平方 亨(ひらかた とおる、1957年10月10日 - )は… 平方 亨(ひらかた とおる、1957年10月10日 - )は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。群馬県渋川市出身。群馬県立渋川高等学校を経て、早稲田大学教育学部卒業。 2004年11月から1年間 国際陸上競技連盟(IAAF、モナコ)事務局勤務をアジア人唯一で務めた。その前後に、日本陸上競技連盟理事 国際委員会委員長 として2007年の大阪世界選手権の誘致の中心的働きをし、世界陸上大会時にはIAAF事務総長秘書として活躍した。 また、2016年東京オリンピック招致委員会(TOKYO2016)でスポーツディレクターを務め、幅広いIAAFの人脈を生かし、国際スポーツ競技団体(IF)と招致計画の調整を行い、リオデジャネイロやシカゴやマドリッドの他立候補都市に先立ち最初に全ての競技団体から承認を受け取ったが、最終的にはリオデジャネイロに敗れた。
臼井 淳一(うすい じゅんいち、1957年10月5日 - )… 臼井 淳一(うすい じゅんいち、1957年10月5日 - )は、日本の男性陸上競技選手。専門は走幅跳で、元日本記録保持者。1984年ロサンゼルスオリンピック・1988年ソウルオリンピックに代表選手として出場し、ロサンゼルスオリンピックでは7位に入賞した。 神奈川県出身。相模台工業高校、順天堂大学からデサントに進む。 相模台工業高校時代1年時の1973年全国IH三重大会にて走高跳1m98の記録で3位入賞。1974年の2年時久留米大会にて5種競技で5位入賞(11.5秒11.10m15.6秒1.88m50.3秒=3556点)。1975年3年時の東京大会にて400m2位(48.22秒の高校タイ)、走り幅跳3位(7.51m)、三段跳で優勝(15.64m)と3種目に3位以内入賞する大活躍を見せた。
木川 泰弘(きがわ やすひろ、1956年10月17日 - )… 木川 泰弘(きがわ やすひろ、1956年10月17日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は棒高跳。 香川県観音寺市出身。香川県立三豊工業高等学校から順天堂大学に進学し、その後は教職員。 高校2年生時の1973年、インターハイ棒高跳で優勝。準優勝は同校で1学年上の高橋卓巳だった。 翌1974年のインターハイでも連覇を達成。同年、テヘランアジア大会に出場し、5m00(当時の高校日本記録)で金メダルを獲得した。 1978年に開催されたバンコクアジア大会にも出場し、5m00で銅メダルを獲得。 1979年、東京で開催されたアジア陸上選手権でも5m00で銅メダルを獲得。 香川県内では鉄道ファンとしても知られている。
滝川 哲也(たきがわ てつや、1956年8月28日 - )は… 滝川 哲也(たきがわ てつや、1956年8月28日 - )は、東京都出身の元陸上選手。専門は長距離で、早稲田大学時代に箱根駅伝を走り4年連続10区。元時事通信社運動部長、解説委員。日本ワールドゲームズ協会(JWGA)理事、日本スポーツ協会ブランド戦略委員会委員、同協会広報部会長、同協会情報誌「Sport Japan」編集部会長、笹川スポーツ財団評議員などを歴任。2024年10月から時事総研客員研究員、スポーツジャーナリスト。 保善高校時代に全国高校駅伝1区を走り、全国高校総体(久留米総体)にも出場。早稲田大学を受験するも2年連続で不合格となり、日本大学に進学し陸上から一度引退。しかし、箱根駅伝への夢を諦めきれず、日本大学に在学しながら早稲田大学を受験し、合格した。
秋元 恵美(あきもと えみ、1956年7月19日 - )は、… 秋元 恵美(あきもと えみ、1956年7月19日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門分野はハードル競走。アジア陸上競技選手権大会において1979年から1983年までの間に100メートル (m)ハードルでいずれも大会新記録による3連覇を達成した。1982年アジア競技大会では、ハードルと400mリレーで2個の金メダルを獲得している。日本陸上競技選手権大会では6度優勝した。 このほか、1983年世界陸上競技選手権大会では日本代表、IAAF陸上ワールドカップ(1979年・1981年)ではアジア代表として、それぞれ出場歴がある。 現役時代の後半には、結婚に伴い佐々木 恵美(ささき えみ)の名前で競技会に出場した。
豊田 敏夫(とよた としお、1956年7月19日 - )は日… 豊田 敏夫(とよた としお、1956年7月19日 - )は日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。熊本県人吉市出身。
