高崎 節子(たかさき せつこ、1910年〈明治43年〉1月7… 高崎 節子(たかさき せつこ、1910年〈明治43年〉1月7日 - 1973年〈昭和48年〉9月15日)は、日本の小説家、教師、労働省官僚。小説『人身売買』はペンネームで本庄しげ子名義を使用した。 1910年(明治43年)、東京府小石川区(後の東京都文京区小石川)で誕生し、幼少期を両親の故郷である福岡県遠賀郡島門村尾崎(現遠賀町)で過ごした。1929年(昭和4年)、福岡県立女子専門学校(現福岡女子大)を卒業し、九州帝国大学の聴講生となり、政治・経済・労働・法律を学んだ。その後、1930年(昭和5年)から朝鮮・新義州高等女学校で教壇に立ったが、同1930年12月に帰国、1942年(昭和17年)から福岡女学校(後の福岡女学院)で教壇に立った。
初音 礼子(はつね れいこ、本名:小南艶子、旧姓:武藤、19… 初音 礼子(はつね れいこ、本名:小南艶子、旧姓:武藤、1908年1月7日 - 1987年4月15日)は、日本の元宝塚歌劇団雪組主演男役クラス・雪組組長の女優。兵庫県神戸市出身。旧芸名=初音麗子。愛称はキューピーさん、ムーヤン。
徳田 進(とくだ すすむ、1907年〈明治40年〉1月7日 … 徳田 進(とくだ すすむ、1907年〈明治40年〉1月7日 - 1998年〈平成10年〉4月23日)は、日本の国文学者。高崎経済大学第4代学長、同名誉教授。 群馬県高崎市宮元町生まれ。高崎中学校(群馬県立高崎高等学校の前身)卒、群馬師範学校専攻科卒。 1939年(昭和14年)東京女子高等師範学校助教授。1941年(昭和16年)、東京文理科大学国文科選科修了。1945年(昭和20年)9月、群馬師範学校教授。1953年(昭和28年)、高崎市立短期大学教授。 1956年(昭和31年)、「二十四孝の研究 特に近古近世の日本文学との交渉を中心として」で、東洋大学より文学博士。1957年(昭和32年)、高崎市立短期大学からの改組により高崎経済大学教授。
池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1… 池宮城 秀意(いけみやぐしく(いけみやぐすく) しゅうい、1907年1月7日-1989年5月24日)は、日本のジャーナリスト、元琉球新報社社長。
西郷 隆秀(さいごう たかひで、1907年1月7日 - 19… 西郷 隆秀(さいごう たかひで、1907年1月7日 - 1985年4月24日)は、日本の学校経営者。学校法人拓殖大学理事長、顧問。 鹿児島県鹿児島市出身。西郷菊次郎の三男。1931年3月拓殖大学商学部卒業。1954年から拓殖大学評議員、理事。1955年3月から1964年6月まで拓殖大学理事長を3期務める。矢部貞治拓殖大学総長と戦後の学園復興を進めた。拓殖大学顧問や国際協力技術研修財団理事長なども務めた。1985年4月24日心肺不全で死去(78歳没)。 拓殖大学では同大学の『西郷隆秀顕彰記念外国人留学生奨学金』の創設者として知られる。また八王子キャンパスの購入仮契約の際の理事長でもある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
天坊 裕彦(てんぼう ひろひこ、1907年(明治40年)1月… 天坊 裕彦(てんぼう ひろひこ、1907年(明治40年)1月7日 - 1984年(昭和59年)8月23日)は、日本の鉄道官僚、政治家。日本国有鉄道副総裁、参議院議員(2期)。 京都府で天坊幸彦の長男として生まれる。第三高等学校を経て、1929年(昭和4年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年4月、鉄道省に入省して鉄道属に任官し大臣官房に配属された。 以後、松阪駅長、大阪鉄道局庶務課文書掛長、鉄道省事務官、中支那派遣軍特務部附、興亜院事務官、鉄道局参事、鉄道調査部書記官・鉄道調査部第一課長、業務局事業課長、運輸通信省自動車局業務部監理第三課長、華中鉄道参事、運輸省鉄道総局勤務、北海海運局長、運輸省大臣官房長、大阪鉄道局長などを歴任。
荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年… 荒木 精之(あらきせいし、1907年1月7日 - 1981年12月30日)は、小説家、思想家、文化運動家、地方雑誌「日本談義」を発行、熊本地方の文化に貢献した。 阿蘇郡長陽小学校校長荒木民次郎の長男として生まれる。母富香も同じ小学校に勤務していた。5歳時、母はなくなり父は後妻を娶る。小学校卒業後、熊本市船場町の逓信講習所に入る。郵便局の推薦でないので熊本郵便局の臨時事務員や福岡県大川の郵便局に勤務する。同僚のものが軽微な過失で懲戒免職になったので、憤慨して辞表を提出した。「懲戒免職」は彼の最初の小説である。父は現菊池市で隈府女子技芸学校を設立したので加勢をした。父の死後は義母荒木スヱヲが続けた。
田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992… 田中 重雄(たなか しげお、1907年1月7日 - 1992年1月18日)は、日本の映画監督、演出家。 1926年、松竹蒲田撮影所に入所。以後、帝国キネマ、阪東妻三郎プロダクション、タカマツ・アズマプロダクション、東亜キネマなどでスタッフとして転々とした後、1931年に河合映画で監督デビュー、翌1932年に新興キネマへ移籍した。 松竹、東宝との三社競作だった『美しき鷹』や『亜細亜の娘』などの作品を残すも、やがて新興キネマは国策統合により大日本映画製作株式会社となり、田中はそこへ移籍。その第一作『香港攻略 英國崩るゝの日』はその年のキネマ旬報ベスト・テン入りを果たす。 戦中・戦後にかけて多くのプログラムピクチャーを監督。
