高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月… 高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月14日 - 1994年〈平成6年〉5月12日)は、日本の西洋哲学史(中世哲学)研究者、京都大学名誉教授。 大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)京都帝国大学文学部哲学科(西洋古代中世哲学専攻)卒業。同年大学院に進学。1929年(昭和4年)から1932年(昭和7年)までの3年間ヨーロッパに留学し、オックスフォード大学のウィリアム・デイヴィッド・ロス(英語版)や、ベルリン大学のヴェルナー・イェーガーらのもとで西洋古典哲学を学んだ。 帰国後に広島文理科大学哲学科に講師として赴任。1936年(昭和11年)同大助教授、1947年(昭和22年)より京都大学文学部助教授、1950年(昭和25年)同大教授、1966年(昭和41年)定年退官し名誉教授。
馬上 義太郎(まがみ ぎたろう、まがみ よしたろう、1902… 馬上 義太郎(まがみ ぎたろう、まがみ よしたろう、1902年9月15日 - 1971年1月6日)は、日本のロシア・ソビエト文学研究者、翻訳家。 東京府東京市浅草区浅草千束町(現・東京都台東区千束または同区浅草)のうなぎ料理屋の家に長男として生まれる。生家跡で「エロス堂書店」を営む一方、1928年、松竹キネマ蒲田撮影所に開設された「脚本養成所」(後に「松竹映画脚本研究所」と改称)の研究生(第1期生)を経て、脚本部の客員として従事。1931年3月、東京外国語学校専修科(露語)卒業。ナウカ社に勤務。兵役で中国北部に出征、帰国後は東亜研究所員(または嘱託)としてソ連の新聞、放送の翻訳に従事。戦後は東京都千代田区役所に定年まで勤務。
久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - … 久保寺 逸彦(くぼでら いつひこ、1902年9月10日 - 1971年11月5日)は、アイヌ文化およびアイヌ語の研究者。金田一京助の薫陶を受け、知里真志保、山田秀三と交友関係を持ち、ユーカラなどの口承文芸や宗教儀礼(儀式参照)の記録に多大な貢献を残した。墓所は多磨霊園。
植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1… 赤星 直忠(あかほし なおただ、1902年4月17日 - 1991年3月11日)は、大正・昭和期の考古学者、歴史学者、民俗学者、郷土史研究者。教員等の職業に就き、研究機関等に所属することはなかったが、生涯で500本近い論文を発表して横須賀考古学会を設立するなど、主に神奈川県下で活躍し、三浦半島の考古学研究の基礎を築いた。研究内容は、縄文時代早期の関東地方の土器型式の分類、弥生時代から古墳時代の海蝕洞窟遺跡や横穴墓、古代・中世の寺院ややぐら、城郭など多岐に及んだ。 神奈川県三浦郡横須賀町(現・横須賀市)に生まれる。神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)の生徒であった時、学校の敷地内で古い時代の寺院の遺物が発見されたのを契機として、考古学に興味を持ち始めた。
安芸 皎一(あき こういち、男性、1902年4月9日 - 1… 安芸 皎一(あき こういち、男性、1902年4月9日 - 1985年4月27日)は、日本の河川工学者、資源問題研究者。河川開発、水害問題のほか、資源問題を国際的視野で研究した。 内務省土木局技師安芸杏一の長男として新潟市に生まれる。兄弟構成は6人兄弟一女5男で、他5人とも大学出である。東京で育ち、府立四中(現・東京都立戸山高等学校)に進学。府立中時代は水練部主将を務める。四修で新潟高等学校 (旧制)に進学。同校を卒業後、東京帝国大学文学部英文科に進むが、1年後に工学部土木工学科に再入学。再入学した土木工学科では水理学者物部長穂のもとで河川工学を修める。1926年同学科卒業、内務省に入省。東京土木出張所内務工手。
塩谷 信男(しおや のぶお、1902年3月24日 - 200… 塩谷 信男(しおや のぶお、1902年3月24日 - 2008年3月14日)は、日本の医師、心霊研究者。
