加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2… 加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2日 - 2002年〈平成14年〉10月)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 北海道雨竜郡一已村(現・深川市一已町)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1930年(昭和5年)陸軍大学校第42期卒業。 フィンランド駐在武官、スウェーデン駐在武官、関東軍参謀、陸軍省兵務局防衛課高級課員を経て、1941年(昭和16年)7月、防衛総司令部参謀に補され、翌8月、陸軍大佐に進む。ついで、1945年(昭和20年)6月1日、第53軍参謀長となり、同月30日、陸軍少将に進んだ。済州島の守備に当たる中終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日 - 1973年… 四方 博(しかた ひろし、1900年1月2日 - 1973年5月13日)は、日本の経済学者。専門は朝鮮社会経済史。 1900年、神戸市で生まれた。東京帝国大学経済学部を卒業後、同大学助手として採用され勤務。1924年に京城高等商業学校講師として朝鮮半島に赴任。経済学研究のため欧米に研究留学をした後、1926年に京城帝国大学に法学部が創設されると助教授となった。大学では、経済学第一講座を担当した。1928年には、京城帝国大学に「朝鮮経済研究所」を付設し、資料の収集と整理にあたった。1930年、京城帝国大学教授に昇格。 1945年の太平洋戦争終結にともない日本に帰国。1947年に愛知大学教授に就いた。
安田 幹太(やすだ みきた、1900年1月2日 - 1987… 安田 幹太(やすだ みきた、1900年1月2日 - 1987年5月16日)は、日本の法学者、政治家。九州国際大学(元・八幡大学)名誉学長。法学博士。衆議院議員。末弘厳太郎門下。 国立国会図書館 NDL 安田幹太 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月… 鄭 在浣(チョン・ジェワン、朝鮮語: 정재완、1900年1月2日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、地方公務員、実業家、政治家。麗水郡郡守、第2・3・4・5代韓国国会議員を歴任した。 本貫は晋州鄭氏(朝鮮語版)。号は三光。儒教の信者。 全羅南道麗水郡出身。ソウル中央高等普通学校を経て、東京物理学校、東洋大学文科ドイツ哲学科卒。若い頃は朝鮮独立運動に参加し、秘密結社などに加担した。ソウル中央高等普通学校在学中に三・一運動に参加した後に満洲に亡命したが、欠席裁判で懲役1年を言い渡された。1929年に故郷の麗水に戻り、地主会を設立した。1930年に鉄道敷設のために鉄道沿辺敷地を強制購入しようとした日本当局の朝鮮総督府に対抗して農民会を組織して活動した。
西本 三十二(にしもと みとじ、1899年〈明治32年〉1月… 西本 三十二(にしもと みとじ、1899年〈明治32年〉1月2日 - 1988年〈昭和63年〉1月9日)は、日本の教育学者。大学で教鞭を取った後に日本放送協会職員として放送教育の実践を行った。 1899年(明治32年)大阪府に生まれる[要出典]。1916年(大正5年)大阪府立八尾中学校を卒業後[要出典]、大阪府師範学校第二部を経て[要出典]、1923年にコロンビア大学教育学部を卒業した。1924年に同大学修士課程を卒業した。1925年 - 1928年に帝塚山学院高等女学部を創設した。1928年(昭和3年)、奈良女子高等師範学校教授に就任した。この際、ラジオ番組を受け持つ機会に恵まれると、次第に自分の理想の教育をラジオを通じて実践したいという思いが高まり、1932年(昭和8年)に教授職を辞して日本放送協会に入る。
牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1… 牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1985年3月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1943年に常務に就任し、1946年11月には社長に昇格。しかし、翌1947年7月に公職追放となった。追放解除後の1961年5月から1972年5月までに会長を務めた。 慶應義塾理事も務めた。 1959年5月に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年3月21日肺炎のために死去。86歳没。
久保 満雄(くぼ みつお、1899年(明治32年)1月2日 … 久保 満雄(くぼ みつお、1899年(明治32年)1月2日 - 1989年(平成元年)1月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1899年(明治32年)に熊本県で生まれた。陸軍士官学校第32期、陸軍大学校第40期、東京帝国大学法学部卒業。1939年(昭和14年)7月に陸軍省整備局戦備課高級課員に就任した。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第40師団参謀長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。1942年(昭和17年)8月に朝鮮軍参謀に転じ、1944年(昭和19年)7月14日に歩兵第90旅団長(駐蒙軍・第118師団)に就任した。 同年8月1日に陸軍少将に進級し、1945年(昭和20年)3月31日に第43軍参謀長(北支那方面軍)に就任した。