瀬古 利彦(せこ としひこ、1956年〈昭和31年〉7月15… 瀬古 利彦(せこ としひこ、1956年〈昭和31年〉7月15日 - )は、三重県桑名市出身の元陸上競技選手、陸上競技指導者。 現役時代の専門は長距離走・マラソン(ただしキャリア初期は中距離走)で、1970年代後半から1980年代にかけて宗茂・宗猛兄弟、伊藤国光、中山竹通、新宅雅也らとともに日本の男子長距離走のトップランナーだった。一時は10000メートル (m)・20000m・30000m・マラソンの日本記録を保持し、30000mについては世界記録保持者でもあった(20000mと30000mは2024年時点でも日本記録保持)。1980年モスクワオリンピック(日本は不参加)から1988年ソウルオリンピックまで3大会連続でオリンピックのマラソン日本代表に選ばれた。
成田 道彦(なりた みちひこ、1956年2月6日 - )は、… 成田 道彦(なりた みちひこ、1956年2月6日 - )は、秋田県北秋田市出身の元陸上競技選手。法政大学陸上競技部監督を経て、2013年4月より同校陸上競技部副部長を務める。 秋田県立西目農業高等学校(現・秋田県立西目高等学校)卒業後、法政大学に入学。当時低迷期にあったチームでエースとして活躍し、箱根駅伝では2年時から3年連続で2区を走った。4年時にあたる1978年の第54回大会では、早稲田大学の瀬古利彦、日本体育大学の中村孝生ら強豪を抑えて区間賞を獲得。母校を17年振りに先頭に立たせ、9年振りのシード権獲得(8位)の原動力となった。特に学生最強ランナーと言われた瀬古を破った男として現在でも名前を見つけることができる。
小山 裕三(こやま ゆうぞう、1956年2月3日 - )は、… 小山 裕三(こやま ゆうぞう、1956年2月3日 - )は、日本の体育学者、陸上競技選手、陸上競技指導者、陸上競技解説者。砲丸投元室内日本記録保持者。佐野日本大学短期大学学長。専門はスポーツ運動学。日本大学陸上競技部元監督。博士(体育科学)(国士舘大学)。 千葉県出身。成田高等学校を1974年に卒業。日本大学法学部管理行政学科卒業。日本大学文理学部体育学科聴講生を経て、筑波大学大学院修士課程体育研究室研究生。現役時代は砲丸投の日本トップ選手としてゴールドウインに所属して活躍した。第62回(1978年)、第63回(1979年)日本陸上競技選手権大会において優勝。 現役引退後は、母校の成田高等学校で13年間教員を務め、のち日本大学に移る。
高橋 卓巳(たかはし ともみ、1956年1月29日 - )は… 高橋 卓巳(たかはし ともみ、1956年1月29日 - )は、日本の男子陸上競技(棒高跳)選手。名前については、現役時代のマスコミ報道で「高橋卓己」と表記されていた例が複数あり、2015年の時点でもそのように表記されていた。 香川県三豊郡大野原町(現:観音寺市)出身。香川県立三豊工業高等学校3年時の1973年、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)の棒高跳で準優勝。この時の優勝者は、同じ高校の1学年後輩である木川泰弘だった。 中京大学卒業後は香川県教職員となる。1978年、日本陸上競技選手権大会で初優勝。バンコクアジア大会棒高跳に出場し、5メートル (m)10で金メダルを獲得。 1980年、日本選手権で2年ぶり2回目の優勝。
大前 千代子(おおまえ ちよこ、1956年1月2日 - )は… 大前 千代子(おおまえ ちよこ、1956年1月2日 - )は、広島県出身の障害者スポーツ選手で、アーネムパラリンピック金メダリスト(アーチェリー)および同大会銅メダリスト(陸上競技)。このほか、パラリンピックには車いすテニスでアトランタ、シドニー、アテネ、北京の4大会に連続出場、うちアテネ大会で日本女子では最高となる女子ダブルス4位の成績をおさめた。 呉市に生まれる。1歳半でポリオを発症、下半身麻痺となった。幼少期に両親とともに大阪へ転居、養護学校から佛教大学へ進学、社会福祉を学びながら肢体不自由児のボランティアにいそしんだ。 大学卒業後に大阪市長居障害者スポーツセンターでアーチェリーに出会う。
植田 恭史(うえた やすし、1955年11月13日 - )は… 植田 恭史(うえた やすし、1955年11月13日 - )は、日本の陸上競技選手である。 1984年ロサンゼルスオリンピックで男子三段跳に出場した。その後、東海大学のスポーツ科学の教授になった。現在は一般社団法人関東学生陸上競技連盟会長。東海大学政治経済学部経済学科卒業。
大久保 初男(おおくぼ はつお、1955年2月26日 - )… 大久保 初男(おおくぼ はつお、1955年2月26日 - )は、日本の陸上競技選手。専門は長距離。元仙台大学助教授。 宮城県柴田町出身。東北高等学校卒業。大東文化大学時代に箱根駅伝で大活躍。とりわけ山登りの技術に長け、5区で4年連続区間賞を獲得するという金字塔を打ち立てた。山登りの名人との異名をとった。いわゆる「山の大東」を象徴する野武士の一人。 スポーツライターの生島淳は今井正人以前の「元祖・山の神」は大久保であると言及している。 大学卒業後は大昭和製紙に奉職。仙台大学助教授などを歴任し、仙台大学陸上競技部監督も務めた。 長男の大久保陸人も陸上選手で、2015年に父と同様、大東文化大学に入学。