水野 弘元(みずの こうげん、1901年11月19日 - 2… 水野 弘元(みずの こうげん、1901年11月19日 - 2006年1月1日)は、日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者、僧侶。駒澤大学総長を務めた。同大名誉教授、東京大学文学部教授。学位は、文学博士(東京大学)。インドナーランダ大学名誉文学博士。 1901年、佐賀県に生まれた。曹洞宗第四中学林(現高川学園高等学校・中学校)、山口高等学校経て、東京帝国大学に進学。1928年、東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業し、同大学大学院に進んだ。 1935年、駒澤大学講師に就任。1940年、教授に昇進。1959年から1962年には、東京大学教授を兼任した。1976年より駒澤大学副学長、1982年より駒澤大学総長をつとめた。
稲垣 達郎(いながき たつろう、1901年10月21日 - … 稲垣 達郎(いながき たつろう、1901年10月21日 - 1986年8月13日)は、日本近代文学の研究者である。
岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 -… 岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 - 1990年代頃?)は、日本の古生物(化石)研究者、医師。愛知医科大学(名古屋大学の前身)卒。 市井の化石研究家であり、岡村化石研究所を主宰していた。本業は内科医師。病院と研究所は名古屋市にあった。 岩手県大船渡市から出土した石灰岩より、4億年前の1mmに満たないミニ人類、あらゆる種類の動物及び工芸品等の微化石を発見し、独自の進化論に昇華させた。1970年代から1980年代には古生物学会において数度の発表を行うとともに、国内外の多数の大学に論文を寄贈した(B5判の薄い研究論文の冊子。地質学研究室が設置されている大学の研究室・図書館に保存されていることがある)。
本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - … 本庄 桂輔(ほんじょう けいすけ、1901年5月24日 - 1994年8月27日)は、日本の劇作家、演出家、フランス演劇研究者。筆名に高島慶三。 東京麹町生まれ。本名・桂介。1926年立教大学文学部英文科卒。在学中より同人誌に戯曲を発表。岸田国士に認められ、1928年から1931年パリでジョルジュ・ピトエフ(フランス語版)に演劇研究を学ぶ。帰国後は立教大学教授。1944年三菱重工業に入社。1951年より丸善発行の『学鐙(學鐙)』編集長となり、長年務めた。演出、ユーモア小説の執筆なども行った。
武市 健人(たけち たてひと、1901年5月1日 - 198… 武市 健人(たけち たてひと、1901年5月1日 - 1986年2月16日)は、日本の哲学研究者。学位は、文学博士(東北大学・1950年)。神戸大学名誉教授。 1901年、高知県で生まれた。東北帝国大学法文学部で学び、卒業後は東北帝国大学講師に就いた。 戦後の1948年、神戸大学文理学部教授に就任。1950年、学位論文『弁証法論理の研究』を東北大学に提出して文学博士の学位を取得。1965年、神戸大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は大阪経済法科大学教授として教鞭を執った。 ヘーゲル、史的唯物論を研究テーマとし、ヘーゲルの著作を数多く翻訳した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月… 堀内 豊秋(ほりうち とよあき、1900年〈明治33年〉9月27日 - 1948年〈昭和23年〉9月25日)は、日本の海軍軍人、体操研究者。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市出身。海兵50期。 御馬下尋常小、濟々黌を経て、海軍兵学校第50期入校。席次は入校時298名中283番、卒業時272名中156番。堀内は第13期飛行学生(艦上機班)となったが飛行作業中に車輪止め位置を直そうと駆け寄りプロペラ接触、2日間意識不明の重症を負い2ヶ月間程治療後、飛行場に出るも教官から次期飛行学生に編入されると告げられ憤然とし「次期編入であれば飛行学生を辞めます」と立ち去ったという。このため砲術専攻へ転科し、のち駆逐艦や巡洋艦の砲術長を歴任した。
青山 なを(あおやま なお、1900年〈明治33年〉7月9日… 青山 なを(あおやま なお、1900年〈明治33年〉7月9日 - 1985年〈昭和60年〉8月1日 )は、日本の文学博士で日本女性史の研究者。 1900年三浦助次郎と静の次女として東京府東京市本所区花町(現:東京都墨田区緑四丁目)に生まれる。東京女子高等師範学校付属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)から、東京女子大学国文科へ進み、1923年に卒業する。在学中に、垣内松三、沼波瓊音の薫陶を受け、学問史への関心を深めていく。 1928年に東北帝国大学法文学部に入学、村岡典嗣を指導者として日本思想史を研究。1931年に学士試験に合格し、その後、大学院に進学して日本女性精神史を研究する。 安井てつの勧めで、東京女子大学講師に就任。
