徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
職業が宗教家:310人
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 199… 沼田 恵範(ぬまた えはん、1897年4月12日 - 1994年5月5日)は、宗教家、仏教伝道者。実業家、「ミツトヨ」創業者。 広島県賀茂郡志和町(現・東広島市志和町)の浄土真宗本願寺派・浄蓮寺の三男に生まれ、京都平安中学(現・平安高等学校)に学ぶ。卒業後、本山である西本願寺から派遣され1915年、仏教布教のため19歳で渡米。ハリウッド・ハイスクールとカリフォルニア大学バークレー校(UCB)で数学を4年、さらに同校大学院で経済学(統計経済、景気変動学)を学ぶ。「今でこそ日米は平等に扱われているが、当時は日本人は犬猫のようだった」と奮起、学業と平行して米国人に仏教文化を伝えたいと英文雑誌「ザ・パシフイック・ワールド」を創刊。
戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 196… 戸次 貞雄(べっき さだお、1897年3月11日 - 1965年7月8日)は、日本の宗教家。日本敬神崇祖自修団創始者。現在の熊本県山鹿市山鹿町出身。 1925(大14)8.1「仏の大慈大悲と運命」(昭和の法華経 第一編) 1928(昭3)9.10「昭和の法華経と常不軽菩薩」完成 二編「昭和の法華経とキリスト教」完成 三編「仏は滅し給わず」完成 四編 1929(昭4)「三宝経」著述 1930(昭5)「皇礼典法華妙皇道実証経」発行 1932(昭7)7.7 福島県幕川金神滝開滝 1946(昭21) 第一回 天地創造之大神大祭 大宇宙真理開顕 妙皇道 創刊号発行 1947(昭22) 福島県 旧福田村に皇礼堂落成 1949(昭24)4.15 「お蔭様の歌」完成 11.3 「全思想之源泉 世界宗教根本論」出版 12.28 「身削の光」発行 1951(昭26)4.21 「宇宙心理と文化」出版「先祖権現堂」完成 1952(昭27)3.18 「日本民族道凡論」「日本天皇堂と人間」 「日本天皇と万象の宗源」出版 1955(昭30) 「真運浄光荘厳恵尊」題目完成 1961(昭36)11 「真運東方光権現経昭和安神本願偈」 1962(昭37) 「自覚剤薬心経」「日本の国柄」「我が身に感謝せよ」 「群生霊喜納帰元祭経」 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
谷口 輝子(たにぐち てるこ、1896年3月7日 - 198… 谷口 輝子(たにぐち てるこ、1896年3月7日 - 1988年4月24日)は日本の宗教家。生長の家創始者谷口雅春の妻で、生長の家白鳩会初代総裁。富山県高岡市出身。富山県立高岡高等女学校卒業。旧姓江守。
中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 198… 中山 理々(なかやま りり、1895年5月20日 - 1981年7月27日)は、東京都出身の日本の宗教家・実業家。浄土真宗東本願寺派法善寺住職。東京大学文学部哲学科卒業。 国際派の仏教人として知られ、世界平和の推進に尽力。日本仏教鑚仰会理事長、世界宗教者平和会議日本委員会常務理事、ガンジー平和連盟理事長、東京博善社社長、仏教タイムス社長、真宗大谷派宗議会議員などの要職を歴任した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30… 葉室 直躬(はむろ なおみ、1895年(明治28年)4月30日 - 1971年(昭和46年)12月16日)は、日本の華族、神職。正四位。伯爵。 子爵鍋島直柔(旧蓮池藩主家)の三男として生まれたが、藤原北家勧修寺流(藤原為房の次男藤原顕隆が家祖)の流れを汲む葉室家に婿養子に入り、36代目当主となる。明治大学卒業後、安田銀行勤務などを経て、賀茂御祖神社(下鴨神社)宮司となり、興亜学院理事長なども務めた。
友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月… 友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉11月16日)は、日本の宗教家、仏教学者である。幼名は春太郎。全日本仏教会創立者。 愛知県名古屋市生まれ。 浄土宗の僧侶となったが、既存の仏教の在り方に疑念を抱いた。浄土宗の僧侶のまま宗教大学へ入り、卒業してさらに慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学文学部史学科でサンスクリット(梵語)を学び、大正13年に卒業。 独・仏に留学し、帰国後に慶應義塾大学予科講師・教授、慶應義塾大学仏教青年会顧問、日本放送協会ラジオ講師、大正大学講師等を歴任。西洋哲学に裏打ちされた仏典研究をはじめる。また、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始し、ラジオや機関誌で思想を広めた。