伊藤 国光(いとう くにみつ、1955年1月6日 - )は、… 伊藤 国光(いとう くにみつ、1955年1月6日 - )は、長野県伊那市西箕輪出身の元陸上競技(長距離・マラソン)選手。JFEスチール競走部前監督。 長野県上伊那農業高等学校時代は全国高等学校駅伝競走大会で3年連続して1区(10km)に出場。3年生時の1972年には区間賞を獲得した。高校卒業後、カネボウ陸上競技部に進む。 カネボウ時代は10000mの日本新記録、マラソン、30kmロードレース、20000m、10マイルロードレースの日本最高記録を記録した。日本が不参加だった幻の1980年モスクワオリンピック10000m日本代表。1981年の第4回アジア陸上競技選手権大会では10000mで優勝している。
岩井 寿史(いわい ひさし、1955年 - 2020年10月… 岩井 寿史(いわい ひさし、1955年 - 2020年10月13日)は、日本の陸上競技選手である。専門は十種競技。群馬県出身。1970年代後半から1980年代前半にかけて活躍し、アジアの鉄人と呼ばれた。 群馬県立富岡高等学校、順天堂大学を卒業。1977年、日本選手権で7207点をマークして優勝。1978年(昭和53年)、日本選手権を7184点で制し、アジア大会代表に選出。タイ・バンコクで開催された第8回アジア大会陸上競技男子十種競技に日本代表として出場し、当時の世界でトップレベルだった中国、インドの選手を退け、7003点をマークし、優勝した。 2020年10月13日に逝去。 棒高跳の競技中に右足かかとを骨折し、まともに競技ができる状態ではなかったが、痛み止めの注射を打ち、精神力で残りの競技を行った。
岩瀬 哲治(いわせ てつじ、1954年9月18日 - )は、… 岩瀬 哲治(いわせ てつじ、1954年9月18日 - )は、日本の元陸上競技選手、指導者。愛知県出身。東京農業大学農学部農業工学科卒業。 中京高等学校、東京農業大学出身。 全国高校駅伝には3年連続で出場。2年時は7区を走り、2位でゴールテープを切った。 1年時の第50回箱根駅伝では、大会前に故障した影響で本調子ではないながらも1区に起用されたが、区間13位にとどまった。しかし、2区・服部誠が史上最多(当時)の12人抜きでトップに立つと、1年生を並べた3区~5区でも首位を守り、大学史上初めての往路優勝を果たした。これは2025年現在、東京農業大学唯一の往路優勝である。 2年時の第51回箱根駅伝では7区を走ったが、区間9位にとどまった。
山本 吉光(やまもと よしてる、1954年4月26日 - )… 山本 吉光(やまもと よしてる、1954年4月26日 - )は、日本の元陸上競技選手。神奈川県相模原市緑区出身。東京農業大学卒業。 相模原市立北相中学校、神奈川県立相原高等学校、東京農業大学出身。 中学時代はバレーボール部に所属していたが、短距離走や走幅跳、三段跳などの大会に出場していた。 1年時の秋に長距離走に転向した。全国高等学校駅伝競走大会には3年連続で出場し、1年時は6区区間6位で初優勝に貢献した。 1年生で迎えた第50回箱根駅伝では3区を担当。1区で13位と出遅れたものの、2区を走った服部誠が史上初の12人抜きの快走を見せトップで襷を受ける。区間賞の走りで後続との差を広げ、大学史上初の往路優勝に貢献した。
武冨 豊(たけとみ ゆたか、1954年2月16日 - )は佐… 武冨 豊(たけとみ ゆたか、1954年2月16日 - )は佐賀県出身の元陸上競技選手、現指導者。 佐賀県立多久工業高等学校時代に全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)5000mに出場。予選会となる北九州総体で4位に入賞して全国大会出場を決めたが、そのときの優勝は喜多秀喜、2位は宗茂、3位は宗猛と上位入賞者は全て後のオリンピック代表(ただし喜多は幻の1980年モスクワオリンピックのみの代表)だった。 1972年に神戸製鋼所に入社。喜多秀喜らとともに陸上部の中心選手となる。 1978年にボストンマラソンで9位入賞、1979年に別府大分毎日マラソンで1位と0.3秒差の2位。翌1980年に同マラソンで優勝。
