嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9… 嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣(第22代)。軍令部総長(第17代)。A級戦犯として終身刑。 1883年(明治16年)9月24日、東京浅草に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。 東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。
多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956… 多田 礼吉(ただ れいきち、1883年9月3日 - 1956年5月13日)は、日本の陸軍軍人、工学者。最終階級は陸軍中将。工学博士。 静岡県出身。鈴木与兵衛の二男として生まれ、多田鶴吉の養子となる。1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し由良要塞砲兵連隊付となる。陸軍要塞砲兵射撃学校教官などを経て、1909年(明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を卒業した。 1910年(明治43年)9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学に入学。1913年(大正2年)7月、同理学部物理学科を卒業した。1919年(大正8年)4月、砲兵少佐に昇進。同年12月、陸軍科学研究所員となり、1920年(大正9年)10月から1923年(大正12年)2月までヨーロッパに留学した。
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日… 堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。日本飛行機 社長、大日本兵器社長、浦賀船渠(現:住友重機械工業)社長を歴任した。 海軍兵学校32期首席・海軍大学校16期次席。海軍軍人としての最終階級は海軍中将。海軍の現役を退いた後の1941年(昭和16年)に、法制局長官(現:内閣法制局長官)に擬されたが、辞退した。大分県杵築市出身。 天下の秀才を集める海軍兵学校の同期生たちをして「神様の傑作の一つ堀の頭脳」 と畏敬せしめる程の、桁外れの英才であった。 からの信頼が厚く、山本権兵衛(兵2期)・加藤友三郎(兵7期)の系譜を継ぐ人物として、いずれ海軍大臣に就任することが確実視されていた。
秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月… 秋山 虎六(あきやま とらろく、1883年〈明治16年〉8月2日 - 1952年〈昭和27年〉4月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。佐賀県佐賀市巨勢町出身。 旧制佐賀中学校から海軍兵学校に進学。1905年(明治38年)5月27日、翌28日にかけて日本海海戦に参戦する。同年11月28日、海軍兵学校33期卒業。同期に豊田貞次郎、豊田副武、有地十五郎、小野弥一、中村亀三郎など。 各軍艦勤務をへて海軍砲術学校高等科に入校。1912年(大正元年)英国出張。第一次世界大戦・日独戦争では英国と共に海軍陸戦重砲隊中隊長として、ドイツ帝国が清国から租借し、権益を持つ山東省青島の戦いで奮戦した。1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。
藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月… 藤井 重郎(ふじい じゅうろう、1883年(明治16年)7月18日 - 1937年(昭和12年)8月21日)は、日本の陸軍軍人。歩兵大佐で予備役となったのち、靖安軍司令官に就任し、熱河支隊長として戦死した。最終階級は陸軍少将、満州国陸軍中将。 福島県出身。農業を営む塩谷家の六男で、藤井家の養子となる。長男の藤井毅は陸軍獣医大尉、三男の藤井信は陸軍士官学校57期出身で戦死した陸軍大尉である。藤井は創設以来の稚松会会員であった。会津中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、陸軍士官学校16期を卒業。1904年(明治37年)11月、歩兵少尉に任官した。 歩兵第32連隊附となり、翌年5月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に従軍した。
太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月1… 太田 質平(おおた しちへい、1883年〈明治16年〉6月16日 - 1941年〈昭和16年〉6月16日)は、日本の海軍軍人。日本海軍軍人の標語であった『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂 これぞ船乗り』を創ったといわれる人物である。最終階級は海軍少将。 新潟県出身。妻は海軍中将野元綱明の娘。長岡中学などを経て海軍兵学校32期を卒業。席次は入校時190名中144番、卒業時192名中13番。堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。「韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦した。 大尉進級後、練習艦「宗谷」分隊長として遠洋航海で海兵37期の少尉候補生を指導。
橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)… 橋本 虎之助(はしもと とらのすけ、1883年(明治16年)6月6日 - 1952年(昭和27年)1月26日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、功級は正四位・勲一等・功三級。田内三吉は岳父にあたる。 父橋本昌世は京都府士族で、軍人となり陸軍中佐まで進んだ。陸軍士官学校14期卒業(同期には古荘幹郎大将、西尾寿造大将、山田乙三大将、宇佐美興屋中将)。陸軍大学校22期生で卒業時13番。陸大同期に畑俊六元帥(首席)、杉山元元帥、小磯國昭大将らがいる。 陸軍きってのロシア通として知られている。同国へ留学したり、第一次世界大戦時にロシア軍に観戦武官として従軍経験もしている。駐露日本大使館附武官補佐官、附武官などを歴任した。
佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5… 佐竹 保治郎(さたけ やすじろう、1883年(明治16年)5月25日 - 1955年(昭和30年)1月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1883年(明治16年)に東京府で生まれた。野州名鑑によると、栃木県足利市通二丁目に金物商の佐竹金之助の次男として生まれたとある。成城中学校から陸軍士官学校第18期、東京帝国大学建築学科卒業。1930年(昭和5年)8月1日、陸軍工兵大佐進級と同時に工兵第7大隊長に就任し、1932年(昭和7年)6月に陸地測量部三角科長、1933年(昭和8年)8月に陸軍築城部部員を歴任した。 1935年(昭和10年)3月15日に陸軍少将に進級し、澎湖島要塞司令官に着任。
田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5… 田嶋 栄次郎(たじま えいじろう、1883年〈明治16年〉5月20日 - 1952年〈昭和27年〉5月11日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍中将。衆議院議員。 愛知県渥美郡高豊村(現在の豊橋市)出身。1905年(明治38年)、陸軍士官学校を卒業。その後、陸軍大学校を卒業し、第六高等学校勤務、歩兵第41連隊長、麻布連隊区司令官、第5師団司令部附、歩兵第33旅団長を歴任した。1938年(昭和13年)、陸軍中将に昇進し、下関要塞司令官を務めた。1939年(昭和14年)、予備役に編入。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、翼賛政治体制協議会の推薦を受け当選を果たした。そのため、1946年(昭和21年)に公職追放となった。
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7… 長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位勲一等功一級海軍大将。第18代台湾総督。福井県足羽郡社村(現:福井市)出身。 医師・長谷川次仲の次男。海軍を志したのは福井中学校4年在学中のこと で、退学し正則英語学校に転校。この年海軍兵学校第31期に入校した。席次は入校時196名中7番、卒業時は173名中6番。福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。
井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966… 井上 継松(いのうえ つぐまつ、1883年5月 - 1966年12月24日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 福井県出身。井上亀吉の息子として生まれる。1902年(明治35年)東京府立尋常中学校卒業。1904年(明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征、さらに「浅間」乗組となった。1905年(明治38年)8月、海軍少尉任官。1909年(明治42年)10月、「磐手」分隊長となり、「千代田」水雷長、「千歳」・舞鶴海兵団の各分隊長などを歴任。海軍大学校乙種学生となり、さらに海軍砲術学校高等科で学び、1911年(明治44年)12月、第15艇隊艇長に就任。
植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 19… 植松 練磨(うえまつ とうま、1883年4月30日 - 1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 福島県相馬郡鹿島町(現・福島県南相馬市)出身。安積中学を経て1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科を卒業。 第11艇隊・第9艇隊・第2艇隊の各艇長、水雷学校教官を経て、第2特務艦隊司令部付、「樫」駆逐艦長として第一次世界大戦に従軍。地中海で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰国後横須賀鎮守府付、水雷学校特修科学生、「矢風」「駒橋」の各艦長、「浅間」副長、海兵教官などを歴任し、1925年12月、海軍大佐に進級した。
津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日… 津田 静枝(つだ しずえ、1883年〈明治16年〉4月11日 - 1964年〈昭和39年〉9月13日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。福井県福井市出身。 旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。津田の履歴の特徴は中国勤務が多いことであるが、これは津田が中国の専門家であったためである。日本海軍は陸軍と比較して中国問題に暗く、対応が後手に回ることが多かったことから、対中国問題の専門家が必要となり、その最初の人物として育成されたのが津田であった。日本海軍はのちに須賀彦次郎、田尻穣、藤原喜代間、沖野亦男などの対中国の専門家を輩出した。
蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 195… 蓮沼 蕃(はすぬま しげる、1883年3月26日 - 1954年2月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、勲等は勲一等功二級。石川県出身。