湯地 孝(ゆち たかし、1900年6月26日 - 1973年… 湯地 孝(ゆち たかし、1900年6月26日 - 1973年3月10日)は、日本近代文学研究者。 第一高等学校を経て、1925年東京帝国大学文学部国文科卒。1926年、卒業論文を『樋口一葉論』として刊行し、以後片岡良一とともに近代文学研究に先鞭をつける。「たけくらべ」の末尾における美登利の変貌を、初潮ゆえと論じたのは孝が最初である。1950年4月、開学して間もない山梨大学に着任。同大学の近代文学文庫は湯地の提案により設立された。1961年(昭和41年)退官。その後は、青山学院大学教授、淑徳大学学長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 19… 小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 1975年10月7日)は、日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。
志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)… 志津田 藤四郎(しつた とうしろう、1900年(明治33年)3月24日 - 1987年(昭和62年)3月10日)は、日本の教育者、方言や俗言の研究者。佐賀県出身。佐賀龍谷短期大学副学長を務めた。 1900年(明治33年)佐賀県佐賀郡久保田村(現・佐賀市久保田町)の宗教家、志津田富太郎の四男として出生。横江の久保田第二尋常小学校、高等科は元小路の思斉尋常高等小学校(現・佐賀市立小中一貫校思斉館)に入学。高等科の卒業を前に師範学校入学。卒業後、江北小学校へ赴任。その後さらに日本大学高等師範を卒業。その後、鹿島中学校(旧制)母校佐賀県師範学校で後輩の指導にあたり、佐賀大学合併後は付属中学校総務に転出。
中村 俊定(なかむら しゅんじょう、1900年〈明治33年〉… 中村 俊定(なかむら しゅんじょう、1900年〈明治33年〉2月13日 - 1984年〈昭和59年〉8月19日)は、日本の日本文学研究者。専門は日本近世文学、特に俳諧。 愛知県宝飯郡形原町(現・蒲郡市)生まれ。旧名・市川唯治。3歳で、幡豆郡幡豆町の浄土宗西山派の僧中村俊達の養子となり僧籍に入る。京都で7年間僧侶の修行をする。1922年、早稲田高等学院に入学し、片上伸にロシア文学を学ぶ。のちに国文学に転じて早稲田大学文学部国文科に入学し、山口剛に師事する。1928年に卒業して実業之日本社に入社する。担当雑誌の廃刊を機に退職し、深川高等家政女学校、豊島高等女学校、調布高等女学校で教鞭をとる。この間、伊藤松宇の『俳書解題』編纂を手伝い、荻野清と『大芭蕉全集』の企画・刊行に尽力した。
小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 199… 小倉豊文(おぐら とよふみ、1899年8月20日 - 1996年6月10日)は、日本の日本史・日本文学研究者、広島大学名誉教授。 千葉県市川真間に生まれる。野田小学校から千葉師範学校を経て広島高等師範学校を卒業。奈良女子高等師範学校教官の後、広島文理科大学を卒業し、姫路高等学校教授を経て広島文理科大学助教授となる。1945年に広島市への原子爆弾投下により被爆、妻を失う。教授に昇任した後、学制改革に伴う大学の改組で広島大学教授に就任。1965年に定年退官し、名誉教授となる。広島大学を退いた後は親和女子大学教授を務めた。 被爆死した妻・文子への私信の形をとる被爆体験記『絶後の記録』を著したことで知られる。
春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000… 春木 榮(はるき さかえ、1899年5月23日 - 2000年10月25日)は、昭和時代の研究者、経営者。島根県出身。京都帝国大学卒。富士フイルム株式会社社長を歴任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976… 林 謙三(はやし けんぞう、1899年5月1日 - 1976年6月9日)は、日本の音楽研究者、彫刻家。 雅楽の古い楽譜の解読や、正倉院の楽器や伎楽面、東アジアの伝統音楽の研究で知られる。 林謙三は大阪市に生まれた。本名は長屋謙三。1924年に東京美術学校彫刻科を卒業した。彫刻家として活躍する一方、独学で東洋の伝統音楽を研究した。 設立間もない東洋文庫にて、日本に亡命していた郭沫若と交友関係を結び、最初の著書『隋唐燕楽調研究』は郭沫若によって中国語に翻訳されて上海で出版された。林は郭沫若の胸像を作成した。 戦後、正倉院の古楽器の研究、復元を行い、1949年に朝日賞を受賞した。1951年から奈良学芸大学の教授をつとめた。