五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)… 五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である。新漢字表記五味 国男。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった。本名小崎 久雄(こさき ひさお)、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった。 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている。
野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2… 野溝 七生子(のみぞ なおこ、1897年〈明治30年〉1月2日 - 1987年〈昭和62年〉2月12日)は、日本の小説家・比較文学者。兵庫県姫路市出身。 父の野溝甚四郎は陸軍軍人で、父の赴任先である姫路にて1897年に生まれ、鳥取・金沢・丸亀・大分などで育つ。 香川県立丸亀高等女学校、大分県立大分高等女学校を経て同志社女学校英文科専門部予科に入学。在学中、辻潤・宮島資夫と知合う。彼らは野溝をゲアハルト・ハウプトマンの『沈鐘』(泉鏡花『夜叉ヶ池』の元ネタと言われる)のラウテンデラインに因んで「ラウ」と呼んだ。卒業後、東洋大学専門学部文化学科で西洋哲学を学ぶ。
桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897… 桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ、明治30年(1897年)1月2日 - 平成5年(1993年)8月24日)は、大正時代の大相撲力士。春日山部屋→立浪部屋所属。本名は冨永 惣治。最高位は西十両2枚目。 千葉県天羽郡湊町(現・富津市)出身。高等小学校卒業後、14歳の時家出同然で上京。畳屋で働いた後、春日山部屋へ入門し、緑嶌友之助の内弟子となる。明治45年(1912年)5月場所「湊浪」の四股名で初土俵を踏む。大正3年(1914年)1月、序ノ口に上がり、初めて番付に載った。翌大正4年(1915年)5月に師匠緑嶌が引退し、立浪部屋として正式に独立したのに伴い移籍した。大正7年(1918年)1月、三段目で「桐ノ花」に改名。
磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日… 磯矢 伍郎(いそや ごろう、1896年(明治29年)1月2日 - 1993年(平成5年)8月22日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。 三重県出身。売薬業・磯矢馬佐右衛門の五男として生まれる。三重第三中学校(現三重県立上野高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第55連隊附となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)8月、歩兵大尉に進み歩兵第48連隊中隊長に就任。参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官兼参謀本部員、関東軍参謀、参謀本部員を務め、1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し第2軍参謀に発令され日中戦争に出征。
齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月… 齋藤 兼吉(さいとう・かねきち、1895年〈明治28年〉1月2日 - 1960年〈昭和35年〉10月26日)は、日本の体育学者であり、かつ、陸上競技、水泳、野球で超人的活躍をした運動選手である。 新潟県佐渡郡高千村(現在の新潟県佐渡市)にて生まれる。佐渡の相川町立相川尋常高等小学校(現 佐渡市立相川小学校) から旧制佐渡中学校(現 新潟県立佐渡高等学校)へ進み、佐渡中学校時代から1m75cmの長身でありスポーツ万能の異名を取った。佐渡中学校時代には相撲、柔道、剣道、陸上競技、水泳、野球、端艇とほとんどの競技に選手として参加して活躍したという。 英語を得意としていたことから外交官になりたかったが、実家が貧しかったために教師になることを考え、新潟県高田市の新潟縣高田師範学校(昭和戦後に新潟大学教育学部高田分校となり現在は廃校)に進学し、更に東京高等師範学校に入学する。
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2… 黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日 - 1949年(昭和24年)9月3日)は、日本の経済学者、農業史家、農村社会史学者。専門は経済史、経済地理学。経済学博士(京都帝国大学)。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。 1895年(明治28年)岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て1909年(明治42年)4月岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学、1914年(大正3年)3月同校を卒業し同年9月第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し他に歴史や経済史を研究した。1916年に黒正家の養子となる(旧姓中山)。翌1917年(大正6年)7月に六高を卒業し同年9月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。
