森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 197… 森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 1970年10月30日)は、日本の小説家、随筆家、政治家。 元参議院議員(1期)。北海道出身者初の女性作家。位階は従四位。長女はデザイナーの森田麗子、息子に映画プロデューサー森田信。
職業が随筆家:253人
森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 197… 森田 たま(もりた たま、1894年12月19日 - 1970年10月30日)は、日本の小説家、随筆家、政治家。 元参議院議員(1期)。北海道出身者初の女性作家。位階は従四位。長女はデザイナーの森田麗子、息子に映画プロデューサー森田信。
小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - … 小穴 隆一(おあな りゅういち、1894年11月28日 - 1966年4月24日)は、日本の洋画家、随筆家、俳人。俳号は一游亭。
福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 … 福原 麟太郎(ふくはら りんたろう、1894年10月23日 - 1981年1月18日)は、日本の英文学者、随筆家、翻訳家。福山市名誉市民。 1894年、広島県沼隈郡神村(現・福山市)で生まれた。1912年、広島県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業し、東京高等師範学校英語科に進学した。在学中、G・K・チェスタトンの推理小説を訳し、『英語青年』に掲載。1917年に卒業。 1917年9月から翌1918年3月まで、静岡県立静岡中学校に英語教諭として赴任。1920年、東京高等師範学校研究科を修了。この間、『英語青年』の編集に携わった。 1921年、母校の東京高等師範学校助教授に就いた。著書、訳註を何冊か刊行した後、1929年に文部省在外研修員としてイギリス・ロンドン大学とケンブリッジ大学に留学し、トマス・グレイ作品を研究。
小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1… 小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日)は、日本の小説家、随筆家、俳人。俳号は燕子楼。 東京府東京市下谷区に生まれ育った。生家は呉服商「柳河屋」。 京華中学を経て、慶應義塾大学部文学科在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。卒業後は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』の編纂に携わる。1919年に慶應義塾大学部文学科講師となり、最終的には文学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen … 曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen 1893年9月9日 - 1994年12月21日)は、日本の洋画家、随筆家、歌人。 東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に生まれた。本名は下田 喜七(しもだ きしち)。大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受ける。東京美術学校卒業後は山下新太郎に師事し、中村彝に兄事する。1914年、文展で褒状、1925年、二科展で樗牛賞を受賞、二科会、独立美術協会所属ののち1946年に国画会会員となる。1945年に度々作品の題材を得ていた静岡県富士宮市に移住して以降、同地で過ごした。1965年、視力障害のため国画会を退く。1971年、両眼失明のため画家を廃業。
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月… 木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月21日 - 1958年〈昭和33年〉11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。 牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年に同校を卒業した。
富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 19… 富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 1966年9月22日)は、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ べによし)。 日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。
中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月… 中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年〈明治26年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉2月5日)は、日本の洋画家、美術家、歌人、随筆家。東京府生まれ。 洋画、水墨画、版画、陶芸、詩、和歌、随筆、書と多彩な作品を制作した。作品のすべてが独学であり、自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。
尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 197… 尾崎 喜八(おざき きはち、1892年1月31日 - 1974年2月4日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。
秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956… 秦 豊吉(はた とよきち、1892年1月14日 - 1956年7月5日)は、日本の実業家、演出家、翻訳家、随筆家、興行師。