守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 19… 守随 憲治(しゅずい けんじ、1899年3月10日 - 1983年2月7日)は、近世日本文学研究者、東京大学教養学部・実践女子大学名誉教授。
坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 198… 坂田 徳男(さかた とくお、1898年12月7日 - 1984年7月19日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。 1898年、兵庫県で生まれた。京都帝国大学文学部哲学科で学び、卒業。 修了後は、関西学院大学教授に就いた。戦後、大阪市立大学教授。1961年に大阪市立大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、帝塚山大学教授として教鞭を執った。1984年に死去。
片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11… 片山 敏彦(かたやま としひこ、1898年(明治31年)11月5日 - 1961年(昭和36年)10月11日)は、日本の詩人、文学研究者、ドイツ文学者、フランス文学者、翻訳家。 ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケ、ハイネ、ゲーテらの翻訳も多く、『著作集』全10巻がある。 1898年11月5日、高知県医師会会長・片山徳治の長男として高知市帯屋町に生まれる。母の名は「歌」で、姉・佐栄との4人家族であった。1905年、高知市立第三尋常小学校へ入学、1911年、高知県立第一中学校(現在の追手前高校)に進んだ。多感で、詩に牽かれ、短歌を投稿するなどした。 1916年、岡山市の第六高等学校第3部(医科)に入学し、西欧の哲学、文学を耽読した。
鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)… 鎌倉 芳太郎(かまくら よしたろう、1898年(明治31年)10月19日 - 1983年(昭和58年)8月3日)は、日本の染織家、沖縄文化研究者。 美術教師として赴任した沖縄県で、琉球王国時代からの沖縄独特の芸術や文化に心を奪われその研究を開始。染織家としては沖縄伝統の染織技法である紅型の技術を継承し、重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)に認定された一方、第二次世界大戦前に沖縄の文化財を調査し、その時に遺した数々の写真やメモは、後に1945年(昭和20年)の沖縄戦で壊滅に瀕した沖縄文化の保存や復旧に大きく役立った。戦後の首里城再建も鎌倉の資料に負うところが大きく、彼の評伝を著した与那原恵は、鎌倉を「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」と評している。
高橋 邦太郎(たかはし くにたろう、1898年9月5日 - … 高橋 邦太郎(たかはし くにたろう、1898年9月5日 - 1984年2月25日)は、翻訳家、比較文学・日仏文化交流研究者。NHK職員でもあった。 東京生まれ。東京外国語学校仏語科及び東京帝國大學仏文科卒業後、1933年、アナウンサーとして当時社団法人だったNHKに入局。戦前のNHKは軍の宣伝機関であったということもあり、今日のような分業制ではなく、アナウンサーである一方で記者としても活動していた。 一時期は文芸部に在籍し、1939年に企画、演出した連続物語『宮本武蔵』は「絶大な人気を得た」という。 戦後は報道専業となり、フランス語を生かしてサイゴン(現在のホーチミン市)支局長などを務め、退職した。
富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月2… 富田 正文(とみた まさふみ、1898年(明治31年)8月20日 - 1993年(平成5年)8月27日)は、日本の作家・編集者・福澤諭吉研究者。昭和期から平成期の慶應義塾大学職員・名誉博士。第55回日本学士院賞受章。 茨城県水戸市出身。水戸中学校、慶應義塾大学文学部卒業。水戸藩出身の『時事新報』主幹・石河幹明に認められて在学中からその助手を務めて『福澤諭吉伝』の編纂に参加、卒業後も職員としてその完成に尽力した。『福澤諭吉伝』完成以後も福澤諭吉の事績研究にあたり、それが評価されて1938年(昭和13年)から文学部講師を兼ねて明治文化について講義することになる。 当時の塾長小泉信三も富田に信任をおいて慶應義塾の新塾歌の作詞を担当させた。