高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月… 高原 美忠(たかはら よしただ、明治25年(1892年)3月16日 - 平成元年(1989年)6月12日)は、日本の神道学者、神職。八坂神社名誉宮司、皇學館大学学長。 明治25年(1892年)3月16日、岡山県岡山市に喜三治・辰野の子として生まれる。明治44年(1911年)岡山県立岡山中学校(現在の岡山県立岡山朝日高等学校)卒業、大正5年(1916年)神宮皇學館本科卒業。 和歌山県立農林学校(現在の和歌山県立南部高等学校)教諭、神戸市神港商業学校(現在の神戸市立神港高等学校)教諭を経て、大正12年(1923年)より日光東照宮禰宜。翌年、白山比咩神社宮司、昭和8年(1933年)函館八幡宮宮司、昭和11年(1936年)弥彦神社宮司。
久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月… 久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月7日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、昭和初期の宗教家。霊友会の創設者。『法華経』に基づく在家による菩薩行を実践した。 普遍的な菩薩行の実践は、古来より大乗仏教の理想であった。しかし、19世紀の終り頃までは、アジアの伝統的な仏教国においては、人々の識字率は極めて低く、経典を自分で読む事など不可能だった。僧院等で教育を受け訓練された僧侶だけが仏の教えを本格的に行じることが出来た。そのため在家出家を問わない全ての人々による菩薩行の実践という理想は、長い仏教史上において一度も実現される事はなかった。 時代は下り、仏教国の一つである日本において、19世紀の終り頃から始まった全国的教育制度の普及により、人々の識字率は劇的に向上した。
堀越 儀郎(ほりこし ぎろう、1891年(明治24年)8月2… 堀越 儀郎(ほりこし ぎろう、1891年(明治24年)8月20日 - 1973年(昭和48年)6月2日)は、大正から昭和期の宗教家、教育者、政治家。天理大学学長、参議院議員(1期)。旧姓は村田。 奈良県添下郡郡山町(生駒郡郡山町を経て現大和郡山市)で村田忠三郎の三男として生まれ、堀越幸の養子となる。1917年(大正6年)東京帝国大学文科大学心理学科を卒業した。 1917年、天理中学校(現天理高等学校)教頭に就任。以後、天理外国語学校教授、天理教信徒部長、同文教部長、天理教総務、天理教いちれつ会理事長、天理大学理事長、天理短期大学学長、天理大学学長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選し、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した。
赤木 顕次(あかぎ けんじ、1891年(明治24年) - 1… 赤木 顕次(あかぎ けんじ、1891年(明治24年) - 1959年(昭和34年))は、日本の宗教家、PL教団祐祖。日本三大寮歌である北海道大学恵迪寮の明治45年寮歌「都ぞ弥生」の作曲者。北海道小樽市出身。 1891年、小樽市の医者の家に生まれる。生まれつき耳が遠かったものの、ハーモニカの名手であった。京北中学校から北海道大学農学部に進学した。 1912年、日本三大寮歌のひとつとなる、北海道大学恵迪寮の明治45年寮歌「都ぞ弥生」を寮の同室であった横山芳介が作詞し、赤木が作曲した。都ぞ弥生の作歌活動のために一年留年し、1917年(大正6年)に、畜産科を卒業した。 卒業後、東京、広島で食品化学会社研究員、東京帝国書院で教科書編集、中学教師と勤める。
長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 -… 長沼 妙佼(ながぬま みょうこう、1889年12月25日 - 1957年9月10日)は、日本の宗教家、立正佼成会の元副会長。現在は、脇祖として尊崇されている。改名前の名前は長沼政(まさ)という。 埼玉県北埼玉郡志多見村(現・加須市)出身。16歳の時に姉の養女となり、天理教に入信。25歳で結婚後、夫の身持ちの悪さから11年後に離婚。その後、41歳で再婚。夏は氷屋、冬は焼き芋屋の「埼玉屋」という店のおかみさんをしていた。40代後半、心臓弁膜症、喘息、胃下垂、子宮内膜炎が悪化し、寝込むことが多くなった。これを聞いた庭野日敬は、霊友会に入ることを勧め、これに納得し、入会した。 1938年、霊友会会長小谷喜美との対立から霊友会を脱会し、同年3月5日に庭野や村山日襄らと大日本立正交成会(後の立正佼成会)を設立。
梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月… 梅園 篤彦(うめぞの あつひこ、1889年〈明治22年〉7月17日 - 1978年〈昭和53年〉8月4日)は、大正から昭和期の神職、政治家、実業家、華族。貴族院子爵議員。 男爵・梶野行篤の七男として生まれ、1913年(大正2年)6月、子爵・梅園実師の養子となる。養父の死去に伴い、1917年(大正6年)10月10日、子爵を襲爵した。 1909年(明治42年)京都府立第二中学校を卒業。1912年(明治45年)3月、大阪市立高等商業学校を卒業。その後、京都帝国大学法科大学を修了した。 1916年(大正5年)官幣中社白峯宮主典に就任。以後、府社男神社社司、京都市主事、京都市嘱託、滋賀県嘱託、京都薬学専門学校講師、京都計理士会会長、三島製紙常務取締役、精版印刷監査役などを務めた。
明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 19… 明石 順三(あかし じゅんぞう、1889年7月1日 - 1965年11月14日)は、日本の宗教家。1927年にワッチタワー(エホバの証人)の日本支部として灯台社を創立した。聖書に基づく信仰から戦争に反対し、1939年に検挙され、治安維持法違反で懲役刑を受けた。第二次世界大戦後の1945年10月に釈放されたが、1947年にエホバの証人のアメリカ合衆国本部を批判してエホバの証人から除名された。 1889年7月1日に滋賀県坂田郡息長村(現・米原市)岩脇(いよぎ)で生まれた。順三の生まれた家は彦根藩で代々藩医を務めていて、父の道貞は外科医あるいは漢方医だった。 順三は滋賀県立彦根中学校(後の滋賀県立彦根東高等学校)を2年で中退し、1907年に東京に行きプロテスタント系の神田教会の牧師である島貫兵太夫(しまぬき へいだゆう・ひょうだゆう)が主宰する力行会に入った。
友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1… 友清 歓真(ともきよ よしさね、1888年10月9日 - 1952年2月15日)は、日本の宗教家である。神道天行居の創設者として知られる。出生名は九吾。ほかに、天行、黙山、如甕、磐山などの別号も名乗った。 1888年(明治22年)10月9日、山口県吉敷郡井関村佐山(現:山口市)に生まれる。父は裕蔵・母はむめ。次男であった。出生名は九吾。友清家は、出入りの職人や端女がいる程度には生活に余裕があったが、1895年(明治28年)、歓真が8歳のとき父が急死したことにより、家運は転落した。当時の歓真は病弱な文学少年であり、家塚高志は、「幼時より病弱で大切に育てられたことと、父の急死で家計が一時に崩れたということ」が彼のパーソナリティ形成に影響を与えているのではないかと論じている。
柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3… 柏木 庫治(かしわぎ くらじ、1888年〈明治21年〉8月3日 – 1977年〈昭和52年〉9月15日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(2期)。 東京府出身。中津中学校を修了した。 1935年(昭和10年)天理教校講師に就任。以後、天理教本部教学審議会委員長、同集会予算委員長、同東京教務支庁主事、同東中央分教会長、同文教部理事などを歴任した。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して初当選。1953年(昭和28年)4月の第3回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して再選(補欠、任期3年)されたが、栃木県佐野市の投票所で候補者平林剛の所属政党名の誤記があったことにより、1954年(昭和29年)9月24日、最高裁判所の上告審判決により佐野市での選挙が無効となり、柏木を含めた6名が失格した。
深田 千代子(ふかた ちよこ、1887年〈明治20年〉10月… 深田 千代子(ふかた ちよこ、1887年〈明治20年〉10月3日 - 1925年〈大正14年〉1月6日)は、日本の宗教家、円応教教祖。兵庫県氷上郡小川村字井原(現・丹波市山南町井原)出身。法名は「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」。 1887年(明治20年)10月3日、兵庫県氷上郡小川村字井原(現・丹波市)の茶屋店主深田難吉・カルの長女として生まれた。千代子は家計を助けるため子守り奉公などをして育ち、1907年(明治40年)に笹倉三治と結婚。翌1908年(明治41年)3月25日には長男の長治(1908年3月25日 - 1976年(昭和51年))4月3日)を儲けるも、同年、三治が旅先で金品を奪われ毒殺されるという不幸に見舞われ、1909年(明治42年)、長治を深田家に残し、村に巡業に来た旅役者の河合静雄と大阪市で再婚した。
唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9… 唐橋 在知(からはし ありとも、 1887年〈明治20年〉9月18日 - 1973年〈昭和48年〉7月30日)は、日本の神職、華族(子爵)。正四位。殿掌、掌典。 1887年、貴族院子爵議員・唐橋在正の次男として生まれる。 明治大学政経科卒業。1931年、父・在正の隠居に伴い子爵を襲爵し、華族制度廃止まで爵位を保有した。 また、神職を務め、霊山神社の宮司に就任した[要出典]。 出典が無い限り、霞会館 1996a, pp. 455–456を参照した。
