竹内 敏晴(たけうち としはる、1925年(大正14年)3月… 竹内 敏晴(たけうち としはる、1925年(大正14年)3月31日 - 2009年(平成21年)9月7日)は、東京生まれの日本の演出家。「竹内レッスン」と呼ばれる演劇的レッスンを基にした独自の「からだとことば」のワークショップを主宰した。 生後すぐに難聴になり耳がまったく聞こえなくなった後、少年期から青年期にかけて薬による治療効果で徐々に片耳が聞こえるようになり、一般には自然に済んでしまう言語習得を意識的に自力で行わなければならなかった、という特殊な経験と、その間培われた鋭敏な感覚により、人と人とが声やことばを本当には交わし合ってはいないこと、つまりふれあっていないことに気づき、演出家への道を歩む上で演技とは何かを追求することと相まって、演技レッスンにより、人と人との真のふれあいとは何か、出会いとは何かを探り、一人一人の人間的可能性を開くことを目指すようになる。
鴨川 清作(かもがわ せいさく、1925年1月23日 - 1… 鴨川 清作(かもがわ せいさく、1925年1月23日 - 1976年8月11日)は、日本の演出家である。元宝塚歌劇団理事。 宝塚歌劇団の演出家として活躍し、主にショーの作・演出を手がけた。代表作に『シャンゴ』、『ノバ・ボサ・ノバ』、『ラ・ラ・ファンタシーク』などがある。 大阪音楽大学卒業後、1954年に宝塚歌劇団に入団。1976年8月、自身が手がけた作品である『ノバ・ボサ・ノバ』の再々演初日の前日、脳梗塞のため死去。 2014年、『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして八千草薫等と共に殿堂表彰。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
瓜生 正美(うりゅう まさみ、1924年11月30日 - 2… 瓜生 正美(うりゅう まさみ、1924年11月30日 - 2021年6月27日)は、日本の劇作家・演出家。青年劇場顧問。 福岡県若松市(現・北九州市若松区)出身。旧制第五高等学校卒業、九州大学中退。 この項目は、舞台芸術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:舞台芸術)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
成瀬 昌彦(なるせ まさひこ、1924年9月30日 - 19… 成瀬 昌彦(なるせ まさひこ、1924年9月30日 - 1997年11月)は、日本の俳優、演出家。本名同じ。織田プロに所属していた。 東京市(現:東京都文京区)出身。日本大学専門部芸術科(現:日本大学藝術学部)卒業。劇団青年座初代座長。映画やテレビドラマにも数多く出演し、個性的な存在感を見せた。 1940年代から俳優座系の移動演劇団「芙蓉隊」に参加し、戦後も劇団俳優座に加わるが、創作演劇の上演を目指すべく1954年に脱退。森塚敏、山岡久乃、東恵美子、初井言榮ら有志と創作劇団「青年座」を立ち上げ、初代の座長として同劇団の礎を築く。彼らが育んだ青年座は後に大勢の人材を輩出し、今や日本を代表する大劇団となっている。
三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 19… 三木 のり平(みき のりへい、1924年4月11日 - 1999年1月25日)は、日本の俳優・演出家・コメディアン。日本喜劇人協会第5代会長。本名は田沼 則子()。長男は、コメディアンの小林のり一。 東京市日本橋区浜町(現:東京都中央区日本橋浜町)生まれ。母は待合「芳柳」を営んでいた。 1942年、旧制日本大学第一中学校を卒業。日本大学法文学部芸術学科に入学し、同期生には映画科に小沢茂弘・沼田曜一がいた。大学には当初画家を目指して入学したが、その後舞台美術に興味を持ったことで演劇学科に転籍し、1947年に同学科を卒業。 その後慰問公演の俳優に欠員が出てその穴埋めとして出演を頼まれたのを機に、新劇の世界に入ることになった。
安部 公房(あべ こうぼう、本名:漢字同じ(あべ きみふさ)… 安部 公房(あべ こうぼう、本名:漢字同じ(あべ きみふさ)、1924年〈大正13年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。東京府北豊島郡(現:東京都北区)出身。昭和中期から平成初期にかけて活躍した現代日本文学を代表する作家の一人。 東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。 主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』などがある。