大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日… 大井 又次(おおい またじ、1895年(明治28年)1月2日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。彰化市長。 佐賀県佐賀市寺町(現・佐賀市唐人)に生まれる。1914年(大正3年)3月に佐賀県立佐賀中学校を卒業後に渡台し、新竹庁財務課に奉職。 ついで新竹州官房税務課、桃園税務出張所州税係長、台北州税務課州税係長、府財務局勤務を経て、1937年(昭和12年)9月に地方理事官に進み、台北州蘇澳郡守に就任した。のち1939年(昭和14年)7月、台中州大甲郡守を経て、1941年(昭和16年)1月に彰化市長に就任した。
八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1… 八田 四郎次 (はった しろうじ、1895年1月2日 - 1973年3月21日) は日本の化学工学者。石川県出身。
牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1… 牟田口 格郎(むたくち かくろう、1894年1月2日 - 1945年7月24日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。
千葉 胤次(ちば たねつぐ、1894年(明治27年)1月2日… 千葉 胤次(ちば たねつぐ、1894年(明治27年)1月2日 - 1959年(昭和34年)7月6日)は、昭和時代前期の政治家、弓道家。東京市目黒区長、品川区長、下谷区長、麹町区長。号は宏斉。 千葉晋作の二男として宮城県栗原郡高清水町(現在の栗原市)に生まれる。早稲田大学商科を卒業し、東京市電気局工場長、秘書係長、秘書労働工場各課長を経て、1932年(昭和7年)10月、目黒区長に就任し、1936年(昭和11年)10月、品川区長に転じた。ついで1937年(昭和12年)12月、下谷区長となり、1940年(昭和15年)8月まで務め、同年12月、東京市会事務局長に就任した。ほか、大政翼賛会局長などを務めた。
神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1… 神部 満之助(かんべ まんのすけ、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉9月10日)は、日本の土木工事技術者、経営者。間組社長を務めた。 神奈川県足柄上郡南足柄村で裕福な家庭に生まれる。南足柄小学校高等科を経て、1909年(明治42年)に岩倉鉄道学校建設科を卒業し、同年10月に間組に入社した。約10年にわたって朝鮮半島で道路建設に従事した。 1923年(大正12年)6月、山梨県南巨摩郡で榑坪発電所(後の早川第一発電所)の工事を管轄していた早川出張所の主任が急死し、神部がその後任に就いた。1925年7月、当時50歳の松永安左エ門が大井川水系の電源調査のために赤石山脈を縦走することになり、神部が案内役として先導した。
住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月… 住田 正一(すみた しょういち、1893年〈明治26年〉1月2日 - 1968年〈昭和43年〉10月2日)は、経営者、東京都副知事、海事史研究家で日本海事史学会会長を務めた。 愛媛県下浮穴郡砥部村(現伊予郡砥部町)で生まれた。小学校在学中に広島県呉市に移り、広島県立第三中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、第六高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学政治学科卒。当時日本一の総合商社だった神戸の鈴木商店に入社、同船舶部勤務。鈴木商店の「大番頭」金子直吉の秘書を永く務めた。金子直吉名義の唯一の著書「経済野話」(1924年、巌松堂書店)は、東京ステーションホテル20号室で金子が住田に語った内容を住田が口述筆記の形でまとめたものである。
操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994… 操 坦道(みさお たんどう、1893年1月2日 - 1994年9月11日)は、日本の医学者、内科学者、感染症学者、ウイルス学者。臨床医学の日本における紹介者で、ウイルス性疾患研究の第一人者だった。九州大学名誉教授、日本感染症学会名誉会員。 鹿児島県の沖永良部島の現・和泊町出身。代々村長かつ学者の家系だった操家に生まれる。名前の由来は王陽明の「信歩行来皆坦道」。西郷隆盛が沖永良部島に流刑になった際は祖父・操坦栽が世話をし、隆盛が父の操坦勁のために書いた家族生活の心得や曾祖父の操坦晋が遺した家訓「清慎」のもと、坦道は育てられた。1906年4月に鹿児島市の鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)へ入学。同校の寄宿舎「成徳寮」で暮らす。