高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 196… 高橋 正雄(たかはし まさお、1887年5月5日 - 1965年5月25日)は宗教家、哲学者、教育者。 金光教第二世代の代表的人物。金光教学院長として数多くの若者を育てるとともに、金光教教監(現在の教務総長に相当する役職)として現在の金光教団の基礎を確立し、現在の金光教に続く結界取次を中心とする人間の生き方や、ゆるやかで自己内省的な教義を広めた。
井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4… 井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年〈明治19年〉4月12日 - 1967年〈昭和42年〉3月4日)は、日本の宗教家、政治運動家、テロリスト、右翼指導者。本名は井上 昭(いのうえ あきら)、別号に日象。血盟団を結成して「一殺多生」を唱え、1932年に血盟団事件を起こした。無期懲役の判決を受けたが恩赦により出所。戦後は右翼団体・護国団を結成した。日蓮宗を信仰し、仲間からは「和尚」と呼ばれたものの僧籍は有していない。 群馬県利根郡川場村に、医師・井上好人の四男として生まれる。幼名は四郎、通称尚(たすく)。幼少期より母との関係が悪く、野火を付けたり脇差を持ちだして門松を斬り倒したりする悪童だった。
石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 196… 石丸 梧平(いしまる ごへい、1886年4月5日 - 1969年4月8日)は、日本の宗教家、小説家。 大阪府生まれ。号を梅外。茨木中学校(現茨木高等学校)卒。早稲田大学高等師範部歴史地理科卒業後、教員となる。その後小説など執筆活動を始め、青年に対する教育的・啓蒙的なものを多く書いた。雑誌『人生創造』を刊行し、花園大学客員教授などを務めた。川端康成は若いころ梧平の影響下にあった。妻の石丸喜世子も評論家として活動した。
河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - … 河村 幹雄(かわむら みきお、明治19年(1886年) - 昭和6年(1931年))は、日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。
高階 研一(たかしな けんいち、明治18年〈1885年〉11… 高階 研一(たかしな けんいち、明治18年〈1885年〉11月25日 - 昭和42年〈1967年〉10月4日)は、明治時代末期から昭和時代後期にかけて活躍した日本の神職。 丹生川上神社宮司、石上神宮宮司、廣田神社宮司、札幌神社宮司、諏訪神社宮司、橿原神宮宮司を歴任したほか、長野県神社協会理事、全国神職会理事、皇典講究所理事、奈良県神社庁初代庁長、神社本庁第3代事務総長、同理事、同顧問を務めた「神社界の重鎮」であった。 明治18年(1885年)11月25日、元豊岡藩士高階幸造を父に、兵庫県城崎郡田鶴野村に生まれた。 大学は國學院大學師範部国語漢文科に進んだ。同期には折口信夫がおり、研一と折口との交流は折口が亡くなるまで続いている。
北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月… 北島 貴孝(きたじま よしのり、1884年〈明治17年〉7月10日 - 1956年〈昭和31年〉8月20日)は、大正から昭和前期の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家第77代当主、貴族院男爵議員。 島根県簸川郡(現・出雲市大社町)で北島国造家76代当主・北島斉孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1918年(大正7年)12月20日、男爵を襲爵した。 1906年(明治39年)、学習院高等科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学史学科を修了した。1918年、父の死去後、神道出雲教会大教主に就任。1952年(昭和27年)、神道大教から離れ出雲教を設立して国造に就任した。1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)まで出雲大社御造営御用掛を務めた。
平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3… 平田 貫一(ひらた かんいち、1883年〈明治16年〉2月3日 - 1971年〈昭和46年〉1月13日)は、日本の内務官僚、神職。皇學館大学初代学長。 鹿児島県薩摩郡宮之城町(さつま町)出身。第七高等学校を経て、1909年(明治42年)、東京帝國大學法科大学政治学科を卒業し、高等文官試験に合格した。農商務省に入り、特許局審査官補、鉱山監督署事務官、鉱務官、札幌鉱務署鉱政課長を務めた。その後、内務省に転じ、社会局書記官、兵庫県産業部長、岐阜県内務部長、栃木県内務部長、福岡県内務部長を歴任した。 1930年(昭和5年)、神宮皇學館長に就任。その後、近江神宮宮司を務めた。 戦後は2度にわたり神社本庁事務総長に就き、1962年(昭和37年)に皇學館大學が再興すると初代学長を務めた。