荒川 惣兵衛(あらかわ そうべえ、1898年〈明治31年〉7… 荒川 惣兵衛(あらかわ そうべえ、1898年〈明治31年〉7月7日 - 1995年〈平成7年〉6月18日)は、英語教師(終戦時に教壇を去る)で、市井の外来語研究者。 愛知県名古屋市出身。東京高等師範学校卒業。名古屋在住だった。漢字表記以外にペンネームとして「あらかわそおべえ」「あらかわそうべゑ」などを用いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
鈴木 択郎(すずき たくろう、1898年7月6日-1981年… 鈴木 択郎(すずき たくろう、1898年7月6日-1981年1月6日 )は、日本の中国研究者。愛知大学名誉教授。 1898年7月6日、栃木県に生まれる。1915年9月、上海の東亜同文書院商務科入学(第15期生)、1918年6月同卒業、江商入社。1920年9月、東亜同文書院助教授。1921年9月、東亜同文書院派遣北京留学(1923年4月まで)。1924年5月、東亜同文書院教授。1939年4月、東亜同文書院大学予科教授。1946年12月、愛知大学(旧制)予科教授。1949年4月、愛知大学(新制)文学部教授。門下生には今泉潤太郎(愛知大学名誉教授)がいる。1955年4月、中日大辞典編纂委員長(1968年4月まで)。
田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989… 田崎 秀夫(たざき ひでお、1898年3月3日 - 1989年12月19日)は広島文理科大学(現広島大学)の理学研究者。 福島県出身。X線および電子線による結晶解析の研究においてで、メタ硼酸の結晶構造の解析にフーリエ解析法を用いる方法を提案した。 広島大学退官後は、大阪電気通信大学学長に就任し、持ち前の温厚な性格と冷静な発言で、学生紛争を平和裏に終結に導いた。1970年、勲三等瑞宝章受章。1989年、腎不全のため死去。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 19… 田辺 平学(たなべ へいがく、1898年1月17日 - 1954年2月3日)は、日本の建築構造学者、防災研究者、建築家。日本の建築物、都市の不燃化の研究、啓蒙に務めた。東京工業大学名誉教授。 田辺政之助の子として京都府で生まれる。1922年、東京帝国大学工学部建築学科卒業後、神戸高等工業学校講師。1925(大正14)年、建築構造学研究のため、欧米に出張。ドイツとイギリス、アメリカ合衆国へ2年間滞在する。ドイツでは商店で火事に遭遇する。 帰国後の1929年、神戸高等工業学校教授。「鉄筋混凝土版の基本的事項に関する研究」で工学博士号を取得。東京工業大学教授を兼任。 1931年、日本建築学会学術賞受賞。
斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 … 斎藤 晌(齋藤 晌、さいとう しょう、1898年1月15日 - 1989年5月11日)は、日本の哲学研究者、東洋大学名誉教授、明治大学名誉教授。 1898年、愛媛県生まれ。実家は宇和島藩の藩校の儒学者の家系で、早くから漢籍に親しむ。1924年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 卒業後は東洋大学教授、大東文化学院教授などを務めた。1943年より日本出版会常務理事。1944年に辞職した。 太平洋戦争が終結すると、占領期にはかつての論説等が戦争協力にあたるとされ、公職追放の対象となった。公職追放解除後、1952年より明治大学教授、1953年からは東洋大学教授を兼任。1956年より東洋大学文学部長。1969年に定年退任した。
久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月… 久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月1日)は、日本の音楽家・音楽評論家、書画骨董の研究者、鑑識家。 1898年(明治31年)、北海道旭川市の智山派寺院に生まれ、智山勧学院に入学、平田元吉や西田幾太郎の講義から影響を受けた。6歳から仏典・漢籍を父に仕込まれた為、12歳にして伝法灌頂を授かる。中学1年生からはヴァイオリンを習い、川島栄三郎より本格的に稽古を受けてヴァイオリニスト・作曲家としての知名度を上げ、京都基督教青年会音楽学校のヴァイオリン科主任教師となる。 1923年(大正12年)夏に過労から喀血して演奏・作曲の一線から身を引き、門下育成・執筆活動へと転向する。京都帝国大学内京都文学会発行の『芸文』へ「ベートーヴェンとスザンヌ」「未来派及び表現派の絵画の陥れる本質的誤謬を指摘して絵画の本質に及ぶ」の発表を契機に、『音楽新潮』へ音楽の批評・解説を執筆する。