越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991… 越智 二良(おち じろう、1891年1月26日 - 1991年4月18日)は愛媛県松山市出身の随筆家、評論家、郷土史家である。俳号は水草。柳号は緋威子、やなぎ丸。 小学校では藤野古白の弟である藤野滋と同級生であった。投書雑誌『文章世界』に「越智水草」「落二郎」という筆名で投稿していた(「サフラン酒」は『文章世界』の優秀作を厳選した田山花袋編『二十二篇』東雲堂1910年にも収録された)。1909年5月に創刊された雑誌『四国文学』では2巻5号まで編集者を務めた。愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、海南新聞社(現在の愛媛新聞社)に入社。1913年5月に同紙一面に文芸欄が新設された際、担当者に就く。
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964… 三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は、日本の詩人、童謡作家、歌人、随筆家。本名は三木 操(みき みさお)。異父弟に映画カメラマンの碧川道夫がいる。国木田独歩の曾祖母が三木家出身。その縁もあり1912年『独歩詩集』を刊行した。早稲田詩社結成に加わり、『廃園』(1909年)を刊行。ほかに詩集『寂しき曙』(1910年)、『白き手の猟人』(1913年)など。 近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並んで「白露時代」を築いた。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。 1889年(明治22年)6月23日、兵庫県揖西郡龍野町(現・たつの市)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれた。
宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966… 宮田文子(みやた ふみこ、1888年7月21日 - 1966年6月25日)は日本の新聞記者、随筆家、ファッションデザイナー、俳優、実業家。旧姓名は、中平文子(なかひら ふみこ)、武林文子(たけばやし ふみこ)。新聞記者時代の筆名は「なでし子」。 「化け込み」の新聞記者として注目を集めた後、モンテカルロで愛人に顔を銃撃され国内外でスキャンダラスに取り上げられるなど、異色のエピソードの持ち主として知られる。複数の結婚歴と離婚歴があり、三番目の夫は小説家の武林無想庵、四番目の夫は貿易商の宮田耕三。 愛媛県松山市唐人町(現三番町)にて、伊予松山の鉄道局に勤務する中平盛太郎(寿太郎の説もあり)の一女として生まれる。
辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年… 辰野 隆(たつの ゆたか、1888年3月1日 - 1964年2月28日)は、フランス文学者、随筆家。東京帝国大学教授として多くの後進を育てた。
吉田 絃二郎(よしだ げんじろう、1886年11月24日 -… 吉田 絃二郎(よしだ げんじろう、1886年11月24日 - 1956年4月21日)は、日本の小説家、随筆家。佐賀県神埼郡西郷村(現在の神埼市)に生まれ、幼時に長崎県佐世保市に移る。本名は吉田源次郎。 佐賀工業学校金工科(現在の佐賀県立佐賀工業高等学校機械科)、早稲田大学文学部英文科を卒業。1915年(大正4年)に早大講師、1924年に同大文学部教授となる(教え子には井伏鱒二等がいる)。教職の傍ら詩や小説を多く執筆した。1934年(昭和9年)に早大を退職し作家活動に専念。小説・随筆・評論・児童文学・戯曲と幅広い分野で活躍し、著作集は236冊を数えた。1956年4月21日死去、享年69。墓所は多磨霊園。
秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 -… 秋山 安三郎(あきやま やすさぶろう、1886年3月9日 - 1975年6月19日)は、日本の演劇評論家、随筆家。 東京市浅草生まれ。9歳で奉公に出され、のち少年記者となり、銀行、外人商館、郵便局、横浜市役所などで働き独学する。1909年「二六新報」に入社。その後国民新聞、報知新聞で演劇記者として活躍。1923年東京朝日新聞に入社。1941年朝日新聞定年後も劇評を担当した。 歌舞伎や大衆演劇に精通し、1961年日本演劇協会功労賞受賞(永年にわたって担当した「朝日新聞」の劇評により)。 1966年第1回長谷川伸賞受賞。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月1… 市河 三喜(いちかわ さんき、1886年(明治19年)2月18日 - 1970年(昭和45年)3月17日)は、日本の英語学者・随筆家。学位は、文学博士。東京大学名誉教授、日本学士院会員、語学教育研究所所長。号は清庵。日本人としては初となる東京帝国大学英文科の教授となり、日本の英語学の礎を築いた。 英語学の新人賞として市河三喜賞が設けられていた。 1886年、東京府下谷区練塀町(現在の千代田区神田練塀町・外神田四丁目・台東区秋葉原に跨る地域)に書家である市河三兼(万庵)の次男として生まれる。5、6歳の頃より家業の書道を学び、また同じく幼年の頃より兄の三陽から漢文の素読を学ぶ。高等小学校1年時からは三陽により英語も学び始める。
野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、188… 野尻 抱影(のじり ほうえい、本名・正英(まさふさ)、1885年〈明治18年〉11月15日 - 1977年〈昭和52年〉10月30日)は、日本の英文学者・随筆家・天文民俗学者。早稲田大学文学部英文学科卒業。準惑星である冥王星の和訳命名者。 古今東西の星座・星名を調べ上げたことから「和製アレン」とでも言うべき存在でもあった。とくに、星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多い。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。 「抱影」という雅号は、早稲田大学文学部在学中、文芸誌「白百合」に作品を掲載するにあたり前田林外が金剛経の一節「夢幻泡影」から考案し、岩野泡鳴、相馬御風と相談して決めたものである。