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 193… 篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、日本の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)。旧号は未踏、雲彦。鹿児島県出身。無季俳句で有名。 1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。1923年(大正12年)鹿児島県立第二鹿児島中学校(旧制鹿児島二中、現鹿児島県立甲南高等学校)を卒業。1926年(大正15年)第七高等学校造士館(現鹿児島大学)文科卒業。1929年(昭和2年)東京帝国大学法学部を卒業。不景気のため就職口がなく、また病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」など、初学時代は多くの俳誌に投句した 1931年(昭和6年)より沖縄県立宮古中学校 (旧制)の英語教諭を務める。
宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - … 宮田 慶三郎(みやた けいざぶろう、1906年1月7日 - 1997年5月22日)は、日本の教育者、実業者、歯科医である。コープオリンピア、中野ブロードウェイなどを開発した東京コープ販売社長、南国酒家経営者、城西歯科大学、岐阜歯科大学創立者。慶應義塾大学医学博士。三男は宮田侑。 特記なきものは著書『一瞬と永遠――建学の精神の基礎にあるもの』著者略歴より。 北海道の湧別町川西に早期開拓民として高知県から入植した宮田亀之助の3男として1906年1月7日に生まれる。上京後、逓信官吏練習所(もしくは逓信講習所)で無線や電気材料学を学ぶかたわら、大阪歯科医学専門学校に通う。1923年に父親が病死したため生活は苦しく、運転手などをして学費を稼ぎ、1931年3月に卒業、同年12月に東京・大塚駅北口に宮田歯科医院を開業する。
中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、1905年(明治38年)1… 中田 勇次郎(なかだ ゆうじろう、1905年(明治38年)1月7日 - 1998年(平成10年)10月23日)は、日本の文学者。大谷大学教授・京都市立美術大学など歴任。専門は書道史、中国文学。号は有廬(ゆうろ)、書斎を心花室(しんげしつ)と称した。 主な研究対象は王羲之・米芾・黄庭堅・空海・貫名菘翁など。 浩瀚な著述を残しているが、その研究分野は次の6つに分類できる。 以上の中で中国文学の詩余(漢詩)の研究と書道史の研究に重きが置かれ殊に書道史の研究においては質・量ともに日本の第一人者であり、その著作は翻訳され中国や欧米諸国でも高い評価を受けている[要出典]。
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月… 長谷川 四郎(はせがわ しろう、1905年〈明治38年〉1月7日 - 1986年〈昭和61年〉8月7日)は、日本の政治家。位階は正三位。衆議院議員(自由民主党所属、14期)、建設大臣、農林大臣。魚屋から衆議院副議長にまで上り詰めた立志伝中の人物として知られる。群馬県名誉県民第1号。 群馬県山田郡大間々町大字桐原(現・みどり市大間々町桐原)に、父・辰之助、母・テルの三男として生まれる。父は養蚕指導員だったが、幼少期に死去。大正7年(1918年)大間々尋常高等小学校を卒業し、地元の「いも寅」商店に奉公。1931年(昭和6年)に魚店「魚丈」を開業し、1936年(昭和11年)に株式会社長谷川商店に改組。
長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 -… 長谷川 潾二郎(はせがわ りんじろう、1904年1月7日 - 1988年1月28日)は、日本の画家。猫の絵で有名。また、地味井 平造(じみい へいぞう)の筆名で探偵小説を執筆した小説家でもある。 1904年、父・長谷川清(後に淑夫に改名)、母・長谷川ユキの二男として函館に生まれる。長兄に、牧逸馬・林不忘・谷譲次の三つのペンネームを用いて活躍した作家の長谷川海太郎がおり、弟には、ロシア文学者で詩人の長谷川濬(三男)、作家の長谷川四郎(四男)がいる。 旧制函館中学(現・北海道函館中部高等学校)卒業。中学の同級生に、探偵小説家・編集者の水谷準がいた。その後、画家を志して1924年に上京し、松本泰が大家をつとめる下宿で、水谷と共同生活を送る。
牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日… 牧野 文子(まきの ふみこ、1904年(明治37年)1月7日 - 1983年(昭和58年)6月8日)は、日本の作家、詩人、翻訳家、イタリア文学者で、イタリア民謡「山の大尉」の歌詞も訳した。父は高級住宅街「苦楽園」を開発した実業家中村伊三郎。夫は「広辞苑」「少年少女ファーブル昆虫記」「生き物図鑑」などのイラスト画家牧野四子吉(よねきち)。 1904年(明治37年)大阪府大阪市北区上福島(現福島区)生まれ。大阪市立靱尋常小学校(現大阪市立明治小学校)、大阪府立清水谷高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)を経て、神戸女学院大学部英文科(現神戸女学院大学)へ進学(のちに中退)。1924年(大正13年)東京時事新報(現産経新聞)に勤務。
瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1… 瀬戸山 三男(せとやま みつお、1904年1月7日 - 1997年6月23日)は、日本の政治家。位階は正三位。 元衆議院議員(当選11回)。都城市長・建設大臣・法務大臣・文部大臣を歴任。 熊本県天草郡下津浦村(現・天草市)に、村の収入役を務めた河内寿松の三男として生まれる。熊本通信生養成所を卒業後、天草の郵便局での電信技術者、下津浦村書記を経て、向学心に燃え上京。苦学しながら開成中学校夜間部(のちの昌平高校)、さらに明治大学法学部に進み、1932年卒業。司法省に入り、岡山・山口等の各地裁判事を歴任する。1933年宮崎県都城市の金物商瀬戸山徳蔵の一人娘香代と結婚したが、後に瀬戸山家の血筋が絶えたため、1942年瀬戸山家の婿養子となる。
森 茉莉(もり まり、1903年〈明治36年〉1月7日 - … 森 茉莉(もり まり、1903年〈明治36年〉1月7日 - 1987年〈昭和62年〉6月6日)は、日本の小説家・エッセイスト。翻訳も行っていた。 東京市本郷区駒込千駄木町出身。文豪森鷗外と、その2人目の妻志げの長女である。幻想的で優雅な世界を表現することに優れており、主な著作には『父の帽子』『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』などがある。また、独特の感性と耽美的な文体を持つエッセイストとして、晩年まで活躍した。 森家の長女として生まれた茉莉は、鷗外を始め非常に多くの人に囲まれ、かわいがられて育った。特に鷗外の溺愛ぶりは有名で、彼女は16歳まで鷗外の膝の上に座っていたという。 東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)に入学したが、10歳の時に教師と衝突して中退し、仏英和尋常小学校(現・白百合学園小学校)に転校。
藤田 六朗(ふじた ろくろう、1903年1月7日 - 200… 藤田 六朗(ふじた ろくろう、1903年1月7日 - 2004年[要出典])は、日本の医師。元北陸大学教授。専門は、東洋医学。 石川県生まれ。1930年旧制金沢医科大学(現・金沢大学)卒業。金沢医科大学大里内科に勤務。1935年に医学博士の学位を取得し、1936年から金沢市に内科・心臓病科・腎臓病科・循環器病科の専門で病院を開業する。1955年から約20年間、金沢女子短期大学教授として生理学と衛生学講座を担当した。1975年から学校法人松雲学園理事、北陸大学教授となって経絡学講座を担当した。1978年に藤田東洋医学研究所を開設する。1955年にドイツ鍼学会年次大会へ招聘され講演を行う。1965年に東京で開催された第1回国際鍼学会に出席して、経絡経穴学学名委員長となり、同年、ウイーンで開催された第13回欧州鍼学会に出席する。
杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)… 杉本 郁太郎(すぎもと いくたろう、1902年(明治35年)1月7日 - 1989年(平成元年)4月26日)は、日本の実業家、俳人である。 京都の生まれ。大阪商科大学高商部(現在の大阪市立大学)卒業後、上京し三越に入社し勤務した。その後京都に戻り、千葉県に出店していた奈良屋の経営に携わり、本店移動に携わった。1937年(昭和12年)には同社の社長に就任し、その後はニューナラヤに商号変更して古巣の三越と連携しながら会長を歴任した。 後に千葉県商工会議所連合会の会頭を務め、千葉県美術会及び1958年(昭和33年)には日本対がん協会の千葉県支部の設立(後に副会長に就任)にも携わった。また北柿の俳号で「原人」を主宰し、多くの句集を発行した。
前川 堅市(まえかわ けんいち、1902年1月7日 - 19… 前川 堅市(まえかわ けんいち、1902年1月7日 - 1965年3月19日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 京都府出身。第三高等学校を経て東京帝国大学卒業。文化学院教授から、1949年埼玉大学教授。スタンダールを専門とし、定年を前にした1965年、63歳で死去した。 子は英文学者の前川祐一。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1… 丹治 伊三郎(たんじ いさぶろう、1902年1月7日 - 1981年)は、日本の画家。洋画家。 印象派の技巧を取り入れた画風を確立、主に関西画壇で活動した。 1902年(明治35年)大阪府堺市に生まれる。旧制堺中学校(現大阪府立三国ヶ丘高等学校)を卒業後、東京美術学校洋画科に入学して岡田三郎助に師事。1926年(大正15年)同校を卒業、一陽会に入会して創作活動を続ける。後に神戸山手女子短期大学教授。