若杉 光夫(わかすぎ みつお、1922年10月28日 - 2… 若杉 光夫(わかすぎ みつお、1922年10月28日 - 2008年12月18日)は、日本の映画監督、演出家。 京都大学法学部卒業後、1947年大映京都撮影所に入所。黒澤明らの助監督を務めるが、1950年レッド・パージで退社。1951年に島耕二の助監督を経験し、劇団民藝演出部に入団。女優の南風洋子と結婚。民藝所属の女優である若杉民(わかすぎ たみ)は娘。 1960年、有馬頼義の小説を原作とする映画『ガラスの中の少女』を監督。同作品で吉永小百合と浜田光夫は初共演した。 「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた。2008年12月18日、呼吸不全により神奈川県相模原市の病院で死去。
藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1… 藤林 伸治(ふじばやし しんじ、1922年9月26日 - 1994年5月2日)は、日本の映画監督・演出家・市民運動家。群馬県富岡市出身。
桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、… 桑山 正一(くわやま しょういち、本名の読みは「まさかず」、1922年8月16日 - 1983年9月4日)は、昭和期の俳優・演出家。元劇団民衆舞台所属。2男1女あり、長男は桑山正道(舞台監督・舞台プロデューサー)、次男は桑山和之(映画プロデューサー)。 東京市本所区(現在の東京都墨田区)出身。1943年に日本映画学校演技科を卒業し、戦争中は砲兵隊に所属して終戦時には仏領インドシナ(現ベトナム)で武装解除になり捕虜となる。戦後、帰国後しばらく自由労働者をした後、木下順二が主宰する劇団「ぶどうの会」に参加。劇団の創立メンバーとして、看板女優・山本安英の主演による『夕鶴』の与ひょう役をはじめ数々の舞台に出演した。
真山 美保(眞山 美保、まやま みほ、1922年7月30日 … 真山 美保(眞山 美保、まやま みほ、1922年7月30日 - 2006年3月12日)は、劇作家、演出家。新歌舞伎で著名な劇作家真山青果の長女。本名は美保子。東京都出身。牛込生まれ小石川育ち。夫は俳優の槙村浩吉。孫(養子・真山正治の養子であり、血はつながっていない)の眞山蘭里(らんり)は、美保死去後の新制作座の理事長。 新制作座文化センター主宰(理事長)。日本演出家協会・国際演劇協会日本センター会員。 東京文化会館及び東京芸術劇場の運営審議委員。文部省・視学委員であった。 1943年日本女子大学国文科卒。1943年に晩年の父と離反し、女優として前進座に入団。1947年新協劇団に転じ、1950年、槙村浩吉らと劇団新制作座を設立。
キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - … キノ トール(1922年5月30日〈または5月31日〉 - 1999年11月29日)は、日本の劇作家、脚本家、演出家。本名は木下 徹(きのした とおる)。東京都出身。テアトル・エコー顧問。妻は、産婦人科医、性医学評論家であるドクトル・チエコ(本名:木下 和子)。 出生時の姓名は松宮 徹。父は東京市世田谷区在住の松宮三郎。のちに木下荘()(満洲パルプ工業常務)の養子となる。俳優の松宮五郎(本名:隆)は、徹の実弟にあたる。 日本大学芸術学部卒業。第二次世界大戦中、予備学生として学徒出陣、海軍航空隊中尉で終戦を迎える。戦後、「独立劇場」設立。「東京青年劇場」を経てテアトル・エコーに入団。脚本家、演出家として劇団活動の基礎を築いた。
北村 英三(きたむら えいぞう、1922年4月17日 - 1… 北村 英三(きたむら えいぞう、1922年4月17日 - 1997年3月7日)は、日本の俳優、演出家。晩年の芸名は喜多村 英三、本名は北村 英蔵(いずれも読みは同じ)。東京府東京市牛込区新小川町(現:新宿区新小川町)出身。妻は関えつ子、娘は北村岳子。 旧制第四高等学校(現:金沢大学)を経て、京都帝国大学文学部国語国文科に入学。学生演劇で当時の日本人男性としては長身だった体躯を生かし、翻案劇の主演と演出を数多く務めた。在学中の1947年に『劇団くるみ座』の創立に参加する。1948年、京都帝大を卒業。 近畿で製作された舞台、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画に数多く出演した個性派俳優として知られ、映画『吸血鬼ゴケミドロ』の政治家・真野剛造のような権力者役や、結束信二脚本・司馬遼太郎原作のテレビドラマ『新選組血風録』と『燃えよ剣』での井上源三郎役、『部長刑事』の大阪府警捜査一課の大鍋部長刑事のような市井の人などの脇役を終生演じ続けた。
うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2… うしお そうじ(牛尾 走児とも、1921年12月4日 - 2004年3月28日)は、日本の漫画家、アニメーター、特撮・映像作品プロデューサー、演出家である。映像製作会社「ピー・プロダクション」創業者。 本名は鷺巣 富雄(さぎす とみお)。別名:若林 藤吾、若林 不二吾(わかばやし ふじご)。 弟は、アニメ制作会社エイケンでプロデューサーを務めた鷺巣政安。長男は作曲家・現ピー・プロダクション社長の鷺巣詩郎。 1921年(大正10年)東京府東京市芝区(現・東京都港区)生まれ。実家は芝区の神明で、西洋家具の製造販売や、演劇関係の小道具を扱う「明光社」という大店だった。 1939年(昭和14年)、淀橋の工学院(現・工学院大学)を心臓脚気(脚気衝心)により中退。
賀原 夏子(かはら なつこ、1921年〈大正10年〉1月3日… 賀原 夏子(かはら なつこ、1921年〈大正10年〉1月3日 - 1991年〈平成3年〉2月20日)は、日本の女優、演出家。本名は塚原 初子。 文学座に入座して多くの舞台に立ち、地味な老け役で活躍した。喜びの琴事件で文学座を脱退後は劇団NLTを結成してその主宰となり、フランス喜劇の上演に意欲を燃やした。舞台のほか映画、テレビドラマへの出演も多い。メイクアップ技術の研究家としても有名で、入門書を出版している。主な出演舞台に『二十六番館』『島』、映画に『流れる』『女の歴史』など。演出家として『ロマノフとジュリエット』なども発表している。 1921年(大正10年)1月3日、東京府東京市牛込区余丁町(現在の東京都新宿区余丁町)に生まれる。
赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1… 赤坂 長義(あかさか ながよし / -ちょうぎ、1921年1月3日 - 1994年6月26日)は、日本の脚本家、映画監督、テレビドラマ演出家、著述家、大学教官である。日本映像学会会員。 1921年(大正10年)1月3日、東京府東京市神田区小川町(現在の東京都千代田区神田小川町)に、神保町の東京堂(現在の東京堂書店)支配人の子息として生まれる。 旧制・第一高等学校在学時の1940年(昭和15年)に、橋川文三と同級であり、橋川に保田與重郎の『後鳥羽院』等の著作を勧めている。自らも詩作を行い、『歴程』同人であった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、同校を卒業して東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学した。
戸部 銀作(とべ ぎんさく、1920年4月25日 - 200… 戸部 銀作(とべ ぎんさく、1920年4月25日 - 2006年1月7日)は、日本の古典演劇評論家、脚本家、演出家である。 東京生まれ。1945年旧制早稲田大学文学部国史学科を卒業後、早稲田大学演劇博物館、国立文化財研究所などを経て、演劇評論家として活躍。1967年国立劇場開場時、演出室長に就任。2003年まで国立劇場参与、日本演劇協会評議員。 1983年紫綬褒章、1991年勲三等瑞宝章、1998年松尾芸能賞受賞。 2006年1月7日、呼吸不全のため東京都千代田区の病院で死去、85歳没。 復活狂言や、上演が途絶えていた場面の上演を積極的に行う。歌舞伎の演出、補綴の第一人者として数多くの作品を手がけ、宙乗りの仕掛け人としても知られる。
芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - … 芥川 比呂志(あくたがわ ひろし、1920年3月30日 - 1981年10月28日)は、日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区(現・東京都北区)田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。 3人兄弟で、長弟・多加志は第二次世界大戦中、22歳でビルマにて戦死、末弟・也寸志は作曲家。名の由来は龍之介の親友・菊池寛(表記同じで筆名ではカン、本名ではヒロシと読む)の名の読みを万葉仮名に当てたもの。ちなみに、多加志は小穴隆一の「隆」から、也寸志は恒藤恭の「恭」から取られている。 1926年、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。
倉橋 健(くらはし たけし、1919年10月11日 - 20… 倉橋 健(くらはし たけし、1919年10月11日 - 2000年5月17日)は、日本の英文学者、演劇評論家、演出家。早稲田大学名誉教授。本名の読みは「けん」。 日本統治時代の朝鮮京城で出生後、現在の長野県飯山市で育つ。弟の倉橋潔は化学者(大阪大学名誉教授)。1941年早稲田大学英文学科卒。応召、1947年復員、1949年ワシントン州立大学留学、帰国後は早稲田大学文学部助手、講師、助教授、1958年教授。1970年から1989年まで早稲田大学演劇博物館館長。1988年から1990年まで日本演劇学会会長。1990年定年退任、名誉教授。1983年秋、紫綬褒章受勲。 アーサー・ミラーなどの翻訳だけでなく、劇団青俳に参加し安部公房の戯曲『どれい狩り』『快速船』の舞台演出を担当した。