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月2… 加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。
塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月… 塩沢 幸一(しおざわ こういち、1883年(明治16年)3月5日 - 1943年(昭和18年)11月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。長野県伊那郡大草村(現上伊那郡中川村)出身。実家は養命酒で有名な養命酒製造で塩沢はその四男。妻すがは代議士・北原阿智之助次女。文芸評論家の中沢臨川は次兄。
及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2… 及川 古志郎(おいかわ こしろう、1883年〈明治16年〉2月8日 - 1958年〈昭和33年〉5月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岩手県出身(出生地は新潟県古志郡)。海兵31期・海大13期。第2次近衛内閣・第3次近衛内閣で海軍大臣。第18代軍令部総長。 1883年(明治16年)2月8日、新潟県古志郡で医師・及川良吾の長男として生まれる(本籍は岩手)。母親は大島高任の長女。初めは「越郎」といったが、後に生誕地から「古志郎」と改名した。 岩手県で育ち、同県内の小学校を経て、盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)に進学した。及川は野村胡堂や金田一京助、田子一民ら同窓生に勧められるままに、長詩・短歌を盛んに寄稿していた。
山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月… 山崎 定義(やまざき さだよし、1883年(明治16年)2月1日 - 1971年(昭和46年)6月4日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。富山市長。 富山県上新川郡富山千石町(現富山市)で、旧富山藩士、陸軍大尉・山崎定孝、敏(とき)夫妻の長男として生まれたが、生後11ヵ月で父が病のため死去した。啓迪高等小学校(その後、八人町小学校を経て現富山市立芝園小学校)を経て、富山県立富山中学校に進み、三年次に名古屋陸軍地方幼年学校を受験して合格。中央幼年学校を経て陸軍士官学校(15期)に進み、1903年11月30日、同校を卒業して金沢歩兵第35連隊に勤務。1904年2月12日、陸軍歩兵少尉に任官。
黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1… 黒木 親慶(くろき ちかのり、1883年(明治16年)2月1日 - 1934年(昭和9年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。 宮崎県西諸県郡飯野村(後の飯野町、現・えびの市)に大河平親貞の長男として生まれ、黒木実幸の養子となる。 熊本陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)11月、陸軍士官学校(16期)を卒業。同期生に、岡村寧次、小畑敏四郎、永田鉄山らがいる。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第46連隊付となる。1905年(明治38年)5月から12月まで、日露戦争に出征。1912年(大正元年)陸軍大学校(24期)を卒業した。 陸軍士官学校教官、参謀本部部員、ハルビン駐在を経て、1916年(大正5年)第一次世界対戦下のロシア軍に従軍。
匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1… 匂坂 春平(さきさか しゅんぺい、1883年〈明治16年〉1月30日 – 1953年〈昭和28年〉8月19日)は、日本の陸軍法務官(1942年以降は陸軍法務部将校)。最終階級は陸軍法務中将。 五・一五事件、二・二六事件に関する軍法会議において、各々主席検察官を務めた。 1883年(明治16年)、静岡県城東郡横地村(現:菊川市)の農家の長男として出生。16歳で上京し、1902年(明治35年)に明治法律学校(現在の明治大学)を卒業した。 日露戦争中の1904年(明治37年)、近衛歩兵第四連隊に補充召集され、奉天会戦要員として軍務に服した。応召中、判事検事登用試験に合格し、司法官試補(東京)に任じられた。
古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28… 古賀 用六(こが ようろく、1883年(明治17年)1月28日 - 1944年(昭和19年)10月28日)は、日本の陸軍軍人。陸士17期卒。最終階級は大佐、死後少将。 佐賀県田代村(現・鳥栖市)出身。兄の古賀真一も少将。熊本陸軍地方幼年学校3期生より陸軍士官学校を17期生として卒業。歩兵第13連隊第3中隊長、台湾歩兵第2連隊配属将校を経て、鯖江連隊区司令部部員。1933年8月30日に大佐で予備役編入。1944年、大正5年~9年生まれの九州北部各地の応召兵2000名からなる「南方総軍緊急補充要員久留米師団第161部隊」(通称マルコ部隊、コは古賀の頭文字)の輸送指揮官として10月13日博多港を発し、26日ボルネオ島に到着したが間もなく同地にて病死。
宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月… 宇佐美 興屋(うさみ おきいえ、1883年(明治16年)1月27日 - 1970年(昭和45年)9月27日)は、日本の陸軍軍人。陸士14期・陸大25期恩賜。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。税関吏・宇佐美潤屋の長男として生まれる。東京府立第一中学校、陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校を卒業(14期)し、1903年(明治36年)、陸軍騎兵少尉に任官して騎兵第7連隊付。1913年(大正2年)11月、陸軍大学校(25期)を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝受。 佐官時代には、オランダ公使館附武官、陸軍省軍務局騎兵課長、騎兵第13連隊長、東京警備参謀長などを歴任。 1930年(昭和5年)3月、騎兵監部付の時に陸軍少将に進級。