今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年… 今岡 信一良(いまおか しんいちろう、1881年(明治14年)9月16日 - 1988年(昭和63年)4月11日)は、日本の教育者、宗教家、翻訳家。正則学院名誉理事、日本自由宗教連盟、東京帰一教会各会長、神学博士。 その他、兵庫基督教会牧師・日本大学講師・新目黒計器会長などを歴任した。
藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月… 藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 - 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。
高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月… 高倉 篤麿(たかくら あつまろ、1880年〈明治13年〉2月15日 - 1964年〈昭和39年〉2月1日)は、日本の宮内官、神職、華族。貴族院子爵議員、伊勢神宮大宮司。旧姓・藪。1936年(昭和11年)2月、高倉に復姓(中国語版)した。 東京府で華族・藪実休(さねたる)の二男として生まれる。1882年(明治15年)10月7日、祖父・藪実方の隠居に伴い家督を相続。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。1907年(明治40年)明治大学政治科を卒業し、さらに東京外国語学校仏語専修科で学んだ。 1890年(明治23年)侍従職出仕となり、1898年(明治31年)主猟官に転じた。1914年(大正3年)1月24日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1940年(昭和15年)2月20日に辞任した。
長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日… 長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉8月15日)は、日本の神職。熱田神宮名誉宮司。 1880年、石川県の社家に生れる。1911年に神宮皇學館を卒業、1912年に駒形神社宮司となって以降、1913年から大鳥神社、1920年から松尾大社、1923年から多賀神社、1934年から橿原神宮の宮司をつとめ、1936年から熱田神宮宮司、その後同名誉宮司。1946年の神社本庁設立などに尽力した。皇學館大学の初代理事長も務めている。
秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2… 秦 真次(はた しんじ、1879年4月6日 - 1950年2月24日)は、日本の陸軍軍人、神職。最終階級は陸軍中将。
好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23… 好本 督(よしもと ただす、1878年(明治11年)1月23日-1973年(昭和48年)4月14日)は、日本の教育者、研究者、キリスト教思想家、宗教家である。 視覚障害当事者として、イギリスの制度を日本に輸入し視覚障害者の権利向上のため尽くした。日本盲人の父と称される。 大阪市東区瓦町に生まれる。幼少期から網膜色素変性症のため弱視であった。 大阪府立第一中学校を卒業。 1898年前後(明治31年) 内村鑑三の聖書研究会に参加し、キリスト教徒となる 1900年(明治33年)東京高等商業学校を卒業。 1901年(明治34年)オックスフォード大学ジーザス校に留学。 1902年(明治35年)日本に帰国後、『真英国』を著す。
暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12… 暁烏 敏(あけがらす はや、1877年〈明治10年〉7月12日 - 1954年〈昭和29年〉8月27日)は、日本の、真宗大谷派の僧侶・宗教家。院号は「香草院」。法名は「釈彰敏」。愛称は「念仏総長」。 真宗大学在学時から俳句を作り、号は「非無」。高浜虚子に師事し、詩や俳句も多く残した。加賀の藤原鉄乗、高光大船と暁烏敏を合わせて、加賀の三羽烏という。 1877年(明治10年)、石川県石川郡出城村字北安田(現:白山市北安田)の真宗大谷派の明達寺に長男として生まれる。父の暁烏依念(えねん)は説教使として知られた人物であった。母の千代野も、清貧に甘んじた夫に尽くし、敏の教育に熱心な母であった。 1887年(明治20年)、父依念と死別。