吉本 敏寿(よしもと としひさ、1953年7月 - )は、日… 吉本 敏寿(よしもと としひさ、1953年7月 - )は、日本の陸上競技選手。専門は跳躍競技。 広島県佐伯郡能美町(現在の江田島市能美町)出身。能美中学校から山陽高等学校、中京大学に進み、1975年にアジア陸上競技選手権大会(ソウル)で三段跳金メダル(15m87)。大学在学中には、走幅跳で7m61の記録も残している。 山陽高等学校に教員として勤める。 1980年、第14回織田幹雄記念国際陸上競技大会の走幅跳で7m98の記録を出す。1980年モスクワオリンピックで代表選手に選ばれたが、日本のボイコットにより不参加となった。
山田 恵子(やまだ けいこ、1953年6月23日 - )は日… 山田 恵子(やまだ けいこ、1953年6月23日 - )は日本の女子陸上競技(短距離走)選手。 香川県綾歌郡端岡村(現:高松市国分寺町)出身。国分寺中学校、香川県立丸亀高等学校、日本体育大学卒。その後は教員となる。 高校1年生時の1969年インターハイで100メートルと200メートルの2冠を達成。3年生時の1971年にも再び100メートルと200メートルの2冠を達成し、この大会で丸亀高校は学校対抗(女子)で総合優勝した。 日本陸上競技選手権大会では1970年、高校2年生のときに100メートルと200メートルの2冠を達成。翌1971年にも2年連続で100メートルと200メートルの2冠を達成。その後、100メートルは1973年まで優勝して4連覇を達成。
宗 猛(そう たけし、1953年1月9日 - )は、日本の元… 宗 猛(そう たけし、1953年1月9日 - )は、日本の元陸上競技選手・指導者である。現役時代の専門は長距離走・マラソンであった。一卵性双生児の兄宗茂、瀬古利彦とともに1980年代前半日本男子マラソンのビッグ3として、マラソン界をリードした。旭化成陸上部に所属し、引退後も指導者として2025年3月まで活動した(現在は顧問)。また、2012年11月から2016年10月まで公益財団法人日本陸上競技連盟中長距離・マラソン部長を務めた。 大分県臼杵市出身。茂とともに中学時代より陸上競技を始める。中学2年で兄弟揃って大分県内一周駅伝に出場するなど、早くから地元では注目されていたが、同じ2年生からは学校の指導者が不在となり、茂とともに自主的に考えてトレーニングをしたという。
曽根 幹子(そね みきこ、1952年10月24日 - )は、… 曽根 幹子(そね みきこ、1952年10月24日 - )は、日本の陸上競技選手(走高跳)、スポーツ科学・スポーツ史研究者。走高跳の元日本記録保持者であり、1976年モントリオールオリンピックに参加した。広島市立大学名誉教授。姓は「曾根」とも表記される。 現在の三次市甲奴町出身。甲奴中学校を経て広島県立上下高等学校に進み、高校2年生の時に日本選手権を制する。翌年の日本選手権では鈴木久美江(東洋大学)と死闘のすえ1m69cm(高校記録)を出した。東洋大学に進学後、茨城国体で1m83cm(日本記録)、世界室内陸上競技会で1m80cm(室内新記録)の記録を残す。当時のスポーツ界では異色の才女と呼ばれたといい、東洋大学文学部国文学科に提出した卒業論文は「奥の細道-芭蕉と木曾義仲の接点-」であった。
喜多 秀喜(きた ひでき、1952年9月28日 - )は、佐… 喜多 秀喜(きた ひでき、1952年9月28日 - )は、佐賀県鹿島市出身の元陸上競技選手、流通経済大学社会学部教授、陸上競技部監督。 佐賀県立鹿島実業高等学校を卒業後、福岡大学に進学。福岡大学卒業後、神戸製鋼所に入社。武冨豊らと陸上部を引っ張った。 1978年12月の福岡国際マラソンでは優勝した瀬古利彦に次ぐ2位、1979年2月の別府大分毎日マラソンで優勝。日本が不参加となった1980年モスクワオリンピックには、マラソンの選考レースだった福岡国際マラソンは惨敗したものの、5000、10000メートルの代表に選ばれている。1981年には海外の強豪を抑え第1回東京国際マラソンで優勝を果たした。その後北京国際マラソン、青梅マラソンを制した。
服部 誠(はっとり まこと、1952年9月9日 - )は、日… 服部 誠(はっとり まこと、1952年9月9日 - )は、日本の元陸上競技選手。神奈川県横浜市出身。東京農業大学農学部卒業。同大学の教員を経て、現在は服部牧場のオーナーを務める。 横浜市立蒔田中学校、神奈川県立相原高等学校出身。 全国高等学校総合体育大会、国民体育大会の5000mで優勝。全国高校駅伝では1区で区間賞を獲得し、初優勝に貢献した。 多数の強豪校からスカウトの声がかかったが、実家の牧場を継ぐために東京農業大学に進学。東京農業大学は箱根駅伝から遠ざかっていたが1年時の予選会を突破し、7年ぶりの本戦出場を決めた。第48回箱根駅伝では2区を走り、1時間15分58秒で区間4位だった。 2年時の箱根駅伝予選会はトップで通過し、2年連続で本戦出場を決めた。