大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - … 大宜見 小太郎(おおぎみ こたろう、1919年1月2日 - 1994年7月26日)は、沖縄県那覇市出身の俳優、脚本家、演出家、舞踊家。沖縄芝居の大御所として知られ、沖縄俳優協会会長もつとめた。なお、「大宣見小太郎」「大宜味小太郎」等と誤記されることも多い。 生誕時の本名は、當間朝義(幼名太郎)。やがて、沖縄芝居の役者の、大宜見朝良の養子に入り、本名「大宜見朝義」となった。さらに、当時の役者には、「太郎」と名乗る者が多かったことから、「大宜見小太郎」を芸名にした。また、南一郎のペンネームで200本以上の脚本を書いている。 妻は沖縄芝居女優の大宜見静子。 1926年(大正15年)7才の時に、石垣にて「瓦屋節由来記」で初舞台を踏み、その後も子役として活躍する。
丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 -… 丸林 久信(まるばやし ひさのぶ、1917年11月17日 - 1999年)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、演出家、文筆家である。脚本家としての筆名に栄町 はじめ(さかえまち はじめ)がある。日本映画監督協会元会員、日本放送作家協会会員、日本脚本家連盟信託者。専修大学文学部講師、シナリオ・センター講師を歴任した。黒澤明の『生きる』、『生きものの記録』でチーフ助監督を務めたことでも知られる。 1917年(大正6年)11月17日、三重県多気郡下御糸村(現在の同県同郡明和町)に生まれる。のちに三重県立松阪高等学校の教諭を務めた丸林勝人(1921年 - 2010年)は実弟。 1937年(昭和12年)3月、早稲田第二高等学院(現在の早稲田大学高等学院)を卒業、同年4月には旧制早稲田大学文学部国文科(現在の早稲田大学文学部日本語日本文学コース)に進学、当時の恩師に河竹繁俊(1889年 - 1967年)がいた。
武田 考玄(たけだ こうげん、1916年12月1日 - 20… 武田 考玄(たけだ こうげん、1916年12月1日 - 2000年12月31日)は命理家・遁甲家、演出家。横浜市出身。本名:土屋達一郎。ライジングサン石油株式會社(後のシェル石油→昭和シェル石油)の創設者の1人と妾の間に5人兄妹の長男として生を受けた。旧制私立芝中学校、早稲田大学政治経済学部卒業。NETテレビ(日本教育テレビ)で演出を行なううちに、メークアップの研究が観相学へと結びついた。その後四柱推命などの運命学を中国の原書から研究し始め、本場中国の原書を元にした子平(四柱推命学)の日本への導入に努めた。通信講座などで門弟も多く、日本命理学会を主宰。実妹は舞踏家の花柳三弥、元女優の島崎雪子。
横道 萬里雄(横道 万里雄、よこみち まりお、1916年10… 横道 萬里雄(横道 万里雄、よこみち まりお、1916年10月12日 - 2012年6月20日)は、日本の能楽研究者、能作者、能演出家。東京芸術大学名誉教授。東京文化財研究所名誉研究員、文化功労者。 東京国立文化財研究所芸能部部長、東京芸術大学音楽学部教授、沖縄県立芸術大学附属研究所教授、沖縄県立芸術大学附属研究所所長などを歴任した。 東京府生まれ。暁星小学校・同中学校時代の同級生に柴田南雄がいる。東京高等学校を経て東京帝国大学理学部動物学科卒業後、1941年東京帝国大学文学部国文科卒業。 1953年東京文化財研究所芸能部文部技官となり、音楽舞踊研究室長、芸能部長。1964年表章との共編『謡曲集』により芸術選奨文部大臣賞受賞。
近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 198… 近藤 積(こんどう つもる、1916年8月19日 - 1989年12月14日)は、日本の演出家、音楽評論家、NHKディレクター・プロデューサー、音楽部長。NHKテレビ草創期のディレクターで、『NHK紅白歌合戦』の創設を始め、『今週の明星』、『懐かしのメロディー』など多くの歌謡番組を手掛けた。 広島県出身。1940年日本大学卒業後、当時社団法人だったNHKに入局。 当初から音楽番組の担当で、終戦年の1945年、大晦日に放送するラジオの大型音楽番組の企画を担当。スポーツの対抗戦の形をとり男女が紅白に分かれて戦うという構想で『紅白音楽合戦』を立案した。こうした発想は当時としては非常に斬新なものだった。