多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 … 多田 鼎(ただ かなえ、1875年(明治8年)10月3日 - 1937年(昭和12年)12月7日)は、日本の学僧、宗教家。愛知県出身。大谷派伝道講究院初代院長を務めた。院号及び法名は、「信斯院釋慶悟」。 愛知県宝飯郡五井村(現在の蒲郡市)の常円寺で生まれる。 1896年(明治29年)に真宗大学へ進学、白川党(清沢満之らによる宗派変革活動)に加わったため、退校処分となる。(次年には復校が許可される) 1900年(明治33年)、清沢満之の仮宅浩々洞において暁烏敏、佐々木月樵などと「精神主義」に身を投じる。 また、浩々洞の機関誌『精神界』の刊行を1901年(明治34年)に始める。 1902年(明治35年)真宗大学の嘱託教授に就任する。
高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 … 高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 - 1949年10月25日)は、日本の社会教育家、仏教学者、宗教家。東洋大学第12代学長。号は大圓。聖徳太子奉賛会理事を務め、『聖徳太子正伝』(明治書院)が天皇・皇后・皇太后・皇太子に献上されるなど、皇室とも深い関わりがあった。 1875年、新潟県中頸城郡竹直村(現在の上越市吉川区)生まれ。高田の興仁教校、西本願寺文学寮を経て1893年(明治26年)に上京して哲学館(後の東洋大学)に入学し、1896年(明治29年)卒業。井上円了の助手となり、『東洋哲学』の編集に従事する。その後『北國新聞』記者、京華尋常中学校講師を経て『中央公論』の評論を担当する。
葦津 洗造(あしづ せんぞう、1875年 - 1927年1月… 葦津 洗造(あしづ せんぞう、1875年 - 1927年1月3日)は、日本の神職。筥崎宮宮司。 福岡市出身。筥崎宮の社家に生まれる。筥崎宮宮司と香椎宮宮司を務めた葦津磯夫の長男、葦津耕次郎の兄、葦津珍彦の伯父。 1891年福岡県立尋常中学修猷館を経て、神宮皇學館を卒業。1904年高良神社宮司となり、1908年筥崎宮宮司に就任。その後終生同宮に奉じた。 1913年福岡県神職会(福岡県神社庁の前身)副会長に推され、没するまでその地位にあった。
木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 195… 木村 清松(きむら せいまつ、1874年4月7日 - 1958年1月14日)は、日本の巡回伝道者、牧師。ナイアガラの滝を「自分のお父さんのものだ」と言ったことで話題になった。「キリストに虜われし清松」と呼ばれていた。伝記を書いた岩村清四郎は実弟。 1874年、新潟県五泉町(現:五泉市)に地酒の醸造業者の家に生まれる。1889年、村松高等小学校を卒業する。1890年、北越学館に入学する。1891年1月11日に堀貞一により日本基督教会新潟第一基督教会(現・日本基督教団新潟教会)で洗礼を受ける。1892年、仙台の東北学院に入学する。 1894年6月に渡米する。1895年、アメリカで救世軍に入隊して、士官学校に入隊するが、神学上の問題で8ヶ月で辞める。
品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7… 品田 俊平(しなだ しゅんぺい、1873年(明治6年)6月7日 - 1935年(昭和10年)4月14日)は、日本の宗教家。1905年(明治38年)に心教を開教した。心教では「扇下」と呼ばれた。 1873年(明治6年)6月7日、新潟県刈羽郡柏崎町比角2061番にて、父・富八と母・ハステの間に生れる。家は呉服屋であった。両親は熱心な仏教信仰者であり、俊平自身も常に経文を読誦し、礼拝を怠らず、常に学究心と道心とを忘れなかった。 柏崎町比角尋常小学校を卒業後、星野漢学塾で漢学を学び、大道長安や平井天海に就き仏教を修めると同時に、町の道場で剣道の修業を積んだ。その後上京し山口三之助や福来友吉と交わり、その後もしばしば上京しては仏教、儒教、キリスト教、哲学、剣道など各分野の大家のもとを訪れ研究したとされる。
佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20… 佐伯 恵眼(さえき えげん)、1873年(明治6年)1月20日 - 1951年(昭和26年)1月25日)は、日本の宗教家、真言宗の僧侶。真言宗総本山醍醐寺第九十六世座主、真言宗醍醐派管長、三宝院門跡、京都専門学校校長(現・種智院大学学長)。 (西院流(にしのいんりゅう) * 保寿院流・仁和御流・西院流を仁和三流と称す 《前座主大僧正惠眼大和尚嘆德文》 [昭和二十六年二月十四日、眞言宗醍醐派管長佐伯恵眼大僧正の本葬儀に讀まれたもの。(漢文) ] 夫れ以るに、佛教は實相の門なり、固より寂滅の樂あり。人間は爲の境なり、豈に常住の想を作さむや。 伏して惟れば、故の醍醐派管長・醍醐寺座主・三寶院門跡・大僧正惠眼大和尚は、早く二親の撫育を辭して、西國の密室に入る。
