丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月… 丸山 千里(まるやま ちさと、1901年(明治34年)11月27日 - 1992年(平成4年)3月6日)は、日本の医学者、皮膚科医。第6代日本医科大学学長、同大学名誉教授。皮膚結核および癌の治療薬を目指していた丸山ワクチンの開発者である。医学博士(東京大学)。長野県茅野市出身。 1901年、長野県諏訪郡金沢村(現在の茅野市の一部)にて、小学校訓導の父・小三郎と母・はつの五男一女の末っ子として生まれる。 1908年、金沢村金沢尋常小学校(現在の茅野市立金沢小学校)入学。1914年、豊田尋常高等小学校尋常科を卒業、富士見金沢組合立富士見高等小学校に入学。1915年、東京の日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)入学。
浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5… 浅野均一(あさの きんいち、1901年〈明治34年〉10月5日 - 1984年〈昭和59年〉12月13日)は、日本の医師、陸上競技指導者、スポーツ行政官。昭和期の日本陸上界を牽引し、国際復帰にも尽力した。荻窪病院理事長、日本陸上競技連盟名誉会長、日本オリンピック委員会(JOC)委員を歴任。医学博士。 1901年、東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。慶應義塾大学医学部を1926年(大正15年)に卒業し、同大学にて医学博士号を取得。後に慶應義塾大学体育研究所教授を務め、退任後は名誉教授に就任した。 大学在学中から陸上競技(短距離)選手としても活動し、1923年(大正12年)の第6回極東選手権競技大会(マニラ)にて1600メートルリレー優勝メンバーとして国際大会で活躍した。
細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 197… 細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 - 1970年10月13日)は、日本の医師、医学者。新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。 愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)生まれ。岡金太郎の長男として生まれる。 旧制愛媛県立宇和島中学校、旧制佐賀高等学校を経て、1927年、東京帝国大学医学部を卒業。 1936年、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮)にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。1941年、水俣工場附属病院長に就任。その後軍医としてビルマに赴任した。1947年に復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。
北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1… 北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1987年10月27日)は、日本の歯科医師、歯科教育者。松本歯科大学の初代学長を務めた。日本の歯科医療と教育の発展に尽力した。 宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、日本歯科大学に進学し、歯科医学を修めた。大学卒業後、歯科医療に従事しながら教育者としての道を歩み、日本歯科大学で教授として教鞭を執る。特に歯科補綴学の分野で指導を行った。その後、松本歯科大学の初代学長に就任し、大学の発展に寄与した。松本歯科大学では、歯科補綴学第二講座を開設し、補綴治療(入れ歯や被せ物などの治療)の教育と研究に尽力した。
山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 198… 山崎 清(やまざき きよし、1901年6月30日 - 1985年2月22日)は、日本の歯科医、画家、顔の研究家。 埼玉県越谷市生まれ。春日部中学校を経て、1923年に日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業。 1920年に風景画で二科展に入選。1924年から1930年にかけてフランスで歯科と絵画を学ぶ。 1937年に「日本人下顎骨の増齡殊に齒牙発生脱落に伴ふ形態変化の研究」で新潟医科大学より医学博士を授与される。 1931年日本歯科医学専門学校講師、助教授、教授、外科部長、1964年鶴見大学教授、1972年定年、名誉教授。