山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月2… 山極 一三(やまぎわ かずみ、1897年(明治30年)4月26日- 1968年(昭和43年)5月19日)は、日本の医学者、生理学者、脳波研究者。医学博士。 日本人初の脳波研究者である。ただし帰国後は脳波研究からは手を引く。興奮伝導に関する理論研究に専念した。 東京高等歯科医学校(後の東京医科歯科大学)教授を務めた。 長野県小県郡西塩田村で出生、2,3才の頃東京に移る。大正4年に東京府立第三中学校を卒業、大正8年に第一高等学校を卒業、大正13年に東京帝国大学医学部医学科を卒業。昭和6年12月から橋田邦彦研究室の助教授を務めた。橋田門下での最優秀の学者と評される。 昭和8年、ヨーロッパへ留学。昭和11年まで主にケンブリッジ大学のエドガー・エイドリアン(1932年ノーベル生理学賞受賞)の下でヒト頭皮上計測脳波黎明期の研究に従事した。
杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 197… 杉田 六一(すぎた ろくいち、1897年3月7日 - 1976年8月9日)は、古代オリエント研究者、実業家。 愛知県豊橋市出身。旧制中学時代、叔父にもらった英文の聖書を読み古代オリエントに興味を持ち、聖書研究の目的で青山学院大学に進学。1921卒業、同大講師を務めるが、奥日光の観光業者・南間久吉の娘と結婚、戦時中は奥日光に疎開し独学で古代イスラエルの研究に従事。戦後、奥日光で観光物産会社・杉田商事代表取締役となり、奥日光開発取締役などを務めた。日本イスラエル文化研究会理事長。
平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1… 平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日)は、日本のマルクス主義法学者、中国研究者、平和運動家。
亀井 幸次郎(かめい こうじろう、1897年 - 1974年… 亀井 幸次郎(かめい こうじろう、1897年 - 1974年)は、日本の都市防災研究者。都市計画、都市政策と住宅地、火災予防など防災の研究を進めた人物。日本大学教授を歴任。工学博士。東京生まれ。 日本大学旧工学部建築学科卒業後、内務省に入省。都市計画地方委員会技師第1期生。同期は内山新之助、榧木寛之、武居高四郎、藤田宗光、石川栄耀ら。その後帝都復興院、住宅営団を経て、日本損害保険協会に勤務。1948年から1968年まで、日本大学で後進の育成と研究にいそしむ。 主著に、建築災害としての大火性状に関する一連の研究 1958 学位論文、災害の構造学 都市・建築の防災工学 理工図書 (B5 ) 1969年、集團的住宅地の計晝、住宅営団編、1943年などのほか、住宅営団の海外住宅研究として、住宅地の新体制原理と計画や住宅地の設計など、トーマス・アダムスの著作を翻訳。
南 喜市郎(みなみ きいちろう、明治29年(1896年)10… 南 喜市郎(みなみ きいちろう、明治29年(1896年)10月23日 - 昭和46年(1971年)2月20日)は、ホタルの研究者。家業の醸造業を営む傍ら守山ゲンジボタル生態調査を行い、人工飼育に取り組み羽化に成功した。ほたる保護思想の普及啓発と増殖に努めた。 南喜市郎は、明治29年(1896年)10月23日滋賀県野洲郡守山町(現滋賀県守山市)に生まれ、本名は喜右衛門と称した。旧滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を卒業後、家業の醤油醸造業を手伝い町の青年団長を務めていた大正8年(1919年)、本山彦一(元大阪毎日新聞社社長)が守山を訪れ、南にゲンジボタルの研究を勧めた。 その後、岐阜の昆虫学者名和靖の依頼から守山ゲンジボタル生態調査の案内役をし調査研究に協力した。