湶 純江(あわら すみえ、1952年8月19日 - 2007… 湶 純江(あわら すみえ、1952年8月19日 - 2007年10月17日)は、日本の陸上競技(走幅跳)選手。1976年モントリオールオリンピックに出場。1976年から1987年にかけて、女子走幅跳の日本記録保持者であった。 長野県上田市出身。きょうだい皆が学生スポーツで活躍したというスポーツ一家に育つ。長野県上田千曲高等学校卒業。東急に所属し、1974年の第14回実業団・学生対抗陸上競技大会の女子走幅跳において6m00cmの記録で優勝した。 その後、⻑野スズキに所属。1976年4月25日の長野県春季大会において、女子走幅跳で当時の日本タイ記録である6m41cmをマークした。同年のモントリオールオリンピックに出場した。
小西 恵美子(こにし えみこ、1952年5月23日 - )は… 小西 恵美子(こにし えみこ、1952年5月23日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は短距離走。個人種目では女子60mと女子100mの元日本記録保持者。オリンピックと世界選手権の出場経験こそないが、アジア大会とアジア選手権では多数の金メダルを獲得している。
水野 利夫(みずの としお、1952年3月31日 - )は、… 水野 利夫(みずの としお、1952年3月31日 - )は、日本の陸上競技選手。群馬県出身。専門は短距離走、元400m日本記録保持者。 群馬県立高崎商業高等学校時代にインターハイを制した[要説明]。 順天堂大学へ進学し、1974年第7回アジア大会(テヘラン)に出場し、400メートルリレー走で4位だった。大学卒業後は高崎工業高等学校教員となった。 1975年日本陸上競技選手権大会男子400mで優勝し、46秒86の日本新記録(当時)をマークした。
石沢 隆夫(いしざわ たかお、1952年 - 2017年7月… 石沢 隆夫(いしざわ たかお、1952年 - 2017年7月16日)は、千葉県出身の元陸上競技選手。専門は短距離走。男子100mの元日本記録保持者。 大学は早稲田大学に進学。1971年に日本選手権男子200mで優勝。翌年の1972年には日本選手権男子100mで優勝し、神野正英の5連覇を阻止した。1973年にはアジア選手権の男子100mで銅メダル、男子4×100mリレーで金メダルを獲得。この大会の男子100m準決勝では10秒1の日本タイ記録をマークしたが、大会事務局は当初「風速計を読み違えた」として追い風参考記録と発表した。しかし、後に正式記録と訂正した。1974年にはアジア大会男子200mで銀メダルを獲得。
山下 博子(やました ひろこ、1951年7月29日 - )は… 山下 博子(やました ひろこ、1951年7月29日 - )は、日本の陸上競技選手。女子走幅跳の元日本記録保持者。高校1年時の1967年より日本陸上競技選手権大会を8連覇。アジア競技大会に2度、オリンピックに1度(ミュンヘン)出場。 福岡県添田町出身。添田町立添田中学校在学中に参加した、1965年の全日本中学生陸上競技会の女子走幅跳において、5m43(中学生新記録)で優勝。翌1966年の全日本中学生陸上競技会では5m90と自己の記録を塗り替えて優勝した。 1967年、福岡県立三潴高等学校1年生の山下は、日本陸上競技選手権大会の女子走幅跳で優勝。以後、1974年まで8連覇しており、連覇記録は2021年現在も破られていない。
川崎 清貴(かわさき きよたか、1950年7月11日 - )… 川崎 清貴(かわさき きよたか、1950年7月11日 - )は、日本の陸上競技選手。男子円盤投元日本記録保持者。中京大学体育学部卒業。身長198cm、体重100kg。 日本選手権6回優勝。日本記録を6回更新した選手で、1979年4月22日に出した60m22cmは、2017年まで陸上競技最古の日本記録として残っていた。 広島県呉市出身。広島県立広高等学校~中京大学卒業。中京大時代の1970年からインカレ3連覇。大学卒業後は大昭和製紙に入社し活躍。1973年から日本選手権2連覇。 1974年には梁川昌三が樹立した52m22の日本記録を10年ぶりに更新する52m86の日本新記録をマーク。1975年、53m18の日本新記録を樹立。
友永 義治(ともなが よしはる、1950年2月18日 - )… 友永 義治(ともなが よしはる、1950年2月18日 - )は、日本の陸上競技選手。日本陸上競技連盟副会長、日本実業団陸上競技連合理事長。 広島県庄原市宮内町出身。 1967年、広島県立三次工業高校(現・広島県立三次青陵高校)卒業後、日立に勤務。1969年 - 1974年、日本選手権400m6連勝。1972年 - 1975年、日本選手権200m4連勝。1970年、第6回アジア競技大会(バンコク)400mで46秒6の日本新記録で優勝。1972年ミュンヘンオリンピック400mに出場した。 日本実業団陸上競技連合理事長(2007年12月の五島哲会長の急死で一時会長代行兼務)を務め、企業チームの縮小問題や小林祐梨子の実業団大会出場問題などの折衝にあたる。