内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 194… 内田 正練(うちだ まさよし、1898年1月7日 - 1945年2月14日)は、日本の水泳選手。オリンピックに出場した日本最初の水泳選手の一人であり、日本でのクロール泳法の普及に尽力した。 静岡県浜松市に生まれる。内田家は浜松有数の名家で、父が産業家、母が産婦人科開業医師で、5人兄弟の二男であった。兄の内田千尋(東京帝国大学卒)が水府流太田派古式泳法の師範という環境で、内田も幼少時より水練に親しみ、古式泳法を習得した。 旧制浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に入学すると、浜松中水泳部に属して水泳を研鑽した。内田は部員にとって憧れの存在であり、1学年後輩の田畑政治も内田に憧れた1人であった。
熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年… 熊谷 友一郎(くまがい ともいちろう、1897年(明治30年)1月7日 - 1966年(昭和41年))は、大正から昭和時代の政治家。長野県伊那市長。 長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市)に生まれる。松本中学校(現長野県松本深志高等学校)を卒業後、西春近小学校教員を2年間務め、渡米し1916年(大正5年)コロンビア大学を卒業した。 帰国後は火災保険代理店を営み、荒井区長、伊那町消防組頭、同町農地委員、同町会議員を経て、1949年(昭和24年)伊那町長に就任。上伊那郡町村会長、長野県町村長会副会長を兼任した。1954年(昭和29年)の町村合併の折には、伊那市実現に向け尽力し、市制施行と共に同年4月30日に初代伊那市長に就任し、1958年(昭和33年)4月まで1期務めた。
石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 19… 石坂 禄郎(いしざか ろくろう、1897年1月7日 - 1989年2月19日)は日本の実業家、銀行家。 元経団連会長石坂泰三の弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2… 中村 雨紅(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2月6日〉- 1972年5月8日)は、日本の大正期の詩人・童謡作家である。 本名は、髙井 宮吉(たかい みやきち、出版物など一般的には「高井 宮吉」と表記される)。東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。代表作は、故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』。1919年に作詞し、1923年に草川信が曲をつけた。 宮尾神社(現在の東京都八王子市上恩方町2089、八王子市「夕やけ小やけふれあいの里」に隣接)の宮司・髙井丹吾(たかい たんご)とその妻・シキの間の三男として生まれる。宮尾神社の社務所で生まれたことから「宮吉」と命名された。
永井 直邦(ながい なおくに、1896年〈明治29年〉1月7… 永井 直邦(ながい なおくに、1896年〈明治29年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉9月10日)は、大正・昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・戸田、旧名・邦光。位階は従三位。 子爵・戸田康泰の五男として生まれ、子爵・永井直諒の養子となる。養父の死去に伴い家督を継承して直邦と改名し、1920年(大正9年)1月6日に子爵を襲爵した。 1921年(大正10年)東京帝国大学文学部を卒業。1923年(大正12年)臨時帝室編修官補に就任。以後、文部省嘱託、東京府主事・社会教育課勤務、理研電具嘱託などを務めた。 1946年(昭和21年)5月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1947年(昭和21年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没… 矢毛石 栄造(やけいし えいぞう、1895年1月7日 - 没年不明)は、日本の技術者。 熊本県立玉名中学校、第五高等学校を経て、九州帝国大学工学部を卒業した。その後、八幡製鉄所に入所し、1933年化工課長となる。 1946年には自らタール製品工業会を立ち上げ、その後、日本タール協会と改組し専務理事を務めた。
小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7… 小笹 耕作(おざさ こうさく、1895年〈明治28年〉1月7日 - 1979年〈昭和54年〉5月9日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 兵庫県佐用郡三日月村(三日月町を経て現佐用町)で、小笹力之助の長男として生まれた。1919年(大正8年)京都帝国大学法科大学仏法科卒。三日月町議、兵庫県会議員、同副議長、同議長となり、佐用合同銀行頭取、兵和銀行(現:神戸銀行)取締役、兵庫県食糧営団理事、同森林組合連合会副会長、同林材協会長、兵庫県地方木材(株)社長となる。 1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第2区(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補して当選、1期務める。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