武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明… 武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明治5年11月16日) - 1956年(昭和31年)6月26日)は日本の牧師、巡回伝道者である。 1872年(明治5年)鳥取県倉吉市に生まれる。1889年(明治22年)に日本組合基督教会の倉吉講義所(倉吉教会)でアメリカンボードのJ・H・ペティより洗礼を受ける。キリスト教徒になったことによる、家族の迫害を避けて、津山、岡山、倉敷に流転する。 1890年(明治23年)頃松江市で英国聖公会の宣教師B・F・バックストンに会い、バックストンに導かれ直接献身を決意するより、その後、バックストンと出雲地方での伝道を開始する。 1903年(明治36年)に日本組合基督教会の牧師に就任し、広島教会で牧会をする。
山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年… 山室 軍平(やまむろ ぐんぺい、1872年9月1日(明治5年7月29日。戸籍上は8月20日) - 1940年(昭和15年)3月13日)は、日本の宗教家、説教者。日本人初の救世軍士官(牧師)で、日本人初の日本軍国司令官(日本軍国初代司令官ではない)。最終階級は中将。岡山県哲多郡則安村(現在の新見市)生まれ。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 哲多郡則安村(新見市哲多町)で農業を営む山室佐八、登毛(とも)の三男として生まれた。実家が貧しく、明治14(1881年)年には賀陽郡上足守村の親戚筋の杉本家の養子に出された。漢学者の松浦黙の塾で儒学を学んだ。 14歳で上京して築地活版製造所の職工となり、東京専門学校や英吉利法律学校の講義録を入手して独学する。
西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年… 西田 天香(にしだ てんこう、1872年3月18日(明治5年2月10日) - 1968年(昭和43年)2月29日)は、滋賀県長浜市生まれの宗教家・社会事業家、政治家。一燈園の創始者。参議院議員。本名は市太郎。 明治5年(1872年) 滋賀県長浜の紙問屋「玉屋」に生まれる。杉蔭塾で杉本善朗氏から漢籍、珠算等を習う。また長浜キリスト教会の堀貞一牧師から西洋史、英語等を習う。 明治19年(1886年) 長浜旧開知学校高等科を卒業する。翌20年に義母を亡くす。 明治24年(1891年) 父、保三の死亡により家督を継ぐ。同年結婚。小川のぶ(15歳)と結婚。青年団の幹事長に選ばれその後、二宮尊徳の信奉者であった県知事の大越亨に見込まれる。
牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(… 牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日(明治4年6月6日)- 1944年(昭和19年)11月18日)は、日本の教育者、宗教家。 1871年7月23日(明治4年6月6日)、柏崎県刈羽郡荒浜村(現:新潟県柏崎市)で渡辺長松・イネの長男として誕生。出生名は渡辺 長七(わたなべ ちょうしち)。1877年、親戚である牧口善太夫の養子となる。 1885年に尋常小学校を卒業後、単身、北海道へ職を求めて渡る。小樽警察署の給仕をしながら苦学の末に、1891年、札幌の北海道尋常師範学校(現:北海道教育大学)第一学部3学年に編入。 1893年、常三郎(つねさぶろう)と改名。同年3月に卒業し、母校の付属小学校の教師となる。
後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月… 後藤 環爾(ごとう かんじ、明治4年4月1日(1871年5月19日) - 昭和11年(1936年)2月23日)は日本の宗教家、僧。元西本願寺執行長。号は素雲。 高知県幡多郡宿毛村(現在の宿毛市)清宝寺に生まれた。1899年東京仏教大学校を卒業後、帰郷して父をたすけて、清宝寺の住職にいそしんだ。林有造の門をたたいて指導を受けた。 本願寺よりまねかれて京都本山勤務となり、教学局注記に任ぜられた。31歳の時であった。日露戦争には、本願寺の従軍布教僧を命ぜられ、第三軍司令部付として活躍。凱旋の後、東京築地本願寺別院勤務となり、やがて東京出張所長を命ぜられた。 1929年本願寺執行長に就任した。本願寺の要職を歴任、東京市や仏教連合会等の他団体の重要役員を兼ねて活躍した。
中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3… 中田 重治(なかだ じゅうじ、1870年11月20日(明治3年10月27日)- 1939年(昭和14年)9月24日)は、明治・大正・昭和初期にかけて活躍した日本の教会監督、大衆伝道者、巡回伝道者、福音使(牧師)、神学校(柏木聖書学院)教師・院長(校長)、宗教家、説教家、翻訳家、賛美歌作家、実業家、ジャーナリスト、神学者、日ユ同祖論者である。 明治時代のメソジスト派の牧師中田久吉は実兄、日本を代表する教会音楽家の中田羽後は次男、日本アライアンス教団の大江寛人、日本基督教団の議長辻宣道、同じく日本基督教団の牧師有馬式夫は孫である。 日本ホーリネス教会の創始者の一人で初代監督であり、日本ホーリネス教会を既存の五大教派(長老派、メソジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派)に並ぶ巨大組織に発展させた功労者。