高木 史朗(たかぎ しろう、1915年8月17日 - 198… 高木 史朗(たかぎ しろう、1915年8月17日 - 1985年2月12日)は、宝塚歌劇団の劇作家・演出家。兵庫県出身。 関西学院大学卒業後、1936年に宝塚少女歌劇団に入り、1940年に演出家としてデビューした。 進取の気風で宝塚に新たな境地を開拓した。 1970年の日本万国博覧会では、閉会式の演出を担当した。 白井鐵造・内海重典とともに、宝塚の三巨匠に数えられる。 2014年、『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂表彰。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991… 小山 源喜(こやま げんき、1915年7月8日 - 1991年4月11日)は、日本の男性俳優、声優、演出家。東京府東京市向島(現・東京都墨田区)出身。戦後のラジオドラマ黄金期を代表する声優。 隅田小、東京府立七中(現・東京都立墨田川高等学校)卒業、東京府青山師範学校中退。1934年(昭和9年)、遠縁に当たる二代目市川小太夫の縁で市川猿之助主宰の春秋座で初舞台を踏む(『若き日の成吉斯汗』)同年6月、丸山定夫のP・C・L映画に入る。1935年(昭和10年)10月、小山映画演劇研究所主宰。1936年(昭和11年)3月、新築地劇団演出部(千田是也の助手)を経て、1938年(昭和13年)には文学座旗揚げに参加。
木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 20… 木俣 堯喬(きまた あきたか、1915年3月26日 - 2004年11月7日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、映画美術家、劇作家、演出家、俳優、彫刻家。本名は木俣 三郎(きまた さぶろう)、舞台俳優・映画美術家としては衣 恭介(ころも きょうすけ)、時代劇俳優としては木南 兵介(きなみ へいすけ)、現代劇俳優として鬼塚 大吉(おにつか だいきち)等、多くの別名をもつ。プロダクション鷹・日東テレビ映画の創業者・元代表取締役、ムービーブラザースの共同代表を歴任した。高見順の短篇小説『大部屋の友』の主人公モデル、あるいは世田谷区・豪徳寺の「無名戦士慰霊記念碑」のレリーフ彫刻を手がけた彫塑作家としても知られる。
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27… 宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年〈大正3年〉9月27日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)。 宇野は第二次世界大戦前から戦後にかけて長く演劇界をリードしてきた名優の1人であり、滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
渡辺 武雄(わたなべ たけお、1914年9月24日 - 20… 渡辺 武雄(わたなべ たけお、1914年9月24日 - 2008年3月17日)は、日本の演出家、振付家。第二次世界大戦後、長く宝塚歌劇団で活動し、名誉理事となった。 台湾の台北市生まれ。 1933年、関西学院大学に入学して劇研究会に所属し、同期生であった高木史朗に紹介された白井鐵造の助言で、出口秀子に師事してバレエを学ぶ。 1938年、大学を中退して上京し、高木史朗に紹介された日劇ダンシングチームの振付家・益田隆の助手となり、1940年には東宝舞踊隊公演『燃ゆる大地・台湾』で、初めて本格的な演出を手がけた。 その後、活動の拠点を東京から大阪へ移し、大阪松竹少女歌劇団 (OSK) を経て、1946年に大阪・梅田劇場の東宝ダンシングチーム設立に参画するとともに、関西学院大学に復学して1949年に卒業した。
三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日… 三木 鶏郎(みき とりろう、1914年〈大正3年〉1月28日 - 1994年〈平成6年〉10月7日)は、日本の作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家である。本名、繁田 裕司(しげた ひろし)。東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。 昭和前期から平成前期まで活躍した。芸名は好きなミッキーマウスと(デビュー当初、朝川賞郎、秋元喜雄と3人で活動していたことから)「トリオ」をかけたものであり、本来の読み方は「みき とりお」であったが、アナウンサーから「とりろう」と誤読されたためそれが定着した。「三木トリロー」名義での活動歴もある。 ジャズ評論家・司会者の三木鮎郎は実弟。甥(鮎郎の長男)の三木睦郎は「笑点」の放送作家。