中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日… 中 勘助(なか かんすけ、1885年(明治18年)5月22日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の小説家・詩人・随筆家。明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される。 1885年(明治18年)5月22日、東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近)の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・鐘(志やう、しょう、当時37歳)の五男として生まれた。
小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3… 小倉 金之助(おぐら きんのすけ、1885年〈明治18年〉3月14日 - 1962年〈昭和37年〉10月21日)は、日本の数学者・数学史家・随筆家。大阪医科大学(現・大阪大学医学部)教授を歴任。山形県酒田市生まれ。 生家は酒田の回漕問屋。荘内中学校を経て、1905年(明治38年)に東京物理学校(現・東京理科大学)を卒業。東京帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)化学選科に入学するが、家業を継ぐために中退し、山形に戻る。 林鶴一のもとで数学を学び、1911年(明治44年)東北帝国大学の助手となる。1916年(大正5年)に微分幾何の研究で、理学博士の学位を取得。 1917年(大正6年)から大阪医科大学(現・大阪大学医学部)塩見理化学研究所研究員。
水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1… 水島 爾保布(みずしま におう、1884年12月8日 - 1958年12月30日)は、日本画家、小説家、漫画家、随筆家。本名:爾保有。これは『難訓辞典』の著者である父・水島慎次郎(鳶魚斎)による命名。 また、長男の行衛(ゆきえ)は、SF作家の今日泊亜蘭である。 東京府下谷区根岸に生まれる。1909年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。 1911年、川路誠(柳虹、1912年卒業)・小泉勝爾(1908年卒業)・小林源太郎(1912年卒業)・広島晃甫ら、学校仲間を中心とした全12名で「行樹社」を結成する。同年11月1日から7日にかけて、赤坂三会堂にて第1回展覧会を開催、18人70余点が出品される。
吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - … 吹田 順助(すいた じゅんすけ、1883年12月24日 - 1963年7月20日)は、ドイツ文学者、随筆家。
弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月… 弓館 小鰐(ゆだて しょうがく、1883年(明治16年)9月28日 - 1958年(昭和33年)8月1日)は日本の新聞記者、随筆家。毎日新聞で記者として活動した他、『西遊記』などの翻訳でも活動した。本名は芳夫(よしお)。本名での活動も多い。 ペンネームは、中学生時代に背が低かったことから「小学生」と呼ばれていたことによる。小鰐生、小鰐狂生、小鰐坊という名義も稀に使用した。 岩手県西磐井郡一関町(現・一関市)出身。1896年(明治29年)、岩手尋常中学(現・岩手県立盛岡第一高校)に入学。同学年には言語学者の金田一京助、作家の野村胡堂、政治家の田子一民がおり、2年下の後輩に歌人の石川啄木がいた。 1901年(明治34年)、東京専門学校(現・早稲田大学)の高等予科に入学。
岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1… 岩本 素白(いわもと そはく 、1883年8月17日 - 1961年10月2日)は、国文学者、随筆家。本名は堅一(けんいち)。東京府麻布に生まれる、父竹次郎は旧丸亀藩士で海軍勤務であった。
生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月… 生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年〈明治15年〉8月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月6日)は、日本の随筆家、評論家。政治・社会への風刺を得意とし、太平洋戦争中も軍部に対する皮肉の手を緩めることがなかった。 群馬県利根郡沼田町上之町(現・沼田市上之町)に生まれる。旧制前橋中学校利根分校(現・群馬県立沼田高等学校)、明治学院中学を経て早稲田大学英文科を卒業。在学中からトルストイに傾倒し、アナトール・フランスやドーミエの影響も受けた。 大学卒業の翌1907年(明治40年)に渋川玄耳の紹介で東京朝日新聞記者となる。さらにやまと新聞、大正日日に転じ、早稲田文学記者でもあった。当時のほとんどの雑誌・新聞に随筆、翻訳、評論、小説、雑文を書き、その風刺の効いた文章は読者の支持を集めた。
小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月… 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥。 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。 1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月… 寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人 日本派。吉村 冬彦(1920年から使用)、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名も使用している。俳号寅日子。高知県出身(出生地は東京市)。 東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)などがある。 1878年(明治11年)11月28日東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。
鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月… 鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家・随筆家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。 近代日本の美人画家として上村松園、彼の門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。 清方は1878年、東京・神田佐久間町に生まれた。本名は健一。元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。