河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月… 河本 大作(こうもと だいさく、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1955年〈昭和30年〉8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。陸軍大佐。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現:佐用町)に、地主河本参二の次男として生まれた。高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月に陸軍士官学校(第15期、卒業順位97番、歩兵科)を卒業。翌年日露戦争に出征、重傷。1914年(大正3年)に陸軍大学校(第26期、修了順位24番)を卒業した。中支派遣軍参謀、参謀本部付、支那公使館付武官補佐官、陸軍大学兵学教官、1926年(大正15年)3月には大佐で関東軍参謀となる、そこで1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件により停職、待命、予備役編入。
大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月1… 大山 文雄(おおやま あやお、1883年(明治16年)1月12日 - 1972年(昭和47年)10月19日)は、日本の陸軍法務官、政治家。最終階級は陸軍法務中将。陸軍省法務局長、初代岡山県井原市長。 岡山県後月郡西江原村(西江原町を経て現井原市)で、後に井原町長を務めた大山邦一、房与夫妻の長男として生まれる。西江原村立尋常義之小学校を経て、岡山県立商業学校に入学したが中退。郡役所書記を経て、1904年7月、日本大学専門部正科を卒業。同年12月、判事検事登用試験に合格。同年12月、司法官試補となり第5師団法官部員として修習し、陸軍を志願して1905年3月、陸軍理事試補に任官し留守第11師団法官部員に就任した。
森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日… 森 彦兵衛(もり ひこべえ、1883年(明治16年)1月9日 - 1958年(昭和33年)7月12日)は、大正から昭和時代前期の政治家、大日本帝国海軍軍人。岐阜県高山市長。岐阜県多額納税者。 森七左衛門の二男として高山に生まれる。京都帝国大学法科卒業後、海軍に入り海軍主計少佐に昇ったのち退役する。ついで教育界に転じ、岐阜県立高山高等女学校(現岐阜県立高山高等学校)長となったのち、宮野省三知事の推薦および市会一致の推挙により1938年(昭和13年)8月、高山市長に就任した。 1945年(昭和20年)4月、高山市長を退任。戦後、公職追放となる。
玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年… 玉木 信助(たまき しんすけ、別表記:玉木 信介、1883年〈明治16年〉 - 1905年〈明治38年〉9月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少尉。 新潟県南蒲原郡三条一之町(現 三条市本町3丁目)の呉服商・玉木善作の四男として出生。新潟中学校に学び、同級生に青木得三、安倍邦太郎、伊藤精司、白勢量作などがいた。 1901年(明治34年)3月に新潟中学校で4年を修了後、4月に東京の日比谷中学校に入学、7月7日から8月2日にかけての海軍兵学校(32期)の生徒召募試験に及第して12月16日に入校、同期に同郷の山本五十六がいた。 1904年(明治37年)11月14日に日露戦争のため海軍兵学校を1カ月繰り上げ卒業、同日に海軍少尉候補生を命じられ、卒業試験に落第した西村七三郎を除く同期190名と「韓崎丸」に乗艦して練習に従事。
谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日… 谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦後、南京軍事法廷で、南京事件の首脳クラスの責任者の一人とされ死刑判決、銃殺刑に処せられた。 岡山県の農民出身。岡山中学校、東京府立四中(現東京都立戸山高等学校)卒業。 1937年(昭和12年)10月29日施行を昭和天皇に裁可された、帷幄上奏勅令軍事機密『軍令陸甲第34号』を根拠とした、軍政上の奉勅命令である中支那方面軍司令部の動員命令が、陸軍大臣杉山元大将によって動員担任官へ伝宣され、同司令部の動員がなされた。
中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12… 中島 権吉(なかじま ごんきち、1882年(明治15年)12月20日 - 1946年(昭和21年)12月22日)は、大日本帝国の軍人である。海軍入隊後、海軍少将まで出世し、その後、海軍大学校の教頭を務めた。岡山県高梁市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市川端町)で中島岩松・嘉代の次男として生まれる。旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高校)を経て、1902年(明治35年)海軍兵学校を優等で卒業し、エリートコースを歩むことになる。日露戦争では、東郷艦隊付けとなり、佐世保海兵団附で津島海峡警備に当たった。 1908年(昭和41年)海軍砲術学校特修科を修了し、1917年(大正6年)に3ヶ月渡米出張した後、大正7年から10年まで(1918~21年)英国に駐在した。