武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元… 武智 鉄二(たけち てつじ、旧字体:鐡二、1912年〈大正元年〉12月10日 - 1988年〈昭和63年〉7月26日)は、大阪市出身の日本の演劇評論家、演出家、映画監督。役者の型や口伝に影響されない狂言作者の意図に忠実な武智歌舞伎を世に問うたことで知られる。歌舞伎のみならず、能や文楽、オペラ、舞踏、映画の演出も手がけ、わいせつ図画公然陳列罪で起訴された「黒い雪裁判」の被告人の一人としても知られる。本名ははじめ武智 鐡二、のち西村 鐡二(にしむら てつじ)、のち川口 鐡二(かわぐち てつじ)。 日本演劇学会、伝統芸術の会、日本文芸家協会、日本オペラ協会、日本演劇協会、各会員。 1912年、大阪市梅田に生まれる。
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25… 福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年〈大正元年〉8月25日 - 1994年〈平成6年〉11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事、日本芸術院会員などを務めた。名前については「こうそん」と音読みされることも多い。 保守派の文士であり、進歩的文化人を批判した『平和論にたいする疑問』(1955年)は、戦後思潮の転換点となる。討議倫理が戦後民主主義を軸とする進歩派にも影響を与えるなど、戦後日本を代表する思想家。 また、同時期には『ハムレット』(1955年)をはじめとするシェイクスピア戯曲の翻訳、演出を開始する。新劇を日本の近代化問題の象徴的な弱点と捉え、演劇の革新に取り組んだ。
森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日… 森本 薫(もりもと かおる、1912年(明治45年)6月4日 - 1946年(昭和21年)10月6日)は、日本の劇作家、演出家、翻訳家。代表作として『女の一生』や『華々しき一族』などがある。 1912年(明治45年)、大阪府西成郡中津町下三番(現・大阪市北区)に生まれる。中津第二尋常小学校、旧制北野中学校を経て第三高等学校文科へと進んだ。三高在学中は、ノエル・カワードやサマセット・モームなどのヨーロッパ近代戯曲を読みふけて過ごし、1932年(昭和7年)には処女作となる一幕ものの戯曲『ダムにて』を発表している。三高卒業後、京都帝国大学文学部英文科に進んだ森本は、入学から時を経ずして胸部疾患のために療養生活を余儀なくされた。
長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日… 長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日 - 1994年(平成6年)11月11日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、オペラ歌手、翻訳家(訳詞家)、歌劇団主宰者・総監督、オペラ演出家。本名は鈴木 美保。 福岡県若松市(現: 北九州市若松区)出身。3歳の時、家族とともにドイツに渡り、幼時をドイツで過ごす。小学校1年のとき帰国し、日本女子大学附属豊明小学校に半年遅れで編入。日本女子大学校附属高等女学校を経て、東京音楽学校に入学。在学中に東京音楽学校春期演奏会におけるマーラーの交響曲第2番(指揮: クラウス・プリングスハイム)のソリストとなる。1933年(昭和8年)同校を卒業し研究科に進む。
栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月2… 栗原 一登(くりはら かずと、1911年〈明治44年〉5月24日 - 1994年〈平成6年〉12月19日)は、日本の演出家、児童劇作家。女優栗原小巻の父。 福岡県出身。小倉師範卒業、満州(現、中国東北部)に渡り、大連市に居住。のちに日本大学演劇科卒。 日本大学の講師、テレビ俳優学院理事長などを務め、「泥かぶら」(真山美保作)などを演出する。『学生演劇』を創刊し、教科書用戯曲教材の執筆など、児童・青少年演劇の育成に努めた。日本児童演劇協会会長を務めた。 1981年、『飛ぶ教室』編集委員。 (1994-12-19) 1994年12月19日(83歳没)。住所は東京都杉並区永福1丁目。
森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年… 森 一生(もり かずお、1911年1月15日 - 1989年6月29日)は、日本の映画監督、演出家である。通り名で「もり いっせい」とも呼ばれる。
藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代… 藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し、初期のテレビ放送劇の台本も書いた。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった。
岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 19… 岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日 ‐ 1959年2月22日)は、日本の演出家。美術史家の岡倉天心の甥。 新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)と渡り、歌舞伎やオペラなどの演出にも携わった。 東京市本郷区丸山新町(現・文京区白山)出身。 立教大学在学中の1929年に発足した新築地劇団に参加する。演出は土方与志から指導を受けた。大学卒業後も引き続き劇団に在籍した。新築地劇団在籍中に『土』(長塚節作、1937年)や『綴方教室』(豊田正子作、1938年3月)を演出して評価を受ける。1940年8月に新築地劇団を退団するが、治安維持法違反で[要出典]検挙され、翌年保釈された。
小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - … 小沢 栄太郎(おざわ えいたろう、1909年3月27日 - 1988年4月23日)は、日本の俳優、演出家。
岸井良衞(きしい よしえ、1908年〈明治41年〉3月21日… 岸井良衞(きしい よしえ、1908年〈明治41年〉3月21日 - 1983年〈昭和58年〉11月15日)は、昭和時代の劇作家、演出家、プロデューサー、時代考証家。本名は良雄。弟に俳優岸井明がいる。 1908年(明治41年)3月21日、東京市日本橋区小網町三丁目上田回漕店(上田辰之助の実家)裏店に、弁護士の岸井辰雄とりうの長男として生まれる。 岸井家は江戸時代には裕福だったが、嘉永2年生まれの祖父弁吾の代で散財した。父辰雄は1880年(明治13年)4月2日に現在の埼玉県深谷市に生まれ、貧困の中苦学して青山学院中等部を経て明治法律学校(現在の明治大学)を1903年に首席で卒業。1904年に判事検事登用試験に合格し、浦和地方裁判所に勤務。
長岡 輝子(ながおか てるこ、1908年〈明治41年〉1月5… 長岡 輝子(ながおか てるこ、1908年〈明治41年〉1月5日 - 2010年〈平成22年〉10月18日)は、日本の女優・演出家。2度目の結婚以後の本名は、篠原 輝子(しのはら てるこ)。岩手県盛岡市出身。 英文学者長岡擴(ながおか ひろむ)の三女として生まれる。東洋英和女学院卒業。 文化学院文学科中退後、聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)に移る。1928年(昭和3年)に渡仏留学し、パリで2年間演劇修業、1930年(昭和5年)に帰国。アトリエ座研究所で学んだ後、後に最初の夫となった金杉惇郎と劇団テアトル・コメディを設立。劇団には当時旧制成城高校生の有島行光(森雅之)も参加した。翌年、金杉と結婚し一子(後にNHKのプロデューサーとなる沼野芳脩〈1934年 - 1997年〉)をもうけた。
山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993… 山田 肇(やまだ はじめ、1907年8月23日 - 1993年8月17日)は、日本の演劇学者、舞台演出家。明治大学名誉教授。 スタニスラフスキーの翻訳で知られ、岸田国士戯曲賞選考委員を発足時から務めた。 東京府東京市牛込区(現:東京都新宿区)に医師の長男として生まれる。1929年に第一高等学校を卒業して、東京帝国大学に進み、1932年に東京帝国大学文学部美学科を卒業した。 大学在学中から心座に関わり、新興劇団協議会書記局員、鏑木清方の長女と結婚、杉山誠と親交を結んだ。1938年から明治大学で西洋演劇を教え、1945年に文芸科兼任教授に就任する。 1946年に新演劇人協会事務局長となる。1947年に木下順二らの「ぶどうの会」に参加。
落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月2… 落合 義雄(おちあい よしお、1907年〈明治40年〉8月23日 - 1992年〈平成4年〉8月20日)は、日本の俳優、劇作家、演出家。本名同じ 群馬県高崎市出身。1920年(大正9年)高崎中央尋常高等小学校を卒業後、横浜興信銀行高崎支店に勤務。 1923年(大正12年)/1924年(大正13年)、高崎市郷土芸術社の結成に参加。1932年(昭和7年)、児童演劇運動を開始。1946年(昭和21年)、群馬演劇文化集団を結成。同年、劇団ポポロ座を設立。 1956年(昭和31年)、松竹大船撮影所入社。研究グループ、船の会を設立し、永井秀明、里見孝二とともに幹事役を務める。 映画の制作本数の減少を受けてテレビへの進出を考え、『ここに泉あり』で共演した椎原邦彦の紹介で彼が所属しているグループ・てえぶらにテレビ関係のマネジメントを委託。