片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治1… 片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年〈明治11年〉2月10日 - 1957年〈昭和32年〉3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。 外交官・吉田二郎の長女として東京麻布で生まれる。妹は次子、弟は精一と東作。東洋英和女学校卒。佐佐木信綱に師事して歌人として活動。 短歌の作風は、「近代短歌史上類例の静謐にして孤独、高貴にして率直誠実な霊魂の響き」(藤田福夫)と評されているが、生前の明治・大正期の画壇では正当に評価されなかった。 また、松村みね子の筆名で、ジョン・ミリントン・シング、レディー・グレゴリー、W・B・イェーツ等のアイルランド文学を中心に翻訳も行う。
片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年(明治1… 片山 広子(片山 廣子、かたやま ひろこ、1878年(明治11年)2月10日 - 1957年(昭和32年)3月19日)は、日本の歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳家(松村みね子名義)。
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5… 薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年〈明治10年〉5月19日 - 1945年〈昭和20年〉10月9日)は、日本の詩人・随筆家。本名、淳介(じゅんすけ)。 『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いた。 1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)に、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれた。父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。玉島高等小学校を経て、1893年に岡山県尋常中学校(後に第一岡山中学校。現在の県立岡山朝日高校)を中退。
永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月… 永田 秀次郎(ながた ひでじろう、1876年(明治9年)7月23日 - 1943年(昭和18年)9月17日)は、兵庫県三原郡長田村(現:南あわじ市倭文長田)出身の日本の官僚、政治家、俳人、随筆家。第18代官選三重県知事、第8代・第14代東京市長、第4代拓殖大学学長、貴族院勅選議員。廣田内閣の拓務大臣、阿部内閣の鉄道大臣を歴任。俳名・筆名は永田 青嵐(ながた せいらん)で、多くの著書や句集を残している。 長男は自由民主党衆議院議員の永田亮一。 初代倭文村村長を務めた永田実太郎の次男として出生。弟に京都市土木局長、横浜市電気局長を務めた永田兵三郎がいる。 三原高等小学校卒業後、進学校の1つだった姫路中学校を受験するが不合格となる。
小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948… 小島 烏水(こじま うすい、1873年12月29日-1948年12月13日)は、日本の登山家、随筆家、文芸批評家、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家。本名は小島 久太。 1873年(明治6年)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。 横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、1896年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。 また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。
青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27… 青柳 有美(あおやぎ ゆうび、1873年(明治6年)9月27日 - 1945年(昭和20年)7月10日)は、ジャーナリスト、随筆家、牧師。
河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)… 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。 正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。 伊予・松山藩士の五男として生まれる。父は正岡子規の漢学の師。高浜虚子とは中学時に同級であり、後に子規の門下生となるまで、行動をともにした仲の良い友人であった。 子規没後、虚子は「ホトトギス」の経営を、碧梧桐は新聞「日本」の俳句欄を担当。やがて新傾向運動を展開し、季題趣味と定型を打ち破った自由なリズムによる俳句を推進した。1906年から3年間の全国行脚で多くの賛同者を得たが、大正期に至って、虚子が俳壇に復帰し、守旧派の立場から激しい攻撃を浴びせた。