米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体: 米田 國臣、1882… 米田 国臣(こめだ くにしげ、旧字体: 米田 國臣、1882年(明治15年)12月3日 - 1951年(昭和26年)2月24日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍砲兵大佐。子爵。貴族院子爵議員。旧姓・細川。旧熊本藩家老米田家。 熊本県宇土郡宇土町(現宇土市)で細川興勝(宇土藩主・故細川興文孫)の三男として生まれ、侍従・米田虎雄の養子となる。養父の死去に伴い1915年(大正4年)12月24日、子爵を襲爵した。 陸軍士官学校(15期)に入り、1903年(明治36年)11月30日に卒業し、1904年(明治37年)2月12日、砲兵少尉に任官。陸軍砲工学校を卒業し、陸軍砲兵工科学校教官、同副官、同生徒隊長、近衛野砲兵連隊付、第1師団兵器部長などを歴任。
山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )1… 山岡 重厚(やまおか しげあつ、1882年(明治15年 )11月17日 - 1954年(昭和29年 )3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉1… 出光 万兵衛(いでみつ まんべえ、1882年〈明治15年〉11月9日 - 1964年〈昭和39年〉7月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。侍従武官としての宮仕えを経て、海軍兵学校校長、舞鶴要港部司令官を務めた。 福岡県宗像市出身。地主・出光勝兵衛の三男として生れる。旧制東筑中学校(現福岡県立東筑高等学校)を経て、1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を優等で卒業し、第1艦隊参謀などを経て、1916年11月、海軍大学校(甲種14期)を卒業。 以後、水雷学校教官、イギリス駐在、軍令部第1班第2課参謀、兼参謀本部員、軍令部第2班第4課長、給炭艦「野島」艦長、「多摩」艦長、海軍省人事局第1課長、「八雲」艦長、「迅鯨」艦長、海軍通信学校教頭などを歴任し、1930年12月、海軍少将に進級。
有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 … 有地 十五郎(ありち じゅうごろう、1882年10月22日 - 1947年11月8日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 海軍中将有地品之允の三男として東京に生まれる。 1900年(明治33年)3月、高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1905年(明治38年)11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。 1915年(大正4年)5月26日、駆逐艦「夕暮」駆逐艦長に就任。1917年(大正6年)11月、海軍大学校(甲種第15期)を卒業し海軍少佐に昇進した。 1918年(大正7年)1月、「槇」艦長となり、第二特務艦隊司令部付、「柏」駆逐艦長などを歴任し、1919年(大正8年)9月15日、第2水雷戦隊参謀に就任。
角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉1… 角田 政之助(つのだ まさのすけ、1882年〈明治15年〉10月18日 - 1974年〈昭和49年〉1月24日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 群馬県北勢多郡青木村(利根郡利根村青木を経て現・沼田市利根町青木)出身。群馬県尋常中学校利根分校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。日露戦争では連隊旗手を務め負傷する。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業した。陸大同期には畑俊六、杉山元両元帥、小磯國昭、二宮治重らがいる。 インド駐箚武官、参謀本部欧米課英国班長などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第79連隊長に就任。
寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日… 寺島 健(てらしま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。 戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父寺島良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。妻は尾本知道の四女悦子 。 和歌山中学に進んだ寺島は、中学の先輩で海軍兵学校に在籍していた岡本米次郎、野村吉三郎の生徒服姿に憧れ、海軍兵学校への進学を決めた。志願者1374名中合格者は200名で、中学四年修了で受験した寺島の席次は16番であった。寺島は学年が進むとともに席次を上げ、卒業席次は4番である。
竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治1… 竹田宮恒久王(たけだのみや つねひさおう、1882年〈明治15年〉9月22日 - 1919年〈大正8年〉4月23日)は、日本の皇族・陸軍軍人。竹田宮初代当主。 北白川宮能久親王の第1王子(庶長子)。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王。官位は陸軍少将大勲位功五級に昇る。 1906年(明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、日露戦争に従軍した。井口嶺の戦いですぐ隣を進んでいた伯爵南部利祥騎兵中尉(奥州南部家第42代当主)が敵弾に当たり戦死したという挿話を伝えているが、実際には南部中尉が戦死した3月4日には王は日本に帰国しており、ありえない話である。1919年(大正8年)4月23日、当時全世界で大流行していたスペインかぜのため薨去。
赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月… 赤松 寅七(あかまつ とらしち、1882年(明治15年)9月10日 - 1971年(昭和46年)6月20日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。衆議院議員、福岡県嘉穂郡庄内町長。 福岡県嘉麻郡綱分村(嘉穂郡庄内村、庄内町を経て現飯塚市)で赤松善五郎の二男として生まれる。福岡県立東筑中学校を経て、1904年10月24日、陸軍士官学校(16期)を卒業し、同年11月1日、陸軍歩兵少尉に任官。日露戦争に出征した。 歩兵第20連隊中隊長を経て、1917年11月27日、陸軍大学校(29期)を卒業。以後、 参謀本部附、第13師団参謀、歩兵第20連隊長、第12師団司令部附(長崎医科大学配属将校)、歩兵第42連隊長などを歴任。
阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日… 阿武 天風(あぶ てんぷう、1882年〈明治15年〉9月8日 - 1928年〈昭和3年〉6月22日)は、日本の海軍軍人、小説家、編集者。雑誌『冒険世界』の主筆を務めるなどして、冒険小説を多く発表した。代表作に『太陽は勝てり』など。 本名は阿武 信一(あんの しんいち)。別名義に「髭の少尉」、「虎髯大尉(こぜんたいい)」、「阿武激浪庵」、「怒濤庵少尉」、「黒面中尉」、「黒面魔人」などがある。ただし、これら別名義に関しては、河岡潮風など阿武の周囲の人物が用いていた場合もあり、これらの名義で執筆された文章の全てが阿武のものであるというわけではない。1928年(昭和3年)6月に、松野に改姓し松野 信一となる。
鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2… 鈴木 美通(すずき よしゆき、1882年(明治15年)9月2日 - 1956年(昭和31年)3月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。 山形県出身。山形中学を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第32連隊付となる。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1911年12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付を経て、1916年(大正5年)11月、歩兵少佐に昇進し歩兵第1連隊大隊長に就任。1918年(大正7年)6月、陸大教官に転じ、関東軍司令部付に異動。1921年(大正10年)4月、歩兵中佐に進級。
箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28… 箕原 勉(みのはら つとむ、1882年〈明治15年〉8月28日 – 1964年〈昭和39年〉12月15日)は、日本の海軍軍人、電気工学者。工学博士。最終階級は海軍造兵中将。 兵庫県多紀郡篠山町(現在の丹波篠山市)出身。錦城中学校、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。海軍造兵中技士となり、1933年(昭和8年)に海軍造兵中将に至った。その間、舞鶴海軍工廠部員、呉海軍工廠部員、造兵監督官、造兵廠研究部員・海軍大学校教官、航空機試験所所員、海軍技術本部部員・艦政本部部員、海軍技術研究所工作課長、同電気研究部長・艦政本部会議議員、特許局技師、海軍技術研究所所長・海軍技術会議議員、軍令部出仕を歴任した。
高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月… 高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月24日 - 昭和41年(1966年)6月15日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。
矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8… 矢島 保治郎(やじま やすじろう、1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)は日本の探検家、軍人。四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。 文献によっては名前が「保次郎」となっているものもあるが、矢島が使っていた名刺や親族からの手紙などには「保治郎」が使われている。 群馬県佐位郡殖蓮村大字上植木(現・伊勢崎市本関町)の裕福な農家の三男に生まれる。群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退後、日露戦争に従軍。乃木希典率いる第三軍で旅順攻囲戦に参加し、突撃隊である白襷隊にも志願した。
黒羽根 秀雄(くろばね ひでお、1882年〈明治15年〉8月… 黒羽根 秀雄(くろばね ひでお、1882年〈明治15年〉8月 - 1927年〈昭和2年〉4月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。「韓崎」艦長。「鶴見」特務艦長。「対馬」艦長。山形県東田川郡手向村(現・鶴岡市羽黒町)出身。
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月1… 金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる人物である。
久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 19… 久村 種樹(ひさむら たねき、1882年4月16日 - 1967年4月26日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は陸軍中将。陸軍科学研究所長、陸軍技術本部長を歴任。戦後、東洋高圧工業(現・三井化学)社長。 滋賀県出身。近江西大路藩(蒲生郡日野町)出身の教育家久村静弥の長男として生れる。陸軍幼年学校(13期)を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校14期卒業(砲兵科)。翌年6月、砲兵少尉に任官し東京湾要塞砲兵連隊付となる。1908年(明治41年)12月、陸軍砲工学校高等科(14期)を優等で卒業。1909年(明治42年)9月、砲工学校員外学生となり東京帝国大学工学部火薬学科に入学。1912年(明治45年)7月、東京帝国大学を卒業し大阪火薬工廠宇治火薬製造所付となる。