児玉誠(こだま まこと、1894年(明治27年)1月7日 -… 児玉誠(こだま まこと、1894年(明治27年)1月7日 - 1937年(昭和12年)2月22日)は、日本の病理学者。満鉄衛生研究所病理部部長。児玉博士邸事件の当事者の一人。 長野県小県郡和村(現東御市東上田)に生まれる。実家は大地主で、小県郡有数の資産家。旧制上田中学、千葉医学専門学校を卒業後、北里研究所の病理部に入り、草間滋に師事、草間の慶應義塾大学教授就任に伴い、助手として慶應に転勤。1923年よりドイツに留学し、フライブルク大学、ミュンヘン大学で学び、1926年に帰国し、慶應義塾大学医学部の病理学講師を経て、大連の満鉄衛生研究所病理部部長に就任。満州チフスに関する研究を行ない、1933年には児玉一門による「満州熱および発疹チフスに関する実験的研究」に対して日本細菌学会より浅川賞が授与されたが、同年、妻の異性関係がもとで起こった「児玉博士邸事件」に関与したことにより、同所を辞職し、妻と離婚し、ベルリンの国立衛生研究所に留学した。
井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月… 井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月7日 - 1963年〈昭和38年〉8月12日)は、日本の商学博士。日本大学名誉教授。東京簿記学校名誉学長。明治大学商学部教授。 神奈川県都筑郡田奈村大字長津田(のち横浜市緑区長津田町)出身。井上傳五左衛門の二男。錦城商業学校、東京府立第四中学校を卒業。専門学校検定試験合格。 1917年、第一高等学校第一部文科を卒業。1920年、東京帝国大学経済学部を卒業。1922年、日本大学商学部講師。1924年、日本大学商学部教授兼学監心得。 1924年より1926年まで経済政策研究の為独逸及び英国に留学。1927年、日本大学商経学部教授兼学監。1936年、主論文「商業使用人問題の研究」及び副論文「商店法論」により「商学博士」を授与される。
鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年… 鳥畠 徳次郎(とりばたけ とくじろう、1893年(明治26年)1月7日 - 1969年(昭和44年)12月25日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、石川県議会議長。 石川県石川郡上金石町(金石町を経て現金沢市金石)で生まれる。1911年(明治44年)京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校・附属中学校)を卒業した。 商社などで勤務。1927年(昭和2年)北陸自動車商会を設立し、取締役支配人に就任。その他、石川合同自動車社長、朝日車輛代表、金沢交通専務取締役、石川交通社長、石川日産自動車販売社長、朝日物産社長、大阪光タクシー社長、大阪尼ケ崎自動車工業社長、石川定期運輸社長、大阪中央自動車工業会長、大阪宝タクシー取締役、北国証券金融取締役、北陸放送取締役、金沢商工会議所常議員などを務めた。
久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月… 久保 角太郎(くぼ かくたろう、1892年(明治25年)1月7日 - 1944年(昭和19年)11月18日)は、昭和初期の宗教家。霊友会の創設者。『法華経』に基づく在家による菩薩行を実践した。 普遍的な菩薩行の実践は、古来より大乗仏教の理想であった。しかし、19世紀の終り頃までは、アジアの伝統的な仏教国においては、人々の識字率は極めて低く、経典を自分で読む事など不可能だった。僧院等で教育を受け訓練された僧侶だけが仏の教えを本格的に行じることが出来た。そのため在家出家を問わない全ての人々による菩薩行の実践という理想は、長い仏教史上において一度も実現される事はなかった。 時代は下り、仏教国の一つである日本において、19世紀の終り頃から始まった全国的教育制度の普及により、人々の識字率は劇的に向上した。
中院 孝圓(なかのいん たかまる、1892年〈明治25年〉1… 中院 孝圓(なかのいん たかまる、1892年〈明治25年〉1月7日 - 1977年〈昭和52年〉1月21日)は、日本の病理学者、内科学者、内科医。医学博士。神戸医科大学第一内科学教室初代教授。 新潟県三島郡与板町大字与板(現 長岡市与板町与板)の浄土真宗本願寺派・明元寺の中院正信の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)11月に新潟医学専門学校を卒業、新潟医学専門学校病理学教室助手に就任、1916年(大正5年)11月に京都帝国大学医科大学病理学教室助手に就任。 1921年(大正10年)4月に神戸病院病理科副医長に就任、10月に京都帝国大学から医学博士の学位を取得、1922年(大正11年)に神戸病院病理科医長・医化学科医長に就任、1924年(大正13年)に神戸病院病理科医長・胃腸科副医長に就任、1928年(昭和3年)5月にドイツに留学、イギリスとフランスの医学を視察、1929年(昭和4年)6月に帰国、12月に神戸病院内科呼吸器科部長・病理科部長に就任。