岩渕 仁(いわぶち ひとし、1948年10月13日 - )は… 岩渕 仁(いわぶち ひとし、1948年10月13日 - )は、日本の元陸上競技選手、指導者。岩手県東磐井郡大東町出身。日本体育大学体育学部卒業。 大船渡市立第一中学校、岩手県立大船渡高等学校、日本体育大学出身。 中学2年生までは生まれ故郷である岩手県東磐井郡大東町で育ったが、父親が事業に失敗して破産。三陸沿岸の大船渡市へ移り、大船渡市立第一中学校に転校した。高校入試では全日制の試験に不合格となり、岩手県立大船渡高等学校(定時制)に進学する。昼は地元の新聞社で写真の暗室作業と、写真製版の仕事をした。午後9時に授業が終わり、ほの暗い照明の下で10時半まで練習し、11時半に帰宅する生活を送っていた。卒業後は警察官になるつもりだったが、両親が「お金はなんとかするから」と進学を勧め、4年生の秋頃に日本体育大学への進学を志すようになる。
神野 正英(じんの まさひで、1948年8月7日 - )は日… 神野 正英(じんの まさひで、1948年8月7日 - )は日本の男子陸上競技選手。専門は短距離走。高知県出身。 中学時代から陸上競技を始める。当初は走幅跳の選手だった。高知市立高知西部中学校の1期生で、当時校庭が小学校と併用だったため練習場所が限られ、助走路と砂場だけが確保できた走幅跳をおこなったという。中学3年だった1963年に県の大会で6メートル67センチを記録し、中学ランキングで3位だった。一方で短距離走もおこない、同じ中学3年生の6月に高知中学通信競技選手権大会で11秒5を出した(1か月前には12秒5だった)ことで自らのスピードを自覚したという。 高知高等学校に進学する。高校時代も走幅跳を続け、2年生の時には第20回国民体育大会に7メートル18センチで優勝し、この年の自己ベストは7メートル20センチで、追い風参考で7メートル41センチを記録したこともあった。
小山 隆治(こやま たかはる、1948年7月8日 - 201… 小山 隆治(こやま たかはる、1948年7月8日 - 2018年9月11日)は、日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手。3000メートル障害の元日本記録保持者であり、日本選手権6連覇、オリンピック出場2回。1972年ミュンヘンオリンピックでは決勝進出を果たした。ロードレースでも箱根駅伝や全日本実業団駅伝で成績を残している。 福岡県出身。常磐高等学校を経て順天堂大学に入学。順天堂大学では、箱根駅伝に4年連続出場、区間賞1回。 1971年、大学を卒業してクラレに入社。日本選手権では1971年から1976年まで3000メートル障害で6連覇を達成した。 1972年ミュンヘンオリンピックでは3000メートル障害と5000メートル競走に出場。
安田 亘(やすだ わたる、1947年9月27日 - 2021… 安田 亘(やすだ わたる、1947年9月27日 - 2021年5月21日)は、日本の元陸上競技選手、指導者。福島県岩瀬郡須賀川町出身。大東文化大学経済学部卒業。 日本大学東北高等学校卒業後、3年間の社会人生活を経て1969年に大東文化大学に入学した。 4年連続で箱根駅伝に出場。 3年時の第48回箱根駅伝では2区を担当。首位で襷を受けたが、区間9位にとどまり、2km付近でトップを譲ると5位まで後退した。主将を務めた4年時の第49回箱根駅伝では9区を走り、3番手で襷を受けると16.6km付近で中央大学、23km付近で日本体育大学を抜いてトップに立つ。区間賞を獲得し、初の復路優勝に貢献した。 全日本大学駅伝では1年時の第1回大会で5区区間賞を獲得。
竹内 章(たけうち あきら、1947年3月2日 - )は、日… 竹内 章(たけうち あきら、1947年3月2日 - )は、日本の陸上競技選手。1972年ミュンヘンオリンピックに3000メートル障害で出場した。 広島県比婆郡西城町(現在の庄原市西城町)出身。町立の美古登小学校、西城中学校を経て、盈進高等学校卒業。日立造船に所属。1971年、第11回実業団・学生対抗陸上競技大会の3000メートル障害で優勝。 1972年ミュンヘンオリンピックに3000メートル障害で出場した。記録は1次予選で5着(8分40秒4)で、予選通過はならなかった。
渡辺 高夫(わたなべ たかお、1947年 - )は日本の陸上… 渡辺 高夫(わたなべ たかお、1947年 - )は日本の陸上競技指導者。福島県田村郡船引町(現・田村市)出身。大東文化大学卒業。埼玉栄高等学校、ミヤマ(のち社名変更を受けMDI、現レオパレス21)、日清食品、仙台育英学園高等学校にて教員・指導者を務めた。全国高等学校駅伝競走大会では監督として通算7度の優勝を飾る。また全日本大学女子駅伝対校選手権大会の仙台移転開催に尽力した。 全国高等学校駅伝競走大会では埼玉栄高校で1回(1987年)、仙台育英高校で6回(1999年、2001年、2003年-2005年、2007年)の優勝を誇る。 埼玉栄高校では、巽博和、山本正樹、MDI(現・レオパレス21)、その後日清食品では実井謙二郎、アロイス・ニジガマ、ジュリアス・ギタヒ、仙台育英高校ではジェームス・ワイナイナ、サムエル・カビル、清野純一、サムエル・ワンジル、佐藤秀和、高橋優太、ミカ・ジェル、絹川愛、上野渉をはじめとする数多くの選手を指導し鍛え上げた。