松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)… 松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)6月10日 - 没年不明)は、昭和期の医師、政治家。長野県須坂市長。号は秋嶺。 長野県上高井郡高甫村(現須坂市)で、松沢新太郎、なわ の長男として生まれた。1916年(大正7年)3月、長野県上高井農学校(現長野県須坂園芸高等学校)を卒業。さらに、1941年(昭和16年)12月、哈爾濱医科大学(現ハルビン医科大学)開拓学院卒業、1952年(昭和27年)10月、東京医科大学専門部を卒業した。この間、1926年(大正15年)陸軍一等看護長となり、1942年(昭和17年)拓務省嘱託の医師として満州に派遣された。 1947年(昭和22年)上高井郡高甫村で医院を開業。
岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 -… 岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 - 1990年代頃?)は、日本の古生物(化石)研究者、医師。愛知医科大学(名古屋大学の前身)卒。 市井の化石研究家であり、岡村化石研究所を主宰していた。本業は内科医師。病院と研究所は名古屋市にあった。 岩手県大船渡市から出土した石灰岩より、4億年前の1mmに満たないミニ人類、あらゆる種類の動物及び工芸品等の微化石を発見し、独自の進化論に昇華させた。1970年代から1980年代には古生物学会において数度の発表を行うとともに、国内外の多数の大学に論文を寄贈した(B5判の薄い研究論文の冊子。地質学研究室が設置されている大学の研究室・図書館に保存されていることがある)。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月1… 行岡 忠雄(ゆきおか ただお、1901年(明治34年)2月18日 - 1974年(昭和49年)4月27日)は、日本の医師、医学博士、柔道整復師。 大阪医科大学(現・大阪大学医学部)卒。日本初 の柔道整復師養成施設である大阪接骨学校(昭和7年)と、行岡外科病院(大阪接骨学校附属行岡外科病院)(昭和9年)を設立する。 大阪府柔道整復師会 会長(1933年、1957年5月)、社団法人 大阪府医師会会長(1954年4月)、大阪府保険医協会理事長(1953年4月)、大阪市会議員(1951年以降連続6期)などを歴任。 大阪接骨学校(現:行岡医学技術専門学校・大阪行岡医療専門学校長柄校)の創設者。 1974年大阪市議のまま急性心不全のため、阪大病院で死去。
野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996… 野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996年2月19日)は、日本の医師、シュヴァイツァー研究家。 東京生まれ。1925年九州帝国大学医学部卒。1934年東京で結核病院を開業。1951年白十字会村山サナトリウム院長。1954年アフリカにシュヴァイツァーを訪ね、翌年のノーベル賞受賞に随行した。1959年東京コロニー理事長。キリスト教海外医療協力会会長。1970年日本シュヴァイツァー友の会会長。1983年にキリスト教功労者を受賞。
原 国(國、はら くに、1901年(明治34年)2月10日 … 原 国(國、はら くに、1901年(明治34年)2月10日 - 1982年(昭和57年)11月24日)は、大正から昭和期の歯科医師、政治家。衆議院議員。 鹿児島県薩摩郡山崎村二渡(山崎町、宮之城町を経て現さつま町)で生まれる。1922年(大正11年)日本歯科医学校(現日本歯科大学)を卒業し、1924年(大正13年)中央大学専門部法律科を卒業した。 東京で歯科医師を開業。東京都大森区会議員を務めた。 日本農本党組織代表となり、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で鹿児島県全県区から出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。この間、日本国有鉄道宮之城線各駅の新設、川内川治水の推進などに尽力した。
金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月… 金 哲柱(キム・チョルジュ、朝鮮語: 김철주、1901年1月25日 - 1962年2月22日)は、大韓民国の医師、教員、政治家、実業家、社会事業家。麗水郡郡守、麗川郡郡守、第3代韓国国会議員、湖南新聞社長を歴任した。 全羅南道麗川郡(現・麗水市)出身。ソウル中東中学校、日本大学師範科卒。莞島中学校教員、光州農業実習学校長を歴任した後に全羅南道の医師試験に合格した。その後は韓国キリスト教青年会(朝鮮語版)総務、麗水郡・麗川郡郡守を経て、全羅南道三日保健診療所長を務めた。麗水華井医院を開業したほか、麗水愛養園長を務めた。1954年の第3代総選挙では麗川郡選挙区から無所属で出馬し当選し、その後は自由党に入党した。