多久 安信(たく やすのぶ、1890年(明治23年)1月7日… 多久 安信(たく やすのぶ、1890年(明治23年)1月7日 - 1959年(昭和34年)3月2日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、東京市助役。 佐賀県出身。多久綱一郎の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1914年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1915年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し三重県属となる。 1917年、三重県名賀郡長に就任。以後、京都府加佐郡長、京都府理事官・産業部農林課長、京都市助役、地方事務官・愛知県勤務、富山県書記官・学務部長、徳島県書記官・警察部長、福井県書記官・警察部長、和歌山県書記官・内務部長、警視庁書記官・官房主事、長崎県書記官・内務部長などを歴任。
原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日… 原田 熊雄(はらだ くまお、1888年〈明治21年〉1月7日 - 1946年〈昭和21年〉2月26日)は、大正・昭和期の華族・政治家。栄典は従三位勲三等男爵。 最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書として政界の情報収集にあたり、また興津にこもりがちの西園寺の意思を各方面に伝達する役割を担い、文字通りその手足として八面六臂の活躍をした。各方面に奔走する「原田男」の名は、政変があるたびに紙面を賑わすほどだった。彼の口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。 1888年(明治21年)1月7日、地質学者・原田豊吉と妻・照子の長男として東京裏猿楽町に生まれる。
円谷(圓谷)弘(つむらや ひろし、1888年1月7日 - 1… 円谷(圓谷)弘(つむらや ひろし、1888年1月7日 - 1949年11月1日)は、社会学者。日本大学初代理事長。 明治21年(1888年)1月7日、秋田県仙北郡角館町に秋田藩士の家に生まれる。文部省につとめ、日本大学教授を兼ねた。のちベルリン大学に留学後、日本大学の予科長、理事、常務理事を経て、昭和21年(1946年)初代理事長となる。 大正9年(1920年)、日本大学社会学科を創設。科長として就任 昭和2年(1927年)、月刊誌『社会学徒』を発刊(昭和2年4月〜昭和19年6月) 昭和9年(1934年)、『集団社会学の研究』で日本大学より文学博士を取得 昭和21年(1946年)、日本大学初代理事長に就任
白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1… 白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1月7日 - 1945年(昭和20年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士、渋沢栄一、敬三に仕え、渋沢同族株式会社の専務取締役になどを歴任した。 1887年(明治20年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。1896年(明治29年)先代喜太郎が病没、家督相続し又喜を改め襲名。1905年(明治38年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島を訪問し、種々教えを受ける。
工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日… 工藤 義雄(くどう よしお、1885年(明治18年)1月7日 - 1940年(昭和15年)11月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 岡山県出身。工藤敏夫の二男として生まれる。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。 1916年(大正5年)12月、教育総監部付となり、同課員、陸軍兵器本廠付兼陸軍省軍務局課員、軍務局課員兼参謀本部員、歩兵第9連隊大隊長、同連隊付、陸士教官、参謀本部員などを務め、1928年(昭和3年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第6連隊長に就任。
長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)… 長谷川 久一(はせがわ きゅういち、1884年(明治17年)1月7日 - 1945年(昭和20年)8月25日)は、日本の内務官僚。 東京府知事や警視総監を歴任。 旧唐津藩士・長谷川芳之助(一刀流の使い手である長谷川善兵衛久徴の子)の長男として岡山県で生まれる。第一高等学校を卒業。 1907年(明治40年)、東京帝国大学法科政治科を卒業。高等文官試験に合格し、内務省に入る。内務書記官、内務参事官、三重県警察部長、千葉県警察部長、警視庁第二部長、警視庁保安部長、岐阜県内務部長、内務監察官、内務省土木局長を歴任。 1923年(大正12年)10月25日、1924年(大正13年)6月24日、石川県知事を務める。