内海 繁太郎(うつみ しげたろう、1896年7月6日 - 1… 内海 繁太郎(うつみ しげたろう、1896年7月6日 - 1966年9月22日)は、人形浄瑠璃研究者。 香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)出身。幼少時、淡路人形浄瑠璃に接する。香川師範学校卒業。千疋村(現・綾川町千疋)の小学校で教師となるが、1920年小原国芳の勧めで上京、成城小学校で教員をしながら日本大学の美学科、国文学科に学び1929年国文科卒。1930年日本大学法文学部学生主事、教授、1948年芸術学部演劇科教授となる。1954年「人形浄瑠璃の研究」で日大文学博士。墓所は多磨霊園。
実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - … 実藤 恵秀(さねとう けいしゅう、1896年5月13日 - 1985年1月2日)は、日本の中国研究者。 広島県出身。早稲田大学文学部支那文学科卒。1935年竹内好らの中国文学研究会に参加。早大助教授、1949年教授。1960年「中国留日学生史の研究」で早大文学博士。1967年定年退任、名誉教授。子に実藤遠、さねとうあきらがいる。戦後は「さねとう(・)けいしゅう」の署名を多く用いた。
清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 … 清野 暢一郎(せいの ちょういちろう、1896年4月26日 - 1976年2月21日)は、日本のアメリカ演劇研究者。 第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学英文科卒。在学中、十一谷義三郎らの『行路』に参加。米国へ留学し演劇を研究、ユージン・オニールを主として研究し、帰国後演劇活動に携わる。東京都立大学 (1949-2011)を経て1956年中央大学専任講師、1964年教授、1967年定年退職。
有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - … 有坂 与太郎(ありさか よたろう、1896年1月27日 - 1955年6月8日)は日本の郷土玩具研究者・収集家。本名は正輔。(旧字表記は「與太郎」) 1896年1月27日に南品川に生まれる。「郷土玩具の普及」「玩具則生活描写」を提唱()し、郷土玩具の出版を勢力的に行い、郷土玩具運動のリーダー的存在となった。三田平凡寺らと交遊、『我楽他宗』に参加、第四番与太山玩狐寺と号し、狐に関するものを収集した。 1925年(昭和初め)ごろから興った郷土玩具収集の新たな高まりは、西洋的な事物を排除し、日本的な事物を評価しようという当時の国策にそったものでもあった。これまでの名士などいわゆる趣味人の特殊な階層の趣味を越えて,一般家庭主婦や若いサラリーマン,学生層にまで愛好熱が広まった。
中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年… 中澤 誠一郎(なかざわ せいいちろう、1896年(明治29年)1月24日-1986年(昭和61年)8月29日)は、日本都市計画学会は発起人としても関与し、日本都市学会や近畿都市学会は会長を歴任した都市計画家、建築行政官、都市研究者。大阪市立大学名誉教授。日本建築学会名誉会員で、大阪市政研究所にも所属した。京都市生まれ。 旧制第三高等学校を経て1920年(大正9年)7月東京帝国大学工学部建築学科を卒業。ただちに内務省大臣官房都市計画課勤務。1921年大阪府警察部技師。中の島大阪市庁舎新築工事などを担当。 1924年愛知県警察部建築課長。1931年愛知県土木部建築課長。1932~39年:大阪府警察部建築課長と、都市計画並びに建築行政の分野で業務を歴任。
青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年1… 青山 民吉(あおやま たみきち、1896年 - 1953年11月30日、正字では靑山)は、日本の美術評論家、美学者、工芸研究者、装丁家、書店経営者。麻布中学校、第四高等学校 (旧制)一部法科独法、京都帝国大学文学部美学科卒。東西の美術に精通し、画集の出版等による紹介を行う。柳宗悦らによる民藝運動の同伴者となり、工藝美術の定義に関して啓発活動を行った[3]。また、有島生馬らによる一水會運動にも協力した。装丁家・美術評論家の青山二郎は弟。
笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 19… 笠井 鎮夫(かさい しずお、1895年12月27日 - 1989年5月21日)は、日本の文学研究者、スペイン語学・文学者、翻訳家。東京外国語大学名誉教授。日本の怪異譚にも関心をもち、僖真 学人を名乗った。 岡山県岡山市出身。1919年東京外国語学校西語学科卒業。同年4月同校助教授。1929年同校教授。1949年東京外国語大学教授、同年7月から1951年まで同大学附属図書館長を兼任。1959年定年退官、名誉教授、南山大学教授、1972年退職。 日本とスペイン語圏文化の交流に尽力し、日本ボリビア協会理事、日本アルゼンチン協会評議員などを歴任。『西譯古今名句選』では、俳句のスペイン語訳を行った。 1965年6月、スペイン政府からイサベル・ラ・カトリカ勲章(スペイン語版、英語版)を受章。