細江 静男(ほそえ しずお、1901年(明治34年) - 1… 細江 静男(ほそえ しずお、1901年(明治34年) - 1975年(昭和50年)8月29日)は、日本の医師。戦前から戦後にかけて、ブラジルの地域医療のためにつくし「ブラジルのシュバイツァー」「アマゾン先生」「道庵先生」と呼ばれていた。 明治34年(1901年)、岐阜県益田郡中原村和佐(現:下呂市和佐)に生まれる。19歳の時に上京。慶應義塾大学医学部卒。1930年(昭和5年)、3年の任期の予定で外務省の嘱託医としてブラジルに派遣される。当初2年ほどはサンパウロ州バストスで診療を行なっていたが、アマゾン川流域の日系人開拓地の医師不足を痛感し、そのままブラジルに残る決意をする。バストスとその周辺の無医村地帯の巡回診療にも力を注ぎ、アマゾン奥地まで治療に赴いた。
朴 権熙(パク・クォニ、朝鮮語: 박권희/朴權熙、1901年… 朴 権熙(パク・クォニ、朝鮮語: 박권희/朴權熙、1901年または1926年4月17日 - 没年不詳)は、在日韓国人の医師、大韓民国の政治家。第5代韓国国会議員。 兄も医師で弟は教授、英文学者の呂石基(朝鮮語版)は姉の夫。性格は穏やかな紳士タイプである。 慶尚南道密陽出身。東京慈恵会医科大学卒。日本での医師活動を経て、1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙で落選した後、1960年の第5代総選挙では革新政党の社会大衆党の候補として当選した。その後は金哲らが結成した統一社会党の組織局長や国会国防委員会の委員も務めた。ただし、この当選は彼が地元の名士の子であるためであり、政治環境が比較的に自由な日本にいるうちに革新的な思想を持つようになったが、闘士タイプではないため、それで当選したわけではないと当時朴と親しんだ元政治部記者の南載熙が指摘した。
林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 194… 林 文雄(はやし ふみお、1900年11月26日 - 1947年7月18日)は、日本の医師。全生病院(国立療養所多磨全生園)、国立療養所長島愛生園、国立療養所星塚敬愛園(園長)に勤務し、国立療養所大島青松園で、病気療養をした。特に光田健輔を助け、光田反応を完成させた。クリスチャン、ヒューマニストであり、南九州、とくに奄美、沖縄のハンセン病患者救済に取り組み、理想の療養所建設に力を注いだが、志半ばで病に倒れた。 1900年11月26日、画家林竹治郎の息子として北海道札幌市に生まれる。1926年に北海道帝国大学医学部を卒業し、同年5月から全生病院に勤務。1930年、タイのバンコクで光田反応を名前をつけず発表。
宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 19… 宮田 重雄(みやた しげお、1900年10月31日 - 1971年4月28日)は、日本の画家、医師。 愛知県名古屋市出身。重陽の節句(9月9日)に生まれたので 重雄と名付けられた。愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に進学後、慶應義塾大学医学部入学。上京後は勉学と並行して学内に絵画部ジュヌ・パントル[仏語で若い画家の意]を創立、1923年には第1回春陽会に出品、見事入選を果たし、医師と画家、両立の道へと進んでいく。1925年同大学卒業。1928年 - 1930年パリ・パスツール研究所に留学し、医療に従事するかわたら洋画家梅原龍三郎に師事。春陽会、国画会に所属。1934年慶應義塾大学医学博士。
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月… 太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日)は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業。京都帝国大学大学院産婦人科専攻(大正15年)修了。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した。優生保護法の制定に尽力。日本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。 京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業後に医師になる。
内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982… 内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 - 1982年1月17日)は、日本の医師。歌人としてのペンネームは内田 守人(もりと)と称する。九州療養所国立療養所菊池恵楓園、国立療養所長島愛生園、国立療養所松丘保養園で医師として働いた。ハンセン病研究家。ハンセン病療養所入所者に短歌の指導を行った。戦後は医院開業後、熊本短大で社会福祉を研究、講義した。ハンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。 熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市)にて1900年(明治33年)6月10日父常平、母波津の3男として出生。県立中学済々黌(せいせいこう)を経て、旅順工科学堂を中途退学、1920年(大正9年)県立熊本医学専門学校(現熊本大学医学部)に入学。