白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1… 白柳 秀湖(しらやなぎ しゅうこ、1884年〈明治17年〉1月7日 - 1950年〈昭和25年〉11月9日)は、日本の小説家、社会評論家、歴史家。 静岡県引佐郡気賀町(現・浜松市浜名区細江町)生まれ。本名は武司。15歳で書生として日本郵船重役宅に住み込み、郁文館中学校で島崎藤村を愛読し文学に興味をもち、早稲田大学文学部哲学科に進学。在学中から堺利彦の社会主義思想に影響を受け、1904年加藤時次郎の直行団に加入、消費組合運動の機関誌である月刊「直言」に協力。1905年中里介山らと火鞭会を創立し、機関誌「火鞭」を創刊(1905年9月-1906年5月。9号)、プロレタリア文学運動の先駆をなす。1907年大学卒業後、隆文館編集記者となり、麻布三連隊に志願入隊し、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を『新小説』1907年12月に発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。
細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7… 細野 長良(ほその ながよし、1883年(明治16年)1月7日 - 1950年(昭和25年)1月1日)は、日本の裁判官、弁護士。最後の大審院院長を務めた。 富山県立富山中学校(後の富山県立富山高等学校)中退、旧制第六高等学校卒業。1908年、京都帝国大学法学部卒業。1918年、東京控訴院判事。広島控訴院院長の時に1944年2月の東條演説事件に対して、司法権独立の侵害と憲法違反に抗議する意見書を提出した。 1946年2月に第23代大審院長に就任。これは岩田宙造司法大臣による人事であり、細野は岩田大臣と司法権独立で意気投合していた。細野は日本の司法改革に意欲を持つGHQ民政局司法法制課課長のアルフレッド・C・オプラーとも意気投合した。
近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月… 近藤 茂吉(こんどう しげきち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1969年〈昭和44年〉2月22日)は、日本の登山家・貿易商。 登山家としては、剱岳別山尾根の初下降、辻村伊助とともに行ったヨーロッパ遠征、黒部峡谷初横断などで名を残し、日本山岳会名誉会員に選ばれた。また、大日本体育協会設立に参画し、バスケットボールの普及にも貢献している。 1883年(明治16年)、千葉県海上郡飯岡町(現在の旭市)に生まれる。実家は醸造家。 東京・音羽の豊山中学校(のちに大正大学となる学校)を卒業後、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)にかけてウイスキー研究のためにイギリス・スコットランドのグラスゴー大学に留学。
黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日… 黒瀬 弘志(くろせ ひろし、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和18年(1943年)11月10日)は、日本の内務官僚、政治家。第26代山梨県知事、第7代神戸市長(在任:1925年8月17日 - 1933年)。熊本県出身。 熊本県宇土郡宇土町(現在の宇土市)に生まれる。明治42年(1909年)6月に東京帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業、同年11月に文官高等試験に合格、同年12月に警視庁警部となり、明治43年(1910年)12月に警視庁警視となり高輪警察署長、堀留警察署長、警視庁監察官、警視庁特別高等課長を歴任後、大正6年(1917年)1月に岡山県警察部長、大正9年(1920年)に福岡県警察部長、大正11年(1922年)1月に山口県内務部長、同年11月に兵庫県書記官・内務部長を歴任。
坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月… 坂本 森一(さかもと しんいち、1883年〈明治16年〉1月7日 - 1947年〈昭和22年〉9月18日)は、内務官僚、函館市長。 下谷区(現在の台東区)の谷中墓地にある茶店おもだかやの店主坂本勝太郎の長男として生まれる。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、翌年に文官高等試験に合格。1911年(明治44年)より群馬県警部、利根郡長、佐波郡長、群馬県理事官を務めた。さらに岐阜県警察部長、兵庫県警察部長、大阪府警察部長、愛知県内務部長を歴任し、1924年(大正13年)には台湾総督府警務局長に就任した。 1929年(昭和4年)、函館市長に選出され、市の長年の懸案であった函館水電買収問題に取り組んだが、最終的な解決には至らなかった。