春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25… 春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25年)1月2日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の肥料学者である。 東京府東京市(現在の東京都区部)に生まれる。1905年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1909年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、農芸化学を専攻した。1918年(大正7年)の卒業後も大学に残り講師や農商務省の技手等を経て、1923年(大正12年)に助教授として務め、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の帰国まで肥料の研究のためドイツに留学する。
柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉… 柏尾 誠一郎(かしお せいいちろう、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1962年〈昭和37年〉12月16日)は、大阪府出身の男子テニス選手。1920年のアントワープ五輪において、テニスの男子ダブルスで熊谷一弥とペアを組み、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手として知られている。 1892年、大阪府に生まれる。旧制大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校)を経て、1913年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。後にテニスの国際舞台でも活躍した清水善造は、柏尾と同じ東京高等商業学校庭球部のライバルであった。 大学卒業後三井物産に入社し、上海、ニューヨーク、リヨンの駐在員として働いたのち、横浜支店生糸部総務掛として勤務。
松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1… 松平 康春(まつだいら やすはる、1892年〈明治25年〉1月2日 - 1972年〈昭和47年〉3月18日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正二郎。 旧津山藩主家当主、子爵・松平康民の二男として生まれる。1917年(大正6年)1月29日、康春と改名。父の死去に伴い、1921年(大正10年)3月22日、子爵を襲爵した。 学習院を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学理学部植物学科を卒業。朝鮮銀行監事を務めた。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月25日に辞任するまで3期在任した。この間、地方制度調査会委員、商工省委員、農商省委員を務めた。
藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月… 藤原 猶雪(ふじわら ゆうせつ、1891年(明治24年)1月2日 - 1958年(昭和33年)7月3日)は、大正から昭和時代の日本の仏教学者。浄土真宗大谷派の僧侶。 愛知県海部郡津島町(現・津島市)にて生まれる。1911年(明治44年)真宗大谷大学予科を経て、1914年(大正3年)同大を卒業する。 同年より東京帝国大学で図書館学、1923年(大正12年)から国史学を学び、1921年(大正10年)から1924年(大正13年)にかけて同大学図書館司書、史料編纂官補を歴任。1924年(大正13年)東洋大学の教授となり、同図書館長を兼務。ほか大倉精神文化研究所主任、明治仏教史編纂所理事、日本教学研究所評議員、駒澤大学講師、史料編纂官などを兼任。
木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948… 木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948年1月13日)は、日本のドイツ文学・ドイツ語学者、東京帝国大学教授。文学博士。 秋田県南秋田郡大川村(現・五城目町)出身。県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)、慶應義塾普通部、第二高等学校を経て東京帝国大学独文科でカール・フローレンツに学ぶ。第四高等学校教授から、1924年東京帝国大学独文科助教授となり、1932年教授。同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。生化学者の木村雄吉は実弟、ロシア文学者木村彰一及び外交官木村敬三は息子。画家の木村哲雄は孫。 秋田県南秋田郡大川村(後の五城目町大川)で父松助、母ナヲの7男3女の第3子として生まれる。
細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 196… 細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 1962年11月2日)は、日本の歌人。千葉県君津郡巌根村大字高柳字大海道(現・木更津市高柳)生まれ。尾上柴舟に師事した。 1889年、農家の三男として生まれる。千葉県立木更津中学校(現・木更津高等学校)在学中の1909年ごろより尾上柴舟に師事。1911年3月に卒業。1913年ごろより君津郡役所に勤務する。 1914年、尾上柴舟が歌誌『水甕』を創刊すると、これに参加。のちに主要同人となり、選者も務めた。 1921年、朝鮮総督府への出向が決まり、朝鮮半島に渡る。1922年、病気で入院中に、同じ病院に入院していた市山盛雄(1897-1988)と出会った。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 194… 京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 1940年5月26日)は、日本のアナウンサー、水泳家。 東京出身。早稲田大学政治科卒。雄弁会、水泳部に属して活躍した。卒業後、「二六新報」記者、「国民新聞」記者、「東京日日新聞」記者を経て、1925年、東京放送局(現在のNHK首都圏局)が開設されると初代アナウンサーとなり、第一声を発した。1935年、日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)主事となり、水泳でも活躍した。