大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7… 大庭 柯公(おおば かこう、1872年8月30日〈明治5年7月27日〉 - 没年不詳)は、日本の新聞記者・随筆家。本名は景秋()。山口県長府(現・下関市)出身。 白石正一郎の弟である大庭傳七(景明)の三男として生まれる。傳七は長府大年寄大庭家の養子で長府藩士であったが、明治維新後、太政官に出仕したため、養父に従って上京した。しかし、傳七は1884年に死去。大庭は小学校卒業後は太政官の給仕などの仕事をしながら夜学で英語やロシア語を学ぶ。これらの学習を通じて二葉亭四迷と交際を持った。 1896年にウラジオストクに渡航し、商館で通訳を務めた。帰国後、第11師団のロシア語教官や陸軍参謀本部の通訳官を歴任する。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈18… 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治5年7月25日〈1872年8月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月3日)は、日本の新聞記者、随筆家、俳人。本名は廣太郎、広太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役。 明治5年7月25日(1872年8月28日)、和歌山県和歌山市にて出生。父は和歌山藩士の杉村庄太郎。3歳の時に父と死別し、以来、母の手で育てられる。小学校を終え、1883年(明治16年)に11歳で和歌山の自修学校(当時統合されて徳修学校になっていたと思われる)に入学し、英・漢・数学を学ぶ。自修学校は旧藩主の徳川茂承の財政援助を受けて運営される私立の中等学校で、慶應義塾の出身者が英語教師を務めた。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3… 戸川 秋骨 (とがわ しゅうこつ、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1939年(昭和14年)7月9日)は、日本の評論家、英文学者、教育者、翻訳家、随筆家。別号は秋骨のほか、棲月・早川鴎村、早川漁郎・蒼梧桐・長帆・かげろふなど。 明治3年、等照とジュンの長男として、肥後国玉名郡岩崎村(現:熊本県玉名市)に生まれた。生まれ年から、明三と名付けられた。等照は熊本藩の支藩高瀬藩の藩士で、家老の原家から養子入りしていた。1877年、一族と上京し、東京師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)に入り、巴町の鞆絵小学校(現:港区立御成門小学校)に転じた。 世を捨てた父よりは、その実弟に躾けられ、1883年(12歳)、大阪へ伴われて大阪中学校(旧制三高の前身)に学ぶかたわら、漢訳の聖書や英語を習った。
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年1… 牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。ジャポニズムブームに乗り、1910年代にロンドン社交界の寵児となった。挙母藩(現:愛知県豊田市)出身。「霧の画家」と評される。 挙母藩士・牧野利幹と葛(西尾藩士・遠山内記の娘)の次男として誕生する。宣教師が設立した名古屋英和学校に学び、1890年に東京職工学校機械科を卒業した。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航でアメリカを訪れた。渡米した当初は画家か文筆家かで迷っていたが、アメリカ総領事の珍田捨巳の助言でサンフランシスコの美術学校に通った。
大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年… 大町 桂月(おおまち けいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日)- 1925年(大正14年)6月10日)は、高知県出身の詩人、歌人、随筆家、評論家。本名:大町芳衛(よしえ)。長男は化学者で慶應義塾大学教授の大町芳文、次男は昆虫学者で三重大学教授の大町文衛。 1869年(明治2年)、土佐郡高知街北門筋(現・高知市永国寺町)に元土佐藩士である通の息子として生まれる。名は芳衛。雅号の桂浜月下漁郎は、よさこい節にも唄われる観月の名所桂浜に因み、桂月はそれを縮めたもの。 1896年(明治29年)、東京帝国大学国文科卒。1899年(明治32年)、島根県で中学教師として奉職するも、1900年(明治33年)、乞われて博文館に入社し、1906年(明治39年)まで在籍。
堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治… 堀口 九萬一(ほりぐち くまいち、1865年2月23日〈元治2/慶応元年1月28日〉 - 1945年〈昭和20年〉10月30日)は、日本の外交官(特命全権公使)、漢詩人、随筆家。号は長城。詩人・堀口大學の実父。 越後長岡藩の足軽(銃卒)堀口良次右衛門の長男として古志郡長岡城下に生まれる。北越戦争で旧暦明治元年6月に父が戦死、翌年2月に幼くして家督を相続した。 明治5年より手習師匠渋川金吾に就き、2年半ほど読み書きを習った後、藤野友徳の漢学塾及び阪之上小学校へ通学。数え15歳で小学校教員を務めながら、叔父・岩神澄海の菁莪塾で学んだが、小林雄七郎の「偉くなるには英語をやらなければ駄目だ」という助言に従い、1883年(明治16年)春に19歳で長岡中学校に入学。
市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年… 市島 謙吉(いちしま けんきち、1860年3月9日(安政7年2月17日) - 1944年(昭和19年)4月21日)は、日本のジャーナリスト、衆議院議員(3期)、文化事業家、随筆家、初代早稲田大学図書館長。号は春城。 安政7年(1860年)2月17日、越後国蒲原郡水原村(現在の新潟県阿賀野市)に角市市島家五代目直太郎の長男として生まれた。幼名は雄之助といい、これは病弱のため八幡宮より一時的に貰ったものである。のちに郷土の英雄・上杉謙信にあやかって謙吉と改名した。 市島家は丹波国発祥で、慶長3年(1598年)越後に移り、商業で財を成した豪農一族で、角市家は宗家三代目喜右衛門の二男次郎吉から始まる筆頭分家である。
小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 19… 小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。 日本・東京府豊多摩郡大久保村西大久保
吉田悦花(よしだ えつか、2月26日 - )は、日本の作家、… 吉田悦花(よしだ えつか、2月26日 - )は、日本の作家、随筆家。俳号・吉田悦花、俳人。江戸ソバリエ。俳句サイト「吉田悦花のわん句にゃん句」主宰。東京都千代田区のNPO法人神田雑学大学理事長(2010年~)・博士。会社役員。
つげ 義春 は、日本の漫画家・随筆家。
藤原 新也 は、日本の作家・随筆家、写真家・旅人である。麻原… 藤原 新也 は、日本の作家・随筆家、写真家・旅人である。麻原彰晃の研究家としても知られる。
斎藤 茂太 は、日本の精神科医・随筆家。愛称はモタさん。
三浦 しをん は、日本の小説家・随筆家。東京都出身。