武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7… 武者 錬三(むしゃ れんぞう、明治16年(1883年)1月7日 - 昭和56年(1981年)1月13日)は、日本の実業家。朝鮮電気協会元副会長。京城電気元社長。族籍は京都府士族。 土木技師である武者満歌の長男として、神戸市に生まれる。 明治29年(1896年)に京都府尋常中学校(現・京都府立洛北高等学校)、同38年(1905年)に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業する。尚、東京高商の同期には、三井物産の田島繁二(後同社常務取締役)、内田信也、芳川寛治がいる。 卒業と同時に第一銀行へ入行し、間もなく釜山支店副支配人に挙げられ、朝鮮へ渡る。渡鮮後、朝鮮における電気事業を有望視し、親友の芳川寛治らとともに渋沢栄一が後援する日韓瓦斯(ガス)株式会社の経営に当たったが、明治30年代当時の朝鮮では、一般の需要は少なく、会社の業績は上がらなかった。
勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 19… 勝鬨 鉄藏(かちどき てつぞう、1882年1月7日 - 1940年10月20日)は、現在の秋田県秋田市出身で尾車部屋、藤島部屋に所属した力士。本名は渡辺 鉄藏。身長173cm、体重113kg。最高位は西前頭8枚目(ただし番付外8枚目格)。 1900年5月初土俵を踏んだが、脱走し京都相撲、大坂相撲に在籍した。1912年5月東上し、番付外8枚目格付出で入幕したが、1勝も出来ず途中休場。翌場所十両に陥落したが、こちらでも1勝も出来ずと途中休場。幕下に陥落しても、休場が続き1914年1月廃業した。その後は神戸市に居住した。 沖ノ石 鉄三→勝時 鉄三(1903年1月場所-)→勝鬨 鉄藏(1912年5月場所)
紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日… 紫雲竜 吉之助(しうんりゅう きちのすけ、1882年1月7日 - 1946年4月28日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋、阿武松部屋に所属した力士。本名は斎藤 吉次郎。9代出来山、7代阿武松。172cm、86kg。最高位は東前頭筆頭。大見嵜八之助の甥。 1898年1月初土俵、1904年1月十両昇進。1907年5月入幕し、1908年5月には7勝2預の優勝相当の成績を収めた。1917年1月に引退し、出来山を襲名、出羽一門に属した。伯父が没したのち、阿武松を襲名した。 改名歴なし(番付上の表記揺れを無視した場合) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 … 永井 来(ながい きたる、1877年(明治10年)1月7日 - 1934年(昭和9年)2月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。従三位勲二等功五級。旧姓・楊井。 山口県玖珂郡広瀬村大字船津(現・岩国市錦町)出身。楊井正之進の二男として生れ、西南戦争の植木口の戦いで戦死した同郷の陸軍少佐・永井勝正の養嗣子となる。陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)11月、陸軍士官学校(8期)を卒業。1897年(明治30年)6月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。1903年(明治36年)11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業。 1904年(明治37年)6月、歩兵大尉に昇進し歩兵第17連隊中隊長に就任。
橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1… 橋本 菊太郎(はしもと きくたろう、1876年(明治9年)1月7日 - 1947年(昭和22年)2月21日)は、日本の政治家。薬剤師、徳島市長。徳島県徳島市出身。 1876年、徳島市東新町の薬舗「郡茂」の分家、橋本半太郎の長男として生まれる。 小学校を卒業後、大阪市内にある田辺製薬へ勤務し、その傍ら大阪薬学校(現在の大阪大学薬学部)に入学。1890年(明治23年)、14歳の若さで薬剤師試験に合格。後に東京薬学校(現在の東京薬科大学)に進学し1894年(明治27年)7月に同校を修了する。 1904年(明治37年)、徳島市会議員に当選。その後、徳島薬業組合長・徳島市商店研究会長・徳島県薬剤師会長を歴任。
上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)… 上畠 益三郎(うえはた ますさぶろう、1873年(明治6年)1月7日 - 1938年(昭和13年)1月25日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、弁護士、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役、法政大学監事を務めた。 大阪市生まれ。上畠又兵衛の二男として生まれた。 1891年(明治24年)に和仏法律学校(現法政大学)邦語法律科を卒業。その後、判事検事登用試験に合格し、徳島地方裁判所検事、大阪地方裁判所検事を経て弁護士になる。1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に大阪府第2区から無所属で出馬し当選。当選後は庚申倶楽部に所属した。その後、大阪株式取引所理事長、日本信託銀行取締役に就任。