古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 19… 古坂 嵓城(こさか がんじょう、1888年1月2日 - 1974年11月16日)は、日本の教育者。青山学院大学学長、青山学院院長・理事長。
大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1… 大橋 良一(おおはし りょういち、1888年1月2日 - 1983年6月29日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱床学など。東京市生まれ。 私立開成中学校を経て、1911年東京帝国大学理科大学地質学科専科を修了。1912年、創立2年目の秋田鉱山専門学校に講師として赴任。1956年に停年退職するまで、44年間の長きにわたり秋田鉱専・秋田大学鉱山学部で教育・研究に励む。 研究対象は地質・鉱物・鉱床・火山・温泉・地震などと広範囲にわたり、多くの分野で業績を残したが、特に男鹿半島の新第三紀層の研究は、その後のグリーンタフ研究の先駆として高く評価されている。また、特筆に値するのは黒鉱鉱床の成因についての見解で、1920年前後の早い時期から海底爆裂口温泉沈殿説を打ち出し、数十年にわたり四面楚歌の状態で学界から無視され続けたが、1970年前後に至って、初めてその正当性が評価された。
藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2… 藤原 喜蔵(ふじわら きぞう、1888年〈明治21年〉1月2日 - 1956年〈昭和31年〉4月29日)は、朝鮮総督府官僚。岩手県水沢市長。 岩手県胆沢郡水沢町(現・奥州市)生まれ。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。青森県属、同警視、同東津軽郡長、同理事官を経て、1919年(大正8年)に朝鮮総督府に転じた。咸鏡南道警察部長、平安南道警察部長、京畿道警察部長、朝鮮総督府官房秘書課長、平安南道内務部長、同知事を歴任した。その間、1927年(昭和2年)にはジュネーブ海軍軍縮会議に随員として参加した。 1935年(昭和10年)に退官した後は朝鮮洋紙株式会社社長、北鮮製紙化学工業専務取締役などを務めた。
豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1… 豊島 長吉(とよしま ちょうきち、1887年(明治20年)1月2日 - 1949年(昭和24年))は、日本の内務官僚。官選栃木県知事。 愛媛県大内郡黒羽村(香川県大川郡相生村大字黒羽、引田町を経て現東かがわ市黒羽)で、豊島九平、清の二男として生まれる。第一高等学校を卒業。1913年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、長崎県理事官、地方視学官、福井県警察部長、愛媛県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長などを歴任。 1931年12月、栃木県知事に就任。阿久津村小作争議事件の解決に尽力。
成清 信愛(なりきよ のぶえ / なりきよ しんあい / な… 成清 信愛(なりきよ のぶえ / なりきよ しんあい / なるきよ しんあい、1886年(明治19年)1月2日 - 1946年(昭和21年)10月10日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 福岡県山門郡小川村(瀬高町を経て現みやま市瀬高町小川)で金山王・成清博愛、以恵子の長男として生まれる。1906年(明治39年)福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)卒業後に小学校代用教員を務めた。 その後、早稲田大学法科に入学したが、1912年(大正元年)に中退して父が経営する馬上金山に入り、県内外の鉱山の経営も行った。父の死去に伴い1916年(大正5年)家督を相続。
和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年… 和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年4月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉… 菅谷 勘三郎(すがや かんざぶろう、1886年〈明治19年〉1月2日 - 1953年〈昭和28年〉4月18日)は、大正・昭和時代の日本の政治家。群馬県議会議員(1期)、群馬県会議員(6期)、第27代群馬県会議長、吾妻郡岩島村長などを務めた。幼名は善之(よしゆき)。 1886年(明治19年)、群馬県吾妻郡郷原村(岩島村を経て現・東吾妻町)の旧家に、村会議員などを務めた先代勘三郎とやいの次男として生まれる。先祖は菅谷勘右衛門の名を世襲し苗字帯刀を許された豪農・名主であった。1892年(明治25年)に父が死去したため勘三郎を襲名し、後に村長を務める叔父・慎三郎の後見を受ける。1903年(明治36年)に群馬県立農学校を卒業した後は、家業の農業に従事した。