村松 常雄(むらまつ つねお、1900年4月12日 - 19… 村松 常雄(むらまつ つねお、1900年4月12日 - 1981年8月30日)は、日本の医学者、精神科医。 妻は田部隆次の娘。村松剛、村松英子の父。村松えりの祖父。 東京出身。東京帝国大学医学部卒。名古屋大学助教授、1950年教授、1960年医学部長。1964年定年退官、東京都立松沢病院副院長、国立精神衛生研究所長。1971年、勲二等旭日重光章を受賞。
木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996… 木村 守江(きむら もりえ、1900年4月6日 - 1996年11月3日)は、日本の政治家、医師。福島県知事(公選第6-9代)、衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)を務めた。男性。 現在の福島県いわき市四倉生まれ。旧制磐城中学(現福島県立磐城高等学校)、慶應義塾大学医学部を経て医学博士、開業医となる。1938年1月、歩兵第65連隊の軍医として南京での捕虜の扱いについて『磐城時報』に軍事郵便で報告を寄せている。第二次世界大戦でも軍医でニューギニアなどで従軍。 1950年の第2回参議院議員通常選挙に福島県選挙区からで自由党から立候補し、当選。参議院議員を1期務めた後、衆議院に鞍替えし、1958年の第28回衆議院議員総選挙で旧福島3区から出馬して初当選(自民党)、以後3期連続当選を果たす。
堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明… 堀本 宜実(ほりもと よしざね / せんじつ、1900年(明治33年)3月15日 ‐ 1978年(昭和53年)6月27日) は、大正から昭和期の獣医師、政治家。参議院議員(3期)、愛媛県温泉郡立岩村長、同郡北条町長。旧姓は阿部。 愛媛県越智郡、のちの玉川村(玉川町を経て現今治市)の阿部家に生まれた。1918年(大正7年)麻布獣医畜産専門学校(現麻布大学)を卒業。立岩村の技術員・獣医師となり、同村の堀本家の養子となった。 立岩村長(1930年9月-1938年1月在任)、北条町長(1939年7月-1940年12月在任)を務めた。1931年(昭和6年)9月、愛媛県会議員に選出され、立憲民政党に所属して1946年(昭和21年)月12月まで連続4期在任した。
遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 19… 遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 1997年6月2日)は、日本の内科医である。青汁健康法の提唱者として知られる。 1900年(明治33年)2月28日、岡山県英田郡福本村で誕生する。津山中学校を経て、1921年(大正10年)に第三高等学校を卒業する。1925年(大正14年)に京都帝国大学医学部を卒業し、1930年(昭和5年)に『血中ビリルビン、ヒヨレステリン及胆汁酸の相互的関係に就ての臨床的並に実験的研究』で医学博士を取得する。1931年(昭和6年)に京都帝国大学講師、1932年(昭和7年)に大阪女子高等医学専門学校助教授を勤める。1934年(昭和9年)に同学校内科教授となる。
大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33… 大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり、明治33年〈1900年〉2月25日 - 昭和55年〈1980年〉10月15日)とは、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞。号は敬節(けいせつ)。 大塚敬節は、明治33年(1900年)2月25日、高知県高知市に産まれる。大塚家は、同市追手筋1番地の産婦人科・大塚修琴堂医院であり、曽祖父の希斎、その養子(希斎の兄の子)で祖父の恭斎、父の恵遮とも医師であった。敬節は、西洋医学が嫌いであったため、中学卒業後はじめは医師を目指さず、高知の高等工業学校の採鉱冶金科に進学した。
宮川 庚子(みやかわ かのえこ、1900年1月19日 - 1… 宮川 庚子(みやかわ かのえこ、1900年1月19日 - 1993年11月21日)は、日本の女性医師。 女性として日本で最初に医学博士の学位を授与された(昭和6年1月、東京帝国大学)。 父が農林学校長として盛岡市に在住していたときに生まれる。このとき住んでいた家の隣には原敬の生家があった。 3歳の時に父が甲府の農学校長及び農事試験場長となったため一緒に移り住み7歳までそこで過ごす。その後、父が関西の肥料王である多木久米次郎に招聘され多木製肥所の技師長となったのに伴い、兵庫県別府に移住した。その後、父が多木製肥所を辞職し、深川で肥料問屋の経営者となったため上京し、初等教育を東京府青山師範学校附属小学校で終えた。
趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または… 趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または1901年1月8日 - 1988年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の韓医学者、韓医師、政治家、独立運動家。制憲・第2代韓国国会議員、元在北平和統一促進協議会書記長。 本貫は漢陽趙氏(朝鮮語版)。字は応文、号は海山。趙光祖の子孫で、元義兵隊長の趙承基は祖父、教育者の趙寅錫は父。元国立図書館長の趙銀泳は兄、元大邱市長・慶尚北道知事の趙俊泳は弟、時調詩人の趙愛泳は妹。詩人の趙芝薫(趙東卓)と趙東振(朝鮮語版)は息子、外交官・外交部長官の趙兌烈は孫。 慶尚北道英陽郡日月面出身。祖父と父から四書三経や漢文を学んだ後、大邱公立高等普通学校卒。
松崎 陽(まつざき よう、1899年(明治32年)12月29… 松崎 陽(まつざき よう、1899年(明治32年)12月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、医学博士。大日本帝国陸軍の軍医。最終階級は陸軍軍医少将、蒙古軍最高顧問。日本モンゴル協会創立発起人・会長。蒙古語文学者の先駆者としても著名。 慶應義塾大学医学部卒業(第3期生)。医学部では眼科を専攻し、終戦後に専門医となっている。慶大卒業後、満蒙に渡り関東軍を背景に持つ独立部隊・内蒙古軍に入隊。1935年(昭和10年)末、関東軍による「内蒙古政務委員会」の傀儡化工作を基礎に、内蒙古を中国本土から切り離して独立させ、新疆・外蒙古にまで手を広げようと狙う。 1936年(昭和11年)の末に特務機関長田中隆吉中佐のバックアップの下、徳王を首班とする内蒙古軍政府成立に尽力。
三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)… 三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)12月3日 - 1982年(昭和57年)4月10日)は、日本の外科医、政治家。医学博士。 高松市長(在任1期)。 香川県三豊郡荘内村(現 三豊市詫間町)出身。地主の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校、旧制第四高等学校を経て、九州帝国大学医学部卒業。 三豊中学時代から第四高等学校、九州帝国大学と野球選手で通し、投手や一塁手で活躍、その間柔道、剣道、テニス、乗馬、弓術も行った。 1926年(大正15年)3月、九州帝国大学医学部卒業後、外科医局に4年間在局、三宅速教授、赤岩八郎教授の指導を受ける。1930年(昭和5年)5月、岩手医学専門学校教授ならびに青森県立病院外科部長に就任。
養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月… 養老 静江(ようろう しずえ、1899年〈明治32年〉11月16日 - 1995年〈平成7年〉3月22日)は、日本の医師。次男は解剖学者で東京大学名誉教授の養老孟司。 神奈川県津久井郡(現在の相模原市)出身。 神奈川県立横浜第一高等女学校を経て、東京女子医学専門学校卒業。 1936年、鎌倉市で小児科を開業。94歳まで診療を続けた。 はじめに弁護士と結婚して二児をもうけるが、10歳年下の男性と恋愛をして、離婚、再婚をした。 1994年、荻野吟子賞を受賞。 1997年、田嶋陽子は養老静江にインタビューをした内容をもとに『女の大老境』という書籍を著す。 2020年、堀越英美によって著された『スゴ母列伝』に養老静江のことが取り上げられている。
八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18… 八木 日出雄(やぎ ひでお、1899年(明治32年)8月18日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は日本の医学者、医師(産婦人科医)。岡山大学教授、同大医学部長、1958年-1962年まで第3代学長などを歴任した。義兄(妻の兄)に競泳選手の松沢一鶴。 兵庫県出身。第三高等学校(旧制)、京都帝国大学を卒業し、岡山医科大学(旧制)教授に招かれ産婦人科教室を主宰した。新制岡山大学に移行し、同医学部教授となる。昭和32年8月医学部長、翌33年6月1日より昭和37年5月31日まで岡山大学長(第3代)に就任。 第三高等学校在学時代からエスペラントに惹かれ、普及のための講演活動に従事したが、生涯継続した。
細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989… 細野 史郎(ほその しろう、1899年8月1日 - 1989年5月6日)は、日本の医者。東洋医学の発展に貢献した人物の一人。 京都府綾部市出身。1927年京都帝国大学医学部卒業。幕末から明治時代にかけて活躍した浅田宗伯の流れを汲む漢方医学の医師新妻良輔の弟子となり、東洋医学を学んだ。弟子には坂口弘らがいる。1950年に日本東洋医学会が設立され、坂口らとともに参加した。また、漢方エキス製剤の臨床研究を重ね、今日のエキス製剤による漢方治療の道を開いた。
渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 197… 渡辺 俶(わたなべ あつし、1899年7月23日 - 1974年5月7日)は、日本の政治家、医師。栃木県黒磯町長を務めた。 福島県に生まれる。父は明治期から黒磯で医院を開業していた。1924年(大正13年)、東京帝国大学医学部を卒業し同附属病院に就職。1925年(大正14年)、黒磯に戻り実家の医院で医業に従事した。 1925年から1954年(昭和29年)まで町医を、1925年から1965年(昭和40年)まで栃木県立黒磯高等学校(町立実践女学校)の校医を務めた。また、1941年(昭和16年)から1947年(昭和22年)まで方面委員を務めており、医師としてばかりでなく地域住民の相談相手としても信頼された。
吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月… 吉益 脩夫(よします しゅうふ、1899年(明治32年)7月11日 - 1974年(昭和49年)7月14日)は、日本の医学者・精神科医。犯罪学や精神鑑定など幅広く活用されている犯罪生活曲線の開発者である。 岐阜県大垣市出身。大垣中学校、第六高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒業。呉秀三門下となり、同大学精神病学教室助手、東京府立松沢病院に勤務。1925年(大正14年)東京帝国大学文学部大学院へ入学し、1931年(昭和6年)同大学大学院心理学専攻卒業。在学中、市ヶ谷刑務所精神考査嘱託を始めとし、豊多摩刑務所、小菅刑務所にて犯罪学研究に従事する。1936年(昭和11年)東京帝国大学脳研究室創設に際し、講師として着任。
代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日… 代田 稔(しろた みのる、1899年〈明治32年〉4月23日 - 1982年〈昭和57年〉3月10日)は、日本の医学博士、実業家。ヤクルトの開発者で実質的な創業者。長野県下伊那郡竜丘村(現:飯田市)出身。 貧しい人でも健康を手に入れられるよう「ハガキ1枚煙草1本の値段で買えるヤクルト」を経営標語とし、「健腸長寿」を理念とした。 「ヤクルトの父 代田稔物語」という伝記漫画が2004年の小学館『小学三年生』四月号に掲載され、2015年4月からはヤクルト80周年記念サイトにて配信されている(原案:久保田千太郎 漫画:ながいのりあき) 正五位、勲三等瑞宝章を受章。
松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年… 松澤 靖介(松沢、まつざわ やすすけ、1899年(明治32年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月8日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員(1期)、医学博士。 山形県北村山郡長瀞村(東根町を経て現東根市または河北町)で、松澤幾太郎(後年、敬之と改名)の長男として生まれる。1926年(大正15年)北海道帝国大学医学部を卒業した。同年、同大学附属病院で勤務した。 1934年(昭和9年)至誠堂病院第4代病院長に就任。その他、山形県保険医指導委員長、同県社会保険審査会審査委員長、日本医師会代議員、同理事、第2代山形県医師会長、山県市医師会長、秋田鉄道医会副会長、山形県医療機関整備審議会会長、国民健康保険審査会委員長、山形県教育委員会委員長、都道府県教育委員会連絡協議会副会長、山形県打毬会会長などを務めた。
野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 … 野津 謙(のづ ゆずる、1899年(明治32年)3月12日 - 1983年(昭和58年)8月27日)は、広島県広島市出身の医師(医学博士・小児科医)、サッカー選手(日本代表)。 サッカー指導者でもあり、第4代日本サッカー協会会長、アジアサッカー連盟副会長、国際サッカー連盟理事を歴任した。柔和でおだやかな人柄で、回りから敬意と親しみをこめて「のづけん」さんと呼ばれた。元日本損害保険協会会長の河野俊二は甥に当たる。 1899年(明治32年)、広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。虚弱児童であったが、1911年(明治44年)4月、広島県立広島第一中学校(現・広島県立広島国泰寺高校)に進学すると在学中に蹴球部(サッカー部)が創部されサッカーを始めた。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 19… 高良 武久(こうら たけひさ、1899年1月18日 - 1996年5月20日)は、日本の医学者、精神科医。専門は、性格学、森田療法。鹿児島県出身。 鹿児島県南九州市旧川辺町出身。旧制鹿児島県立川辺中学校、旧制第七高等学校造士館を経て、1924年、九州帝国大学医学部卒業。同大学精神神経科講師を経て、1929年、東京慈恵会医科大学に転任する。同年より東京根岸病院に勤務し、森田正馬に師事して森田療法を継承する。1937年、森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となる。1940年、入院森田療法の施設である高良興生院を設立し、森田療法による神経(質)症の治療を行う。1964年、東京慈恵会医科大学名誉教授。