村田 広光(むらた ひろみつ、1946年11月28日 - 2… 村田 広光(むらた ひろみつ、1946年11月28日 - 2003年5月27日)は日本の陸上選手、プロ野球コーチ。宮崎県児湯郡都農町出身。
香丸恵美子(こうまる えみこ、1946年11月17日 - )… 香丸恵美子(こうまる えみこ、1946年11月17日 - )は、日本の陸上競技選手。1964年、高校在籍中に女子走幅跳の日本記録を更新し、同年の東京オリンピックに出場。走幅跳で日本選手権優勝1回、アジア大会銀メダルの成績を残したほか、100m走でも全日本実業団陸上で優勝している。 結婚後の姓は岡山。娘の岡山奈津子・岡山沙英子(英語版)も走幅跳選手。沙英子は母に次いで日本選手権のタイトルを獲得した。また、妹の香丸由美子も走幅跳選手であった。 福岡県立三潴高等学校在学中の1964年9月13日、走幅跳で6m17を記録し、日本記録を更新した。1964年東京オリンピックに出場。 のちにリッカーミシンに所属。
山本 久男(やまもと ひさお、1946年7月21日 - )は… 山本 久男(やまもと ひさお、1946年7月21日 - )は、日本の男子陸上競技(やり投)選手。富山県出身、順天堂大学卒。1960年代から70年代にかけて、日本陸上競技選手権大会のやり投げ種目で優勝5回、アジア競技大会金メダリスト。 富山県立砺波高等学校在学中の1963年(昭和38年)、第18回国民体育大会に出場し、高校男子やり投で優勝。全国高等学校総合体育大会でも1963年・1964年とやり投げで2連覇している。 順天堂大学に進学し、在学中の1967年(昭和42年)、日本陸上競技選手権大会のやり投で優勝。1967年(昭和42年)にはユニバーシアード(東京)の日本代表に選ばれ、銅メダルを獲得した。
富沢 英彦(とみざわ ひでひこ、1946年6月1日 - 20… 富沢 英彦(とみざわ ひでひこ、1946年6月1日 - 2018年8月10日)は、日本の陸上競技選手。元走高跳日本記録保持者。1972年ミュンヘンオリンピック代表。群馬県安中市松井田町(旧碓氷郡松井田町)出身。順天堂大学卒業。大阪府の高校で教諭を務めた。
室谷 信雄(むろや のぶお、1946年〈昭和21年〉2月11… 室谷 信雄(むろや のぶお、1946年〈昭和21年〉2月11日 - 2018年〈平成30年〉12月5日)は、日本の喜劇役者、タレント。 大阪府泉佐野市出身。吉本興業に所属し、1970年代から1984年まで活躍。吉本新喜劇の座長として間寛平や木村進、帯谷孝史ら座員はもちろん、多くの芸人から、先輩後輩問わず尊敬され慕われた。1984年11月、喉頭癌で声を失い、惜しまれつつ引退した。 泉佐野市立長南中学校、浪速高等学校卒業後、1964年6月に吉本興業に入り。白木みのる、ルーキー新一に師事する。付き人生活を終えて吉本新喜劇に入団。やがて木村進、間寛平らが新喜劇に入団し、若手の活躍が増えると共に室谷も、次第に薄くなってきた髪の毛のネタで脚光を浴びる。
吉田 正美(よしだ まさみ、1946年1月17日 - )は、… 吉田 正美(よしだ まさみ、1946年1月17日 - )は、日本の短距離走選手。1964年東京オリンピックの4×400mリレーに出場した。 日本大学三島高等学校、日本大学出身。
室伏 重信(むろふし しげのぶ、1945年〈昭和20年〉10… 室伏 重信(むろふし しげのぶ、1945年〈昭和20年〉10月2日 - )は、日本の元陸上競技選手、陸上競技指導者。専門はハンマー投で、男子同種目・前日本記録保持者。中京大学名誉教授。2004年アテネオリンピックハンマー投金メダリストの室伏広治と、女子ハンマー投日本記録を長年保持していた室伏由佳の実父である。重信は息子の広治に次ぐ、日本歴代2位のハンマー投記録保持者。 日本大学経済学部卒業。大昭和製紙に所属。オリンピック日本代表4回、アジア大会5連覇、日本選手権10連覇などの金字塔を打ち立て「アジアの鉄人」とうたわれた。 重信がマークした75m96の日本記録は、1998年に息子の室伏広治に破られたが、広治に次ぐ日本歴代2位である。