中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月… 中島 三郎(なかじま さぶろう、1882年(明治15年)4月15日 - 1952年(昭和27年)2月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。岡山県岡山市出身。 1882年(明治15年)に岡山県上道郡字野村(現:岡山市)で生まれた。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、陸軍士官学校第13期として卒業する。1925年(大正14年)5月1日に陸軍重砲兵学校教育部長に就任し、8月7日に陸軍砲兵大佐に進級した。1928年(昭和3年)3月に横須賀陸軍重砲兵連隊長に転じ、1929年(昭和4年)8月に陸軍造兵廠総務部長に就任した。 1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将進級と同時に陸軍技術本部総務部長に着任し、1932年(昭和7年)8月に陸軍技術本部第1部長に転じた。
島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)… 島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)3月12日 - 1945年(昭和20年)9月4日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍法務中将。 1882年(明治15年)に徳島県で生まれた。東京帝国大学法学部を卒業し、高等試験司法科試験に合格。文官として陸軍法務部に奉職する。各師団の法務部長などを歴任し、甘粕事件・五・一五事件の軍法会議に法務官として参加している。その後第1師団法務部長に就任し、1935年(昭和10年)に発生した相沢事件を裁いた軍法会議に検察官として参加し、相沢三郎に死刑を求刑した。 1938年(昭和13年)に関東軍隷下の第4軍法務部長に転じ、1939年(昭和14年)に支那派遣軍法務部長を経て、1940年(昭和15年)に東部軍法務部長に就任。
伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日… 伊藤 精司(いとう せいじ、1882年〈明治15年〉3月1日 - 1964年〈昭和39年〉6月22日)は、日本陸軍の軍人。階級は陸軍少将。武道の称号は大日本武徳会銃剣術範士、剣道教士。流派は直心影流。 陸軍戸山学校教官、富山連隊区司令官、歩兵第45連隊長、陸軍憲兵学校教授、拓殖大学専門部武徳科長を歴任した。 新潟県生まれ。1897年(明治30年)新潟中学校に入学後、直心影流を学ぶ。1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月、歩兵少尉に任官。その後、陸軍きっての名剣士となる。 1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。予選リーグで大麻勇次、小関教政、早坂広道と戦い、小関に敗れ2勝1敗。
百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月… 百武 源吾(ひゃくたけ げんご、1882年(明治15年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である(陸軍大将兄弟は皇族軍人などで数例が、陸海軍を跨いだ大将兄弟は、西郷隆盛・従道兄弟、鈴木貫太郎・孝雄兄弟の2例がある)。 佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。
広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 … 広瀬 猛(ひろせ たけし、1882年(明治15年)1月5日 - 1934年(昭和9年)7月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 山梨県東山梨郡七里村に父広瀬久光の六男として生まれる。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官され歩兵第34連隊付。日露戦争に従軍。明治38年(1905年)6月に歩兵第34連隊中隊長、明治39年(1906年)11月に第17旅団副官、明治41年(1908年)4月に大尉に昇進、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し、参謀本部外国戦史課に配属された。 1920年(大正9年)8月、陸大教官に就任。
川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年… 川岸 文三郎(かわぎし ぶんざぶろう、1882年〈明治15年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉6月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 群馬県新田郡尾島町前小屋(現・太田市前小屋町)出身。川岸虎造の三男として生まれる。太田中学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年3月、歩兵少尉任官。日露戦争では、歩兵第3連隊付として出征した。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 清国駐屯軍司令部付、参謀本部員、参謀本部付(上海)、支那駐屯軍参謀、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀本部員、関東軍司令部付、参謀本部員、第1師団参謀などを歴任し、1924年(大正13年)2月から1929年(昭和4年)まで侍従武官を務めた。