金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年… 金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年8月29日)- 1938年(昭和13年)3月18日)は、明治後期から昭和初期の政治家、歌人、神職、華族。貴族院男爵議員。旧名・健麿。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有卿の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)8月30日、男爵を襲爵した。 皇典講究所で学び、1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事した。その他、久邇宮家御用掛、大礼使典儀官、御歌会始奉行、同頌講、御歌所参候などを務めた。
安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈… 安藤 國重(あんどう くにしげ、新字体:安藤国重、明治2年〈1869年〉 - 昭和14年〈1939年〉)は、日本の神職。安積国造神社第61代宮司(社司)。 明治2年(1869年)生まれ。福島県尋常中学校(のち福島県立安積高等学校)の2期生。2期下でのち歴史学者となる朝河貫一と親交を深めた。国学者久米幹文に皇学を、渡辺重石丸に和漢学を、林甕臣に国語学を学んだ。 1889年(明治22年)、家業たる安積国造神社の祠官となる。1895年(明治28年)、開成山大神宮社司を兼補。 1912年(明治45年 / 大正元年)、福島県神職養成所を設立し所長に就任。 1923年(大正12年)3月17日、内閣より奏任官待遇を受ける。
笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(18… 笹尾 鉄三郎(ささお てつさぶろう、慶応4年8月15日(1868年9月30日) - 大正3年(1914年)12月30日)は日本のキリスト教の大衆伝道者、牧師、神学校教師、宗教家、讃美歌作家。 淀橋教会初代牧師、聖書学校(柏木聖書学院)初代院長。 1868年8月15日 伊勢安濃郡古河村(後の新町、現在の三重県津市)に、代々庄屋の家柄である父・藤堂藩の郡奉行伊藤篤之助、母・そうの5人兄弟の末子(三男)として誕生。 幼少期に父を亡くす。兄、七左衛門が後見人になる。その土地に中学校がなかったので伊藤家が土地を寄付して、鉄三郎のために中学を創設する。中学時代には肺炎を患い生死をさまよう。 1886年(明治19年)に津中学を卒業後する。
千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)… 千家尊弘(せんげ たかひろ/そんこう、明治元年(1868年)1月8日 - 昭和15年(1940年)5月22日 。)は出雲大社東京分祠の神職・宗教家。幼名は房麿 。 明治元年1月8日、島根県簸川郡大社町(現出雲市)に生まれる。島根の武士の家の長男で、幼少期から聡明で学問を好み、平田町の漢学者・雨森精翁のもとで数年間学ぶ。その後上京して東京専門学校(後の早稲田大学)に入学し卒業。卒業後すぐに大社教東京分院長に任じられた 。 宗教者として数多くの国葬・葬儀を司り、伊藤博文・大山巌・松方正義などの国葬では斎主を務めた。また、乃木希典、大隈重信などの葬儀の斎主も務めている。さらに、明治天皇や各宮家、貴族の葬儀にも祭主または副祭主として参加し、幅広い信望を集めた 。
水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月… 水月 哲英(みづき てつえい、1868年 - 1948年4月)は、日本の宗教家、教育者。筑紫高等女学校(現・筑紫女学園)創立、初代校長。
飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶… 飯野 吉三郎(いいの きちさぶろう、1867年8月30日(慶応3年8月2日) - 1944年2月3日)は、美濃国(現岐阜県)の岩村藩士族出身の宗教家。皇室や政界・軍人に取り入り、後に「日本のラスプーチン」と呼ばれた。 岩村藩士・飯野益衛の三男として生まれる。益衛は100石取りの家臣で、御側御用人などの要職を務めた家系であった。しかし、廃藩置県により家職を失い、父も病没し、二人の兄は故郷の岩村に留まって教育者となった。一方、吉三郎は1885年に上京して夜学で学んだ。1886年、築地明石町の私立鈴木小学校の教員となり、算術と英語を教えた。しかし、1年余りで教師を辞めると、飛騨山中での行者修行や易学習得を経て、麹町平河町に居住する。