佐々木 精一郎(ささき せいいちろう、1945年9月2日 -… 佐々木 精一郎(ささき せいいちろう、1945年9月2日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。 1960年代後半から1970年代前半の戦後日本の男子マラソン第1次黄金時代に活躍したランナーで、1968年メキシコシティーオリンピックに男子マラソン日本代表として出場した。佐賀県鳥栖市出身。 佐々木とマラソンの出会いは佐賀県の鳥栖市立田代中学校時代。「1年か2年の時(本人談)」に校内マラソン大会で10位に入り、市内の中学駅伝大会の代表選手になったことがきっかけだった。当時同校には陸上部がなく、バレー部顧問の教諭の指導を受けた。 高校は佐賀県立鳥栖工業高等学校に進学。陸上部に入り、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)、国体で上位入賞する他、2年・3年時に全国高等学校駅伝競走大会に出場。
坂井 義則(さかい よしのり、1945年(昭和20年)8月6… 坂井 義則(さかい よしのり、1945年(昭和20年)8月6日 - 2014年(平成26年)9月10日)は、日本の元陸上競技選手。元フジテレビ社員。1964年東京オリンピックの開会式で聖火リレーの最終ランナーを務めた。 坂井は広島市に原子爆弾が投下された1時間半後に、現在の広島県三次市(当時は双三郡三次町)にて出生した。坂井自身は被爆者ではないが、電力会社に勤務していた父は被爆者健康手帳の保有者である。 広島県立三次高等学校在学中の1963年(昭和38年)、第19回国民体育大会400mで優勝、東京オリンピックへの出場を目指し、1964年(昭和39年)早稲田大学に入学した。当初、関西学院大学を目指していたが、同じ広島県出身で早稲田OBの小掛照二の勧誘により、進路を変更したという。
岡田 正裕(おかだ まさひろ、1945年7月27日 - )は… 岡田 正裕(おかだ まさひろ、1945年7月27日 - )は、熊本県熊本市出身の元陸上競技選手・現指導者。専門は現役時・指導者ともに長距離走である。鎮西高等学校、亜細亜大学出身。 大学3年時には主将を務め、第43回箱根駅伝で母校を初出場に導く。同大会では9区を走り区間9位。チームは総合11位でシード権を逃した。4年時の第44回大会では3区を走り区間10位。チームは総合8位で初のシード権を獲得した。 1968年に地元食品メーカーのフンドーダイに就職。営業として社業に従事しながら陸上競技を継続。九州一周駅伝に10年連続出場し、33歳で現役を引退。 1986年から地元のスーパーマーケットチェーン・ニコニコドーに出向し女子陸上部を創設、監督に就任する。
中村 宏之(なかむら ひろゆき、1945年6月9日 - 20… 中村 宏之(なかむら ひろゆき、1945年6月9日 - 2025年4月29日)は、日本の陸上競技指導者、元陸上競技選手。北海道ハイテクAC前監督。福島千里(100m、200m日本記録保持者)、北風沙織、寺田明日香などの短距離走選手の育成・指導で知られる。 北海道富良野市出身。札幌東高等学校時代に陸上競技を始め、三段跳びの選手として活躍した。日本体育大学ではインカレや日本選手権上位に入る。教員になった後も陸上競技を続け、中標津高等学校教員時代には第14回東日本実業団陸上競技選手権で三段跳びで優勝している。その後は指導者へと転向し、北海道恵庭北高等学校時代には伊藤佳奈恵(100m、200m元日本記録保持者)らを指導した。
永井 純(ながい じゅん、1944年5月20日 - )は、日… 永井 純(ながい じゅん、1944年5月20日 - )は、日本の中距離走選手である。 東京教育大学体育学部卒、青山学院大学講師、筑波大学体育学系長距離走研究室講師、助教授、教授。2008年定年退任、名誉教授。 大学在学中は3年生でキャプテンを務め、第42回箱根駅伝に出場した。(7区区間14位) 1968年メキシコシティーオリンピックで男子800メートル競走に出場した。 この項目は、陸上選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:陸上競技/PJ陸上競技)。
石田 義久(いしだ よしひさ、1944年5月19日 - )は… 石田 義久(いしだ よしひさ、1944年5月19日 - )は、日本の陸上競技選手。元砲丸投日本記録保持者。メキシコシティオリンピック、ミュンヘンオリンピック日本代表。第2回アジア選手権金メダリスト。 1962年6月23日、近畿大学附属高等学校に在学中に全国高校近畿地区予選会に出場し、砲丸投で16m69の全国高校新記録を樹立して注目を集める。インターハイでは円盤投で準優勝。 1963年に日本大学進学、大学3年次の1965年第49回日本選手権男子ハンマー投で63m32の記録で優勝。ハンマー投げでは1969年、1972年・1973年にも日本選手権で優勝するなど4回の優勝を飾っている。砲丸投では1964年、1966年・1967年と日本選手権で3度の優勝を果たし、円盤投では1966年の日本選手権で優勝するなど、投擲3種目での日本王者経験を持つマルチ選手でもあった。