杉本 良吉(すぎもと りょうきち、1907年2月9日 - 1… 杉本 良吉(すぎもと りょうきち、1907年2月9日 - 1939年10月20日)は、日本の演出家。本名は吉田好正。女優の岡田嘉子とソ連に亡命し、スパイ容疑で銃殺刑に処せられた。
田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992… 田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992年1月18日)は、日本の映画監督、演出家。 1926年、松竹蒲田撮影所に入所。以後、帝国キネマ、阪東妻三郎プロダクション、タカマツ・アズマプロダクション、東亜キネマなどでスタッフとして転々とした後、1931年に河合映画で監督デビュー、翌1932年に新興キネマへ移籍した。 松竹、東宝との三社競作だった『美しき鷹』や『亜細亜の娘』などの作品を残すも、やがて新興キネマは国策統合により大日本映画製作株式会社となり、田中はそこへ移籍。その第一作『香港攻略 英國崩るゝの日』はその年のキネマ旬報ベスト・テン入りを果たす。 戦中・戦後にかけて多くのプログラムピクチャーを監督。
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 20… 滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本の俳優、演出家。本名は滝沢 脩。
田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年〈明治38年〉10月… 田中 千禾夫(たなか ちかお、1905年〈明治38年〉10月10日 - 1995年〈平成7年〉11月29日)は、日本の劇作家、演出家、フランス文学者。日本芸術院会員。 長崎県長崎市生れ。旧制長崎県立長崎中学校を経て、1930年、慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。 在学中から獅子文六・岸田國士の「新劇研究所」に入る。卒論はフランスの劇作家、ポール・ジェラルディ。 1932年、岸田主宰の第1次『劇作』創刊に参加、実質的な編集長の任を務めた。1933年、処女戯曲『おふくろ』発表、築地座で上演されて注目される。1934年、やはり劇作家の田中澄江と結婚、神奈川県藤沢町鵠沼に新居を構える。同1934年から演出も始める。
佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9… 佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9月29日)は、日本の演出家・作詞家・社会主義運動家。日本では「インターナショナル」の訳詞の作詞者として知られる。後半生はメキシコを拠点とした演劇活動に費やし、メキシコでは「メキシコ演劇の父」と称される。
龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 198… 龍岡 晋(たつおか しん、1904年12月16日 - 1983年10月15日)は、日本の俳優、演出家、俳人、文学座代表取締役社長であった。別表記に竜岡 晋。本名は岩岡 龍治(いわおか たつじ、別表記に岩岡 竜治)。元日本新劇製作者協会会長。 1904年東京・日本橋生まれ、中央商業学校卒業。 1932年に劇団築地座に入団。『カールトアンナ』の兵士役が初舞台。1934年6月、築地座を脱退し劇団創作座の創設に参加。1937年、文学座の創設に参加し、1950年に文学座が株式会社化した際に社長となり、劇団の経営も行った。また、久保田万太郎作品を発掘して『蛍』『雨空』などの久保田の戯曲を演出したり、1978年に演劇集団「円」を中心とした久保田万太郎勉強会を結成するなど久保田作品の継承も行った。
千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 199… 千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本の演出家、俳優。東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。
山川 幸世(やまかわ ゆきよ、1904年3月23日 - 19… 山川 幸世(やまかわ ゆきよ、1904年3月23日 - 1974年12月23日)は、日本の演出家。 京都生まれ。ドイツ文学者・山川幸雄の長男。妹に山川彌千枝。2歳の時、父の転勤のため、東京に転居。同志社大学英文科卒。舞台演出家として知られるばかりでなく、俳優の養成にも携わり、実演者の立場から音声学にもアプローチした。モンゴル音楽祭などに取り組んできた山川泉は実子。