中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2… 中村 孝也(なかむら こうや、1885年(明治18年)1月2日 - 1970年(昭和45年)2月5日)は、大正・昭和期の日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。専門は日本近世史。文学博士(東京帝国大学、1926年)。群馬県出身。 1885年(明治18年)1月、群馬県高崎に生まれる。父は士族で小学校教員の中村勝弥、母は小学校嘱託教員の中村とく。「孝也」の名は、『孝経』を典拠とした。幼少の頃から漢籍に造詣の深かった父より漢学を学び、5歳の時、母が勤務する神戸尋常小学校へ見学児として通学、以後複数の学校に転校するも、いずれも抜群の成績で進級した。1899年(明治32年)、14歳の時に小学校准教員検定試験に合格。
福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月… 福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月2日 - 1929年〈昭和4年〉1月30日)は、日本の内務官僚。県知事。 北海道厚岸郡太田村で福永磨理輔の長男として生まれる。山口高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り樺太庁属となる。 以後、樺太庁事務官、同理事官兼専売局副参事(函館専売支局樺太出張所長)、青森県理事官、和歌山県警察部長、警視庁衛生部長、東京府内務部長などを歴任。 1924年6月、清浦内閣により福井県知事に登用されたが、翌月、加藤高明内閣により更迭された。1927年5月、千葉県知事に就任。
中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - … 中島 利一郎(なかしま りいちろう、1884年1月2日 - 1959年1月6日)は日本の東洋比較言語学者。国士舘大学教授、元臨時帝室編修官補)。雑誌『中央史壇』で小谷部全一郎を痛罵したことで知られる。
田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1… 田巻 堅太郎(たまき けんたろう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 没年不明)は、日本の実業家、新潟県多額納税者、地主、篤農家、資産家。族籍は新潟県平民。 新潟県南蒲原郡田上村(現・田上町)出身。田巻七郎兵衛の二男。新潟中学校を卒業する。1902年に一年志願兵として近衛歩兵第1連隊に入営、1904年に陸軍歩兵少尉に任ぜられ、1910年に陸軍歩兵中尉に進み、正七位に叙せられ除隊となる。農業、金銭貸付業を営む。 新潟貯蓄銀行、新潟信託、愛隣社各取締役を歴任。1933年7月に第四銀行取締役に選任され以来20年間その職を続ける。1944年10月に第5代の頭取に推され、1953年に退任する。ラジオ新潟監査役をつとめる。
牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年… 牧野 雅楽之丞(まきの うたのじょう、1883年〈明治16年〉1月2日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の道路技術者。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月… 石山 賢吉(いしやま けんきち、1882年〈明治15年〉1月2日 - 1964年〈昭和39年〉7月23日)は、日本の実業家、ジャーナリスト、政治家。ダイヤモンド社創業者であり、東宝劇場や理研電線の役員、東京市会議員、衆議院議員、日本雑誌協会会長、日本読書推進協会会長、東京新潟県人会会長などを歴任した。位階勲等は従四位勲三等。 新潟県西蒲原郡曽根村(現在の新潟市西蒲区)生まれ。出生直後に父と死別し、同県中蒲原郡白根町(後の白根市、現在の新潟市南区)にあった母方の実家にて幼年期~青少年期を過ごした。白根尋常高等小学校卒業後、白根郵便局、加茂郵便局勤務を経て 22歳の時上京。日本大学別科中退後、慶應義塾商業学校(慶大の夜間商業学校)を卒業した。
西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 … 西脇 晋(にしわき しん、1882年(明治15年)1月2日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、日本の大蔵官僚、弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。 名古屋市出身。高岡応次の三男として生まれ、1905年(明治38年)に西脇長太郎の婿養子となった。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、大蔵省に入った。大蔵省では税務監督官などを務め、1916年(大正5年)に退官した。退官後は弁護士・弁理士として活動した。 1926年(大正15年)、衆議院補欠選挙に当選。以後、当選回数は4回を数えた。その間、齋藤内閣では外務参与官を務めた。その他、法政大学講師、帝国製鉄・蔵内商事・満蒙土地建物・横浜倉庫監査役、大阪造船所取締役などを兼ねた。
藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1… 藤岡 直平衛(ふじおか なおべえ、1881年(明治14年)1月2日 - 1965年(昭和40年)4月25日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県東みよし町出身。号は楽山。 旧三好郡三好町足代(現在の東みよし町)生まれ。後に徳島市福島に移り住む。徳島師範学校卒業。師範学校卒業後、小学校教員・郡視学・県視学・郡長を経て徳島県学務課長・社寺兵事課長・農林課長を歴任。 1927年(昭和2年)、徳島市助役に就任。1933年(昭和8年)に徳島市長に就任、1937年(昭和12年)まで務めた。第二次世界大戦後、一時的に徳島新聞社社長に就任、徳島県選挙管理委員長を歴任した。 1965年(昭和40年)4月25日、85歳で没する。
杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1… 杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1945年〈昭和20年〉9月12日)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将従二位勲一等功一級。 福岡県出身。陸軍士官学校卒業(12期)、陸軍大学校卒業(22期)。陸軍大臣、教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長。 陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない(もう一人は上原勇作)。また、軍要職にあった際の記録を『杉山メモ』として遺したことで知られる。 1880年(明治13年)1月2日、福岡県企救郡横代村(後の小倉市を経て現:北九州市小倉南区横代)に杉山貞の長男として生まれる。 父は天保14年(1843年)8月、豊前国企救郡横代村の農家に生まれ、慶応2年(1866年)の丙寅御変動で農兵として従軍した後、教育者として活躍しており、広寿山福聚寺(現:北九州市小倉北区)に事績が記録される。
長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日… 長谷 外余男(はせ とよお、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1973年〈昭和48年〉8月15日)は、日本の神職。熱田神宮名誉宮司。 1880年、石川県の社家に生れる。1911年に神宮皇學館を卒業、1912年に駒形神社宮司となって以降、1913年から大鳥神社、1920年から松尾大社、1923年から多賀神社、1934年から橿原神宮の宮司をつとめ、1936年から熱田神宮宮司、その後同名誉宮司。1946年の神社本庁設立などに尽力した。皇學館大学の初代理事長も務めている。
斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1… 斎藤 真澂(さいとう しんちょう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 没年不明)は、昭和時代前期の日本の政治家。鉄道官僚。三重県宇治山田市長。 国井清廉の三男として岐阜県、のちの羽島郡笠松町に生まれ、斎藤光の入夫となる。1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。更に大学院に学んだ。帝国鉄道院に出仕し、同書記、同参事、鉄道局参事、札幌、仙台、各鉄道局運輸課長、鉄道監察官を経て、札幌鉄道局長および鉄道省監察局長に進んだのち退官する。その後、参宮急行電鉄専務取締役を経て、1935年(昭和10年)11月、宇治山田市長に就任した。1940年(昭和15年)1月、再選した。3期務め1946年(昭和21年)3月に退任。
松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年… 松村 真一郎(まつむら しんいちろう、1880年〈明治13年〉1月2日 - 1963年〈昭和38年〉6月2日)は日本の農林官僚であり、退官後に貴族院議員及び参議院議員を務めた。 松村眞平とヒサの間に長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、農商務属兼農商務大臣秘書官となる。同年、高等文官試験に合格し、特許局審査官と農商務参事官を兼任した。さらに農商務書記官に昇進し、大臣秘書官を兼ねた。1910年(明治43年)、法制局参事官に転じ、行政裁判所評定官を兼ね、1918年(大正7年)には法制局第一部長に就いた。その後、農商務省に戻って、畜産局長、商務局長、農林省水産局長、農林局長を歴任し、1929年(昭和4年)には農林次官に就任した。
島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 -… 島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 - 1915年〈大正4年〉7月28日)は、日本の漢学者・書誌学者。若くして校勘学で名をあげ、日中の文人と広く交流した一方で、書籍の窃盗などの事件を起こし、37歳のとき自殺した。 字は彦禎または彦楨。号は双桂后人。 1879年(明治12年)1月2日、東京府小石川区(現在の東京都文京区)にて、島田篁村を父とする学者の家系に生まれる。幼少から漢籍を愛し神童と評されたが、吃音を患い会話が苦手だった。 1891年(明治24年)、東京高等師範学校付属尋常中学校に入学、幼馴染の永井荷風や井上唖々と親交する。荷風の回想によれば、彼らはともに軟派で文弱だったため、しばしば同級生の鉄拳制裁の対象になったという。