛けた。 旧制富山高校を経て、東京帝国大学に入学した。とくに航空を好きなわけではなかったが、数学が好きで難しいなら受けようと思い、難関の航空学科に受験したという。教師からは難しいが、渋谷なら入れるだろうと言われたという。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は東條輝雄、内藤子生、高山捷一などで「花の十二年組」と呼ばれた。
東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月2… 東條 輝雄(とうじょう てるお、1914年(大正3年)9月23日 - 2012年(平成24年)11月9日)は、昭和期の日本の航空技術者、実業家。 陸軍大将・第40代内閣総理大臣:東條英機の次男として東京府東京市(現東京都)にて出生。東京府立第六中学校、旧制福岡高等学校を卒業。当初は数学が好きなので数学の先生になることを考え、大学受験時に父に相談すると、飛行機を勧められ、航空学科を選択した。1937年(昭和12年)3月、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。同期は高山捷一、内藤子生、渋谷巌などで「花の十二年組」と呼ばれた。三菱重工業に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。ゼロ戦の設計チームに配属され、強度計算を担当した。
大島 信太郎(おおしま しんたろう、1914年8月5日 - … 大島 信太郎(おおしま しんたろう、1914年8月5日 - 1995年2月24日) は、日本の技術者。国際電信電話副社長や、電気通信学会会長、テレビジョン学会会長などを歴任した。紫綬褒章受章。 1940年九州帝国大学工学部電気工学科卒業、国際電気通信入社。名古屋大学工学部助教授を経て、1950年電気通信研究所入所。喜安善市の下で研究に従事した。1954年国際電信電話入社。1962年九州大学工学博士。国際電信電話取締役研究所長を経て、1977年国際電信電話副社長、電気通信学会会長。1979年テレビジョン学会会長。独創的電気通信研究を行った。紫綬褒章、勲三等旭日中綬章受章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
岡崎 文次(おかざき ぶんじ、1914年(大正3年)7月7日… 岡崎 文次(おかざき ぶんじ、1914年(大正3年)7月7日 - 1998年(平成10年)7月23日)は、日本の技術者。富士写真フイルム在籍時の1956年、ほとんど独力で国産初のプログラム記憶方式のコンピュータ「FUJIC」を開発した。 富士写真フイルム退職後、日本電気(NEC)を経て、専修大学経営学部が情報教育開始のため「情報管理学科」を設置する際に、初代教授として招聘された。 「科学朝日」1948年8月号のSSEC(Selective Sequence Electronic Caculator)の記事とグラビア写真を見て計算機の実現可能性を信じたことが、岡崎文次のFUJIC開発の動機である。