伊藤 武雄(いとう たけお、1895年3月1日 - 1984… 伊藤 武雄(いとう たけお、1895年3月1日 - 1984年9月5日)は、日本の中国研究者。日中友好協会副会長を務めた。 1895年、愛知県渥美郡田原町(現・田原市)で生まれた。東京帝国大学法学部政治学科で学び、1920年に卒業。 南満州鉄道勤務。満鉄時代の1943年、満鉄調査部事件で検挙され、10カ月投獄された。 第二次世界大戦後、1946年には中国研究所の設立に参加したほか、日中友好協会副会長を務めた。また、日中文化交流協会を設立し、ジャパンプレス会長を務めた。
小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - … 小池 藤五郎(こいけ とうごろう、1895年1月30日 - 1982年11月4日)は、日本近世文学の研究者。狂歌人でもあった。 山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる。黄表紙研究者の小池正胤は息子。 山梨県北巨摩郡更科村(現韮崎市)生まれ。 実家は富裕な名主の家系で、甲斐国のみならず江戸の文人との交流のある環境であった。曽祖父に当たる小池伝右衛門富章(号は勝山、文雅園)は国学・漢学に通じ、狂歌師として「白水亭亀丸」の号を持っていた。小池家には『南総里見八犬伝』が肇輯から初版本がそろっており、近郷唯一の『八犬伝』として親戚・知人や家来筋の人々にも愛読されたというが、1898年(明治31年)の洪水で書庫とともに流され失われたという。
四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1… 四手井 綱正(しでい つなまさ、1895年1月27日 - 1945年8月18日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究者。最終階級は陸軍中将。 京都府山科(現京都市)の旧家(郷士)出身。教員・四手井彦四郎の長男として生まれる。京都一中、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第23連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を優等で卒業した。 陸軍騎兵学校教官、ドイツ駐在、陸大教官、兼参謀本部員などを経て、1935年(昭和10年)8月から1939年(昭和14年)3月まで侍従武官を務めた。この間、1936年(昭和11年)には、飛行第五連隊で発生した飛行機墜落事故発生の状況実視に遣わせられた。
北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明… 北村 徳太郎(德太郎、きたむら とくたろう、1895年 <明治28年> 1月3日 - 1964年 <昭和39年> 5月8日)は、日本の造園技師・都市研究者・都市計画家。東京大学農学部教授も歴任。位階は正四位。勲三等旭日中綬章。 山形県米沢市で生まれる。父は元米沢藩士で、米沢藩の藩医だった祖父茂助(貞徳)の代に既に東京に出ていたが、母親は米沢の風習により里帰りしたようである。弟は作家の北村謙次郎。獨逸学協会学校、第一高等学校を経て東京帝国大学医科に進学したが、まもなく農科に転籍。 大学卒業後は内務省に入省し、以後、中央官庁で黎明期の都市計画行政の指導監督、戦災復興事業の実践等の任にあたった。主として公園緑地に関わり、全国の都市計画、地方計画、国土計画に参画した。
上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - … 上村 六郎(うえむら ろくろう、1894年10月10日 - 1991年10月29日)は、染織文化研究者。 新潟県刈羽郡生まれ。号は元人(げんじん、もとんど)。京都高等工芸学校染色学卒。京都帝国大学工学部工業化学科卒、同大助手。関西学院大学理工科講師、武庫川女子大学教授、1950年大阪学芸大学教授。58年定年退官、同年「上代文学に現れた色名・色彩並に染色の研究」で京都大学理学博士。県立新潟女子短期大学教授、新潟青陵女子短期大学初代学長、四天王寺女子大学教授、日本染織学園園長を兼任。旭川市の優佳良織(ゆうからおり)工芸館内国際染織美術館館長。 日本の古代染織を研究し、宮内庁の委嘱により正倉院御物裂の調査に当たる。