五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - … 五十嵐 播水(いがらし ばんすい、1899年1月10日 - 2000年4月23日)は、日本の俳人、内科医。本名は久雄(ひさお)。兵庫県出身。 姫路市鍛冶町に生まれる。野里尋常小学校、姫路中学校、第三高等学校を経て、1923年京都帝国大学医学部卒業。卒業後に松尾内科勤務を経て、神戸市立中央市民病院に勤務。同病院の副院長・院長を1959年まで務める。1961年に神戸市生田区で五十嵐内科を開業、1993年まで医師として務めた。 大学在学中の1920年より句作をはじめ、京大三高俳句会で高浜虚子と出会い師事する。1922年、「京鹿子」同人。1930年、山本梅史の跡を継いで「九年母」選者。1932年、「ホトトギス」同人。
坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月… 坂本 秀夫(さかもと ひでお、1899年 - 1967年9月2日)は、日本の内科医。 高知県出身。東京帝国大学医学部卒、1929年医学博士。東京警察病院内科。東京大学医学部付属分院教授、院長、1960年定年退官、東京自動車連合健康保険組合柳橋病院長を務めた。
小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1… 小澤 開作(おざわ かいさく、1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。 山梨県西八代郡高田村出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満洲・長春へ赴任。夫人の小澤さくらによれば、「昼間まじめに診察していたのは、1931年(昭和6年)の満洲事変の前まで」だった。また、長春にいた頃、奉天の鉄道の責任者になり、初めて視察に行った際に、駅のプラットホームで何者かに狙撃されたが無事だった。1928年(昭和3年)に満州青年聯盟を、1932年(昭和7年)には満洲国協和会を結成し民衆の教化を行った。 満洲事変の立役者であった関東軍の板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾と名付けた。
植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月… 植村 武一(うえむら たけいち、1898年〈明治31年〉9月26日 - 1999年〈平成11年〉5月4日)は、大正から昭和期の獣医師、政治家。衆議院議員(2期)。 奈良県奈良市般若寺町で生まれる。1919年(大正8年)東京帝国大学農科大学獣医学実科を卒業した。 牧場、牛乳商を経営。奈良県獣医師会長を務めた。 政界では、奈良市会議員、同議長、奈良県会議員、同副議長を務めた。1940(昭和15年)11月、大政翼賛会奈良県支部常務委員に就任。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受け奈良県全県区から立候補して当選した。この間、拓務省委員、大東亜省委員、翼政会政調厚生・農林兼務委員などを務めた。
千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17… 千原 繁子(ちはら しげこ、1898年〈明治31年〉9月17日 - 1990年〈平成2年〉5月25日)は、日本の医師。沖縄県出身者で初の女医。終戦後の沖縄の女性たちの生活苦による不条理妊娠など、悲惨な事態に立ち会い、また民法改正運動や母子保健など、広い範囲にわたって活動を行った。 沖縄県那覇区若狭町で誕生した。旧姓は渡嘉敷。幼少時に両親が離婚、母のもとで極貧の生活を送った。小学校の成績は常に総代であり、父から「女学校に出してやる」といわれて父のもとへ引き取られた。父は沖縄で初の学校長となった人物、沖縄初の視学であり、繁子は父から強い影響を受けた。父が沖縄人として本土の人間から見下されていたこと、父のもとでの生活も豊かではなかったことで、早くから自立心を培われて育った。
田崎 勇三(たざき ゆうぞう、1898年(明治31年)7月5… 田崎 勇三(たざき ゆうぞう、1898年(明治31年)7月5日 - 1963年(昭和38年)5月24日)は、日本の医師。医学博士。癌研究会附属病院長。 長崎県出身。1924年(大正13年)東京帝国大学医学部卒。病理学、内科学を専攻し、癌研究会附属病院に入り、内科部長、副院長、院長となる。日本内科学会評議員、日本消化学会理事、日本癌学会理事、会長を歴任した。このほか横綱審議委員、巣鴨学園理事長などを務めた。1963年(昭和38年)に癌で死去した。墓所は多磨霊園。
式場 隆三郎(しきば りゅうざぶろう、1898年7月2日 -… 式場 隆三郎(しきば りゅうざぶろう、1898年7月2日 - 1965年11月21日)は、新潟県出身の日本の精神科医。専門は精神病理学。医学博士(新潟医科大学・1929年)。千葉県市川市名誉市民。第3代日本ハンドボール協会会長。叔父は式場益平、甥は式場壮吉。 1898年(明治31年)7月2日新潟県中蒲原郡五泉町(現:五泉市)で生まれた。新潟医学専門学校(現:新潟大学医学部)卒業。 1929年(昭和4年)医学博士(新潟医科大学)。静岡脳病院院長などを経て、1936年(昭和11年)千葉県市川市国府台に精神病院である式場病院を設立。 1965年(昭和40年)11月藍綬褒章授与。11月21日胃癌のため順天堂病院にて死去。
勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6… 勝沼 六郎(かつぬま ろくろう、 1898年(明治31年)6月26日 - 1989年(平成元年)9月3日)は、日本の医師。内科医。国立療養所中部病院長。医学博士。静岡県出身。 静岡県立静岡中学校を経て、1927年(昭和2年)、長崎医科大学卒業、助手。台湾総督府技師、愛知・西尾病院長。1933年(昭和8年)、名古屋帝国大学講師、1934年(昭和9年)、欧米出張。1938年(昭和13年)、勝沼病院長。1947年(昭和22年)4月、国立療養所大府荘長。1966年(昭和41年)4月、国立療養所中部病院長(初代)。1969年(昭和44年)、定年退官。
緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20… 緒方 安雄(おがた やすお、1898年(明治31年)5月20日 - 1989年(平成元年)5月22日)は、日本の小児科医。山王病院名誉院長 曾祖父は緒方洪庵。緒方惟準の二男・銈次郎の長男として大阪府に生まれる。母方の祖父は三浦安。弟は緒方富雄。叔父に緒方章と緒方知三郎。五世祖父に佐藤泰然。旧制大阪府立天王寺中学校、旧制第三高等学校を経て、1924年東京帝国大学医学部卒業。1932年「鐵症の実験的研究」で東京帝大医学博士。1937年東宮侍医となり、今上天皇の幼時まで担当医となる。山王病院院長を経て名誉院長。
鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1898年4月17日 - 1967年1月16日)は、日本の解剖学者、医師。専門は組織学。鈴木鍍銀法の発明者としても知られる。 1898年04月17日、兵庫県津名郡洲本町常盤町425番地(兵庫県淡路島津名郡洲本町(現洲本市)で生まれた。1923年3月、大阪医科大学(現 大阪大学医学部)を卒業。 大学卒業後は、新潟医科大学助手に就任。1926年07月19日より、京城帝国大学医学部助教授・医学部勤務となった。1926年09月13日、朝鮮総督府医学専門学校講師に就任し、解剖学第二講座を分担する。 1933年11月08日、解剖学研究のために1年6ケ月間、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカへ留学派遣される。
武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 197… 武藤 完雄(むとう まさお、1898年2月27日 - 1972年6月20日)は、日本の外科医。専門は、消化器外科学。医学博士。東北大学名誉教授。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)生まれ。茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を経て、東北帝国大学医学部を卒業した。同医学部第一外科学教室教授として多くの門下生を育て、日本外科学会の重鎮として長く活躍した。終生のテーマは「胃癌の外科療法」であり、同大学医学部第三内科(黒川利雄教授)との公私とも綿密な連携により生涯で2000例の手術を行った。定年退官後は、福島県立医科大学学長及び宮城県成人病センター(現在の宮城県立がんセンター)院長を務めた。
森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年… 森本 茂喜(もりもと しげき、1898年2月10日 - 没年不詳)は、日本の医学者、医師。専門は内科、物理学。 熊本県玉名市出身。熊本県立玉名中学校卒業、第五高等学校を経て、東京帝国大学医学部を1923年(大正12年)に卒業。卒業後、東京帝国大学医学部病理学教室の助手となり、1932年(昭和7年)に医学博士号を授与された。 東京帝国大学医学部が外来医長制度を敷くに当たり、1935年(昭和10年)に初代の内科の外来医長となり、1938年(昭和13年)まで勤めた。1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)まで京橋病院の内科医長を勤め、辞任後は東京都で開業した。
岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 198… 岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 1986年6月5日)は、翻訳家、医師。本名・良吉。東京生まれ。1925年東京帝国大学英文科卒。45年日本医科大学卒。法政大学教授。 W・H・ハドソン、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、アーサー・ランサムなど、少年向けの英国小説を訳した。岩田良吉、欣三双方の名を用いた。